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楽園のおはなし (1-13)

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「もうっ、ヒドイよぉ! ぼく、ヤダって言ったのにさぁ〜!!」

オフィキリナス裏手。
丘上に建つ店故に、アルジル牧場をはじめホワイトセージから北方の草地まで、三百六十度全ての景色はパノラマのように拓かれていた。
初夏の緑が昨日の雨粒を背に乗せ、陽光に頷き燦々と光り輝いている。この光景が好きだった。幼い頃から家族で慣れ親しんだ、独特の空気が。
思わず目を細めたところで、琥珀からの苦情に現実に引き戻された。情緒というものを分かっていない、藍夜は眉間に力が篭るのを隠しもしない。
フンと鼻を鳴らした魔獣を見下ろした。羽根を嘴で繕いながら、彼女は未だ全身に絡みつくシャンプーの匂いにへそを曲げている。

「まだ文句があると言うならその分君の食事が減る事になるが、構わないかな。琥珀」
「何ソレー! ぼく知ってるよ、そーゆーの『ぱわはら』、『もらはら』って言うんでしょー! でーぶいだよ、でーぶい!!」
「どこでそんな言葉を……言いたい事は分からないでもないが、君ね、女性であるからには清潔感というものも大切にするべきだよ」
「ふーんだ、ふーんだ。分かってるよぉ〜。ぼくだって汚れてると飛びにくいし。でもさぁでもさ〜あ、やっぱりゴウインなのは良くないと思います〜」

まるで子供を相手にしているようだ、喉から出かけた言葉を藍夜は辛うじて飲み込む。言ったところでどうにかなるものではないと予想もついている。
非難の声に肩を竦め、二歩下がって道を空けた。背後から軽快な足音が聞こえた。琥珀の目には、頭上に突然影が降ったように見えただろう。

「ほらさっ! ったく、あんま我が儘言って兄ィを困らせるなよー。コハ」
「っぶ! 暁橙!? う〜……わ、分かってるよぉ」

真っ白なタオルが頭頂、背中、翼の順で琥珀を撫で回す。どうにも不慣れであるのか、魔獣はもどかしそうに全身をうねらせ、微かに唸った。

(そういえば、いつの間に雨は上がっていたのだろうね)

弟に全てを丸投げして、藍夜は空を仰ぐ。
暁橙が琥珀を拾ってきて、その翌日にはアンブロシアがやってきた。この一二日で皆オフィキリナスの感覚を掴んだらしく、琥珀に至ってはしょっちゅう
口から文句が出るほどだ。甘えられているのだろう。暁橙もニゼルも、当事者である一匹と一人も、もう殆んど自然体だ。順応性が高くて羨ましい。
一気に店が賑やかになった事もあり、藍夜としては内心のどこかで疲労を感じていた。嘆息は気付かれないように吐くに限る。
こうであるから、ハイウメだけでなくニゼルにまで「枯れてる」などと言われてしまうのかもしれない。

「と、そういえば君は仕事に行くと言っていたのだったね。引き止めてすまなかったね、暁橙」
「大丈夫だよ、兄ィ。シアの術? 能力? が効いてて、足だってすっごく絶好調だし。タオル干したらすぐ行くよー」
「ねぇねぇ、藍夜、藍夜〜。暁橙って働くの好きだよねぇ〜。ぼくはオヤツ食べてる時の方がいいけど〜」
「今すぐ、とはいかなくてもね。琥珀、君も多少は暁橙を見習いたまえよ」
「それは無理だよ、兄ィ。コハって甘えん坊みたいだもん」

草原に投げていた腰鞄をベルトに繋ぎ直し、暁橙はカラカラと笑った。釣られて琥珀が抗議の声を上げるも、肩を竦めた藍夜の視線に黙殺される。

「じゃ、行ってきまーす! コハ、店番ちゃんと頼むぞー」
「はいよー、お任せ。いってらー暁橙ー。お土産は〜馬肉がいいなぁ〜」
「……やれやれだね。気を付けたまえよ、暁橙」

振り返らずに、暁橙はひらひらと片手を振った。遺跡に向かう度に「平気だ」と彼は言うが、見送る側としてはこの瞬間が一番心配させられる。

(あの性格だし、万が一があったとしても暁橙は独りでもやっていけるだろうね。なんだかんだでしっかり者だ)

前に一度、遺跡発掘を手伝おうか、と藍夜自ら提案した事があった。
直後、弟は首を千切れる勢いでぶんぶん横に振り「兄ィはそんな心配しなくていい」、そう外に響かんばかりに声を荒げた。
驚く藍夜を置き去りに、真夜中の遺跡に彼が出向いたのはいつだったか。
現在と同じで土産はガラクタばかりだったが、あの時何故ああまでむきになったのか、未だに聞けずにいる。

(聞いたところで)

結局、商品の見張りも必要だった為に今でも兄が店番、弟が仕入れ担当と役割が分担されたままだ。弟はそれで満足しているように見える。
藍夜は微かに嘆息した。暁橙は琥珀を甘えん坊呼ばわりしたが、実質、甘えん坊であるのは鳥羽藍夜その人ではないのか。

(高位天使、ロード、魔獣。一挙に集まったこの状況、不自然さしか感じられない。もしこれが何かの布石で、暁橙に、ニゼルに何かあったら――)

「――や、あーいやー!!」
「っ!」

遠方から掛かる声。動揺しながら振り返ると、丘を駆け上がってくるニゼル、その後ろをゆっくり歩いてくるアンブロシアの姿が見えた。
琥珀は既に気配を察知していたらしく、もうニゼルの目の前にまで接近している。半渇きの頭を撫でられ、翼を打ち鳴らし派手な歓声を上げた。
どうにも考えが悪い方、悪い方へと向いている。相手が天使関連だからか。眉間に皺を無理やり押し込め、頷き返して藍夜も二人の元へ向かった。
ニゼルへの挨拶は済んだようで、琥珀の小躍りはアンブロシアの周辺に向けられている。

「お帰り、ニゼル。アンブロシア」
「ただいまー、藍夜! あれ、暁橙は?」
「遺跡に行ったよ。夕方には戻るだろうと思うがね」
「それなら今夜は暁橙さんの好きなカレーライスにしましょうか。少しお時間ありそうですから」
「いいんじゃない? 暁橙きっと喜ぶよ。でも、そっかー。洗濯物干すの手伝って貰おうと思ってたのにな」
「君ね、自分の牧場仕事もあるのだから配分を考えたまえよ。僕の店なんか、君のところの足元にも及ばないのだからね」

朗らかに笑う天使へは一瞥を投げるだけに留めた。溜め込んでいた洗濯物はシーツも含め、全て麻籠に詰め込まれている。石鹸のいい匂いがした。
ふむ、小さく肩を竦めたところで、唐突に額に「ばしっ」と小気味良い音が轟く。何事かと目を見開く自分同様、琥珀もアンブロシアも固まっていた。
ニゼルの手が当てられていた。数秒遅れて叩かれた証明の軽い痛みが襲ってくる。

「きみ……いきなりどうしたんだい、ニゼル」
「んーん。なんとなく。琥珀ー、アン。俺、先に中入ってるねー」
「あ、は、はい。ニゼルさん」
「う〜ん。だいじょーぶぅ? 藍夜」
「平気さ、琥珀」

平気、と応えたものの幼馴染の意図が分からない。
洗濯物を丸投げされ思わず頭を抱えたアンブロシアと、「手伝うよ〜」と彼女を気遣う魔獣を置いて、藍夜も一度店に戻った。
応接間に向かうも、ニゼルの姿は見えない。どこに行ったのか、眉を潜めた藍夜だが、別方向から聞こえた物音に彼の足取りも容易に掴めた。

「ここにいたのかい。探したよ」
「藍夜。うん、けどここ、今は鍵を掛けてるんだね」
「元は父さんが使っていた書斎だからね。僕らの私物ではないし、損傷の多いものもあるから念の為さ」
「そっか……」

取っ手に手を添えたまま、ニゼルは視線を扉から離さずにいた。何か思うところでもあるのだろう、藍夜は暫し沈黙を保ったまま待つ。
オフィキリナス一階奥、店舗の造りのうち最も奥に位置する部屋には、生前の鳥羽瓊々杵が集めていた古書やロードに纏わる解説書、一般書籍から
神話の民俗学書まで、経営に役立つ書物が作者、ジャンル問わず収められていた。幼い頃自分、ニゼル、暁橙の三人でよく忍び込んだものだった。
見慣れた、固く閉ざされた扉。一歩下がった藍夜とニゼルの視線がふと重なる。幼馴染の目はもう穏やかだった。藍夜は小さく肩を竦める。
エプロンの右側、右脇腹近くのポケットを開き、中から鍵束を取り出し錠へ差し込んだ。

「今でも使う事はあるよ。その時は鍵を開けて入っているのさ」
「瓊々杵おじさんの本だけしかない?」
「いや、正直言うと僕の私物も置いてある。貴重なものばかりだから他人の目に触れさせたくないだけさ」
「? 藍夜、自分の部屋にも本棚あるじゃない」

扉が開かれる。鍵と錠が相当金をかけたものであるだけで、部屋自体はごく普通の作りだ。軽い扉を押し開けて、藍夜はニゼルを手招いた。

「なんだろうね。気が付いたら少しずつ増えていくんだよ」
「ねえ、藍夜? それって……」
「ほら、ここに用事があるのだろ。早く入りたまえ」
「! うん!」

普段から掃除が行き届いているのだろう。室内は窓にカーテンが引かれてこそいるものの、埃やカビといった不快な匂い一つ、こもっていなかった。
何も言ってないのに分かってくれた――先の手刀の件をコロッと忘れ、ニゼルはにこにこ笑顔を伴わせて藍夜に続いて書斎に入り込む。
なるほど確かに、彼の告白通り幼い頃の記憶よりも本棚が一つ、その中に詰め込まれた本、更に棚の前に積まれた本の山が二つ増えている。
本好きだっていうのは知ってたけどさ! 微かに顔をしかめ、こちらを藍夜が見ていると気付くや否や笑顔を返し、窓際の棚に走り寄る。
一番大きな黒びた本棚。いくら手を伸ばしても届かなかった最上段さえ、今では背伸びせずとも容易に本を取る事が出来る。

(小憎たらしいものだね。言っても仕方のない事だが)
(はああ、俺、結構背ぇ伸びたんだなあ)

厚い本を一冊手に取り、それが収められていた空白とを見比べる。瞬間、藍夜は不快そうに顔をしかめ、ニゼルはただ時の流れに感動して嘆息した。
ふてくされた藍夜に気付くと、彼は素早く自らの口を手で覆う。しかし、時既に遅しとはよく言ったもので、既に口からは多量の空気が漏れていた。
親の仇でも見るような目で彼を見上げた藍夜だが、ニゼルが肩を震わせながらも、ゴメンゴメン、と謝るのを見て、ようやく肩を竦めた。

(トラウマってレベルじゃないの、藍夜? そんなに身長って気になるかなあ。俺はむしろ可愛くていいと思うんだけど)

……可愛い、か。言ったら殺されるな。
くわばらくわばら、と内心で「自分にとって恐ろしいものが迫ってきた時に唱えるおまじない」を唱えた。
藍夜の父から聞いた呪文で、曰く、彼の雷霆の一撃さえ跳ね除けるという。子供騙しだ、だが今思えば、彼は子供好きだったのかもしれない。
視線を手元の本に落とした。黒塗りの表紙に銀の装飾、微量に残された埃。袖で拭おうとして、横から差し出されたハンカチにニゼルは瞬きを返す。

「汚れるよ? 藍夜」
「おや、汚す為にあるものだろうに」

絹織りの白いハンカチ。躊躇っていると、藍夜の方から強引に埃を拭い取られてしまう。
彼が毎年贈っている羊毛製の染ハンカチを使っているところを、ニゼルは見た事がなかった。使ってくれていいのに、とは言えずに終わる。
言ったところで聞く性格ではないし、なんだかんだでアルジル羊毛は自慢の品、デザインには趣向を凝らし、織り上げるにも相当の日数を掛けている。
彼の変なこだわりが自分の自己満足と奇妙に折り合いをつけているのは、なんとも気恥ずかしく、また嬉しくあった。

「それで、随分とまた今更な本を手に取ったものだね」
「え?」
「昔うたた寝しながら父さんに読んで貰っていたじゃないか。『神と創世の書』、琥珀の事でも調べるのかい?」

うたた寝は余計だ、確かによく寝ていたが――結局汚れてしまったハンカチに憐憫の眼差しを投げながら、ニゼルは小さく「うん」と頷いた。

「琥珀の事だけじゃないんだけどさ」
「なんだい、まさかロードの完全な操り方でも調べるのかい」
「まさか! あー、アンを……疑ってるわけじゃないんだけど。対天使とか琥珀と知り合いっぽいところとか、気になるから」
「アンブロシアかい」
「うん。なんか、いっぺんにどーっと色々あったでしょ? まとめって言ったら変だけど、琥珀のいた遺跡の事とか、何か分からないかなーと思ってさ」

感心するね、と言うように藍夜は肩を竦めた。唇に弧を描いて、ニゼルがごく僅かに首を傾げる。
互いに同意、その合図だ。椅子を勧められ、ページを捲りながら腰を下ろす。藍夜もまた、倣うようにして数冊、古書を棚から抜いた。

「範囲すっごい広いけどね」
「ふむ、そのようだね」

数ページ捲っただけでどう調べればいいのか、と藍夜を頼りにしかけるも、彼が見た事もないような速さで速読するのを見、ニゼルは口を噤んだ。
集中し始めると他所が見えなくなるのは、彼の悪癖だ。しかし、真剣そのものの横顔は――多少あどけなさを残すものの――イケていると思われる。
鳥羽藍夜に関する浮いた話、というよりニゼル経由で親しくなろうとしていた女性の存在は幾人かを知っている。相応しく美しい女ばかりだった。
偉い方に化け物と称されていようと、彼自身が不人気というわけでもないのだ。
財産狙いが殆んどだったので、意地悪いと思いながら秘密裏にシャットアウトしていた。が、そもそも本人がここまで仕事に一途過ぎるのも問題か。
チャンスはあるのにもったいないよなー、目線を適当に開いたページに落としながら、ニゼルはぼんやりとそう思った。

「ところで、ニゼル」
「なーに、藍夜」
「さっきのアレはなんだい」
「あれ?」

古代の女神、という見出しを開いた折、傍らの藍夜がこちらを見ているのに気が付いた。彼の横には既読と思われる古書が三冊重ねられている。

「おや、ひとの頭を小突いておきながらまるで覚えがないとは。嘆かわしいものだね」
「! いやっ、あれは……その」
「言い訳なら後にするかい?」
「ええー、今!? 今ここでお説教なの? だから、ごめんってば……」

鳥羽藍夜には自信を持っていて欲しい。女性関係や身長の事だけでなく、店の事、家族の事、能力の事……全てを含めた上での話だ。
厄介な性格である事も踏まえてなお、友人として尊敬しているのだから。
決して本音を漏らさず、ニゼルは「コミュニケーションだよ」、そう濁すに留めた。納得出来ていないのか、藍夜は眉間に皺を刻みながらも肩を竦める。
彼の膝上には一冊の古書が開かれたままでいた。ふと、ニゼルはそこに描かれている一人の女性の姿を見つけ、目を凝らす。

「ん? どうかしたのかい」
「えっ? ああ、いやあ、綺麗なひとだなあと思って」

全て手書きと思われる、焼けた色合いの印字。それと向かい合う、ページ一枚まるまる割かれて描かれた一枚の肖像画。
妙に惹かれる絵だ。片手を退け、藍夜もまた視線を落とす。彼の頭が照明を遮り、ページに僅かな陰影を与えた。それでもなお女は美しかった。
百合の花を手に、悠然と立つ一人の女。凛とした姿勢に涼しげな目、緩くたわむ髪。白黒故に、本来どのような色であったのか想像するのは難しい。
しかし、その肌がきめ細かく、髪はいい匂いがして、例えば一声発しただけで万人を惹きつけるだろうと、豊かに想像は膨らむばかり。

「大地の女神だね」
「え?」
「ほら、気になるのだろ。こちらに来たまえ」
「う、うん」

美しい、とは安い例えだった。その絵を見たとき、ニゼルは「こんなに綺麗な女が嘗てこの世にあったのか」、と心底感心せざるを得なかった。

「契約の女神、『ヘーラー』。一般書籍においてはヘラと略されるね」
「ヘラ? 契約?」
「君の、ほら、今ちょうど開いているページにも書かれているのじゃないのかい。古代神の一柱だよ」
「え? ……あ、本当だ。『貞淑と婚姻を司る古の地母神。至高神ゼウスの姉、正室』。へえ、人妻だったんだ。てか近親相姦とか」
「引っかかる物言いだね。古代神話ではよくある話さ」

幼い頃から神話を取り扱う書物を三人で見てきたつもりだった。つもり、でしかなかっただろうか。

(こんなに綺麗なひとを見てたら、覚えてそうなものなんだけどなー)

ヘラは他の華々しい美しさを誇る女神に比べて、どことなく地味だった。逆にそこがいいのだと思うよ、藍夜はそう言って肩を竦める。
古風な女性がタイプなの? とは、この空気では尋ねにくいものがあった。促されるままページを読み進める。
乙女の貞淑を司り、語学や芸術、季節の移ろいを愛で、ヒトと大地に潤いを与える傍ら、色事に目のない夫と女達との間で振り回された女性。
その苦労たるや散々で、女達とその子供に対する報復は――例えゼウスの一方的な求愛であっても――八つ当たりの如く重く激しかったという。
反省する気のない夫は逃げるばかりで、事態は悪化の一途を辿った。遂にはゼウス抜き、つまりヘラ単独で子を一人産んだ過去もあるとされている。

「……」
「……」
「……女性の嫉妬というのも恐ろしいものだね」
「嫉妬ってレベルじゃないよね。毒とか、動物の姿に変えちゃうとか。ていうか、いっそ別れたらよかったのに」
「至高神という立場もあったのだろうね。どちらにせよ、僕らには推し量る事の出来ない話さ」

全ては書物越しの神話伝承。著者の思惑や時勢もある――鵜呑みにし過ぎるのも如何なものかと、藍夜は首を左右に振った。
ハイウメの後ろ姿を思い出し、ニゼルは「そうかもしれない」と思い直す。
ヘラはゼウスを愛していたのだろうか。半ば押し切られるように婚姻したはいいものの、あるのは至高神としての業務の山、影で浮気し放題の実弟。
婚姻という事は、少なからず夫婦になる事への期待や同意があった筈だ。虚しくならなかっただろうか。肖像画で見るヘラは誇り高い女に見える。
自分だったら捨てる。間違いなく捨て去る。そんな無遠慮で移り気な伴侶など必要ない。
しかし、藍夜の言うように「立場」や「地位」があるなら他の者の模範にならなければいけない。ならばある種の忍耐、見て見ぬふりも必要か。

「俺はそんなの耐えらんないなー。絶対! 無理」
「同意だね」
「藍夜も?」
「もちろん。不憫な女性だと思うよ、ポーズの部分もあったかもしれないがね」
「ポーズ、かなあ」

他の書物の内容も似たり寄ったりだった。嫉妬と猜疑心の塊、浮気相手の女性とその子供らだけをいたぶる、極めて冷酷な気性の女神。
ぼろくそだなあ、小声でぼやくニゼルに、本人が目の前にいないのだから言いたい放題出来るというものさ、藍夜は既読の本を戻しながら答えた。

「藍夜は、この……ヘラ? に、何か思い入れでもあるの?」
「なんだい、急に」
「ううん。なんか、やけに詳しいと思ったから」
「大した事じゃないよ。僕が使っている『雷神の雷霆』が、元はゼウスの雷をモチーフにしたものというだけさ」
「そっか、ロードって、殆んど神話の神様や天使の力が閉じ込められてるんだっけ」
「その通りさ。だから、彼の伴侶にあたるヘラにまつわるロードもすぐ見つかると思っていたのだがね。未だ見つけられていない」
「そうなの? 瓊々杵おじさんのコレクションにも?」
「ああ、なかった。博物館に寄贈した記録も残っていないから父さんも見つけられなかったのだろうね」
「寄贈。そうだよね、例え神様の姿が目に見えなくても、ロードっていう形でだったら俺達の目にも見えるんだもんね」

言いながら、それって実は凄い事なんじゃないの、ニゼルは眉根を寄せた。構わず藍夜は何冊か別に本を抜き、両腕いっぱいに抱え込んだ。
刹那、俄かにふらついた彼を支えるように駆け寄り、平気だ何だと喚くのを押し切って古書を強奪する。
「大神ゼウスと地母神ヘラ」、「古代神話の全て」、「古の神々の恋物語」。表紙はどれも古く、字は霞み、読み取る事が出来たのはそれくらいだった。
中にはよく分からない、ミミズが這ったような形の文様のものもある。ふと目を向けると、藍夜の左瞳が件の瑠璃色に染まっていた。

「(藍夜には読めるんだよなー。いいなあ、俺も読めるようになりたいな)」
「……うん、こんなものだろうね。ニゼル」
「うんっ? なに?」

二の句を告ぐ前に、抱えた六冊の上に、更にもう一冊百科辞典のような厚みの本を重ねられた。衝撃とあまりの重さに、流石のニゼルもふらつく。

「うっ、ちょ、重っ……藍夜!?」
「君が運んでくれるのだろ? さっきの額のお返しというものさ」
「ええ!? まさか、まだ根に持ってたの?」
「そのまさか、というものさ。このくらいで済むのだから、いいじゃないか。さあ、お茶でも飲むかい」
「飲むかい、って、それ俺に拒否権ないじゃん! あはは、もう勝手なんだから!」
「ぼちぼちというものさ」

緩やかな歩調で書斎を出る店主を追う。途中、自分が読んでいた本を紛れ込ませるのも忘れない――本来知りたかったのは「レテ」の件だ。
扉が閉められる寸前、ニゼルは不意に、ぱっと書斎の中に赤紫の視線を走らせた。
……一番奥、窓際に置かれたテーブルに着き、気難しそうな顔をして本に目を通す鳥羽瓊々杵。彼にハーブティーを淹れる妻、咲耶。
その横、絨毯の上に寝転び、或いは胡坐を掻き、或いは壁に背を預けて足を投げる三人の少年達。もはやその時間は、遠い過去になってしまった。
主が使っていたテーブルは、今や応接間に移動させられ、彼の愛息が我が物顔で両足を乗せている。
泣き虫だったが、家族の前でだけは朗らかに笑っていられた少年は、死と隣り合わせの稼業を始めた。
ただ座り、彼らの放つ余所者独特の空気を楽しんでいた自分は、当時彼らにどう見えていたのだろう。

(なんだろ、藍夜の後ろ向きが移っちゃったかな)

もう聞く事の出来ない、知りようのない望み。どうしようもない事だ。だが、それをただの過去として、薄らいでいくだけの記憶にしておきたくない。

「ニゼル。もういいかい、そろそろ」
「藍夜。ありがと、待っててくれて」

知らなければいけない。何の為に、先代店主が殺されなければならなかったのか。鳥羽藍夜を変えたものが何だったのか。
本を抱える腕に力を込め直し、眼前、扉が閉ざされていく様を黙って見送った。





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 UP:14/07/25