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楽園のおはなし (1-30) BACK / TOP / NEXT |
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時間は少々、遡る。 ……日付としては今朝の事だ。早朝の時刻。覚醒しきらない目を擦りながら、ニゼルは約束の木の下にいた。眼前で白金色の髪が揺れている。 時間通りだな、凶悪な笑みを浮かべた喰天使を前に羊飼いの青年は一瞬たじろぎ、しかしすぐに顔を引き締め真っ直ぐな視線を返した。 臆する事のない人間を見るのは、初めてだったのだろうか。ノクトは双眸を僅かに細め、歯噛みするように顔を歪めニゼルに背を向ける。 「ちょっと! 自分からついてこいって言っといて、まさかの無視!?」 「誰がだよ。やっぱり止めだ、とまでは言ってねぇだろ」 思わず自ら呼び止めたニゼルに振り向き、ノクトはにやりと意地悪く笑った。彼の考え方はやはり理解出来ない。 律儀にこうして迎えに来るあたり、悪意がないというのは真実だろう。しかし、いいように遊ばれているような気がしてならなかった。 拳を作り、ニゼルは視線を二、三度草原に這わせ、歩き出した天使を追う。彼は二度はこちらを振り向かず、また速歩を緩める事もない。 「これから向かう場所は、天上界と地上の狭間だ。そこまで時間の流れは変わらねぇだろうが、二、三日は経過するってのは、覚えとけよ」 何の話、と反射で返しかけてニゼルはノクトのぶっきらぼうな呟きを脳内で反芻させた。「時間の流れが変わる」。 やはり、天使と人間とでは時間の経過、体感速度が変わるものであるらしい。アンブロシアやサラカエルもそうなのだろうか。 好奇心から高い背中に確認の意味も込めて問いかけたくなったが、それさえも後から聞けばいいかと気を取り直し、ニゼルは頭を振った。 (二、三日の『時差』は覚悟しとけ、って事だよね……あれ? それって、俺をこっち側に返す気があるって事? 分かんないな) 一瞬足を止め、背後を振り返る。朝もやに覆われ、薄く灰色の影を浮かべるオフィキリナスとアルジル牧場は未だ沈黙を保ったままだ。 いよいよ立ち止まったノクトが、ニゼルが聞いた事のない複雑な声色を吐き出している。それが転移の呪文である事くらいは予想がついた。 本当に、行くのか。 もう一度、ニゼルは後方を振り向く。しかし、先の朝もやは濃度を増し、離れに離れた見慣れた故郷の地は乳白色の中に沈んでしまった。 足元の牧草が喰天使の詠唱に煽られ、強く波打っている。空気が唸り、風を起こし、周辺のもやが払われ、冷たい朝の匂いが押し寄せた。 今、二人の眼前に、大人一人は余裕で覆えるほどの大きさの青白い燐光を放つ魔法陣が浮いている。ニゼルの心音は爆発する寸前だった。 風が収まり、再び視界が閉ざされようとしている。ぴくりとも動けないまま、ニゼルはぼんやりと複雑な模様で構成された魔法陣を見た。 (そっか。俺、もう後戻り出来ないんだ) 行くぞ、これといった意図を感じさせない無機質な声が耳に注がれる。前を向き、ニゼルは霞みがかった視界の先、喰天使の背を追った。 魔法陣をすり抜ける。刹那、急速に全身を引っ張り上げられるような感覚が走った。思わず叫んだニゼルの手を、何者かの手がしかと掴む。 「意識は保て。吹っ飛ばされるぞ」 「ノクト!? そんな事、言ったって……」 顔を上げると、目の前にはただ暗闇が広がっていた。だというのに、己の右手を掴んでいるのはノクトである事がなんとなく分かる。 骨張った手から伝わる体温は、そう高くない。手と手の先は闇に覆われ、その先を把握する事が出来ない。ニゼルはぎゅっと目をつぶった。 またしてもあの、上に引っ張られるような感覚があった。肉を、骨を、肺を軋ませるような体感に心地よさを覚えられるわけがない。 目を閉じ、歯噛みして耐える。不意に、唐突に体が軽くなった。はっとして顔を上げると、その視界に喰天使の白金色の髪が映る―― 「――着いたぞ。ここが、神々の座す世界と、テメェら人間どもが住まう世界との境界だ」 初めに感じたのは、その髪の長さと柔らかさだ。うなじあたりで無造作に束ねられたそれが、優しい風に揺らされ棚引いている。 鼻を突く、嗅ぎ慣れた匂い。目の前には青々とした草原が広がり、ぽつぽつと浮かぶ雲の隙間を縫った陽光がそれらを輝かせていた。 アルジル牧場の景色と似て異なる、一面の緑。振り返ったニゼルは、その場に似つかわしくない立派な屋敷を視界に収め数回瞬きをする。 誰が住んでいるのか。何者が手入れしているのか。どこか荘厳な雰囲気を持つ豪邸を前に、羊飼いの青年は口を半開きにして立ち尽くした。 刹那、横から手が伸びてくる。顎を掴まれ、素早く口を閉じさせられた。目を白黒させていると、鼓膜に呆れたようなノクトの嘆息が届く。 ニゼルはきょとんとした顔で天使の顔を仰ぎ見た。しっかりしろとでも言いたげに、喰天使は一度短く舌打ちして屋敷へ足を向ける。 ……扱い方が、まるで年下の身内に向けるそれのようだ。アンブロシアに対しても彼はこうなのだろうか。頭を振り、後に続いた。 「なんていうか、ここって空気が違うよね。ものすっごい高い、山の中にいるみたい」 会話の糸口を探すように、ニゼルは門を抜けながらノクトに向かって声をかける。狭間とやらについての、自分なりの率直な感想だった。 喰天使の返事はない。 頭の悪そうな切り出し方だっただろうか。玄関の脇に置かれた、見た事もないいかにも獰猛そうな魔獣の石像を見送りながら、横に立つ。 「うまく、言えないけど」 「……どこをどう見ても、山の中ではねぇだろ」 「空気は美味しいし、風も冷たいし。これでウェルカムドリンクでもあったら、最高なんだけどな」 「歓迎されてる風ではねぇだろ、どう見ても」 誘っておいてその言いぐさ? 喉元まで出かけた言葉を飲み込み、ニゼルは不思議と自動で開いた正面玄関の扉をノクトに続きくぐった。 入ってすぐ、まず目に飛び込んできたのは水晶を削って作ったかのような豪奢なシャンデリア、深紅の絨毯、点在する黄金の置物たちだ。 外気と陽光は閉ざされた扉や窓によって遮られているが、魔獣や女神を模す置物は眩いばかりの光をぴかぴか反射させており、目に悪い。 置物の横、花瓶に活けられたバラの花はコーティングでも施してあるのか、これまた金色に輝いている。 棚などは重厚な色をした木製で、そこかしこからバラの香か、或いは家具からか漂う、ニスの匂いが混在していた。 正面にある大きな階段の先、踊り場には、巨大な絵が飾られている。金髪の男が黒髪の男を槍で突き殺そうとしている場面だった。 恐らく神話モチーフの作品だろう。現実に呼吸しているように見える生き生きとした表情で、緊迫した空気を否応なしに醸し出していた。 ノクトを追うように、階段に向かう。横に視線を滑らせれば、手すりや柵、飾り棚の一つ一つさえ金色の模様で縁取りがされていた。 何もかも黄金まみれ……唖然とするほどの悪趣味、ニゼルは屋敷の内観をそう評価する。とはいえ、趣味、嗜好は人それぞれ異なるものだ。 「金持ちの道楽みたいな家だね」、ぽつりと言い出しそうになるのを必死に堪えた。 しかし、人間そう嘘は吐けない生き物であるらしい。顔には出ていたらしく、横からノクトの物を見下すような視線が投げられる。 言葉に詰まり、ぐっと身を強ばらせるニゼルだったが、喰天使は特に何も言及せずさっさと階段を上って行ってしまった。 「ちょ、ちょっと! 待ってってば」 見渡せば、屋敷は本当に広い。置物を目印にしようにも覚える事が出来る量を超えていた。迷うわけにもいかず、慌てて天使の後を追う。 「……勘違いしてるようだから、言っておくぞ」 追いついたところで、ようやく男は足を止めた。肩で息をしながら、ニゼルは薄暗い中でノクトの声が硬質に変わっていくのを聞く。 「いいか。俺はテメェに全てを教えてやるとは言ったが、この屋敷で好きに振る舞えると思うな。ここはテメェの家じゃねぇんだ」 「それ、何? 嫌み? ……ここは、ノクトの住んでる屋敷じゃないの?」 「俺がこんな豪華な家、買えるわけねぇだろ。とにかくだ、勝手な真似は慎め。命の無事は約束しねぇからな」 警告なのかお人好しなのか、分からない。それが素直な感想だった。ノクトの口ぶりから察するに、この屋敷の主は彼とは別であるらしい。 慎め、命の無事……へりくだった言い方。それほどまで喰天使が遠慮を覚える相手。普通の相手ではない事くらい、容易に想像出来る。 以降、振り向かないまま歩き出した天使の背中をじっと見つめてニゼルはそっと嘆息した。 (俺の性格、絶対、分かってない) 耳に金属の揺れる音が届く。いつしかノクトの左手に無数の鍵の束が握られていた。小さな銀色が揺れ、ちゃりちゃりと音を立てている。 ゆっくりと歩きながら、ニゼルはその鍵束を観察した。鍵の所有を任されているという事は、ノクトは屋敷の主に信頼されているのだろう。 何の鍵か。どこに通じているのか。好奇心というより、野暮な詮索だ。質問すれば、即座にそれが引っ込められる予感もニゼルにはあった。 故に、奇妙な沈黙ばかりが続く。ふと立ち止まったノクトはある扉の前で鍵を使った。周囲の装飾と比較して、やや地味な木製の扉だ。 まじまじと様子を伺うニゼルに、喰天使はちょいちょいと手招きして、開いた部屋の中へ入るよう促す。素直に従い、入室した。 「当分は、この部屋を使え。鍵は開けておいてやるからな」 「使え、って。何、俺の事、置いてく気?」 「おい、ガキじゃねぇんだ。ほら、本だのテレビジョンだのもあるんだ、いいか、うろつくんじゃねぇぞ」 「え、本当に置いてくんだ?」 「俺も忙しいんだよ。夕暮れにはメシに呼びに来るから、それまで待ってろ」 お構いなしに、ノクトがきびすを返す。聞きたい事は山ほどあるのに! 叫びかけたニゼルの台詞は閉ざされた扉によって掻き消された。 むむむ、と喉奥で唸り、ひとまずニゼルは室内を探検する事にする。そもそも、時計の一つもないのに夕暮れの頃にとはどういう事か。 アンブロシアの身内のくせに、気遣いがなっていない。羊飼いの青年は憮然とした表情を浮かべながら、扉や棚を開けたり閉めたりした。 ベッドサイドのテーブルの引き出しには、紅茶の茶葉やちょっとした菓子が入れられている。また、部屋の奥には小さなキッチンもあった。 蛇口をひねれば綺麗な水が出てくるし、かまどや火興し用の器具、やかん、ポット類も揃っている。ニゼルは一度リビングに引き返した。 本棚にはよく分からない金色の文字で彩られた分厚い書物や、以前書店で見かけた人間向けの言語で書かれた雑誌、漫画などがずらりと並び、 ご丁寧に、一番下の段には天使らが使うであろう古代語を翻訳する為の、人間用の言語で纏められた辞典や歴史書なども揃えられている。 本棚から目を外し、今度は窓に近寄ると、ニゼルは勢いよくカーテンを開いた。景色は一瞥するだけに留め、窓枠を掴んで揺らしてみる。 思った通り、窓は開けられなかった。外側と内側、両方から鍵がかけられているらしい……この屋敷の主は、相当用心深いタイプと予測する。 ノクトの言葉通り、暇潰しの娯楽だけが異常に充実していた。その気遣いが逆に不気味だ、そう結論付け、ニゼルは探索を終える事にする。 「……玄関のところよりかは、マシかなあ」 寝具も絨毯も窓の造りさえも。一般市民の使うそれよりも上質な素材と構造をしているが、ぱっと見た風には普通の品との区別は付かない。 故に、言葉では表現出来ない気味の悪さは感じるものの、この部屋そのものには、ある程度の居心地の良さを感じる事が出来た。 ベッドに飛び乗り、寝転び、ニゼルはそのまま天井を見上げる。あの本の量、藍夜なら喜ぶんだろうな――ふと顔を綻ばせ、起き上がった。 「さて。冒険してこよっかな」 ノクトは、本当にニゼル=アルジルの性格を分かっていない。大人しくしていろと言われて、はいそうですか、と聞くタイプではないのだ。 分かってない方が悪いんですよ、そう自分に言い聞かせニゼルは出入り口に向かう。不思議とドアノブはするりと回り、容易く外に出た。 鍵をかけて行かなかったのか、これは予想外だった。瞬きを数回して、ニゼルは藍夜から受け取った黄金の杖を手に慎重に廊下を進む。 見張りや女中などは全く雇っていないのか、屋敷の中は静まり返っており何者の気配もしていない。 誰かに見つかったら杖で殴り飛ばすかノクトに非を押しつけようと考えていたニゼルは、拍子抜けする、と僅かに足取りを軽くした。 いくつかの角を曲がると、先ほどの階段の前に出る。手すりの影から覗く階下には、黒塗りの正面玄関の扉と無数の置物達の姿があった。 ……昔から、道を覚えるのにはかなりの自信がある。ふふんと鼻高々になりながら、ニゼルはさっさと階段を下りて行った。 「えーと。どこに行こうかな」 ロビーに降り立ち、きょろきょろとあたりを見渡して、ニゼルはぱっと思いついたように黄金の杖を垂直に床に立て手を離す。 幼い頃、藍夜や暁橙と、こうして街を探検したものだった。あの時使っていたのは道端で拾った枝などだったが、要領は同じである。 ぱたんと柔らかく杖が倒れた先には、複数の扉が向かい合う廊下が一本延びていた。目星がついたと内心喜び、ニゼルは口角を吊り上げる。 杖を拾い、足早に廊下に向かった。どの扉を開けるか悩むが、残念ながら最初の一つには鍵がかかっている。そりゃそうだ、そう落胆した。 ここで慌てて次の扉に向かうのは、あまり良くない。ニゼルはその昔、幼なじみの父親、鳥羽瓊々杵に教わった「ことわざ」を思い出す。 (手当たり次第に開けてってもいいけど、なんだっけ、『藪をつついて蛇が出る』、だよね。ノクトにバレても、それはそれで困るし) 危険を犯すのは、時に愚策となる――オフィキリナスを探検していたニゼルに、へそくりを発見された瓊々杵が咄嗟に吐いた言葉だった。 問題のへそくりについては、彼と共に元の場所に戻したような覚えがある。愛息である藍夜に、今も見つかっていなければいいのだが。 (あの時の瓊々杵さんの顔、最高だったな) そう、ノクトの警告とて素直に従うような性格ではないが、かといって好きにしているところを発見されるのは問題だ。大いに頷いた。 以降、軟禁でもされかねない。我ながらわがままな話だとニゼルは自嘲的に苦笑し、さてどうするかと杖を手持ち無沙汰に軽く振る。 「……あ、れ?」 その瞬間。杖の飾り、蛇の頭、顔を模した部分から淡いオレンジ色の光が噴き零れた。無数の光る粒子が溢れ、するすると床に流れ落ちる。 蛍をかき集めて灯したみたいだ、ニゼルは幼少の頃に近所の川で家族とともに親しんだ光景を思い出し、目を大きく見開いた。 「何これ。すっごい、綺麗」 美しい……オレンジ色の粒子は、やがて絨毯の上で雨粒のように跳ねると、すっ、と意志を持つ生き物のように前へ、前へと伸びていく。 ついてこい、そう言われているような気がした。呆然と、或いは呆気にとられながらニゼルは光の粒子の軌跡を追いかけ始める。 光の粒が連なりまっすぐ進む様は、本で読んだ事しかない、北方のオーロラの動きに似ていた。それはそれは美しかった。 これは、ロードの効果なのだろうか……寿命を縮める力だから気をつけろ、サラカエルに言われた言葉が脳裏にぼんやりと繰り返される。 今はそんな事を気にしていられない。先導が始まるとまた同時に、ニゼルの脳内には、光の肉声とも取れる不思議な声が響き始めていた。 この導きには、ついて行かなければならない。その方が、自分の為だ。そんな予感がしてならないのだ。 「ここだよ」、「ここだよ」、「誰か助けて」。微かな音声は、そんな、どこか幼さを感じさせる声色をしている。自然と速歩は上がった。 誰かが自分を呼んでいる――杖をぐっと力強く握り直し、ニゼルは光の帯が立ち止まった、一番奥の扉の前にゆらりと立つ。 ここを開け、そう言うように光の帯はドアノブの部分に巻きついていた。外灯に群がる蛾に似た動き。ニゼルはそっと扉に触れる。 部屋に、鍵はかかっていなかった。ゆっくりと扉を開き中を覗くと、室内灯が点いている事に気付く。周囲はほんのりと明るい。 ニゼルが入室すると同時に、杖から流れていた光の帯は、全て消えてしまっていた。これでロードとしての効果は一度切られたのだろう。 杖を軽く振ってみても、あの光の粒子はもう零れてはこなかった。綺麗だったのにもったいない、正直に内心で呟きそっと歩を進める。 「……だぁれ? そこに、誰か、いるの?」 「!? えっ……」 舌足らずな声。慌てて振り返ると、二つ並んだ寝具の横、部屋の隅に、見慣れた魔獣の姿を見つけた。獣の姿を維持したままの琥珀だった。 「琥珀!? こんなところにいたんだ、よかっ……」 「あのねぇ、ニジー。悪いんだけど、ニジーにはムリかもなんだけどさ〜。コレ、外してくれない?」 ニゼルははっと息を呑む。 琥珀の首には、一見でロードと分かる金色の首輪がはめられ、そこには太い鎖が繋げられており、更にその先には丸い重石が転がっていた。 明らかな捕らわれの身。一瞬、ニゼルはばっと後方を振り向く。状況からして、何者かに監視されてはいないだろうかと警戒したのだ。 幸か不幸か、その場にいるのは自分と琥珀だけだった。ほっと胸を撫で下ろし、念の為音を立てないようにしゃがみ、琥珀に向き直る。 「琥珀ー、こんな太いの、俺には無理だよ。っていうか、何があったの? アンは? 一緒じゃないの?」 手を伸ばし、頬を撫でると、魔獣は気持ちよさそうに目を細めうっとりとした。多少の気休めにはなったかと、ニゼルはそっと息を吐く。 「あのねぇ、あのねぇ。アイツが、あのショクテンシってのが、また来たんだよ。ぼく、サラカエルに言われて、シアの護衛してたんだ〜」 サラカエルなら言い出しかねない、ニゼルは困ったように眉根を寄せた。同時に、琥珀に無茶させて、と微かな怒りも沸いてくる。 とはいえ、琥珀自身は誇らしげだった……彼女がそれでいいならいいのだが。とはいえ、内心としては複雑だった。ニゼルは嘆息する。 あの時。喰天使に対峙した後に気絶させられ、気が付いたらここにいた、と魔獣は言った。単独で立ち向かう勇猛さに知らず眉根が寄る。 「……えー? それってつまり、琥珀はノクトに負けちゃった、って事?」 「ちょっと、ちょっとぉ〜。ニジー! も〜、気にしてるんだから、そこは言わないでよぉ」 「分かってる、ごめんごめん。それで、この鎖は?」 「ん〜。なんかね、ノクトの話だと、魔獣封印の印を施したとかどうとか〜。暴れたり外したりしようとすると、魔力が減るんだって」 仮に、誰かがこの魔獣を逃がそうと試みたとしても。その時も同じように魔力が削られるからなと喰天使は嘲笑した……そう琥珀は呟いた。 悔しかったろうに、ニゼルは優しくグリフォンの頭を撫でる。くしゃりと顔を歪め、琥珀は泣き出しそうになるのを堪えているようだった。 サラカエルには完敗し、傷の手当てまでされた直後にこの仕打ちだ。可哀想でならないと、ニゼルは顔をしかめ、さく歯噛みする。 聞けば、アンブロシアのその後は分からないと言う。ノクトに食ってかかってはみたが、彼からの答えはなかったと琥珀は呻いた。 「ごめんね、ニジー。ぼく、頼りなくってさぁ。藍夜の店の、用心棒なのに」 「琥珀……何、言ってるの。俺も暁橙も、あー、藍夜はどうか分からないけど。俺達はその為に、琥珀と一緒にいるんじゃないんだよ」 「そうなの?」 「そうだよ、当たり前でしょ? でなきゃ、名前なんてつけないし。気にしちゃダメだよ」 気を取り直せと語りかけるように、再び琥珀の頭を撫でてやる。今度こそ、魔獣は大きな眼からぽたぽたと涙を流した。 ぐすん、気にかけさせまいと振る舞う様が余計に痛々しい。ニゼルは改めて、杖の柄をぐっと握る。 (俺に嫌みを言うだけならまだいい、ハイウメので慣れてるし。でも、琥珀やアンが、ノクトに一体何をしたってわけ?) 納得がいかない。ニゼルは、すっくと立ち上がった。驚いたような眼で琥珀がこちらを見上げてくる。目が合った。ニゼルはにこりと笑う。 「ごめんね、琥珀。俺、これから、アンを探しに行ってくる。それと、ついでに、ノクトを一発、しばくなりしてやらないと」 「……え? え、に、ニジー? どしたの、何言って、」 「うん。あのね、琥珀。俺さ、昔から、『動物虐待』する奴って、大っ嫌いなんだ」 にこりどころでは済まない。ニゼルは満面の笑みを湛えていた。ぽかんとくちばしを大きく開けたまま、琥珀は彼の背中を眼で追う。 ばたん、と大きな音で閉められた扉を前に、グリフォンはようやく事の大事さを知った。慌てて鎖を揺らしても、それが解ける事はない。 ……不思議と、頭の中は冷静だ。杖を振り、強引に魔法の光の帯を噴出させたニゼルは、オレンジ色の軌跡を追いながら憤慨していた。 よくよく考えたら、ここ最近はずっと天使達の都合に振り回されてばかりだ。藍夜は眉間の皺の数が増え、琥珀は怪我まで負っている。 どう考えてもおかしい――その実、ニゼルの怒りは単純に喰天使に対する八つ当たりに他ならない。 それでも、羊飼いの青年はあの冷ややかな顔をした天使に、一言物申さねば気が収まらない気分であった。 「ノクトのくせに。ノクトのくせに!」 光の帯は、いつしか冷たい金属質な扉の前で止まっている。 あれ、どうやってここまで来たんだっけ――ふと一瞬我に返り、道を引き返すかどうか逡巡するも、ニゼルは大きく頭を振った。 ここまで来て、引き下がる事なんて出来ない。己を鼓舞するように首を縦に振り、ニゼルは杖を腰に下げ直して扉をゆっくり押し開いた。 「……アン? いるの?」 「に……にぜる、さん?」 真っ先に視界に飛び込んだのは、アンブロシアだ。冷たい空気が滞留する室内には、アンブロシアと彼女に対峙するノクトの姿があった。 見れば、彼女の両目は今まさに大粒の涙を流し、その頬は泣きじゃくった為に真っ赤に染まっている。しゃくりあげ、呼吸も絶え絶えだ。 その様を見た時、ニゼルは、前に一度感じた事のある奇妙な感覚に襲われた。頭がぐらりと揺れ、脳に血が上る課程がつぶさに感じられる。 (あ、駄目だ。これ……俺、怒りそう) ニゼルは、振り向いたノクトの顔をじっと見据えた。先にゆっくりと口を開き、彼が何か言い始める前に、肺から空気を存分に絞り出す。 言葉を吐き出した。怒りと、八つ当たりと、ほんの僅かな恐怖と悲しみが、喉から多量に迸る。 |
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