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楽園のおはなし (3-34) BACK / TOP / NEXT |
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結界に覆われてはいても、屋敷の外周に広がる森や眼下の街並みといった外界の空気は、季節感ともども味わう事が可能であるようだった。 冷えきった空気が小さな切り抜きの窓から絶え間なく入り込み、床上に放っていた毛布を寝転びながらなんとか腹の上に掛ける。 ノクトは天井を見上げて嘆息した。思い返すのは、日中に審判官の天使らと揉めた内容に決まっている。 (なんだって俺は、あんな事を言っちまったんだろうな) 二度目の溜め息を吐こうとして、はたと苦笑に切り替える。彼らを悪しように言った自分こそが、過去のしがらみに縛られていると感じた。 『――ノクト様!』 にこにこと、何の悩みもなさそうに笑う下級天使。空色の髪に赤紫の瞳と、愛した女に酷似していながら両者の性格は似て似つかなかった。 前者は庶民性が強い無邪気そのものの若者で、後者は下手に魂が長生きであったせいか腹黒く、本心が掴みにくい曲者だった。 後ろをちょこまかと着いてくるのが共通点だが、ニゲラには言葉にし難い愛くるしさがあったように思う。 これは審判官にとってのイスラーフィルのような立ち位置だとノクトは考えていた。手のかかる妹、経験の乏しい後輩……そんなところだ。 (そうだ、妹、だ。だからムキになっちまったんだろうな、アクラシエルには悪ぃけど) ……少なくとも、自分自身はニゼルとニゲラを同一視などはしていない。「手のかかる妹」、それ以上の執着心は抱きようがなかった。 一方であの審判官はこちらが彼女らを同一視していると捉えているように窺える。勘弁してくれ、とは言えずじまいだった。 (そもそもだ、俺から言わせりゃニゼルがニゲラだってのも……本当に混ざってんのかって話だろ、全然似てねぇじゃねーか) 審判官ウリエルと下級天使ニゲラ。当時ヘラの別邸において最も恋人らしく、かつもどかしい関係にあった二人。 「救ってやれなかった」事は悔いているが、当時のウリエルもまた同罪だ。後悔や謝罪の気持ちは、彼自身に決着をつけて貰うしかない。 (アイツら、屋敷中にバレバレだったっつーのは知らねぇんだろうな。ヒュメンの野郎なんざヘラに花嫁衣装の資料まで渡してたってのに) あの頃の様子を思い出して失笑した矢先、ノクトは頭上から差し込む光が思いがけず弱く、青く染まっている事に気がついて目を細めた。 「そうか……アスターが生まれてからもう半月は経ったのか」 今宵は新月だったのだ。四角形の穴の向こうに広がる星粒が、月明かりを失せた代わりに煌々と輝いている。 ……古来より、新月の夜は高位下級問わず、あらゆる天使を弱体化させるものとして知られている。 例外とされているのは、消滅の象徴である「喰」の力を負った自分や、神々を裏切り堕天使を治めるに至った黒塗りの魔王くらいのものだ。 今は屋敷中の誰もが深い眠りに就いている筈だった。本能に忠実なのも困りもんだな――鼻で笑うように嘆息して、ふと身を起こす。 「――あらぁ、起きちゃったの?」 起きようと思ったのはほんの気紛れだったのだ。如何せん、自分はここ数日、一階で寝こけている審判官らに振り回されて疲れ果てている。 ノクトは目を細めた。本棚の体が見えてきた壁面と、自分が腰掛ける寝具、その間。天に最も近いその踊り場に、知恵の天使が佇んでいた。 「……何の用だ」 「んー。理由がなかったら、来ちゃ駄目なの?」 一瞬の判断だった。ちり、と背筋に細い針で刺されたような不快感が走り、ノクトはすぐさま跳ね起きながら手を横に薙ぎ払った。 刹那、指先から剥がれるように漆黒の炎が迸り、狙いを定めた毒蛇の如き勢いで「喰」がニゼルに食らいつく。 正確には「ニゼルの姿をした何者か」に。常の手応えを感じ取ろうとした瞬間、喰天使ははっとした。寝具を蹴り飛ばし強引に距離を取る。 「……ふふ、我が主に向かって『暴食』を謀ろうとは。逆に何者かに食べられてしまっても文句は言えないのじゃないかな、喰天使」 パリパリと鮮烈な明滅が視界に入り込んだ。眼前、突如として出現するや否や、黒塗りの青年は喚び出した黒雷で喰の火を掻き消していく。 ――相殺された、恐らく実力は互角か拮抗といったところか。ノクトはたまらず怒声をあげかけるも、辛うじてそれを飲み込んだ。 「『魔王閣下』が、こんな辺鄙なところに何の用だ」 「分からないかな。君が『我が主』に噛みついたのが悪いのに」 喰の火を操るには、実のところ繊細で緻密な精神操作が必要になる。動揺し、混乱しかけた頭では威力も低減するだろう。 しかし堕天使の王はどうだ。明らかに気配の異なる知恵の天使の前に立ち、それを「主」と呼び、あまつさえ喰に怯まず笑顔のままでいる。 冗談じゃねぇぞ、ノクトはつられるように口角を上げながら内心で舌打ちした。何故、などという疑問は今は無意味。 「魔王が姿を見せるのは、相手を滅すると決めたとき」。神への信心は浅い自分でも、その古い言い伝えだけは聞き及んでいた。 逃げるのは難しい、無傷でいられる保証もない。ましてや、こんな狭い場所で奴に暴れられようものなら足場ごと破壊されかねない。 破壊自体は構わないが一階には審判官らがいる。どうする――間合いを計りながら歯噛みした矢先、ノクトは訝しむように眉根を寄せた。 「――あらぁ、駄目よぅサミル! ルファエルをいじめないで頂戴!」 ニゼルにきゅっと袖を掴まれた、その瞬間。黒塗りの青年はびくりと肩を跳ね上げて、その場に縫いつけられたように固まった。 ノクトはあまりの衝撃に身を震わせる。魔王が恐ろしいからではない……普段の彼女からは考えられない物言いが、酷く不気味だったのだ。 「……主よ。お言葉ですが、この愚か者は」 「あらぁ、言い訳するの? ルファエルはちょーっとビックリしすぎただけじゃない!」 「……で、ですが」 「もう! あんなの、野良猫を撫でようとしてふしゃーって引っかかれたようなものよ。怒ったら可哀想でしょう?」 「オイ……野良猫って、俺がか」 「そうよー? ルファエル以外に誰がいるの? それにサミルは例えるなら格好いい狼よ、猫科じゃないわ!」 言い訳と断じられたサミルは、幼子が親しい大人に叱られた時のようにしゅんとして落ち込んだ。満ちていた敵意や殺気さえも掻き消える。 ウキウキと音を出しそうな勢いで、ニゼルらしきものは笑った。朗らかで人好きのする笑みは、彼女よりもニゲラのそれに似ている。 ひくひくと頬が引きつるのを感じた。目の前の二人の関係性は不明だが、声を掛けてしまった時点で「負け」てしまった心地にさせられる。 「えっと、何の話だったかしらぁ……あっ、そうそう! 私ね、ルファエルにお願いがあってここに来たのよぅ」 その証拠か、ニゼルらしきものはニゼルの顔で改めて笑い直した。これまでの応酬に一切悪気はない、と言わんばかりの愛らしい笑みだ。 しかし、その目は弧を描く割に全く笑っていない。それ故にノクトは震撼した。 魔王などよりも恐ろしいのは、今目の前にいるこの正体不明の娘なのだ……そんな確信を得たからだ。 その様は、あるときは下界に冷酷な災害を齎し、またあるときは権力に溺れた端神を煮え湯に沈めた、古い純血の神々の姿を彷彿とさせる。 ハルピュイアやリヴァイアタンなどはまだ可愛いものだ……本当に恐ろしいのは、それら残虐な獣を創り、世に放った真の意味での創造主。 彼らは自然現象の化身であり、ゼウスやヘラのような新世代の神より遙かに古い世代である故に、自分や魔王の扱いをよく知っている。 「ねぇ、お話だけでも聞いてくれるでしょう? 私、一度でいいからルファエルとお茶がしたかったのよ」 いにしえの神であるならば、喰天使や魔王など恐れるわけがない。地母神の領域に入り込む事も朝飯前の筈だ。 手をかざしただけでサミルを下がらせ、真綿のような柔い笑みを浮かべる娘。それは喰天使に脂汗を掻かせるのに、十分な圧を纏っていた。 「……あらぁ、私、コーヒーよりお茶が飲みたいわ。サラカエルのー、桃の実を入れた紅茶とか!」 ビキッ、とこめかみに青筋が浮かんだ。ポットを握る手が僅かに震えたが、咄嗟にもう一方の手で無理やり押さえ込む。 「主よ、また今度にしましょう。今夜は新月ですから、殺戮もきっと夢の中ですよ」 「そう? ねぇ、サミル。サラカエルの淹れてくれるお茶って本当に美味しいのよ。私、あれより美味しいお茶なんて知らないくらいなの」 「おや、僕やリリスのお茶はお好みでない?」 「そんな事言ってないわよぅ。拗ねてるの?」 「ふふ、冗談ですよ。次にお会い出来る時は、リリスにパイを焼いて貰いましょう。あの娘の得意料理ですから、お気に召して頂けるかと」 「まぁ! 聞いた事あるわ! すっごく美味しいんでしょう? 私、一度でいいから食べてみたいなって思ってたのよぅ」 ……なんだコレは、漫才か同窓会か何かか。とてもついていけない、と思いながら、ノクトは二人の前に珈琲を差し出した。 ニゼルらしきものはぱあっと顔を輝かせ、サミルは顔を綻ばせてカップに口をつける。どちらの表情も穏やかで、空気自体は和やかだった。 「……で、話したい事ってなんだよ」 淹れておいてなんだが、今は飲む気になれない。珈琲は机上に放置して、寝具を元の位置に戻してから、ノクトはその縁に腰を下ろした。 はじめ、魔王は一口目を含んだ後で片眉を上げ、珍しく驚いたようにカップの中身を見下ろしていた。 ニゼルまがいの方はというと、やはりニゼル本人とは異なる仕草で珈琲を啜り、目をぱちぱちと忙しなく瞬かせている。 「まぁ! ねぇサミル、私こんなに美味しいコーヒーを飲むのは初めてよ。ルファエルのコーヒーは美味しいって聞いてたけど噂以上ね!」 「……いや、だから話を……」 「そう、ですね。僕も驚いていますよ、苦みも酸味もほどよくあって、ここまでの腕前はなかなかなさそうだ」 「……だからな……」 「そうよねぇ。ニゼルはいつでもこれが飲めるのよね? 羨ましいわぁ」 「話にならない」。日常を送るようにマイペースで談笑を楽しむ二人を前に、ノクトは為す術もなくうなだれた。 あらぁどうしたのルファエル、と呑気な声が降ってくる。焦りと困惑、苛立ちから、喰天使は俯いたままわざとらしく派手に嘆息した。 「今の口ぶり。テメェ、やっぱりニゼルじゃねぇんだな」 顔を上げがてら毒を吐く。侮辱だと捉えたサミルが動くやもしれないと警戒したノクトだが、本人は大人しくソファに腰掛けたままでいた。 制止役となっているのは、やはりニゼルにあらざる娘。目を見開き赤紫を瞬かせてから、彼女は目を輝かせて身を乗り出した。 「テメェ? 今、貴方テメェって言ったの? ……まぁっ! 私、そんな風に呼ばれたの初めてよ!?」 ガタン、とソーサーが跳ね上がる。よほど興奮しているのか、困った顔を浮かべたサミルに気付きもせず彼女は胸の内を開け放った。 「……テ、テメェはテメェだろ。いいじゃねぇか、呼称の一つ二つ」 「まぁっ、サラカエルにもそう言われた事ないのに!」 「知るかよ、あんな根暗野郎。俺はアイツと違って甘やかさねぇぞ。テメェもそこの魔王閣下も俺からすれば侵入者、ただの珍客なんだよ」 「ちん、きゃく? 珍客って、私の事なの?」 「テメェしかいねぇだろ! ひとの休み時間に手下付きで乗り込みやがって! そういうところ、ニゼルの間抜けそのまんまじゃねぇか!」 「てっ、手下? 間抜け? 私とサミルとニゼルが? ……本当に?」 本当の本当だよ、喉奥を唸らせながら恫喝すれば、娘はいよいよ感極まったように胸元に手を寄せて組み合わせ、祈るような姿勢を見せる。 両目にはうっすらと涙が滲んでさえいた。面食らい、ノクトは眉根を寄せてサミルの顔に一瞥を投げる。 変わらず、魔王は我関せずの体でゆっくりと優雅に珈琲を堪能していた。肝心な時に使えねぇな、とは流石に口に出さずにおく。 「凄いわ……サラカエル以外にここまで罵られた事なんて、私には経験がないもの。貴方って真面目なのねぇ、ルファエル」 ようやく落ち着いたのか、感心とも嫌みともとれる物言いをして娘はソファに座り直した。 にこにこと首を傾げながら茶目っ気たっぷりに微笑む姿は、普段のニゼルやこれまでのラグエルを見知った身からすれば違和感しかない。 「そうねぇ、お話ししましょう、って言ったものね。分かったわ! ――あのね、ルファエル。貴方、私の『用心棒』になってくれない?」 そうして、ようやくさあ自分も珈琲を、とカップに口をつけた瞬間、ノクトは盛大にそれを噴き出していた。 咳き込み、次いでぽたぽたと雫を口から垂らしながら顔を上げた先。ニゼルによく似た何かは、やはり穏やかな顔で微笑んでいる。 「なん……なんだと?」 「だからね、私の用心棒、つまり護衛よ! ほら、ラグエルって特別な天使でしょう? それにニゼルだって、」 「違う違う、そうじゃねぇよ。なんだって俺が、テメェみたいな正体不明に力を貸してやらなきゃならねぇんだって聞いてんだよ」 「まぁっ、冷たいわね! ニゼルの事、どうでもいいの?」 「んな事、一言も言ってねぇだろうが! テメェは何者だって、さっきからそう聞いてんだろ!」 ああ話が通じない! 怒りに任せて怒鳴り散らすと、娘はまた驚いたように目を瞬かせて、珈琲に口をつけ直した。 こくん、と喉が音を小さく立て、礼節のお手本のように小綺麗な動作がカップをソーサーに戻す。 ノクトは黙って答えを待つ。その仕草も、これまで彼が見てきた全てのラグエル、或いはアンジェリカやニゲラのそれとはかけ離れていた。 「うーん。教えてあげてもいいけど、貴方きっとビックリするわよ?」 「なんだそりゃ。今更何聞かされたって驚きゃしねーよ」 「……主よ、それは」 「分かってるわ、サミル。大丈夫……そうねぇ、少なくとも、貴方達やニゼルの敵ではないわ。むしろ協力者、といったところかしら?」 「協力者? 何に対してだ」 んー、とまたしても愛らしい動作で、彼女の指が自身の頬をなぞっていく。もったいぶられているのだ、ノクトは無意識に歯噛みした。 「でも貴方はそれを知ったら『天空の神』にチクりに行かなくちゃいけなくなっちゃうでしょう? それはちょっと、時期尚早なのよねぇ」 「天空の神」。隠していた筈の言葉が鼓膜を叩き、喰天使はたまらず腰を浮かせていた。眼前の娘は、酷く冷めた顔でこちらを見ている。 それは完全な不意打ちだった。地母神さえあくまで予想の一つとして捉えていた「真の主」の事を、この娘は既に把握している。 「そんなに怯えなくても大丈夫よ。私から何か言うつもりも、するつもりもないもの」 脅しにきているのだろうか、それとも――身構えるノクトを怪訝に思ったのか、娘はにこりと柔らかく微笑んだ。 「だって『あのひと』の事はそんなに怖くないもの。本当に怖いものはね、ルファエル。世界中のどこにでも、ごく普通にあるものなのよ」 「……本当に怖いもの? なんだよ、そりゃ」 「それはある日突然現れるものなの。ねぇ、ルファエル……私にとって、このお屋敷や住んでいる子どもらは、とても大切なものなのよ?」 脅しでも強請でもない、純粋に厚意と慈悲の満ちた笑み。ノクトは知らず、立ち上がりかけていた体を寝具の上に戻していた。 「ね、だから私の用心棒になって頂戴! それに貴方、どっちにしてもニゼルやニゲラの事も気に掛けてるでしょう? ついででいいの!」 腰掛けた矢先、ガクリと脱力してうなだれる。要するに「真実全てを明かす気はないが、言う事を聞け」、そう言われているのだ。 なんだ、結局はただの脅迫じゃねぇか……恨みがましい目で見上げてみれば、娘はやはりにこにこと笑っていた。 何故か。何故かは分からない。 しかし彼女の微笑みを目にする度、先の「古代神」への畏怖が湧き上がってくる。抗い難い相手というのはこれの事だ、ノクトは嘆息した。 「……大体な、護衛ってのは具体的にどうすりゃいいんだよ」 「まあっ! 引き受けてくれるのね!?」 「強制じゃねぇか、脅しじゃねーか! テメェがそうしろっつったんだろうが!!」 「あらぁー、そうかしらぁ。貴方が過保護ってだけの話でしょう? 可愛いわねぇ」 「このっ……!」 振り回されているという自覚はあった。しかし、一階には審判官らが、目の前には魔王がいるという手前、逆らうのは得策ではない。 諦めの姿勢を見せた途端にからかってくる娘を睨みつけると同時、ノクトは眉間に力を込めた。 「ふふ、冗談よ。さっきも言った通り、ついででいいの……ニゼルの事を、護ってあげて欲しいわ。『やっと宝物が揃い始めたんだから』」 「……ウリエルのクソ野郎だけじゃ、不足なのかよ」 「まあっ、クソなんて言っちゃ駄目よぅ! でも、そうね。ウリエル……あの子は、優しすぎるから」 その、全てを見透かすような祈りは何なのか。 寂しげな微笑みは、ウリエルを知人として見つめる視線の出所は。 そもそも、その名は、正体とは誰なのか……聞きたい事など、喰天使側には山のようにあった。 「……ああ、夜が明けるのね」 ふと、ぽつりと吐き出された言葉につられて窓を見上げた。四角い石造りの先から、うっすらとクリーム色の光が差し込んでいる。 いつの間にそこまでの時間が経ったのか。はっとして視線を戻せば、いつしか踊り場の中に、あの黒塗りの青年の姿は見えなくなっていた。 「オイ、テメェ……」 「ねぇ、ルファエル。また、次の新月のときにお茶をしましょうね」 「新月? な、なら今ニゼルの野郎は」 「今はね、眠っているのよぅ。あ、そうだ、そのときは……私、ヘラちゃんとも一緒にしたいわぁ。これからの事を……詰めなくちゃ……」 明るい。外が、気配が、空が白んでいる。かくりとうなだれ、ソファに寄りかかるようにして、そのひとはすぐさま眠りに就いてしまった。 どっ、と冷や汗が背に浮かぶ。ノクトは大きく息を吐き出し、早鐘を鳴らし続ける心臓に何度も落ち着け、と語りかけた。 音を立てて木製の寝具に寝転ぶと、塔内の空気がまだ冷たく、今は冬の最中なのだと妙な事に思い至る。 それだけ、先の邂逅が恐ろしかったのだ……自覚して初めて、手が震えた。音を立てずに起き上がり、冷め始めた珈琲を無理やり嚥下する。 「怖くない、か。なら、あの女は少なくとも『天使』、『天空のあの方』以上の生き物って事になるな」 そんなもの、この屋敷に、果てには天上界に残っているのだろうか。 長く生きてきたからこそ、分かる事がある。あれは、あの娘は、恐らく自身の主と同等か、或いは……。 やめよう――頭を振り、寝具から下りてニゼルの肩に手を置いた。見知った顔を覗きながら、目覚める彼女が当人である事を、必死に祈る。 「――お早うございます、あなたとは『初めまして』でしょうか」 目覚めた「ニゼル」に審判官らの起床を押しつけ、カップ片手に塔を出る。屋敷に向かう途中、どこからともなく声を掛けられた。 淹れ直した珈琲を啜りがてら、の道中だった。聞き覚えのない声に応えるより早く、ノクトは無意識に前に出しかけていた足を踏み留める。 「……っんだ、」 目の前を、銀光が駆け抜けていった。朝日を反射させて煌めくそれは、朝蜘蛛が張りだした細糸によく似ている。 土を、芝生を蹴る音がする。顔を歪めた瞬間、防御の為に突き出した片腕に先の糸が絡みついた。 「テメェッ、何者……!?」 「先手は貰います」 ――牽引される! たたらを踏む合間、ノクトは飛来、否、飛び掛かってきた黒色の少年を視認して眉根を寄せた。 黒い色をしていて当然だ。見覚えのない小柄な子供……それは恐らくは殺戮のお下がりと思わしき、黒いスーツを身に纏っていた。 彼の近親者か、或いは隠し子か。いずれにせよ「どういう躾してんだ」、と罵るより他にない。 「……ッ!!」 正確には、叫ぶ余裕もなかった。舌打ちするのを堪えて歯噛みした瞬間、側頭部から脳天にかけて強烈な揺れと痺れが走る。 鈍痛、直後、激痛。しばらくぶりにまともに受けた「ダメージ」に、喰天使は内心で舌打った。 ワイヤーで動きを固定した後の、蹴り飛ばし。単純だからこそ「痛い」のだと、カッと血の上る頭で分析する。 今も身体は引かれるまま前傾していた。ほぼ真横からの攻撃で、視界が更に斜め下に滑り落ちていく。 舐めるな――即座に思考を切り替える。空いている側の腕を伸ばし、真上目掛けて「喰」を喚ぶ。狙いは本体ではない、その爪先一つ分だ。 「っ!」 寸分狂わず、黒炎が革靴の表面を撫でていった。たったそれだけの動作で、少年の素足が外気に剥き出しになっていく。 ふと、片腕が軽くなった。鋼糸を解かれ、よろめきながらも体勢を立て直す。着地するや否や、少年は飛び退く勢いで後退した。 おおよそ二歩半分の距離を空けて睨み合う。時折、少年はちらちらと自身の足下に視線を投げていた。 「悪かったな、『借り物』駄目にしちまってよ」 「……! 気付いて、」 「何が『先手』だ。仕掛けてきたのはソッチだぞ、やり返されても文句は言えねぇ筈だろ」 予想通りで笑ってしまった。やはり少年の衣服は殺戮の天使からの借り物なのだ。 少年自身を攻撃するよりも服か靴を損失させた方が御せる、咄嗟の判断だったが間違っていなかった。 (……オイ、まだ飲みかけだぞ) 口直しでも、と手を動かした瞬間、持ち出してきたカップがない事に気付く。足下を見渡せば、カップは芝生の上で真っ二つに割れていた。 気に入っていたのに、そう零しながら破片を拾う。持ち上げる最中、惜しむ代わりに喰の火を点けてやった。 黒炎が白い陶器を飲み込む様を、少年の瞳がじっと見つめている。黒い表面に虹色の光沢が揺れるのを、ノクトは黙って観察していた。 ……ここは、変わり者として名高いヘラの屋敷だ。恐らくこの子供も普通の人間ではないのだろう。 自分は、何を血迷ってこんなところで暮らそうと決めたのだったか。知らず嘆息していたところ、少年の双眸が興味深そうに見上げてくる。 「なんだよ、クソガキ」 「クソガキとは僕の事ですか。僕の今の名前はレヴィです」 「……そうかよ。いいか、今度不意打ち仕掛けてきたら靴一足じゃ済まさねぇからな。覚えとけ」 「そうですか、完全に悪役の台詞ですね。肝に銘じておきます」 「なんなんだ、テメェは? 根暗野郎のガキか何かか」 「ねくら……?」 「殺戮の天使、サラカエル様に決まってんだろ! ったく、何考えてんだアイツは!? 面倒くせぇもんばっかり飼い慣らしやがって」 「……よく理解しました。確かにノクトさんは『先生』の仰る通り、この屋敷の中で一番の手練れのようですね」 進みかけた歩みが止まる。のろのろと鈍重に振り向いた喰天使の顔を、海蛇型魔獣が不思議そうな眼差しで見つめていた。 「先生が……殺戮の方です。屋敷の中で最も手練れで、自分よりも強者だと仰っていたので。興味があったので腕試しさせて貰いました」 「そうか、よく分かった。二度とすんじゃねぇぞ、次やったら服どころか皮剥いでその辺に吊してやるからな」 びきびきと、こめかみに血管が浮くのを知覚した。しかしけしかけたのは元同僚であるので、うかつに叱る事も出来ない。 食えねぇ野郎だ、舌打ち混じりに歩き出した長身を、小柄な子供が追いかける。その眼がきらきらと輝いている様に、ノクトは気付けない。 「よぉ。その、『先生』ってのは何なんだ」 「え。ああ……今度から、この屋敷の見回りと用心棒として雇用される事になりましたので」 「そうじゃねぇよ。奴に弟子入りでも志願したのかって聞いてんだ」 「いえ、それは……先生、その、地母神様の方は……養母、或いはその……母と呼んでも構わないぞ、と。そう仰って下さったんですが」 話の種に、と振った話題が空回りしていった。煮え切らない回答に、聞くんじゃなかった、と率直な感想が浮かぶ。 この少年がよもや自身の娘に同じく、複雑な出自の事情を抱えている事をノクトは知らない。鼻で嘆息し、間を繋ぐように頭を掻いた。 「まぁ何でもいいけどよ。屋敷の連中に、特に俺とアスターに面倒掛けるような真似はすんじゃねぇぞ。それ以外ならテメェの好きにしろ」 「それは……ノクトさんは、アスターさんと親しい仲なんですか」 「親しいも何も、アイツは俺の娘だ。肉体は別の魔獣が親って事になってるが、どうだっていいだろ、そんなもん」 一瞬の間があった。ふと振り向いたノクトは、少年の黒瞳が冥い光を宿したのを見て眉根を寄せる。 「そうですか。よく理解しました」 「……おう。分かりゃいいんだよ、忘れんなよ」 互いに無表情だ。その後は無言を通したまま、屋敷の縁側へと足を向けた。 ノクトはアンブロシアから朝食を受け取る為、レヴィはアスターに食事の際の決まり事を習う為に、それぞれで早々と別れた。 ……違和感とは、直感、予感、虫の知らせとして作用するのが世の常だ。 このとき、喰天使は自身が最も毛嫌いする「面倒事」そのものを自ら抱えてしまったという事に、終に気付けなかった。 |
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