取扱説明書  ▼「読み物」  イラスト展示場  小話と生態  トップ頁  サイト入口



楽園のおはなし (3-30)

 BACK / TOP / NEXT




「もうイヤだー! 私はっ、旅に出るぞ!!」

穏やかな昼下がりの頃。仕事をする、と宣言して部屋にいた筈のヘラが、突如リビングに飛び込んでくるなり大声で喚き散らした。
かつては「天上界を統べる女王」として君臨していた女神とは思えない言動であるが、これは平常運転である。

「……またそれですか。聞き飽きましたよ、ヘラ様」
「黙れ、おチビ!! 嫌だ嫌だー! 私は旅に出る! 今すぐにだ!!」

彼女は以前より、それこそ天上界に大神の妻として在った頃からずっと、仕事というものに対して熱意を向けられない質だった。
「ヘラちゃんの可愛いワガママ」同様、全ての執務は気分次第。持ち込まれる仕事量や内容問わず、素直にデスクに向かう事こそ稀なのだ。
故に今回の駄々こねも軽く流そうとしたサラカエルだったが、珍しくヘラは怒りか屈辱かで目を濡らし、真っ向から睨みつけてくる。
これはヒュメン神と揉めでもしたか――常よりも激しい彼女の駄々こねっぷりに、殺戮は片眉をつり上げた。

「どうしたんです。一体上で何が、」
「どうもしないぞ! 私は旅に出るんだ!!」
「申し訳ないですが、会話にならないですね」
「まずは世界一周だ、地図を出せ!」
「ちょっと、ヘラ様……」

どこからともなく、くすくすと笑い声が聞こえた。ぎろりと射抜くような眼差しを投げると、台所から出てきたアンブロシアと目が合う。
困ったような笑みの天使はヘラに腰掛けるようにさりげなく促し、あまつさえこちらを無視して机上に世界地図を広げてみせる始末だった。
……仕事をする度に世界旅行へと出奔されては、たまったものではない。
サラカエルは、ヘラの少し後に続いて降りてきた男神に無言で苦情を投げつけた。ヒュメンの返答は、小さく首を傾げただけで済まされる。

「少しばかり詰め込みすぎた、とは言いませんよ。仕事を溜め込むご趣味が効を奏しただけですから」
「……! お言葉ですがヒュメン様、」
「うわーっ! まだいたのか、ヒュメン! 私はこれから旅に出るんだから、お前はさっさと向こうに帰れ!!」

話にならない。深く、自分でもこれ以上ないというくらいに深く嘆息して、サラカエルはさっさと女神の為に紅茶を淹れ始めた。
眼前に差し出すと、条件反射か、彼女はいつものように気品溢れる仕草でカップを取り茶を口に運ぶ。

「うむ、旨いな。少し落ち着いたぞ」
「そうですか。お役に立てたようで、何よりです」
「さて、どこから回るかな。そうだな、輪の国とやらが気になるが……鳥羽藍夜のせいで、すっかり私もかぶれてしまったからな」
「ヘラ様。お仕事なさって下さいよ」

否、この女神は全く、これっぽっちも気を取り直していない。
歯噛みしたくなるのを堪えながら作り笑顔を向けると、別の方向から誰かがぶふっ、と噴き出す音が聞こえた。

「あっ、ごめんごめん。聞こえちゃった?」

言わずもがな、殺戮の天使の天敵ニゼルである。振り返りざまぎろりと睨みつけると、彼女はへらりと愛想笑いを浮かべてみせた。

「なるほど。お前は一日一回は僕に構われるか、そこの庭の木に吊されるかしないと気が済まないってわけか。この間抜け」
「うわぁ、聞いた? まるまる半日仕事漬けにさせるくらいヘラのサボリを容認しといて、この言いぐさだよ? 酷いと思わない、藍夜?」
「……君達も、よしたまえよ。ヒュメン様の目の前だろう」

ニゼルの横に座る対天使は、げっそりとした顔で肩を竦めた。連日連夜続く「可愛い弟のコンサート」によって彼は日に日に衰弱している。
彼の苦労についてはヘラから伝え聞かされていたのか、話題に上ったヒュメンはさも労るようにして藍夜に頷き返した。

「そうですね。此度の執務については要のものは済みましたから、今日はここまでに致しておきましょう」
「おおっ! そうか、やっと帰るのか、ヒュメン!!」
「ええ、此度は、ですが。そうですね、ヒトの世でいう一週間後にでも残りをお持ちしますよ」
「もう来るな! 一週間後といわずしばらく来なくていいぞ!」
「なら、また仕事が溜まるだけですが。そうですか、それは素晴らしい事ですね。ヘラ様は仕事熱心で本当に尊敬します。それでは、また」

……ヘラの伝手や知人を思えば、ヒュメンは相当に彼女の扱いに慣れているといえた。それほどまでに彼の仕事は徹底している。
声にならない声を上げてから、ヘラは世界地図を食い入るように覗き込む。慰めの一環なのか、アンブロシアが追加の菓子を机上に並べた。
ビジネススマイルを浮かべた後、ヒュメンはくると腕を回して転送陣を起動させた。去る時でさえ、彼にはやり手特有の余裕が窺える。

「ヒュメン様も変わらずのようだね。書類が滞りなく届くという事は、天上界は殆んどの機能を取り戻せたといったところかもしれないな」

ふうっと大きく息を吐き、藍夜が独りごちる。彼の視線は、リビングと廊下を繋ぐ一枚扉に向けられた。
あの先、屋敷の中央の庭園には彼の宿敵ともいえる喰天使が数日前から、匣型偽造天使とともに庭仕事の用意をするべく引きこもっている。
可能であれば、今すぐ喰天使には屋敷から出て行って貰いたい――分かりやすく本音を顔に出す対天使に、サラカエルは苦笑した。
そもそも「審判官」の力を用いればそれも不可能ではないというのに、彼は自身の力を有事のときにしか使わない。

(固有能力をケチって……いや、私欲の為に使おうとしないのは、ここでは君くらいのものじゃないかな。ウリエル)

対天使の生真面目さに思わず嘆息すると同時、背後から視線を感じた。
首を巡らせると、いつからそこにいたのか、地母神の横という自分にとって最もご褒美といえる特等席に、ノクトが堂々と着席している。

「……だからよ、輪の国でも悪かねぇが、この北の果ての一族もなかなか面白い文化を持ってると俺は思うぜ。美味い食い物も豊富だしな」

おいやめろ、何故出奔の助言をしている――口から出そうになった罵声を、サラカエルはにこりと人好きのする笑みを浮かべる事で堪えた。
対天使のように我を忘れて喚き散らすなど、ヘラの従者、加えて男としてのプライドが許さない。
しかしサラカエルの気遣いなどお構いなしに、喰天使は地母神と同時に地図を覗いては談笑を繰り返す。
見る者が見れば、身分を越えた男女同士の仲睦まじい光景に見えかねない。思考した瞬間、びきっと、こめかみに筋が浮いたのを自覚した。

「ほう、黒い山羊の毛織物か。羊も悪くはないんだがー……おい、おチビ。なんだその、獲物を盗られた肉食獣みたいな顔は」
「獲物? 肉食獣? 馬鹿な事を仰らないで下さいよ。誰がそんな物騒な」
「オイ、目が笑ってねーぞ。テメェが反対するから代わりに俺が安全優先の経路を計画してやってるんじゃねぇか。逆恨みもいいとこだぞ」
「余計な世話だよ、喰天使。さっさと庭に花の一本でも植えてきたらいいんじゃないかな」

もちろんお前の葬儀用に白いやつを――流石にその一言はなんとか飲み込み、サラカエルは机上の地図を強引にひったくった。

「うわっ、何をするおチビ! お前、そんなに私の邪魔をしたいのか!」
「邪魔だなんてそんな。ヘラ様に万が一があれば大変ですから、屋敷におられてはどうかと言っているだけですよ」
「オイ、やっぱり目が笑ってねーぞ」
「……もう。サラカエルさんはヘラ様を本当に大切になさっているんですから、悪く返されるのは当たり前だと思いますよ? ノクトさん」

反射で叫んだであろう愛しいひと目掛け、最大限に怒りを抑えた笑顔を向ける。すると今度は見かねたらしいアンブロシアの指摘が飛んだ。
余計な口出しをするのは知恵の樹の管理人全員に共通する特性なのだろうか。殺戮はテーブルを蹴り飛ばすべく、片足に力を込める――

「ヘラ様。いきなりの遠出は私達も心配になってしまいますから、大陸の……輪の国に一番近い、北端の港町の観光なんてどうでしょう?
 アスターちゃんにお願いすれば転送陣もすぐですし、今はちょうど発展中で、先日新しいオペラハウスも開いたばかりなんだそうですよ」

――振り上げるどころか、床から離す前に足は動きを止めていた。
まるで事前に打ち合わせをしていたとしか思えない用意周到ぶりに、言葉が出ない。
サラカエルとノクトの意向を汲んだ上で、アンブロシアはヘラに妥協案を提示したのだ。地図は奪い返され、指差しと同時に机に戻された。

「場所は、この辺りですね。船旅でも楽しそうですけど、今から乗船券を手に入れるのは難しいでしょうから」
「あ、ここの事なら俺も聞いた事あるかも。海の幸だけじゃなくって、航路の関係で色んな国の調味料や料理が集まってるって噂だよね?」
「はい。今のところ目立った経済格差もなくて、集まっているのは常識的な方々ばかりだそうですし」
「やあ……アクラシエル、お前にしてはずいぶんと細かく調べたじゃないか」

見ればニゼルもうんうんと頷いていて、悲劇の天使を止めようともしない。
そんなにヘラ様の外出を後押ししたいのか、非難を飛ばしかけた殺戮に、新聞から得た確かな情報ですよ、アンブロシアは軽く笑い返した。

「藍夜さんの影響でしょうか、ここ最近はずっと……ヒトの作り出す新聞や情報誌には、天使にはない視点が見られますから」
「人間風情に組みしすぎるのも、どうかと思うけどね」
「サラカエルさんだって武器の調達でいなくなる時があるじゃないですか。その間、ヘラ様がどんなにお帰りを待っている事か」
「――うむ! うむうむ!! そうだな、海の幸、美味い料理、観劇、ついでに酒だ! よし、私はその港町とやらに向かってみるぞ!!」

語気を強める双方の会話は、無理に中断された。勢いよく立ち上がり、地図をわしわしと乱暴に丸めた地母神は猛然とリビングを走り去る。
制止するべく上げていた片手は、虚しく宙を切るだけだった。呆れて物も言えない――口角と眉尻を下げたところで、背後から肩を叩かれる。
視線だけで振り返ると、意地の悪い笑みを浮かべた喰天使と目が合った。これは振り返らない方が正解だったかもしれない。

「たまにはいいじゃねぇか。屋敷の警備なら俺とウリエルのクソ野郎がいるし、アクラシエルとアスターが結界張ってるんだしよ」
「……やあ、ずいぶんと馴れ馴れしくなったもんだ。この間まであちこちに噛みついていなかったかな」
「犬呼ばわりしてんじゃねーよ。それとも何か、テメェ一人じゃヘラの護衛もろくに勤まらねぇってのか」
「あー、もう! ノクトって本当そういうところ悪い癖だよねー。なんで素直に『気分転換にヘラとデートしてこい』って言えないかなー」

こういう時くらい気安く間に挟まって八つ当たりの対象になればいいのに、と思っていた相手は、審判官の看病をしながら軽率に物を言う。
毒づいてやろうにも、見上げてくる笑顔に悪意や敵意は欠片も見当たらない。サラカエルは片眉をつり上げた。

(本当に、良くも悪くもニゼルとニゲラを足して割ったような個体なんだろうね)

だからといって、自分とヘラの関係に口出しをさせるつもりはない。いつものように歩み寄り、いつものようにその額を指で弾き飛ばす。
ニゼルは藍夜の肩から跳ね起こすようにして頭を離し、いったい、とこれまたいつものように文句を吐き出した。
大丈夫かい、そう気遣う藍夜を眺めながらサラカエルは無言のまま目を細める。
……この数日の間、それこそアスターの誕生やノクトの来訪がきっかけかのように、彼ら二人は着実に仲を深めつつあるように思う。
天使同士の色恋についてはノクトとアンジェリカという前例があるが、天使人口の不足から見てもむしろそれは推奨されているものだった。
――それはあくまで、天使同士であればの話だ。彼女らと自分では、前提からして違っている。

(馬鹿馬鹿しい。俺のそれは、表に出せる類のものじゃない)

神であるヘラともっと懇意になれ、そう言いたげな住民のささやかな「気遣い」には辟易とさせられている。
叶いもしないもの、彼女の立場を危うくしかねないもの、そして決して報われないであろう禁忌を推奨する心理が、自分には理解出来ない。

(問題ないさ。本分を、忘れたわけじゃない)

恋をするとひとは変わる、とヒトの世では常々言うらしい。ニゼル達が発破をかけてくる理由もそれだろう。
殺戮はソファに背を向けながら一人、鼻で笑った。変わるかどうかは自分で決める事だ、ヘラの身を危険に晒してまで優先すべきではない。
……振り向いた矢先、立ちはだかるようにしてこちらを見上げるアンブロシアと視線が重なった。物言いたげな目に片眉を上げる。

「サラカエルさん」

続く言葉を無視して、殺戮はリビングを後にした。ことに、彼女とニゼルはこれまでの苦労を忘却したように振る舞う代名詞だ。
議論するでもなく、端から意見は食い違っている。このなあなあの忠誠の果て、万が一、彼女達がヘラを危機に巻き込もうとするのなら――

「ま、言われるでもなく僕の仕事はヘラ様の護衛が第一だからね」

――ウリエルには酷な事だが、見逃す事も、容赦してやるつもりもない。
誰にともなく呟いてから階段を上がる。最愛のひとの足取りとは逆に、サラカエルの気持ちは黒雲が連なるように重く、暗くなっていった。






「ねえ、なんかアン、はりきってない?」

ふと掛けられた一言に、アンブロシアはゆっくりと振り返った。場所はリビングを移り、今はヘラの私物を保管する一室になっている。
広々とした部屋は換気するには十分な大きさの両手開きの扉と窓を備え付けてあり、他にも分厚いカーテンや収納設備の間に張り巡らされた
仕切り板が湿気や日光を遮って、正に保管専用のスペースといって過言ではなかった。ここにある品物は全てヘラの「お気に入り」である。

「そうでしょうか。そんな事ないと思いますよ?」

アンブロシアは目の前の桐で作られた見事な棚を開くと、中から絹で織られた簡素な、それでいて上品なドレスを一着手に取った。
襟元の百合の刺繍や裾の孔雀羽根を模した重ね継ぎに目を通し、全体に痛みや汚れがない事を確認してから扉に向かう。

「ううん、なんかいつもと違うからさ。対天使の共有感覚、だっけ? 俺もそわそわしちゃってるし」
「ニゼルさんの場合、サラカエルさんとヘラ様の事が見ていて楽しいだけ、じゃないんですか」
「うーん、あはは、それもあるかもなんだけどね! サラカエルって真面目だもんねー」

入り口でこちらの一連の動作を見守っていたニゼルを伴い、歩き出す。途中、抱えたドレスの品の良さを語りながらヘラの私室へ向かった。

「ヘラってさ、俺達やヘパイストスから貰ったものは凄く大事にして使い回すけど、キザ男やアレースの贈り物には絶対袖を通さないよね」
「昔からそうでしたよ? 姉さんがよく困ってました、『感想を求められてるのにどうしよう』って」
「……どうせ嘘八百並べて、誤魔化すのにね?」
「姉さん、いえ、ラグエルですから。ニゼルさんも分かりますよね? 流石にお祝いの場などでは、しぶしぶ着ていらっしゃいましたけど」

ふと、会話が途切れる。アンブロシアは、ヘラの私室のすぐ一歩手前のところで立ち止まった。
どうしたの、つられて振り向いたニゼルに、いつものように困ったような笑みを返す。予想した通り、ニゼルは訝しむように眉根を寄せた。

「ニゼルさん。姉さんは、その……アスターちゃんの事を、どう思っていたんでしょうか」

言ってしまった後で、アンブロシアは眼前の対天使の記憶が万全ではない事を思い出した。すみません、咄嗟に謝ると、首を横に振られる。

「大事だったと思うよ。だって『ラグエル』は昔からノクトが大好きだったし、アンジェリカってその想いの化身みたいなものだったから」

ニゼルは柔らかく笑う。それは、ニゼル=アルジルその人のものではなく、かつて親しんだ古い世代の知恵の天使達の総意のように思えた。
アンブロシアが瞬きをしていると、なんて顔してるの、とニゼルは破顔する。歩み寄ってきた彼女は、常のように頭に手を乗せてきた。
その柔らかさと温かさは、フロル=クラモアジーの肉体のそれでしかない。しかし、アンブロシアは熱くなる胸の内にさっと顔を俯かせた。
……これまで苦楽を共にしてきた対天使やニゼル自身、過去に良くしてくれたニゲラといった全ての生命に、労られているような気がした。

「あの……ニゼルさん」
「うん? どうしたの」
「いえ……実は私、ずっと黙っていたんですけど。アスターちゃんが生まれる前、姉さんにまた会ったんです」

アンブロシアは、以前屋敷の中で姉と邂逅したときの事をニゼルに話した。ニゼルは驚いたように目を見開いた後、首を縦に振る。

「あー、もう。なんかアンジェリカって本当アレだよね。忘れないでって、ここまでの事しておいて……アンも置いてけぼりだし」
「ニゼルさん。私、ずっと考えてました。姉さんがアスターちゃんを託したのはどうしてなんだろう、大事なら傍にいたらいいのに、って。
 もし恨みを買ってでも成すべき事があったなら? もちろん、今のアスターちゃんは真珠ちゃん達の娘さんだって分かってます。でも、」
「……アンは、アンジェリカ本人の事も、『アスターは姉と義兄の子供だった』事も忘れたくない、って言いたいんだよね?」
「はい。姉さんがアスターちゃんを二度死なせた事も、未だに冥府に仕えなければならない事も、全部悪い事ばかりだったとしても、です」

駄目でしょうか、そう続けようとした言葉は最後まで吐き出せない。もう一度手は伸ばされ、ヘラの衣服を抱える片腕にそっと添えられる。
はっとして、アンブロシアは顔を跳ね上げた。ニゼルは眉尻を一瞬下げた後で、すぐにまた笑い返してくれている。

「そうだよねー。色々あったから、まとめ……うん、そういう話、全然出来てなかったもんね」
「……ニゼルさん」
「いいと思うよ? 珊瑚達は文句言うかもしれないし、ノクトはまだいじけてるけど。アンの気持ちには、嘘吐かなくていいんじゃない?」
「で、でも、それではニゼルさんの気持ちの方が」
「俺なら大丈夫。だって、俺が今代なんだよ? 図太さだけならアンジェリカや藍夜にだって負けないし」

それに、関係者ではあるけどアスターと直接の血の繋がりはないわけだし――ニゼルの唇がそう動くのを、アンブロシアは黙って見ていた。
もし、少しでも姉に彼女のような客観性や冷徹さが――「神の匣を造る」という一点以外で、備えられていたならば。
遠い何時かの日、珊瑚達やノクト、そして姉が、アスターを取り囲んで談笑し合う平和な光景を一瞬夢想して、アンブロシアは頭を振る。

(アスターちゃん自身が姉さんを許そうとしない限り、そんな未来はくる筈がないんだわ)

あの少女が、自分にとっての仮初めの姪が生まれてくるまでの間、様々な現象が起き、振り回された。
姉の画策によって、自分達が嫌でもアスターを受け入れなければならないよう筋道が立てられていた事も分かっている。
アスター自身も、口にはしなくともそれを理解しているだろう。それでも、しかし――

「冥府での罪滅ぼしが終わったら、じーっくり言い分を聞いてやればいいんだよ。文句言って、話をして……対天使で、姉妹なんだからさ」

――自分は、自分達は姉と……あのアンジェリカと本当の意味で血が繋がっていて、かつては仲間、同僚であった事に変わりないのだ。
ニゼルのからりとした笑みを目の前にして、アンブロシアははたりと一つ涙を零す。すぐにそれを腕で乱暴に拭き取り、力強く頷き返した。

「そうですね。私、姉さんに話したい事がたくさんあるんです」

もし姉が、屋敷の現状を見たらなんと口にするだろう。アスターは表面上は元気であり、ノクトはニゼルによって救われた。
サラカエルの言動は不穏であるが、ヘラとの関係は少しずつながら進展しているように見える。そしてまた、藍夜とニゼル二人の仲も……

「だからヘラ様とサラカエルさんには、今回の土産話をたくさん用意して貰わないといけません。いつか姉さんを驚かせてしまえるように」
「あはは、だよねー! やっぱりサラカエルって……おっと、ここからじゃ聞こえちゃうよね。もっと声のボリューム下げないと」

くすくすと笑い合いながら、地母神の部屋の扉を叩いた。返された苛立ちを帯びた男の声色に、思わず二人で顔を見合わせる。
ぶはっと噴き出してから、ニゼルに頼んで扉を開いて貰った。仲睦まじく平穏である事――それこそが、アンジェリカを迎える用意となる。
翳りを差そうとする過去を振り払うように、頭を振った。室内に入ると予想通り、殺戮が女神の衣装選びに苦戦しているところに出くわした。





 BACK / TOP / NEXT
 UP:20/11/17