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楽園のおはなし (1-28)

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鳥羽兄弟はその日は元々早いうちに修理作業を切り上げるつもりだったのだと言い、ニゼルの両親の好意で揃って夕食にあやかっていた。
食卓に並ぶのはチーズを溶かしたシチューを中心とした温かいものばかりで、暁橙はわき目もふらず一心不乱に料理をかっこんでいる。
一度、二度と窘めた藍夜だったが、ストケシアにくすくすと笑われて以降、彼はひたすら黙々と食べる事に集中する事にしていた。
流石に弟が大皿の羊のローストに直にフォークを刺そうとするのは止めてやる。きょとんとする暁橙を見て、サルタンはわははと笑った。
ニゼル宅の料理は、牧場で飼育しているアルジル羊のミルクを使い回す事が多かった。
アルジル羊のミルクは牛乳に比べて濃厚で、チーズに加工される事が多い。また、他の羊乳より癖がなく、直に飲みやすいのも特徴だった。
とはいえ、全く癖がないというわけではない。現に藍夜は料理に加工されているものしか口にしないし、搾りたては濃厚すぎて苦手だった。
一方、ニゼルは「この濃いーのがいいんだよ!」と豪語して、アルジル羊乳だろうが他の羊乳だろうが、搾りたてをグビグビ飲んでしまう。
身長差を気にしている身としては、幼い頃から羊乳を馬鹿飲みするようなところから差が出たのか、と自分の好みに落胆する部分もあった。

「ところで藍夜、サラカエルは?」
「気が付いたら、いなくなっていたよ。いつもの事さ」

食後のミルクティーを啜りながら、藍夜はニゼルの問いに肩を竦める。暁橙はサルタンと裸のつきあい、もとい風呂に浸かりに行っていた。
ここまで厄介になるつもりはなかったのだがね、こめかみに指を当てて唸る親友に、ニゼルはまあまあ、と彼を宥めながら苦笑を漏らす。

「藍夜くん、今夜は泊まっていくんでしょう?」
「ストケシアさん。いや、流石にそこまでお世話になるわけには」
「いいじゃない、昔からのつきあいなんだし。ニゼルもその方が楽しいでしょ?」
「……え?」

クッキーを運んできたニゼルの母の問いかけに、ニゼル本人はどこか間の抜けた声を返し、直後慌てたようにそうだね、と頷き返した。
テーブルに置かれたクッキーは、アルジル羊乳とバターをふんだんに使った手作りの一品で、ストケシアの得意料理の一つでもある。
早速と言うように一枚摘まんで優しい甘みを堪能し、ニゼルはさっさと寝床の用意に向かった母の背中を見送った。

「ニゼル、君、日中に何かあったのかい」
「え? どうしたの、藍夜」
「いや、どうにも、さっきからぼうっとしているように思えてね」

ミルクティーを口に含み、藍夜は呆けたような表情を見せたニゼルに一瞥を投げる。ニゼルは二度ほど瞬きして、首を左右に振ってみせた。

「どうもしないよ。藍夜こそ、どうしたの急に」
「……いや、僕の気のせいならそれでいいさ」

へらりと笑ったニゼルを見て、藍夜はそれ以上の追及を取りやめる。
アルジル家を訪れた時から彼は心ここにあらずといった風で、何事か悩んでいるのなら力になるつもりで、藍夜は問いかけたのだった。
だが問われた張本人はというと、母さんのクッキーも美味しいなー、と呑気に口を動かしている。気のせいだったかと、藍夜は肩を竦めた。
ノクトの一件以来、酷く気が立っている自覚がある。いくらなんでも過敏過ぎたかなと、彼は自嘲気味に小さく嘆息した。

「ねえ藍夜、お店、いつ頃直りそう?」
「さあ、どうだろうね。いっそリフォームでもしてしまえばいいのだろうが、元手がなくてね」
「んー、藍夜が予算ケチってるんじゃなくて?」
「君ね、言っていい事と悪い事の区別は、きちんとつけるべきだよ」

変わりない、いつものニゼルだ……ミルクティーを片手にもりもりとクッキーを頬張る親友を見て、藍夜は一枚を譲り受けながら笑った。
クッキーが底を突いてきた頃、暁橙が頭にタオルを乗せたままの姿で現れる。案の定、弟はストケシアお手製の菓子の消滅に落胆していた。

「酷いよ、兄ィ。オイラもクッキー食べたかったよー」
「明日があるじゃないか。ほら、明日も早いのだから、湯冷めしないうちに休もう」

ほぼニゼル一人で片付けたようなものなんだがね、母さんあんまり一度に多く焼かないし……視線で成される会話は、互いに苦笑混じりだ。
懐から取り出した懐中時計の針を確認して、藍夜は席を立つ。暁橙と入れ替わるようにして、ニゼルは風呂場に消えて行った。
既に一人で入浴を済ませていた藍夜は、ストケシアからティーポットを借り受け、暁橙にも茶を淹れてやる事にする。
よく眠れるようにとカモミールや少量のミントをブレンドし、アルジル羊乳を加えた特製ミルクティー。弟は喜々としてこれを飲み干した。
ベッドに潜り込みながら、藍夜は明日の段取りを頭で思い描き、やがて暁橙の寝息に釣られるようにして珍しく早い眠りに落ちる。

「藍夜、あー……寝ちゃったか」

二人分の寝息が暗がりに混ざる頃、長湯を堪能したニゼルが客間をそっと覗きにきた。よく眠る兄弟に短く視線を投げ、黙って扉を閉める。
いつもの彼であれば、寝起きの悪い藍夜や寝相の悪い暁橙にも構わず、一緒に眠るべく彼らの寝床に潜りにいくところであった。
しかし、今のニゼルの頭の中は日中ノクトに囁かれた言葉がぐるぐると巡り続けている。扉は閉ざされ、兄弟が目を覚ます事はなかった。






小鳥のさえずり、羊達の鳴き声、窓から差し込む光と涼しげな風、草の匂い。むくりと起き上がったものの、藍夜は未だに寝ぼけていた。
ひとまず背伸び。隣に目をやると、既に暁橙は起きているらしく、もぬけの空になっている。寝過ごしたかなと呟いて、ベッドから降りた。

「あら、藍夜くん。おはよう」
「……おはようございます、ストケシアさん」

人様の家に泊まらせて貰ったというのに、寝過ごすとはこれ如何に。目をこすりながら唸る藍夜に、ニゼルの母は柔らかく苦笑してみせる。
すみませんと小さく謝罪する藍夜だったが、既にお見通しだという風に、ストケシアは彼を朝食を並べた食卓へ移動するように促した。
素直に従う。もそもそとほどよい厚さに切られた食パンを口に運びながら、藍夜はふと、窓の外に広がるアルジル牧場の風景を見渡した。
陽光に煌めく青々とした草原に、アルジル羊特有の薄紫色が点在している。
時折、白と黒それぞれの毛並みを持つ牧羊犬二頭が、交差するようにしながら駆けていった。
なんとも言えない、美しい光景だ。寝ぼけ眼ながらも目を細める。傍らにミルクティーが置かれるまで、藍夜はしばらくそうしていた。

「藍夜くん、今日もお店の修理?」
「ええ。暁橙は……商品の確保に遺跡に行ったのかもしれませんが」

斜め向かいに腰を下ろしながら、ストケシアはカップに口を付けた。なんでも、放牧を始めあらかたの仕事は片付いているのだという。
今何時なんだ、常備している懐中時計を取り出そうとして、胸のあたりで手が空ぶった。借りていた寝間着姿のままであった事を思い出す。
今日はなんとも冴えていない。深く嘆息する藍夜に、ニゼルの母は疲れているのよ、と労るような声色で優しく声をかけた。
たまらず唸るオフィキリナス店主だが、ニゼルの母とはニゼル同様、幼い頃からのつきあいだ。扱いには慣れられてしまっているのだろう。

「ところで藍夜くん、ニゼルを見なかった?」
「ニゼルですか。いや、僕はその……今し方、起きたばかりで」
「やぁね。そうじゃなくて、いつもみたいに、二人と一緒に寝てると思ってたのよ」

あの子ったら、どこ行ったのかしら――早朝のうちに片付けなければならない仕事は済ませてあったのだと、ストケシアは吐き出した。
まるで自分がいなくなる事を、あらかじめ見越していたかのように。それほどまでに、しっかりと早朝分の片付けが成されていたらしい。
藍夜くんも起こさないでおかしい子ね、苦笑いするニゼルの母を前に、藍夜は思わず立ち上がる。がちゃんと、カップが大きく跳ねた。

「藍夜くん? どうかした?」
「いえ、その……すみません、長居をしてしまったようだ。一度、店に戻ります」

嫌な予感がする。口には出さず、しかし表情を固くした藍夜にストケシアは何も言わなかった。止めても無駄だと分かっているのだろう。
客間に急ぐや否や、ベッドの横に畳んでおいた自前の服に着替え、寝間着をストケシアに手渡し、藍夜は足早にアルジル牧場を後にした。
その足で自宅に戻り、既に作業を始めていた業者らに簡単に挨拶を済ませ、店内、店外を見て回る……ニゼルの姿は、どこにもなかった。

(失態だ。呑気に、寝ている場合ではなかったようだね)

してやられた、とは思わない。
自分の不注意だ、やはり昨日のうちにニゼルの身に何かあったのだ。ノクトの哄笑が脳内で繰り返され、藍夜は強く歯噛みする。
そもそも、ニゼルは外出する際、自分か、最低でも両親には必ず行き先を伝えていく性格だった。何も言わずに姿を消すなど、ありえない。
そっと左手で左目を覆う。反則だが致し方ない、そう自身に言い聞かせながら眼の力を使おうとして、不意に、その手が横から掴まれた。

「!? 君はっ、」
「やあ、止しなよ。疲れが溜まってるんだろ」

力が霧散していくのが分かる。人好きのする笑みを浮かべて立つのは、サラカエルだった。藍夜は、複雑な胸中のままに顔を歪めた。

「邪魔をしないで貰いたいものなんだがね。こう見えて、僕は忙しいのだよ」
「やあ、ニゼル=アルジルなら生きてるよ。案ずるまでもないさ」
「……誰を、いつ、どう心配するかは、僕が自分で決めるさ。口出しをしないでくれたまえ」

サラカエルは、始めきょとんとした顔をして、それから微かに苦笑する。彼の手を振り払い、藍夜はこめかみに指を当て、小さく唸った。
この場でサラカエルに助けを求めてしまう事が出来れば、どれほど楽になるだろう。ふと思い浮かんだ祈りに、藍夜は頭を振る。
一度でもウリエルの記憶を取り戻したと表明してしまえば、鳥羽藍夜の世界は崩壊する……そんな予感が、藍夜にはあった。
両親の遺した店、弟、幼なじみの羊飼い、その両親と、彼らの牧場。狭い範囲の世界であれ、藍夜は、現ウリエルはそれを気に入っている。
出来る限り、壊さずにありたかった。
もし相談したとして、サラカエルなら、ウリエルの我が儘ならば、と笑って受け入れてくれるだろう。そういう男だ。
だが、ウリエルとしてサラカエルを頼る事は鳥羽藍夜の人生自体を放棄する事になりかねない。そんな予感が、藍夜の足を止めていた。
彼の胸中を知ってか知らずか、サラカエルは首を傾げる。ふと天使の表情から笑みが消え、藍夜は訪れた奇妙な沈黙に彼の顔を見上げた。

「やあ、なかなかに頭の固い……いやね、ニゼルの所在なら掴めているんだよ。早い話、迎えに来たってだけの事さ」
「サラカエル?」
「ふん。その様子だと、『ウリエルの記憶は取り戻されている』んだろ。ウリエル」

驚きに目を見開き、藍夜は困惑し、後ずさる。眼前、自身の対存在は真剣な眼差しをこちらに注いでいた。

「……いつから、気が付いていたんだい」
「おや、そこは否定しておかないと、君が後から困るのじゃないかな。ま、僕は構わないけど」
「サラカエル」
「……ノクトの【喰】だよ。いくらレテ川の、古の女神の加護が宿る聖水を飲んだからって、普通は生き延びてなんていられない筈なんだ。
 噂によれば、『喰』は使い手の意思に相当影響を受けるらしいね。ここに来る前、『お前の悪いようにはしない』と言われていたんだよ」
「回りくどいな。結論は」
「つまり、鳥羽藍夜からヒトとしての要素を奪ったという事さ。あくまで僕の予想だけどね。レテの水は、術のつなぎみたいなものだろう。
 この間から君達の様子を観察していて、もしやと思って聞いてみたのさ。それにしてもウリエル、君は今も昔も、嘘を吐くのが下手だね」

緊張が和らぐ。心底楽しげに笑いながら、サラカエルは無意識に歯噛みした藍夜の頭に手を乗せた。
習慣から、身長の低さを指摘されたようで気に入らない、と藍夜は思った。その手を雑に払いのける。
馬鹿にしているのかい、噛みついてみても、随分と可愛らしい姿になったなと思ってね、対天使はからからと笑うばかりだった。

「……いいさ、理屈は、分かった。しかし、ノクトの狙いは何なのだろうね」
「さてね、そればかりは。けど、昔のよしみで、というのも案外ありそうな気がしているよ」
「昔のよしみかい。いや、そういう性格だったかな、奴は」
「『ウリエルさえ取り戻せるならお前はそれで満足なんだろ』、そう言われているような気がしていてね……舐められたもんだよ、僕も」

「殺してやりたい」。
藍夜の鼓膜を震わせた微かな独白は、やはりサラカエルが放ったもの。咎めるように睨み上げると、天使は首を傾げてごまかそうとする。
性分というのは易々と直るものではない。嘆息する藍夜に、サラカエルは物騒な呟きなど端からしていなかったかのように小さく笑った。

「兄ィ〜! いたいた、やっと起きたんだ!」
「……暁橙? 君、今までどこに」

耳に届く、軽快な足音。顔を上げると、何やら大荷物を詰めたリュックを背負った暁橙が、手を振りながらこちらに駆けてくるのが見えた。
見れば、腰の鋼糸も増えている。訝しみ、藍夜は眉間に力を込めた。咄嗟にサラカエルを見上げると、彼は涼しげな表情で佇んでいる。
答えは返されず、サラカエルは旧知の友に語りかけるように暁橙に声をかけた。暁橙も暁橙で、先日までの警戒が嘘のように失せている。

「やあ、遅かったね。で、準備は済んだのかな」
「まあまあ。食料も買い込んだし、向こうでも何とかなるよ」
「少し待ちたまえよ、二人とも。さっきから、一体何の話をしているんだい」

置いてけぼりを食らう藍夜が慌てて問いかけると、暁橙はきょとんとし、サラカエルは片目を細めて口端を吊り上げてみせた。

「だって、兄ィ。ニジーさん、オイラ達が寝てる間にあのノクトとかいういけ好かない野郎に誘拐されたんでしょ。早く助けに行かなきゃ」
「ゆうか……いやね、暁橙」
「サラカエルが現場まで送ってくれるって言うし、都合いいじゃん。兄ィも準備してきなよ。業者さん達には段取り、引き継いだから」

今度は藍夜がきょとんとする番だった。いつの間にか、既にニゼルらを取り返す算段をつけていると弟は言う。

(いつの間に、こんなに頼れる子に育ったのだろうね)

自分が変わらなさすぎるだけなのか、頭を振る藍夜の横で失笑が聞こえた。ちらと視線を上げると、首を傾げたサラカエルと目が合う。
意地の悪い笑みをごく僅かに浮かべ、対天使は親指でオフィキリナスを指差した。待っているから準備してこい、という事らしい。
一度悔しげに歯噛みしてから、藍夜は店内に取って返した。いつものエプロンを身に着け、屋根裏部屋に隠していた月女神の銀弓を掴む。
ふと、戻ってきた藍夜の鼻先に、サラカエルが雷神の雷霆を突き出してきた。困惑しながらも受け取り、手早く腰の紐にくぐらせる。

「これで万事済んだとは思わないで貰いたいね、サラカエル」
「やあ、怖いな、オフィキリナス店主さんは」

返して貰ったならそれでいいじゃん、とは暁橙の言だった。そうもいかないよと唸りながら、藍夜は先に歩き出したサラカエルの後を追う。
既に、準備は整えてあったようだった。店から数メートル先、開けた牧草地の上に、白色の光で形成された大きな魔法陣が浮いている。
円の中に記された複数の文字列は、この魔法陣が月光の加護を受けている事を示していた。邪気を払い、魔力を増幅させる紋様だ。
サラカエルが描いた魔法陣だ――久しぶりに目にしたそれに、藍夜はかつての懐かしい記憶を思い起こし双眸を細める。
人間の視界には眩しく映るのか、暁橙はしきりに手で両目をこすっていた。庇うように弟の前に立ち、藍夜はサラカエルの顔を盗み見る。

「僕一人でも転移出来るといえば出来るけど。さて、少し気合いが要るかな」

座標は登録してあるけどね、何事か言いたげにぼやくサラカエル。彼が言わんとしている事を察し、藍夜は眉間に力を込めた。
サラカエルとウリエルは、対天使だ。二人で力を合わせれば、ノクトの潜伏先への転移も容易だろう。ほぼ一瞬で済むかもしれない。
しかし、同時にそれは、暁橙に鳥羽藍夜がヒトの身ではなくなってしまった事実を告白する意味もあった。
逡巡し、藍夜は魔法陣に手をかざすサラカエルをじっと見守る。暁橙は落ち着かない様子で、兄の後ろからしきりに首を伸ばしていた。
待つ事数秒。ふと一陣の風が吹き、刹那、伸ばされた天使の手のひらと魔法陣との境に、星々が流転するような煌めきが生じる。
詠唱に手こずっている――サラカエルの口内に溶かされた古代語の響きと、それが耳に届く速度の時間差から、藍夜は眉間の皺を深くした。
やはり目を細めながら、暁橙は歯噛みし、力んでいるように見えるサラカエルを見つめている。藍夜の肩を掴む手に、力が込められた。

「ねえ、兄ィ」
「っ、サラカエル、」
「少し黙っててくれないかな」
「……」
「兄ィ、その、転移術? だっけ? あれって難しいのかな」
「暁橙……ああ、分かったよ、分かっているとも! やればいいんだろう、僕も!!」

いわゆる逆ギレだった。不安げに肩に手を添えてきた弟、眼前で詠唱に手間取る対存在。黙って見ていろという方が無理な話だ。
ずかずかと乱暴に歩き出し、藍夜はサラカエルの隣に立つ。驚いたのは天使の方らしく、彼は微かに目を見開いていた。

「……いいのかい?」
「今更というものだよ。始めよう」

わけが分からない、という顔の暁橙を置き去りに、二人は横に並び魔法陣の前を陣取る。倣うように手を伸ばし、藍夜は静かに目を閉じた。
呼吸を揃える。刹那、五感が世界から剥離されるような感覚が満ち、左目が鈍く疼いた。瞳はもう、鮮やかな瑠璃色に染まっているだろう。
あの強烈な風がまたしても吹き抜け、思わず暁橙が目を閉じ、体を背けた瞬間――鳥羽藍夜の背中に、彼の髪と同色の翼が現れていた。
全部で四枚。トリ型のそれは、さながら蝶の翅のように左右対称に大きく広がり、明らかに鳥羽藍夜が異質な存在であるのを物語る。

「あっ、兄ィ……?」
「暁橙」

目を見開き、呆然としたような声を漏らす弟。体を元の位置に戻し、彼はのろのろとした足取りで、現ウリエルの背後に歩み寄った。
手を伸ばせば届く距離。その一歩を暁橙は踏み出さない。目線だけで振り向き、藍夜はやはりこうなるか、と自嘲の笑みを漏らす。
サラカエルは兄弟に一瞥を投げるものの、詠唱に専念し直す事にしたようだった。彼の顔に、じわじわと疲労の色が滲んでいく。

「兄ィ、それ、その翼」
「暁橙。すまないね……僕は、もう――」
「――ッ、スゴイ!! うっわ、本物の天使様みたいだ! ちょっとどうしよ、無敵の兄ィに、今度は翼まで生えちゃったよ!」

がんがんと叩きつけられる歓声。驚愕と混乱とともに、現ウリエルは顔を巡らせ、鳥羽暁橙を見た。
彼は、差別するでも否定するでもなく、純粋に鳥羽藍夜の変化に感激している。目をきらきらさせ、ぱっと顔を輝かせ、心から喜んでいた。
驚いたのは現ウリエルの方である。ヒトではなくなってしまったと証明されたというのに、この可愛い弟は何をそんなに喜んでいるのか。

「暁橙。君……驚かないのかい、これを見て」
「え、驚く? なんで?」
「いやね、僕は……本当に、『本物の天使』となってしまったのだよ。成長が止まっているのも、そのせいだ。つまり、僕と君はもう……」

「兄弟ではない」。その一言がどうしても口に出来ず、現ウリエルは悲しげに顔を歪めた。一方、暁橙はネガティブな表情など浮かべない。
反対に、彼はいつものように天真爛漫に破顔し、今度は一歩を踏み出し、現ウリエルの見慣れた背中を――羽根を避けながら――ぽんと叩く。

「何言ってるの、兄ィ。親父に昔、本で読んで貰ったじゃない。『人間の中には、天使が紛れて生まれてくる事もある』って。一緒でしょ?
 それに、兄ィはずっと前からロードは使えるし瞳術は便利だしで、元から人間離れしてたじゃん。翼が生えたくらいで、今更驚かないよ」

あ、便利なんて言ったけど別に道具扱いしてるわけじゃないからね! 必死に否定する暁橙に、唖然とする現ウリエル、もとい鳥羽藍夜。
彼らの横で、サラカエルが爆笑するのが聞こえた。それは一瞬の事で、藍夜が我に返ると時同じくして彼は元のように顔を引き締め直す。

「やあ、話が纏まって何よりじゃないか。さあ、さっさと終わらせてしまおうか――『ウリエル』」
「ウリエル? 誰それ?」
「……はあ……僕の天使名だよ。暁橙、君はこれまで通り、兄ィ、藍夜とでも呼んでくれ」
「おっ、そうなんだ? 分かった。じゃー、そうする!」

ニゼルがこの場にいたら、爆笑される事間違いなしなのだろうね――意識が現実に追いついた。藍夜は隠さずにくつくつと苦笑する。
意識を戻し、詠唱を再開。魔法陣の光が増していく。立ち上る白い風のうなりは、こちらとあちらが繋がった何よりの証だった。
サラカエルが頷き、作業の終わりを告げる。藍夜もまた彼に頷き返し、昔の要領でそっと翼を畳み、己の背中、肉体の内側にしまい込んだ。
振り向き、藍夜は暁橙の姿を双眸に映し込む。弟はその顔に喜びと驚き、期待そのものを色濃く浮かべ、躊躇せず利き腕を伸ばしてきた。
躊躇いもしないのか――弟の順応の早さ、物事を受け入れる度量の大きさに、改めて藍夜は感心する。見習わなければ、と肩を竦めた。

「暁橙、恐らくは一瞬だ。手を離してはいけないよ」
「分ーかってるー! うわー、緊張するね、兄ィ!」

遠慮がちに、暁橙の手を取る。その熱が確かなものである事を噛みしめるように、藍夜は意図的に繋ぐ手に力を込めた。
心臓が締め付けられるように痛んだ。暁橙でさえこうであるなら、ニゼルもまた、容易く「ウリエル」を受け入れてくれるような気がする。

(そうである事を祈るよ、ニゼル)

頭を振り、藍夜は弟とともに最初の一歩を踏み出した。革靴の底が、真白の文様を踏みつけ、刹那、視界が純白の光に塗り替えられる。
世界が反転するような感覚が、全身を襲った。飛ぶ――周囲の空気が、まるで一変したのを感じた。目を開き、藍夜はその場にしかと立つ。
暁橙が感嘆の声を上げた……見た覚えのない豪奢な屋敷が一つ、目の前の開けた草原の上に建っている。





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 UP:18/01/20