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楽園のおはなし (3-33)

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「おお、体温は下がったか。レヴィ」

縁側に腰を下ろし、湯あたりした体を冷やしていた少年が振り返る。手に握らされた瓶入りの羊乳は、ちっとも減っていなかった。

「ヘラ、さま」
「うむ、顔色は悪くないようだな? よしよし」
「何故……あたまを、なでるんですか」
「うん? 嫌か」
「いえ、そういうわけでは」

たどたどしい言葉遣いは、何ものぼせた為にくるものではない。それはひとえに、遠慮や警戒心によるものだ。
気だるそうな眼には、既に種族特有の剣呑さが戻されている。それを美しいと思うあたり、自分の変わり者ぶりも相当だとヘラは思考した。
地母神は一度口を閉じ、にまりと綺麗に口角に弧を描いた。彼女の言わんとする事が分からず、レヴィはただ黙り込んでいる。

「歩けるか? うむ、おチビ……いや、サラカエルも私の部屋でお前が来るのを待っている。面倒だろうが、これからの話を詰めにいくぞ」

差し出された手を、黒瞳がじいと五秒きっかり見つめた。ほら、と急かすように上下に振られたそれを、少年の小さな手が掴み返す――

「――レーヴィー? どう、羊乳も悪くないでしょ……って、あれ?」

行き違いとはまさにこの事。自分用のミルクティーを手に戻ってきたニゼルは、待たせていた少年が不在であるのを見て目を瞬かせた。
話したい事は山のようにあったし、彼にも教えて欲しいと乞われたばかりだ。てっきりすぐにでも話に花を咲かせられると思っていたのに。

「ニジママ様? レヴィ、いなくなっちゃったんですの?」
「アスター。うーん、そうみたい、かも?」

ココアを手についてきたアスターが首を傾げている。そのうち戻ってくるだろうと結論付けて、二人は縁側に腰を下ろした。
まだ「立ち去るときには言付けを頼むか、書き置きを残す」ように指導をしていない。これは骨が折れそうだ、とニゼルは内心で独白した。

「ニジママ様は、レヴィをどう思いますの?」
「どうって? あー、ヘラに先に取られちゃったなー、みたいな?」
「もっ、物じゃないんだから。そうじゃなくて」

左隣に座るアスターは、カップを両手で包み込んだまま口をもごもごさせた。眉間に皺を寄せ、押し黙る横顔にあらかたの予想を立てる。

「そうだなー。世界最強だか海の王だか知らないけど、そんなの気にする必要ないと思うよ」

予想的中。夜色の瞳は俄かに琥珀色を強め、咎めるような視線と共に音を立てる勢いでこちらを見上げた。
変に真面目な性格は父方のノクトの血か、それともアンジェリカに似たのか、どっちなんだろう――言いたくなるのを堪えて視線を下ろす。

「だってさ、知恵の樹やら審判官やら殺戮やら、何なら地母神ヘラだっているのに。考えすぎたって疲れるだけだよ?」
「でも、あの大神達は……」
「放っとけばいいよー。そもそもレヴィはヘラが拾ってきたんだから、手の出しようがないでしょ。真珠達と一緒だよ、気にしすぎ!」
「〜〜っ、ニジママ様……ある程度は万が一の事くらい、考えていた方がいいと思いますの」
「『神も天使も、大きな蛇も、それを全部しまえる箱も。全部を揃えたお屋敷って、ありったけの宝物を詰めた玩具箱みたいじゃない?』」

何を、アスターの唇が音を立てずにそう動く。一方で、偽造天使の眼前、知恵の天使は誇らしげに微笑んでいる。

「『ねえ? どんなに荘厳な神殿も美しい王城も、きっとこのお屋敷には敵わない。皆が皆、羨ましくて妬ましくて、しょうがないのよね。
 だってここまで揃えるのすごーく頑張ったもの。思ったより時間はかかったけど、あともう少し待てば足りない分も揃うだろうし……』」

これは誰だ、そう言いたげに歪む琥珀色。訝しまれる事を見越していたかのように細まる尖晶石。
それは突然の邂逅だった。前触れもなしに変貌したニゼルが悠然と笑う。見知った筈の天使を前に、アスターは怯み、唇を噛んだ。
気にするな、考えすぎ、ここまではいい、いつもの調子だ。しかし、吉凶混在の屋敷を「玩具箱」と例える笑みに常の軽薄さが見出せない。
ふふ、と可憐に顔を綻ばせ、ニゼルの見てくれをした何かが視線を庭に走らせる。結界内部であるというのに、突如強風が吹き荒んだ。

「『だから、心配しなくてもだいじょうぶよ』」

それは、発露を讃える祝砲にも見えた。芝生を掬い上げ、細かい葉を宙に巻き込みながら、無色の内壁をなぞるように風が立ち去る。
一瞬の静寂が訪れ、偽造天使はもう一度、恐る恐るといった体で隣に座る娘を見上げた。

「ん? なに、おやつでも欲しいの?」

……気配は、その眼の面影は、いつの間にか普段のニゼル=アルジルに戻されていた。にこりと見慣れた顔で微笑み、頭を柔く撫でてくる。
「あれ」は誰だったのだろう――さも彼女の内側に、自分と同じく複数のモノが封じられているような気がした。
そんなまさか、と頭を振る。弾みで、かぶっていた猫耳飾りのついたフードがぱらりと肩に落ちていた。

「ねえ、アスター。これってノクトから貰ったやつなんだよね?」
「えっ、ああ、このマント? そう……そうね。少し子供じみたデザインだけど、贈り主があの喰天使なら仕方ないわ」
「あっれー? そんなに嬉しかったの? ふーん、思わずって感じで素が出ちゃってるよ−?」
「なっ、なによ……なんですの!? アスターにだって、贈り物を素直に受け取る気概もありますの!」

フードの端を指で摘まみ上げ、ニゼルは瞬きをしながらいつも通り意地悪く笑った。アスターはムキになってその手を押しのける。

(冗談じゃないわ。知恵の天使というだけでも厄介なのに、これ以上これに振り回されるなんて)

しぶとく寄せられる指先を払いながら、ふと自問自答した。
憎き己の母親にあたる先代ならまだしも、今代のどこに厄介さが潜むというのか。表裏もなく、日常を浪費するだけの元人間。
彼女自身が言うように、考えすぎであるのかもしれない。ふと漏れた嘆息を聞きつけたかのように、もう一度頭に柔らかな手が乗せられた。

「それにさ、ほら、何かあったら藍夜やサラカエルがいるんだし。何なら、アスターのパパ様を盾にしちゃったっていいと思うよ!」
「――ほほぉ。テメェ、よくもそんな舐めた口が利けたもんだな」

にこにこと笑うニゼルの背後。アスターは、突然ぬうと現れた影を見上げて目を瞬かせた。

「パパ! 庭のお手入れ、落ち着いたんですの?」
「あれっ、ノクト。もしかして仕事サボって……いたたたたっ! 痛い!?」
「痛くしてやってんだから当たり前だろうが。テメェ、ひとんちの娘に今度は何を教え込んでんだ?」
「……えっと……パパ、何かご用事だったんですの?」
「よぉ、アスター。話はちょっとコイツを躾けてからにするから、少し待ってろ」

振り向くニゼルと喰天使ノクトの、拳骨を交えたじゃれ合いが始まる。言ったところで無駄だろうが、よく飽きないものだと感心すらした。
同時に、己が原材料の一つとなった男の横に別の男が立っているのを見て眉根が寄る。その人影が酷く「嫉妬深い」のも常の事だ。

「……ノクト。君、いい加減ニゼルを解放したまえよ」

地を這うような声が空気をなぞる。二人が何か言うより早く、藍夜の手はノクトの両拳をニゼルのこめかみから引き剥がしていた。

「あれっ、藍夜! レヴィに用事? それなら今、」
「知っているとも、ニゼル。レヴィならヘラ様が部屋に連れて行ったよ、今後の事を詰めでもするのだろうさ」

対天使による体術指導を何度かサボタージュしてきた彼からは決して考えられない、力強く素早い動き。
こいつそんなに自分以外にニゼルを触らせたくないのか――無表情を貫く審判官を見上げ、アスターとノクトは殆んど同時に嘆息していた。

「それで、ノクトは何の用? 俺達何かやらかしたっけ」
「テメェ、普段のやらかしはテメェ起因だって自覚はあるみてぇだな」
「へへ! まっさかー!」
「用があるのは僕の方らしいのだよ、ニゼル。なんでも、ノクトにはしばらく僕の身柄を預からなければならない事情があるそうでね」
「えっ、何、じゃあわざわざ俺に断りに来たって事? ……二人でどこかに遠出でもするつもり?」

藍夜はあからさまに嫌そうな顔をした。一方で、ノクトは嫌み満載の不敵な笑みを顔に貼りつける。

「『本』に決まってんだろ。このウリエルのクソ野郎、またケイロン経由で小説やら学術書やら買い込みやがって」
「ほ、本? ……ええっ? ちょっと藍夜、また本買っちゃったの!? この間も買ってたじゃない、いい加減部屋の床抜けちゃうよ!」

何の話か、とアスターはますます眉間に力を込めた。その目の前で、矢面に立たされた当人は憮然とした顔をしている。

「確かに、数日前にいくつか本を送って頂いたがね。君に文句を言われる筋などない筈さ、ノクト」
「馬鹿なのかテメェは? ヘラから直々に俺にご用命が下ったんだよ、『庭園の手入れついでにどうにかしてくれ』だとよ。諦めろ」
「えっと、じゃあ、藍夜の本を部屋から別のところに移すって事だよね? そんなスペース、空いてる部屋を潰すしか……」
「そもそもテメェがコイツをしっかり躾けてりゃ俺が出る幕もなかったんだよ。甘やかしてんじゃねーぞ、ニゼル」
「はいぃ!? 俺のせいなの!?」
「……あの、パパ、ニジママ様。さっきから何の話をしてますの?」

ようやっと、ようやくの思いで口を割り込ませたアスターにノクトは嘆息。ニゼルは柔らかな苦笑を返した。

「藍夜はねー。読者が趣味なんだけど、昔から欲しい本があるとすぐ買っちゃうんだ。だから、気がつくと部屋が本で埋まっちゃうんだよ」

ちらと盗み見てみれば、当人は相変わらずそっぽを向いている。彼らの言う「本で埋まる」とは、この場合比喩ではないのかもしれない。

「とにかくそういうわけだ。運び出しと処分の準備と、それから……庭の外れに新しく保管場を建てるっつー話だから、その確認だな」
「ほ、保管場? なに、まさかついに図書館とかそういう、」
「馬鹿言え。ジャンルが偏りすぎてて貸し出しなんざ到底出来るもんじゃねぇよ」
「あ、うん……俺、冗談で言っただけなんだけどなあ……」

問答無用、これ以上は時間の無駄だ、そう言わんばかりの形相で、ノクトは強引に藍夜の片腕を掴んで去って行った。
ニゼルとアスターはそれを見送る事しか出来ない。理由は個々異なるとはいえ、双方は確かに虫の居所が悪いように見えたからだ。
いつものように八つ当たりされてはたまったものではない。ニゼルは苦笑しながら、隣の少女の頭を撫でた。

(ほんと、あれだけ本が好きなんてきっと瓊々杵さんだって想像してなかっただろうなあ)

ウリエルの頃からだっただろうか? 否、そんな記憶はない。
少なくとも彼の読書好きは本物だ、夜だってベッドに腰掛けながら小説を読み耽っている姿を、風呂上がりに何度も見ている。

「ノクトって、ああ見えて神経質なところがあるからなあ」
「藍夜パパ様、こってり絞られちゃいますの?」
「そうだろうねー。俺達にはどうしようもないんだけどさ」

親友の本好きが本物なら、喰天使の任務にかける情熱もまた本物だ。両者、譲り合う事はないだろう。
故に、今回の作業が終わる頃合いは恐らく現場監督であるノクトにしか分からない。
今夜、親友の帰還は気長に待つしかないかもしれない……口に運んだミルクティーは、随分と冷めてしまっていた。






「塔、とは。また随分と、大仰なものだね」
「まぁな。他の用途も兼ねてるから、これくらいの規模でいいんだよ」

無機質な、冷たい石造り。ヘラが人知れず愛息に依頼し建築を済ませていたという保管場とは、庭の隅、東側の外れに建てられた塔だった。
四角く切り出された石材が規則正しく、高く積まれ、厳格な雰囲気さえ漂う細身の塔。藍夜はノクトに促され、鋼鉄の扉を押し開いた。
中央には更に細長い塔があり、その周囲を螺旋階段が囲んでいる。内壁沿いに鉄骨造の本棚が並び、最上階までそれが続いていた。
最下層と高所には小さな穴が複数開けられていて、狭いながらも風通しはよく心地良い。結界内の設備である事が活かされた構造といえた。

「これは……なかなか見事なものだね」
「感心してる場合か。テメェの本が全部と、屋敷の連中で共用してるやつもここに移すんだぞ。ったく、手間掛けさせやがって」
「そうか……いや、しかしね、ノクト。他の用途とはなんなのだい。本以外に保管を要するものでもあったかな」
「ただの図書館じゃねぇんだよ。あの屋敷は居心地悪ぃからな、俺の仮住まいにする事になってる」
「仮住まい? 君、まさかここで暮らすつもりでいるのかい」
「まぁな。部屋数も揃ってるし、そう悪くねぇんじゃねーか」

ノクトの視線につられて目線を動かすと、内側の塔に各階ごとに小部屋が設けられ、鋼鉄の扉で階段と仕切られているのが見えた。
あの小部屋のどれかが、彼の寝所になっているという。ヘラには反対されたそうだが、強引に押し切ったと喰天使は話した。

「何故また? 部屋は足りていた筈だし、足りないものは言えば用意されるだろうに。アスターに遠慮でもしているのかい」
「テメェ、忘れたのか。俺達は別に、味方でも何でもなかっただろうが」
「……それは、そうかもしれないが」

階段を上る途中、不意にノクトが振り返る。藍夜は見上げた先、喰天使の表情がいやに冷たく変わりゆくのを目の当たりにした。

「テメェらのお仲間ごっこに口出しする気はねぇよ。だが俺がここに留まるのは俺の意思じゃねぇ、『地母神ヘラの気紛れ』だ。忘れるな」

思わず息を呑む。下手な事を言い返せば、この場で「喰」に焼かれかねないという危機感さえ立ちこめていた。
「これまで通り馴れ合う気はない」、「天上界の別邸暮らしの頃と同じと思うな」。そう、面と向かって宣告されたような気がした。
踵を返したノクトが階段を上がっていく。無言でそれに続いた藍夜は、ふと彼が足を止めたのを見て立ち止まった。

「――あっ、兄ィ! 嬉しいな−、兄ィも本の分別しに来たの?」
「……暁橙。君、ここで何をしているんだい」

頂上との中間地点にあたる踊り場に、見慣れた顔があった。散乱していた小説を手に掴んだイスラーフィルが、振り向き様に顔を輝かせる。
冷たい石造りの床にいつもの派手な羽根飾り衣装と楽器を携えた姿で腰を下ろす様は、無機質な塔の中では異質に見えた。

「ほら、これさっき運んだばっかのやつ。こっちは推理小説でー、こっちがミステリー。で、ニジーさんお薦めのファンタジーにー、」
「ま、待ちたまえよ、暁橙。君、これで片付けたつもりでいるのかい」
「ん? うん、とりあえずジャンル分け、カテゴリ分けしてー。纏めといて、それから棚に入れよっかなーって」

にこにこと笑う青年の横には山と積まれた本が所狭しと並んでいるが、どれも積み方は乱雑な上に並び方もめちゃくちゃで法則性もない。
思わずノクトの方を見た藍夜は、喰天使が生温かい眼差しでこちらを見ているのを見て絶句した。
……自分が呼び出された理由は、単に本の持ち主だからというわけでもなさそうだ。知らず嘆息して、藍夜は手近な本を拾い上げた。

(失念していたな。そういえば、暁橙は整理整頓が苦手だったね)

ある程度はこなせるが、理想的とは言い難い。鳥羽暁橙の家事の腕前を思い返して、藍夜は著者名を目で追いながら本を積み直していった。

「そういえば前から思ってたんだけど」
「なんだい?」
「うーんと、兄ィってニジーさんの事好きなの?」

いつの間にか席を外し、戻ってきた喰天使が、盆に乗せたカップを弾ませた音が聞こえた。口に含んでいれば噴き出していたかもしれない。
藍夜も同じ気持ちだった。ごほごほとわざとらしく咳き込んだ後で、突拍子もない事を言い出したイスラーフィルに振り返る。
かつての弟は手を止めず、目線も本に落としたまま、声だけでこちらに話を振ってくる。その表情は常と変わらず、本心を読む事は難しい。
……途端に、藍夜は自身の顔面に一気に熱が集まったのを感じた。馬鹿な、落ち着くんだ、と内心で喝を入れる。

「急に、何を言い出すんだい。暁橙」
「え? そんな急かな……兄ィ達を見てて思った、率直な感想なんだけど」
「ば、馬鹿な事を言うものじゃないよ。僕とニゼルは友人同士じゃないか」
「それはそうだけど、そんなのは当たり前の前提の話じゃないの? だってニジーさん、今は女の子なんだし。恋愛するのだって自由だし」

顔から火が出そうだ、比喩ではなく藍夜は本当にそう感じた。頭を振り、動揺と混乱を振り払うように咳払いする。
ぱっと審判官に振り向いた奏者は、悪意も他意もないきょとんとした顔をしていた。その無垢な表情はかえって質が悪い、と藍夜は思う。

「君ね、そんな……ハイウメと同じ事を言い出すとは何事だい」
「ハイウメ? ……あっ、あいつ! まさかまた兄ィ達を悪く言ってるの!?」
「いやいや、落ち着けよ。ハイウメってのは人間だっただろ、どうやって今頃口出し出来んだよ」

コーヒーを差し出しながら、ノクトから冷静な指摘が飛んだ。それもそっか、と呟いたイスラーフィルは躊躇いもせずカップに口を付ける。
中の黒褐色に視線を落とした藍夜は、せめてこれが紅茶か緑茶だったならまだ飲めたのに、と気取られぬよう嘆息した。
……漂う湯気は実に香ばしく、薫り高い。存外、塔の中の暮らしは豊かなものであるのかもしれなかった。

「暁橙、僕が言っているのは僕とニゼルが何らかの関係を持っている、というのを前提にした当時のハイウメからの悪態というやつだよ」
「えっと……あっ、そうそう、『ホモ野郎』とかっていうあれだよね? ってなんだあいつ、結局ただの悪口じゃんか!」
「っぐ、ゲホッ。ど、どんな悪態だよ……想像力豊かなオトモダチがいると大変だな」

藍夜と暁橙は顔を見合わせていた。あの喰天使が、目の前で声を出して笑っている。

「なっ、なんだい、ノクト。そんなにおかしい事かい」
「いや、そうじゃねぇよ。ただ、そのオトモダチは見る目があるんじゃねぇかと思ってな――」

何を、そう言い返しかけた藍夜に構わず、彼はカップを近くのミニテーブルに戻してやった。そのまままっすぐこちらに向かってくる。
ハイウメという男は見る目がある、喰天使の思いがけない返答に審判官が身構えたその瞬間、

「ッ、つ、う!?」
「――認めろよ。テメェはニゼル、いや、『今代ラグエルを好いている』ってな」

視界は暗転、同時に目蓋の裏に星が散った。背中と肩に重い衝撃が走り、息が止まる。

「あっ、兄ィ! っていうかコレ……かっ、壁ドンだー!?」
「……ッ、あき、」
「ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇぞ。バレバレなんだよ、テメェらはよ」

メキメキと骨が鳴る。目を開いた矢先、藍夜はノクトが左腕一本で自身を鋼鉄の扉に押しつけているのを見て二の句を飲み込んだ。
先ほど見上げた筈の、冷徹な視線と目が合う。怒りも悲しみも、何の感情も宿さない冷たい眼差しが自分を睥睨していた。
背後の扉が悲鳴を上げている。相当な力で押されているのか、外套越しに金属の硬い感触と、それがひしゃげる音が嫌というほど伝わった。

「……なに、を、言って……僕と、ニゼルは」
「ただの友人同士だ、ってか。ほぉ、それならこの俺が貰っても構わねぇよな」
「!? なに、」
「『アンジェリカの代わり』にしてやるって言ってんだよ。テメェもガキじゃねぇなら、どういう意味かは分かるだろ」

何故なのか。何故自分は、こうして今、ノクトに怒りをぶつけられているのか。
そもそも何故、彼はこんな事を言い出したのか。
……藍夜にとって、そんな事はもうどうでもよかった。不意に全ての物音が耳から遠ざかる。ぶつり、と脳の奥で何かが弾け飛ぶ音がした。
意識が泥濘に引きずり込まれるような絶望的な感覚が全身に満ち、次いで、強烈な熱量が頭頂部目指して駆け上がってくる。
心音と呼吸音が鐘のように甲高く鳴り、無意識に身体は前へ、前へと動いていた。

「……何故、ニゼルが君の慰み者にならなければならないのだい」

気がつけば、喰天使の手を握り返していた。そのまま力を強め、握り潰してしまう勢いで肩から引き剥がす。

「ニゼルはっ……ようやく逢えた、僕の大切なひとだと言うのに! 君は一体、何様のつもりなんだい!!」

藍夜は歯噛みした。眼前、ノクトが喉奥で唸っている。駆け出した暁橙が、自分達を引き剥がそうとしている。
それでも手に込める力は弱められない。弱めるわけには、いかなかった。

(ニゼル……僕は)

ニゲラ、ニゼル=アルジル、ラグエル、フロル……「彼女」の姿を脳裏に描いたとき、胸が引き裂かれそうな鮮烈な痛みを覚えた。
苦しくて、切なくて、しかしその痛みの全てこそがあたたかく、また愛おしかった。二度と離さないと、そう誓った。
――こんな不誠実な男に渡してなるものか! その憤怒を体感したその瞬間、同時に藍夜は愕然とした。
「自分、鳥羽藍夜、審判官ウリエルは、今代の知恵の天使をひとりの女性として愛している」。
……その焦がれてやまない痛みに、嘘偽りは、虚構はなかった。否、その湧き出してやまない想いこそが、自分の本心なのだと知れたのだ。

「ニゼルは君には渡さない! どうしても欲しいと言うのなら、僕を殺してでも奪ってみたまえ!!」

この際、友人同士だろうが、元は男同士であろうが関係ない。彼女が如何に自分に必要であるのかは、自分が一番よく知っている。
もう、気持ちも衝動も抑えようがなかった。ノクトの腕を押し返しながら、藍夜は背中の四枚翼さえ広げて絶叫する。

「……ああ、そうかよ。やっと認めやがったな、クソ野郎」

そのときだ……正面から覗き込んだ刹那、苦悶に歪んでいた筈の喰天使の顔が、その口が、奇麗な弧を描いていたのを藍夜は見た。
嵌められたと気付いた時には、肩が解放されている。ふと懐から葉巻を取り出し火を点けた男の横顔を、ただ呆然と見上げるしかなかった。





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 UP:21/01/25