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楽園のおはなし (3-38) BACK / TOP / NEXT |
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途中、何度か魔物の襲撃に遭いはしたがその度にエリヤが黒剣の雨で対抗してくれた。血が噴き飛び散る感覚を背中で聞きながら先を急ぐ。 「……悪役はおっきな屋敷に住んでなきゃいけない、っていう決まりでもあるのかな?」 「それは、どんな意味合いの……」 「あっ、ううん、こっちの話! 独り言だよー」 エリヤを連れて辿り着いたのは、見知らぬ一軒の屋敷だった。過去に見かけたどの屋敷とも造りが異なり、開放的な雰囲気がある。 床は高い位置にあり、設置された階段を使わなければ上がれない仕様になっていた。見上げた先、一面ガラス張りの窓の縁や手すり、柵には 細やかな装飾が施され、出入り口となる開口部は扉も板壁もないまま大きく開かれている。屋敷というよりは高級リゾート施設に近い印象だ。 天井は高く、艶めく太い丸材が数十本、しっかりと構造を支えている。吹き抜ける風にぶるっと体を震わせて、ニゼルはエリヤに振り向いた。 「ねえ、エリヤ。潜伏するのに向いてなさそうなんだけど、ここ」 「いいえ、間違いありません。ラグエル、あなたの導きの灯もずっとこちらを示していますから」 釣られて手元に視線を落とせば、橙色の砂粒は確かに屋敷の奥へと伸びている。頭を振り、そっと歩を進めた。 階段に足を乗せた途端、ぎしりと僅かに木材が鳴る。息を呑みながら辺りを見渡したニゼルだが、その音を聞きつけた者はいなかった。 光の誘導は絶えず暗がりの奥に続いている。手すりに掴まりながら足早に階段を上りきると、予想よりずっと視界が高くなった。 「えっと……レヴィを探さないと。出来れば、魔女さん達に見つからないルートで」 我ながら無茶な注文だ、と気だるげに杖を振る。しかし、どういうわけか探索の光はぴたりと出現を止めていた。 何度か振る、かざすを繰り返した後、ニゼルはそっと腰にロードを戻した。嘆息混じりの娘を見上げて、エリヤは声を潜ませる。 「ラグエル、もしかして」 「うん、もしかしてってやつみたいだよー? 無効化されちゃったんだろうね、徹底してるなあ」 「……では、わたしの探索術を試してみます。こちらもどちらかといえば、古代神のそれに近しい発動形式ですから」 言うや否やエリヤがくるりと手首を回すと、音もなくその手の甲に白い鳩が一羽、現れた。 古代神っていうのは手品師か何かなのかな、とは流石に言い出せず、ニゼルは内心わくわくしながらエリヤが鳩を放つ様を見守る。 鳩は、迷わず屋敷の奥へと飛んでいった。互いに目配せした後、ニゼル達は音を殺して白色の軌道を追う。 「わっ! な、何これっ!? ……凄いなあ、藍夜がいたら見せてあげたかったかも」 ある程度進んだと思った瞬間、ぱっと視界が開けた。高い位置から見下ろした先、屋敷の中心と思わしき広場に絶景が展開している。 どこかの山中か渓谷を切り抜き、この空間に強引に宛がったかのような大自然が、突如として目の前に現れた。 青く生い茂る木々や険しい山肌、ざあざあと流れる川に白くけぶる滝。下流と思わしきポイントには、先ほど見た寒々しい色の海も見える。 ニゼルはしばらくの間呆けていた。あまりの景観に、ここに来た当初の目的を忘れてしまいそうになる。 「――ラグエル、ラグエル。これも古代魔法の成せる技です、先を急ぎましょう」 「うん……えっ? あっ、うわっ、そうだった! ごめんごめん」 「お気になさらずに。強引にでなく、あなたの関心を惹きつけるという良質な向こうの策ですから」 「そっか、そうだよねー……って、魔女さん達は俺をなんだと思ってるんだろ。もうっ、藍夜もレヴィも絶対助けるって決めてるのにね!」 振りきるように奮然と歩き出したニゼルの後を、気付くか気付けないか程度の微かな笑みを浮かべたエリヤが追う。 白い鳥は階上の柵の上に止まって二人の再出発を待ってくれていた。使用者がひらりと手を振ると同時、軽やかな羽ばたきが再開される。 駆け足気味に進みながら、ニゼルはちらりと盗み見るようにして、無言でついてくるエリヤの様子を窺った。 (それにしても……アスターの中にいて『ラグエル』の名で俺を呼ぶなら、エリヤは天使か堕天使なんじゃないかなー) 敵対する姿勢は見えず、かつアスターが自ら交代した形で発露した少女。考えてみれば、エリヤという名前以外彼女の事を何も知らない。 ふと、見透かすかのように少女と視線が重なった。光沢感と暗緑を滲ませた黒色に見上げられ、思わず足が止まる。 「えっと……あのさ、エリヤは昔、ラグエルと顔見知りだった?」 「何故、そんな事をお尋ねになるのですか」 「えっ、うーん、なんとなく? 理由はないんだけど……ただ、随分あっさりと力を貸してくれるなーと思って」 視界の端、鳩は曲がり角の中心でくるくると回りながら滞空している。 先の渓谷と同じく幻覚なのだろうか、彼の舞う空は冬のそれとは似ても似つかぬ深く澄んだ青色をしていた。 くすり、と誰かが失笑する音が耳に届く。見下ろした先、エリヤは何故か、寂寥を湛えた微笑みで前だけを見つめていた。 「わたしと兄さんは、遠い昔、何時かのラグエルの手を借りて天上界に上ったのです。恩返し……とはまた違うのですが」 兄? そう聞き返すより早く、少女はこちらに振り向かないまま一歩を踏み出す。伸ばされた指先に、あの白い鳥が静かに留まった。 「あの日……人間界から天上界に移り住み、様々なものを見聞きし、この世界の在り方を知りました。貴重な経験をしたと思っています」 「へえ、そうだったんだ。結構、長い間の滞在だったの?」 「そうですね、天使となるべく上ったわけですから。懸命に役目を果たそうと……迷った時には当時のラグエルに助言を求めて」 「うん? ちょっと待って……天使になるべく、って言った? じゃあ、エリヤとお兄さんは」 「はい。わたしと兄さんは、元は人間だったのです。巡礼の旅を経て神々への信仰心を評価され、特例として天の園に召し上げられました」 心臓が冷えていく心地がした。鳩を愛でながらこちらに微笑みかける少女が、たちまち得体の知れない怪物に見えてくる。 「生まれは人間界で、かつ肉体もヒトそのもの。神々が忠実である精神を買い、ヒトの身である最中に天使とするべく天に召喚した兄妹」。 ……そんな境遇に置かれた人間など、二名しか知らない。歴代のラグエルの記憶は確かにニゼルの身に受け継がれているのだ。 そしてラグエルとしての立場で見るなら、自分は件の「天使となった」二人が後世でどうなったのかも知っている。 「エリヤ。君は『サンダルフォン』なの? あの黒い剣の雨は、君の攻撃手段の一つ、だったよね?」 「はい。その通りです、やっと思い出してくれたのですね」 頭を、鈍器で殴られたような心地になった。忘れてはいけなかった筈の記憶が、また一つ強制的に脳内を駆け巡る。 彼ら兄妹は、先代の海蛇型魔獣が殺害されたと同時期に、人間界でヒトに「神から得られた知識」を「知恵の実」を介して提供した。 知恵の樹とは、その実ともども神々の至宝の一つ。それを私的目的に無断で利用したと見なされ、二人は反逆者として捕らえられたのだ。 全ては、リヴァイアタンを処分した事で糾弾を受けた神々が「人間に神の偉大さを説け」と強引に二人を下界に戻したが故の出来事だった。 兄妹が人間界に降りられる手筈を整えたのは当時のラグエルだ……無意識に後退ったニゼルに、エリヤは困ったように笑いかける。 「ラグエル、いえ、ニゼルさん。わたし達はあなたを恨んでいません。そしてわたし個人に限った話で言えば、アンジェリカの事さえも」 処分を待つうちにアンジェリカに捕らえられ、最終的には神の匣に閉じこめられる事を強制されながらも、自ら選び取った道だと言うように エリヤ――かつての名はサンダルフォンという――は頷いた。アスターの肉体を介した少女は、悲しいほど当時の面影を残していなかった。 サンダルフォン、その兄メタトロン……双方ともに知恵の天使と関わりがあり、それ故に匣の材料として選出された不運の天使達。 ニゼル自身が手を出したわけではない。しかし、連れ去る間際の個々の表情と決死の声はラグエルの記憶として鮮明に思い出す事が出来る。 見つめてくるエリヤを前に、ニゼルは何かを言おうとした。しかし、口がはくはくと動くばかりで肝心の言葉は何一つ出てこない。 (待って……謝るのは違うよね。エリヤはアンジェリカさえ恨んでないって、俺とあのひとを同一視しないって、そう言ってるじゃないか) ここにきてなお、先代の身勝手さが負の遺産となって圧し掛かる。頭を振り、アンジェリカの後ろ姿を脳裏から振り払った。 目を閉じ、ぐっと拳を握りしめると、呼吸が楽になったような気がした。うん、と声を挙げると、エリヤはほっと顔を綻ばせてみせる。 「エリヤ……えーと、サンダルフォン……?」 「ニゼルさん。エリヤで構いません」 「そう? じゃあ、エリヤ。俺に力を貸してくれるのは君の意思って、それはいいんだけどさ、普段から『出てくる』事って出来ないの?」 「常に発露出来ないのか、という事でしたらそれは不可能です。わたしも兄さんも、神の匣の中に縛られているという前提がありますから」 「そっか。じゃあ、今エリヤが出てきてるのってメーデイ……アスターが許可を出したから、って事? なんかそれ面倒くさいね」 「よく、考えられていると思います。神の匣システムについては、わたし達にもまだ分かっていない部分もありますから」 件の兄妹は、今は三大天使に代わって知恵の樹の管理を担う身だ。神々の知恵を果実に投射した過去の行いからして、適任だったのだろう。 彼らが本気を出せば、中から脱出方法を探る事も出来た筈だ。だというのに抜け出す事はおろか、未だ解明しきれない謎があるという。 「だよねー。俺も『造った』自覚はあっても、設計図すら覚えてないし……ああもう、ほんっとアンジェリカって余計な事しかしないなあ」 「わたしも捕らわれた後の事は、酷く朧気です。恐らく、アスター女史が産まれるまで眠り続けるよう固定されていたのでしょう」 「固定かー。よっぽど計算し尽くして、最善のタイミングで匣が起動するようにしたんだろうね」 「そうですね……彼女が目覚めたと同時に、ようやく外の状況が見られるようになりましたから。鷲馬の仔、と聞いた時は驚きましたが」 「それなら尚更だよ。ねえ、エリヤはアスターの中で暇じゃない? 聞いた感じだと、普段は中から見てるだけ、なんでしょ?」 エリヤは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。普段のアスターの性格を考えると、なかなか見られる表情ではない。 いつもは澄まし顔を気取る小綺麗な造りがぽかんとする様は、実に見応えがある。ニゼルはたまらず、意地の悪い笑みを浮かべていた。 「そりゃ、樹の管理は大事だよ? でも使命ってよりは押しつけられた面倒事なわけだし、息抜きだって必要じゃない?」 「……え、あの……ニゼルさん」 「ましてや、ずーっと閉じ込められてたんなら見聞きしたい事なんてたくさんあるよね? その辺、アスターも妥協してくれないかなあ」 アスターとアンジェリカの折り合い。神の匣の存在理由、作成意図。囚われた二人の天使、その行く末。 考えなければならない事は、確かに山のようにある。しかし、アンジェリカの行動を振り返る度にニゼルは思うのだ。 「開発者自身が好き勝手に動いて周りを巻き込んだというのなら、その周りも思惑通りに振り回される必要はないのではないのか」、と。 「……ふ、ふふっ」 「うん? エリヤ?」 「ふふ……いえ、ニゼルさんは本当に、兄さんの言っていた通り『ラグエルらしいラグエル』なのだな、と思いまして」 「ええ? なんだろー、なんか馬鹿にされてる感じがする言い方だなー」 「いいえ……有難うございます。この話を聞いたら兄さんも驚いて、そして……喜んでくれると思います」 「……そうかな? メタトロンって無駄に口達者だったような……喜んでくれるなら、それに越した事はないんだけどね」 柔らかく、二人は笑った。ひとしきり穏やかに笑い合った後、エリヤは改めてというように鳩を放つ。 「つい、話し込んでしまいましたね。先を急ぎましょう」 「そうだね。アスターにエリヤ達の事を話すのは、後からでも出来るんだし」 器と立ち位置が変化した上での、初めての邂逅。それでもニゼルには、彼ら兄妹との再会が喜ばしく思えた。 彼らが堕ちるきっかけを作ったのは紛れもなくラグエルだ。エリヤがそれを許すというのなら、その期待に応えなければ。 対立する事なく、離れた歳月の分だけ話をしよう……エリヤの笑みに頷き返して、殆ど同時に一歩を踏み出した、そのときだった―― 「っ、え、」 ――果たして、その希望的観測があだとなってしまったのだろうか。突然、体がふわりと宙に浮かび上がる。 目線を下ろすと、いつの間にか足下にあった筈の「床板」が消えていた。胃液を逆流させる浮遊感に、咄嗟の悲鳴も出てこない。 「ッ、ニゼルさん!!」 「エリ、」 ……落ちる! はっと我に返った瞬間、隣からサンダルフォンの絶叫が聞こえた。混乱した最中では、翼を出すのも間に合わない…… 「――エリヤ。『借りる』よ」 ……そのトラップは、眼下に海水と複数の餓えたサメを控えさせていた。天使といえど、落ちれば無傷とはいかないだろう。 思考が分析に傾きかけた瞬間、ニゼルは視界の端にあの黒い剣の煌めきを見つけていた。エリヤの白い手が二対の得物を掴み、振り下ろす。 切っ先は、迷う事なく垂直の壁に突き立てられた。同時にニゼルは、自分の手がアスターの小柄な体にしがみついている事に息を呑む。 「っうあ、」 「馬鹿なの!? いいから、そのまま引っ付いてなよ!!」 否、そうではない。「あらかじめしがみつけるように、エリヤに腕を誘導されていた」のだ。 それに気がつけたのは、荒い口調で怒声を上げる「アスターにあらざる何者か」の悪態を耳にしたときだった。 横顔から至近距離で見つめた先、少女の瞳はいつしか、灰色に紫や緑の色合いを重ねがけした美しい鳩羽色に変貌している。 苛立ちに満ちたその表情は、決してエリヤには見られないものだ。思い当たる節がある……ニゼルは腕に込める力を少しだけ強めてやった。 「ちょっと、何考えてんの! 苦しいって、この馬鹿!」 「ねえ、もしかしてさ、君って……エノク? 天使名はメタトロンの」 「はあっ!? 今更気付いたわけ! これだから元人間の間抜けは嫌なんだよっ!!」 ガリガリと、耳障りな音が空を突き刺す。エリヤが召喚した剣はまるで欠ける事なく、順調に二人の落下速度を殺いでいった。 ぱらぱらと削れた岩壁の破片が落ちていく中、ついに空中で二人の動きは停止する。天使翼を呼び出して、ニゼルも剣の柄へと掴まった。 「はあっ、はあ……ああっ、嫌になるね! なんだってこの器はこんなに脆いんだろ」 「そりゃ、一応発展途上の女の子の体だし」 「一応? 発展途上? この細さと乳のなさで? 頭おかしいんじゃないの」 「いや、あの、言い出したのは俺だけどさ? まだ生まれて間もないんだし、そこまで言ったらアスターが可哀想だよ」 悪態に次ぐ悪態には覚えがある。苦笑いを浮かべながら、ニゼルは手探りするような不安定な手つきで空中に結界を精製した。 即席の足場に足を下ろすと、柄を手放した「メタトロン」は己の手を乱雑に何度も擦り合わせる。 アスターの肉体の一部であるそれは、指が全て赤く充血し、また手のひらは皮が剥けて血が滲んでしまっていた。 ……神の匣という銘が与えられた人工物であれ、アスターは意思を持つ生命だ。痛々しい怪我を見て、ニゼルは我が事のように顔をしかめる。 「治すから、ほら、見せて。メタトロン」 「はあ? エリヤの事はエリヤって呼んでおいて、何それ。ああ、悪い事をしたんだって自覚はあったわけだ」 「ええ? ……エノク、って呼ばれなくて拗ねてるの?」 「誰が! なんで! 君なんかに!! ほんっと、馬鹿なんじゃないの!?」 耳元でアスターの声で喚かれるのは、なかなかダメージになるようだった。耳鳴りがし始めたのを無視し、治癒の祈りを少女の手に注ぐ。 「……ずっとほったらかしにしとくとか、馬鹿なんじゃないの、君」 傷が癒え、心に余裕が生まれたのか。エリヤの兄エノクは、鳩羽色の瞳をくしゃりと歪めてぽつりと呟いた。 「それについては謝る事も出来ないかなあ。俺、今代のラグエルらしいんだけど全然記憶? 自覚? がないんだよねー」 「それくらい知ってるよ、今までずっと見てたんだから。馬鹿なんじゃないの」 「えー、馬鹿に馬鹿って言う方が馬鹿なんじゃない?」 「言っておくけど、それ全然面白くないからね」 算段をつけているのか、エノクは睨むように頭上を仰ぐ。消えたと思っていた床板は、元から蝶番で開閉が利くようになっていたらしい。 キイキイと乾いた音を立てて穴の縁にぶら下がるそれを、ニゼルは特に感心する事もなく、ただ黙って見上げた。 「特に呪術や魔法の気配は感じないけど。上がったところで、何かしら仕掛けられる可能性はあるかもしれないな」 「ねえ、エノク。エノクはさ、俺やアンジェリカを許そうって、許せるって、そう思ってる?」 「……はあ? 君……どこまで馬鹿で間抜けなの? 君が予想してる程度まで嫌ってるなら、こうして会話すらしてないよ」 言われてみれば、確かにそうだ。エリヤは生前の頃から優しく柔和な性格をしていたが、一方で兄エノクはその正反対の苛烈な人物だった。 少しの事で怒り狂い、暴言を吐き、他人を容易く信用せず、また妹にもそれを強要するような近寄り難い性格をしていたのだ。 ……しかし、それが自分やひいては妹、エノク自らが心を許したごく僅かな友人を守る為の牽制、威嚇である事を自分はよく知っている。 「うん、それもそうだよねー。エノク、知ってる? 君みたいな性格のひとを、最近の人間の世界じゃ『ツンデレ』っていうんだよー」 目の前で隠しもせずエノクがアスターの顔面を歪めさせたのを、ニゼルは心を弾ませながら楽しく見つめた。 彼はこちらが思っている以上に優しい人柄をしているのだ。力のない者、弱い立場の者を守る為に、前方に立って強がる。 そのひたむきさと不器用さが自分はとても好きだった。口調こそ荒々しいが、彼のひねくれた身内想いの面は鳥羽藍夜に通じるものがある。 何故、彼やエリヤのような人材を神々は手放したのだろう……リヴァイアタンを殺害した事も含め、当時の政策には閉口するしかない。 「近頃の流行り言葉なんて、別に興味も何もないけど……」 「え? 気になるって? そっかそっか、自分の事だもんね。知らないでおくと気になっちゃうよねー」 「馬鹿なの、馬鹿じゃないの!? ああっ、もう! 君と話してると頭が痛くなるよ!」 「へへ、お褒め頂き感謝の極み。なんてね?」 「はあ……もういいよ。とにかく、早いとこここを脱出しよう。なんだか、嫌な視線も感じるし」 嫌な視線? そう聞き返そうとしたときには、ニゼルの体は漆黒の闇の中にいた。 はっとする。いつ、こうなったのか。誰に連れられてきたのか。気がつけば自分は暗闇の中、たった一人で立ち尽くしていた。 「えっ……エノク? エリヤ……?」 かつて、新たなラグエルとして知恵の樹に対面したとき。或いは、ニゼル=アルジルの転生時に訪れた冥府の一角に降り立ったとき。 ニゼルの記憶からはとうに失われた孤独な場所は、今回も冷たく広がっている。指先に感じていたエノク、アスターの温もりも消えていた。 辺りを見渡し、結界の端と思わしき地点に爪先を伸ばしてみる。予想通り、足先は落下する事なく地面の固さを踏みつけた。 「これ……なんだろ、もう……誰か、いるんでしょ?」 困惑はすぐに苛立ちに置き換わる。会いたいと無意識下に思っていた兄妹と再会した直後に、これだ。 この暗闇を張り出した人物は、一体何を考えているのだろう。ただラグエルの邪魔をしたいだけならば、これほど効率のいいやり方はない。 ぎりっ、と歯噛みをした瞬間、ニゼルは微かな、僅かな硬質な音を耳にした。その物音には、確かに聞き覚えがあったのだ。 「――よォ、そんなにピリピリしなさんな。コッチ来て、少し座れよ」 茶器、それもヘラが愛用するような、高価な陶器が重なる音だ。 はっと顔を上げたニゼルは、暗がりの中にちゃんとしたティーテーブルの一式と、そこに座す人影を見つけて眉根を寄せる。 「オマエ、今代のラグエルなんだろう? ……ギャハハ、オレ様が耳寄りなイイハナシをしてやるよ」 それは、酷く不気味な姿をしていた。 長く棚引く、ぼろ布のような髪。浮浪者の如くみすぼらしく汚れた布を身に纏い、ふけや垢といった老廃物を撒き散らす……。 片膝を立てて行儀悪く座り、カップを持ち上げるそれは、正に先ほど邂逅したばかりのメーデイアの師であった。 真夜中を凝固したような冥い眼が、夜の瞳が、拳を握りしめたニゼルを楽しげに見つめている。 |
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