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楽園のおはなし (1-14) BACK / TOP / NEXT |
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あれはいつの事だったか。しかし、今もなお色褪せない記憶である事に違いない。 呪縛のようでさえあった。いや、むしろ呪縛であってくれても良かった。忘却するなど許されてはならない記憶だ。 そう確信している―― 「――うん。五月蝿い、なんてレベルじゃないね」 ……壁越しに聞こえるのは、品のない騒音だった。歯車と歯車、鉄の鎖が絡み合い、煉瓦と木材だけで造られた粗末な施設を内から圧迫している。 耳を塞いでしまいたい、「彼」は無言で眉間を寄せた。苛立ちは最高潮にまで達していて、組んだ腕に余計な力が篭っていくのが自覚出来る。 眼前、目的の人物はこの騒音がまるで聞こえていないか、或いはもう感覚が麻痺しきっているのか、呑気に鼻歌などを噴いていた。 「はいはい、お待ちどう様! 自慢の茶葉で淹れた、特選のお紅茶ですヨ〜」 「はい、って、本来なら一回だけでいいものだと思ったけどね」 声は歌劇のように張り上げられ、カップを差し出す腕は大きく振り回され、その場で身体は二回転ほど。一挙一動が大袈裟で不愉快にさせられた。 着席を促されるも、片方の手のひらをピッと水平に立て、分かりやすく拒絶する。相手は汚い音を立てながら茶を啜り、自分の席に腰を下ろした。 数秒待たずに組まれる足。客人の前であるにも拘らず、ふんぞり返り、張られる胸。身に纏うスーツも、シャツも、ネクタイも、どれもが高級品。 しかし、ここまでそれらを貧乏くさく着こなす事が出来る人物がいるだろうか。容姿に恵まれている分、逆に見苦しいと「彼」は一人頷いた。 「残念ですネ〜。美味しい茶葉なんですけれど」 「大丈夫。君のお茶は美味しいんだと思うよ、僕が気分じゃないだけで」 「そうですか〜、紅茶がお好きだと伺ってましたんで、街の連中に無茶ぶりして用意させたんですが」 下らない私用でヒトを酷使するなんて、まさに傲慢そのものだね――人好きする笑顔をキープしたまま、「彼」はようやく腕組みを解いた。 室内はインクと蒸した豆、新しく織られたばかりの紙の匂いが満ちている。壁越しの機械音の合間に、時折職人らのちょっとした私語が挟まれた。 ホワイトセージ中央、街長の屋敷と中央公園よりほどよく離れた工房施設、北都印刷所。その社長室、テーブル一つを挟んで彼らは向き合っている。 「『生き残り』がヒトに紛れて生活している、とは聞いていたよ。ま、ここまで堂々としているとは思わなかったけどね」 首を傾げるのは、立ったままの青年。長く真っ直ぐな夜色の髪に、左右で色の異なる瞳を収めた剣呑な目。グローブからコート、靴までもが黒一色。 さながら喪服だ。事実、立てた襟の隙間から見えるネクタイも弔事専用のものが使われている。身だしなみに気を遣う方らしく、埃一つ付いていない。 「ええ、ええ。そりゃもう、苦労しましたとも。しかし、あなた様もご健在であられたとは。いやはや、これぞ神の思し召し!」 底に残った茶葉さえ飲み干す勢いでカップを傾ける男。高価な服で身を固め、流行りの香水を纏っているが、多少マナーの悪さが目に付いた。 肩ほどで切り揃えられた金髪に、黒みを帯びた青い瞳。再度青年に椅子に座るよう促すも、またも片手で遠慮され、男はこれまた派手に肩を竦める。 スーツの左胸ポケット間近に飾られた象牙製の小さなプレートには、「北都印刷所社長」と堅苦しい型の文字が刻印されていた。 「神の思し召し、ね。へえ、それ、君にとってどこまで本気なのかな。『ペネムエ』」 「おやあ、心外ですぞ。ワタクシはいつだって、今でさえ、どこででも神々を愛しているというのに。『サラカエル様』」 「様付けなんてガラじゃないよ。サラカエルでいい」 席から腰を上げ、身を乗り出し、男は興奮冷めやらぬといった風に青年を見た。ペネムエと名を呼ばれるや否や、声量をいっそう上げる。 青年は静観していた。拒絶の意も兼ね、再び腕が固く組まれる。残念だ、と言う代わりに、ペネムエはのろのろと着席し直した。 「来客は常からありますが、皆、商売目当ての者ばかりです。嘗て古き良き時代、ワタクシの正体を知る方の来訪など、何年、何十年ぶりでしょう」 「へえ、結構繁盛してるってわけだ。感心するよ」 「ええ、ええ。そりゃもう。辺鄙な田舎町ですが、援助の方もなかなか宜しいもので。お陰でマメインクの改良にも余念が尽きません」 蒸かされた豆の匂いと立ち込める熱気の正体はそれか、サラカエルはごく僅かに両目を細めた。 ホワイトセージが何を思ってペネムエに、ひいては、彼が経営する印刷所に税金を注ぎ込むのか。まるで理解出来そうにない。 インクも紙も、それどころか施設そのものも粗悪で、果たしてどれほどの金が彼の懐に飲まれ消えていったのか。金の無駄遣いとしか思えなかった。 「君の経営理念に部外者の僕が口を挟むつもりはないよ。聞きたい事があって来たのさ」 「へ? あ、ああ、そうでしたか。なんだ、さっきも街の偉い方と会ってきましたんで感覚が抜けなくて」 偉い方。白髪に俄かに鴇色を差した長身の青年だろうか――つい先ほど「観測」していた人間を思い出し、サラカエルはふむ、と小さく頷いた。 (ハイウメ=ベネクトラ、ね) 面立ちは母親に似て賢そうではあった。口の汚さは育ちと仲間環境によるものか。他人を見る目がない男だ、と憐憫も交えて口元に弧を描く。 ペネムエの大仰な態度に怯まず、彼の眼前、印刷所の経費の不透明さに声を荒げるのは、街の幹部の中でも件の青年くらいのものだ。 うまい具合に育てれば良かったものを……ペネムエという癌を飼っている時点で、この街にも「やはり」期待出来ないかもしれない。 「君、ここで印刷業務の傍ら、自費出版もしているらしいじゃないか。小説家にでもなるつもり?」 「えっ? い、いやあ、そんな。ワタクシの本、そ、そこまで良かったですかネ〜!?」 「……ふふ、誰もそこまで言ってないけど。ま、そう思いたいならそれでもいいんじゃない。そうじゃなくてさ――」 不意に立ち上がるペネムエ。間延びした口調と打って変わり、彼の眼差しが鋭く険しいものに変貌したのをサラカエルは見逃さない。 一歩素早く後退し、コートの左袖奥、手首に緩く巻きつけていた鋼糸に親指と人差し指を這わせた。第一関節に絡ませ、指の腹をなぞらせる。 鼓膜にごく僅かに届く鋼の音。ひゅるりととぐろ巻く鋼糸。あと一歩、あと少しでもペネムエが接近してくるようであるならば。 「――『ヘラ』様について、あれこれ手酷い事を書いていただろ。どういうつもりなのかと思ってさ」 予想に反し、ペネムエはそれ以上は迫ってこなかった。後退した姿のまま、しかし緊張は解いてやらないサラカエル。 ペネムエは酷く居心地悪そうに身を捩じらせた。サラカエルが如何なる人物か、「執筆」、「読破」の能力を通じて「熟知している」からだ。 余計な追撃、或いは抵抗、逃走を加えないだけ、まだ度胸がある方か。ワイヤーを外さず、サラカエルは首を傾げて返答を促した。 「どう、と言われましても……ワタクシはヒトが信ずる姿、ありのままのヘラ様を紙に描いただけですよ」 「ありのまま、ね。『嫉妬深く』?」 「そう、嫉妬深く! 陰湿で陰険! 女の鑑というべき気分の浮き沈みが激しい御方!」 ようやっと本題を切り出せそうだ。座れと言う代わりに手をひらりと軽く振り、ペネムエが腰掛けたところでサラカエルは鋼糸を手首に巻き直した。 「へえ、言うね。それ、面と向かって本人に言えるのかな」 「まさかそんな! ご本人がいらっしゃらないからこそ書ける事ではありませんか」 「そうなのかい、許可でも貰って書いたのかと思ったよ。或いは……本人の監修の元で、とか」 「まさか。ヘラ様は『ラグナロク』の際に行方知れずとなった代表格ではありませんか、許可なんて、とてもとても」 「へえ、書物を通じて訴えかける事は出来たかもしれないじゃないか。君の記す書はあの方だってよく目を通されていたんだから」 「いえ、サラカエル様。ワタクシが『紙』と『文字』を司るが故に、如何なる実力があるのか、とあの御方は興味本位であられたに違いありません」 「ふん。ま、気にはされていたようだからね」 「ええ、ええ。ワタクシごときを気に掛けて下さるなんて、ヘラ様は素晴らしい女性ですとも」 「そうだね。それで君は『いない』のをいい事に、あの方を悪しように書いたわけだ。素晴らしい話じゃないか」 「それは、まあ……ワタクシは真実を記したまでですから。それくらいしか、ワタクシには取り柄なんてないものですから……」 「それもそう、だったかな? ふふ、何せ君は――」 ヒトの世に堕ち、ヒトに紛れて暮らしているこの男ならば何か知っていそうなものだと思っていたが。サラカエルは笑顔を維持しながら歯噛みする。 「――ええ。ワタクシは碌でなしですとも。ヒトに神々の英知の一つ、『紙の製造方法』と『字の記し方』を教え与えた『天使』ですから」 サラカエルとペネムエは天使だった。古の時代、世界創造を果たした神々の手足として造られた、至高の生命体。 それも、個体名と固有能力を所有するほどの高位に座する天使。過去、同じように神々と共に天上界での暮らしを許されていた事もある。 しかし、ペネムエはヒトに紛れ、天使である身分を隠して生きている。何故か。 ペネムエは両手を胸の前できつく合わせ、祈りを捧げた。 「得た知識を……自身の、他者に施す事の出来る善を公開して、果たして如何な『罪』がありましょう?」 彼は罪を犯した。故に天上界に住まう権利と、一部の天使能力を剥奪され、ヒトの蔓延る地上に落とされた。有名な話だ。 彼はある日、何の気もなしに神の御前でのみ披露する事を許されていた固有能力をヒトに見せ、世に広めた。 約束を違えたと見なした神々の怒りは相当なものだったと、サラカエルは記憶している。 見た限り、反省している様子もなさそうだけど――用は事足りた。踵を返したいと決める傍ら、サラカエルはその場に留まる。 「サラカエル様。ヘラ様の元で働いていらっしゃった直属の部下であられる貴方なら、それこそ何か、お聞きになっておりませんか」 ペネムエの縋るような目が、いやに網膜に焼きついた。向き直る。 「さあね、どうだったかな。記憶にないね」 「ヘラ様は思慮深く、如何なる天使さえ気に掛けて下さる御方。ワタクシの堕天の件も、影ながら庇って下さったのでは」 「君の事を? ……ふん。神の考える事なんて、僕にはどうでもいい事さ」 「いいえ、サラカエル様。我々天使は、主、つまり神の存在なしでは弱体化するだけの存在。貴方もラグナロクを経験された身、ご存知でしょう」 「そうだろうね。けど、ラグナロクを逃れた天使の一部は今の君のようにしぶとく生存してるし、同じく神々の力だって僅かに機能してる」 「サラカエル様」 「僕は『やめた』んだよ。神の意に沿って言いなりになるのも、天使が純粋無垢だなんて馬鹿げた妄信も」 眼前、ペネムエはわなわなと肩を震わせていた。知っている。「天使」として、自分は決して口にしてはならない事を口走っている。 「纏めようか――君はヘラ様の断りなく、彼女を侮辱する内容を書に認めたわけだ。それも意図的に、ヒトの間に拡げてしまえるよう重版までして。 それで信仰? 神を愛する? ……寝言だね。君はもう立派な堕天使さ。君こそが『ロード化されてしまえば』良かったのに。ヘラ様の代わりにね」 知りたい事とは他でもない。かつて自身が仕え、敬愛し、ある種の崇拝と思慕の念さえ抱いていた主人、ヘラの行方についてだ。 件のアンブロシアが姉アンジェリカとはぐれたのと同様に、サラカエルはラグナロクの後、長い回り道をしながらヘラの行方を追っていた。 伝説上、神々と天使が霧消する事となった世界規模の大事件――ラグナロク。 雷神の雷霆の名で知られるゼウスも、更にはその正室ヘラでさえ、件の事件から逃れる事は出来なかった。終焉を迎え、散り散りとなる神の世界。 自身が生きながらヒトの世に着いたのを切っ掛けに、サラカエルは狂ったように彼女の行方を追い続けた。 彼女の手掛かりとなる要素を片端から潰し、能力を酷使して条件を絞り込み、最終的に辿りついたのがここ、北方の街ホワイトセージ。 (それ以外の目的もあるけど、ね) ヘラが今どこにいるのかまるで見当も付かない。靄が掛かったように能力の精度が鈍る。仕えるべき主とはぐれてしまったからだ。 しかし、ロードの噂、人間の会話から、街から発行された書物や新聞の一部に、ヘラの詳細を記したものがあると知った。 調べた。誰が書いたか、いつ、何の目的があって発行されたものなのか。自身の能力によれば、印刷所に勤める元天使の仕業であるという。 「『記す天使』ペネムエ。君には失望したよ。てっきりヘラ様について、何か知っているものと思ったけど」 「! サラカエル様。貴方はまさか、今も……」 ヘラを追う最中、欲していた「別の収穫」も確かにあった。ペネムエがヘラの行方を知らないと言い張るなら、それもいい。 元よりそこまで期待していない。ヘラについて収穫なしなら、今日はその「別」の様子を見に行けばいい―― 「ふふ。僕が何を追っているか、なんて、今の君には関係のない事さ」 ――そうだろ? 眩く輝きが部屋に満ちた。眩しい、と感じさせるのに、部屋中に広がるのは夜空と同じ、暗い紺碧色の光。 ペネムエが一声呻き、そろりと目を開いた次の瞬間、来客の姿は消えていた。 まるで始めからそこに存在していなかったかのように、サラカエルの姿は宙に漂う数枚の羽根を残して、消えていた。 「……社長! ペイン社長!!」 「……ハァ」 乱暴に叩かれる社長室の扉。夜色の羽根から目線を外し、ヒノキで出来たその一点を見つめ、ペネムエは深く嘆息した。 副社長の声だ。若く有能な紙織りの職人。また機械の調子がおかしくなったか、或いはサラカエルの殺気が漏れでもしただろうか。 切羽詰った響きは頭と鼓膜を痛くさせる。彼らは自分が天使である事、また、神によって認められた印刷技能専属の存在である事を知らない。 知らせない方が懸命だ。自分には本当にそれしか才能がなく、崇め奉られるような奇跡など起こせはしない。 (そうですとも、サラカエル。何故なら神が恐れたのは、ワタクシという生けるメディアそのものが、メディアを通じてヒトを支配する行為なのですから) 情報を支配し、時勢を操り、ヒトの世を己が生きていきやすいように人知れず改変、改悪する。 実際にはそれこそが狙いだった。神々の危惧は決して杞憂ではなかったのだ。 自分は、神々を愛していた。 しかし、他の……自分以外に優れた能力を有する天使を優遇しようとする神々に、ペネムエは反抗せずにいられなかった。 あれほど「素晴らしい才能だ」と褒め、もっと書け、見せろ、写本せよ――その通りに働いてきたのに、いつしか彼らは自分に飽き、離れていった。 (ワタクシとて、神々を愛していたのは事実ですからネ。けどねサラカエル。愛すればこそ、裏切られた時の恨みは強くなるというものデスヨ) どんなに訴えかけても、神々の興味がペネムエに向き直る事はなかった。 唯一、サラカエルの主である地母神ヘラが「気にするな、お前も好きなようにやればいい」、そう背中を押した事だけが希望となった。 文字通り、背を押されたのだ。開き直ってしまえばもはや、堕天する事など何一つ恐ろしくなかった。 (ただね、意外だったんですよ、ヘラ様。ワタクシ、もっと自分は性根が真っ直ぐだと思っていたんですケドネ……) 「社長! 聞こえてるんですか、ペイン社長!! インク豆の蒸し温度にばらつきが――」 「アア……、『聞いている。君は少し落ち着きというものを知るんだ、副社長』」 スーツの襟を正し、おもむろに社長室を出るペネムエ。表の顔としては、慇懃無礼な若手社長、で名を売っている。 迎えた副社長は一瞬怯み、次いで安堵の表情を浮かべた。人間とは従順な生き物だ。皮肉にも、この街の財政は羊の群れが担っている。 (ワタクシ、好きになった女性ほどメチャメチャに貶してやりたい気質だったようデスヨ……貴女を脳内で苛め抜くのは、この上なく楽しかったデスネ) 工房に急ぐ。蒸した豆の匂いは、ペネムエ自身あまり好みではない。しかし、材料費や廃棄物処理の手間を考えればそれらが最も安定していた。 ゼウスに浮気され、怒り狂い、誰の目に触れないところで一人寂しく涙を流す――そんなヘラの姿を妄想するだけで酷く興奮させられた。 「殺戮」の能力持ちの高位天使・サラカエルは、ヘラ直々に彼女の護衛を任命された天使だ。今日、彼に会えて良かった。 面会早々、件の女神を信仰する彼に八つ裂きにされずに済んだという事は、未だ、自分の醜い性根は外に漏れないでいてくれているらしい。 (とはいえ。ラグナロクが終わってもう数千、いや、一万年ほどか……まさかまだ行方を追っていたとは) 一途なのか。敬愛か、それとも純粋な信仰心か。 「……社長? あの、どうかしました?」 「いや、ああ、なんでもない。ところで君、新入社員だったかな。営業の」 「え? ええ、はい! 覚えていて下さったんですか。面接の時、一度お会いしただけで」 「まさか、覚えているよ。当然だろう……ところで君、今晩は暇だったかな? どうかな、良ければ食事でも」 それともただ勤勉なだけの間抜け野郎か。もっとヒトの住まう地上には、神々の世界以上に楽しい事がたくさんあるというのに……。 眼前、北都印刷所の社服に身を包む、栗色ロングヘアーの若い女。漆黒の瞳を収める丸みを帯びた双眸、抱き心地のよさそうな白い肢体。 今夜はどう楽しむか――仕事の際に決して見せぬ人好きのする笑みを向け、直後女が浮かべた蕩けたような表情に、ペネムエは満足げに頷いた。 翼を広げ、舞い降りた先。眼前に真新しい緑の息吹。吹き抜ける風に髪を弄られ、サラカエルは鬱陶しげに後頭部あたりに束を作った。 そして思い当たる。結い上げる為の紐がない。 (……ま、いいか。下ろしてるのはいつもの事なんだから) 悔し紛れではない。決して、そういうのではない。俄かに嘆息を漏らして、さくさくと軽快な音を立てながら丘の上を進む。 目的地はホワイトセージ街の外れ、広大な牧羊場のすぐ横にあった。随分と不便そうなところを選んだものだと呆れてしまう。 本人の意向、或いは、その身内に従っているのであるのなら、言ったところで仕方のない話か。頭を振り、ひたすら先を急いだ。 気だけが逸った。 ラグナロクの後、地上に落ちてからというもの、ヘラの無事とこの「別件」のみこそが、自身の生きる希望だった。 もはや機は熟しつつある。隠れて顔を見るくらい、肉声を耳に収めるくらい、決して罰は当たらない筈だ。 「っと、風が、」 不意に、ざあっ、ひときわ強い風が駆け抜ける。揺らされた夜色から視界が開かれると、サラカエルの双眸に純白の景色が広がった。 鼻をくすぐる花――カモミールか、心地よさを届ける、甘い林檎に似たほのかな匂い。 ばたばたと忙しなく声を荒げ、サラカエルの顔面にべったりと全身をくっつけ、まるで離れようとしない物体。 眉間に皺が寄る。手を伸ばし指で摘むと、それは予想した通り、洗い立ての洗濯物だった。木綿製の、小さめのテーブルクロス。 「――ああっ、すみません!」 おおかた風に煽られでもしたんだろう。これまた予想通りに、こちらに駆け寄ってくる音があった。「眼」を使うでもなく顔を上げる。 視線が重なる。 やはりそうだ。わざわざ「眼」を使うまでもない、その声色を自分はよく知っている。 相手が足を止め、洗濯物を受け取りもせず息を呑んだ。 「……ふぅん。これ、君のかな?」 「!? えっ……」 「落としてないから大丈夫さ。けど、駄目だよ。大事な物はきちんと掴んでおかなくちゃね」 「……は、貴方は……まさか、そんなっ。どうして……どうして、ここに!?」 「へえ、拾って、いや、捕まえてあげたんだから、お礼くらい言って貰わなきゃ割に合わないんだけど」 サラカエルは悠然と微笑んだ。相手に次の動作を促す為にしているうちに習慣付いてしまった癖も、本人証明代わりに披露して見せる。 首を傾げた彼を見て、落し物の主は胸元に手を結んで重ね、困惑しきりといった表情を湛えた。青紫の瞳は何かを警戒するように揺れている。 彼女の背中の翼は今、しまわれている。逃亡する気はないという事か。それとも身の危険を感じて硬直させてしまったか。 どちらもサラカエルにとっては興味がなかった。 彼女は、見つけた折にはある程度の尋問に答えて貰うつもりでいた「天使」、それも「顔見知り」の一人だ。ここで会うとは思ってもみなかった。 ゆっくりお茶しながら昔話でも、と嫌味の一つも言いたいところだが、そんなもの後回しだ……見つけたからには、逃がしてやるつもりはない。 「ま、いいさ。ちょっとした散歩だよ。君はこんなところで何をしているのかな? 『アクラシエル』」 警戒してか、後退りさえしないアンブロシア。可哀想かな、とは微塵も思えなかった。何故なら、今はこちらも気遣ってやれるだけの余裕がない。 彼女の背後には、風にはためく無数の洗濯物と、木造建築の小洒落た一軒家が建っていた。ひとまずは、と「眼」を起動させ内部を覗く。 「骨董店オフィキリナス」。 詳しい家族構成も、経営状況も、自分には関係ない、関心持てない。鳥羽などという輪の国出自の一族など、どうでもよかった。 しかし「今代」の鳥羽は「別」だ。事前に得た観測の結果が正しいものであったという実証に力強く頷き、右瞳の瑠璃色を夜色に戻す。 ようやく、アンブロシアが片足を一歩、後退らせた。思わず口端から笑みが漏れる。 「怖がらせるつもりなんてないんだけど。昔のよしみじゃないか」 「――! さら、かえ……」 「ま、逃げようって言うなら容赦しないけど――」 腕の一本でも折ってやれば逃げようなどとは思うまい。多少、手は荒くなるが、少しでもヘラの情報を掴んでおきたかった。 ひとえに、ヘラの為だった。 焦っていたのかもしれない。歩み寄ろうとしたその瞬間、サラカエルの視界の端で何かが煌いた。決して遅れを取ったわけではない。 全身で感じ取った気配、直感。それら全てを動員した上で、単純に驚愕し、反応を鈍くさせられた。咄嗟に鋼糸を解くサラカエル。 ゆるりとたわんだ蛇のごとき暴虐が、投げつけられた「それ」を弾き落とす。弧を描き、襲撃者との間合いを強引に突き放す。 「――シア! だいじょーぶ!?」 鼓膜に飛び込んだ悲鳴に似た声は、眉間に深い皺を寄せさせるのに十分だった。 「知り合い」のオンパレードだ――開放したワイヤーを、片腕を軽く振るって支配下に置く。いつでも迎撃する態勢は整った。 眼前、怯えた天使が一人と……金色の上半身、漆黒の下半身、巨大な翼、特有の獣(けだもの)の匂いが一つ。 (やはり『あれ』か。それにしたって……ん?) 不意に殺意が緩む。視界の端で何かが光ったのだ。目を向ける。正体は、サラカエルの足元に転がった、俄かに赤みを帯びた黄金の雫状の固体。 嘗て、古の時代。見覚えのある「それ」に、サラカエルは端正な表情を歪めた。女同士の声の応酬に顔を上げ、双眸を極めて鋭利に細める。 件の襲撃者がこちらを見た。アンブロシアもこちらを見た。言わなければ、今、問うべきだ――サラカエルは知らず、唇を噛んでいた。 「へえ、魔獣にも生き残りがいたとはね」 「なぁに〜、お前。シアに何しようとしたのぉ。ぼくの事、知ってるの〜」 「知ってるか、って? は……」 拾い上げた石。琥珀がいつからか手にしていたという、繊細な装飾の施された古代琥珀の首飾り。 サラカエルには見覚えがあった。これは決して、雑に扱われていい品ではない……。 「生意気に。本当に間抜けだよ、お前は。ああ知ってるさ、嫌ってほどにね。何故お前がこれを『投げられた』んだろうね……アンバー」 喉奥から絞り出した声は、自分でも分かるほど震えていた。 |
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