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楽園のおはなし (2章番外編)

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(女神様冒険記)


転送された先にあったのは、老朽化の進んだ一軒の屋敷だった。

「……ヘラ様」
「うむ、なんだ」
「いえ、僕が口出しするのもあれですが、本当にここを新居に定めるおつもりですか」

呻くような声で責めてくる部下に、地母神はにこりと笑い返す。言い出したら以下略、である事を把握する殺戮は、嘆息して黙り込んだ。
ケイロンがヘラに別荘として譲ったのは、帝国と王国の境をやや南に下った先にある未踏の森、通称迷いの森の中央に建つ豪邸だ。
小高い丘の頂上に位置する屋敷を囲むように展開される深い森は、北は赤毛の狼型魔獣レッドウルフが、南は黒毛の熊型魔獣ベアハンドが、
西と東には彼らの食い残しを狙う小型魔獣が縄張りを広げていて、周辺都市の間では決して踏み行ってはならない地として知られている。
それでも腕試しと称して踏破を試みる戦士や冒険者が後を絶たず、両国は冒険者ギルドを通じて立ち入り禁止令を発令するほどだった。

「通達を無視した者については餌になれ、という考えのようですね。ウリエルのような遠見の力を持つ人間がいなければいいのですが」
「ふむ、レッドウルフか。シルバーウルフよりは筋張った肉だが、運動神経抜群で狩り甲斐が……」
「……ヘラ様?」
「なんだー、私はまだ何も言ってないぞ!」

屋敷を中心に据えて作製した地図を見ながら、地母神はいちいちチクチクと小言を飛ばしてくるサラカエルをふてくされ気味に睨みつける。
殺戮側からすれば、本気ではない彼女の怒り顔は愛らしく見えて仕方がないので、内心でささやかに喜びを噛みしめられるところだった。
浮かれてしまってるな、自制を込めて咳払いする。女神の横で仔らをあやしていた琥珀が不意にひょこりと顔を出し、双方を見た。

「ねえねえ女神さま、朝言ってたハナシって本当なんだよね? ニジーはそのうち、帰ってきてくれるんだよね?」
「おい、妻よ。話の腰を折ってやるな」
「何ソレ、おサルの都合なんか知らないよ。ケツは会いたくないの? 女神さまの事も教えてあげたいし、真珠達だって寂しがってるもん」
「ふ、ははっ。そうだな、アンバー。私もニゼルと話をしてみたいと思っているぞ」
「ちょっと、ヘラ様……」

ヘラの心強い返事に、鷲獅子はぱあっと顔を輝かせて破顔する。地母神は、うむ可愛いな、と至極満足そうに頷いた。
従者その一と一角獣は、こめかみに指を押し当てて唸るより他にない。双方が余計に調子づく事は、容易に想像出来る話だからだ。

「だよねだよね? じゃあさ、ニジーがいつ来てもいいように屋敷ピカピカにしておこーよ。こんなボロじゃ、女神さまだって住めないよ」
「やあ、ケイロン先生からお借りする屋敷に対して随分な言いようじゃないか。偉くなったもんだね、アンバー」
「偉くなってないよ〜っだ。おサルさあ、女神さまの護衛気取るつもりなんだったら、サッサと働いたら? 時間なんてあっという間だよ」

ぶはっ、と隠さずにヘラは噴き出す。サラカエルはこめかみから指を外し、「いつこの生意気なケダモノを処分してやろうか」と思案した。
シリウスが必死に妻の暴言を窘めている間、ふと殺戮は背後の気配に振り返る。眉間に皺を寄せ、見るからに不機嫌そうな対存在だった。

「やあ、ウリエル。どうかしたのかい」
「サラカエル。琥珀は後で僕がどうにかするとして、雷霆ももうない事だし、日が暮れる前に寝室くらい確保しておきたいのだがね」

疲労し、荒んだ目をしている。思い返せば、今朝、ヘラが一行にニゼルと自身の関係性を明かした時点で彼の姿は居間にはなかった。
調べ物をしている、あてがわれた部屋を訪ねた際、彼はやはり機嫌の悪そうな声と目つきでこちらに返事をしてみせる。
本気でニゼル=アルジルの行方か、転生地点について調べているらしかった。ここまでくると病気だ、心底呆れた記憶が甦る。

「もちろんそのつもりだよ、ヘラ様に野宿なんてさせられな……」
「知っているか、アンバー。枯れ葉を集めると、案外暖かい寝床になるんだぞ」
「……ヘーラーさーま。アンバー、お前もういいから、そこの一角獣と屋敷の中を片付けてこい」

笑顔で藍夜に応えかけて、サラカエルはしかし魔獣達にぐるんと向き直り、殺気も苛立ちも隠さずに発破をかけた。
ぶちぶちと文句を並べながら、琥珀達は慎重な足取りで屋敷に侵入していく。その背を見送ってから、天使は女神に向き直った。

「とはいえ、片付けるだけではとても女神の住まいと言い難いでしょうね。ヘラ様、何か考えがおありかと思いますが、如何です」
「お前ー、アンバーに八つ当たりするなと言ってるだろう。ニゼルの中にいたときから、ずっとだぞ。少しは反省しろー」
「……ヘ、ラ、さ、ま」
「分かった分かった。手入れに関しては、ケイロンから私の伝手が生きている事を聞いたからな。そいつを喚んで、一気に整えてしまおう」

ヘラが袖から取り出したのは、ケイロンの診療所に転移した際に使用したものに似た札だ。紋様に違いがあり、医師宛ではない事が分かる。
彼女は古代語、それも慣れたようにかなりの早口で祝詞を唱えると、腕をくるりと振り、早速札を消費した。すぐに効果が現れる。
あれは召喚の札だ――二人の天使は無言で頷き合った。姿を見せたのは、両の足首まですっぽりと覆う長いローブを纏った、見知らぬ男だ。
特殊な模様が裾や袖に刺繍されていて、布の表面にちりちりと細かい火花を散らしている。フードからは、縮れた長髪がはみ出していた。
腰には鎚が複数下げられていて、男が鍛冶師か火夫か、或いは工匠である事を語っている。腕や胸板は適度な筋肉で盛り上がっていた。
俯き加減の顔は布の影に隠され、表情を伺う事は出来ない。嗅ぎ慣れた製鉄の臭いを受け、サラカエルはたまらず口を開いてしまう。

「ヘラ様、この方は」
「うん? お前も何度か、会った事がある筈だぞ」
「え、いえ……」
「ふふ、久しいな。というか、ケイロンからお前が無事だと聞いて安心したぞ。元気にしていたか」
「――はい、お久しぶりです。『母上』」

フードが外されると同時、殺戮はあっと声を上げていた。ヘラに正面から柔らかく笑いかけたのは、彼女によく似た目元を持つ男。
煤竹の髪に同色の瞳。地母神を母と呼びながら、彼は彼女よりも老けて見える。人間で言えば三十後半から四十手前といったところだった。
働き盛りの職人という風貌である。ローブの下からは、かしゃかしゃと不思議な金属音が絶え間なく聞こえていた。
ヘラが悲しげな顔をしたのを、サラカエルは見逃さない。男は「改良が進んでだいぶん楽ですから」とあたふたと慌てて女神を慰める。

「……だがな、ヘパ。私がお前に何の手も貸してやれなかったのは、事実だろう」
「母上は、その、周りから優秀な子を産むようにさんざん急かされていたのでしょう? 奇形なんて生まれたら、それはびっくりしますよ。
 父上が母上に変わって僕を投げ捨てたときは、辛かったですけど。そのお陰で義足を始め製鉄や鍛冶に励めたのです、満足していますよ」
「いや、その、個人的に子沢山自慢の愚弟に対抗しただけというか……」
「それでも、です。僕が天上界に戻った後、母上とはきちんと和解したじゃありませんか。こんな可愛い部下さん達とも知り合えましたし」

ヘパイストス。彼女の息子のうち一人であり、ゼウスを筆頭に天上を統べる十二の柱の一柱。鍛冶と炎の神であり、同時に名工でもあった。
有事の際に神々専用の武具を個別に創造しただけでなく、ヘラの別邸の設計や装飾品の手配もこなした優秀な人材である。
出生時にトラブルがあり、間接的にヘラが彼の両足を傷ませてしまったという話は、件の女神に纏わる有名な話の種となっていた。
布の下にあるのは、真鍮で出来た手製の義足だと兄弟子から聞いている。不自由な足、母親への固執を除けば、好漢である事は間違いない。
……とはいえ、サラカエルは彼を前にすると体中がむずむずして仕方がなかった。というのも、彼はどうも直球に物を言う癖があるからだ。

「かわっ……可愛い部下さん、か! そうかー、可愛いのかー」
「可愛らしいでしょう? 母上はそうは思いませんか」

こっちを見ないでくれ、半ば恨みがましい目で女神を睨む殺戮だったが、案の定ヘラはぶはっと噴き出して肩を震わせている。
彼女はこのように、紆余曲折の末に親しくなった鍛冶神を前にするとかなり強気に、否、気持ちが大らかになってしまうようだった。
うん可愛いかもな、ぶるぶる震えながら愛息に向き直り、何やら話し込み始めたふたりを見て、天使達は先に荷の整理を済ませる事にする。

「アンブロシア、君も少し、気晴らしも兼ねて片付けを進めたまえ」

声に非難を乗せ、藍夜は近くの大岩に腰掛ける娘に呼びかけた。緩慢な動きで二人を見たアンブロシアは、やはりそこから動こうとしない。
診療所を後にしても、彼女はあのままだ。ヘラが声を掛けると多少の反応を示したが、泣くか落ち込むかで態度は固定されている。
重症だね、ぼやく対天使に、君も彼女の事は言えないと思うけどね、サラカエルは反論する事が出来ない。やむなく放置を決め込んだ。
ニゼルの不在は、思いのほか深刻なダメージとなっている。設計図らしき羊皮紙を用意し始めるヘパイストスらを見やり、殺戮は嘆息した。






「よし。私はこれから、麓に降りるぞ!」
「却下します」

焚き火を囲み、夕飯とは名ばかりの軽食を突っつきながら談笑する最中、得意げに宣言したヘラにサラカエルの容赦ない叱責が飛ぶ。

「何故だー。町に行くくらい、いいだろう」
「何故だも何もありませんよ。十二神の一柱が、生身の人間の前に姿を現して無事で済むとお思いですか」
「暴漢からはお前やアンバーが守ってくれたらいいだろう。なんの為の護衛なんだ」
「僕が言っているのは、人間の方ですよ。目が眩むくらいならマシとして、最悪あなたのオーラで両目が潰れて使い物にならなくなります」

それにそこの鷲獅子ならウリエルの騎獣ですよ、淡々と竹串に肉の切れ端を突き刺しながら、殺戮は女神の前でそれを焼き始めた。
ぶすっとあからさまにふてくされたヘラを見て、一行と一緒に休憩入りしていたヘパイストスは苦笑いを浮かべている。
真鍮製の三脚を畳み、器用に岩に腰を下ろして、彼は隣のアンブロシアに焼いた野菜などを手渡していた。

「母上。麓の町は、暴漢とは無縁の素朴で平穏なところですよ。何度か足を運んだ事がありますが、信仰も根付くいい町です」
「何っ、聞いたかおチビ! ヘパは麓に降りた事があるらしいぞ!!」
「話の腰を折らないで下さいよ。ヘパイストス様、申し訳ないのですが、焚きつけるのはやめて頂けませんか」
「何故だー! 私もニゼルやお前達みたいに、観光とかぶらり旅とか、してみたいだけだぞ!」
「うーん。なら母上、アクラシエルに魔力遮断の結界を張って貰っては? 僕は海辺のニンフの力を借りて、気配を隠して行ったんですよ」
「気配隠し、魔力遮断。それだー! 天才的閃きだぞヘパ!」
「ああもう……焚きつけるなと、言ったのに」

ウキウキと音に出さんばかりの軽い足取りで、ヘラはアンブロシアの前に立つ。とはいえ、肝心要の悲劇の天使はあのざまだ。
正直、神であると同時に魅力的な女性であるヘラを他人、それも人間の前に晒したくない殺戮は、内心でほくそ笑む。

「アクラシエル! 私はニゼル探しの情報収集にいくぞ、お前も着いてこい! それとも何か、未来の対天使など知ったこっちゃないか!」

即席の紅茶を口に含むと同時、サラカエルはそれを思い切り噴き出していた。同情してか、シリウスが背中をそっとさすってくる。
慌てて顔を向けると、えへんとふんぞり返る女神をアンブロシアがぼんやりと見上げていた。心なしか、その眼に光が戻ったように見える。

「嫌とは言わせんぞー。ついでに言うと、私は余りに神々しくて人間の目に悪いらしい。付き添いついでに気配消しの結界を張ってくれ」
「……え、あの……でもまだ、ニゼルさんは……」
「なんだー、他でもない私の頼みだぞ。それにニゼルが戻る前に腕が鈍ったらどうする。鍛錬と思って腕を磨き、褒めて貰えばいいだろう」

……これは駄目かもしれない。上手い事、口車に乗せられて、アンブロシアはヘラに頷き返してしまった。
護衛とは、可愛い部下とは一体なんなのだろう。サラカエルは、痛み始めた頭を誤魔化すように紅茶を一気に喉に流した。
ヘパイストスは、目尻を下げて一連の流れを見守っている。大神以外にも地母神の復活を喜ぶ者もいるのだと、そう言いたげな笑みだった。






翌朝、有言実行とアンブロシアがヘラに不可視の結界を張り、目立つ鷲馬をはじめとした騎獣らを屋敷に残して、一同は麓の町へと降りた。
町というよりは村に近い。発展の途中なのだろうなと呟き、ヘラは愛息が用意してくれた薄手の絹織物を羽織って表通りに足を乗せる。
急拵えとはいえ、極上の糸で織られた布は陽光を反射してきらきらと光り輝き、彼女のきめ細かな肌をより白いものに見せていた。
余計な事をして下さるものだ、歯噛みするサラカエルだったが、神特有の気配を緩和する術が施されているのだと、当のヘラに補足される。

「ヘパは指先が器用な上に、気も遣える子だからなあ。観光を楽しみたいという私の気持ちをしっかり汲んでくれている。流石だな!」
「はあ、そうですか。それは宜しかったですね」
「なんだー、お前はまだ怒ってるのか。そんなにお堅くてどうするんだ、頭でっかちとでも呼ばれたいのか」

契約を司ると自負するなら、もっと罵倒の言葉にもまともな語彙が欲しいところだ。殺戮は出しかけた嫌みを無理やり喉の奥に突き戻した。

「……あ、あれは。ヘラ様、」
「うん? どうした、アクラシエル」

藍夜と共に、数歩ほど先を進んでいたアンブロシアが立ち止まり、ふたりを呼ぶ。
彼女が指差す先には、木造の小さな教会がぽつんと建っていた。早速、立ち寄ってみる事にする。
町の北沿い、いくつかの道が交わる先に位置するこの教会は、建物自体は樫の板とガラス窓で構成されるだけの質素なものだった。
しかし、門や壁、柱には百合やオリーブ、姫林檎といった草花の繊細で美しい彫刻が施され、小さいながらも確かな品格が漂っている。
見上げれば、屋根には小さな鐘と時計台が申し訳程度に設置されていた。意外にも、その周辺には煌びやかなステンドグラスが並んでいる。

「こんな辺鄙な田舎の教会に、見事なあしらいだな。それにあんな飾り硝子、それこそ帝都でも高価だろうに」
「おいー、おチビ。ウリエルみたいなケチくさい事を言うな。風情が台無しだろう」
「……アンブロシア、僕はどうも遠回しにけなされているような気がするのだが、気のせいかな」
「ひっ。き、気のせいだと思いますよ? きっと」

門の前で好き勝手に総評していると、視界の端に何者かの姿が映った。真っ先に反応したサラカエルは、相手の装いを見て片眉を上げる。

「おや、こんな朝早くに珍しい。観光ですか、旅の方」

黒い丈夫な布地で織られた平服、首から下げる赤紫色のストラ。どう見ても教会の関係者だが、手には聖書ではなく竹箒が握られていた。
顔の皺や白髪混じりの髪からして歳は六十手前といったところか。神父は箒を近くの垣根に立て掛けると、胸に手を当てて一礼する。

「と、失礼を。私はこの教会の神父で、グラッセと申します。教会の管理と司祭業を担っております。ご案内も出来ず、申し訳ありません」
「ああ、気にするな。近くの交易都市に寄ったついでに、ぶらっと立ち寄ってみただけだからな」
「そうでしたか、ようこそお越し下さいました。何もないところですが、地母神様の加護がありますので水も作物もとても美味しいですよ。
 如何です、宿で朝食など摂られては。この時期は川魚も大きく育ちますし、酒蔵では甘酒の仕込みを迎えておりますので、お勧めですよ」
「何っ、酒蔵!? 酒を生産しているのかっ、この町は!!」
「ヘ……『奥様』。神父様、地母神とは……どういった教えなんです。婚姻の女神であるなら、嫉妬深い残忍な神だと聞きますが」

半ば強引にヘラを押しのけ、殺戮はいつもの人好きのする笑みを浮かべた。面食らったように瞬きをして、グラッセはすぐに微笑み返す。
突然の訪問客に嫌な顔一つせず応じる神父には、厳格と品格が同時に見受けられた。ホワイトセージとは大違いだな、と天使は独りごちる。

「古い書にはそういった描写もありますが、地母神ヘラ様は気高く、女性や大地の実りに深い慈愛を注がれる方という面もおありなのです。
 一概に残忍とは決められませんよ。嫉妬深いというのは真実やもと私も考えておりますが、貞淑の女神が尻軽では信憑性に欠けますから」
「く、ふふっ……し、尻軽。そうか、そうだな、それでは確かに台無しだな。ところでグラッセ神父、この町には宿泊施設などはあるのか」

隣で、藍夜とアンブロシアが顔を見合わせる気配があった。サラカエルはじろりとヘラを睨んだが、涼しい横顔で易々と流されてしまう。
元からそんな予感はしていたが、よりによってこの女神は、屋敷の片付けから整備までの全てを愛息に任せるつもりであるらしい。
酒蔵とやらがあるなら彼にも手土産を見繕わなければならないだろう、殺戮は本日何度目かの頭痛を覚え、深々と嘆息した。
ニゼルの件といい、どうも双方に振り回されている気がしてならない。ウリエルの運気に影響でもされているのかと、無意識に喉奥で唸る。

「ええ、もちろん。もし二、三日滞在されるご予定であれば、知り合いの宿を紹介しましょう。酒蔵もすぐ近くになりますから」
「おおおっ! それはいい、早速手配してくれ、私は酒が大好きなんだ! いやあ、味比べをしないといけないからな!」
「お、く、さ、ま。はあ……では、お手数おかけしますがお願いします、神父様。清掃の邪魔をして、失礼しました」
「とんでもない、構いませんよ。どのみち皆の朝の畑仕事が終わってからでなければ、ここも開けていないのですから。良い旅を、旅の方」

奇しくも、酒蔵のすぐ傍に建つという民宿を紹介して貰えた。手書きの地図を受け取りながら、サラカエルは神父の示す先に目線を投げる。
このあたりでは珍しい瓦製の屋根と、どこからか噴き上がる真っ白な蒸気が見えた。臭気には濁りや淀み、邪悪な気配は感じられない。
酒は、神のみならず魔力を有するあらゆる存在を虜にする。酒蔵が、他者の堕落を目的とする堕天使の手に堕ちていない事に内心安堵した。
……意気揚々と歩き出したヘラには、気付かれないように恨みと怒りを乗せた視線を飛ばしておく。
いや、部下には甘い彼女の事だ。気付かれてはいるのかもしれないが、殺戮からすればこの際知った事ではなかった。

「全く。気配消しだの何だの、そんなに楽しそうに歩かれたら何の役にも立たないじゃないか」

結界の維持に努めるアンブロシアが、苦笑いを浮かべてこちらを見る。屋敷の面々への便りを藍夜に任せて、手綱を握るべく先を急いだ――

「おいー、お前達、早くしろー。酒が逃げてしまうだろう!?」
「逃げませんから。それと宿なら通り過ぎてますよ。ヘ、じゃない、奥様」
「何!? おかしいぞ、宿らしい建物なんて……」

――追いつくと同時、サラカエルは手元の地図と現地の風景を照らし合わせて口を閉じる。ここでヘラの早足もようやく止まった。
繊維質の紙から目を離し、ふたりはそっと数十歩ばかり後ろにある建物に振り返る。一言でいえばボロ屋、そんな一軒家が目に映った。
「これは」、流石の対天使も狼狽している。壁の至るところにヒビ、窓には亀裂、更に屋根は複数の板で補修され、継ぎ接ぎだらけだった。

「あのぅ……お宿、なんですよね。このお家」
「だ、そうだけどね。あの神父め、舐められたもんだな」
「そんな、サラカエルさん。せっかく紹介して頂いたのに、そんな言い方なさらなくても」
「そう言うけどね、アクラシエル。もう一度よく外観を見てから口を開けてくれないかな。ウリエルの家の方がまだマシだったと思うけど」
「……そうでしょうか。でも、オフィキリナスも似たような具合だったような……」

良く言えば「年季が入っていて趣のある家」だ。とはいえ、女神を泊めさせるにはかなりの抵抗がある。隣では藍夜が頭を抱えていた。
僕も同じ気持ちだよ、サラカエルは引きつらせた笑みを浮かべながら主の指示を待つ。今回ばかりは、ヘラも驚いた顔で宿を見渡していた。

「これは……凄いな。凄まじいボロ屋だ」
「ヘラ様、ちょっと。心の声が外に出てます」
「なんだー、本当の事だろう。それに、家主の前では言うつもりもないぞ。いや、逆にここまでくると是非泊まってみたいな」

アジがある宿だ、女神はそう評価したようである。ふむふむと頷き目を輝かせるヘラを見て、殺戮は早急に別の宿を探そうと決意した。
とはいえ、物事はそう上手く運ばれる筈もない。目と鼻の先、ボロ屋の裏口が突然開き、家の中から一人の若い女が姿を見せる。
本当にヒトが住んでいるのだと驚く一行と同じ表情で、女は固まった。幼い顔立ちに白を基調とした簡素なエプロンが、よく似合っている。

「え、あの……」
「おおっ! ヒトだ、生きてるぞ!」
「ヘ、奥様! ああ、その、神父様のお知り合いの方ですか。実は先ほど、教会でお会いして……」
「ああ、そうだ。グラッセ神父が『観光で滞在するなら是非この宿に』と教えてくれてな。お前が女将か。二、三日の間、宜しく頼むぞ!」

サラカエルはたまらず頭を抱えて座り込む。アンブロシアが必死に彼の背中に手を添えて慰め、藍夜は顔面を両手で覆って俯いてしまった。

「ああ、そうでしたか。確かにうちは祖父母の代から宿を経営しております。何もないところですが……それでも宜しければ、どうぞ」

突然すぎてわけが分からない、そんな印象もあった筈だ。しかし、肝が据わっているのか、或いは鈍いのか、女は柔らかい笑みを浮かべる。
何故か満足げ、かつ得意げにえへんと胸を張るヘラに、女将は早速食事場に上がって下さいと、先導するように玄関へ足を向けた。
うきうきと着いていく主の背を、サラカエルは苦い物を噛んだ顔で見上げる。早く来い、そう急かされれば形無しだった。
こんなパターンには覚えがある。今この場にいないニゼル=アルジルに、密かに彼は恨みつらみを募らせていった。致し方なく、後に続く。

「――いま、お茶を。緑茶しかありませんが」

宿屋は、一般庶民の住まいに手を入れただけのものだった。最低限の家具しか置かれておらず、外観の見た目通りあちこちが古びている。
女将も自覚があるのか、着席を勧めた椅子や茶器などを慎重に扱っていた。真新しい茶葉の香りが空気に溶け、不安感が拭われていく。
見渡してみると、古い建物ではあるが掃除が行き届いている事が知れた。茶を口に含んだ藍夜とアンブロシアが、素直に味を賞賛している。

「おお、いい茶だな。お前が摘んだのか」
「まさか。祖父母と交流のあったお茶屋さんにお世話になっているんです。安価で譲って頂けて、助かっています」
「助け合い、か。いいな、この造りなら、休憩の場としても機能しているのだろう?」

女神の視線につられて外を見ると、木陰にちょっとした長椅子やテーブルが設置されてあり、農作物の合間に一息つける工夫がされていた。
低木には赤や白のツツジが満開になっていて、緑豊かな町並みに色を添えている。女将はどこか、照れくさそうな顔ではにかんだ。

「ええ、昼近くになると近所の方がお食事に。でも家も年季が入ってきて、申し訳ないです。両親がいた頃はまだ綺麗にしていたんですが」
「そうなのか。しかしいい宿じゃないか。一人で切り盛りしているなら、なおさら大変だろう」
「そんな、もったいないお言葉……はい。本当だったら、私の夫もこの場にいてくれる筈だったんですが」
「夫? なんだ、出稼ぎにでも出ているのか」
「いえ、そういうわけでは。おかしいですよね、町の教会で正式な手続きをとって式を挙げたのに、一年にも満たずに家に帰らないなんて」

尊大な態度を変えないヘラを、高貴な出とみたのだろう。女将は尋ねられた事に淡々と答えていたが、それ以降の話については目を伏せた。
今は聞かれたくない、そんな目だ。女神がこちらを見る。サラカエルは、調べろという事だな、と理解してすぐに頷き返した。

(正式な手続き、か。契約書を用意して、教会の中で神父や参拝者の前で指輪を交換しあい、以降は互いに身に着け合う……なのに、何故)

日頃の経営で手がいっぱいなのか、女将は身だしなみこそ整えているが、年頃の女性らしいお洒落などは一切していないように見える。
彼女が指輪の一つも着けていない事も気になった。もし夫とやらが金を出し渋る生活を強いているなら、そんな余裕はどこにもないだろう。
神父の話では町には地母神の加護があるというが……何らかの形ででも結婚指輪を着けていない夫婦に、ヘラの加護などあるのだろうか。
ヒトという種は、神々のように気配で互いの居場所や挙動を探れるわけでもないのだ。一年も待たずに破綻したのかと、殺戮は目を細めた。
……「婚姻の女神」としてのヘラの目は確かだ。彼女が調べろと指示を出したのなら、夫側は不貞を働いている可能性すらある。

(嫌だな。厄介事に、首を突っ込まなければいいんだけど)

ふたりが談笑を楽しんでいる間に、気配を隠してその場を離れた。右目に片手で触れ、瞳術を起動する。すぐさま「飛んだ」。





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 UP:19/05/25