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楽園のおはなし (3-31)

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白は駄目だ、肌の白さが際だって目立ちかねない。ならば黒はと言いたいところだが、人間風情の中で没個性になるのは癪だった。
冬の夜、それも北の港町に青を合わせるのは見た目が寒々しくなりそうだからこれも却下。緑も悪くないが欲を言えばもう一癖欲しい。
赤は無理だ、派手すぎて彼女が纏うには品がない。かといって金銀などの贅を凝らしたものは大神との繋がりを連想させて気にくわない……

「……ああ、もう」

口にしてから、サラカエルは先ほどから延々と繰り出されていた呪詛じみた独り言の発生源が、自分自身である事に気付いて眉根を寄せた。
ヘラの自室のクローゼットには、彼女が普段から好んで着用する普段着をはじめ、よそ行きのちょっとした洋装もしまわれている。
ここでならば、自分以外の面子の口出しを待たずにヘラを着飾る事が出来ると思ったのに――自らの欲を自覚して、なお眉間に力が籠もった。
馬鹿馬鹿しい、本日何度も考えては打ち消してきた愚考の渦を、頭を振って強引に追い払う。浮かれているのかもしれない、とも思う。

(何がデートだ、あの間抜けめ。冷静に、だ……護衛の任務と割り切れば済む話じゃないか)

広げた数々の衣服を丁寧にしまいながら、ふと、彼女の好みとはシンプルでかつ上品なものである事を再認識する。
袖、裾、襟や胸元といった目立たぬ部分ばかりが彩られたそれらは、確かにヘラのお気に入りだ。
彼女が天上界という神々の社交場から降りて以来、これらの出番はそう多くない。女神の美しさを間近で見る身としては、複雑だった。
……考え悩んだ末、クローゼットの中からいつもの白い落ち着いたドレスを引き出したところで、サラカエルは凶悪な表情のまま固まった。
振り向いた先、ベッドの横で自分の見立てを待っていたヘラの肩に、あの憎たらしい天使二人が持ち込みのドレスをあてがっていたからだ。

「……どうでしょう、ちょっと地味でしょうか」
「そうか? これはこれで悪くないぞ」
「うーん。でも向こう、もう日が落ちてるんだよね。白色って夜は目立つし、変なのが寄ってきたら大変だよね? 主にサラカエルが」

どこから現れたのか、いつからそこにいたのか。否、そんな事はどうでもいい。
自分がクローゼットに真剣に向かい合っているほんの少しの間に、独占し続けていた女神の隣を横取りされた事が気に入らないのだ。

「――分かっているのなら、余計な手出しはしないで欲しいんだけどね」

淡々と、怒気を押し殺した自分の声で冷静さを呼び戻す。ヘラから視線を外したニゼルとアンブロシアは、同じ間で瞬きをした。
前者は悪びれた様子もなく、後者は多少の居心地の悪さを目で訴え、それぞれが首を傾げ、または頷き返してくる。

「ヘラ様、行くなら行くで急ぎましょう。いつヒュメン様の気が変わるか分かりませんし」
「案ずるな、あいつは一度言った事は守る男だ。なんだー、お前はそんなに私と出掛けたかったのか」

はいそうですよ、そう言いかけて口を閉じる。やはり、自分は浮かれているのかもしれない。

「やあ、君達には君達なりの仕事があるんだろ。ヘラ様の護衛と支度は今までも僕が担ってきたんだから、そっちにいったらどうかな」

振り向きがてら冷徹に言い放てば、ニゼルはきょとんとした顔のままもう一度首を傾げ、アンブロシアは困ったような顔で苦笑する。
行きましょうニゼルさん、選んだドレスを抱えたまま、悲劇の天使は対を促して出て行った。喜劇の天使はというと、それに従いながら――

「はいはい。サラカエルはヘラの事、独り占めしたいんだもんねー」

――軽い口調で放られた嫌みにしかとれない激励を素直に受け取るほど、自分は出来た人格をしていない。
鋼糸を抜かなかっただけでも良しとしておきたいほどだ。苦いものを噛んだ心地で振り返れば、愛しい女神が隠しもせずに笑っている。

「……なん、ですか」
「いや? むしろ答えて欲しいのか、サラカエル」

赤面するのを誤魔化すように、咳払いを一つ。今度こそヘラは声を上げて笑った。
睨み返している最中、サラカエルはふとアンブロシアが持ってきたドレスの事を思い出す。百合の花の重ね継ぎか、悪くないかもしれない。
決してアイデアを盗んだわけでも、参考にするわけでもない。しかし、色の白いヘラにはやはり白い百合の花がよく似合う……。
堂々とベッドに腰掛け、くつろぎ始めた彼女に紅茶のおかわりを出してから、もう一度クローゼットを開いた。






「……はあ……」
「どうしたー、溜め息など吐いて」

背後の呑気な声に、サラカエルはもう一度わざとらしく嘆息した。見せられた側のヘラは「なんだこいつ」と言いたげに顔をしかめている。
時刻は二十一の針を過ぎ、冬の雨が石造りの街を淡々と濡らしていた。雪でなかっただけマシではあるが、底冷えする事に変わりはない。
……天使とは身体構造が違うのだろうが、神であるヘラを土地勘のない場所で無様に濡れ鼠にしたくはなかった。
これは彼女の身を案じているというよりも、外に連れ出した男としての意地だった。

「ふむ? サラカエル」
「なんですか」
「私は腹が減った。何か食べに行くぞ」

これからどうするか、を考え悩んでいた殺戮の意識を、いつものように女神が強引に掬い上げる。
素っ頓狂な声が出そうになるのを懸命にこらえ、サラカエルは先に歩き出そうとするヘラの片手を出来るだけ、柔らかくそっと掴んだ。

「待って下さい。わざわざ人間風情の土地で食事にしなくても」
「お前ー、この旅の趣旨を理解していないのか!? その人間風情のジャンク……いや、試行を凝らした特別な料理を試しに来たんだぞ!」
「ジャンクって! 今ジャンクって仰いましたね!? 端から人間風情の総菜目当てだったんじゃないですか!」
「ちっ、聞こえていたか……」
「聞こえてますよ、ヘラ様。駄目です、予約を入れた店がありますから。今晩はそちらで、」
「予約? わざわざご苦労な事だな!」

紳士淑女が好むという評判の店なら、目と鼻の先だ。傘に配慮してか、手は振りほどかないまま、ヘラは微かに顔を歪めて殺戮を見上げた。

「いいか、おチビ。ああいう店なら天上での食事と中身がそう変わらないだろう? なんの為に屋敷から出てきたと思ってるんだ」
「ジャンクフードの為ですか、そうですか」
「うむ」
「うむ、じゃないですよ……そんな我が儘、僕が承知するとでも思ったんですか」

せっかくの二人きり――たとえ先刻観劇したオペラが粗末で面白みに欠けるものであったとしても――せめて食事は誰にも邪魔をされたくない。
オペラは駄作、天気は雨、服に至っては自分以外の見立てが混じったものと、出だしは不調だ。なんとしても挽回したいという欲があった。
……それにそこそこの店であれば食前酒でもてなす事も出来る。サラカエルは、ここばかりは譲れない、と険しい目でヘラを見つめた。

「問答無用です、ここは僕に譲って頂きますよ。さあ、早く移動を――」

――ぐぅううう。
なんだ今のは、そう聞き返す余裕はない。ヘラのすぐ近くから彼女の腹の虫としか思えない、酷い重低音が鳴ったのだ。
咄嗟にサラカエルは信じられないものを見るような目でヘラを見つめ返した。彼の言いたい事を悟ったのか、女神ははっとして眉を潜める。

「私じゃないぞ! 今のは、私の腹の音じゃない!!」

くわっ、と噛みつくような勢いで反論される。殺戮はあまりのヘラの剣幕に、はたと一瞬で我に返った。
考えてみれば、天上界で仕えていた頃から今日に至るまで、彼女が自分の前でそのような失態を犯した事は一度もない。
自由気ままな性格をしているが、ヘラは神々の女王としての気品と作法を兼ね揃えた、理想的で完璧な女性なのだ……自分にとっては。

「ですが、あれは確かに腹の虫です。一体誰が――」

無意識に傘を放り投げ、石段の上に立つ主人を引き寄せていた。それは殺戮の銘持ち故に働いた、本能的な反射だったかもしれない。
ヒュッと風切り音が鳴る。街灯は数十歩ほど先にあり、自分達のいる場は夜の暗さに支配されている。ここから「それ」の正体は見えない。

「……!」

ガラン、と大音を立てて飛んできたのは、ブリキで出来たごみ箱の蓋だった。一度、二度と跳ねた後、通りに面した河川に落ちていく。
サラカエルはヘラの手を掴んだまま、舞う要領でぐるりと彼女を背中に回した。悲鳴も上げず、ヘラはされるがままに動きに従う。
二人の視線はすぐさま路地裏に向けられた。建物と建物の間、闇に覆われた狭い通路の奥に、不気味に爛々と燃える二つの眼を見つける。

「ヘラ様、そちらへ!」
「うむ、」

壁際に隠れるよう指示したつもりだったが、ヘラは既にそこへ走り退いていた。こういう時、彼女の適応力には心底感心させられる。
黒のドレスに百合をあしらったように揺れる、白生地の重ね継ぎ。職人への敬意も忘れず、ヘラは黒布のみを鷲掴みにして壁に身を寄せた。
一瞬、彼女の白い足が下のレース越しに覗き見えたような気がした。しかし、それを夢想する間に殺戮の体は路地裏に飛び込んでいる。

「――誰だ!」

先の、腹の虫と思わしき重低音がまた聞こえた。そうして二人は、その音が一種の威嚇、唸り声である事に気付く。
あっと叫ぶ暇もない。構えた瞬間、サラカエルは眼前に飛び出した黒い影が、微かに腕を交差させたのを見て後退を選択した。
暗闇にぱっと正体不明の光が駆け上がり、二の腕に火が点けられたような痛みが走る。それでも冷静に一歩、二歩下がって間合いを取った。
いや、下がらなければ腕を持っていかれていたかもしれないな――「それ」から放たれた殺気と敵意に、ぞくりと全身が粟立った。
久方振りに感じる「命の危機」だ。サラカエルは、自分が暗闇に紛れながら笑っている事を自覚する。

(やあ、これは『ただの生き物』ではなさそうだ!)

隠し収納から抜いたナイフを投げるも、驚いた事に素手で受け止められた。素手だ、確かにヒトの五指に似た影が、銀光を握り込んでいる。
刺さった、或いは当たった感覚はあった。サラカエルは身を翻し、表通りにとって返す。予想した通り、それは天使に追い縋った。

「なんだ? まだ子供じゃないか」

ばしゃりと水たまりを蹴る最中、ヘラのどこか間の抜けた呟きが溶かされる。射抜くような目で振り返れば、それの全貌がようやく見えた。

「……っふ、う」

荒い呼気は襲撃による興奮か、威嚇の続きか、それとも。それは、十にも満たない子供の姿をしていた。
一見は小柄なヒトの子そのもの。あどけない顔つきと彼の全身が街灯の下に晒された瞬間、サラカエルは思わず片眉をつり上げていた。
黒髪に黒瞳、着衣は虫食いが目立つぼろ布一枚。恐らくその下には何も着けていない。冷たい雨に怯む事なく、腕は剥き出しになっている。

(……嫌だな、どこぞの喰天使を思い出す)

穿たれた穴の向こうは、暗がりが見えるのみ――濡れそぼった布にあの飄々とした古参の翼を思い返した瞬間、

「――ッ、サラカエル!」
「!? ヘラさ、」

自分と子供の間に、何か黒いものが割り込んだ。怒声に似たヘラの声色に、彼女が一度は拾った傘を再び投げ捨てたのだと知る。
刹那、ぱっ、と雨傘は切り裂かれていた。大人二人は余裕で入る大きなレースつきの雨傘は、ヘパイストス経由で手に入れていた特注品だ。

(……それを、)

気品、材質、何より強度も折り紙つきの高級雨具は、あの少年が腕を用いて裂いていた――正確には、腕の動きに従う刃の群れそのものが。
いつしか、彼の腕の周囲に凶刃が浮いていた。鳥の翼か、ヒトの五指のように大小揃えて列を成し、腕の動きに付随している。
その全ては細長い菱形をしていて、鏡のようにこちらの顔を映し込んでいた。油膜を張っているかのように、それらは虹色に光ってもいる。
形状からして、傘を容易く裂いたのはあの破片群に違いない。大きさからして、想像以上に攻撃範囲も広くある……嫌な汗が背中を伝った。

(硝子……いや、瑠璃か? それにしては、)
「『鱗』。人外の者か」
「なっ、ヘラ様!? お下がり下さい!!」

あれは相当「斬れる」代物だ、そこの女神の細い体などひとたまりもないだろう。本能から、殺戮は身分の差も忘れて怒声を上げた。
もしこれが独りきりでの邂逅であったなら、手強い相手だ、いくらでも殺せると喜びさえするところだった。
しかし、今は……サラカエルは視線は少年から外さず、ヘラを逃がすかどうか逡巡する。幸い、黒い少年も身構えたままでいたからだ――

「これは危険です! どうか今は、」
「ふむ。なあ、サラカエル。お前は失念しているのだろうが、私は腹が減っているんだぞ?」
「……そうですか、腹が……って、はいっ!?」

――得てして、神々という種族は天使達に何の配慮もしてくれない生き物だ。ましてや、地母神ヘラはその代表格とも言える。
状況など省みず、首を傾げて一歩、二歩と優雅に踏み出してくる女神を見て、殺戮は一瞬言葉を忘れた。

「ヘ、ヘラ様?」
「よーし、よしよし。すまんな、私の部下はどうにも手が早くてなあ」
「手が早……い、いや!? ちょっ……お待ち下さい!」

威嚇だ、彼女にはそれが分からないのだろうか!? 慌てて間に入ろうとした瞬間、サラカエルは確かに少年が膝をついた音を聞く。
……決してこの、ヘラの迷い犬を手懐けようとする仕草が効を奏したわけではない。
振り向けば、彼は腹を抱えてうずくまっていた。ここでようやく殺戮は、件の唸り声が真実まことの腹の音である事に気付く。
石畳に跪く格好でこちらを見上げる少年の前に、ヘラは笑みと共に屈み込んだ。ドレスが濡れるのには構わないところが、実に彼女らしい。

「……」
「うむ? お前はヒトの、いや、私達の言葉は理解出来るか」
「……はい。少し、だけならですが」

サラカエルはただただ目を見開いたままでいた。
敵意を剥き出しにしながら空腹のあまり無力化した少年の事はもちろん、それを見なかったように振る舞うヘラの言動にも二の句が出ない。
いや、それ以前に言語が通じる事にも驚きが隠せなかった。そもそも先の凶刃から察するに、この少年は普通の魔獣の類ではない。

「そうかー。私はヘラ、そっちの黒尽くめはサラカエルだ。お前、腹が空いているんだろう? これから食事にするんだが、一緒にどうだ」

……だというのに、この愛しいひとは一体何を言っているのだろう。
たった今、見知らぬ街で追い剥ぎに遭いかけたというのに恐ろしくはないのだろうか。
奢るぞ、からりと笑いながら手を差し伸べる地母神を見下ろしながら、殺戮はふと胃袋がぎりぎりと悲鳴を上げているのを知覚した。






手近な店で濡れた服を交換し、少年にしか見えない獣にも新しい洋服を与えた後、ヘラは街に着いた際に目に入ったある食堂に足を向けた。
安上がりな電飾が目立つ看板と、冬にもかかわらず大きく開け放たれた入り口を見て、サラカエルがかぱんと大げさに口を開く。
それには構わずヘラは少年の背を押しながらさっさと店に入ると、奥のカウンター越しに忙しなく働く店員に声を掛けた。

「すまん、席は空いているか。少しばかり量が必要なんだが――」
「はいっ!? ああっ、悪いけどもう満席なんだよ、見れば分かるだろう!!」

――額から汗を垂れ流したシェフと思わしき店員が、手にした鍋から目も離さず怒鳴り返してくる。
こちらを見向きもせずに言い返されたのは初めてだ、ヘラは心底愉快な気持ちになってからからと笑った。

「そうか、それは悪かった! 別料金を出すからそれでも、」

言い終えるより早く、荒い息と共に金貨の詰まった革袋が机上に叩きつけられる。隣に並んだ男はぎりぎりと歯噛みしながら微笑んでいた。

「二階が、空いているのだろ。上客用のやつさ、構わないだろ?」

単語一つ一つに含ませた怒気が、シェフを辛うじて振り向かせる事に成功した。喜怒という矛盾した表情にふくよかな顔が引きつっていく。
上客と聞きつけたのか、すぐさま別の店員が出てきて奥の階段に促された。一階と異なり、赤と黒で統一された美しい部屋に通される。
見覚えのない木製の装飾は、輪の国の文化を感じさせた。ぺこぺこと低姿勢で下がった店員の背を見送ってから、ようやく椅子に腰掛ける。

「……あの、」
「うん? どうした、たくさん注文したからなー、遠慮しないで食べるんだぞ!」
「……いえ、」
「一度でいいから『ここからここまでを全部』とやってみたかったんだ。ふっふっふ、何でも、金持ちの人間がやる遊びの一つらしいぞ!」
「……そ、その、僕は……」
「ヘ、ラ、さ、ま。どういうおつもりか、聞かせて頂けますね?」

向かい合った少年の気まずそうな声に、サラカエルの怒声が割り込んだ。ヘラを笑顔で睨む姿は、さながら裁判官か検察官にしか見えない。

「どういうつもりも何もないだろうー、腹が減った、だから食事に来た。問題でもあるのか」
「そうですね、問題ありません――なんて言うと思ったんですか! 問題ありすぎてどこからどう指摘したらいいか分かりませんよ!!」
「分かった分かった、小言は帰ってからいくらでも聞いてやる。ほら、行儀が悪いぞ、いいから席に座れー」

こうなると話が長くなるのは常の事。なんとかはぐらかしているうちに、続々と料理が運び込まれてくる。
丸焼きにした鶏に餡をかけたもの、サメの鰭を丸々煮込んだスープに、小麦の皮で包んだ肉や野菜を香ばしく揚げた揚げ物、卵の煮つけ……。
黄金色に輝く料理はどれもが見た事がない上に、食欲をそそる匂いを放っていた。端から珍品と分かる特別な品々に、否応なしに胸が弾む。
早く食べたい、と目を輝かせるヘラだったが、向かいの席に鎮座する少年が困惑と興奮に顔を赤らめているのを見て咳払いした。
待て、今の主役は私じゃないぞ……にこりと柔らかく微笑んで、地母神は手のひらで料理を差し示した。はっと顔を上げた少年に頷き返す。

「私達は後ででいいから、好きなように食べてくれ。遠慮は無用だ!」

黒髪をさっと俯かせて、それでも彼は喉をごくりと鳴らした。よほど腹を空かせていたのか、口から礼が零される事もない。
代わりとばかりに一度は閉ざされていた口が開き……それはそれは、あり得ないほど「大きく」口が開き、そのままテーブルに伸ばされた。
これにはヘラも驚愕した。これまで様々な魔獣、神獣を見てきたが、彼のような応用力のある変化を見せる者はいなかったからだ。

「ほ、ほほう!? ……っはは! これは凄いな、予想外だぞ!!」
「さっ、サメ? いや、ワニか!?」

バキン、ボキン、ガシャン、形容しがたい音が咀嚼音と共に鳴る。少年の口や顎は、ヒトのそれを遥かにしのぐ凶悪な形へと変貌していた。
外皮は伸縮性に富むゴムのように延び、鋭い牙は口腔内に外、内側の二重として並び、テーブルや大皿ごと食べ物を丸齧りしていく。
それは正に、大型の海洋生物が陸上で獲物を捕食しているかのようだった。彩りよく盛られた高級料理が瞬く間に消えていく。
食いちぎられた破片や骨肉があたりに飛び散り、しかしそれすら逃さんとばかりに、巨大な口に丸飲みにされていった。
豪快といえばそれまでだが、命の危機すら覚える圧倒的な破壊力だ。気がつけば、室内には食べ物らしい食べ物は一つとして残っていない。

「……うむ。満足したか」

サラカエルは完全に硬直して、棒立ちになっている。無理もない、ヘラは顎を手でさすりつつ、座ったまま首を傾げて少年へと問いかけた。
ようやっとそこで我に返ったのか、彼は顔の作りを元に戻した上でこちらを見る。やってしまった、幼い顔にはそう記してあった。
……これは並みの魔獣や堕天使といった生き物とは、格の違う何者かだ。手をひらりと振り返して、ヘラは落ち着くよう少年を諭した。
正直、自分も驚き動揺している面もある。少年は、恐る恐るといった体でこちらを見上げた。

「気にするなー、誰でもミスする事はあるものだ」
「……あ、の、でも……」
「うむ、しかし私達の分がなくなってしまったな。サラカエル、追加注文を頼む」

想定よりもずっと重い革袋を渡され、サラカエルははっとした顔で主を見下ろした。ついでに腕の傷も治してこい、と腕を指で差してやる。
何より荒れ果てた内装、消えたテーブルに大量の皿の破片……こんな場面を人間に見られたら、どんな噂が立つか分からない。
従順な従者は、分かりましたよ、と素直に店員への口止めに向かっていった。残されたヘラに、少年はぽつりと「すみません」と口にする。

「僕は、その……あの、じ、時間はかかると思いますが、このご恩は必ず」
「うん? だから、気にするなと言っているだろう?」
「ですが」
「ふむ。お前が本当に『悪い』と思っているのなら、私達にそれを返す努力をしてみるか?」
「えっ?」

戻るなり上げられるであろうサラカエルの悲鳴が、今にも聞こえてくるような気がした。ヘラは困惑しきった少年に満面の笑みを返す。

「私の屋敷に、珍しい生き物を見たがる面白いやつがいるんだが……どうだ? 少し、そいつに挨拶をしてやってくれないか」

「どうせなら、彼の正体を知ってから別れてみるのもいいだろう」。時間が有り余っている分、軽い気持ちで放った言だった。
このときヘラは、今後彼とは長いつきあいになる事を予想出来ずにいた。それが自分と殺戮の天使の関係性を変える、切っ掛けとなる事も。
黒髪の少年は、ぱちくりと瞬きをして固まっている。その黒瞳を落とした双眸に、油膜に似た虹色の光沢が艶めいていた。





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 UP:20/12/08