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楽園のおはなし (3-37)

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ごつごつと硬い岩と、水滴を滴らせる鍾乳石。足元は岩陰で黒く染まった海水に覆われ、普段は洞窟に散らばる光蘚も今は息を潜めている。
水晶と石榴石を削り出したランタンに、夜光虫を放って火を灯す。夜間に捕らえた虫は、翌日の夜明けを待つ前に入れ替える決まりだった。
「全ての命が、あるべき場所でその灯を終えられるように」。この海域での決め事について熱弁していた竜の、口癖のようなもの。
件の竜の巨体を思い出す。銀に近しい竜鱗は、陽光を浴びると瑠璃のような深い青色を覗かせ、夜光虫と同じように蒼白い光を煌めかせた。
如何なる剣や銛を通さず、かといって燃え盛る熱にも耐えうる強靱な鱗。加工するのも困難なそれは、脱皮直後は淡い乳白色へと変化する。
……女は、黒いローブを纏う自身の首元を見下ろした。かつて彼の竜から授かった一枚の竜鱗が、暗がりで夜光虫の灯を反射させている。

「……リヴァイアタン様」

目を開き、回想の漂流を終えた。手のひらで覆える程度の大きさの白蒼に、両の指先を恭しく添える。
祈りに似た姿は、正に今は亡き竜への敬愛を捧げる姿勢そのものだ。失って幾千もの時が流れた今でも、あの竜の姿を忘れた事はない。

「――キルケー、」

独居する海沿いの洞窟の中、女のもの以外の声がふと玲瓏と響いた。ランタン片手に振り向けば、予想した通りの来客の姿が出口に見える。

「ベヒモス様」
「さっき、転移の術式反応があったよ。誰かがこの島にやってきたんだ。君の仕業だろう」

怒っているとも呆れているとも取れるような、淡々とした発声だった。
象牙色の長く無造作に伸ばされた髪に、前髪で覆い隠された両眼、筋肉質でいながら長くしなやかな四肢。
日光を背に佇む男は、僅かに首を傾げた。その動作が何かしらの強い感情を抑える為の癖である事を、女は長いつきあいから知っている。

「ええ、存じております。ですがご心配には及びません。事が済み次第、全て丸く収めてご覧にいれます」
「……キルケー、ボクは」
「来訪者は三名きっかり。私が用を見出しているのは、そのうちのお一方だけです」

「お一方」。男の口が音を立てずにそう動き、刹那のうちに石膏のように整った頬に皺が寄った。
男は女にとって、件の竜へ向けるそれと等しい敬愛と忠誠を捧げる相手だ。面と向かって顔をしかめられ、決意が俄に尻込みしかける。

「三人のうち一人だけ、にご用事なのかい? でも、それなら他の二人はどうするつもりでいるのだい」
「不要なものは除去するものです。然る後に、本来は『この地に在るべきであった方』を、貴方様方の屋敷にお招きする事となるでしょう」
「キルケー、お待ちよ。ボクは、ううん……『ボクら』は君にそんな事望んでなんか、」
「今しばらくお待ち下さい。すぐに片をつけてまいります」

ランタンをローブで包み隠すように、女は礼をしながらくるりと身を翻した。直後、音もなく、たちどころにその姿は消えている。
微かな魔力の残り香が、彼女の転移の術の発動と、その移動先のおおよその位置を告げていた。
満潮が近付いていた。波を打ち寄せる洞窟の暗がりを一人静かに眺めて、ベヒモスと呼ばれた男は柔らかく首を振る。

「困ったなあ。キルケーったら、何かに熱中するとボクの話だってちいとも聞いてくれないのだから。ジズに、相談してみようかな」

綿織りのゆったりとした造りが自慢の服をひらりと揺らして、象牙色の男は緩慢で、どこかぎこちない動作で洞窟を後にした。
彼が足を踏み外さないよう慎重に一歩を乗せる度、硬く冷たい岩山にぎちぎちと素足型の足跡が刻印されていく。
ふと頭上を過ったカラスの影を見上げて、ベヒモスは前髪越しに目を細めた。昼も過ぎ、やがてこの北方の島にも黒塗りの夜がやってくる。
「急がなければいけないねえ」。ぽつりと宙に溶けた呟きはしかし、彼の性格上、緊張感とはほど遠いのんびりとした音だった。






「ところでさー、ここって、どこ?」

白い砂浜、寒々しい青空、冷たい潮風。当てもなく歩き出した数秒足らずで、ニゼルは周囲への警戒を放り投げ、忙しなく首を巡らせた。
人の気配はなく、また動物の姿も見えない。点々と生えるヤシの木と大きな葉を持つ低木の先には、美しい緑の草原が延々と続いている。
海岸沿いに転移されられたはいいものの、島の名前や全体図はおろか、地図上の位置さえ把握していない……後手に回っていると思う。
逸るニゼルの足取りを制止するように、隣のアスターがこほんと咳をした。汗の引いたレヴィが、訝しむような視線を投げてくる。

「ここは大陸の遥か北に位置する孤島、アイアイエー島。知らないのも無理ないわ、地図には載っていない島だもの」
「地図には載ってないぃー? ええー、こんな明らかに大きな島なのに? 無人島的な?」
「大陸の人間を無能呼ばわりしたくなる気持ちも分かるけど、普通は発見する事も難しい筈よ。ここには熟練の隠蔽術が張られているから」
「熟練? ふーん……それが今回の事件の犯人、って事? ああ、じゃあこの島は無人島ってわけじゃないんだ。なんだ、残念」

途端に、何者かにうんざりしたような、或いは呆れ果ててしまったような、そんな重苦しい嘆息の音が聞こえた。
両目を半開きにして、げんなりとした表情でアスターは立ち止まる。

「どうせ暇があったら探検しよう、とか考えていたんでしょう」
「うんっ!? いやあ、まっさかー。藍夜達のピンチ、だよ?」

チャンスがあれば、あわよくば。そのくらいに密やかに考えていたプランは、何故か偽造天使に見抜かれてしまっていた。
ところが、意外にも見上げてくる視線は笑っている。目の前に無人島があればこの子でも探検したいと思うのかな、とニゼルは首を傾げた。
立ち止まっていたアスターの目は島の景観を楽しむように遠くへ向けられた。瞳の色が黄金に変化して、魔女の出現を告げてくる。

「別にいいわよ、いつもの事じゃない……それより、さっき屋敷で術者の目星はついていると言ったわね」
「いつもっ……ああ、うん。そうだねー、言ってたねー……」
「アスターという生命体の中で、強いつなぎになっているのは魔女のメーデイアだと前に話したわね。それの血縁の、姉が犯人よ」
「へー、そうなんだー……って、姉? お姉さん? っていうか、『混ぜられた』のは妹の方だけだったんだ?」

そうよ、言葉短く肯定して偽造天使は振り向いた。表情から察するに、仲が悪かったのだろうか――ニゼルは口をもごもごさせる。

「連れ去られた日のことは、もう忘れてしまったわ。気がついたらアスターの体の奥にいて、抜け出しようがなかったの」
「えーと……なんて言ったらいい? 『ご愁傷さま』? 違うかな、謝っておいた方が満足する?」
「バカね、恨むのはアンジェリカ……いえ、とにかく私と姉様は別々に暮らしていたの。必要な時に必要な術を用いて交流していたのよ」
「って事はメーデイアがさらわれた時、お姉さんは巻き込まれようがない離れた場所にいた、って事か」
「そう、それがこの隠された島。あのひとはここで魔獣や神獣を従えたり、呪術を人間に指導したりする事を生業としていたのよ」

時に、互いの秘術を教え合い、時に、難題に立ち向かうべく助力し合い……琥珀の瞳の魔女は、かつての交流を懐かしむように目を細めた。

「アスターの存在に気付けた天使や神はいなかったでしょう? 優れた術者である姉様だって、当時は見つけられなかった筈だわ」
「じゃあ、もしかしてお姉さんが藍夜達を呪ったのって」
「……それなんだけど、わたしは『メーデイアを取り返す』為ではないと思っているわ」
「はあ? えっ、どういう事?」

不意に琥珀色が黒色を真っ向から見つめる。ニゼルに倣って立ち止まっていたレヴィは、一瞬、怯むように体を跳ねさせた。

「あのひとには実の妹以上に気に掛ける相手がいたのよ。それが『先代のリヴァイアタン』、神々に屠られた、かつてこの島で生きた魔獣」

勢いか、或いは反射か。アスターの冷淡な物言いに、レヴィが思わずという体で一歩を踏み出す。
掴みかかりかねない雰囲気だ、ニゼルはすんでのところで彼女に詰め寄ろうとした少年を押し留める事に成功した。

「っ、ニゼルさん」
「はいはい、ちゃんと分かってるよ、レヴィ。きっとアスターもね。『先代と僕は別個体です』、でしょ?」
「別個体、っていうと余計に陳腐に聞こえるわね。でも、そうね。今はメーデイアの姉の話をしているのよ。アナタの出生話じゃないわ」
「ですが、アスターさん……」
「ですが、じゃないの……あのひとは先代を尊敬していた、信奉といっても過言じゃないわ。今回の件、何かしら繋がりはあるでしょうね」
「うーん……歴史上、先代のリヴァイアタンはずっとこの島にいたって事だよね? まさかその再来を願って?」
「可能性はあると思うわ。人間界なんて巨体の魔獣には暮らしにくいでしょうし、何より理解しようとしてくれる物好きも限られるから」

ふ、と息を漏らした後、少女の瞳は夜色に戻されていた。琥珀の煌めきも常の僅かな光彩ばかりで、魔女の退出は見て明らかだ。

「とにかく、ですの。メーデイアの姉、キルケーは驚異にはなり得ませんの。流石に先代とレヴィの区別ならついている筈」
「……そーかなー? 今の話を聞いた感じじゃ、区別はついててもアレな性格してそうな気がするけど」
「ニジママ様? 他にも何か言いたい事、あるんじゃないですの?」
「えー、やめとくよー。アスターも大概……」
「言ってますの! 『アスターの血縁なら絶対面倒くさい性格だ』って、言っちゃってますのぅ!!」
「あーはーはー。そこまでは言ってないんだけどね?」

「原因に心当たりがあるのに黙っていた」偽造天使をからかうのはここまでだ。あらかじめベルトに差していたロードを引き抜く。
孔雀石をはめ込んだ黄金の神具。ヘラと肉体を共有していた頃から使い続けていた品を、生真面目な親友は今も大切に保管してくれていた。
知らず口元に弧が浮かぶ。アスターとレヴィが見守る中、ニゼルはそれをおもむろに地面に突き立て、後にぱっと手放した。

「……ニジママ様、まさかそれって」
「うん? 探し物をするときって、このやり方が一番主流でしょ?」

摂理に従ってぱたり、と倒れた杖の先端に目を向ける。いつの間にか、一本道だった筈の道は三叉に分かれてしまっていた。
アスターの言う、魔女の秘術の一種だろう。そちらが術をフル稼働するつもりならこちらだって黙っちゃいない、ニゼルは力強く頷いた。

「主流……世間ではそうなんですか。覚えておきます、ニゼルさん」
「そうそう! っと、真ん中を行け、か。じゃ、急ごっか。のんびりしてたらサラカエルに嫌み言われちゃいそうだし」
「……高度な幻術よ? いいのかしら、これで……」
「素が出てるよー、アスター。いいのいいの。下手に探索術なんて使ったら魔女さんに勘づかれそうだし、実績もあるんだからね? これ」

神や天使の中には魔術や秘術の発露のみならず、ロードの発動そのものを感知する者もいる。
島に乗り込んだ事くらいは見通されているだろうが、居場所を特定されていなければまだ動きようがある……ニゼルはそう考えていた。
二人を促して歩を急がせる。瞳術を操る主戦力が倒れた今、ガブリエルを救出した時のように自力で乗り切るしかない。

「しまったなあ、藍夜に羅針盤のロードだけでも借りてくれば……」
「っ、ニジママ様!」

やれるだけの事はやるつもりだ、その心積もりでいた。しかし、自分には審判官や殺戮のような極端な危機に陥る経験が欠けている。
故に、ニゼルは三叉路の分岐点中央に立つ存在に気付くのが遅れた。
アスターの悲鳴じみた声に我に返った瞬間、隣からざわりと、素人目にも分かる殺気と敵意が噴出する。
レヴィ、そう呼び止めようとした時には海蛇型魔獣は飛び出してしまっていた。同時に、不快に揺らめく蔑みが不気味に鼓膜を揺さぶった。

『……そうこうしている間に、サラカエルは対天使ともども夢の中。永遠に覚めない、夢の中。死出の旅に出る、夢の中……』

不気味、そう、不気味だ。「それ」は、不気味としか言い表せない姿をしていた。
長く棚引く、ぼろ布のような髪。浮浪者の如くみすぼらしく汚れた布を身に纏い、ふけや垢といった老廃物を撒き散らす。
死の遣いより恐ろしい外見はしていない。大神より端麗でもなく、地母神より凜とした風でもない――だというのに、目が離せなかった。

「あっ、しまった……レヴィ!」
「黙れ……先生は! 先生方は、この僕がっ!!」
「レヴィ、ニジママ様っ!」

手を伸ばせど距離が開きすぎている。「それ」に掴みかかろうとしたレヴィの姿が、瞬く間に掻き消えた。
しまった、やはり罠だ! 絶叫しながら服を鷲掴みしてくるアスターに振り向いて、ニゼルはもう一度消えたレヴィの背中を目で追う。

「な、ぜ……何故、どうしてっ。何故、こんな事に……」
「ア、スター?」

せせら笑いが聞こえた。直後、「それ」が煙か霞かのように姿を失せさせていく様を見る。偽造天使の悲痛な声は何度も響いていた。
苦しげにニゼルの服を掴み、縋るような声色で「それ」に訴えかける姿は、姉キルケーに対する感情とは別の思いが働いたように見える。
レヴィを追うか、あの汚らしい存在を追うか。はたまた知恵の樹の守護者らに探らせるか……考えが纏まらず、ニゼルは歯噛みした。
今は、偽造天使を放置しておかない方がいい。必要な情報なら彼女から引き出せる筈だ――崩れ落ちたアスターの頭を撫でながら首肯する。
考える合間、腰に戻した杖を揺すって探索術を喚び起こした。この際、向こうにこちらの手の内が明けてしまっても仕方ない。

「にっ、ニジママ、様」
「アスター。大丈夫?」
「わっ、わたしは……だっ、だい、じょ……」
「あのね、全然大丈夫に見えないからね? いいから、まず落ち着いて」

垂れ流し状態の涙を丁寧に拭ってやり、呼吸が落ち着くまで背中をぽんぽんと叩く。数十秒ほど経った後、少女は力なく頷き返した。

「さっきの……黒髪のひとは」
「うん」
「魔女の姉妹が……より強力な秘術を使うときに、知恵と力をお借りしていた古代の神よ」
「えっ! こ、古代神?」
「アナタですら名を知らないかもしれないわ。自ら歴史から存在そのものを隠してしまった、忘れられし神だから」
「忘れられし、神……」
「神も天使も信仰が失われれば力を失う、古代神にも通じる理よ。あの方があんな姿だったのも、崇めるのがわたし達くらいだからだわ」

その神とは、魔女達にとって血の繋がらない母親のような存在であり、学びの師であり、または道標であり指針でもあり。
今なお敬愛と畏怖を捧げる対象であり、彼女のやる事には口を出したくない、とアスターは言いのけた。
ニゼルは考える。姉側が先手を打って協力を要請したのではないか、或いは、あの神はメーデイアの存在に気付いていたのではないのか、と。
……そうでなければ、あれほどレヴィにだけ通用する的確な挑発の言葉を並べられるわけがない。

「まあそこは……単純に、あのひとの性格が悪いからだって線もありそうだけど」
「ラグエル? なんの話?」
「ううん、独り言。とにかく、レヴィはまんまと連れ去られたわけだよね。何もないと思うけど、追いかけないと」
「でも、相手はあの方で……」
「全部が全部、あの神様が企てた事ではないんでしょ? あのひとが関わらない部分でだけ、アスターも本気を出したらいいと思うよ」

古代神が絡んでいるとなれば、向こうは本気でレヴィを奪うつもりでいるのに違いない。魔獣である彼の為というのも理屈では理解出来る。
しかし、当のレヴィはヘラとサラカエルに恩を返す事を第一に考えているのだ。コタロウに会う為の修練も欠かさず積んでいる。
その意思を、その努力を、果たして「当人の為」と無視していいものだろうか。ニゼルはそうは思えなかった。

「それにね、レヴィがいなくなったら屋敷の警備は誰がやるの? 俺は前みたいに、仕事疲れのサラカエルに八つ当たりされたくないなー」
「ちょっ、と、それは……それは、ニジママ様の我が儘だと……」
「大体さ、まだレヴィの人型も見てないし鱗だって一枚しか貰ってないんだよ。それを独占しようとか、せめて許可取って! って感じだよ」
「ニジママ様こそ許可取りますの! レヴィの鱗、何年分収集するつもりなんですの!?」
「えー、何年分になるかなー? そう言うアスターは、あれからレヴィに竜鱗貰えたのー?」
「もっ、も、貰えたわ、貰えましたのぅ! ちゃんとっ、御守り代わりに持ち歩いてるんですの!!」
「わあ、肌身離さず? 健気だねー、可愛いね? アスター」
「むっ、むぎぃっ!! か、からかってないで、早く行きますのう!!」

ようやっと、いつも通りの返事が返ってきた。偽造天使の頭をもう一度撫で、ニゼルは立ち上がりながら杖をくるりと回す。
しゅるりと、いつか見たようにオレンジ色の砂粒が帯を成して伸びていった。唖然とするアスターの下顎を上顎にくっけてやり、歩き出す。

「向こうが神様まで引っ張ってきたなら、こっちも出し惜しみなし。レヴィは連れ帰る。いいね?」
「うう……わたし、キルケー姉様になんて言えば……」
「そんなの、俺達に喧嘩売ったお姉さんが悪いんだよー。本人は後戻り出来ないやり方を選んだつもりなんだろうけど、相手が悪かったね」

ロードの探索術は、迷う事なく真っ直ぐに道を進んでいく。最初の三叉路以降、道が分かたれている事もなかった。
強風が吹き抜け、洋装を激しく揺さぶっていく。春にはまだ遠い時期、島は思いのほか北に位置するのだろうとニゼルは首を傾いだ。
自分達が暮らすヘラの屋敷は、アスターとアンブロシアの結界で季節感こそあれ、常に快適な気温と環境に整えられている。
朝の談笑の後、すぐに出てきた為に互いの服装は薄手のままだ。見下ろした少女の唇は既に青くなり始めていた。

「アスター、大丈夫? 寒い?」
「ちょっとだけ……少し、急いだ方がよさそうですの」

ふわりと、柔らかな音すら聞こえそうなほど静かな吐息が漏らされた。立ち止まった少女の様子を黙って見守る。
ふと、アスターは宙に両腕を伸ばした。今はまだ見えない星を掴もうとしているようで、虚ろな眼差しは酷くこちらを不安にさせる。
肩に触れようとして、ニゼルははたと少女の両目を覗き込んだ。いつしか、夜と琥珀に彩られている筈の瞳が烏羽色に染まっていたからだ。

「……誰? アスター、じゃないよね?」

肉体は偽造天使のそれだが、纏う気配や立ち姿がまるで違う。当てずっぽうで口にしたそれに、少女は小さく頷き返した。

「こんにちは、ラグエル、知恵の樹を育む天使。わたしの名は……詳細は、今は言わずにおきましょう。せめて『エリヤ』とお呼び下さい」

黒い瞳の見知らぬ堕天使。気品と儚さを兼ね備えたそれは、アスターの顔のまま柔らかく微笑んだ。
不思議と違和感や不快感は感じられない。そっか宜しく、と返すだけで精一杯だった。

「優先すべきは、今代のレビヤタンの保護です。その為には、来る障害は取り除かなければなりません」
「障害? エリヤ、どういう事?」

聞き返した直後、少女の言う事がすぐに理解出来た。ふと物音が聞こえ、ニゼルはエリヤから目を離し道の果てを見やる。
土煙が迫りつつあった。よく目を凝らせば、それが狼や熊、猿、猪といった野生動物であるのが分かる。
そうしてニゼルは眉根を寄せた。彼ら動物達は口が大きく裂け、顔つきも険しく、爪牙を鋭く発達させた「魔物」であると気付いたからだ。

「……えーっと、あれは……」
「向こうが本気であるという証でしょう」
「いやあ、流石にあそこまでの歓迎は期待してなかったんだけどなー」
「問題はありません、あなた様はわたし達が護りますから」

どういう意味か、と問い返す暇もない。襲いくる無数の獣達に、エリヤは一度片腕を横に薙いだだけだった。
その直後だ。ふと視界に影が過り、次の瞬間には空から漆黒の剣が雨霰のように降ってくる。刀身のみならず、柄さえ黒い兇刃の群れだ。

【 ――道を開いて、『黒い剣の王国』 】

あっという間に、それこそ悲鳴を上げるより早く、魔物達は凶器に貫かれていった。ニゼルが我に返った後もなお、黒剣は落とされる。

「エ、エリヤ! エリヤ!! もういい、もういいよ……!」
「はい。道は無事、開けました」

どうしようもない事だ、言葉通り、エリヤは自分を護り道を切り開いてくれただけに過ぎない。
ニゼルは悲痛な面持ちで死骸の山に振り返った。あの剣雨はエリヤの固有術に違いない。強烈無比で容赦なく、目的を完遂させる強い力だ。
それを誤りだとは思わない、助けられたという事も分かっている。しかし、ここまでしなくても、という甘い考えは消えてはくれなかった。

「ラグエル、行きましょう。彼は、あのお屋敷に必要なひとです」

泣き叫びそうになる内心に蓋をするように首肯する。促されるまま、呼ばれるままにエリヤの後に続いた。
零れ落ちながら進むオレンジの灯だけが、迷いも淀みもなく二人の行く道を照らしている。





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 UP:21/07/30