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楽園のおはなし (3-36) BACK / TOP / NEXT |
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「おっ。お前がアレか、ニゼルが言ってた『新入り』ってヤツ?」 身長測定という名の遊泳を終えた後、ひとり風呂場で海水を流し終えたところで声を掛けられる。 いつの間にか脱衣所に用意されていたシャツに袖を通しながら、レヴィは常の無表情で風呂場の入り口に視線を走らせた。 「言ってた、っていうか、アレだよ、そうそう、手紙に書いてあったんだよなー」 「……どちら様ですか」 「ん? オレ? ああ、珊瑚っつーんだよ。ヘラが世話になってる専属医師の……まー、見習い弟子ってトコだな」 こちらが問うより早く、身勝手に話し始める男だった。見覚えはなかったが、向こうは自身を知っている体で話しかけてくる。 黒い長髪はうなじのあたりで纏められ、小生意気そうな眼に琥珀の瞳が輝いていた。アスターが不安定な言動を見せる際の色と同じものだ。 彼女と同じ要素を持つ男――考えただけで胸が不快にざわめく。眉間に力を込めた後、レヴィは黒羽根の回答も待たずに歩き出した。 問答無用で扉を閉めようとするも、片足の爪先を差し込まれて阻害される。力加減は適切だったようで、短く発せられた苦鳴は小声だった。 「ちょっ、おまっ! いって……じゃねーよ、おい、少しはコッチの話聞けって!」 「客人があるとは聞いていませんでした。では、足を切り落とされたくなければ出て行って下さい」 「はんっ!? なんなんだよ、その態度! ニゼルが可愛がってるくせーから、ねーちゃんに代わって様子見に来てやったっつーのに!」 黙れ、喉から端的な罵声を出しそうになるのをぐっと堪える。そうでなくても、普段からニゼルに言葉遣いの指導を受けているのだ。 ここは、自分を救ってくれた恩人が座す屋敷。名を与え、衣食住を供する善人達の住まう場所……そんなところに、汚い言葉は似合わない。 ふう、と短く嘆息して思考を切り替える。着かけになっていた衣服を整え、珊瑚より先に脱衣所を後にした。 「なー、お前がレヴィだろ? ニゼルの話じゃ、屋敷の新しい用心棒だって聞いたけど」 置いていくつもりの速歩で歩き出せば、忙しなく話を振りながら追ってくる。 違う、自分が知りたいのはそんな情報ではない――ざし、といつもより強く絨毯を踏みつけ、勢いよく振り返る。 「オレ、アスターの実父なんだよなー」 その瞬間に返された言葉は、しかしレヴィの内側を揺さぶるのに十分な破壊力を持つものだった。 「……ノク……ノクトさんがそうだと、僕は聞かされていましたが」 「あー、色々あったからな。けど、そうだな……肉体? 器? そのあたりはオレと真珠ねーちゃんが元になってんだよな」 知らず震えた声を聞くと同時、黒羽根の鷲馬は片眉を上げて微かに笑った。見透かされるような笑みだ、レヴィは二の句を出せず硬直する。 「ねーちゃんは体が弱いから。それでなくても、今の診療所は忙しくてコッチに降りる余裕がねーんだってさ。ラファエルもギリギリだし」 「……知らない名前ばかりで申し訳ないのですが、あなたが手伝えば事足りる面もあるのでは」 「やー、ソレはムリ。オレ、細かい事務処理とか苦手だし。それにどっちにしたって、ケイロンの護衛は必要だもんな」 辛うじて言い返す事は出来たが、無難な返事しか打ち出せない。からからと快活に笑う神獣を見上げ、拳を握りしめる。 アスターの父親となれば雑な対応は出来ない。こちらの内心を見通してか、珊瑚はわざとらしい鈍足でレヴィの横を通り抜けていった。 「ケイロンはヘラとその周りの専門に近い魔獣の医者でー、超腕利き。ねーちゃんの診断だって出せるくらいだし。知っといて損はねーよ」 「その、真珠さんというのは」 「オレの血の繋がった姉貴だよ。オレら神獣の双仔なんだよな、体と頭の出来は似なかったけどさ」 「……姉と、弟、ですか」 「珍しい話じゃねーだろ? ヘラとゼウスだって姉弟だったんだし。意外と身近な婚姻って多いんじゃねーの、知らねーけど」 投げやり気味に押しつけられる情報に、海蛇型魔獣はたじろぐように後退る。 彼らは血縁同士でありながら子を設けたのだ。それだけでも驚愕する話だというのに、喰天使の容姿から逆算すれば珊瑚はあまりに年若い。 アスターに関する事について、その全てをニゼルにあらかじめ聞いておくべきだった……思いがけず受けた衝撃に動揺が隠せない。 「オレ達の娘は……アスターは、ゼウスだけじゃなく色んな方面からキョーミ持たれてるんだとさ。傍にいてやれねーのが悔しいわ」 「……」 「お前だって例外じゃねーんだからな。用心棒って事は少しは『出来る』んだろーけど、信用出来るかは別の話だし」 返す言葉もない。あの日、屋敷の住民達は無条件で自分という異物を受け入れてくれた。しかし実際の評価などこんなものだ。 珊瑚らの方がよほど冷静な目を持っている、とレヴィは思う。同時に、自分は本当に「神の匣」に特別な関心を寄せているのだと知れた。 (分からない、僕がアスターさんに固執するのは何故だろう。名付け親だから? 姉のような存在だから? ……本当にそれだけだろうか) 黙り込んだ自分を見下ろして、珊瑚はいやにそわそわと落ち着かない様子で視線を四方に走らせる。 コホン、とわざとらしい咳をされて、レヴィははっと我に返り黒羽根の顔を見つめ返した。 年頃の少年としか形容しがたい、どこかあどけなさを残す顔立ちが、ふと困ったような笑みを浮かべてくしゃりと歪む。 「まー、そう言うオレはねーちゃんにベッタリだったんだけどなー。だってそーだろ、『つがい』にしたい雌は放っとけないだろ」 「……? つがい、ですか」 「そーそー。護りたいーとか、大好きーとか、気になって仕方ねーとか。そんなの、オレ達神獣からしたらつがいに据えるしかねーじゃん」 つがい。もう一度、黒羽根が口にした言葉を口内で反芻させる。 途端に、全ての疑問に答えが見出せた気がした。目の前に広がっていた霧がさっと晴れ、迷い込んでいた迷路から抜け出したような感覚だ。 レヴィは虹膜の張る両眼を見開いた。答えのヒントを与えてくれた黒羽根の鷲馬を、真剣な眼差しで真っ直ぐに見上げる。 「有難うございます、珊瑚さん。この屋敷に来て以来、ずっと分からなかった謎が解けました」 「へっ? なんだよ、それ?」 「問題ありません、個人的な疑問でしたから。でも、これで全力で先生方に恩義を返せるよう努める事が出来そうです」 「え、あ、あー……そうなん? まあ、よかったな?」 「はい、アスターさんは僕から見ても素敵な女性ですから。『ゆくゆくは僕の左に据えます』ので、そのときは宜しくお願いします」 黒羽根は、何を言われたのか分からない、という顔をした。今は分かって貰わなくとも構わない、レヴィは大きく首肯する。 「それで、珊瑚さんはニゼルさん達にはお会いしたんですか。それだけ親しい仲なら顔を見せてあげた方が、」 「あー、いいっていいって。さっき話したろ? オレはケイロンの付き添いなんだよ。処置が終わり次第、すぐ天上に帰るんだとさー」 ……処置とは、なんの事だろう。そういえば自分は、珊瑚とその師が屋敷に訪ねてきた理由を知らないままだった。 嫌な予感が心臓の奥から漠然と噴き上げる。レヴィは自身の顔から血の気が引いていくのを体感した。 「処置、とは。一体、何が起きているんです」 声が震えた。一方で、問い返された黒羽根は目を二度ぱちくりと瞬かせ、意外な質問をされたとばかりに首を傾ぐ。 「お前は聞かされてねーの? 根暗……じゃねー、殺戮とウリエルが二人揃って倒れたって。だから専属のケイロンが呼ばれたってのに」 殺戮とは、敬愛して止まない天使の通り名だ。彼は自分の命を助けてくれた上に、この場所で生きる為の術を教えてくれた。 そんな男が倒れたと珊瑚は告げる。護ろう、力になりたい、そう願って常に付き従っていた筈なのに、肝心な場に自分はいなかったのだ。 ……なんという不孝者か。自分を信じて屋敷に招き入れてくれた筈なのに、その手を噛み返すような失態をしでかした。 「すみません、珊瑚さん。用事を思い出しました、僕はこれで失礼します」 「へあ? おい、どーしたんだよ。顔、真っ青……」 「問題ありません。それでは、また」 皆まで言い終えるより早く、きびすを返して走り出す。珊瑚が呼び止めてくれたが、聞き入れている暇はない。 自分はとんでもない大馬鹿者だ。今すぐに、殺戮の天使の元に駆けつけなければならない。 (僕には、何も……医学の知識も、薬学の知識も何もない。けど、それでも) 焦燥と不安とが、一つの体の中で泣き叫ぶように渦を巻いていた。階段を一段飛ばしで駆け下り、常に住民が集まるリビングに飛び込む。 今は、誰の姿もなかった。しかし、何者かが向かってくる気配はある。待っていれば自ずと情報は得られるだろう。 叫びたくなる衝動を飲み込むように、ぐっと息を殺した。殺戮に教わり、体得を済ませていた気配隠しの術に身を委ねる。 (浮かれている場合じゃなかったんだ。アスターさんをつがいに据えたいのなら、それに見合う務めを果たさなければ) 自分は、なんだかんだでここでの暮らしに緩みきっていたのに違いない。平穏である事と怠惰に過ごす事は、似ても似つかぬものなのに。 嘆息を漏らしてから、視線を入り口へと戻した。挽回の機会が与えられる事を、ひたすら祈る。 「……うぅーむ。こりゃ、ワシにも治療不可能だわい」 寝台の横、いつになく真面目な顔をしたケイロンが低く唸った。彼の前には二人の愛弟子が横たわっており、その表情は苦悶に歪んでいる。 「不可能、とは。病でなく魔術か呪術の類か」 「うむ、違いなかろう。しかしこれは……見た事のない痕跡じゃ、少なくともワシは一度も見た事がない」 椅子に腰掛けるケイロンを見下ろしたヘラは、彼の言を反芻するように閉ざした口を僅かに動かした。 女神に一瞥を投げ、魔獣医師は手前に寝かされた審判官の手を掴み上げる。甲から指先、腕に至るまで、紫色の奇妙な模様が浮かんでいた。 ヘラは一瞬、ほんの僅かに柳眉を歪めて嘆息する。物音に反応してか、藍夜の横に寝かされたサラカエルがぎり、と歯噛みした。 「……みま、せ」 「ああ、気がついたか。構わん、いいから少し寝ておけ、おチビ」 「……い、ふがい、な……ヘラさ、」 皆まで言わせぬよう、女神の手が殺戮の口を覆い隠した。脂汗で額と髪を濡らした従者は、虚ろげな眼差しでヘラの笑みを仰ぎ見る。 「構わん、と言っただろう。手は打つ、心配するな」 柔らかく弧を描いた唇を見つめ、それでもなおサラカエルは何かを言おうとした。 しかし、面倒くさい、と言わんばかりにヘラは空いた手で今度は彼の両目蓋を強引に閉ざしてしまう。 結果として、殺戮は数秒保たずに夢の中へと旅立ってしまった。真面目すぎるのも考えものだな、地母神はにやにやしながら身を起こした。 「さて、これから――」 「ヘ、ヘラ様っ……て、手を打つとは、つまり……っ、何か策が……?」 「ぶぅううううっ、うえっ、うええ、兄ィいい……」 「――おいー、お前達。その反応はお約束すぎて見飽きたぞー。ニゼル、なんとか言ってやったらどうだ」 「えー、俺?」 そうして振り返るや否や、号泣に勤しむアンブロシアとイスラーフィルを見て、即座に地母神はニゼルに話を振った。 一方で、ニゼル当人といえばのんびりとソファに腰掛けながらリンゴの皮を剥いていて、ヘラへの返事自体も生返事という始末だった。 親友とその対の危機だというのに、彼女の意識は如何にリンゴの皮を奇麗に繋がったまま剥けるか、に向いている。 「にっ、ニゼルひゃん! あっ、ああ、藍夜ざんがあっ!!」 「うわぁっ! ちょっとアン、落ち着いて!! ……もー、大丈夫だよ。藍夜もサラカエルも助かるから。ね?」 ね、と二度駄目押しをして、ニゼルは抱きついてきたアンブロシアの体をそっと剥がした。 一向に止まる様子のない涙をハンカチで拭いてやり、ついでに鼻水もかめ、とばかりにそのまま手に押しつける。 「ニジーさぁん……じゃあ、兄ィはそのうち目、覚ますの?」 「んー。それはー……向こう次第、じゃないかな」 全てのリンゴを切り分けた後で、ようやくニゼルは席を立った。一切れを口に放り、しゃりしゃりと小気味いい音を立てながら咀嚼する。 「む、向こう次第って、むぐっ」 「うーん、このリンゴだと甘すぎるかあ。蜜が美味しいけど、用心棒を雇うにはちょっと、ね」 同じく一切れずつをアンブロシア、暁橙の口の中に押し込んで、ニゼルは皿を二人に任せて窓際へ向かった。 あの時、台所で二人が倒れた瞬間体は動いていた……泣きじゃくる暁橙を宥めて一階の客間に運ばせ、ケイロンを呼び寄せ既に小一時間。 寝具の横を過った先、開け放たれた窓は広く大きく、縁側とはまた違った方角から庭を一望出来る間取りになっている。 「アスター」 ひらひらと、臙脂色のカーテンが揺れていた。ぼんやりと冬の曇天が霞む中、繁鼠の髪を揺らして偽造天使がこちらに振り向く。 「……覚えがないのも、無理ないわ。隠され続けてきた術式だもの」 開かれた両瞳は琥珀一色に満ちていて、さもぷるんと柔らかな飴玉のようだった。 予想した通りだ――ニゼルはにこりと「神の匣」に笑いかける。アスターの方は、わざとらしいわね、と隠しもせずに渋面を浮かべた。 「隠された術式とは、なんの事じゃ」 「天上界に居住していた神々とは異なる一派の術式、という事よ。神獣とか、古代神とか……そういえば分かりやすいかしら」 「ねえ、アスター。御託は後で聞くから、先に犯人の居場所の特定、急いでくれない?」 藍夜とサラカエルが揃って倒れたとき、この少女だけはひとり縁側に立ったまま微動だにせずにいたのだ。 自身が動転しかけた瞬間目にしたからよく覚えている。彼女の視線は、幽霊でも見たかのように恐怖と動揺に揺れていた。 きつく歯噛みして何かを堪えるようにすぐさま顔を伏せたアスターを見て、彼女は犯人に心当たりがあるのかもしれない、と踏んだのだ。 「十分に分かっているわ。というか、もう座標は特定出来ているのよ」 「そう? なら早くそこまで案内して。このまま放っとくなんて出来ないって、分かってるでしょ?」 言った後で、ニゼルは内心歯噛みした。 アスターの性格は概ね掴めるようになってきたが、彼女が内包する「材料」についてはまだ不明な点も多くある。 目星がついているのに動転し、躊躇う仕草……アスターの知る犯人とは、どのような人物なのだろう。 (でも、のんびりしてもいられないよ。うーん……藍夜とサラカエルの代わりに用心棒として手を借りたいのは、ノクトなんだけど) 普段屋敷の警備を任されているのはサラカエルだ。また、親友が時折、瞳術を用いて敷地内を見て回っている事も知っている。 倒れた二人の代わりに屋敷を守護する存在が必要だ……ニゼルとしては、知恵の樹の害虫駆除を担っていた喰天使が最適だと考えていた。 彼の娘であるアスターの手を借りる以上、これ以上の適任者がいる筈がない。 最近雇用されたレヴィの力は未知数であるし、暁橙やアンブロシアは有事の際に他人の命を屠る事が出来るかどうか分からないのだ。 「俺達がまごついてる間にどこぞの馬鹿な奴らがヘラを奪いに来たら……それこそ、サラカエルが目を覚ました時に戦争になっちゃうよ」 「それは勘弁してくれ」。愛らしい顔をこれでもかというほど歪めた少女を見下ろして、ニゼルは満面の笑みを返した。 ……想像に難しくない話だ。普段冷静沈着を装っている殺戮の天使が、如何に最愛の女神を慕っているか。 本人は周りに気付かれていないと思っているのだから、おめでたい話だとニゼルは思う。 屋敷を護り、警備の手を万全の状態で取り戻す事は、何もヘラの身柄をこの地に留める為だけの策ではない。 彼女が大神側に奪われでもすれば、サラカエルは周囲を巻き込んだ上で暴走するだろう。恐らく審判官や海蛇型魔獣さえ道連れにして。 ヘラが屋敷に在り続ける事こそ、地上と天上の拮抗を維持する最善手なのだ。奪還する為に審判でも起こされては、たまったものではない。 「で、でもニジーさん。ニジーさんとアスターちゃんだけって、そんなの危ないよ……せめてオイラとか、」 「あー、だめだめ。暁橙には悪い奴らが乗り込んでこられないように留守番してて貰わなきゃ。オフィキリナスの時、やってた事でしょ?」 「そっ、それはそうだけど!」 「だけど、じゃないのー。もう、目が覚めたら藍夜にたくさんハーブティー淹れて貰わなきゃねっ!」 「……そう。ねえ、ラグエル。アナタ、大事なオトモダチが倒れた割りにいやに冷静ね。流石、『知恵の天使様』といったところかしら」 「えー、それアスターが言う? 俺が冷静になんなきゃいけない理由くらい、知ってるでしょー」 「うん? なんだ? 何故、私の顔を見る?」 気を回すのは周囲の天使達ばかりだ。当人は気付いているのか、いないのか……ヘラはどちらとも取れる、可愛らしい笑みを浮かべた。 恋は盲目、とはよく言ったものだ。ニゼルはへらりと愛想笑いを返してから、アスターの背を押して客室を後にした。 歩み寄ってきたアンブロシアには小声で「藍夜の事、宜しくね」と言付ける。泣くのを堪えたあたり、彼女は暁橙よりは頼りになるだろう。 「えーっと。じゃあ早速、転送陣でも……」 「――アスターさん、ニゼルさん。これは一体、なんの騒ぎですか」 神の匣を連れたって廊下を進み、リビングに戻ったところでいよいよ作戦会議……とは、簡単にはいかないようだった。 気配もなく背後に立ち、冷徹とさえ思える固い声色が宙を叩く。名指しにされたアスターに至っては、肩を跳ね上げさせたほどだった。 「……あー、レヴィ? 海水、ちゃんと全部流した? っていうか、まだ濡れて……」 「とぼけないで下さい。何故、先生とウリエルさんが医師の世話になっているんです。熱もあるのに病ではないそうですが」 流そうとするも、食ってかかられる始末だ。いつからそこにいたのか、否、いつからあの場の話を盗み聞きしていたのか。 ニゼルが振り向いた先、髪から雫を垂らしたまま、レヴィは険しい表情でこちらを睨み上げている。 怒気という怒気が、殺気に変わりつつあった。これは八つ当たりされてるのかな、ニゼルは愛想笑いを返しながら口をもごもごさせる。 「あーっ、もう、ちゃんと拭かないと! ヘラに怒られるよー?」 「誤魔化すのは止して下さい。あの魔獣は天上では指折りの医師だと聞きました、先生方に何があったんです」 「……ふーん、そっか。で? 『指折り』とか『病ではない』とか、誰から聞いたの?」 「それは……先ほど、シャワー室の前でです。知らないひとでした。人間でも天使でもないようでしたが、医師の連れだと言うので」 「医師の、連れ?」 「はい。背丈はニゼルさんより少し高いくらいで、黒髪の後ろが一本結び、それに琥珀色の瞳の男性です」 絶対面白がって話したな――今この場にいない、否、恐らくどこかから盗み見しているであろう珊瑚に内心でこっそり舌打った。 来ているのなら顔を見せてもいいだろうに……そこまで考えて、白羽根に「大人しくしていろ」とでも言われているのだろうと思い至る。 「さあねー。俺も詳しくは知らないから、これから調べに行くところだし! 全く、本当はノクトの手でも借りたかったんだけどねー!」 嫌みったらしく声を張り上げるも、居間に反応らしい反応は返されない。レヴィの目つきにも変化はなく、ニゼルは無意識に嘆息した。 なんで俺が孤軍奮闘してるんだろう、とまでは口にしない。未だ剣呑な気配を放つ少年を一時無視して、アスターへ向き返る。 「アスター、転送陣だけど」 「もう用意したわ」 ふとした違和感があった。こちらに見向きもせず陣を見つめる偽造天使の背中を見て、我知らず眉間に皺が寄る。 普段の彼女と比べてあまりにもそっけなく、如何にも隠し事をしているという態度だった。 観念するように天井を仰ぎ、嘆息する。帰還手段であるアスターは当然として、後ろに立つ黒い少年もまた同行すると言って聞かない筈だ。 断る事を許さないと、その殺気が言っている。例えば黒羽根の気まぐれでもいい、もう少しまともな協力者を募りたい気分だった。 「まあいいや、行こっか。アスター」 「言っておくけど、転送先がどうなっているかまではわたしにも分からないわよ」 「えー、そんなのいつもの事でしょー? はいはい、早いとこ寝ぼすけさん達を起こしてあげないとね!」 告げた後で、ふとニゼルは思考を巡らせる。「これは神様や天使が出てくる世界のおはなしだ」と。 一瞬、藍夜とサラカエルを目覚めさせるのに必要なのは、おとぎ話に出てくる王子様かお姫様の類いではないか、と妄想したのだ。 寝こけている二人にゼウス扮する王子様が口づけをするべくそっと這い寄り……転送の負荷が体に掛けられた刹那、勢いよく頭を振った。 冗談ではない、せめてそこは自分かヘラであって欲しいところだ――後ろ手を引かれる感覚を覚え、目だけで振り返る。 (ああ、そういえば。レヴィってこういうちゃんとした転送魔法に乗るの、初めてだっけ) 自分も着いていく、と目で主張していた海蛇型魔獣は、不慣れな魔力の流動に耐え難いのか、脂汗の浮いた顔を苦しげに歪めていた。 ……正直、少しだけ溜飲が下がった気がする。口元に弧を描き、ぱっと前に向き直った瞬間、がくんと視界が不自然に弾けた。 目の前に、濃い色合いの海が広がっていた。一度として嗅いだ記憶のない塩気の強い潮風が、勢いよく頬を撫でていく。 |
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