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楽園のおはなし (1-22) BACK / TOP / NEXT |
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その日は珍しく、一日中雨だった。 窓から空を見上げて、ニゼルは小さく嘆息する。朝一に、父母からはオフィキリナスに居残る事の許可を貰う事が出来ていた。 正直、助かったと安堵している。視線を背後に投げれば、昏々と眠り続ける鳥羽藍夜、その横で顔を伏せて寝落ちている暁橙の姿が見えた。 部屋の隅では、琥珀がシーツを重ねただけの寝床で寝息を立てている。体の至るところに火傷痕、それを保護する包帯が巻かれていた。 ……昨夜の強襲の折、一瞬の隙をついて襲いかかったところ、サラカエルから雷神の雷霆の反撃を受けたのだという。 直後たまらず原型に戻ってしまったらしく、今は彼女は鷲獅子の姿になっていた。また変化出来るのだろうか、ニゼルは眉根を寄せる。 殺戮の天使曰く、自己防衛の為に放った故に本気ではなかったという話だったが、どこまでが本当なのか、ニゼルには判断がつかなかった。 「ニゼルさん」 声をかけられる。窓から視線を外して、ニゼルは盆を手に屋根裏部屋に入室するアンブロシアに、頷き返した。 「あの、夕食をお持ちしました、暁橙さんの分も。何か食べないと……」 「アン、俺は大丈夫だよ。それより、琥珀は?」 「まだ、目が覚めないみたいです。雷霆の一撃が、相当効いたみたいですから」 「琥珀、用心棒とはいえ無理はしないでくれたまえよ、って、藍夜からいっつも言われてたみたいなんだけどねー」 無理やり苦笑してみたものの、アンブロシアの表情は晴れない。言葉に詰まり、ニゼルはひとまず暁橙を揺さぶり起こす事にする。 とはいえ、昨夜からずっと泣いていたのがようやく眠ったところだ。疲れているだろうから、当分は起こさない方がいいのかもしれない。 こんなとき、どうしたらいいのか分からない。暁橙の肩から手を離し、ニゼルは何度目かの嘆息を吐いた。 藍夜のようにロードを使う、アンブロシアのように直接回復魔法をかける、そういった人間離れした芸当など、自分に出来るはずもない。 (そもそも、ロードだって) オフィキリナスに保管されていた高位ロードは、その殆んどが奪われてしまった。目覚めたら、藍夜はまずとびきり怒るのかもしれない。 ノクトと呼ばれた男。アンブロシアの姉の、元婚約者……元、という事は、今は違うのだろうか。 たどたどしい動作で茶を淹れるアンブロシアに、ニゼルは視線を投げる。ふと顔を上げた彼女と、目が合った。 「あのさ、アン」 「はい」 心なしか、アンブロシアの声は震えている。これから問う事が、彼女にとって酷な話であるのをニゼルは自覚していた。 それでも、親友の気持ちを思えば目を逸らしていられない事も分かっている。差し出された紅茶を一口啜り、ニゼルは口を開いた。 サラカエルの淹れたお茶の方が美味しい、流石にその一言は胸中に留めておく。 「さっきの、ノクトってやつ。知り合いなんだよね? なんで、藍夜の店を襲ったんだろう」 「……あの、それは」 「誤解しないでよ? アンの事、責めてるわけじゃないからさ」 「はい。それは、分かっています」 アンブロシアはにこりと笑った。その笑顔が痛々しく見えて、ニゼルは二の句を迷う。先に口を開いたのは、アンブロシアの方だった。 「ノクトさんは、確かに姉さんの……アンジェリカの婚約者でした。式を挙げる間近に、あのラグナロクが起きたんです」 「アンは、はぐれちゃったんだ、よね? そのとき」 「はい……姉さん、ラグナロクの直前、少し様子がおかしくて。上の空というか……ノクトさんは、何か知っていたかもしれないんですけど」 「様子が、おかしかった……」 「ノクトさんは、もしかしたら……姉さんの事を、わたしに話しに来たのかもしれません。これも、もう憶測でしかないですけど」 今はあくまで想像上でしか話せない。アンブロシアは言外にそう告げ、目を伏せる。 事実、ラグナロク当時、姉とノクトと共にいなかったのなら、アンブロシアが何も知らなくともおかしくない。ニゼルは小さく唸った。 その時、ふと部屋の扉が叩かれる。こちらの返事を待たずに入ってきたのは、丸い金属製の缶と未使用の包帯を抱えた、サラカエルだった。 「やあ。邪魔するよ、アクラシエル、ニゼル」 「サラカエルさん」 「サラカエル! ノクトと帰ったんじゃ、なかったの?」 サラカエルは首を傾げた。その足は部屋の隅へと向かい、琥珀の前にたどり着く。おもむろに屈むと、獣の火傷痕を観察し始めた。 取って食いやしないよ、彼なりの冗談をニゼルもアンブロシアも笑う事が出来ない。サラカエルは、首を巡らせ、視線だけでこちらを見る。 「君達の推測通り、ノクトは僕の待ち人さ。ちょっとした頼まれ事をしていてね、だいぶん待たされてしまったけど」 アンブロシアが事前に巻いていた包帯が、解かれていった。缶を開け、中から軟膏を手に適量取り出し、傷口に塗り込んでいく。 アンブロシア曰く、火傷や裂傷といった跡が残りそうな大怪我は、祈りを多用せず、徐々に時間をかけて治させた方がいいという話だった。 その方が対象の抵抗力や魔法に対する耐性値を、適正に維持する事が出来るのだという。 しかし、ニゼルとしては、治せるなら早く治してやって欲しいというのが本音だった。起きた後で痛がる琥珀の姿は、あまり見たくはない。 サラカエルが持ち込んだ軟膏は、そういった天使側の事情を汲んでのものだろう。軟膏というよりはジェル状で、広げやすい品物だった。 痛むのか、目は覚まさないものの琥珀は小さく肩を跳ねさせる。独特の匂いが部屋に満ち、薬草の類かな、とニゼルは鼻をひくつかせた。 「やあ、彼とセット扱いするのは止して欲しいな。僕は彼ほど口が悪い部類じゃないし、これでも君達に迷惑をかけた自覚はある方さ」 「……それ、材料、何? 薬? ハーブ?」 見れば分かるだろ、そう言う代わりにサラカエルは琥珀に向き直ったまま、首を傾げる。 「調合したてだから臭うな。この辺にはろくな薬草園もないんだから、全く、人間の堕落ぶりには驚くよ」 「調合? サラカエルが作ったの? 買ってきたんじゃなくて?」 「ま、そうかな。けれどね、ニゼル=アルジル。本当なら、僕より鳥羽藍夜の方が調合術は得意だと思うよ……勘、だけどね」 「え? 藍夜って薬の調合出来るの?」 そんなの知らなかった、そう呟くニゼルにサラカエルは応えない。アンブロシアは、何か言いたげな、躊躇いがちな、複雑な顔をしていた。 「大昔、『彼』は香水なんかも自作していたのさ。大昔、だけどね。今は、どうだか」 ニゼルは言葉を切る。サラカエルの言葉には、自虐的な響きが含まれていた。それが何を意味するのか、自分には想像もつかない。 琥珀の手当てを続けながらも、彼の目はどこか、別の場所を眺めているようにも見える。横顔が寂しげで、声をかける事は憚られた。 初対面の折、サラカエルが親友に対し本気を出していなかった事を思い出す。そう、むしろ、今の会話で確信に変わったといってもいい。 サラカエルと鳥羽藍夜の間には、何かある……だが、何が? 胸中がざわめき、ニゼルはいても立ってもいられず、琥珀の元に駆け寄った。 サラカエルに見られている自覚がある。鼓動の速さを悟られないように、ニゼルは琥珀の頭を撫でながら、無理やり口角を吊り上げた。 「ふーん。じゃ、今度藍夜に、香水調合して貰おうかな。俺男だから、使い道ないけどさ」 「性別問わず、香水を好む層は一定数いると思うけどね」 意外にも、サラカエルから言葉が返ってくる。驚きも半分に、ニゼルは横から、まじまじと端正な顔を見つめた。 なんだい、別に、互いのやりとりは短い。双方、何の気もなしに琥珀に目を向ける。現状などお構いなしに、魔獣は眠り続けていた。 「ニゼルさん!」 「アン?」 軽食を取り分けていたアンブロシアが、はっと息を呑み、声をかけてくる。 その緊迫した声にニゼルが振り返ると、寝具の上の親友が、苦しげに唸っている様子が見えた。慌てて駆け寄る。 名を呼べど、彼は目を開かず、ただ悪夢にうなされるように身を捩らせていた。額に触れる。一度は下がったはずの熱が、ぶり返していた。 「やあ、これはまずいな」 「サラカエル! 藍夜は……」 「『喰』、ああ、ノクトの使った炎だけどね、それの後遺症さ。彼の命と喰が体内で争っているんだよ。このままだと危ないかもしれない」 「そんな……藍夜、死んじゃうの? 俺、そんなの嫌だよ!」 「ニゼルさん……サラカエルさん、なんとかなりませんか。こんなの、あんまりですっ」 アンブロシアは、早くも涙目になっている。二人に詰められ、サラカエルはまいったな、とぼやいた。その顔には、いつもの余裕がない。 本当に危ないんだ――ニゼルは、自分の顔からさっと血の気が引いていくのを感じた。 藍夜が死んだらどうしよう、悪い考えばかりが脳裏を過ぎる。足に力が入らない。ふらついたところで、片腕を引かれ強引に立たされた。 落ち着け、と言わんばかりにサラカエルが手のひらを突きつけてくる。ぐっと詰まったニゼルの横を抜け、殺戮の天使は藍夜の顔を覗いた。 「確実とは言えないけど……以前、僕に医学を教えた師から聞きかじった手法がある。それくらいしか、僕にも手だてがないよ」 「あるの!? 藍夜が助かる方法!」 「やあ、少しは静かにしなよ。彼も彼の弟も起こしてしまうじゃないか……そうだな。君、『レテの遺跡』の在処を、まだ覚えているかい」 レテの遺跡。どこかで聞いた事があるような、一瞬考え込むニゼルだが、ふと、光明が差すように脳内にある風景が思い浮かぶ。 「覚えてる、覚えてるよ。ハイウメ達にいじめられた時、入っちゃった洞窟だ」 「それはよかった。あの遺跡に流れている川の水にはね、特別な力があるんだよ。今の鳥羽藍夜に飲ませれば、存命に繋がるかもしれない」 レテの遺跡。鳥羽藍夜を、化け物と呼ばれる体に変貌させた水が満ちる洞窟。幼い頃、暗闇を必死に駆けて、逃げ出した記憶が蘇った。 その洞窟の底には、レテの川以外にも、恐ろしいものが棲んでいる……藍夜に話した事はなかったが、その時の恐怖は今でも忘れた事がない。 それでも、ニゼルに迷うという選択はなかった。藍夜を救う事が出来る、彼や暁橙、琥珀に比べて無力な自分でも、してやれる事がある。 やるしかない! 部屋の入り口に放っていた、自前の肩掛けの鞄を掴む。取って返し、唸る親友の顔を、サラカエルの隣から覗き込んだ。 酷い汗だ、額をタオルで拭き取ってやる。ニゼルはぱっと顔を上げた。行ってくる、言いかけたその鼻先に、サラカエルの手が伸びてくる。 「え、なにっ、サラカエル?」 「いや、用心に越した事はないからね。『お守り』さ、厄介な天使除けにね」 サラカエルの手には、麻製の紐のついた、小さな銀細工が一つ握られていた。紐を結び直し、彼は手早くニゼルの首にそれをくぐらせる。 表面には、熱を加えて焦がしたような体で、不思議な形の模様が複数刻印されていた。ごく小さなそれらは、文字にも絵にも見える。 微かな音をたてる、三日月をモチーフにした簡素な首飾り。指先で一度それを揺らしてから、ニゼルは首を傾げる殺戮の天使を見上げた。 「天使除けって。俺、ロード使いでも何でもないよ? 大袈裟すぎじゃない?」 「用心って言ったろ。いいから、行くなら急いで行きなよ。暗いから、強盗には気をつけて」 サラカエルってお人好しだよね、その一言は、前にアンブロシアと琥珀が傷を負わされた記憶のフラッシュバックで自ら飲み込む事になる。 敵か、味方か。藍夜との関係はなんなのか。聞きたい事は山のようにあった。しかし今は親友の身が心配だ、ニゼルは頭を振る。 彼が何を思い、何を考えているか、そこは後で知れたらいい。迷いと好奇心を振り払うように、ニゼルは勢いよく部屋を飛び出した。 「サラカエルさん」 「なんだい、アクラシエル」 遠のく足音を案じながら、アンブロシアは祈りを捧げるように、両手を胸の前で組み合わせる。その表情は、切なげに歪んでいた。 「ニゼルさんは、大丈夫なんでしょうか……その、一人で行かせてしまうのは」 「なんだい。君は、彼を信用しているわけではないって事かな」 「そうじゃありません! その、ノクトさんがここに来た事を考えると、単独行動は危険なように思えてしまって。それに……レテの遺跡は」 「レテの遺跡は冥府そのものの入り口」。 その一言を、しかしアンブロシアは口には出来ない。言葉にしてしまえば、嫌な予感が現実になってしまいそうな気がしたからだ。 サラカエルは、顎に手を当てて見せる。感心されているような、小馬鹿にされているような複雑な眼差しに、アンブロシアは目を瞬かせた。 次の瞬間、彼の顔に浮かんだのは人好きのする笑みだ。驚いたアンブロシアは、その場で固まり、まじまじと彼の顔を見上げてしまう。 てっきり、流石に心配しすぎだ、とからかわれるものだと思っていた。サラカエルは、笑うのを止めると、ふと窓の外に視線を向ける。 「君が案ずるのも、無理ないさ。そうだな……今はオフィキリナスに関わるもの全て、安全を保障出来るものじゃない」 「え、ど、どういう意味ですか」 「君の不安は杞憂ではないという事だよ。ノクト以外にも、このあたりにはラグナロクを逃れた天使が大勢いるんだ。様々な思惑と共にね。 それに、レテの遺跡が危険である事は、彼が一番よく分かっているのじゃないかな。どのみち、あの場所では僕の瞳術も鈍ってしまうし」 夜色の翼が開かれた。アンブロシアは、眩しいものを見るように目を細める。殺戮の天使の両手に、きらと光るものが見えた。 (……ワイヤー) 「あの天使除けには、なかなかに強力な術を施した。アクラシエル、知っているかい。高位ロードというのは、とてもいい餌になるんだよ」 いい餌? アンブロシアが聞き返すより早く、サラカエルは外に向け、おもむろに手を伸ばす。彼の口元が、何事か短く言葉を紡いだ。 刹那、天から光の柱が降ってくる――「神の槍」。天使たちの中でも、ごく一部の強力な者だけが扱う事を許される、強力無比な攻撃魔法。 オーロラが降り立つかのように、多数の柱が降りしきる。文字通りの槍。大音と共に周囲を白く塗り替え、着弾し、大地を刺し貫いた。 目も開けられぬほどの、凄まじい速度を持つ光の奔流。その中にいくつかの悲鳴が混じったのに気がつき、アンブロシアは身を竦ませる。 気配、直前に失われた魔力から察するに、神の槍に焼かれたのは、恐らく天使。それも複数、アンブロシアは慌ててサラカエルの方を見た。 「やあ、安心しなよ。焼けたのは敵意を持った下級天使どもであって、ほら、牧草なんかは無事さ。僕がそこまでへまをすると思うかい」 「そうじゃ、そうじゃありません。サラカエルさん、一体……オフィキリナス近隣で、何が起きているっていうんですか」 「落ち着きなよ。元々、この店はロードを扱っているっていうんで、色んな筋から注目されていたし」 二度目の射出が起こる。サラカエルが手のひらと甲を入れ替える度、光の槍は次々と、さながら豪雨のように丘の上に降り注いだ。 その都度、身を焼かれ、冥府に送られる者がいる。アンブロシアは、この男に対する畏怖と不信に、自身の顔が強ばっていくのを感じた。 「ロードを欲しているのは、人間だけじゃないからね。店主の身が弱っている今、絶好の機会とばかりに色んなものが集まっているんだよ」 「い、色んなものですか」 「そうさ。けれどね、アンブロシア。僕は、ウリエル……いや、鳥羽藍夜には、きちんと当人の人生を全うして貰いたいと思っているんだよ。 他の天使どもに、僕がみすみす彼の命をくれてやると思うかい? 僕はノクトに雇われているだけで、それ以外についてはフリーの身さ」 「サラカエルさん、あなたは……藍夜さんを」 窓枠に手をかけ、殺戮の天使は外へ躍り出る。生臭い風が吹き込み、アンブロシアはたまらず後退りして、暗い翼が羽ばたくのを見つめた。 「君は結界精製には優れているけど、害虫を追い払うのは不得手だろ。僕が請け負うとするよ、逆に、僕は回復魔法は苦手だし」 「あの……ニゼルさんは」 「やあ、本当なら、そこの魔獣を護衛につけてやるつもりだったんだけど。僕がやらかしてしまったからね、反省しないと」 仕方ないさ、その呟きと共に銀光が翻る。武具を手に迫りつつあった天使達は、絡め取られ、叩き落とされ、次々と首を刎ねられていった。 鋼糸二本きりで……アンブロシアは、部屋を中心に据え、結界を展開させる。ちらと視線を送れど、鳥羽藍夜は未だ眠り続けたままだった。 ふいに響いた小さな呻き声は、彼の弟が発したものだ。暁橙さん、そう声をかければ、寝ぼけ半分の緩慢な返事が返ってくる。 この状況をどう説明すべきか、アンブロシアは困り顔で暁橙を見た。顔を上げ、こちらを見た暁橙は、外から漂う異変と異臭に顔を歪める。 無理もない、こうも血生臭くては。一度、兄の寝顔を不安げに一瞥した後、彼は素早く立ち上がり、窓のそばまで駆け寄ってきた。 「シア、これって……ニジーさんは?」 「暁橙さん……あの、その、今、サラカエルさんが……」 三度目の爆音。そこまで襲撃者が多いのかと、アンブロシアは窓の外を見やる。眩い閃光に、暁橙がうわ、と悲鳴を上げるのが聞こえた。 急ぎ結界に、天使除けと魔法攻撃軽減の術を混ぜる。これで人間の目から見ても、神の槍の様相が捉えやすいものになるだろう。 アンブロシアは、暁橙にオフィキリナスを巡る天使達の襲撃と、サラカエルがその防衛に出ている件を簡潔に話した。 「そっか。そーなんだ」 ぽつりと溶ける反応。暁橙の表情は微妙だ、それもそうだ。事の発端はノクトの襲来だし、暁橙は別としても、鳥羽藍夜は天使を嫌っている。 サラカエルが鳥羽藍夜の身を案じている事など、人間側に容易く理解して貰える筈がない。思わず、アンブロシアは嘆息していた。 言ってしまえば、サラカエルがこの場に残っている以上、オフィキリナスは安全地帯といって差し支えないだろう。 彼の腕は天上界の中でも抜きん出ていたし、その上自分も結界を張っている。よほどの事がない限り、オフィキリナスは無事護られる筈だ。 (ニゼルさん、大丈夫かしら) 暁橙の視線が、忙しなく動いている。外、兄、アンブロシア、最後に包帯を替えられた琥珀を見て、彼の顔が訝しむように小さく歪んだ。 「あのさ、シア。ニジーさんは今どこ?」 「暁橙さん、それは」 「よく分かんないけど、ここはあいつに任せとけば大丈夫なんだよね? オイラ、ニジーさんを迎えに行ってくるよ。一人じゃ心配だし」 「……」 「シア?」 アンブロシアは逡巡する。レテの遺跡に何があるのか、アンブロシアも把握しているわけではない。レテ川は本来、冥府に近しい存在だ。 だというのに、ニゼルは人間の身でありながら、そこに立ち寄り、なおかつ川の水を得て現世に帰還した過去があるという。 暁橙まで向かわせてもいいのだろうか。無事に帰って来られる保障はあるのか。しかし彼の言う事ももっともだ、躊躇している時間はない。 (ニゼルさんを、迎えに行かないと。わたしは結界の維持があるし……ああ、暁橙さんの方が、わたしよりよっぽど冷静だわ) 不思議そうな目で見つめてくる暁橙に、アンブロシアは自嘲も混ぜて、弱々しく微笑み返した。 「シア、どうかした? 大丈夫?」 「ええ、大丈夫です。そうですね、暁橙さん、地図ってありますか、このあたりの」 「ん、あるよ。ちょっと待ってて」 いずれにせよ、護符があるとはいえニゼルをそのままにはしておけない。彼は人間なのだ、万が一、天使達に目を付けられでもしたら……。 彼らの狙いがはっきりしない以上、最悪の事態も考慮しければいけない。頭を振り、アンブロシアは暁橙の姿を待ちながら目を閉じる。 もし、自分にも藍夜やサラカエルが扱うような瞳術があったなら――否、今はそんな事は言っていられない。 ないものねだりをしたところで、現状が変えられるとは限らない。瞳術の使い手である藍夜でさえ、ノクトには太刀打ち出来なかったのだ。 ……本音を言えば、ショックだった。ノクトが敵意を露わに姿を見せた事も、あの鳥羽藍夜が彼に敗北した事も。 それだけ、自分はオフィキリナスでの生活に馴染んでいたのかもしれない。人間と共に暮らすというのも、決して悪い話ではないのだ、と。 (わたしは、藍夜さんに、ニゼルさんに、ここにいてもいいと言って貰えた。なら、今わたしに出来る事をしなくちゃ。そうよね、姉さん) 一層激しくなる槍の投下、吹き荒ぶ殺意の嵐。自身の結界は、軋む事すらない。大きく息を吐き、アンブロシアは目を開き、耳を澄ました。 |
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