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楽園のおはなし (3-35) BACK / TOP / NEXT |
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庭に出てからも、藍夜の寝ぼけ顔に修正は掛からなかった。いつものように寝起きは悪かったが、起きた後も千鳥足でいるのは初めて見る。 「ねえ、ニジーさん。兄ィ、何か悩み事かなあ」 「うーん。さあねえ」 本音を言えば、ニゼル自身もあまり体調が宜しくなかった。寝不足なのかどうか確信は持てないが、今朝は眠気が酷く足が重い。 そもそも昨夜も親友の部屋で一人堂々とベッドを占領して寝ていた筈だったのに、目を覚ませば塔の中。おまけに目の前にはノクトの顔だ。 お、き、ろ、と脅され、揺すぶられ、ふらつきながら最上階から降り、親友達を叩き起こしたのがつい先ほどの事。 あの時喰天使は見るからに機嫌が悪そうだったし、何より何故自分はあんな場所で寝ていたのか。夢遊病でも患ってしまっただろうか……。 考えても答えは出ず、うーんと唸るニゼルの横で、後ろの兄を気にしつつも暁橙の声色は朗らかに明るい。 「で、えーっと、なんだっけ。リヴァなんとか?」 「リヴァしか合ってないよ!? もうっ、リヴァイアタン、だよ。でもってアスター曰く、名前はレヴィね」 「へー。オイラが一生懸命部屋の片付けしたり本棚作ったりしてる間に来た新入りかー。で、どう? やっぱり伝説通り、でっかかった?」 暁橙は快眠、目覚めすっきり、といった体だったが、あの狭い個室でも連泊出来るという体質は最早羨ましいと思えるほどだった。 尋ねられた事について数秒思考を巡らせる。そういえば自分はおろかヘラ達でさえ、レヴィの原型はまだ見た事がなかったような気がした。 「……ニジーさん?」 「あ、うん。それね、実は俺もまだ見た事ないんだよねー」 「ええっ、あの動物大好きニジーさんが? 三度の飯より羊が好きで、コハを一番可愛がってたニジーさんが? 海洋生物は範疇外なの?」 「え、何それ、暁橙の中の俺ってどういう性格してるの?」 「オイラ、嘘は言ってないよー? ニジーさんって珍しい動物とか神獣の図鑑とか、いっつも眺めてたし!」 あはは、と声を上げて笑う。親友とはいつも笑い合っていたが、こうしていると本当に鳥羽暁橙が帰ってきたのだという実感が沸いた。 考えてみれば、藍夜と暁橙の三人で過ごすのは久しぶりだ。これまではイスラーフィルがウリエルを占領していて、碌に話も出来なかった。 彼の歌を聞くのも、兄を追い回す姿を眺めるのも楽しい。しかし、三人揃っているならまた昔のように笑って過ごしてみたかった。 ここのところ二人は塔に籠もりきり、自分はレヴィの教育に掛かりっきりだった。本棚の完成も間近となれば、やっと人心地つけるだろう。 「そうだなあ。暁橙の言う通り、ちょっとレヴィの身体測定とかやってみようかな……」 縁側まであと僅か、ぼんやりと今日の予定を考えている途中、不意にニゼルは足を止めた。 「……えっと……藍夜?」 否、止めざるを得なかったのだ。遙か後方にいた筈の親友がいつの間にか背後にいて、こちらの手をしっかりと掴んでいる。 振り向けば、はっとしたような顔と目が合った。我知らずといった藍夜の様子を見て、寝ぼけてるのかな、そう判断してへらりと笑い返す。 「ああ、いや、ニゼル……これは、その」 「うん? どうしたの?」 「いや……」 すぐに手は離された。歯切れ悪く何か物言いたげに口ごもる親友は、こちらに見向きもせず歩き出す。 「藍夜? どうしたの、何か気になる事でもあった?」 「いや……そう、僕もレヴィの事なら早めに調べた方がいいと思っていてね。何かの弾みで原型になりでもしたら、本人も困るだろうから」 「うーん。やっぱりそう思う? じゃあ、アスターに頼んで、おっきい水槽みたいに海水を切り出して貰おうかなあ」 追いついてから見上げた顔は、きゅっと眉間に険しい皺を刻んでいて、言いたい事を全て飲み込んでしまったように見えた。 こうなると彼は梃子でも答えてくれない。これ以上は仕方ないか、そう考え直して屋敷に上がる。既に住民の殆どは朝食を摂り始めていた。 「……レヴィ、ナイフの使い方凄く上手くなってますのぅ。どこで練習したんですの?」 「先生に聞いて……お早うございます、ニゼルさん、ウリエルさん」 「うん、おはよー。レヴィ、アスター」 ちょうどいい間で、テーブルの向かい側でアスターとレヴィが並んで食事を進めている。軽く挨拶を交わして席に着いた。 アスターの言うように、少年の皿の肉は見本のように綺麗な切断面を見せている。使い始めてまだ数日、大した適応力だとニゼルは思う。 「うーん、サラカエルの指導分ねー……まあいっか、それよりちょうどよかったよ、レヴィもアスターも揃ってるなら話が早いし」 「? 何か問題がありましたか」 「ううんー、トラブルとかじゃないんだ。ちょっとレヴィの身長を測りたくってさ」 「身長、ですの?」 「そうそう、今の擬態姿じゃなくて『原型』の方ね。暁橙に言われて気がついたんだけど、まだ見た事もなかったなーって」 「何、そう時間は掛からないさ。構わないだろう、サラカエル」 視界の端、既に食事を済ませていたサラカエルが片手を挙げる。彼はヘラとサイドテーブル越しに向き合い、優雅に紅茶を楽しんでいた。 「いいんじゃないかな、他でもないウリエルの頼みだ。それに朝の体術指導なら済ませてあるし、座学も瞑想の後でだからね」 「あれー? 座学って……勉強教えるのは俺の仕事なんじゃなかったの?」 「やあ、いちいち嫌みくさいな。君が専属を務めでもしたら、レヴィの知識に偏りが出るだろ」 早速偏りを生ませてるのはどっちなの、ちらと少年の皿の上に視線を流して、ニゼルは嘆息した。 「――問題ありません。すぐに出ます」 「わっ、ちょっとレヴィ! ご飯、まだ残って……」 殺戮との会話が途切れた僅かな隙に、レヴィは席を立とうとする。 ニゼルが制止しようとした瞬間、彼はヘラと出会った際に見せたきりの「巨大な口」を開け、器用に自分の食事だけを喉に放り込んでいた。 お行儀悪いですのう、とアスターの叱声が響く。珍しく、レヴィはその悲鳴を無視して単身庭に出て行った。 「まっ、待ってよ! 俺達、ご飯も食べてないのに……って、もうー。全然聞いてないなあ」 「ニゼルさん。ご飯、どうしましょう? 後にします?」 「うーん……そうしよっかな。ごめん、アン。後で温め直してくれる?」 「うっ。お、オイラもウリエル様と一緒ででも!」 「……暁橙。君は無理に我慢せずとも、先にお上がりよ」 三人分の朝食を運んできたアンブロシアは小さく苦笑していた。一方で、腹の虫を鳴らした暁橙だけは彼女の勧めで大人しく席に着く。 ニゼルは藍夜、当然のようについてきたアスターを連れて庭に出た。言葉少ない指示でも、偽造天使は手早く海を立体に切り出してくれる。 「えーっと。これ、どの辺りの海?」 「北方ですの。育ったのが輪の国の漁村なら水温は低めが適温の筈」 表面にはさざ波が揺れ、底に近い部分は群青に埋め尽くされてその中までを見通す事は出来ない。 海面付近だけを切り抜いたのか、と問えば、そのまま海底に潜っていけるよう深度の深いゲートとして展開した、と澄ました声が返される。 ……神の匣の銘に恥じない、見事な仕事ぶりだった。ニゼルは一人、満足げに頷いた。 「ニゼルさん、それで僕はどうすれば」 「見ての通りだよ。あの中なら広々としてるから、原型になっても誰にも迷惑掛からないと思うよ?」 屋敷の住民に迷惑が掛かるか否か、この少年の行動原則はそこにある。ニゼルの言わんとする事を理解したのか、レヴィは小さく頷いた。 殺戮の仕事着そのままの袖口から、慣れた仕草でワイヤーが放たれる。結界の縁に掛けると、少年は壁登りの要領で楽々と上っていった。 「おや、見事なものだね」 「あー……うん、そうだねー。ワイヤーの使い方とかも、サラカエルが教えてるんだって」 「そうなのかい? 確かにサラカエルはレヴィを屋敷の用心棒にすると言っていたがね、思ったより熱心に指導しているようだね」 「熱心、熱心かー。うん、熱が入ってるのは確かだよね……」 ……初めてあの服装を見た時、ニゼルは「サラカエルのミニチュア版だ!」と絶賛した。しかし嗜好まで似せてくれと頼んだ覚えはない。 海蛇型魔獣という身でありながら、レヴィの気配を消すような歩き方や、肉を綺麗に捌くナイフの扱い方は殺戮によく似ている。 ミニチュア版、というのも大袈裟な話ではないのかもしれない。隣で微笑ましい、とばかりに微笑む藍夜に、ニゼルは何も返せなかった。 (そりゃ、ああなっちゃうよねえ。やっぱり、サラカエルって親バカになるタイプだよね) ざぶん、と小柄な体に相応しい水しぶきが上がる。はたと気がつけば、レヴィの姿は既に海色の中に溶け込みきっていた。 「ニゼル、どうだい。君には見えるかい」 「うーん。結構、水の色が濃いからねー」 藍夜と並んで、忙しなく少年の姿を目で探す。アスターは深くまで繋いだと話していたが、その範囲がどこまでかは想像もつかない。 しばらく右往左往していると、不意に縦方向から立方体を眺めていたアスターがあっ、と声を上げた。 「ニジママ様、こっちこっち、これですのう!」 「いやアスター、これって……レヴィでしょ?」 どれどれ、とその隣から目を凝らす。途端、水槽のように透ける結界の向こう側に、ゆらりと青白い何かが横切った。 恐らくは胴体、背中と腹の部分を側面から眺めた形だ。予想していたより太く大きい。目測ではざっと全長数十メートルほどと予想出来る。 しかしそれもあくまで目測だ……うーん、と唸りながら目を凝らした瞬間、群青の奥からぬうっと殊更蒼く輝く玉石が見えた。 「めっ、目玉……うわあっ!」 「ニゼル!」 悲鳴を上げてのけ反ったところを、親友にしかと支えられる。ありがとう、と素直に礼を言ってから、ニゼルはぶるぶると頭を振った。 ヒトの頭一つ分ほどあるあの玉石は、恐らく本当の意味でのレヴィの眼球だ。瑠璃より澄み、青緑柱石より色が濃い。 あの瞬間、自分はレヴィと目が合っていたのだろう。あまりの美しさに、そのまま海中に引きずり込まれる錯覚さえ抱いたほどだった。 ゆら、ともう一度極太の胴が揺れ、ゆるゆると青色の向こう側に消えていく。 文字通りの「ウミヘビ」だった。元の擬態姿などまるで想像させない巨体の海蛇が、海中を優雅に泳いでいる。 時折、青水晶や蛍石を削り出したように透き通る、青く硬質な硝子片に似た鱗の類が、水中に注ぐ陽光をちらちらと巧みに反射させていた。 「……ニゼル」 「うん……うわぁ、凄いね。結構大きかった!」 「……ニジママ様……大きかったとか、そういう問題じゃないですのう」 三人は半ば、呆気にとられていた。それぞれが予想していたサイズを悠に越えていたのだから無理もない。 はたと我に返った審判官が、率先して瞳術を起動させる。取り出した手帳に羽ペンで何事かを細々と書き込んで、彼は小さく嘆息した。 「ニゼル、サラカエルが欲しがっていた寸法はあらかた記録したよ。もう屋敷に戻っても構わない筈さ」 「えっ、もう!? うー、もう少しレヴィの原型見たかったなあ」 「また後で見せて貰えばいいのじゃないのかい。それに僕達が食事を済ませなければ、アンブロシアが片付けられないじゃないか」 親友の言う通りだ、ニゼルは渋々と結界越しに声を掛ける。眼前で縦長の胴体がくねり、次の瞬間には頭上から水しぶきの上がる音がした。 「ウリエルさん。もう、いいんですか」 「ああ、問題ないとも。さあ、戻って塩分を洗い流してきたまえよ」 潜水したとき同様、レヴィは鋼糸を器用に手繰って地上に降り立つ。やっぱりもう少し見ていたかったな、とニゼルは一人喉奥を唸らせた。 琥珀達の変化能力に同じく、少年は元通り、衣服をきちんと着た格好でコタロウの姿へと戻っていた。 「じゃ、俺達もご飯にしよっかー。アスターはデザートからだっけ?」 「……あの、すみません、ニゼルさん、ウリエルさん」 「おや、どうかしたかい。レヴィ」 ふと違和感を感じて立ち止まる。見れば、レヴィがニゼルの袖をさりげなく掴んでいた。 屋敷への帰還を妨害するほどの力は感じられない。藍夜の問いかけに、少年は躊躇か、或いは困惑の色を強めながら顔を上げた。 「その……お二人には先に、渡しておきます。先生方にはこれからですから」 「うん? どういう事だい、それは」 「サラカエル達より先に? なになに、見せてー?」 差し出された少年の指先に、薄く削られた鉱石が数枚挟まっていた。否、よく目を凝らせば表面にごく僅かに縦縞の模様が刻まれている。 「レヴィ? これってもしかして、」 「はい。僕のウロコです」 反射で受け取ってからニゼルは眉間に皺を刻んだ。思わず隣を見上げてみれば、親友も似たような顔つきになっている。 藍夜の指に摘ままれた竜鱗に至っては、先端に微量の肉片と血液が付着したままの状態だった。 つられるように自身のそれに視線を落としたニゼルは、同じように肉片が残っているのを見て目を瞬かせた。思わずという体で舌を伸ばす。 「ちょっ、待ちたまえニゼル!」 「わっ!? あっ、もうー! あとちょっとだったのにー!」 「馬鹿な事を言うものじゃないよ、君は今すぐ戦争か、世界の終末でも引き起こそうとでも言うのかい?」 ……「リヴァイアタンの肉」と言えば、審判官が齎す最後の審判の折に食されるものと決まっている。 ニゼルは分かってるよ−、と口先だけで謝った。逸る好奇心には抗えなかったのだが、藍夜から止められたなら仕方がない。 「今し方、水中で剥いだばかりのものです。差し支えなければ持っていて下さい、『お守り』のようなものですから」 「だからお肉残ってるんだ−……って、痛いよ!? わざわざ剥がなくても抜け殻とか脱皮した後とかからのでもよかったんじゃない!?」 「いえ、本体から離れた後では効力が落ちていくので……ご迷惑でしたか」 「そんなっ、迷惑なんかじゃないけど……でも俺達が貰っちゃっていいの? 大事なものなんじゃ」 「この屋敷はあらゆる方面から狙われる機会が多いのだと、先生から聞いています。いえ、これも『ないよりはマシ』くらいのものですが」 伝説の希少品だというのに、当人は謙遜するような物言いをする。ニゼルと藍夜は顔を見合わせてから、ありがとう、と素直に受け取った。 空に透かせば表層に虹色の膜が細やかに揺らめき、手元で覗き込めば鱗全体に深い蒼色とはなだ色が交錯する。それは本当に、美しかった。 今現在、コタロウの姿を模す彼の擬態姿は黒髪黒瞳だ。レヴィが人型をとるとなれば、この鱗や先の眼の色がベースになるだろう。 早くそれを見てみたい、ニゼルはわくわくして思わず足を踏み鳴らした。心情を汲んでくれているのか、藍夜は苦笑混じりに微笑んでいる。 「っ、レヴィ。アスターにはないんですの?」 ここで異議を唱える者が出た、言わずもがなアスターである。ニゼル達はもう一度顔を見合わせた。二の句は互いに分かりきっている。 「じゃっ、俺達先に戻ってるね−。レヴィ」 「え、あ、あの、ニゼルさんウリエルさん」 「アスター……手加減してあげたまえよ?」 「っ、言われなくても分かってますのう!」 言い終えるや否や、アスターは力いっぱいにレヴィに苦情を投げつけた。対応する少年は目に見えて狼狽している。 「ねえ、藍夜」 「なんだい、ニゼル」 「レヴィってさ、将来好きな子の尻に敷かれるタイプだよね」 「……将来的には分からないというものだよ」 背後から絶え間なく聞こえる文句の嵐。竜鱗を光にかざして眺めながら、ニゼルは藍夜と笑い合って屋敷に戻る。 「ヘラ様、お茶のお代わりは如何です?」 「うむ、そうだなー。淹れてくれ」 愛弟子、いや、下手をすればヘラとの間に間接的にもうけた非公式の愛息、その原型。 気になりはしたが、好奇心旺盛なニゼルに「先」を譲っておけば、後から猫可愛がりしたとしてもいくらでも言い訳がつく筈だ。 ……サラカエルは未だ直接目にした事のない海蛇型魔獣の姿を想像しながら、ヘラから空のカップを受け取った。 「やあ、サラカエル。レヴィの測定を済ませてきたよ」 「やあ、ウリエル。それは手間を掛けたね、後で書き出すから教えて貰おうかな」 途中、庭から戻った藍夜と合流する。ニゼルと朝食を摂る際、彼女に供するハーブティーを淹れるのだと彼は笑った。 「なるほど、またウリエルの手を焼かせようってわけか。相変わらず毎日毎日懲りないな、あの間抜けは」 「やあ、手厳しいものだね。僕が飲む分でもあるのだから、そう言わないで貰いたいな」 ……かつて、審判官として任された大仕事の折。リヴァイアタンの雄が神々の手で首を切断される様を、彼は目にした事があった筈だった。 最も気に掛ける親友とやらを慕って笑う藍夜を間近で見て、サラカエルは彼が件の光景に胸を痛め続けていない事に安堵した。 (たとえ、レヴィがあのリヴァイアタンではないのだとしても。ウリエルは……気にする性格だったからね) ニゼルが如何に身勝手で、如何に好奇心旺盛な人物であるのか。語らいながら歩けば、台所までの道のりは本当に短く感じられた。 台所ではアンブロシアが忙しく追加の茶菓子を焼いている最中だった。一言声を掛け、対天使ともどもそれぞれの用を済ませる支度をする。 サラカエルは紅茶の茶葉缶を、藍夜は乾燥させたハーブを詰めた保存瓶を取り、いつものスペースでいつも通りにポットの蓋を開けた。 ヘラが好む茶葉は日々気分で変化する。それを敏感に察知し彼女が満足する茶を提供する事は、サラカエルにとっての誉れ高い日常だった。 「そういえばレヴィの事なんだがね、サラカエル」 「おや、なんだい。ウリエル」 「実は先ほど……ああ、いや。やはり何でもないよ、うん、気にしないでくれたまえ」 「アッハハ、逆に気になる言い方だな。ま、いいさ。ヘラ様か僕の話でもしたのかな? それなら、後からの楽しみにでもしておくさ」 レヴィの事となると、自分は途端に思考が緩くなる。 それはひとえに、彼を養子として迎えるにあたり「地母神ヘラと仮初めの夫婦になる」と彼女が示した契約書にサインしたからだ。 ……とんでもない話だと思う。自分はあくまで彼女の一部下でしかなく、身分や種族の面においても彼女とは埋めようのない隔たりがある。 しかしヘラ曰く、「夫婦関係にない男女では、如何に可哀想な身の上の子であろうと引き取りにくい」という話だった。 (……うん。俺も大概、身勝手だな) 「非公式の話であり、大神や婚姻の神に報告する義務もない」。得意げに言い放つヘラの目の前で、自分は件の契約書に万年筆を走らせた。 引き取ろうと決めた筈の子を、ヘラと二人きりの折に出会った特別な秘密の子を、彼女の目につく場で放り出す事など出来ない。 非公式の話であるという口説き文句に踊らされ、自分は彼女と仮の夫婦になったのだ……当時、誰もいないヘラの私室で結んだ秘密の契約。 あの時、ヘラは絶えず笑っていたような気がした。その意味深な笑顔を見続けるあまり、サラカエルはありもしない仮定を夢想してしまう。 彼女は自分とこうなる事を夢見てくれていたのではないか。或いは、自分の事を昔からずっと好いてくれていたのではないか……と。 「サラカエル? どうかしたのかい」 「……いや、何でもないよ」 顔から火が出るとはこの事だ。隣の対天使に上気した顔を見られまいと、なんとか視線を逸らす。 荒く溜め息を吐いて、冷静さを呼び戻した。直後ふと視線を手元に落として、殺戮は別の意味で嘆息する。 代えの茶を淹れる、と言って自分は居間から出てきた筈だった。だというのに、茶葉缶は未だに蓋すら開かれていない。 「僕とした事が……ああ、まいったな……」 「何か言ったかい、サラカエル」 「いや、いいや。何でもないよ。ところでウリエル、君こそ茶の用意が済んでいないようだけど」 「それは……君がずっと固まっていたからね。先にお湯を使っていいかどうか、考えあぐねていたのだよ」 そこは先に使っておきなよ、サラカエルは対天使の気遣いに破顔した。これが全てニゼルの為だと言うのだから笑うしかない。 そう言う自分こそ、ヘラやレヴィの為ならどんな事でも苦にならない筈なのだ。そう考えれば、自分達は真の意味で対なのだと実感出来る。 「さて、待たせてしまっているからね。アクラシエルもここを使いたいだろう、し――」 ――そうして平穏な日常を享受するあまり、自分は失念していたのだろう。 この屋敷は常に第三者にとって魅力的な獲物の宝庫であり、また、天上の住人にとって地母神ヘラを幽閉する檻であるのだという事を。 サラカエルは、茶葉缶の中に禍々しい色の生き物が息づいているのを見て固まった。 「サラカエル。瓶の中に何か……」 「ウリエル! それに触るな!!」 それが蜘蛛と呼ばれる生物である事、見知ったものに比べて巨体である事、八個もの単眼が迷わずこちらを捕捉している事。 どれもが「油断」に他ならない。缶を、瓶を叩き落とそうとした瞬間、殺戮は指先にごく僅かな痛みを感じた。 睨み返す事も出来ない。見下ろした先、赤黒い蜘蛛は二人の天使を嘲笑うように頭部を上げ下げして、雲か霞のように姿を消してしまった。 「消え……!? まさか呪術師っ、」 それを視認した瞬間、噛まれた指先に火を点けられたような熱が走る。目の中にちかちかと複数の光が交錯し、毒を喰らったのだと知れた。 「く、くそ……っ」 視界が急速に霞んでいく。視界の端、対天使が膝から崩れ落ちる様をサラカエルは見た。 ……自分は銘の関係上、痛みや毒に強く出来ている筈だった。ある程度のものなら無視も出来るし、天使という構造上耐え忍ぶ事も出来る。 だというのに、あの毒蜘蛛の一噛みはほんの数秒で自身から意識を剥奪しようというのだ。そんな事が出来る人物は限られている。 誰の仕業だ、そう罵る事も出来ないままサラカエルは床に倒れた。暗転する中、アンブロシアの悲鳴が強く鼓膜を打つ。 |
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