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楽園のおはなし (1-15)

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「アンバーって、それ、前にシアも言ってたよね?」

体勢を整える。猛禽類の上半身、それを、下半身の獅子の筋肉で支えて前傾させる。唸りはしないが、琥珀は目前の黒衣の男を警戒していた。

「よ〜く覚えてないんだよね〜。ぼくはぁ、今は、『琥珀』なの! ニジーがそう付けてくれたんだから」

纏う殺気も存在感も、常人のそれとはまるで違う。ましてアンブロシアの怯え方にも違和感があった。この男は危険だ、その予感が琥珀にはあった。
向こうは応えない。咄嗟に目眩まし代わりに投げつけた古代琥珀の首飾りを拾い上げ、男は数秒沈黙していた。
挨拶したんだから返事くらいしろよ、ふんふんと鼻を鳴らす琥珀に対し、男は首を傾げて見せた。

「ニジー、ね……なるほど。ヒトの世に堕ちて、脳内細胞まで質が落ちたってわけだ。実に獣に相応しい末路じゃないか」

それどころか、笑った。こちらにはアンブロシアがいる、自分だって飼い慣らされた犬のようにか弱い性質じゃない。
なのに、なんだ、この余裕は。一瞬呼吸を止める琥珀だが、

「琥珀くん! 危ないっ!」

アンブロシアの悲鳴が空を裂いたのは、その一瞬の間だった。「何か」が眼前を走る。きらりと草原の上で銀光を放つ。
アンブロシアが琥珀の右翼を掴むのと、反射で琥珀が一歩後退ったのは、殆んど同時だ。刹那、ぱっと勢いよく真紅の血が宙に弧を描く。

「! シア!!」
「うっ……」

見れば、アンブロシアの左腕に裂傷が出来ていた。さほど深くはないが、範囲が広い。右手で腕を押さえ、うずくまるアンブロシア。
指の隙間から鮮血が零れていった、食欲をそそられる――いいや、そこまで自分は獣(けだもの)じゃない!
我に返るや否や、双方の間に立つようにして前に出る。琥珀は怒声を張り上げた。

「お前ぇ! シアに一体、何すんの!!」
「何って。見ての通り、お前が避けようとしたから彼女に当たっただけだろ?」

男は笑顔のままだった。先ほどと変わらぬ、顔面に貼り付けただけの形式上だけの、薄ら寒い微笑み。

「駄目じゃないか、護衛のつもりならそれなりに働いてみせなくちゃ」
「――っ、」

叩きつけられる敵意と悪意。やむなく、アンブロシアを両翼で突き飛ばす。反動で琥珀はより一層前に出る。
力任せに草を踏む。俄かに右足が滑る。背後からアンブロシアの短い悲鳴が届いた。構わず五感に神経を集中させる。
男も合わせるようにして、右足を半歩下げていた。黒い腕が閃く、翻る。視界の端、琥珀の目に銀光が反射した。

(これ……鋼糸だ!)

気付くや否や、強引に体を捻る。神話上、ヒトに恐れられる巨大で凶暴な魔獣グリフォンとはいえ、まだまだ自分は小型の方だ。
本能は信号を的確に身体に伝えてくれた。一筋、頬の横を疾走。もう一筋、背面すれすれ、翼の先端。避ける、避ける、避けられた。
最後の一筋は鼻孔の直前。これくらいならと身を引く琥珀だが、しかし――眼前に、男の腕が伸びていた。

「!?」

思わず絶句。刹那、強い衝撃。視界がぱっと煌き、同時に暗転する。遅れて、顎に鈍痛が迸る。
嘴の下、そこを殴りつけられたのだと気付いた時には追撃が来ていた。腹部に男の蹴り、靴底が手酷くめり込む。
目と頭の中で星が輝く。どこかから、琥珀くん、とアンブロシアの声が聞こえた気がした。
受身も取れないまま、蹴り飛ばされた格好のまま、琥珀の身体がアンブロシアの元に滑ってくる。腕を押さえたままアンブロシアが駆け寄る。
出血は止まらない。琥珀は、低い唸り声を上げ身悶えている。失神とまではいかなくても、与えられたダメージは深いように見えた。

「さて、質問に答えて貰おうかな」
「! きゃっ、」

手を伸ばしかけたその瞬間、右肩に激痛、流れ去る視界。気付けば、アンブロシアは右肩を踏み抜かれていた。
草原の上に固定される。もがこうとすればするほど、男は足に力を加えた。肩がみしりと悲鳴を上げる。
激痛の中、アンブロシアは頬にさらさらとした感触を覚えた。髪だ、男の真夜中を髣髴とさせる髪が零れ落ちている。

「さ、らっ……サラカエ、」
「おや、なんだ。そいつはそうでなくても、君はちゃんと僕を覚えてるじゃないか」

にこりと笑うが、両目はまるで笑っていない。髪と同色の右瞳、それがゆらりと色を淀ませたように見えた。
知った顔だった。知り合いの筈だ、自分だけではない、琥珀でさえも。
痛みと苦悶の狭間、アンブロシアは声にならない慟哭を漏らした。急激に霞む視界では、男が今、どんな顔をしているかさえ分からない。

(……アン。アンブロシア)

脳裏に蘇る声がある。多くの幸福に溢れた、懐かしい過去の記憶。そう遠くない昔、まだ天使として姉と共に過ごしていた天上の世界の日々。
そこに、琥珀と、男の姿はあった。
姉ともども、自ら仕えていた美しく気高い女神、ヘラ。
その庇護下にあった魔獣――当時「アンバー」と呼ばれていたグリフォン――と、件の女神を守護する天使、サラカエル。
豊潤な大地、咲き誇る四季の花、心地よい風、ありとあらゆる寵愛を受け光に満ちる、天上の楽園。そこに、幼い時分から彼らと暮らしていたのだ。

(覚えてる、覚えているわ。忘れる事なんて出来ない。そうでしょう? 姉さん)

何故琥珀が記憶喪失状態にあるのか。様子見も兼ねて数日を共に過ごしたが、それは今でも分からないままだ。
歯噛みする。涙は溢れて止まらなかった。不意に、アンブロシアはサラカエルの力加減が、一瞬緩まったような気がした。

「やあ、参ったな。泣かれても困るんだけど」
「うっ……うう」
「泣きたいのはね、正直こちらの方なんだよ。これでも一応手加減してる。分かるだろ?」

本当に困惑している、そう言いたげな声だった。
サラカエル。
月の光と運行周期、生命を屠る任を担う、通称「殺戮の天使」。
ヘラの身の回りの世話をする傍ら、彼女に仇なすものを人知れず排除するのが、年の殆んどを全身黒尽くめで過ごす彼の勤めだった。
いつだって余裕のある笑みを浮かべていたが、内心ではヘラに敵対するものを強く憎悪し、捕虜をどう処分するか思考する残虐さを併せ持っていた。

『サラカエル様、こんにちわ! こんなところで何をしているのですかーっ?』
『やあ、アンブロシア。いやね、鋼鉄の処女の錆を落とそうと思って』
『こう、てつの……?』
『ああ、見た事なかったっけ。ほら、血がこびりついているだろ。いっそ入ってみるかい?』
『!? き、きっ、きゃぁああああー! ねっ、姉様ぁー!!』

笑いながら、楽しみながら、拷問、殺傷を行う事が出来る男だった。それでも、ヘラの屋敷に住まう者に対してはまだ柔和な表情を見せていた。
そうして仕事に追われる日々の中、彼は時折、心底楽しそうに笑う瞬間があった。
対天使に当たる「審判官の天使」。彼の護衛を兼任する折、他愛もない事で彼らは幸せそうに笑い合っていた。
対天使。サラカエルにとって、或いは、互いにとっての唯一の理解者。自分と姉のように、二人はいつも一緒にいた筈だった……

「……ま、は」
「うん?」
「ウ、リエル、様は、一緒で、はっ、――っぁあああああ!?」

刹那、アンブロシア絶叫。肩を踏む力が強まり、今度こそ骨が砕かれようとする。思い起こしていた愛しい記憶が、たちどころに剥離する。

「おや、痛むかな。それじゃ、これはどうかな」
「っ、や、あ、やめ、っあああ!」

左腕の裂傷。そこにサラカエルの左足が叩きつけられる。
金属か何かを埋め込んでいるであろう硬質な踵が傷口を抉り、アンブロシアの額に脂汗を滲ませた。
意識を手放す事が出来れば、まだ楽だったのかもしれない。しかし、気が遠くなりそうになる瞬間、彼は狙い澄ますように靴底に力を加えた。

「気安くウリエルの名を呼ぼうなんて、随分偉くなったじゃないか。それとも何だい、ウリエルの事なら何でも知ってると、そう言いたいわけかな」

押し返そうにも右腕は肩を踏まれたままだ。弄ぶように踵が二の腕を蹂躙する、その度に細やかな飛沫が飛散する。
再度、アンブロシアは歯噛みした。サラカエルがおや、と言いたげに微かに片眉を吊り上げる。

「……す、」
「うん?」
「ちが、います……わ、わた、しは」

口から泡とも液体とも取れる唾液が零れようとしていた。必死で嚥下する。恐怖も激痛も承知の上で、アンブロシアはサラカエルを見た。
彼は、言葉を待っているかのようだった。ヘラに敵対した者を捕虜とし、拷問にかける間際の無表情。それでも彼女はそこから視線を反らさない。

「わたしは……姉さんを、『アンジェリカ』を探してここにいるんです! 端からウリエル様の居場所なんて知らない!!」

サラカエルの足が一瞬びくりと震えた。ああ、やはりそうだ――アンブロシアは目を見開いた。一粒涙を零す。

(サラカエルさん、あなたも。あなたも『そう』なんですね)

自分がウリエルの名を紡いだ瞬間、サラカエルの顔に濃く滲んだのは怒りだった。
しかし、それとはまた別の複雑な感情も混ざっていると、アンブロシアは感じる事が出来ていた。
涙で視界が霞んでいようと、痛みで意識が薄れ掛けようと、姉の軌跡を見失った自分になら気が付けない筈がない。

「わたしだって姉さんを探すのに必死なのに! 『あなたがウリエルさんを探すように』気が遠くなるくらい歩いて歩いて、探し回っているのに!
 あなたの対天使の足取りをも追う余裕、あるわけないじゃないですか! 『八つ当たり』は止めて下さいっ……わたしは貴方の力になれない!」

一瞬の隙だ、それさえあればいい。サラカエルが再び踏み込むより先に、アンブロシアは上半身に渾身の力を込めた。
肉が削り取られるような錯覚、牧草が傷口を抉る感覚、それらを押しのけ強引に横転する。
跳ね起きるより先に両腕を伸ばす。対し、手首の鋼糸を振るサラカエルだが。

「! 結界、」
(弾いた!)

ぱしっ、と乾いた音が響いた。サラカエルの呟きとアンブロシアが内心で起死回生の機会を見出したのはほぼ同時。
虚空を薙ぐワイヤーはアンブロシアに届かない。彼女が咄嗟に張り巡らせた目に見えない壁、天使の生み出す「結界」がその軌道を阻んでいる。
座り込んだまま必死に後退るアンブロシア。サラカエルは焦りもしない、一歩、二歩と後退。両腕を、目に見えて力強く前後に振った。
風を切る音。刹那、両脇から迫りくる兇器の脅威。立ち上がろうとしたアンブロシアは、逃げる間もなく切り刻まれ――

「……おや、天使かい」

――なかった。
どこからともなく冷徹な声が届く。同時に、鼓膜を突き抜けるような大音と「稲光」が視界を覆った。
自身の結界が容易く破壊されるのを視認すると同時に、アンブロシアは脇を抱えられ引き寄せられる。思わず悲鳴を上げた。

「アン、落ち着いて! 藍夜!」
「にっ、ニゼルさん!? それに……」

腰が抜けた自分を立ち上がらせ、肩を貸すのはニゼルだ。彼の視線の先では、険しい顔をした少年が一人、サラカエルに対峙している。

「……藍夜、さん」
「やあ、アンブロシア。大丈夫かい」

視線は眼前、焼かれた武器を収束させたサラカエルにのみ注がれる。こちらには見向きもしない。
「ほらアン」、ニゼルに小声で促され、アンブロシアはそこでようやく、自分が全身傷だらけであるのに気が付いた。

「わ、わたしは大丈夫ですっ! それより琥珀くんが、」
「分かっているさ。全く、正直落胆したよ。君はまだいい、だが琥珀は別だ。減俸した方がよさそうだね」
(!? そんな、こんな時までお金の話!?)

愕然として、意見を求めるようにニゼルを見る。彼はふるふると緩やかに首を左右に振った……。

「殺戮の天使、ね。胡散臭い業者、特に葬儀屋だとでも言って貰えた方がまだ納得がいくかな。帰りたまえ、営業妨害にもほどがある」
「……鳥羽藍夜、か」
「おや、僕をご存知とはね。天使というのは案外博識、いや。それとも暇なのかな?」

「雷神の雷霆」が突きつけられる。サラカエルは苦いものを噛んだかのような、ばつの悪い顔を浮かべた。
ニゼルに支えられながら手早く呪を紡ぎ、自身に回復の祈りを掛けるアンブロシア。激痛は次第に和らぎ、顔を上げる余裕が生まれる。
ニゼルと一度だけ顔を見合わせる。先に視線を外したのはニゼルの方だ、倣うように藍夜を見た。
藍夜とサラカエル。
両者の間には、なんとも言いようのない奇妙な気配が漂っていた。天使であるサラカエルに対し、ヒトである筈の藍夜はあまりに尊大な態度でいる。
藍夜の左瞳は先ほどから瑠璃色に染まり続けていた。サラカエルの正体におおよその見当をつけ、ロード一本のみを手に正面から向かい合う。
不意に、鏡に映すように、水面に照らすように、サラカエルの右瞳もまた艶やかな青色に染まった。一瞬、藍夜の眉間に深い皺が寄る。
不愉快だ、小声で彼がぼやいたのが聞こえた。

「琥珀のとき同様、そう昔までは『視る』事は出来ないが。探し物ならここは見当違いさ。帰りたまえ」
「いつ帰るかは自分で決めるさ。観光がてら、お茶の一つでも淹れて欲しいくらいだね」
「招かれざる客、いや、君の場合は客ですらないがね。『害獣』に淹れる茶など、端から僕の店には存在しない」

先に仕掛けたのは藍夜だった。雷霆が振り下ろされる、鮮烈な閃光が宙で爆ぜる。
一拍遅れて届く雷鳴、衝撃。ニゼルに庇われながら、アンブロシアは微かにサラカエルが舌打ちしたのを聞いた。
天使とはいえ、相手は高位神具。雷そのものが相手では、その身は焼かれるだけともいえる。事実、武器であるワイヤーが二対失われている。

「帰りたまえ! さあこれで三度目だ、後はない!」
「く……」

ついに後退し、歯噛みするサラカエル。
ふと、アンブロシアは何らかの違和感を覚えた。顔を上げると、どうやらニゼルもそうらしい。両者を見る目に怪訝な光が宿されている。

「致し方ない」

サラカエル、嘆息。独白じみた、落胆を絞り出すかのような声だった。

「今日のところは退かせて貰うよ、その雷霆に免じてね。けど、いずれ僕はまたここに来る……またいずれ、ね」
「おや、気に入った品でもあったかな。残念だがその申し出は却下だ、生憎、天使に売るものなど揃えていないんでね」

強い拒絶の意志。冷淡な声色の藍夜に対し、サラカエルの表情は晴れない。一歩、二歩と後退りし、刹那、背中にトリ型の翼を召喚する。
長い髪と同じ、夜色の大型の翼。あからさまに不機嫌そうに顔を歪める藍夜に一瞥を投げてから、彼は下がりながら力強く羽撃いた。
血濡れの靴が草原から離れる。宙に浮かぶ天使を前に、藍夜は追撃を入れなかった。何も言わずに睨み付けるだけ。
背を向けるサラカエルもまた、何も言わずに姿を消した。
羽音が遠のく。物音がしなくなってから、藍夜はようやくロードを下ろした。ふっと短く息を吐く。

「藍夜、大丈夫?」
「ああ、平気さ」

気遣うようにニゼルが声を掛ける。肩を小さく竦め、藍夜は腰のエプロン紐にロードを引っ掛け、二人の元へ向かった。

「大した傷、いや、治し終えたのかな。アンブロシア」
「はい。あの、藍夜さん」
「うん?」
「いえ、琥珀くんの事なんですけど」

言葉通り、ニゼルに軽く頷いて見せてから、アンブロシアは彼の肩から腕を離した。祈るように胸部に手のひらを添える。

「あまり怒らないであげて貰えませんか。サラカエルさんは……天使の中でも上位に位置する方で」

殺戮の天使。高位天使。ヒトの世で敵対する事自体が異例である相手。
相棒にして親友、理解者であるウリエル捜索の為に彼がここを訪れたのだとしたら、その意気込みたるや想像に難しくない。
そもそも、当時サラカエルはヘラの寵愛する魔獣アンバーを調教、飼育する立場にあった。弱点は勿論、あしらい方とて熟知しているに違いない。

「『殺戮の天使』の通り名だって、そのままの意味で宛がわれているんです。琥珀くんに万が一の事があったら」
「『とても強くて恐ろしい天使だから、グリフォンとて負けても仕方がない』とでも言いたいのかな」
「そういうわけでは……」
「僕はね、アンブロシア。ああいうものから店を守らせる代わりに琥珀を留めておく事にしたんだよ。仕方がないで済むなら今すぐ放るさ」

鳥羽藍夜は天使を忌み嫌う。それこそ、親の仇でも見るかのように。
ニゼルが以前話していた事を思い出した。「両親が酷い目に合わされた」。藍夜と天使の間に、一体何があったというのだろう。

「ちょーっとー。あーいやぁー?」
「ニゼル」
「もう、アンが悪いわけじゃないでしょ? 落ち着きなよ」

考え込み始めるアンブロシアをよそに、ニゼルが一歩、二歩と前に出る。藍夜に近寄り、色白の耳元に口を寄せる。

「(あのサラカエルって奴、何者なんだろね)」
「(殺戮の天使、で、アンブロシアに同じく探し物をしている浮浪者、と僕には視えたがね)」
「ちょっと藍夜。すっごいフィルター掛かった目で見てない? それ」
「本当の事じゃないのかい」
「うーん」

一度離れ、ニゼルは考え込む素振り。藍夜は答えを促すように肩を竦めた。

「どうもねー。『それ』だけじゃないような気がするんだよねー……殺戮の天使、なんでしょ? アンが怯えるって事はそれなりに強いわけだよね。
 琥珀まで吹っ飛ばされちゃってるし。あのさ、藍夜は雷霆があるから別として、本気出せば俺やアンなんか、ぱっと片付けられると思うんだよね」
「同意しかねるが、そうだろうね」
「そこは同意して欲しくなかった! んー、なんだろ。なんか引っかかるんだよね、何ていうか」

我に返り顔を上げるアンブロシア。ニゼルは藍夜を真似するように肩を竦めた。

「本気出してなかった、みたいな感じ。アンにはザクザク攻撃してたけど、藍夜にはあんまり、っていうのかな。手加減してるように見えた」

ザクザクって、アンブロシアは震撼。
そういうものかい、藍夜は眉間に皺を寄せる。

「俺から見てだけどね。ねえ、アンはどう思う? ああやって敵を目の前にして、不利だからって逃げ帰るタイプなの?」
「えっ? あ、えっと、そう、そうですね。いえ、サラカエルさんは一度でも敵だと認識した相手には、容赦がなかったように思います」
「容赦がない、ね」
「はい。お仕えしている方の意向がなければ、独断で殺傷か、いきなり拷問に掛けるような方でしたから」
「うっわー、何それ。こっわー。友達いなさそうだよね」
「ニゼル」
「はーい」

顎に手を当て、藍夜は暫し黙考。
言われてみれば確かに、琥珀やアンブロシアへの一方的な攻撃に比べ、こちらへは生ぬるい対応だったように思えた。
その凶悪さが天使達の間でも広く知られているというのなら、雷霆を所有しているとはいえただの人間の一人くらい、難なく退ける事が出来た筈。
何故、サラカエルはそれをしなかったのか。

(たまたま魔力が尽きていた、殺す気が失せた……いや、それなら逃走する際に瞬間移動なんて芸当、するわけがない)

オフィキリナスを訪れた際、捜し求めていた姉の不在を知るや否や、アンブロシアは似ていたとはいえ初対面の男の前で号泣したほどだった。
なら、殺戮の天使とて同じ心境に陥ったとでもいうのだろうか。あまり想像出来なかった。
そもそも仮に自分がそう――考えるのも不快だが――だったとしても、「高位神具に恐れをなして所有者に背を向ける」という選択は有り得ない。
何が何でも、手がかりだけでも、と情報を探るだろう。どんな形であれ、それを邪魔をするものは敵であり、排除するべき対象だ。ならば何故……

「考えても、仕方がないか」
「藍夜?」
「藍夜さん?」

疑問は尽きない。藍夜は頭を振る。
サラカエルの目的が何であれ、天使風情がオフィキリナスに害意を向けてきた、その事実が問題なのだ。
事情が如何なるものであれ、同情してやる謂れも、受け入れてやる理由もない。アンブロシアのように無害でないものであるならなおさらだった。

「アンブロシア。琥珀の治療を頼まれてくれるかい」
「! はい、勿論です!」
「藍夜……」
「無論、その後で説教と減俸の意を伝えるつもりでいるがね」
「!? えっ!? ええええ!?」
「あーあ、もう! せっかく途中までいい話だったのに」

一同、オフィキリナス方面へ目を向ける。
気を失っている間に何を言われているか、知ってか知らずにか。緊張が解けたか、或いは眩い雷撃に驚き過ぎたのか。
いずれにせよ、噂の張本人はただ一匹、呑気にすやすやと草原の上で寝息を立てたままでいた。





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 UP:15/08/20