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楽園のおはなし (1-26) BACK / TOP / NEXT |
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夢から覚め、現実に戻ったところで、問題というものが自動で立ち消えるわけもない。オフィキリナスは壊滅的な被害を受けていた。 藍夜は着慣れた空色のエプロンを着け直し、頭痛の元となる自宅の店舗スペースの前に立つ。まず、見た目からして最悪だった。 外壁は正面玄関の分を含め、応接間、渡り廊下とキッチンの境目までもが、ノクトの喰により食い破られ内部構造を外気に晒している。 床板にも虫食いのような大穴が点在し、土台が一部むき出しになっていた。無数のロードを展示していた棚も、面影一つ残っていない。 伝説上の巨大な魔獣に、正面からがぶりと丸かじりされたかのような有り様だ。改めて藍夜は喰の恐ろしさを目の当たりにする。 散らばった木片や瓦礫を表に運び出し、ハイウメを介して招集していたホワイトセージの委託業者らに概要を説明しながら、彼は嘆息した。 補修作業はもちろん、店として立て直すには時間がかかるように見える。苛立ち混じりに木材の一つを掴み、押し退けるようにして放った。 「うわっ、とぉ……兄ィ、大丈夫? あんまり無理しない方が」 飛んできた木材をかわしながら、暁橙がいつものつなぎ姿で顔を出す。担いだ木材を地面に下ろし、弟はふうっと大きく息を吐いた。 「暁橙。いやね、僕は無理などはしていないよ。ただ、ノクトとやらが腹立だしいだけの話さ」 「あいつなー……今度見かけたら、タダじゃおかないから! 絶対弁償させてやる」 「天使が金を持っているとは、思えないのだがね」 「それでもだよー! やられっぱなしなんて、そんなの悔しいじゃんか。ムカつくんだよ、兄ィの店をめちゃくちゃにしやがってさー!」 軽々と素材を運び入れながらも、暁橙の表情は晴れない。オイラ達の家をなんだと思ってんだ、弟は兄以上に立腹しているように見える。 命あっての物種だからね、釘を差すように言い含めてから、藍夜も木材を繋ぎ合わせ、或いは、業者と手を組みながら補修作業を続けた。 いっその事、もっと頑強に、かつ見た目も綺麗に整え直すのもいいかもしれない……費用がそうない事を棚に上げ、藍夜は顎に手を当てる。 キャンプ、避難所よろしく、奥からはアンブロシアがスープを仕込む匂いがしていた。事前に遠慮は無用と材料費は多めに持たせてある。 食事は士気に関わるからね、一人うんうんと頷き、左官と二人で床素材を練りながら、オフィキリナス店主は片手間に木材の破片を放った。 「やれやれ、目も当てられない状況だね。何か、手伝える事でもあるかい?」 「サラカエル? ……なるほどね、きみは、随分と暇を持てあましている生き物のようだ」 元正面玄関から、サラカエルが顔を覗かせる。左官や業者には、気にしなくていい、そう話をつけ、一度藍夜は重たい腰を上げた。 黒塗りの衣、整った顔に流した夜色の髪。自身とは対照的な、左右で色の異なる瞳。ウリエルからすれば、懐かしい姿の対天使。 (とはいえ、鳥羽藍夜からすれば両親を惨殺した天使と同種族……同朋、か) 突っぱねてやろうか、逡巡する藍夜を置き去りに、意外にもサラカエルは無言で元応接間に足を踏み入れる。 あたりを見渡し、左官から設計図を自然な動きで受け取り、フム、と短い呟き。その表情からは、常の剣呑さは失せていた。 拍子抜けする藍夜に一瞥を投げ、彼は渡り廊下へ足を向ける。扉の枠組みを潜り、サラカエルはそのままキッチンの奥へと姿を消した。 「やれやれ、手伝う気があるのか、ないのか」 「鳥羽さーん。コッチ、このスペース、どうしますー?」 「ああ、すまない、そこは……」 とはいえ、サラカエル一人を気にかけている暇はない。今は、自分は人間なのだ。サラカエルと話をするよりも優先すべきものがある。 暁橙が外壁を触っている間、藍夜は黙々と応接間の復元を進めた。あっという間に時間は過ぎ、気付けば昼を告げる鐘の音が響いている。 藍夜、ことさら明るい声に振り向けば、ニゼルが手提げ袋を三つも持って店の入り口に佇んでいた。その姿に、ようやく昼の訪れを知る。 「ニゼル」 「頑張ってるねー……っていうか、ほんと酷いね! はい、これ、お昼ご飯。母さんが、藍夜達に差し入れして来いって」 よかったら皆で食べて、そう言って包みを袋ごと置いていこうとする親友を、藍夜は慌ててキッチンの奥へと招き入れた。 見れば、既に業者達は外で昼食を堪能している。僕とした事が、己に呆れたように嘆息するも、幼なじみは笑い飛ばしてくれるだけだった。 見慣れた笑顔、いつものやりとり。ウリエルの記憶を有しながらも、鳥羽藍夜として生きようと決めた自分の目にその笑顔は眩しく映る。 良い友人を持ったものだね、思わずしみじみと呟くと、予想した通りにニゼルはジジくさいよ、と明るい顔で笑って見せた。 「……ところで、あれ、サラカエルは何してるの?」 「さてね、さっきからあそこであれこれやっているようなんだが」 暇なんだろうさ、嫌みを放てば、まあまあ、とニゼルは宥める構え。これもいつもの応酬である。腹は減っていたので、有難く袋を解いた。 ニゼル、暁橙ともどもサンドイッチを頬張りながら、藍夜は琥珀、アンブロシアを連れてテーブルの一つを占拠するサラカエルを盗み見る。 姿が見えないと思ったら、どうやらずっと喫茶スペースにいたようだ。涼しげな顔から、彼の真意を探るのは難しい事のように思える。 「何してるんだろ、気になるなー。ねぇ藍夜、見に行ってもいい?」 「ニゼル。……いや、天使の考えなど、僕の知った事ではないさ。放っておきたまえよ」 彼は小さな紙を複数広げ、琥珀、アンブロシアと、ああでもないこうでもない、と問答を繰り広げながら手にした筆を動かしていた。 どこかで見た覚えのある、複雑で繊細な動き。彼らが紙切れに何事かを書き込んでいるのは、誰の目に見ても明らかだ。 天使除けの護符か何かだろうか――肩を竦めてから、藍夜は持っていたシープチーズと生ハムのサンドイッチに勢いよく齧りつく。 どうでもいいよ、暁橙は半ばむすっとした淡白な反応。苦笑するニゼルに釣られて笑いながら、藍夜は彼の手の動きをじっと見つめた。 「ねえ、藍夜」 「むぁんふぁい、ふぃへる」 「ちょっと、食べながら物言わないでよ。あのね、サラカエルの事なんだけど」 「……サラカエルが、どうかしたのかい」 「ううん。この間から、ずっと思ってたんだ。サラカエルって、藍夜に何の用だったんだろう、って」 「僕にかい? ……宝珠が欲しかっただけだと思っていたんだがね、それもうやむやになってしまっていたな、そういえば」 サラカエルから視線を外す。彼の目的など、対天使であるウリエルを捜し求めて――そんなところだろうと、藍夜には予想がついていた。 対天使は互いに惹かれ合う。記憶を取り戻した今となっては、サラカエルの動作一つ一つさえ自然と目で追ってしまうほどなのだ。 サラカエルとて同じだろう。現に、待ち人だったというノクトが立ち去った今も、彼はオフィキリナスに残り続けているのだから。 「兄ィ。宝珠って、えーと、智識女神の宝珠、だっけ? あれってまだ無事なの?」 「いい質問だね、暁橙。いやね、あれは月女神の銀弓ともども僕の手近で管理していたから、ノクトに奪われてはいないんだよ」 「じゃあ、無事なんだ? やりぃ!」 サラカエルの目的はそんなものではないのだろうがね、とは流石に口にしない。あくまで自分の予想に過ぎないからだ。 藍夜は手にしていたサンドイッチの最後の一齧り分を口に放ると、喫茶店の隅に放っていた革袋を持ってきて、卓上にどかりと乗せる。 紐を解き、中からいくつかロードを取り出した。ノクトが強奪したのは店舗の棚で展示販売していたものばかりだ。これは盲点だった筈。 手早く穴に埋め、或いは鋼糸で繋ぎ。文字通りロード同士を合成し、藍夜は出来上がったいくつかをニゼルと暁橙の目の前に押しつける。 「他にも、僅かながら残されたものもあるからね。商売道具にはならなくとも、護身用に組み立てるくらいは出来るだろうさ」 「護身用……どういう事? 藍夜」 「相手は天使だ、用心に越した事はないものだよ。ニゼル、きみには言語を使役出来るようにした杖を預けよう。活用してくれたまえよ」 「えっ、いいの? でも藍夜、これ、瓊々杵さん達の形見でしょ。大切なものなんじゃ」 「君達以上に大切なものなど、今の僕にはないよ」 ニゼルは切なげな表情を浮かべ、暁橙は顔を赤くして俯かせた。藍夜は小さく肩を竦め、二人の手にそれぞれロードを強引に持たせてやる。 暁橙は、受け取った複数の鏡面の輪をすぐさまポーチ、或いはベルトの腰部分に下げ、力強く頷いた。使い方なら既に覚え込んでいる筈だ。 こちらは大丈夫だろう、そう踏んだ藍夜はニゼルに智識女神の宝珠を埋め込んだ、孔雀石をあしらった見事な金の杖の扱い方を教え込む。 知識欲と好奇心の塊であるこの友人が、天使達の甘言に踊らされてしまわないように。自身の目で、真実を見抜く事が出来るように……。 ニゼルは、感心したような、驚いたような、どうにも複雑な顔を浮かべていた。聞けば、ケチな藍夜にしては太っ腹だから、と彼は言う。 「きみね、僕をなんだと思っているんだい。認識を改めた方がいいと思うのだがね」 「あはは、冗談だよ、冗談! ……けどさ、藍夜。こんなの、使わないで済めば、一番いいのにね」 僕のせいで君達を巻き込んでいるのだ、それを口にする事が藍夜には出来なかった。ヒト故の欲なのか、嫌われる事だけは避けたいと願う。 ニゼルは、気付いているのかいないのか、苦笑のような弱々しい微笑みを浮かべてから言語の杖を腰に下げた。 彼の衣服は、アルジル羊の織物と、少量の染料から作られている。金色と濃緑に艶めく杖は、彼の身にはあまり似合っていなかった。 「さて、では本題に戻そうか。どうやって、ノクトからロードを取り戻すかだが――」 「っていうか、兄ィ! それもだけど、弁償もだからね、弁償!」 「――分かったよ、致し方ないね、暁橙。それよりも、まずは奴の居場所を特定してやらなければ」 「……おや、それなら、だいたいの予測がつけられそうだよ」 ふと掛けられる声。 気配はまるでしなかった、驚きと共に振り向いた三人は、複数の紙切れを手にしたサラカエルが、テーブルの横に立っているのに気付く。 あからさまに警戒心を剥き出しにする暁橙を片手で諫め、藍夜はどういう事だい、と鳥羽藍夜らしい怪訝な眼差しを天使に向けた。 「どういう事、もないよ」、サラカエルは首を小さく傾げる。 「ノクトの足取りを追う。あれほど強力な天使だ、魔力の残骸さえ掴めたら追えるよ」 「……信用に足るとはとても思えないのだがね。きみと奴とは、現状、協力し合う関係ではなかったのかい」 「護衛の依頼主、ってだけの話さ。意外だな、心配してくれているのかい?」 サラカエルは平然と言い放った。常と同じ作りの笑みは、やはり余裕に満ちている。 藍夜は喉奥で小さく唸った。確かに、サラカエルの協力があれば、喰天使の足取りを追う事も難しくないだろう。 しかし、万が一それをノクトに気取られてしまったら。それこそ、サラカエルは裏切り者として喰を浴びる羽目に陥るかもしれない。 ……サラカエルは、ウリエルにとってはソウルメイトとも言える対存在だ。出来る事なら、いかなる場合でもその身は無事であって欲しい。 藍夜は嘆息した。心配しているのか、そう問うてくるサラカエルの言葉には、からかいと挑発が混ざっているように受け取る事も出来る。 現に、勢いのまま彼に掴みかかろうとした暁橙はニゼルに手を掴まれ制止されていた。抵抗する弟に一瞥を投げ、藍夜は天使に向き直る。 「追える、と言い切るからには、自信があるのだろうね?」 「ちょっ、兄ィ!」 「やあ、元気がいい弟だね。……ま、やってみなければ分からない、という話でもあるかな。彼とは味方というほど近い存在でもないからね」 言葉通り、自信はあるのだろう。サラカエルが取り出しテーブルに並べたのは、先の何枚かの紙切れだった。どれも濃い桜色をしている。 表面に描かれているのは、やはら文字とも落書きとも取れる謎の文様ばかり。ニゼルが興味津々、暁橙は強張った顔でそれらを覗き込んだ。 短い詠唱が紡がれる。サラカエルがさっと指を振ると、紙切れはまるで意志があるように身を起こし、ひらひらと直立したまま揺れ始めた。 直後、その場でくるんと宙返りして見せる。手品か何かを観ているかのように、ニゼルがぱっと顔を輝かせた。藍夜は小さく咳払いする。 「わあ! サラカエル、それ何っ?」 「……ニゼル、きみね」 「やあ、本来なら僕の管轄の仕事ではないのさ。だから、少し集中が要る」 サラカエルの右瞳が、見る見るうちに蒼色に染まった。無意識に左目を手で覆い、藍夜はちらとニゼル、暁橙を盗み見る。 予想した通り、ニゼルも暁橙も、サラカエルの右目をじっと見つめていた。その間にも、札は忙しなく宙でくるくる回っている。 やがて、縦長に札自身が伸び始めた。さながら紙切れから鋼糸になるように線を細くし、刹那、それらの線が、空中で一点に結ばれる。 まるで、即席のテントか、三角標の骨組みのようだった。天井付近にまで伸びたそれは、天を目指すように一直線に高くへ昇り始めている。 「これ……もしかして、道標?」 「似たようなものかな。あの先に、ノクトの潜伏先はある」 レーザー光線のように、オフィキリナスの遙か上を指し示す糸。手を伸ばせど、それはあの暗闇で見た幻のように指をすり抜けていった。 サラカエルが息を吐くと、彼の右瞳は元の紺青色に戻される。一度道標から目を離していた藍夜は、その移り変わりを思わず注視していた。 (サラカエル。そんなにも僕『ウリエル』の為に尽力しておいて、何故きみは、対天使でもない喰天使などと共にあるのだい) 喉から出そうになった言葉を懸命に飲み込む。藍夜は首を振った。嫉妬しているのか、元から鳥羽藍夜自体も独占欲は強い傾向にあったが。 (いけない。サラカエルやノクトにばかり意識が向いて、ニゼルや暁橙をないがしろにしようとしている) 自分は「鳥羽藍夜」だ、何度目かの忠告を自分に放ち、藍夜は顔を上げる。 見れば先の自分と同じように、ニゼルと暁橙は道標の糸に手を伸ばし、ああでもないこうでもない、と平穏な会話を繰り広げていた。 自然と頬が緩む。微笑ましいものだと内心で独白してから、ふと藍夜は、何の気もなしに、二人から視線を離した。 首を左右に傾げては、肩こりをほぐすような動作を繰り返すサラカエル、その背後。藍夜は、喫茶店の裏口が開放されているのを見つける。 普段アンブロシアに施錠を任せ、休業時には完全に閉ざしている筈の出入り口。今そこは、開け放たれたままの扉が微かな音を立てていた。 周囲は無人。見渡せば、先ほどまであった筈のアンブロシアの姿がない。藍夜は怪訝な顔を浮かべ、テーブルから一時距離を取る。 修理に来た業者の誰かが開けたのだろうか、一瞬そう考えたが、彼らには外壁と応接間以外には触れなくてもいいと事前に頼んであった。 ましてや、今さっきまであの扉は閉じてあった筈だ――通常、めったに働かない筈の藍夜の警戒感が脳内で警鐘を鳴らし始める。 不用心だ、そう思うより先に、たちまち嫌な予感が浮かんだ。扉の前に立つ藍夜の異変に気付いたニゼルが、すぐ隣に小走りで寄ってくる。 「藍夜? 何、どうしたの」 「ニゼル。いやね、アンブロシアの姿が……」 風が吹き込んだ。ゆるりと彼らに振り向いたサラカエルが、大きく首を傾げる。あれシアは? そう発した暁橙の声が、酷く曖昧に溶けた。 初めから、そこに何者もいなかったかのように、あたりは風がそよぐ音だけを鳴らしている。 ふと、ニゼルがその場で屈んだ。これ、そう困惑気味に渡されたものを見て、藍夜の眉間に皺が寄る。青紫の美しい、トリ型の羽根が一枚。 どう見ても、アンブロシアの持つ翼のうちのひとかけらだった。 「え? シア、どこ行っちゃったんだろ。まさか買い物?」 「暁橙。それならそれで、一言言ってからにする筈だよ。アンブロシアはそういう娘だ」 作業が再開されたのか、業者がオフィキリナス店主らを呼ぶ声が響く。 拾った羽根をちらつかせるように根本を摘まみ、藍夜は眉間に力を込めたまま、ニゼルと顔を見合わせた。 ニゼルも困惑しきった表情を浮かべている。嫌な予感、不穏な予想、懸念……今の自分の考えは、彼のそれと一致しているような気がした。 一瞬、目の離した隙に。藍夜は深く嘆息する――その後、アンブロシアの姿はオフィキリナスのどこにもなかった。 「……姉さんがどこにいるのか。あなたは、知っているんですか」 鳥羽藍夜らが、アンブロシアの不在に気が付く数分前。天使アンブロシアの姿は、オフィキリナスよりやや離れた森の中にあった。 サラカエルが探索の天使に術を繋ぎ、喰天使の在処を見つけ出す直前。窓からちらと姿を見せたそれを追い、彼女は丘を下ったのである。 何故こんなところに、そういった疑問は、それがこちらに振り向いた瞬間に理解する事が出来た。常の仏頂面がより歪んでいたからだ。 呼び出された、或いは、おびき出された――無意識に胸の前で手を強く結び、それでもアンブロシアは眼前の男をまっすぐに見つめる。 顔を逸らしてはいけない、否、逸らしてしまった瞬間に、最愛の姉の行方は隠蔽されてしまう……そんな予感が、彼女にはあった。 「あぁ、教えてやってもいいぜ。昔のよしみだ、なぁ、アクラシエル」 白金色の長い髪、夜色の瞳。娘を睥睨する喰天使は、凶悪な笑みに表情を歪めて見せる。一瞬、アンブロシアは本来の名を呼ばれ身構えた。 経験上、ノクトが相手の真名を口にする時は、ろくでもない事案が持ち上がっている事が多いと知っている為だ。こくりと喉を鳴らす。 「そう固くなるなよ」、ノクトはにやりと笑った。 「お前が今、どこに厄介になっていて、どう開き直っているか。俺にゃ、そんなもんは関係ない。話がしたい、そう言っただろ」 「……開き直ってるなんて、そんな、わたしは姉さんを探して……」 「喰」が駆け抜けた。真横を通り抜けていったそれは、周囲の木々を冥く焼きながら掻き消える。 牽制、警告。アンブロシアは恐怖のあまり一歩下がっていた。草が鳴る。喰の恐ろしさは知っていた、故に顔が青ざめるのを止められない。 その時だ。竦んだアンブロシアの背後に、不意に新たな気配が降った。こんな時に何者が、慌てて振り向くと、見知った姿が目に入る。 「ちょっと、お前〜。シアに、何すんの!」 「こっ、琥珀くん!?」 金色の上半身、漆黒の下半身姿の鷲獅子、琥珀だ。姿勢を低くし、双方を睨んでいた。いつからいたのか、面食らうのはほんの一瞬。 まだ病み上がりの筈だ、アンブロシアは、咄嗟にこの騎獣を庇うようにして立ち塞がっていた。 「アンバーか。懲りねぇ奴だな、頭ケダモノかよ」 「うっさぁーい! ぼくをその名前で呼んでいいのは、この世界にたったひとり、『めがみさま』だけなんだからねぇ!」 「琥珀く……女神様って。まさか、記憶が?」 琥珀は、アンブロシアを見上げると同時にくちばしを一度がちりと鳴らして、さながら、ノクトがしてみせたようににやりと笑う。 ノクト、アンブロシア、琥珀――真名、アンバー。それぞれが、ヘラの屋敷に世話になっていた顔ぶれであった。互いの気質も熟知している。 きっかけは不明だが、当時のアンバーの記憶は取り戻された……琥珀の反応からして、それは間違いないようだった。 アンブロシアは、泣きたくなる衝動を必死に飲み込む。姉の事はもちろん、屋敷にいた面々は、皆、自分にとても良くしてくれていた。 誰であれ、大切な人々だ。アンバーの記憶が戻った事は、地上で彼女に再会した時に感じた不安が一つ解消されたという意味でもある。 (よかった……ヘラ様。アンバーくんは、あなた様の事を忘れてなんか、いませんでした) 問い詰めたい事は山ほどあった。しかし、今はそんな事をしている場合ではない。 見ると、琥珀の首には金色の首輪がはめられている。なんでしょうこれ、ふと意識が逸れかけるアンブロシアだが、微かな音に顔を上げた。 琥珀もまた姿勢を低くしたまま、釣られるようにして前を見る。先の物音は、ノクトがわざとらしい舌打ちを放った音だった。 「仲良しで宜しいこったな。おい、邪魔しようってなら、容赦しねぇぞ」 「ノクトさん、アン……いいえ、琥珀くんは関係ない筈です! 姉さんの問題は、わたしがっ」 「あれ〜、シア。それはムリな相談ってヤツだよ。ぼく、さっき、サラカエルに喰天使に警戒しろーって言われたばっかだもん!」 目眩がするとはこの事だ、アンブロシアは思わずその場でよろめく。 (サラカエルさん……何を考えてっ、アンバーくんは、サラカエルさんに傷つけられたのが癒えたばかりなのに!?) 天使を挟み、睨み合う一人と一匹。アンブロシアは、思わずどちらの顔も見比べてしまっていた。逡巡に足が止まる。 ノクトはもちろん、琥珀にもこれ以上の怪我など負って欲しくない。エゴだと分かってはいても、それだけは本心だった。 「そうかよ、俺を警戒、か。……ケダモノ如きが、随分と偉そうに育ったじゃねぇか」 「そのケダモノ相手にムキになろーとしてるヤツが、ズイブンとエラソウにすんなよって感じぃ〜!」 「ちょ、ちょっと、琥珀くん、ノクトさん……」 これは口喧嘩なのか、それとも。アンブロシアは困惑したが、どちらも構えを解かない時点で、本気である事は素人の自分でもよく分かる。 間に挟まるように再度立ち、彼女は大きく息を吸った。琥珀の意欲やサラカエルの配慮は、当然ありがたい、享受するべきものだと思う。 それだけではない、自身を匿ってくれている藍夜や暁橙、ニゼルもまた新たな心の支えだ。言うまでもなく感謝している。しかし―― 「ノクトさん。わたしは、姉さんがどうしているのか、いいえ、『どうなってしまった』のか。それは、どうしても、知りたいんです」 ――対天使である姉アンジェリカへの好意は、手放す事などありえない。言ってしまった後で、アンブロシアはそろりとノクトを盗み見た。 喰は来ない、なんという事もなかったか。胸を撫で下ろし、前を向く。直後、アンブロシアは琥珀ともども、体を強張らせる事態に陥った。 「……言ったな?」 話たれる言葉は、悪意そのもの、脅威、猛毒の響き。ノクトは、またしても凶悪に笑い……否、かつての仲間を嘲笑い、哄笑さえして見せる。 アンブロシアは刹那のうちに後悔した。目の前の男は、かつての見知っていた優しい姉の婚約者ではない。 その証拠に、羽ばたきで高速接近した男の足がグリフォンの頭を横から蹴り飛ばしていた。あまりに速い突然の事に、全身が凍りつく。 「言ったからには、責任持てよ。なぁ、アクラシエル。俺と来て貰うぞ」 有無を言わせぬ声色。アンブロシアは、気絶し、倒れ伏せた琥珀に駆け寄る事も出来ない。 伸ばされた手は、きつく握っていた彼女の手を取り強引に握り締めた。始めからこうするつもりだったのか、そう問う事もままならない。 藍夜、ニゼル、暁橙の顔が脳裏を過ぎる。オフィキリナスを出てくるべきではなかった、琥珀を見ながらアンブロシアは歯噛みした。 |
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