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楽園のおはなし (1-23)

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真っ暗だ、何も見えない……携帯ランプの灯で周囲を照らしながら、ニゼルはレテの遺跡の奥へ進んでいた。足元で小石が小さく跳ねる。
街で手を入れていたのか、洞窟の入り口には燭台が置かれ、その場をほのかに照らしていたものの、それより奥、深い穴の先は暗闇だった。
幼い頃の記憶を呼び起こす。そう、正しく闇一色のこの長い洞窟の奥へ、自分はハイウメ達に煽られるまま、潜っていったのだ。
「鳥羽藍夜がいなきゃ何も出来ないのか、弱虫」。思えば、取るに足りない煽り文句だったと思う。知らずニゼルは苦笑していた。

(なんで、あんなのでムキになっちゃったんだろうなー。ハイウメの奴、人をからかう事しか出来ないのかな)

一度立ち止まり、呼吸を整える。洞窟内部は緩やかな傾斜がついていて、更に地面は石ころだらけ。全力で駆け下りるのは困難に近しい。
坂は永遠に続くかと錯覚するほど、長い。大人一人が通るには十分すぎる幅、高さがあり、通過するのに苦労しない事だけが救いだった。
小石の粒が細かくなっていく。足を滑らせそうになり、ニゼルは慌てて手をばたつかせた。だが、掴まる事が出来るようなものは何もない。
結局、靴底がずりずりと滑るがままに、緩やかな下り坂を降りる事になる。尻を着く事だけは防いだが、辺りは相変わらず視界が悪かった。

「? 水の音だ」

いつしか、平らな場所に出る。眼前の暗がりから、さらさらと、心地いい音が絶え間なく響いていた。砂利を踏み鳴らし、前に進む。
刹那、ばしゃん、と靴が水音を立てた。ランプで足元を照らしてみると、思った通り、あの日見つけたままの清流が悠々と横たわっている。
魚一匹の姿さえ見えない、文字通りの清流。暗闇の中に流れるそれは、周囲の暗さを一身に受け、水面を漆黒に輝かせていた。

「……あ、そうだ。早く汲まないと」

手を浸す事さえ、遠慮してしまいそうになる。頭を振り、ニゼルは急いで鞄からガラス瓶を取り出すと、清流の水をたっぷりと汲み上げた。
蓋をして鞄に押し込み、顔を上げる。急がなければ、ずしりと重くなった鞄を肩に掛け直し、その場から取って返そうとした。

「! うっ、」

立ち止まる、足が止まる。目の前に、巨大な黒い影が立ち塞がっていた。そうだ、この場所には、出来る事ならもう立ち寄りたくなかったのだ。

「あー……えーっと……」

今、ニゼルの目の前には、過去に一度遭遇したきりの恐怖の象徴が、確かな存在感と荒い呼吸と共に佇んでいる。
黒塗りの体毛、ぎらぎら光る黒紅の眼。足が竦む、逃げ出したい――そう強く思わせるのは、それが巨大な、三つ首の魔獣だからだ。
藍夜の持つ本の中で、見た事がある。三つの頭を有する、巨体のイヌ、ケルベロス。それが今、レテ川のほとりでニゼルを睥睨していた。

「っ、ごめんね! 今日は『何も持ってない』んだ!」

過去、同じように彼と出会った時。ニゼルは本当にたまたま、偶然のたまもので逃げおおせている。
あの時はポーチに甘い焼き菓子が入っていて、驚き転んだ際に飛び出したそれに彼が夢中になり、その隙に逃亡を実行出来たのだった。
体が大きいから、お腹減っちゃうんだろうなー……じりじりと後退りしながら、ニゼルはへらりと彼に笑いかける。
彼が人間の言葉を理解してくれるとは思えなかった。しかし、元より動物は好きだし、どうしても甘い期待を抱いてしまう。

「ギャウウッ!!」
「うわーっ! ちょっ、ちょっと!」

予想は悪い方へ転んだ。鼓膜を破るばかりの大声で吠えたケルベロスが、大口を開け、牙を剥き、ニゼルに噛みつこうとする。
たまらず走るが、何より足場が悪い。砂利に足を取られ、ニゼルは派手に転んだ。振り返ると、魔獣は駆け足でこちらにせまっている。

(駄目だ、やばい、どうしよう、藍夜に……藍夜に水、飲ませないと……行かなきゃいけないのに!)

噛まれる、殺される! 思わず目を瞑り、両腕で頭を庇い、激痛を伴うだろう瞬間に備えた。
刹那、一陣の風が吹き抜ける。全身を舐め回すように駆ける風は、鳥肌が立つくらいにひやりとして、冷たかった。

「……? 痛く、な、」

雪こそ孕んでいないが、冷たい風は背筋を震わせるのに十分すぎる。冷や汗が冷えるのにも構わず、ニゼルはそっと目を開け、顔を上げた。
……女がいた。ニゼルとケルベロスの間に、黒い外套で全身を覆った、いやに色の白い女が立っている。
それが女だと分かったのは、外套につけられたフードの下から見える面立ちや手指の細さ、肩幅などで見て取れたというだけの話だ。
物言わずケルベロスに向き直り、女はマントの下からそろりとむき出しの腕を伸ばし、彼を宥めるように鼻の筋を撫でてやる。
唸り声は続いていたが、それだけでも十分に魔獣は落ち着いてきたらしく、荒かった息づかいは次第になりを潜めていった。

「腕……穴……?」

ニゼルは、逃げる事も忘れ、じいと目を凝らしてしまう。女の腕は、所々がまるで夜盗虫に肉を食われたように穴が開き、黒ずんでいた。
その様は不気味でおどろおどろしく、黒塗りの外套や、漂う冷気も相まって、女の存在そのものがひどく恐ろしいものに思えてくる。
ごくりと喉を鳴らした――藍夜がいたら「いいから早く逃げたまえ」って怒られそうだなあ――ぼんやりとそんな事を考える。
ケルベロスの興奮が収まってきた頃には、ニゼルは立ち上がる事が出来ていた。女が一度ぽんと鼻に触れると、魔獣はその場に座り込む。
驚いた事に、彼女は冥府の番犬を手懐ける技量を持っているらしかった。ケルベロスは警戒は解かずにいたが、大人しく待機を続けている。
怖くもあるが、その光景に好奇心がくすぐられてしまい、ニゼルは逃げ出せずにいた。助けて貰った礼もしていない。
女がゆるりと振り向く。フードの下、僅かに覗く顔面には、やはり虫食いの痕が点在していた。その奥に、綺麗な空色の髪が見え隠れする。
ニゼルのそれとは異なり、癖のないまっすぐな髪――空色の髪ってどこかで聞いたような――ニゼルは頬を小さく掻いて、女に向き直った。

「あのさ、助けてくれて、ありがとう。それ、ケルベロスだよね? 冥府の門の番人っていう」

女は無言のままでいる。たじろぎ、それでもニゼルは言葉を続けた。黒いフード越しに、睨まれているような感覚を覚える。

「俺も、家で牧羊犬二匹飼ってるんだー。そいつとは、全然大きさ違うけどね。それにしても君、凄いね! よく大人しくさせられたね」
『……』
「え? なに? 何か言った?」

にわかに、風が弱まったような気がした。目を凝らすと、女の薄い唇が微かに動き、ごく僅かな声色が漏れ出ているように見える。

『彼を、助けて』

刹那、周囲の温度が更に下がった気がして、ニゼルは体を震わせた。か細い声が鼓膜を揺らし、女の言葉の真意をうやむやにしようとする。
フードに隠れて見えないが、女の視線は、ニゼルの体越しに、遠く別の場所を見つめているように思えた。

「彼? ねえ、彼って、誰の事?」
『お願い……彼を……』
「待って、よく聞こえないよ。彼って誰の事? 藍夜? 暁橙? まさか、サラカエル?」

女が首を振る。同時に、大人しくしていた筈のケルベロスの呼気が荒くなり始めた。ニゼルも女もはっとして、冥府の番犬を見る。
すかさず女が手を伸ばし、抑えるように、宥めるように、魔獣の頭の一つに抱きついた。それを振り払う勢いで、ケルベロスの咆哮が轟く。
「行って」、言外に、女からそう叫ばれたような気がした。
我に返るや否や、ニゼルは鞄を抱えてぱっと駆け出す。砂利に濡れた靴が持っていかれそうになるのを踏ん張り、来た道をひたすら登った。
魔獣は、女は、追ってこない。ほの明るい光が頭上に見え、荒い息を吐きながら、ニゼルは遺跡の入り口付近、開けた場所へと踊り出る。

「はあ、はあ……なんだったんだろう」

一気に駆け上っただけあって、息が苦しい。膝に手を乗せ、呼吸と鼓動とが落ち着くのを待った。あんなに寒かったのに、汗が止まらない。
あのひと、どうなったんだろう……振り返れど、背後には暗い穴が大口を開くばかりで、その先には一筋の光さえ見出す事が出来ない。
恐らく、彼女はケルベロスから助けてくれたのだろう。理由はまるで分からないが、お陰で水を汲む事は出来た。
頭を振る。彼女の事は気にはなったが、それよりも今の自分には果たさなければならない事があった。

(そうだ。藍夜に、届けてあげなくちゃ)

また会う機会があったら……鞄を抱きしめ、ニゼルは一歩を踏み出す。ここを出たらあとはオフィキリナスに続く丘を目指すだけ、簡単だ――

「! だ、誰? なに……?」

――そのときだった。顔を上げた先、レテの遺跡出入り口に、複数の人影が並んでいる。どれもこれもが頭からすっぽりと布を被っていた。
目の部分には辛うじて穴が開いている。というのも、彼らは長い布を被るだけでなく、頭部には道化師が好むような型の仮面をつけていた。
顔や容姿を探る事は難しい。背丈からするに、子供や老人ではなさそうだが、道を塞がれる理由に思い当たる節はない。ニゼルは困惑する。
見るからに怪しい……それと同時に、ニゼルは何故か、いつかの秋に藍夜らと楽しんだハロウィンという名の仮装ごっこを思い出していた。
白いカーテンやシーツを頭から被り、秋の終わりに現れるという、異国のオバケなるものに変装する行事。あれはなかなかに楽しかった。

「ニゼル=アルジルだな」
「え? あー、うん、そうだけど」

回想の合間故に、反応は一瞬遅れる。どこか間抜けな声で返事をしてから、ニゼルはしまった、と苦いものを噛んだような心地になった。
相手が何者であるのか分からない以上、下手に反応しない方がよかったかもしれない。向こうは複数人、更に出口は塞がれてしまっている。
かといって引き返すのは……ちら、と背後に広がる暗闇に視線だけ投げ、ニゼルはそっと手を伸ばし、鞄を隠すように後ろへ回した。
液体が瓶に踊る、小さな音が耳に届く。何故か、水を汲んだ事も、鞄にそれが収められている事も、知られてはいけないような気がした。

「えーと……君たち、誰? あのさ、俺、そこ通りたいんだけど」
「残念だがそれは出来ない相談だ」
「我々は、貴様に用があるのでな」
「俺に? なんで?」

聞き返してから、やはりニゼルは顔をしかめる。立ち塞がれている時点で予想していたが、どうにも彼らは自分に用事があるらしい。
早く行かなきゃいけないのに、初めてニゼルは内心で焦りを覚えた。嫌な予感がする。嫌な事に、こういった時の勘ほどよく当たるものだ。
君の勘は当たるからね――ふと、鳥羽藍夜が常々、羨望も込めた眼差しで口にしている言葉を思い出す。
こんな時に当たっても全然嬉しくないよ、脳内に浮かんだ親友の背中に、ニゼルは音には出さないまま大声で言い返していた。

「貴様がそれを、知る必要はない」

我に返る。影のうち一つが近寄り、手を伸ばしてきていた。後退りしようとして、ニゼルは背後にも別の者が複数、回り込んだのに気づく。
囲まれた、気付いた頃には目の前に手袋が迫っていた。伸ばされた手は、男のものにしては細い。
仮面の穴越しに、不気味な目がこちらを見ている。眼前にそれが迫り、ニゼルは無駄だと分かっていながらも、どこかへ逃げ出そうとした。

「む!? な、バカな、ぐあああーっ!!」
「え、うわっ!?」

そのときだ。突如、眩い光が視界を純白に染め上げる。
目の前の男も、背後にいた影までも、全てが一気に閃光に飲み込まれ、跡形もなくその姿をかき消していった。
辛うじて薄目でそれを視認したニゼルは、ゆっくりと体勢を整えながら、ふと、オフィキリナスでサラカエルに言われた言葉を思い出す。
「厄介な天使除け」。慌てて胸元に手を伸ばすと、サラカエルから預かった月型の銀細工が、ちりちりと火花のような光を散らしていた。
表面はほの白く明滅し、まさにこの瞬間、天使除けとして効果を発揮している事を示している。

(ちょっと待って……って事は、こいつらって)

不意に、ニゼルの耳に大きな高笑いが響いた。驚きペンダントから目を離すと、遺跡の入り口に未だ、天使が一人残っているのが見える。

「いや、驚いた。天使除けのまじないか……そのモチーフ、さてはサラカエルの仕業か。面白い事をしてくれる」

輪の国で好まれるような、固い布を重ねて織られた白い服。鳥羽藍夜の父が、寝間着として使っていたものによく似ていた。
ひとしきり笑った後、その男は、自分以外の天使が皆サラカエルの護符に焼かれてしまった事にも触れず、静かな歩みで近づいてくる。
こいつは、さっきの連中とは違う……無意識に、ニゼルは後退していた。彼が退がる度に、白装束の男は、同じ速度と歩調で距離を詰めてくる。
思わず麻紐を掴み、ペンダントを突き出していた。それ以上近寄ればこれの餌食だ、そう叫びかけて、しかしニゼルは言葉を失う。

「高位天使の作った護符が……フフッ、同じ、高位天使に通用すると思ったか。面白い冗談だ」
「……!」
「おお怖い、命だけは! ……そう言うとでも思ったか。笑えないぞ、人間風情。私と同等になろうなど、身の程知らずにもほどがある!」

口を手で塞がれ、直後、もう片方の手で銀細工を鷲掴みにされていた。しゅうしゅうと、白い煙が指の隙間から漏れ出している。
男は一瞥を投げはするも、関心はやはりニゼルに向いていた。血の気を失せた顔を間近で覗き込み、凶悪な笑みを浮かべ、せせら笑う。
男は、仮面など着けていなかった。しかし、まだ仮面を被っていてくれた方がよかった、ニゼルはがくがくと震えながらそう思う。
端正な顔が愉悦に歪んだ。肉と皮の焦げる強烈な臭いが溢れ、恐怖と吐き気を誘導し、ニゼルに強い絶望を与える。
殺戮行為を平然とした顔でこなすサラカエルなど、非ではない。鳥羽家の両親を屠った天使たちでさえ、まだ可愛いとすら思えた。
男は、嗜虐心に満ちている。自身の手が焼けただれる事も厭わず、ただひたすら、標的と定めた獲物の表情を舐め回すように観察していた。

「さて……君に罪はないが、私にも都合というものがある。なあに、すぐに済む話だとも」

実験動物を見下す、学者の目だ。何をされるのか分からない。否、考える事すら恐ろしい。
助けて、助けて藍夜! ……いっそ、なりふり構わず、そう叫んでしまえていたらましだったのかもしれない。
男の目が楽しげに細まる。いっそう強い力で口を塞がれ、ニゼルは苦しげに呻いた。肉の焼け焦げる臭いに、次第に気が遠くなる。

「フフッ。痛くはしないから、安心したまえ――」

男の口が、流暢に、聞いた事もない響きをささやく。途端、瞼が重くなり、ニゼルは膝を地面に着いた。意識が混濁するままに、倒れ込む。
催眠術か、まじないの類か。意識はあっという間に暗闇へと引きずり込まれ、抗う事など出来ない。ニゼルはいよいよ、目を閉じる。
昏睡する羊飼いの青年を、男は細めた双眸でじっと見下ろすばかりでいた。次第に、その場に複数の足音と気配が押し寄せる。

「――連れていけ。くれぐれも手荒なまねはするなよ、貴重な被験体だ」

担架に乗せられ、天使たちの転移術により連れ去られてもなお。ニゼルの首に下がる三日月の銀細工は、淡い白銀の明滅を繰り返していた。





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 UP:17/10/22