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楽園のおはなし (1-16)

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日も暮れ、あたりにぽつぽつと橙色の灯が点るようになった頃。帰宅途中の暁橙は、自宅の軒先で何かがきらきら光っているのを見つけた。

(なんだ、あれ? 兄ィが何か飾ったのかな)

軽快な足取りで丘を登る、南から吹き上げる追い風が、夕餉の匂いを忙しなく運んで食欲を刺激する。
直前まで、てっきり兄が鑑定したロードの中に希少価値の高いものを見つけたからと、自慢でもしているのかと思った。
或いは――普段は実年齢に相応しくあろうと冷静を装っているものの――季節の行事が好きな彼の事だ。
光る玉か、派手な羽根飾りの一つでも吊り下げているのかもしれない。
オイラもそういうの好きだけどさ、思わず笑みが零れた。心なしか足取りが浮き足立つ、駆け足で店先に立つ。

「あっれぇ〜。暁橙、おっかえりぃ〜」
「……え、あれっ? お前、コハ!?」

暁橙の声が裏返った。
眼前、店の入り口横に正座(!)させられていたのは、背中に漬物石をロープで括り付けられた琥珀だった。身を縮めて小刻みに震えている。
先ほどからきらきら忙しなく光っていたのは、琥珀の上半身、金色の鷲の羽根と、彼女の丸い目だった。
闇夜の中でも狼か猫のそれと同じように、ぎらりとよく光る。なるほど、どうりで店の中は静かなわけだ――拍子抜けすると同時に、頭を撫でた。

「やあ、暁橙。遅かったね」
「兄ィ」

ぱっとすぐ手を離したのは、直感だった。兄の態度は、いつもと何ら変わらないように見える。

「あ〜っ、藍夜ぁ!! ちょっとちょっとぉ! ねぇねぇ〜、いつまでぼく、こうしてなきゃいけないわけぇ〜!?」

いや、怒ってるかな、これは……思わず出かけた言葉を、暁橙は無意識に微笑む事で飲み込んだ。兄は笑い返しもしない。

「さてね。僕の気が済むまで、といったところかな」
「ちょっ、な、何それ? いつ? ねぇねぇ、それって一体いつなわけぇ〜!?」
「あー……ね、何があったの? 兄ィ」

不機嫌だ、それもいつになく飛び切りに。藍夜の眉間に一瞬、深い皺が刻まれたのを暁橙は見た。追求するべきではなかったか、一旦口を噤む。
藍夜の反応は鈍かった。眉間に指を押し当て、ふっと小さく嘆息する。脇で未だぎゃあぎゃあ喚く琥珀に、ぴっと片手を向けて制した。
驚いた事に、琥珀は素直にそれに従った。が、次の瞬間には、石が重いのか、ぐったりと前のめりになる。
流石にこれには、藍夜も何も言わなかった。

「……そうだね。君が遺跡に出かけて……確か、三時も過ぎた頃だったかな。ちょっと躾のなっていない客が来てね」
「躾?」
「ああ。少し、雷霆で焼いたんだよ」

焼いた? 音は乗せずに、口だけで反芻する。藍夜の視線が微かに動く。倣うようにして、暁橙は夕闇に沈んだ周辺を見渡した。
風が牧草をこする音、むっとする草いきれが滞留している。
紺青に包まれた視界では、「雷神の雷霆」が猛威を振るった痕跡など欠片も見えない。
うーん、思わず小さく唸った暁橙に対し、藍夜は気にしないでくれたまえ、と呟き返した。

「逃げられたがね。二度と来て欲しくないものだよ」
「そんなに、ヤな奴だったの? 嫌味くさいとか、無理やり値切ってきたとか」
「いや、そういうものならまだ、ね」

兄の言い方には、何か含みを持たせるような気配があった。何故か追求する事は憚られた。何故か。それが分からず、暁橙は眉根を寄せる。

「あっ、暁橙さん! お帰りなさい」
「! シア……」

駆け足が近寄り、不意に店内からアンブロシアが顔を出す。
オフィキリナスの従業員である証の、アルジル羊毛製の青エプロンがひらりと翻った。
カモミールの匂いが解ける。むくりと起き上がった琥珀が、ふんふんと鼻を引くつかせる動作を見せた。思わず三人で顔を見合わせる。

「暁橙も戻った事だし。ああ、琥珀。君も入って、夕食にしたまえ」
「わ! やったぁ、ほんと〜!? もうねぇ、ぼく、おなかペッチャンコなんだよねぇ〜」
「琥珀くん、それを言うなら、ぺこぺこ、じゃないかしら」
「え〜? シア、そんなのどっちでもいいよぉ〜。ぼくのー、おなかがー、減ってるのがー、問題なの〜」
「いや、君ね。『反省』は、」
「してるしてる、めっちゃくちゃしてるよぉ〜。今日からねぇ、特訓するんだ〜!」
「特訓?」
「特訓って、何する気だよ、コハ」
「えっへ〜。な〜いしょー!」
「……好きにしたまえ」

わけが分からなかった。アンブロシアに視線を向けると、彼女は困ったような柔らかい微笑みを浮かべて見せる。
促されるままに屋内に踏み入ると、香ばしく芳しい、大好物の匂いが部屋中に満たされていた。

「わー! カレーだ、やった! サンキューシア!」
「スパイス〜すぱいす〜。ぼく、このニオイちょ〜っと苦手かも〜!」
「コハは鼻利くもんなあ」

歌うように遠吠えするように、天井めがけて声を張り上げる琥珀の頭を、改めて一撫で。
兄の態度は気になるが、どうしようもなく腹が減っているのも事実だった。背負っていた荷を喫茶店隅に降ろし、そそくさと手を洗いに向かう。
扉越しに、兄とアンブロシアが何事か話しているのが聞こえた。石鹸を泡立て、立ち上る香草の香りを吸い込み、思考を反らしていく。

(まーったく。兄ィだけじゃない、シアも分かりやすいんだからなあ)

やってきたのは、恐らく「天使」だ。暁橙はそう目星をつけた。
少なくとも雷霆で焼こうとしたからには、ハイウメや町長といった生身の人間ではないだろう。
人殺しをされては困るし、兄とて同じ気持ちの筈だ。
更に、お仕置きを受けてこそすれ五体満足の琥珀と、どこかよそよそしいアンブロシア。双方の態度が推測に後押しをしてくれる。
たまにやってくるような魔物やごろつき、強盗相手なら、もっと兄も琥珀も分かりやすく誇らしい顔をしているだろう。
自慢か襲撃者への嫌味の一つでも飛ぶかもしれない。

(けど)

蛇口を閉める。

「兄ィって、なんでそんなに天使が嫌いなんだろ」

それだけじゃない、暁橙は頭を振る。
実物が今、この店に暮らしているとはいえ――神話や御伽噺にしか登場しないような――天使という胡散臭い生き物が、現存している事。
暁橙にとってはそちらの方が驚きだった。
琥珀のような知恵と理性を持つ魔物、正確に言えば「魔獣」は、珍しいといえば珍しいが、その存在は自分達以外もよく知っている。
むしろ問題は天使の方だ。まさかアンブロシア以外にも、生身のままの生き残りがこの辺をうろついているとは思わなかった。

「……それ言っちゃうと、ロードの存在はどう説明すんだよ、って話になっちゃうけどさ」
「ちょっと〜、暁橙〜。いつまで鏡見てんの、早くゴハン食べようよぉ〜」
「おっ、コハ。分かったって、ちょうど洗い終わったから」

アンブロシアはこの数日であまりに鳥羽家、オフィキリナスに馴染みすぎてしまった。
正直、天使らしさ、神々しい感覚などまるで感じられない。
言ったら泣かれそうだけど! ……再度琥珀の頭を撫で、先に行くように暁橙は獣を促した。手を拭きながらすぐ後に続く。
テーブルの上には既に食事が並べられていた。立ち上る湯気が、暁橙の到着を今か今かと待ち侘びている。

「いただきまーす!!」
「いったらきぃ〜、ふぁ〜ふっ!」
「琥珀。せめてきちんと言ってから口にしたまえ」

兄が肩を竦めながら右向かいの席に腰を下ろした。アンブロシアは流しで皿を洗っている。
先陣を切る琥珀に負けじと、山盛りの夕食を頬張った。

「暁橙、君は神話を信じるかい」
「む、んんっ? 何、どうしたの兄ィ。急に」
「いや……」

兄も自分も、両親でさえ、敬虔な偶像崇拝者ではなかった筈だ。暁橙は台所のアンブロシアの背中に視線を注ぐ。
何でもない、藍夜はそう言うように首を左右に振った。またそうやってだんまりするの、思わず喉から出かけた言葉を、暁橙は飲み込む。

「うーん、シアとかコハとか、色々あったもんね」
「暁橙」
「オイラさ、兄ィ。兄ィの役に立ちたくて、この仕事続けてるんだ」
「僕の? どういう意味だい」

一度スプーンを置く。どったの暁橙、小声で琥珀が見上げてくる。答える代わりに、嘴を指で撫でてやる。

「んーと。天使とか魔獣とか、寿命とか見た目とか生きてきた時代が違うってだけで、オイラ達や他の動物と同じ、ただの普通の生き物じゃんって。
 どういう生態しててどういう考え方してて、とか、神話の時代がどうこう、とか、ぶっちゃけオイラにとってはぜーんぶどうでもいい事なんだよね」
「どうでもいいのかい」
「むぁ、暁橙ぉ〜。何それ、ぼくのコトどーでもいいの〜」
「ん? や、どうでもいいっていうか。うちはさ、父さん母さんが生きてた頃からずっとロード売ってるし、そういうのが絡んでくるのも当たり前で……
 だから今更、天使が来たとか魔獣飼い始めたとか、そういうのも世間から見ればおかしい事だろうけど、オイラ達にとっては普通じゃんって思うんだ」

身振り手振りで考えを纏めながら話すのを、藍夜は耳を傾け、待ってくれている。心強かった。

「面倒事とか厄介事とか色々あるけどさ。ロードが手元にある限り、向こうから寄ってくるの当たり前だろうし、オイラ達には普通? の生活なんて
 出来なくても仕方ないじゃんって。兄ィも『力』使えるし、オイラだってロード使う才能、あるみたいだし。だから、どうせならいっぱい商品仕入れて
 いっぱい稼いでさ、兄ィと温泉行ったり、老後の金貯めたり、ニジーさんやストケシアさんにお礼もしたいし、コハにいい肉食わせてやりたいし!」
「暁橙……けどね、きみ、それではいつか、その天使や魔獣に襲われたりするかもしれないだろう」
「それはそれ! だから、ロード拾うついでに遺跡潜って体鍛えてんの! 頑張れば頑張った分だけ、兄ィの懐も潤うし」

顔が熱くなり始めていた。まくし立てるように矢継ぎ早に話しながら、暁橙は再度スプーンを掴む。大きくカレーを一掬いして、口に放る。

「オイラ、子供じゃないんだよ。父さん母さんが大事にしてた店だ、潰したり潰させたりしたくない。兄ィだけじゃない、オイラだって店を守りたいんだ。
 もっとオイラの事信用して、頼って欲しいって……ずっとそう思ってたよ。兄ィ、ニジーさんには何でも話すけどオイラには何も言ってくんないから」

藍夜の顔を見るのが怖くなった。顔を上げないよう、必死に夕食を掻っ込んでいく。
藍夜はそこから反論もしなかった。気まずい空気と、アンブロシアが食器を片付ける細かい音が漂う。琥珀が顔を上げ、暁橙、藍夜を見る。
目を見開き、眉間に皺を深く刻む長兄。ただでさえ色の白いその顔が、さっと青くなったように見えた。
ふんふんと鼻を鳴らしながら、琥珀はおもむろにその足元に歩み寄る。頭を軽くふくらはぎにぶつける。そのままごりごりと擦り付けた。

「琥珀、」
「ねぇ〜、藍夜ぁ。お茶、飲もうよぉ、食後のお茶ぁ」
「お茶?」
「そっそ〜。暁橙、そろそろご飯終わるでしょ〜。ぼくはー、あったかぁいミルクがいいな〜。ねぇねぇ、飲もうよ、飲みたいよぉ〜」

名を出され、ふと顔を上げた暁橙と藍夜、その目線がぶつかった。始めは互いに困惑、動揺していた顔つきが、少しずつ柔和に変化していく。

「……そうだね。暁橙、君もそうするかい」
「うん、兄ィ。オイラも、あったかいの。ミルク入れたのがいいなあ」
「ならカモミールと合わせようか。アンブロシアが風呂を用意するそうだから、君、その後でも入りたまえよ」
「ん。了解、兄ィ」

藍夜の腕が、手が動く。琥珀の頭を恐る恐るといった体で撫でる。コハは噛んだりしないよ、苦笑いしながら、暁橙はどこかほっとした心地でいた。






「……やれやれだね」

暁橙が風呂に向かうのを見送ってから、藍夜は読みかけの本を手に、応接間のランプに火を点した。そのまま店主の席に落ち着く。

(まさか、暁橙があんな事を考えていたとは)

思いがけず弟に本音をぶつけられた。普段、暁橙は「兄ィ、兄ィ」と言っては、自分の本心を明かさずじまいでいるような性質だ。
意外な収穫に驚かされた。自分としては両親と同じ目に合って欲しくない、という気持ちでいたのを、疑念を持たせる事に繋がっていようとは。

(考えが及ばなかったか。まだまだ、僕も未熟なものだね)

嘆息と共に、背もたれに深く身を沈める。
神話やロード、魔獣。書籍を読み漁るうち、彼らの危険性や独善的思考、人間よりも遥かに高い行動力に、一時でも怯まされたのかもしれない。
机上に重ねた本を手に取る。ぱらぱらとページをめくり、途中だったところで手を止める。「殺戮の天使」。滲んだインクで、そう記してあった。

「『地母神ヘーラーに仕える二つの天使の片割れ。殺戮を司り、ヘーラーに仇なすものを一瞬にして葬る異常者』、か」

ニゼルと読み合っている最中の話だ、サラカエルが強襲したのは。正直、異常者かどうかはあの接触だけでは判断がつけられない。
それでも琥珀とアンブロシアは明確なダメージを負わされた、強力無比な天使であるのは事実だろう。

(またいずれ、と奴は言っていた。また来るのだろうね、間違いなく)

店を守りたい、その願いに変わりはない。しかしそれ以前に、暁橙やニゼルに危害が及ぶ事だけは避けたかった。
たとえそれがエゴ、驕りであったとしても……両親が残してくれた大切な家族と、唯一自分を受け入れてくれる幼馴染。それを失う事が恐ろしい。
自分はいつからこんなにも悲観的になってしまったのだろう、ふと藍夜は肩を竦める。色々な事がありすぎて混乱しているのかもしれない。
書物を閉じる。疲れている時に知識を無理に吸収しようとするのは良くない。今は休養と、慣れる為の時間が必要なのだろう。

「しばらく、店を休むべきかな」
「え、藍夜、お店休んじゃうの!?」
「おや、ニゼル」

微かな物音に首を回す。窓枠に顎と手を乗せ、首を傾げるニゼルの姿が見えた。

「随分と遅くに来たものだね。今晩も泊まるつもりなのかい」
「あー、うん。その分、明日早起きして仕事してくれたらいいからって、父さんが。止めた方がいい?」
「いや、そういうわけではないさ。僕は構わないよ」
「そっか。じゃ、おっじゃましまーす」
「君ね、玄関が開いているのだから、そちらから入れと何度言えば」
「へへ、いいじゃん別に」

床に散らばる牧草くずを手早く除去する。窓から入室したニゼルは、机上の本を手に取った。先の藍夜と同じようにぱらぱらページをめくる。

「うーん……やっぱ、読めないや」
「翻訳するかい?」
「ううん。自分で読めたらいいのになーって、それだけ」

本が戻されるのを見届けてから、藍夜はニゼルに椅子を勧めた。礼を言いながら友人は腰を下ろす。

「先の残りになるが、お茶でも飲むかい」
「あ、うん。飲みたい」

言いながら、既に藍夜はニゼル専用のカップにハーブティーを注いでいた。受け取ったニゼルが口をつけるのを待ってから、自分の分を注ぐ。
まだほんのりと温かい。口内に立ち込める花の香りを存分に吸い込んで、静かに目を閉じた。

「あっれぇ、ニジー。どしたの、お泊りするのぉ〜?」
「琥珀ー。琥珀こそどうしたの、こんな所で」
「どうもしないよぉ〜? ちょ〜っと、お外に用があるから、藍夜に聞いとこうと思って」

のしのしと重い足音。廊下から頭を出した琥珀は、ニゼルにうんうん頷き返しながら、ちらと視線を窓の外へ向けた。藍夜が目を開ける。

「で、で? ねぇねぇ藍夜ぁ、ぼく、外に出てもい〜い〜?」
「ニゼル、きみ、羊はもうしまったのかい」
「うん、大丈夫だよー。小屋はもう閉じたし、少しくらい琥珀が騒いだって平気だよ」
「ふむ。それなら」
「やった〜! んっじゃ、いってきまぁ〜す!」
「……入れ替わり立ち代わりで、全く忙しいものだね」
「あはは、俺も琥珀も、ぼけーっとしたタイプじゃないからねー」

あの性格だ、気にはなった。藍夜が窓に近寄ると、とん、と不意に肩がニゼルにぶつかった。
どうやら、友人も琥珀が何かしでかさないか気に掛けてくれているらしい。互いに顔を見合わせ苦笑する。
藍夜が目線だけ窓の外に向けるのに対し、ニゼルは俄かに上半身を外に乗り出していた。牧草を揺らす涼風が心地いい。

「あ、琥珀だ」

ニゼルが暗がりの向こうを指差す。月明かりの中、微かに凛々しい獣の姿が浮かぶ。
何度もその場で足踏みして、時折くるくるとターンしては、金の光を紺青の中に溶かしていく。星屑みたいだ、ニゼルがぽつりと呟いた。

「ニゼル、僕は」
「ん?」
「暁橙に……いや、何でもないさ」
「んー? なに、藍夜。暁橙と喧嘩でもしちゃった? 珍しいね」
「いや、喧嘩というほど大それたものでもないんだが」

先の暁橙の告白を、藍夜はぽつぽつとニゼルに話した。ニゼルは茶々一つ入れず、藍夜の顔を見ながら、聞き零しがないように聞いている。

「そっか、暁橙がそんな事を」
「ああ。少々驚いたよ」
「うーん、藍夜と暁橙が喧嘩するとそうなっちゃうんだ」
「だからね、きみ、喧嘩というわけでは」
「分かってる、冗談だよ。でも……そうだね、暁橙、大人になったねー」

琥珀の足踏みが、激しさを増した。月光を浴びて狂喜しているようにも見える。流石に表情まではよく見えない。

「知らないうちに、皆、先に進んでいくものだね。僕はあの時から……進めているのかな、少し、分からなくなってしまったよ」
「藍夜」
「ニゼル。僕と君が喧嘩したら、どうなるのだろうね。昔から、僕らはそういうのはあまりしなかったろう」
「え、俺と藍夜が? んー、想像つかないな……雷霆振り回して終わりじゃない?」
「君ね、僕を何だと」
「あはは、ごめんごめん。でも、そっかー、喧嘩。喧嘩かー」

琥珀の体が、ぐるぐると回転している。まるで地面に錐で穴を開けるような勢いだ。思わず藍夜も身を乗り出した。琥珀は鳴き声一つ上げない。
風が強まったような気がした。ニゼルが双眸を細める、二人ともに視線が琥珀に釘付けになった。

「……琥珀、さっきから何やってるんだろ」
「さっきね、『特訓するんだ』と言っていたんだよ、それじゃないかな」
「特訓? え、特訓って、何の?」

こちらが聞きたいよ、そうぼやく事を藍夜はしなかった。言葉を切り、固唾を呑む。
暗がりに変化が訪れる。激しく木々が揺れ、風が奇妙な流れを生む。刹那、だんっ! 力強く地を踏む音がした。
地響きさえしなかったが、二人は肩を跳ね上げる。ニゼルの手が藍夜のシャツを掴む。藍夜は眉間に力を込めた。「力」は使わず、先を凝視する。
霧が生まれた。濃厚な牧草の匂いを錐揉みしながら、霧、煙ともいえる量の空気が、琥珀を中心に据え、宙へ一気に駆け上がる。
牧草くずを巻き上げながら、その風の渦の力強さは、目にはっきりと映るほどだった。

「琥珀!」
「ニゼル!!」

琥珀の姿は今や、見えない。思わず身を乗り出したニゼルの肩を藍夜が掴む。彼を引き戻しながら視線を走らせる。
煙に動きがついた。ぐるんと円の流れを孕ませながら、煙が一直線にこちらに向かってくる。庇うようにニゼルを背後へ引き寄せる。
ニゼルが何事か叫んだ。雷霆は――間に合わない。部屋の隅から視線を逸らし、藍夜は身を硬直させた。

「――ッ、あーいや〜!!」

聞き慣れた声がした、様な気がした。直後、猛烈な体当たりを正面からもろに食らう。
ニゼルを巻き込んで倒れ込む。受身を取ったニゼルはしかし、藍夜と襲撃者、両方の体重を一身に受け止める羽目になった。

「ちょっ、重っ……藍夜!」
「な……何だい、それは。そんなもの、聞いていないよ、『琥珀』!」

え、琥珀? 悶絶しながら目を開けたニゼルの目に、それは映し出された。
艶やかな黒髪、少々血色の悪い褐色を帯びた肌、小柄な体格。十歳くらいだろうか、見た事のない一人の少女が、藍夜の腹に抱きついている。
彼女の体を受け止めながら、藍夜もまた体当たりの衝撃――否、眼前の琥珀の突然の変化に戸惑い、目を白黒させていた。

「やったぁ、成功、成功、大成功〜! ねぇねぇニジー、見てよぉ、これこれ。スッゴイでしょ〜」
「え……その声、え? 君、もしかして……琥珀!?」

ぱっ、少女は素早く藍夜から離れ、二本の足ですっくと立った。ぴし、と片手を額付近に当て、敬礼さえして見せる。

「そうでぇ〜す、ぼく、琥珀ぅ〜。へへー、凄いでしょ、特訓してすこぉし強くなったから。魔力使って、『人型に変化』出来るようになったんだよぉ〜!
 これで、ニンゲンの言うカクトウギとかタイジュツとか使えるし〜、体も軽くなって、素早さも上がったから〜きっとスッゴイ戦力になると思うよ!!」

年相応に「ない」胸を張り、えっへん、と少女……琥珀は誇らしげに背伸びした。
床に座り込んだまま、藍夜とニゼルは顔を見合わせた。何だいこれ、分かんないよ、君知っていたかいニゼル、知るわけないでしょ、目で語り合う。
二人から何の反応も世辞の言葉もないからか、琥珀はきょとんとしていた顔、その頬を、ぷくっと大きく膨らませた。そっぽを向いて、

「何それぇ〜、ちゃぁんとオヤクダチ出来るようにって頑張ってるのにぃ〜。藍夜もニジーも冷たいのぉ〜」

たんたん、と軽く床を踏み鳴らす。その動作が、獣の格好の時のそれとまるで同じだった。
まさか本当に? 互いに目を見開いてから、藍夜が先に立ち上がる。ニゼルに手を貸し、立ち上がらせる。琥珀にはばつの悪そうな視線を流した。

「いや、すまないね。特訓などと言うから、てっきり走り込みか何かかと思っていたんだよ」
「えぇ〜? ちょっと、藍夜ぁ。そーんなダッサイ地味〜な事、ぼくやらないよぉ」
「まさかヒトの姿になるとは思いもしなかったからね。大したものだよ」
「そうそう、ほんと、ビックリだよー。凄いじゃない、琥珀。普通に人間の女の子にしか見えないよ?」

褒められればそれで満足なのか。琥珀はぱっと明るい顔で破顔した。まぁね〜、と上機嫌でニゼルの足に抱きついている。

(やれやれ、休む暇もないものだね)

肩を竦め、藍夜は外に目を向けた。勢いよく飛び込んできた琥珀は、綺麗な裸足の足跡を窓枠、床板にべたべた残してくれている。
元の立ち位置と思わしき場所には、サークル状のはげが出来ていた。目測だが、半径一メートルほどの範囲で牧草も荒れきっている。

「ふむ、戦力には、なるのだろうさ。戦力にはね」
「え、あ……藍夜?」
「ニゼル。きみ、少し離れていたまえ」

全く、考え事をしている暇も許されない。また浅い眠りになるのだろうか……
にこりと綺麗な満面の笑みを浮かべて、藍夜は琥珀の肩を掴んだ。ニゼルから無理やり引き剥がす。
同時に、近くに掛けてあった自身のコートを投げ、羽織らせる。あろう事か、この瞬間まで琥珀は全くの裸体だった。
振り向いた琥珀の目、瞳は、獣の時と同じ、澄んだ琥珀に美しいグリーンの光を一筋宿していた。座らせる。肩を掴み、問答無用で正座させる。

「え、なに、なぁにぃ、藍夜」
「……いやね、人型変化なんて早々お目に掛かる事のない奇跡だ。だがだからといって、君ね――」

――落雷! ニゼルは、あぁ、とも、うん、とも取れる声にならない声を漏らした。長くなりそうだ、とは思っていても口には決して出さない。

(巻き添え食らって、俺まで説教されたくないもんなー)

踏み荒らされた牧草を遠くに見ながら、しかし、牧場跡取りは妙に冷静な面持ちでいた。
心が少しずつ冷えていく感覚があった。それだけ、ここ数日の間、オフィキリナス周辺が騒がしく、慌しかったのだとも言える。
暁橙の成長。琥珀の人型変化。次々と関わってくる天使達……そして、友人、鳥羽藍夜の心境の変化と揺らぎ。

(藍夜。藍夜こそ、どこに向かって進んでるの)

藍夜の話を思い出す。「喧嘩をしたとしたら、どうなるか」。それこそ、こちらが聞きたいくらいだった。
「力」を持ち、使いこなし、周囲に同じように才能豊かで個性的な面々を据え……友人が少しずつ変わっていく様に、胸がざわつく感覚を覚えた。
どうかしてる、ニゼルは強く頭を振る。

「ほら、藍夜! 藍夜こそお風呂入ったの? 俺はもう済ませたけど!」

「分からなくなってしまった」のは本当に鳥羽藍夜だけなのだろうか。ニゼルは内心、自問する。刻々と、夜は更けていきつつあった。





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 UP:15/09/09