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楽園のおはなし (1-27)

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探せど待てど、アンブロシアが戻ってくる事はなかった。だめ押しと言わんばかりに、いつの間にか琥珀までもが行方をくらましている。

「とにかくだ、店の補修を急がなければ」

戻って来次第、あの二人には説教だ――オフィキリナス店主は苦い顔でそうぼやき、スープの実食もそこそこに店の修理に戻っていった。
従うように暁橙も藍夜に続き、残されたニゼルはテーブルに視線を落とす。アンブロシアのスープは、野菜盛りだくさんの優しい味がした。

(アンも琥珀も、どういうつもりなんだろう。ちょっと勝手過ぎるよ)

藍夜と暁橙を呼び止めるつもりはない。忙しいのは見れば分かるし、何より今はそっとしておくべきだと思う。色々な事がありすぎた。
器を手に持ち、ぐっと飲み干す。先刻、完成に気が付いたとき、温め直す必要がないほどスープの鍋からは熱い湯気が立てられていた。
作ってから出かけたのか……ニゼルはふと、隣に立つサラカエルの横顔を盗み見る。彼の顔にはどこか憔悴のようなものが垣間見えた。

「大丈夫? サラカエル」
「ん、何がだい」
「えー、と? 何か、疲れてるみたいに見えるから」
「やあ、大した事じゃないさ。この道標の召喚に少し手間をかけたから、それでかな」

それって疲れてるって意味じゃないの、言いかけた言葉を、ニゼルは桜色の道標に視線を投げる事で強引に飲み込む。
道標は、今にも消えそうな線でありながら未だ宙に固定されていた。サラカエル曰く、きちんと手順を踏んだから長持ちする筈、との言。
天使にも得意不得意があり、他の天使の力を借りる為にはそれ相応の手間と手順と下準備とが必要なのだと、彼は嘆息混じりに補足する。
天使も色々苦労してるんだなー……ならばアンブロシアにもまた、唐突に行方をくらませなければならない事情が出来たのかもしれない。

(言ったって、藍夜はアンに説教するんだろうけど)

叱られ慣れている暁橙ならまだしも、アンブロシアは鳥羽藍夜の真の恐ろしさを知らないのだ。涙目になる彼女の姿が容易に想像出来た。
可哀想に、と同情半分、苦笑が漏れる。一人しみじみ頷いていると、ニゼルはサラカエルがこちらをじっと見下ろしているのに気が付いた。
彼の眼光は鋭く、本音や建て前、隠し事の全てが見抜かれてしまうような心地にさせられる。不意に心臓が跳ね、ニゼルは静かに瞬きした。

「な、何? 俺の顔に何かついてる?」
「さてね。いや、君は羊の世話なんか、しなくていいのかと思ってさ」

ここ最近は、オフィキリナス関連の厄介事に首を突っ込んでばかりだ。それでも今朝は自宅の牧場に戻り、父母の仕事を手伝い終えている。
サラカエルが言わんとしている事がいまいち分からず、ニゼルは小さく首を傾げた。ふと見上げると、彼も同じように首を傾げている。
藍夜が肩を竦める動作なら、サラカエルは首を傾げるのが癖なんだな……皮肉をとばす代わりに再度首を傾げると、天使は眉間に皺を寄せた。

「だからね、今後もしばらくは天使がどうのでごたつくから、牧場にでも避難していろ、と言いたかったんだよ僕は」
「ふーん……あのさ、サラカエルって、実はお人好しだよね」
「吊されたいの?」
「つ、吊すって何それ? ええー……いいよ、遠慮しとく!」

気遣い屋め、とからかってみれば、冗談とも取れない返答が返される。サラカエルは意味深に口端を上げ、ニゼルは愛想笑いを浮かべた。
これ以上は何を言われるか分からない! 器やテーブル拭きを片付けようと、ニゼルはさっさと席を立つ。今度は何も言われなかった。
見慣れた喫茶店奥、こじんまりとした調理場に入り、ついでにと食器を手早く洗う。流れる泡を見送りながら、ニゼルはふっと息を吐いた。
……色々な事がありすぎた。琥珀やアンブロシアとの生活、サラカエルの来訪、ノクトの襲来、奪われたロード、壊されてしまった親友の店。

(なんで、こんな事になったんだろう)

反芻するように、一連の流れを思い起こす。どれもが理不尽で、一方的で、それこそ藍夜が憎むように天使に憤りを覚えざるを得ない。
しかし、中にはアンブロシアやサラカエルのような例外もあった。ニゼルは、天使とはまるで人間みたいな生き物だ、とぼんやり思う。

(不思議な力が使えるってだけで、天使って案外人間とそんなに変わらないんじゃないかな……だって、アンだってサラカエルだって――)

――ガチャン。すぐ近くで響いた大音に、ニゼルはびくりと肩を跳ね上げ、我に返った。
そろりと下を見ると、皿を取り落としていた事に気がつく。数分前までサンドイッチを乗せていたそれは、藍夜のお気に入りの一枚だった。
ぼうっとしていた、やってしまった……藍夜に叱られる事よりも、彼が落胆してしまう光景を想像してニゼルは申し訳ない気持ちになる。

「何、どうしたの」
「さ、サラカエル」
「……うん? やあ、派手にやったね」

音に釣られたのか、サラカエルが調理場にするりと入ってきた。あたふたと破片を拾おうとするニゼルを、サラカエルは片手で制する。
僕がやる、などとは言わず、彼は静かに破片を集め始めた。いいよ俺がやるよ、割って入ろうとするニゼルだが、天使は首を傾げるのみ。
……そのまま任せておくしかなさそうだ。手持ち無沙汰だからと、ニゼルはひとまず洗い終わった皿をふきんで拭き、棚に戻していく。
様子を伺えど、サラカエルの横顔に不快、呆れといった表情は浮かんでいなかった。読めない、食えない。知らず、ニゼルは嘆息する。

「この皿、」
「え?」
「いや、この皿、いい皿だね。そこそこ値が張るんだろ、持ち主の品格が伺えるよ」
「藍夜が街で見つけたやつなんだ、一点物。大事にしてたのにな」

植物と青い小花がモチーフの模様。それも今となっては、断片的なかけらに過ぎない。サラカエルは、気にするな、という風に首を傾いだ。
どこから取り出したか分からない袋に皿を詰める彼の背を見、ニゼルはどう声をかけるべきか一瞬逡巡する。謝るか、それとも礼を言うか。
どちらも、天使がさっさと調理場を後にした為にし損ねた。片付けもそこそこに、ニゼルは半ば反射的にサラカエルを追う。
裏口から何の気もなしに表に出た。そしてそのまま、彼はよりによって袋を手にしたまま、オフィキリナス店主の元に向かおうとする。

「(!? え、何考えてんのサラカエル、絶対怒られるよ!?)」
「(ま、ちょっとね)」

慌てて止めようとするニゼルだが、天使は自分の口に指を当て、しいと口止めを促す素振り。その一方で、親友は見るからに不機嫌だった。
今更。今更ながらに、鳥羽藍夜はノクトの所行を思い出し、或いは店の惨状に閉口し、ひたすら不機嫌一直線の最中であるのに違いない。
ニゼルの心配などお構いなしに、サラカエルは朝の挨拶でもするように、藍夜に皿の破片を詰めた袋を見せつつ気楽に声をかける。

「……今時分、何用なんだい。というかね、本当に手伝う気があるのかい、きみは」

藍夜の声の低さは、八つ当たり――という名の大説教――を発する寸前のものだ。慌てるニゼルをよそに、サラカエルはにこりと笑んだ。

「やあ、台所を触っていたら、皿を割ってしまったんだよ。これ、確か君のお気に入りだろ」
「僕の……さて、どの皿だったかな」
「見てみるといいよ、綺麗に割れてくれたからね。お陰で片付けがはかどった」

首を傾げるサラカエルから袋を受け取り、訝しみながら中身を改めた藍夜の顔があっという間に般若のそれに変わる。
ああああああ!! ……時既に遅し。許されるのなら、ニゼルはこの場で、思いの丈を思いきり叫んでしまいたかった。
手で顔を覆いつつ、少しずつ指を広げていく。文字通りの盗み見。隙間から様子を伺うと、やはり藍夜はサラカエルに怒声を投げていた。

(だから、言わんこっちゃないのにー)

たふー、と長めの溜め息。するとどうだ、ニゼルは、怒られながらもどこか楽しそうに苦笑しているサラカエルの姿を目の当たりにする。
藍夜も藍夜だ、彼はこの反省の色皆無の天使に対し、いつものように正座する事を強要しない――したらしたで、それはそれで問題だが。
おかしい、いつの間に仲良くなったんだろう……ニゼルが最初に抱いた違和感はそれだった。
親友がどれほど天使を憎んでいるかは、昔からずっと知っているつもりだ。故に、現状に違和感を抱かずにいられない。
とはいえ、最近のアンブロシアへの接し方といい、藍夜には藍夜なりの許容範囲というものが存在しているのかもしれない。
サラカエルに対する順応が早いようにも思えたが、本人同士の相性もあるだろう。なんとなく、性格が似ているような気もするし。

(ほんと、いつもの藍夜なら、雷霆奪い返してでも怒りそうなものなのに)

……なんだか、彼らに振り回されているような気がしてならない。二度目の溜め息を苦笑混じりに吐いて、ニゼルはそっと踵を返した。
気を取り直す。自分に出来る範囲で、彼の支えになれるのならそれでいい。さくさくと軽快な足取りで、壁伝いに表に回った。
今は暁橙の手伝いに入った方がよさそうだ、と目星をつける。彼はたった一人で、業者が持ってきた資材を運搬する役を買っている筈だ。

(あーあ。俺も、力仕事、ってガラじゃないんだけどなー。せめて琥珀がいればなー……けど流石にオフィキリナスの間取りまでは……ん?)

応接間だった場所を迂回し、応接間の裏に着きかけた、正にその時。ニゼルは、どこかから何者かの視線を感じた。はっとして顔を上げる。

「――よぉ。お一人様か、暇そうじゃねーか」
「……ノ、クト」

ぼろぼろの羽根が、風花のように柔らかく宙を舞っている。音もなくその場に姿を現したのは、この騒動の犯人、喰天使そのひとだった。






「そうビビるなよ。世間話くらいなら出来るだろ」

身構えるなというのが無理な話だ。ニゼルは無意識に一歩後ずさってから、この天使の顔を正面から見上げる。
サラカエルとはまた違ったタイプの美形。顔色はあまりよくない。当時は暗い中で対峙していたから、そこまで気付かなかった。
顔以外にも手などの血色は悪く、目の下にはくまが出来ている。吐き出される息は途切れ途切れで、一見でも体調がよくない事が分かった。

「世間話って。この間ここに来たばっかりなのに、もしかしてノクトって暇人なの?」

しかし、それ以上に気になる事がある――ニゼルは心臓をどきどきさせながら、真っ向から喰天使に噛みついた。

「どこかの誰かさんが藍夜の店を壊したせいで、藍夜はずっと機嫌悪いし、サラカエルは居座ってるし? すーっごく忙しいんだよね!」
「おい、そりゃ嫌みか」
「へー、ふーん? 嫌み言われてるっていうのは分かるんだ? てっきり、人間の言葉は分かんないんじゃないかって思ってた!」

八つ当たり半分、ノクトの本心を探る為の誘導半分。我ながら無茶をするもんだ、とニゼルは苦いものを噛んだような心地になる。
本来なら、こういう役回りは藍夜の仕事だ。がらではないと分かっていた。しかし、彼は他ならぬノクトの所行で怒り、消沈している。
直接関わらせるべきではないとニゼルは考えた。己を叱咤し踏み留まる。そもそも、「喰」を恐れて震えているだけでは、何も出来ない。

(何が喰だ、なんでもかんでも、こいつの思い通りになんてさせない)

ニゼルは頭を振った。饒舌は、恐れを踏み越えようとする強い意思の表れだ。舌が動く、頭が冴える。
ああ、自分は怒っているのだ。目の前に立つ、サラカエルでさえ従わざるを得なかったという、この強力な天使に。
今、自分は一人でそれに立ち向かっている。ノクトがした事は親友への侮辱だ。今更ながら、ニゼルは自分が怒り心頭であるのを知った。
心音が、耳元で鳴り響いている。だというのに、言葉が止まる事はなかった。そうだ、こんな喰天使如き恐れる必要はない。何故ならば。

「ノクトが何を考えてるのか、企んでるか。そんなの、俺はどうでもいいよ。ただ、半端に構ってくれ、って言ってるみたいで、凄く嫌!」

……ノクトの態度が気になる。いかにも具合が悪いというのをさらけ出し、自嘲めいた吐息、言葉の端々に滲む、含みを持たせるような響き。
こちらを馬鹿にしているのかと思わず問い返したくなるほどに、ノクトの態度は「敵対している」という事実を希薄なものに変えていた。
敵ではあるのだ、ニゼルは再び頭を振る。ロードを奪い、喰でオフィキリナスに深刻なダメージを与えた。それは違えようのない事実だ。
しかし、今の彼の様子やサラカエルの物言い、アンブロシアの庇うような言動からして、ノクトという人物は正しく敵であるのかどうかニゼルには判断がつかなくなっていた。
ノクトには、何か敵対せざるを得ない事情があったのではないのか。そんな思考が、ぐるぐる巡る。
怒りで歯噛みしながら、ニゼルは目の前の歪んだ双眸を見つめた。ニゼルを鏡で写したかのように、喰天使もまた顔を硬直させている。

「……よく喋るガキだな。人間が、生意気な事を言ってんじゃねーよ」
「天使だからって偉いの? 喰天使ってそんなに凄いの? ……そっちこそ何様だよ! 人間、人間、って馬鹿にしてさ! 何様だよ!!
 喰の能力がなかったら、ただ背が高いってだけのでくの坊じゃないか! 暁橙や琥珀の方が、よっぽど感情豊かで、見てて可愛いよ!!」

図星だったのかざまぁ見ろ、そう言い返す前に、ぶちん、と脳内で何かが切れるような音がした。気付けばニゼルはノクトを罵っていた。
止まらない、止められない。俺、こんなに怒ってたのかな――自分でも自分に驚きながら、ニゼルは自ら、喰天使との距離を詰めた。
目の前に、夜色の瞳がある。柔らかな色合いの、白金の髪が風に揺れている。ノクトの顔は、怒りと屈辱に塗れていた。
ニゼルは静かに瞬きをする。何故だろう、不思議とこの光景を、前にどこかで見た事があるような気がした。

「庭でしゃがんで、ちまちま花なんか植えて、みみっちく育ててたりするんでしょ。たまに、出来映えにうんうん頷いてたりするんでしょ」
「……あぁ?」
「男の嗜みだーって言って、お気に入りの香水つけたりするんでしょ? でもその裏で、一人で肥料こねたり土作りしたりしてるんでしょ?
 ほんと、背が高いだけで中身は分かりやすいよねノクトって。いっそオフィキリナスに庭園でも造って、花でも咲かせたらいいと思うよ」

以下同文。ぜいぜい肩で息をしながら、ニゼルはようやっと言いたい事を全て言い終える。直後、少しずつ顔から血の気が引いていった。

(うわ、やばい。言い過ぎた……っていうか、それより疲れたー! よく考えたら、俺、今までこんなに怒った事ってなかった!)

今、喰で反撃をされようものなら――冷静になってようやく、ニゼルは自分がとんでもない事をしでかした事に気付く。
言い過ぎちゃったゴメンね! などという冗談が通じる相手とは思えない。しかし、逃げ出そうにも足が震えて動けなかった。
恐怖からではない、怒鳴り散らした事でとびきり疲労したからだ……ニゼルはこれまでの人生で、ここまで声を張り上げた事がなかったのだ。
なんて情けない、失望もそこそこに、鼓動を落ち着かせるべくニゼルは大きく息を吐く。言葉もない、責められても反論のしようもない。
もごもごと口ごもっていると、じろりと地を這うような視線がノクトから向けられた。無言だ、終始無言。沈黙が、かえって怖い。

「……あー、えー。ちょ、ちょっと待ってね。俺、今、すっごく疲れてるから! こんな怒鳴った事ないから……今攻撃するの、ナシね?」

でへ、と笑いかけてみる。喰天使の目は険しいままだった。やばい、これ絶対やばい……愛想笑いが引きつっていくのが、自分でも分かる。
鳥羽藍夜がこの場にいれば、ノクトの存在などお構いなしに、強制で正座、後に三時間ほどの説教をかまされかねないほどの失態だ。
想像しただけでぞっとした。何せ彼の場合、説教を終えた後であろうとも、思い出す度にチクチク嫌みを飛ばしてくるのだ。実に質が悪い。
しかし、今はそれより命の危機である。牽制するようにノクトを盗み見しながら、ニゼルはどうしたものかと忙しく視線を泳がせた。

「いっそ説教の方がマシだよなー、でも怒られるのはイヤだなー……うわぁダメだ、生きてる未来が見えない!」
「……おい」
「え、な、何か言った? ごめん俺今いっぱいいっぱいで」
「いや、さっきからテメェ、よくもまぁ好き勝手抜かしやがって。舐めてんのか」
「えーと、そんなつもりはないんだけど。ごめんね?」
「嫌みか」

舌打つノクトの顔を、しげしげと見つめてみる。彼は、覇気のない顔を更に歪め、いつしか苦々しい表情を滲ませていた。
苦虫を噛んだような顔ってああいうのをいうんだろうなあ。危機は遠のいてもいないのに、ニゼルはまるで他人事のようにぼんやり思う。
喰天使が怖い、死ぬのは怖い、当然だ。だというのに、不思議と「ノクト」という天使そのものを怖いものと思えなかった。
初めて会ったような気がしないのだ。アンブロシアの義兄であるからだろうか。ニゼルは小さく眉間に力を込める。

(それにしたって、俺も油断し過ぎだよな。疲れたとか言ってる場合じゃ……あれかな、怖すぎたのと怒りすぎたので、感覚麻痺したとか)

嘆息した瞬間。ニゼルは、鼓膜に微かな声が届いた事で顔を上げる。目の前にはノクト、という事は、音の発生源は彼以外にありえない。

「ノクト?」
「……て」
「え?」
「悪夢か、これは……クソ、あいつと……似たような事を言いやがって」
「あいつ? 誰の事?」
「なんでもねぇよ」

ニゼルは、ますます眉間に力を入れる事になった。ノクトが言わんとしている事がまるで分からない。あいつとは誰の事なのだろう。
喰天使の顔は今や、苦痛と後悔に埋め尽くされていた。ぽつりと吐き出された言葉は独白めいていて、真意を探る事は難しい。
彼は、苦しんでいるように見える――ニゼルは殆んど無意識に手を伸ばし、高い位置にあるノクトの頭に、ぽんと手のひらを乗せていた。

「……」
「……」
「……おい、テメェ、ふざけてんのか」
「……え? って、うわ、ごめん!?」

前にも似たような事があった、あの時は藍夜の頭を撫でてしまった筈だ――慌てふためきながら手を離し、ニゼルは勢いのまま後ずさる。
ノクトは嘆息。怒っているというよりは心の底から呆れ果てたという風に、彼の溜め息はわざとらしく、かつ、長く深いものだった。
居心地の悪さを覚え、ニゼルはしどろもどろと二度目の謝罪を口にする。ノクトは気にした様子もなく、軽く頭を振ってみせた。
……やはり、どこか憎めない男だ。夜色と赤紫がぶつかる。瞬きしたニゼルをじっと見て、直後、ノクトは短く嘆息した。

「何? 溜め息ばっかり」
「意味なんてねぇよ。……それより、本題の話をしようじゃねぇか」
「え? 本題? あったの?」
「おい、まさか本当に俺が世間話しに来たとか思ってんじゃねぇだろうな。違う、テメェに話があったんだよ」
「俺に? ノクトが? ……なんの話?」

今から言うから黙って聞け、喰天使は苛立ったように舌打ちする。先に噛みついてきたのそっちじゃん、ニゼルはその言葉を飲み込んだ。

「お前、知りたいか。全てをだ、サラカエルの真の目的や俺の事、それだけじゃない。世界の事、鳥羽藍夜の事、天使ってのが何者なのか」
「え……」
「教えてやるって言ってるんだよ、テメェが知りたいであろう事をな。そうだな、俺と一緒に来るっていうなら、何にでも答えてやるよ。
 見たところ、テメェは好奇心旺盛な人間みてぇだからな……慈悲深い天使様の親切心ってやつだ、大げさな例えだがな、悪意はねぇよ」

何を言われているのか理解するのに、数秒を要した。罠だ、どう考えても、こちらを人質に取らんが為の巧妙な罠だ――ニゼルは頭を振る。

「言ってる、意味が分からないんだけど」
「同じ事は二度は言わねぇよ。いいか、この機会だけだ」

確信した。アンブロシアは、否、恐らく琥珀もまた、この男に捕らわれてしまっているのだと。ニゼルは体が強ばるのを感じて後ずさる。
どう考えても、自分はおかしくなっていたのに違いない。この男は、喰天使という名の得体の知れない空恐ろしい生き物だ。
情報という、今正にニゼルの心をくすぐってばかりいる餌を用い、鳥羽藍夜らから味方を根こそぎ奪おうとしている。とんでもない男だ。
応えてはいけない、ついていくなどもってのほかだ……だというのに、ニゼルは目の前にぶら下げられた餌に喰らいつきたくなっている。
逡巡は短い。ごくりと喉を鳴らした次の瞬間、羊飼いの心中を見越してか、喰天使は低い声で小さく笑った。
夜色の瞳が、手頃な獲物による狩りを嗜む肉食獣のようにニゼルを睥睨する。
その顔に、もはや先ほど感じたような親近感や同情の念などはとても抱けそうになかった。再度唾を飲み込み、ニゼルは声を絞り出す。

「もし俺がここで、イヤだ、って言ったら?」
「別に。俺は何も困りゃしねぇよ。ただ、俺のところにはアクラシエルやアンバーもいる。会いたいって言うなら、今のうちだぞ」
「それ、俺に拒否権ないよね?」
「そうでもねぇよ。よく考えてみろ、答えはもう、決まっている筈だ」

嫌な汗が頬を伝った。小さく歯噛みし、ノクトを正面から睨む。喰天使に堪えた様子はない。代わりに、真剣な眼差しがニゼルに注がれた。

「とはいえ、急な話だ。積もる話もあるだろう」
「……」
「今日、一晩だけ待ってやる。返事は明日だ、明日の朝、迎えに来てやる。テメェ次第だがな」

ニゼルは返事が出来ない。目の前で広げられた大きな白い翼を前に、その場に縫い付けられたように動けずにいた。
鳥羽藍夜を裏切れ、言外に天使はそう言うのだ。抗いようのない極上の餌を垂らして、獲物が自ら皿に寝ころぶのを待っている。

(どうしよう……アンも琥珀も、助けなきゃ。藍夜、俺……どうしたらいい?)

突然の誘惑、そして魅惑的な勧誘。背後から暁橙に声をかけられるまで、ニゼルはただ立ち尽くし続けていた。





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 UP:18/01/14