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楽園のおはなし (1-18) BACK / TOP / NEXT |
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「はい、お待たせしました、アルジルさん。どうぞ、通って頂いて結構ですよ」 「あ、どうも」 街道と王都の境、検問所。 背の高い木の柵で物々しい空気漂うそこに、ニゼルはいた。常なら商人や旅人、発掘人が疎らに出入りするだけの、ちょっとした交流の場だ。 しかし、今日は珍しく正規の制服を着た衛兵らが慌しく行き交っている。ニゼルだけでなく、王都に入りたくても入れない人々でごった返していた。 足止めを食らってほぼ半日、既に空には茜色が差し掛かっていて、西の空に一番星が見えた。 待ち時間を潰す為に各々設けられた簡易テントの中で、ニゼルは王都を取り囲む城壁を見上げた。あちこちで修復作業が行われている。 (なんだろう。物騒っていうか、本当にそのうち何か起きるんじゃないの、これ) ふと、脇の下がもぞもぞとくすぐられる。思わず肩を跳ね上げると、そこから何かがひょこりと顔を出した。琥珀だった。 「ニジー、ねえねえニジー。いつまでこんな狭いトコにいなくっちゃいけないの〜、ぼく飽きちゃったよぉ」 「うーん、今、通行許可出たけど。それにしたって混んでるからなあ」 行商、配達、それより先に、急ぎで宿に向かわなければなるまい。じきに日が暮れる。ニゼルは鞄から財布を取り出し、余裕を見て、頷いた。 宿泊予定の宿は幼少の頃から顔馴染みの取引先だ。かといって、検問所に押し込められていた大量の行商人を優遇しないとは言い切れない。 琥珀も疲れてるだろうし――脇の下から手は伸ばされ、腕に巻きつくように強引にしがみつかれている。明らかに不満げな様子だった。 「琥珀、先に宿行って、荷物預けちゃおうか。疲れたでしょ?」 「! そ、そんな事ないも〜ん。ぼく全然ヘーキだよ、ニジー。そんじょそこらのケモノと、一緒にしないでよねぇ〜」 自信たっぷりといった風に「ない」胸を張ってくれる。ニゼルは噴き出しかけた。 「まったまたー。うーん、そうだなー。琥珀が何でもなくても、俺は疲れちゃったなー」 「う……」 「休みたいなー。眠いし、お腹も空いたなー。あ、琥珀は休まなくていいんだよね? 凄いなー」 からかえば素直にうろたえる。我ながら底意地が悪い、と思うが、困惑して目線を右往左往させる琥珀の姿は愛らしかった。 声が掛かる。衛兵に誘導され、城門横、人が乱雑に行き交う簡易受付を通る。王都に通うのもこれが初めてではない、何人かと会釈を交わす。 彼らにとって見慣れない顔であろう琥珀については、遠方の親戚という事にしておいた。あっさり通された事に、ニゼルは内心眉根を寄せる。 「無用心だなあ」 「な、なに? ニジー」 「ううん? さ、宿に行かなきゃ。荷物下ろさなきゃいけないなー、困ったなー、俺か弱いし。誰か手伝ってくれる、強い子いないかなー」 「……う、わ、わ、分かったよ〜!! ぼくもユックリしたいよ、ねえねえニジー、今日はもうオヤスミしよ〜?」 「ふふ、宜しい。さ、行こっか」 扱いには大分慣れてきた、ように思う。 プライドが高いのか、揚げ足を取るなり、意地を張った瞬間にからかうなりすれば、容易に陥落する。可愛いなー、ニゼルは口元に弧を描いた。 そこかしこで夕餉の匂いがする。飲食店では早くも夜に向け、店員が食器を並べたり、メニューを取り替えたりと奔走していた。 宝飾品を扱う職人らの店では、早いものでもう閉店の用意を進めている。買い物客か、仕事の帰宅途中か、通りに人が増えてきた。 「琥珀、荷台に乗ってて」 「ほ〜いっ」 すれ違う人々のうち、顔見知りには軽い笑顔、そうでないものには会釈だけを交わす。邪魔にならないよう、煉瓦道の端によって通りを進んだ。 どこからかアルコールの匂いがした、次いで、若い女の悲鳴。目を向けると、酒場の店頭で黒い腰エプロン姿の店員が酒樽をひっくり返していた。 もったいない、すぐ視線を逸らしてニゼルは歩を進める。 (天然の黒発酵酒だよなー、あれ。暁橙だったら、大丈夫ですかーって片付けるの手伝いに行くんだろうなー) 藍夜は「酒は苦手だからね」と言ってアルコールには一切手を出さない。 ハイウメに「その見た目でか」とからかわれたのもありそうだが、一滴とて口にしないので、本当に苦手なんだろうとニゼルは考えている。 対して暁橙は、兄から許可を取れた日に限っては、嗜んでいた筈だ。酒場で顔見知りと、或いはニゼルの父母と飲んでいるのを稀に目にする。 自分もそれなりには強い。せいぜい付き合いの範疇で、羊乳を混ぜて飲むくらいのものだが、潰れた記憶はなかった。 「お酒かー。父さんのお土産、酒にしようかな」 「なぁに、ニジー、モミアゲって?」 「琥珀……モミアゲじゃなくてお土産、だよ。なんていうんだろ、出かけた時に『出かけたよー』って証に、お留守番してた人に渡すもの、かな」 琥珀は荷台から身を乗り出し、足をばたばたさせた。ただでさえ荷で重い状態だ、馬がフン、と不満げに鼻息を漏らしたのが聞こえた。 「! なにそれなにそれなにそれぇ〜。ぼく、こないだちゃんとオルスバンしてたけど、藍夜なーんにもくれなかったよ!」 「ちゃんと……? あー、藍夜ケチだからねー。しょうがないよ」 「え〜、え〜、えぇ〜。いいな〜いいな〜、ぼくもオミヤゲ、欲しいなぁ〜! ねえねえニジー、何か買ってよ〜」 「ええ? 琥珀、今、俺に付いてきてるじゃない! そういうのはお土産って言わないんだよ」 「やだ〜や〜だ〜、何か欲しい〜!!」 慣れてきた、とは感じていたが、こういう弊害もあったか。ニゼルは肩を横から揺らされるまま、苦笑した。 土産――確かに父には何か買って帰るつもりでいたが、今は宿が先だ。夜が更けるというのに土産屋をのんびり見て回る時間はないだろう。 自分の判断に自己満足。ふむ、と一人目を瞑って頷いていると、馬が何か言いたげに短く鳴いた。 はっと目を開けると、横にいた筈の琥珀がいない。 「えっ、あれっ、こ、琥珀!?」 「――ねえねえニジー! これ〜、これ買ってよ、これぇ!」 「!?」 声のした方を振り向くと、琥珀はひとり勝手に露天の前に立っていた。人の良さそうな露天商が、愛想笑いの合間に頬を引きつらせている。 通りの向かい側、怒るわけにもいかず、やむなくニゼルは馬を近くの街灯に繋いだ。もうっ、そう怒声を呟けど、琥珀の耳には届くまい。 「ね、ね、これこれ〜。い〜でしょ〜、オテゴロだって、」 「ちょっと琥珀! いきなりいなくならないの、心配するでしょ!?」 「わ、あいたっ! だってぇ〜、なーんかオモシロそうな感じだったんだも〜ん」 「だってーでも、だもーんでもないの! もー……あーあ、これ何? 蓋開けちゃってるし」 軽く頭を引っ叩いた。いくら彼女がオフィキリナスに拾われた身とはいえ、これくらいなら店主に咎められる事もないだろう。 琥珀が手にしていたのは、掌サイズの箱だった。黄金の光沢に覆われ、見た目と比べるとそう重くない。 蓋の中はどうも複雑な造りをしていて、これまた黄金に光る小さなネジだの、極小の歯車だの、細い板だの、細い鎖だのが多数交差している。 目に眩しい、思わず蓋を閉めてやった。 そしてふと思う。 (……あれ、なんかこれって) 「ねえねえニジー、ど〜う〜? オモシロそうでしょ〜?」 「あー、いや……すいません、これって、」 「『ロード』ですよ。お兄さん」 目の前、道に座ったままの露天商と目が合った。 「ロード?」 「ええ、件の、北方の遊牧民とちょっとした取引しましてねー。その時、集落の長にお礼として貰った物なんですわ」 「取引、ですか」 「はあ、まあ、大した事じゃないんすけどね」 聞けば、この箱はその集落に古くから伝わるという家宝のような代物であるという。 「って、それ売っちゃうんだ」 「こちとら、生活かかってますかんねー」 「ねえねえニジー、」 「琥珀は黙ってて。もー、知らないからね? お金はあとで藍夜に貰うから。琥珀の給料分からって」 なんでどうして、大声で喚く琥珀をよそに、ニゼルは露天商から箱の使い道を教わった。どうやらこれは写真機の一種であるらしい。 「撮りたい対象に向けて、ここのでっぱったボタンを押す、と」 「そっすよ。で、ここ覗くとどう撮れるか分かるんで。指で伸ばしたり縮めたりして、この穴から出てくる写真のでかさを弄ると」 「うーん」 「これ、書いといたやつあるんでー。お兄さん、頭良さそうだから見れば分かるでしょ」 ご丁寧にメモ書きまで渡して貰い、ニゼルはしぶしぶ代金を支払った。宿代を払って、ぎりぎり父に土産を一つ買っていけるくらいだろうか。 だいぶ余裕なくなっちゃったなー、とは口にしない。それでも代わりに嘆息が漏れた。露天商は購入以来、終始にこにこ笑顔でいる。 露天商に手を振り続ける琥珀を引きずりながら、馬の元に戻る。この手持ちなら、滞在は出来るだけ早くに終わらせたかった。 通りも程よく赤い。急いだ方がいいだろう。 いっそロープで縛ってやろうか、箱を両手でくるくる回しては、きゃあきゃあと歓声を上げる琥珀を横にニゼルはにやりと一人笑った。 馬が震え上がった……ような気がした。手綱を解き、通りを小走り気味に歩かせる。 今度こそ勝手にうろつかれては堪らない、箱を与えたまま、琥珀は荷台に鎮座させてやる。 「ニジー、宿って〜、あとどれくらい〜?」 「曲がり角二つ先、酒場の向かいの、でっかいレストランの裏だよ」 「おぉ〜、ヒトいっぱ〜い」 「ほら琥珀、急ぐから座ってて――」 ニゼルは、目の前、一つ目の角を曲がろうとした。曲がった先、一つ目の角を更に左に曲がれば、後は道なりに進むだけの筈だった。 行き慣れた道である。間違いようなどなかった。 「! ニジー!」 「え?」 ――往々にして、本日は厄日であるらしい。 突然、ニゼルの眼前に何か黒いものが飛び出した。猫にしては大きく、犬にしては「酒くさい」。一瞬、それは人間のようにも見えた。 琥珀が唸り、飛び掛かる。馬が大きくいななき、体をぐんと跳ね上がらせた。ニゼルは慌てて手綱を強く引く。 路地裏、気付けばそこは、様々な怒声と悲鳴とで混乱していた。 「ちょっと……なにっ、」 馬を押さえ込むニゼルだが、琥珀が「何か」もろとも荷物の中に突っ伏したのを見て、思わず叫んでいた。化粧箱が一斉に悲鳴を上げている。 これは駄目かもしれない、脳裏に売り物全滅という最悪の状況がよぎり、たたらを踏んだ。大きく一声鳴いて、馬がその場に踏みとどまる。 大音を聞いてか、慌しい駆け足が無数、荷台に駆け寄ってきた。一方、こちらも肩で息をしている。 「おい、あんた! こっちに何か妙な生き物が逃げてこなかったか!」 余裕などなかった。 「……見て……ない、かなー。ねえ、琥珀?」 荷台の上は、ようやっと静かになった。というよりも、ニゼルの隠し切れない怒りを察してか、息継ぎさえ極小と化している。 「琥珀? ね、見てないよね?」 「……」 「こーはーくー?」 「……に、にぜ、る、おにい、ちゃん? うん、こはく、なにもみてないよ。おっきいねずみがね、でただけ……おうまさんねずみしらないのかな」 「ね? ほら、何も見てない。っていうか、俺達早く宿屋に行きたいんで通して欲しいんですけど」 「い、いや、お兄さん……だが確かに今、こっちの方に、」 「さあ。壁でも登ったんじゃないですかー?」 普段、ニゼルはさほど怒らない方だった。どちらかといえば、怒っている機会が多いのは鳥羽藍夜の方になる。 それでもこうして怒る時もあった。藍夜の目がない時はなおさらで、親友の目がないなら良い人ぶる必要もない――被る猫など遥か彼方だ。 友好関係にある相手以外に、ニゼルは薄情だった。自分でそう思うくらいなのだから、藍夜には見破られているかもしれない……。 (とはいえ、んー。藍夜の事考えてると、少し客観性出てくるかな) 小さく嘆息が漏れる。 「っていうか、何を追いかけてたの、お兄さん方は」 後ろの荷台の上、琥珀が強引に「何か」を押さえつけている気配があった。ニゼルは聞こえなかった事にする。 「こんな往来で、そろそろ晩御飯の時間だし……まさか豚か牛か馬とか? 肉用の?」 「いや、うーん、それとはまた違うんだが」 「見てないってんならいいんだ。妙な『化け物』見かけたら教えてくれ」 「え? 化け物?」 「俺達は『遺跡発掘人』なんだ。近くの酒場で、魔獣みたいなのが荒れてるって聞いてな。捕獲しようとしていたんだよ」 「魔獣?」 目の前、いかにもといった風に屈強な体格の男達は、がははと大声で笑った。 「おう、なんでも、化け物が酒場の裏口で盗んだ酒カッ食らってたって言うじゃねーか! 笑っちまったよ」 「そうそう、最初は人間の形をしていたらしいんだが、途中から化けの皮が剥がれたっていうんでね。店中大騒ぎさ」 「化けの皮?」 「店員の話じゃ、顔が赤くなってきた頃に人間から化け物の姿に変わったんてんだよ。おまけに逃げようとしたとか、なあ?」 「ああ。明らかにタダ呑みするつもりみてえだってんで、居合わせた俺達が捕まえようとしてやったのよ、したらこれが案外すばしっこくてなあ」 ニゼルは一瞬、視線だけを荷台に走らせた。琥珀もろとも、荷台の中はしんと静まり返っている。 「それ、その化けの皮って、どんなものなの?」 「ああ。上半身は人間で、腰から下が……ええと、なんだったかね」 「『山羊』だよ、ヤギ! 蹄を鳴らして、そりゃもう目立つったらないもんさ」 「ぱっと見でも化け物だって分かるからな。兄さん、あんた、もし見かけたらすぐ俺達に教えてくれよ」 「頼むぜ! 俺達の酒をタダ呑みしようなんざ、許せねえからな!」 お兄さん方のお酒ってわけでもないと思うんだけど、口端を引き釣らせて愛想笑いを浮かべながら、ニゼルは男達の背に手を振った。 裏通りには、常の穏やかな夕暮れの気配が戻ってきた。一度だけ頭を振り、荷台の側壁を軽く小突く。 「……琥珀。もういいみたいだよ」 小声で話しかければ、荷台に伏せていた琥珀がぱっと顔を出してきた。 「あのさぁ、ニジー。これって、」 「あー、うん。たぶん、噂の『化け物』だろうね」 琥珀は自分の膝下を、ニゼルは彼女の頭越しに、先ほど荷台に突っ込んできた「化け物」を見下ろした。そろりと麻布をめくってやる。すると、 「――ブハァッ! いやぁ、いやいや、参った参った!」 完全に顔を真っ赤に出来上げた、上半身は人間、下半身は山羊といった、珍妙な魔獣が顔を出した。 不意に琥珀がばっと自身の鼻を手で塞いだ。半ば涙目になりながら、ニゼルと魔獣を交互に見やり、後退る。 思わず鼻をひくつかせて、ニゼルも眉根を寄せた……かなり酒の臭いがする。 「くっさい! うわぁ、うわぁ〜、何これ何これぇ、変なニオイ!!」 (あ、そっか。琥珀はお酒知らないんだ) 「む。失礼千万なお子様じゃの。ほれ……むはあーっ!」 「……っんぎゃぁああー! うう〜っ、に、ニジー! やだぁ、やだやだコイツ〜!」 「……」 俺がやだ、とは、流石に口にせずにおいた。絡み酒か、魔獣は嫌がる琥珀にべたべた纏わりついている。こほん、ニゼルはわざとらしく咳払い―― 「――ちょっと、『オッサン』」 「おっさ……」 山羊そのものの二本角を、左右がっちり鷲掴み。魔獣は硬直。 そのままにこりと気持ちのいい笑顔を浮かべて、ニゼルは角ごと頭部をがくがく前後に激しく揺さぶった。 「なーにーかー言ーうーこーとーがー、あーるーんーじゃーなーいーかーなー!?」 「ちょ、お、おま、やめ、は、吐く……」 「吐いたら王城に身柄引き渡して、許可貰って、珍獣だって言ってサーカスに売るから。吐かなくてもそれはそれで別に、ねえ?」 「やややややめ、本当、は、吐く……」 「に、ニジー。ソイツ、ホントに顔真っ青だよ。止めようよぉ〜」 荷台の上、底板がぎしぎしと派手に軋む。対し、ニゼルはいっそ清々しい微笑み。琥珀は魔獣ともども、顔を青ざめてさせていた……暫し休息。 「はい、お水」 「む、うむ。すまなんだのう」 少しばかり先の裏通りから反れた行き止まり。荷台の上、麻布を被りながら申し訳なさそうに顔を出すそれに、水筒を手渡してやる。 オッサン――ニゼルは彼をそう呼ぶ事にした――は勢いよく喉を鳴らした。琥珀は鼻を摘みながら荷台の隅に避難している。 「それで、オッサンは何したの? っていうか何者?」 「うむ、名乗らんわしも大概だが、オッサン呼ばわりはないじゃろ、ヌシ」 「名前知らないし。そもそもうちの商品メチャクチャにしてくれたんだから、これくらいの嫌味は言わせて貰うよー」 ニゼルの指差す先、ヤギ男の背後には、潰された化粧箱が多数鎮座していた。くたびれた箱から辛うじて無事だった織物が顔を覗かせている。 上客宛ての一点もの。品物だけでなく、箱とリボン、カードにだってこだわりが込められている。被害総額を暗算し、ニゼルは小さく嘆息した。 「明日からどうしろって言うんだろうねー。藍夜がいたら間違いなくお説教コースだよ、もう」 「うん? アイヤとは誰ぞ?」 「いいでしょ、そんな事。それより、せめて質問には答えたら?」 「うん、ま、水も貰ったしの。礼はせにゃならんか」 「礼って……こんなんじゃどうしようもないし」 「そ〜だよそ〜だよ〜。ニジーだってゴハン食べなきゃいけないのにさぁ〜。ヒドイよね〜。もちろん、ぼくだってー!」 「ちょっと、琥珀? 少し静かに……」 「人間も日々の生活に追われ、難儀なもんじゃの。生けとし生けるもの全て、条件は平等だろう。誰がそう定めたか定かではないが」 「? なに、何の話、」 「――ワシはな、『酒蔵を渡り行く酩酊する者』よ。ヌシ」 「え?」 ヤギ男に反省している様子はなかった。顎に蓄えた黒ひげをふさふさと撫でながら、ふふんと得意げに笑いかけてくる。 「『シレノス』。それがワシの名じゃ。気の知れた友人らからは、シレノス爺さんと呼ばれとる」 「シレノス? 聞いた事ないなあ」 「それもそうじゃろ、うん、ワシはほれ、あすこから来たのよ」 ヤギ男、シレノスが毛むくじゃらの腕を伸ばして指差したのは、遥か彼方、天空だった。茜色の先には、カラスが何羽か飛び交っている。 「……え、空?」 「ど〜ゆ〜事? な〜んにもないよ〜。まさかさぁ、お空の中から来たの?」 「うむ。今は衰退せし幻の都、人間が夢と浪漫を馳せる地、神秘と幸福に満ちた世……神の住まう国、『天上界』。そこからちと降りて来たのよ」 ニゼルと琥珀は、思わず顔を見合わせていた。 平べったい顔、全身を覆う黒塗りの毛、尖り耳、ヤギの角とひづめ、長い尾。ある意味では、嘘偽りとは思い難い話だ。 ひげに手を押し当てながら、シレノスはカカカ、と豪快に笑って見せた。 宿の一室。言われた通りに織物、布地をベッドに広げ、ニゼルと琥珀はシレノスが割れかけたひづめを器用に動かすのを見ていた。 二人がチェックインした後、野暮用があると言い残し一時姿を晦ましたシレノスは、背中に載せた籠に大量の草花を積んで戻ってきた。 壁を蹴り窓から侵入してきた彼だったが、ちょうど近くの酒場で件の発掘人らが酒盛りを始めたばかりで、物音で気取られる事はなかった。 小さな花を付けたタイム、ローズマリー、レモンバーベナ、野苺と、その大多数が、いい香りを放つ香草の類だった。 ちと森までひとっ走りしてきたのよ、にやりと笑うシレノスだったが、どうにもヤギと野猿を足して二で割ったような顔つきである。 息の酒臭さからして、彼が商品を駄目にしてしまいそうな気がして、ニゼルは苦い顔を浮かべていた。 「あのさぁあのさぁ、シレノスはさ〜。お空の上から来たんでしょ〜?」 「そうさのー」 「お空の上って、天上界って〜、『らぐなろく』、だっけ? それで壊れちゃったんでしょ。なんでそんな所で暮らしてんの〜」 琥珀の旺盛な好奇心はしかし、ニゼルのものと殆んど被っていた。困惑しながらも、ニゼルはちらりとシレノスのしわくちゃの顔を見る。 シレノスが顔を上げる事はなかった。上気した顔を伏せたまま、彼は草花やツタ植物を手早く、複雑な形に織り上げていく。 籠や輪、小さな袋状。あしらった小花がさりげなく愛らしく、ニゼルは彼の狙いが何であるのか、何となく分かったような気がした。 「シレノス? それって、もしかして」 「うん。『らっぴんぐ』っちゅー奴よな。箱を駄目にしたのは、ほんに本意でなかったんよ。せめてものお詫びよの」 「いや、弁償代わりになるなら俺はそれで良いんだけど」 ニゼルは差し出された箱を受け取る。複雑に編み込まれ、折り重なり、可憐な花々を添えた、見る者の目を惹く美しい植物製の個包装箱。 一点ものの織物を包み込むのに、これ以上相応しいものはないように感じられた。 微かに香るハーブや、小粒の果実の色合い。言われるままに織物を包み、蓋をツルで縛ると、自分さえ「欲しい」と言いたくなる代物に化ける。 ニゼルがシレノスを見る。シレノスは、顔をくちゃくちゃにして、気持ちのいい満面の笑みを浮かべていた。 「天上界はのー、確かにラグナロクで崩壊したが、実際は壊滅とまでいかなかったんよの」 「まだ無事な所があるって事? かなりの被害が出たって本で読んだけど」 「そ〜だよそ〜だよ、藍夜もそう言ってたもん。カミサマも天使も、いーっぱい死んじゃった〜って」 「うん、そのアイヤとやら、話をしてみたら面白そうな輩よの。ヌシらの話、あながち間違っちゃおらなんだが」 手が止まる事はなかった。しかし、ニゼルはシレノスの手が一瞬、ほんの僅かな瞬間、ぴくりと停止したように見えた。 「今でもまだ、神々や天使の生き残りはおるのよ。ワシのように災禍を逃れ、彼の地に根付く魔獣や騎獣もな。天から地上を見下ろしとるのよ」 琥珀がニゼルを見る。ニゼルは、信じられないものを見るような目でシレノスを見つめた。 生き残り。失われたと思われた、神話と伝承、遺跡群の生き証人……ふと、ニゼルは藍夜の両親を奪った二体の天使を思い出した。 次いで、先日のサラカエルの顔も。シレノスの話が本当であるなら、彼ら以外にも複数の天使が、その主である神々が今も生きているのか。 想像しようとしても、俄かに信じ難いものだった。鳥羽家の書斎で読んだ古書には、一体何の意味があったというのだろう。 「見下ろしてるって、なーんの為に〜? 人間が、羨ましいの〜?」 「うーむ、人間って大変よのー、天上界はいいところよのー、くらいなもんかのー」 「ええ〜、ええ〜。でもさあでもさあ、ゴハンは美味しいし、シアは優しいし〜。藍夜はちょーっとケチだけど、楽し〜よ〜?」 「そうさなあ。案外、ヌシらが想像するより緩くて適当な場所よ。酒は飲み放題だし、いい女もある」 「ふ〜ん。シレノスはさ〜、きれ〜な女の人が好きなの?」 「そらヌシよ、別嬪さんのが良いに決まっとるわ」 ヌシはまだ子供だから無理じゃの、豪快に笑いながらも、シレノスの指先は次々と箱や花籠を織り上げていく。 ニゼルは受け取り、詰め、蓋をし、また受け取りと、忙しなく手を動かした。見れば見るほど、シレノスの作る作品は美しい。 (琥珀って、そんなに藍夜と仲良くなったんだなあ) ツルを曲げる手が止まる。 琥珀の口ぶりからは、普段の藍夜との微妙な距離感は感じられなかった。出会ってたった数日、順応の速さに舌を巻いてしまう。 「人懐っこい、って事なのかな」 「な〜に? ニジー」 「あ、ううん。……ねえ、シレノス、シレノス以外にも魔獣や騎獣の生き残りはたくさんいるの?」 「うん? そうさなあ、大体は仲間内で集って、こじんまりと暮らしとるわ」 「その中にさ、グリフォンの一派って、ない?」 「グリフォン?」 「そう、琥珀ってグリフォンなんだ。人型変化出来るくらいだから、割と有名……っていうか、顔を知ってる奴もいるんじゃないかって思うんだけど」 ニゼルは手短に琥珀を拾った経緯を話した。シレノスは一度感心したように大きく目を見開き、次いで、小さく頷いて顎に手を当てている。 草花を絡ませる動作を再開させながら、シレノスはふと遠くを見るように首を伸ばした。 「天上界」。アンブロシアや琥珀が暮らし、サラカエルが主に仕えていたという神秘の場。一体、どんな所なのだろう。 どこか眩しそうに目を細めるシレノスを見て、ニゼルはゆっくり瞬きをする。 「ワシのような半端もんではなく、限りなくヒトに近い形に化けられるっちゅうなら、それこそ純血種か、神に仕えるくらいの血統つきかもしれん」 「純血種?」 「うん、グリフォンは神の言いつけさえ聞かんと有名で、騎獣に向かないと虐げられてきたのよ。それがますます反発に変わったわけだがのー。 しかし、純血を護り続けてきた由緒正しい一派の中には、多少融通の利く連中もおったと聞いておるよ。あくまで風の噂っちゅう奴だがな。 有名どころだと、地母神ヘラに使えた漆黒と純白の夫婦の奴かいの。そりゃもう、ヘラが神々の酒盛りに自慢げに連れ出した事もあったそうだ」 ニゲラを編みこんだ籠を受け取りながら、ニゼルはふと琥珀に視線を投げた。琥珀は、困ったような、切なそうな、複雑な表情を浮かべている。 「しかしヌシ、記憶喪失とは厄介よの。金槌で何発か殴ってやったら、思い出さんかのー」 「や、やめてよ、よしてよぉ〜。ぼくの頭が、割れちゃうもん……」 「ヌハハ、冗談じゃ、冗談。うん、何がしか、切っ掛けの一つでもあったらいいんじゃがのう」 「切っ掛け、か……」 「人間界におるなら、天に近しいものに触れる機会はあまりなかろうて。時間が解決するのを待つよりないじゃろうの」 最後の花籠は、あまった木の実と小花を豪華に盛り合わせたものだった。逆に悪目立ちして使いにくいな、ニゼルは小さく苦笑する。 「有難う、シレノス。これで明日から、何とかなりそうだよ」 「うん、ワシは箱を壊した侘びをしたまでよ。ヌシが礼を言う事ではないが、せっかくだ。受け取っておこうかの」 「ねえねえ〜、シレノス〜。シレノスはさぁ、これからど〜するの? おうち帰るの〜?」 すっかり懐いた様子で、琥珀はシレノスに頭を撫でて貰っていた。が、あまり心地良くなかったらしく、途中で顔を逸らしている。 思わずニゼルは噴き出していた。シレノスは、失礼な奴じゃの、と若干不服そうに目を丸くした後、にやりと笑う。 「目的の美酒は買うたからの。お、何じゃその目は、きちんと金は払ったぞ。かうんたぁに置いただけじゃがの」 「それ、もしかして気付いて貰えなかったんじゃない? だから追い掛け回されたんじゃ」 「む? なんと!? うーん、うん、それはあるかもしれんなあ」 「えぇ〜、不払いだよソレ、だぁめだめじゃ〜ん」 「うん、ヌシ、なかなか性格悪いグリフォンじゃのー。おっ、そうだ! ニゼル。ヌシにはちょっと、いいもんをやろうかの?」 「いいもの?」 「えぇ〜っ、何ソレ何ソレ、ニジーばっかり、ずる〜い〜!」 「琥珀よ、ヌシはワシに意地悪したから何も無しよ……ほれ、ニゼル。これをやろう、籠作っただけでは匿って貰った分には足りんからの」 じたばた暴れる琥珀は哀れ、額をひづめに押されて沈黙せざるを得なかった。 シレノスが手渡してきたのは、古代文字と複雑な紋様を複数記した、一枚の羊皮紙だった。表面は少しかび臭く、時代を感じさせる。 天井の明かりに透かしてみると、更に別の紋様が浮かんだ。一本の枝に二対の蛇が絡み付いているような、神々しい紋様だ。 「これ、何? シレノス」 「うん、『どうにも困った時』に、こいつを宙にぽいっと投げて、こう唱えるのよ。いいか、一回しか言わんでの、……」 言われた「呪文」を口内で反芻し、ニゼルは眉間に皺を寄せる。呪文は、何だかとてもお気楽で、子供の遊びじみたものだった。 構わず、シレノスがカカカと豪快に笑う。窓の縁に前足を掛け、彼は振り向きざま、ピッと片手を上げた。 琥珀が釣られて同じ動きを取る、ニゼルは小さく笑い、手を振った。次の瞬間、シレノスは後ろ足のひづめを高らかに鳴らし、表へ飛び出した。 出会った時同様、風のように、弾丸のように、瞬き一つする暇もないほど、あっという間の出来事だった。 「……困った時、か」 羊皮紙をもう一度見る。偶然か皮肉か、刻まれた紋様は、藍夜が「瞳術」を用いた時と同じ、綺麗な瑠璃色をしていた。 夜は更けつつある。羊皮紙を懐にしまっていると、琥珀に促された。夕食を摂るべく、ニゼルは彼女を連れたって、階下に降りた。 |
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