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楽園のおはなし (3-32)

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「返してきて下さい、ヘラ様」

戻ったぞー! と威勢のいい声で箱型の転送ゲートをくぐり抜けた地母神一行を出迎えたのは、我らが審判官ウリエルである。
先述の台詞を述べた後、きょとんと固まるヘラを仁王立ちで睨む彼の背中を見て、ニゼルはおかわり直前のハーブティーを一気飲みした。
……何故、突然彼がそんな大黒柱目線の言葉を口にしたのか。
理由は知れていた。対天使の動向を「眼」で観測する悪癖があるのは、何も殺戮の天使だけではないからだ。

「藍夜ー? 捨て犬とかじゃないんだからさ……えっと、君が今回のお出かけの戦利品だよね。へえー、名前なんていうの?」

ウリエルもとい藍夜の横をすり抜けるようにして、ニゼルはヘラ達が連れ帰った正体不明の少年の前に屈み込む。
こちらの関係性や動向を警戒している部分もあるのだろう、少年はサラカエルの背後に隠れるようにして未だに棒立ちになっていた。
ぱちくりと大きく瞬かれた眼には油膜を張ったような虹色の照りがあり、その中央に収まる瞳は透き通った黒色をしている。
髪色といい、輪の国の人間ではないかと予想が出来た。しかし纏う気配は殺気立ち、獣じみていて、明らかにヒトのそれとは異なっている。
小綺麗な顔だ、と思った。それと同時に、あどけなさと強い警戒心が同居する顔だとも。

「ニゼル、君ね」
「えー、だって俺のやらかしじゃないし。で? 君の名前は?」
「やらかしって……君ね、なら普段の君の我が儘は君のやらかしであるという自覚が、」
「まあまあ。ね? それより今はこっちでしょ?」

にこりと笑いかければ、藍夜は喉奥で悔しげに唸るばかりだった。いつも通りの反応にますます機嫌が上向きになっていく。
くるりと少年に向き合ったニゼルは、彼との間にふとサラカエルの長身が割り込んだのを見て目を瞬かせた。

「悪いけど、この子は君の玩具じゃないんだよ。間抜け」

間髪入れずに冷たい声が降ってくる。伸ばされた手は少年とニゼルのちょうど間に挟まれ、さも「見るな、減る」と言わんばかりだ。
思わずヘラに視線を投げると、女神はぱちくりと目を瞬かせた後、ぷはっと盛大に噴き出している。
……隠しもせずに笑い出したところを見るに、彼女と自分は同じ事を考えているのに違いない。ニゼルは呆れた顔で殺戮の顔を見上げた。

「俺、まだ何も言ってないよね? サラカエル」
「やあ、輪の国の言葉だったかな。『目は口ほどにものを言う』って言うんだろ」
「それサラカエルが言うー? いや、俺は別にいいんだけどさ」

俺は別に、と語気を強めてから、ニゼルは首を伸ばしてサラカエルに「後ろを見ろ」と視線で促した。
訝しむように眉間に皺を寄せた殺戮は、渋々といった体で振り向いた後、ますます眉根を寄せて顔をしかめ始める。

「……ゲートの反応があったから来てみれば。アナタ、一体誰ですの?」

顔にも手にも、それだけでなく愛らしい洋装の至るところに泥と葉を付着させたアスターが、首を傾げながら少年に話しかけていた。
庭園弄りをするようになって丸一日は経過しているが、緑の指持ちと称された喰天使と異なり彼女には植物との好相性はまるで見出せない。
作業服を用意するのと草弄りを諦めさせるのではどちらが先だろう、口をもごもごさせながら、ニゼルは純粋に好奇の目で二人を見つめた。

「いえ。僕は、」
「もしかしてアナタ、ヘラママ様達の『お土産』なんですの?」
「それはどういう意味ですか」
「アスターにはよく分からないですの。それより、アナタはなんて名前なんですの?」

苛立ったように強引に話を振る少女に、黒髪の少年は戸惑うように眉間に小さく皺を刻んだ。
何故か彼の視線がふとこちらに向けられ――近くに立つヘラに助けを求めているのだと察せられる。
一方で女神はというと、濡れた服を着替えさせようと部屋へ誘導したがるアンブロシアと押し問答をしている最中だった。
こんなに面白いものは放っておけん、隠しきれない本音を並べて駄々をこねるヘラに、悲劇の天使はタオルを抱えて狼狽えるばかりでいる。

「えーっと……アン? 風呂も大事だけど、それならヘラだけじゃなくてこの子もだよ。サラカエルだってびしょ濡れだし」
「ニ、ニゼルさん」
「やっぱり名前が分かんないと不便だね。ねえ、俺はニゼル。あのピンクの髪の娘がアンでー……君は? 周りにはなんて呼ばれてたの?」
「なんて、とは……」
「用事があったり声をかけるときに呼ばれてた名前だよ。それがないと返事も出来なかったでしょ?」

少年は、目の前のサラカエルの顔を盗み見るようにそろりと見上げた。殺戮は脱力したように嘆息すると、一度だけ彼に頷き返す。
ニゼルはここで初めて、サラカエル達もまた少年の名前を聞かされていないのだという事に気がついた。

「名前、については覚えがありません。ですが、呼ばれていた名称についてはお答え出来ると思います」
「なんですの? そういうのを、世間一般では名前って言いますの」
「すみません。その……『アスターさん』」

不意に名を呼ばれ、箱型偽造天使は忙しなく瞬きをした。彼女の反応には興味がないのか、少年は一人で首を縦に振っている。

「僕は、僕を匿ってくれていた人間……コタロウには『ポチ』と呼ばれていました」
「……うん?」
「な、なんだって?」
「いえ、ですから、ポチです」

ポチって、犬じゃないんだから! 誰もがそう考え、また顔にもそれを浮かべさせた。しかし少年に悪びれた様子はない。

「コタロウは、本当はイヌを飼いたかったそうですから。だから、僕の名前はポチです」

悪びれるどころか、大真面目だ。真剣な顔で少年「ポチ」は辺りを見渡した。
ニゼルが何か言うより早く、ぶはっと誰かが盛大に噴き出した。言うまでもなく犯人はヘラだったが、これは笑ってしまっても仕方がない。
少年の種族が何であれ――ヘラの土産であるならヒトならざる者である可能性は高い――ヒトの姿形をしているものにポチと名付けるとは。
ちらと盗み見た親友の凄まじい顔から察するに、コタロウという名の人間はあまりにも酷い感性ではないかとニゼルは思う。

「えーっと……うん、そっか。でも流石にポチはちょっと、」
「いけませんか」
「いや、いけないってわけじゃないんだけどね?」
「コタロウは本当にそう呼んでくれました」
「うん、分かるよ? 分かるけど、俺達は君をポチって呼ぶのは少し抵抗があるなあ」
「抵抗とはどういう意味ですか」
「うーん……?」

マズい、何やら怒り出しそうな雰囲気だ。ニゼルはへらりと愛想笑いを返してから、藍夜に「これどうしよっか」と視線を投げた。
藍夜は藍夜で眉間に皺を寄せ、喉奥で唸り声を上げている。ではサラカエルはというと、こちらも親友と似たような顔で固まっていた。
ヘラはヘラで腹を抱えていてまるであてにならない。これは俺から打開策を出すとするかな、と振り向いたニゼルは、ぱちりと瞬きをした。

「ポチなんて、人間のカタチをしているものに付ける名前じゃないですのう」

いつの間にか、少年はアスターとしっかり向かい合っている。不快さを隠さない少女を、黒瞳がじいと見つめ続けていた。

「そもそも、このお屋敷は地母神が見定めた者だけが暮らす事を許された場所ですの。アナタのような正体不明はお呼びじゃないですの」
「ちぼ……なんですか」
「そこのヘラママ様の事ですの! もうっ、とにかくヘラママ様が決めた事ならアスターには口出しする権利なんてないですの!」

喚き散らした後で、アスターはおもむろに手を広げて前方に突き出した。ばさりと宙から落ちてきたのは知恵の樹の具現、エノク書である。
ニゼル達にお構いなしに無言でページに目を落としていた少女は、ある瞬間びくりと肩を跳ね上げた。
先ほどまでの勢いはどこへやら、恐る恐るといった体で振り向かれ、ニゼルは思わずにこりと満面の笑みで強張った表情を出迎える。
アスターは強く歯噛みした。悔しげに歪んだ顔から察するに、「ポチ」とやらの正体はろくでもないものであるのに違いない。

「アスター、そのページ俺も見ていい?」
「……ニジママ様、」
「えっとー、なになに? 種族名『リヴァイアサン』?」
「あっ、ちょっと!」

ざわつき、どよめきが起きた。アスターから半ば強引に引ったくった書の記述を何の気もなしに読み上げて、ニゼルは目を瞬かせる。

「えっ、リヴァイアサンってあのリヴァイアサン? 大昔のおとぎ話に出てくるっていう、おっきい海の蛇!」
「……ニゼル、君ね」
「えー、だってー。ねえヘラ、この子って……」
「ほほーう!? リヴァイアタンだと? ははっ、驚いた! これは予想以上の大物だな!!」

皆が動揺するのも無理はない。海蛇型魔獣、リヴァイアサン……遙か昔、神々が生み出したという「世界最強」と名高い伝説上の生き物だ。
何故、伝説とされているのか。それは件の生物が、聖書や神話の中でとっくの昔に滅ぼされた害悪であるとされているからだ。
かつての時代を思い返しているのか、ヘラは一人うんうんと頷いている。

「ヘラ様、リヴァイアサンといえば確か……」
「うむ、そうだな。聞け、ニゼル。先代の個体は創造主である神々に畏怖され、処刑されている。愚弟に知られては不味いやもしれん」

顔を上げた地母神の表情は晴れない。「処刑」と聞いて、黒髪の少年が微かに顔を曇らせたのをニゼルは見た。
刹那、エノク書にやや遅れる形で脳内にリヴァイアサンの情報が流れ込んでくる。今代のラグエルは、知恵の樹の優先順位につい閉口した。

(……これが、リヴァイアサン……リヴァイアタンか)

記録の吐出に目を閉じる。大海を意のままに泳ぎ、あらゆる海洋生物を気にも留めない姿は、正に海の王の名に相応しい威厳があった。
最終的に彼に下された、神々と天使による理不尽なまでの惨殺。彼を慕い、崇めていた数少ない者達の嘆きは遠く北方の海にまで及んだ。
……この少年にその記憶がない事だけが唯一の救いだ。冷静なままでいる点から察するに、先代、彼の親の記憶は継がれていないのだろう。
かくしてニゼルと少年、件の結末を知るヘラだけが平静である中、エノク書を召喚したアスターばかりが一人慌てふためいている。

「しょ、処刑されたのは先代……アナタのパパ様にあたるひとですの! アナタの事はアスター達が護ってあげますの!」
「アスターさんが、ですか」
「な、なんですの? こう見えてアスターもシアかあ様も結界は得意ですの! それに、弱いひとはここにはいませんの。安心しますのぅ」
「結界、ですか」
「そうですの、気候もある程度固定出来るし、きっと快適に過ごせるようになりますの。だからアナタも安心して、」
「……心配には及びません。僕には『父親なんていません』から」

ピキッと音を立てるようにして、偽造天使が固まるのをニゼルは見た。いつしか少年の虹膜の内側に、明確な怒りが滲んでいる。

「僕は海中を彷徨っていたところを、たまたま浜辺に来ていたコタロウに拾われました。僕の親はコタロウだけです、他は必要ありません」

「自分は親に捨てられたのだ」と彼は言う。自身の出自と重なって見えたのだろう、アスターは以降ぐっと口を閉ざしてしまった。
ニゼルは嘆息する。「親」と彼は口にした……処刑されたというリヴァイアタンと彼は種族こそ同じであれ、全く別の個体という事になる。
つまり、歴史上一度は滅ぼされた海蛇は次代の仔を残していたという事だ。それも歳幼くしてヒトの形を維持出来るほど優秀な仔を。

「キザ男達は……黙ってないんだろうね。どうせまた同一視して、危険だから殺せ、とか言うんでしょ?」

顔を上げた少年、振り向いたアスターと目が合う。少女の方は泣きそうな顔をしていた。

「半端に手を出すのはタブーだよ。ここに連れてきて生かしてしまった以上、放り出す事も出来ないし」
「にっ、ニジママ様……まさか、追い出すつもりなんですの?」
「それは早合点というものだよ、アスター。君と同じさ、拾ったからには保護し、庇護しようとニゼルは言っているのだよ」

親友が二の句を継ぐ。ニゼルの肩にそっと手を乗せ、口元を彼女の耳に寄せながら、彼は唐突に囁きかけるような体で言葉を続けた。
こすれる長い睫毛、柔いその声色に、ニゼルは二度瞬きをして目を閉じる。言い聞かせるような、言い含めるような響きがそこにはあった。
どうしたのだろう……心臓が大きく跳ね、音に耳を澄ませた。まるで別人のように落ち着いた声で彼は語りかけてくる。

「寝ても覚めても、ゼウス様方は落ち着かない事だろうね。仕留めたと思った生き物が、次代を残して歴史上に再び現れたのだから」
「……あい、や?」
「ニゼル。知恵の樹だけではなく、『最後の審判』の要素もここに集ってしまったようだよ。君、気付いているのかい」

藍夜の言わんとしている事が、よく理解出来ない。そろりと彼の顔を仰ぎ見て、直後ニゼルははっと黒髪の少年に目を向け直した。
保護、庇護と聞いて安堵したのか、彼はアスターと再び向かい合っている。遠慮や困惑を全面に押し出す黒瞳に、夜色の瞳が迫っていた。

「ひとまず、ここにいられるようになったのは確かな事みたいですの。よかったですの」
「……本当に、ここにいてもいいんでしょうか」
「ヘラママ様が連れてきたんだから、そう簡単に手放す筈ないですのう。自己責任ってやつですの。それはそうと、問題は名前なんですの」
「また名前の話、ですか」

ぽそぽそと悪だくみをするように小声で話し合う様は、一見は年相応に見えて微笑ましく、和やかなものだった。
しかし、片や世界最強とされる海の王――それも、最後の審判の折にその生命を貢ぎ物として捧ぐ事を義務づけられた――海の大蛇であり。
片や隠された場所で、ありとあらゆる邪悪な生命が再構築されて造られたという人工生命体であり。
それぞれが審判官と知恵の天使に深い関わりがあるという意味では、今後どのようなトリガーになるかまるで予想が出来ない状況だった。
ニゼルはたまらず、親友の手を握った。こちらに視線を落とした審判官は、緩く一度瞬きをして手を握り返してくる。

「そうですの! この屋敷で暮らす上での、愛称? 仮称? そういうのを付けたらいいんですの! 難しく考える必要、ないですのう」
「ですが、僕はポチで……」
「アナタがそう名乗りたいならそうすればいいですの。アスター達は、付ける仮称で呼ぶまでですの」

次代の海蛇は眉根を寄せた困り顔を浮かべ、偽造天使は嬉しそうに笑った。ぽんと手を合わせて打ち、無邪気そのものに顔を綻ばせる。

「リヴァイアタン、リヴァイアタン……確か、古い言い方ではレビヤタンとも呼ぶそうだから……じゃあ、『レヴィ』はどうですの?」

運命など、課せられた使命など何一つ気付いていないように、二人は穏やかに向き合っていたのだ。

「レヴィ……ですか。僕が……この屋敷の中でだけは、ポチではなく」
「イヤならイヤでいいですのぅ。気に入りませんの?」
「いえ。そういうわけでは、ないです」

「有難うございます、アスターさん」。そう続けた少年の顔に、驚きや喜び、悲しみといった表情は出されていない。
しかし、アスター自身は彼が首を縦に振った事に満足したのか、うんうんと一人得意げに頷いていた。

(……課せられた義務、か)

死を以って果たされる使命に、何の意味があるのだろう。目の前の二人の運命は、そこまで残酷な道程を辿らなければならないのだろうか。
この場に在る限りは、その身と心は自由であればいい……緩やかにほどかれた親友の手から静かに離れ、ニゼルは二人の元へ向かった。






「ねえ、レヴィ。レヴィの言ってたコタロウって、今はどうしてるの? 親代わりだったんだよね?」

ポチの改名もとい名付けを終えた後、ヘラとレヴィは風呂に入るよう住民達に促され、そのまま風呂場に連行されてしまっていた。
丸洗いがしたい――というか機会があれば原型姿を見てみたい――と自ら志願したニゼルは、レヴィを連れて男湯への侵入を果たしている。
審判官としての目線を外し、親友として「女性が男湯に云々」と憤慨していた藍夜は何故か遅れて居間に来た喰天使に連れ去られていった。
仕方なし、とは詭弁だったが、これで邪魔者はいない! と張り切って乗り込んだのが数分前の事。今は少年を洗い始めたところである。

「まだ、生きてはいると思います。恐らくは」
「まだ? それってどういう意味?」

女湯に比べると、男湯は置かれた植物や調度品の数が控えめだ。時間をかけて浸かるのが親友や喰天使くらいのものなので当然ともいえる。
来客扱いの暁橙は浸かりはするものの足湯にいながら歌うか楽器を奏でるかで時間を浪費し、殺戮に至っては烏の行水といった有様だった。
シリウスは温水と冷水の行ったり来たりだったな、背中を流しながらぼんやりと考えていると、レヴィは急に顔を俯かせてしまった。

「レヴィ? あっ、もしかして背中痛かった!? 力、強すぎたかな」
「いえ、大丈夫です。何ならもっと強くても大丈夫ですから」
「そう? それならいいんだけど」

ぽたりと水滴が黒髪から落ちる。あどけなさを残す面立ちからは、彼が海の王と呼ばれる生き物であるとはとても想像がつかない。
しゅんと落ち込んだような表情を見て、ニゼルは答えを催促するように名を呼び、声を掛けた。

「ねえ、レヴィ……コタロウと何かあった? コタロウって人間、だったんだよね?」
「……はい。コタロウは……優しい、人間でした。輪の国という島国の、小さな漁師の村に暮らしていて」

輪の国――意外な場所の名を聞いて、ニゼルは目を見開いた。俯いたままのレヴィは、思い詰めた顔でぽつぽつと言葉を続ける。
まるで、こちらの返答が耳に入っていないようだった。逸る気持ちを抑えるべく、こくりとつばを呑む。
ニゼルの動揺を知ってか知らずか、レヴィは苦しげに嘆息した。いつしか鏡に映る彼の顔は苦悶に濡れ、懺悔するかのように歪んでいる。

「僕がまだ、コタロウに化けられない『化け物』の姿であった頃……浜辺の小屋に匿ってくれて、要らないと言って魚や貝を分けてくれて」
「えっ、じゃあレヴィの今の格好って、コタロウの姿の真似っこなの!?」
「はい。言っていませんでしたか」
「今初めて聞いたよ! まあいいや、それより……要らない魚や貝って事は、売り物にならないやつって事かな」
「そこはよく分かりません。でも、コタロウはとても背が低くて痩せていたので、食べるものには苦労していたと思います」

それでも自分に分けてくれた、助けてくれた。だから彼は大切な恩人で、怪我が治った後も一緒にいて……レヴィは悔しげに歯噛みする。
それほど大切な友人だったというのなら、何故彼らは今こうして離れ離れになっているのだろう。
そしてもっと言うのなら、この少年の原型とは一体どんな姿形をしているのだろう。
矢継ぎ早に尋ねたくなる衝動を、ニゼルは強引に飲み込んだ。このまま待っていればレヴィ自身が自ら話してくれるような気がしたからだ。

「コタロウと僕はずっと一緒でした。寝る時も遊ぶ時も……コタロウが漁の手伝いに行った時も、こっそり海側から魚を追い込んだりして。
 でも、僕は人間とは似ても似つかない化け物でしたから、コタロウ以外には絶対に姿を見られてはいけないんだと。そう、教わりました」

隔離された小屋、二人きりの小さな秘密基地。海の王と、貧しい子供。双方にとって、そこでの思い出は確かなものであったのに違いない。
だというのに、レヴィの話の続きには不穏な影が見え隠れしていた。ニゼルは再び、無言で彼の背中を流してやる。

「でも、ある日……コタロウの両親が、村の人間が、僕の姿を小屋の中に見たと言って。コタロウは、なんとか僕を逃がそうとしてくれて」
「レヴィ……」
「あの村には、人間と魚が混ざった不老長寿の怪物が流れ着いた伝説があるから、と。その血肉を口にすれば、不老長寿になれるからと……
 コタロウと二人で逃げて、逃げて。浜辺まであと少しのところで、コタロウは投げられた石から僕を庇って階段から足を踏み外しました」

不老長寿をもたらす、ヒトと魚の混合体。かつて鳥羽藍夜の書斎で見た本に記された「人魚」の事だろうと、ニゼルは眉根を寄せた。
リヴァイアタンと人魚など、似ても似つかぬ生き物だろうに。この場にいない身勝手な村人達に対する怒りが沸々と込み上げ、拳を握った。
今、レヴィはとても傷ついている。人外を友と呼んだコタロウの事だ、恐らく彼はレヴィに「逃げろ」と叫んだだろう。
自分の事はいいから生きて欲しい、どうか最後まで生き延びろ、と……身を挺してまで友人を助けたいという願いには、覚えがあった。

「落ちていくコタロウが、僕に逃げろと言って……僕は怖くなって、這って海に飛び込みました。コタロウは、大怪我をしていたのに」
「レヴィ」
「血を流していたのにっ……怖くて、置き去りにしてしまった。僕は、僕は……コタロウは僕を、護ってくれていたのに!」

とても最後まで聞いていられない。彼の頭から湯を一気に掛けてやり、泡ごと言葉を飲み込ませてやる。
泣きそうな顔で振り向いた少年に、ニゼルは笑い返した。彼らは最後まで友人だったのだ……それはとても、愛おしいものだと思う。

「レヴィ。そう言うなら、今からでもコタロウのところに戻ってみる? 出来ないよね?」
「!? それは、そ、そんな事はっ!」
「『まだ怖い』んじゃないの? 今のレヴィにはコタロウに化ける力しかないわけだし、行ったとしても何の力にもなれないもんね」

だからこそ、知って貰わなければならない事があるのだと知恵の天使は考えた。
彼らには決定的な溝がある。住むべき環境も違えば、食べる物、家族構成はおろか、寿命の長さでさえ異なるのだ。
今会いに行ったところで、同じ悲劇の繰り返しになる事は目に見えている。コタロウ自身にも、村から出るという選択肢などはないだろう。
彼らには溝を埋められるだけの力や知恵が必要だ。そしてコタロウにそれが用意出来ないのであれば、レヴィが強くなるより他にない。

「ぼ、僕は……コタロウにとって、邪魔者だっただけなんでしょうか」
「そうじゃないよ。でもねレヴィ、コタロウに謝りたい、恩返しがしたいっていうなら、今のままじゃまず無理だよ」

ニゼルは淡々と話して聞かせた。人間とは同じ群れの者を守ろうとするという事、欲深く身勝手で、その一方で慈愛の意思も持っている事。
自分や親友が、かつて人間として生まれてきた身であった事……レヴィは物言いたげに口を開いたが、最終的には話に耳を傾けていた。
何か思う事があったのだろう。彼は一度だけ首を縦に振り、後はニゼルにされるがままになっていた。

「っと、はい、おしまい。湯船に浸かっておいで」
「……はい。あの、ニゼルさん」
「うん? 何?」

泡を落とし、めくっていたスカートの裾を下ろしていたところで声を掛けられる。振り向くと、レヴィは真剣な顔でこちらを見つめていた。

「もっと、色々な事を教えて下さい。この屋敷の事も、皆さんの事も、天上に住むという生き物の事も」
「うん……それはいいけど。分かった、ほら、行っておいで」
「はい。有難うございました」

虹膜の向こうで、黒瞳がゆらゆらと揺らめいている。頭を下げた後で、彼は素直に湯船に向かった。

(レヴィ。俺達に出来る事ならなんでもするよ。それまでにコタロウの寿命が保てば、の話だけどね……)

……そうしてニゼルが、次代のリヴァイアタンと呼ばれるこの少年が北の海域の出身であった事を知ったのは、正にこの瞬間だった。
沸かし立ての湯に全身を浸からせた結果、レヴィは五秒と保たずに茹であがり、のぼせてしまったのだ。
意識を混濁させる彼が虚ろな目で周囲を見渡し、最後にあの偽造天使の顔で視線を留めた事に気付けたのは、この時点では誰もいなかった。





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 UP:20/12/31