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楽園のおはなし (3-29) BACK / TOP / NEXT |
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「解せぬ。納得いかんぞ、私は」 第一声がそれである。地母神ヘラは、あどけなさを残す顔を歪めに歪め、苛立ちを隠しもせずに忌々しげに歯噛みした。 孔雀羽根製のペンを力いっぱい握り、女神は机上にある書類全てに噛みつきかねない勢いで手を走らせる。 羊皮紙、木の札、植物繊維。そのどれもが「結婚」を中心とした「契約書」だ。そう、ヘラは今、珍しく「仕事」に追われている。 「理解出来なくとも納得いかなくとも構いませんよ。貴女様の心情など、ぼくには何ら関わりなき事ですから」 一方で、呪詛を聞き流すのは彼女の横に立つ一人の男だった。女神の仕事ぶりに目を光らせ、背後から監視する形でこの場に居座っている。 涼しげな表情にアーモンド型の目、筋立った鼻梁。顔立ちはヘラのように心なしか幼く、「少年」とも表現出来る年頃に見える。 彼の佇まいは海の凪を思わせるほど静かで凛としているが、その内面は眼前の女神に匹敵するほど小賢しく、また歪んでいると評判だった。 つまるところ、彼もまた彼女に関わりを持つ神族なのだ。未だぶちぶちと文句を垂れるヘラの頭を見つめる形で、彼は小さく失笑した。 「仕事が溜まっていたのだとすれば、それは貴女様の……ああ、これこそ輪の国でいうところの『自業自得』というものでしょう」 「なんて可愛げがないんだ、お前はー。おチビならこれくらい駄々をこねれば、陥落しているところだぞ」 「いえいえ。何を仰っても構いませんが、お口を騒がしくしたところで仕事は片付きませんよ? 如何でしょう、お早く手を動かされては」 「何故だー。私はこの屋敷でだらだらする為に、こんなにも努めているだろう!?」 「ご冗談を、それとももう夜でしたか。寝言は控えめになさった方が、淑女たる振る舞いに相応しいかと」 「嫌みを言うな、ヒュメン! 私の仕事はちゃんと納めてやっていた筈だろう!?」 書類の山が崩れる事も構わず、ヘラはばんと大音立てて手のひらを机上に打ちつける。ヒュメンと呼ばれた男神は、くすりと柔く微笑んだ。 「ええ、ですが前回分はもう尽きました。此方にあるのは貴女様の要望で取り寄せた、天上の会議で先送りにされた難件ばかりですから」 彼は、ヘラ直属の部下だった。優秀で有能で、天上界で過ごしていた頃から、こうしてヘラに取り扱いに難儀する書類を運んでくる厄介者。 美形であるが故に近寄り難く、かつ実親は片親にゼウスの血を連ねているという事もあり、あの殺戮ですら彼には頭が上がらない。 ヘラの私室という限りなくプライベートに近しい部屋に居座り続ける事が出来るのは、彼が如何に女神に信頼されているかの証ともいえた。 「愚弟め……私に仕事を押しつけるとはいい度胸だ……今度会ったらただでは済まさんからな……」 「『女の悪い部分を煮詰めて固めた』ヘラ様らしいユーモア溢れるご冗談ですね。聞かなかった事にして差し上げますよ」 「いや、いっそ当人にチクってやっても構わん」 「遠慮しておきます。ぼくも未だ、命は惜しいですから」 片付いた書類を両腕に抱き上げ、ヒュメンはふと庭を一望出来る窓際に足を向ける。 彼の笑みは緩く上げた口角の弧はそのままに、両目だけは冷徹そのものを宿した冷ややかなものへと変貌していた。 「……本当に、理解しかねますよ。あれほど他者に求められているというのに、このような不便極まりない地に移住されるだなどと」 彼の眼下に見えるものには心当たりがある。ヘラは手にしたペンを宙でふらつかせた後、声を僅かに震わせた部下の背に目を向けた。 「そう悪くないぞ? 飲食には困らんし、寝るところもある、部下として選んだ者も街の連中も皆働き者だ。ヘパなどとも連絡がつくしな」 「その部下についてですよ、ヘラ様。貴女様ほどの神格であれば、もっと選りすぐりのものが他にもありましたでしょう」 「お前は相変わらず遊び心の分からん奴だな。それに、愚弟どもの息のかかった顔ぶれなど私は御免だ」 一度は掴んだ仕事道具を、女神は気分一つで容易くインク壷に戻してしまう。ヒュメンは片眉をつり上げたが、すぐさま口を閉ざした。 機嫌が良さそうに足取り軽く歩み寄ってきた地母神は、彼の横に並ぶようにして立ち、開け放たれた窓の下に視線を走らせる。 縁側より内側の屋敷の中までは流石に見えないが、庭全体と迷いの森の入り口ほどまでがすっぽりと視界に収まった。 今はその草原に、体術指導として駆り出されたニゼルがサラカエルにしごき、もとい特訓をつけられている。 そのほどなく近くには、今や天上界で最も噂が立てられているであろう住民が二人、手当て要員と試合の判定員として待機させられていた。 「見ろ、ヒュメン。面白いだろう? ああして仏頂面を二つも並べてやると、ますます親子に見えなくなってくるな」 ヘラが失笑する。ヒュメンはそれには応えず、今代のラグエルの度重なる悲鳴にますます眉間に皺を寄せてしまった。 ……不機嫌そのものを顔に浮かべ、口を真一文字に結ぶのは喰天使ノクトと、その血の一部を身に引いた娘アスターの二名である。 両者の距離は微妙に開いていて、隙あらばこそこそと互いの顔に視線を投げ合っていた。すれ違いというやつで、その間が重なる事はない。 「神の匣、でしたか。今、どれほどの者が彼女を欲している事か」 「親子の親睦を阻害しようとする血も涙もない連中の事など、知った事かー。私がこき使うべく匿ってやっているんだ、有難い話だろう?」 ふっふっふ、と得意げに不穏な笑い声を響かせる女神に、美貌の男神は冷ややかな視線を投げてからごく僅かに嘆息する。 言っても無駄だという事だけは理解していたのか、吐き出された呼気は呆れ混じりの、至極穏やかなものだった。 「理解致しかねますが。そこまで使い勝手が宜しいものなのですか」 「知らん、分からん。試用期間というやつだな。実際に使ってみるのもこれからだ!」 「……貴女様も天上の方々も、どうしてこう」 「いいだろうー、なに、時間ならたっぷりあるんだ。お前までウリエルのような小言を言うんじゃない!」 「ケチくさい、ですか。そうですね、多少は、その気はあるのでしょうが」 ふと、ヒュメンは口を閉ざした。 彼の目にはヘラの視線が庭ではなく、自分と、更にその向こう側に在る天上界の住民達に向けられているように感じたのだ。 「銀林檎つきの空間を飼い慣らすとなれば、討ち滅ぼす為の手段も確保すべきだ。その点、喰天使とはもっともたる存在だとは思わないか」 いつの間に取り出したのか、上司は孔雀羽根の扇子で口元を覆っていた。細められた双眸と隠された唇からは、真意を探る事は難しい。 「――承服しました。そこまで仰るのでしたら、彼らの件については本気という事ですね。天上の方々の説得はお任せ下さい」 飼い慣らす、討ち滅ぼす、喰天使。いざ彼らが暴走、造反でもしようものなら、自ら手を下す事も厭わない。言外に、ヘラはそう言うのだ。 だがいくら不穏な言葉を羅列しようと、この女神がそれを表に出す事もなければ、それが本心ではない事も長いつきあいから熟知している。 一度屋敷に置いた者は意地でも手放すつもりはない――いよいよ、ヒュメンはヘラの我が儘を丸ごと飲み下す決意を固めた。 こうして彼女が今、大量の仕事に追われているのも、実のところ高位天使ルファエルを元の権限者から奪い取る為の用意でしかない。 面倒事を一身に受けてでも恩を売る、根回し、下準備、裏工作。どれもが面倒な手順であれど、それらをヘラが怠った事は一度もなかった。 「うむ、すまんな。いちいち許可を取らないと、あの脳内花畑連中は納得出来ないらしいからな」 「またそのような言い方を。いちいち嫌みをとばさないと、この脳内毒舌地母神殿はお気が済まないのやもしれませんが」 どっちが脳内毒舌だ、思わずぼやき、愛らしい形を歪めたヘラの黒瞳を、一見穏やかにしか見えないヒュメンの黒橡が射抜く。 彼女と彼の応酬は、昔からこの通りだった。表向きはさほど親しくないのだと、そう周囲に思い込ませるかのように剣呑としている。 しかしその実、ヒュメンという如何にも面倒な気質の神を手足の如く奔走させ、最終的には必ず目的を果たすというのがヘラの手腕だった。 「せっかく手に入れた宝物を、庭から取り出して余所にくれてやると思うか。私はそんなお人好しではないからな、不利益など御免だ」 長年付き従ってきた故に、互いの信頼は絶大なのだ。扇子を下ろした女神の口元は、挑発的な発言の通りにやりと不敵に弧を描く。 無言で、男神は彼女の仕事机を指差した。言葉にならない叫び声は部下への反発の現れか、それとも自身の我が儘を叶える為の意識づけか。 恐らく前者だろうな、とヒュメンは限られた者にしか向けない人好きのする美しい笑みを浮かべて、そっと女神の背中を押す。 ふと庭から漏れ聞こえた歓声に視線だけ動かせば、眼下の天使達はしばらくぶりの休憩時間に入るところのようだった。 「アア〜、オィエ〜! 麗しの地母神殿の〜、ごーてーんーんんー!!」 「……とんでもねぇ自称音楽家だな、オイ」 どこからともなく、歌が聞こえる。 視線だけを動かせば、庭の一角に据えられた巨大な岩の上に、あの覚醒して間もない橙色の高位天使がどかりと一人座っているのが見えた。 その麓には、彼の元兄にあたる夜色の天使が棒立ちになっている。彼、ウリエルがイスラーフィルに引きずり出された事は明白だった。 暁橙の兄大好きぶりは健在で、出所不明の古びた弦楽器をかき鳴らし全力で歌唱力を披露している……一方で、藍夜の顔は引きつっていた。 「だって暁橙だし。歌は上手いけど、兄ィ聴いて聴いてー、が邪魔してまともに歌えてるかどうか……藍夜も聴こえてないんじゃないかな」 「だろうな。いいけどよ、俺には関係ねーからな」 「ねー、真面目に歌えばいいのにねー……」 しわがれた声で応えたのは、肩を貸す元同僚そのひとだった。彼女の頬や額から滴る汗を、懸命に後を追ってくる少女が拭おうとしている。 「ま、待って欲しいですの! ノ、ノク……えっと、ルファエ……その! ニジママ様の汗、拭かないと……ダメ、ですのう」 「うーん、ノクトー、縁側まででいいよー。あ、アスター? 下ろして貰ってからでいいから、汗とか。気を遣わなくても、大丈夫ー」 半ば足を引きずられるようにして、ニゼルはノクトに誘導されるがままになっていた。縁側に彼女を下ろしながら、ノクトは小さく舌打つ。 つい先ほどまで散々殺戮にしごかれていたにも関わらず、彼女はハンカチを握りしめるアスターへの気遣いも忘れていない。 「自己よりも他者を重んじ、その心身を捧げ、すり減らす事も厭わず」。本人は否定するのだろうが、ノクトはその光景に見覚えがあった。 悲しいかな、「彼女には存在しない」とされる先代の影を嫌でも探してしまいそうになる。 連日の殺戮の厳しい管理ぶりに文句を垂れ、互いを労り合う二人から目を逸らし、ノクトはおもむろに懐に手を突き入れた。 「……っくうー! うん、疲れた時にはやっぱり、藍夜のハーブティーだよねー。冷たいけど、そこがまた」 「アスターはココアかホットチョコレートの方が好きですの……って、ニジママ様。あれ……」 縁側に用意されていた冷たいドリンクは、審判官の天使がニゼル用にと事前に仕込んでいたものだ。 俺には関係ないとばかりに、取り出した小箱から幾分か短くなった葉巻を手に取る。これは、元は自室で楽しんでいた分の残りなのだ。 同じくポケットをまさぐり、厳ついライターで先端にじっくりと火を点けた。ほどなくして生まれた赤い芯から特有の香りと煙が立ち上る。 嗅ぎ慣れないのか、それとも煙草を知らないのか。怪訝そうに顔を歪めたアスターの頭を撫でて、ニゼルはぐっと身を前に乗り出した。 「あれっ、煙草だ。やめたんじゃなかったの?」 咎めるというよりは、悪ふざけを思いついた子供の笑みが浮いている。ノクトは目を細めて、腰掛けたままのニゼルをぼうっと見下ろした。 「煙草じゃねーよ。ハーブ製の葉巻だ」 「えー、同じじゃないの? あっ、それともまさか脱法ハー……」 「豚の丸焼きスタイルで吊して燻すぞ」 軽く額を指で弾いてやれば、ニゼル=アルジルそのものの笑顔が返される。 興味があるのか、元よりの好奇心か、じわじわと距離をとるアスターと違ってニゼルはふんふんと葉巻の匂いを嗅ぎ取ろうとした。 その仕草はアンジェリカには見られなかったものだ――無意識に彼女達を比べ、元婚約者の面影を見出そうとする自分に嫌気が差してくる。 「……暇潰しになりそうな趣味でも、探さねーとな」 皮肉な話だ。それを振り払う為に、古い天上界時代、ヘラの別邸に移り住む以前に止めていた筈の葉巻をまた吸うようになったというのに。 「ふーん。じゃあ、また庭いじりでも始めてみたら?」 ……感傷に浸る暇もない。鬱陶しげに歪めた顔でニゼルの顔を見返すと、彼女は次第に義妹に似てきた雰囲気の面立ちで、からりと笑った。 まるで悪気はないと言いたげな気持ちのいい笑みに、不思議と毒気を抜かれたようにして肩の力が抜けていく。 残りのハーブティーを一気に飲み干し、今代のラグエルはえいやっと勢いづけて立ち上がった。 「ねえ、暁橙の座ってる岩、いい感じでしょ? アスターに頼んで、庭石に良さげな岩を転送して貰ったんだよねー」 「……アスター。テメェ、コイツを甘やかしてんじゃねーよ」 「ア、アスターは悪くないですのう! ニジママ様がどうしてもって言うから!」 「そーそー、だってせっかくこんな広いんだよ? 立派な庭石がなくっちゃねー、ワビサビってやつ? あれだけじゃ全然足りないけどさ」 わびさびとは――思わず顔を見合わせた喰天使と匣の少女を放置して、ニゼルは外壁伝いに屋敷の周りを歩いていく。 二人がついてくる事を想定していたのか、ニゼルは庭のあちこちを指差しながらのんびりと歩を進めた。 「どうせだから別棟とか……あっ、塔とか欲しいよね! かっこいいやつ! なんかその方がダンジョンっぽいし!」 「いやダンジョンって。何を目指してんだよ、テメェは」 「あとはちっちゃい牧場スペースとかあれば最高なんだけどなー……シリウスが他の動物とか魔獣とか嫌がるし。俺って愛されてるよねー」 「自分で言っちゃうあたり、確信犯ですのう」 「あはは! だってせっかく皆揃ってるのにー。楽しくなかったら、つまんないでしょ?」 ついていくうちに屋敷の中心部、天井の存在しない中央庭園に出る。吹き抜けのスペースには、まだ目立った植物は植えられていなかった。 廊下側から入った際に、大扉の正面に審判官の手掛けるハーブ類の鉢が何個か置かれているだけとなっている。 庭師は雇わねーのか、ノクトの率直な感想に、ここのところバタついてたからね、ニゼルののんびりとした声が返された。 「ねえ、見れば見るほど『昔の』庭園に雰囲気似てない? 奥に行く階段とか、噴水とかはないけどさ」 振り向いた赤紫に、面食らったようにしてノクトは固まった。さらりと弧を描く空色髪に、かつてのニゲラの面影が見えた気がしたからだ。 「……俺に、また庭いじりをしろって言うのかよ」 「昔の庭園」……考えただけで、心臓が嫌な音を立ててくる。 あの頃。ヘラの別邸で臨時の庭師として過ごすうち、自分は道を示してくれたアンジェリカと絆を深め、愛し合うようになった。 ついには彼女を身籠もらせるまでに至ったのだ。それに気付けず、愛した女を惨たらしい復讐に駆り立たせ、身を滅ぼさせるまで放置した。 それだけではない……強く葉巻を噛み、じわりと口内に広がる苦味と薄らぐ香りに顔が歪む。 『ノクト様! そのぅ……わたしにもコーヒー、淹れて下さるんですか?』 ラグナロクの折、自分は燃え盛り、崩れ落ちていくヘラの神殿を遠くから見ていた。「殺してくれ」と願うアンジェリカと、たった二人で。 あの日以来、何度もあの頃の、あの時の夢を見る。悲鳴を上げて跳ね起きていたのは最初のうちだけで、あとは不眠との戦いになっていた。 月日が流れるにつれ、自分の不甲斐なさや世界に対する絶望は、焦がれるような怒りと失望感に変わっていく。 アンジェリカと共に過ごし、ニゲラという妹のような存在を得たにも関わらず、自分は喰天使としても男としても、彼女達を護れなかった。 それなのに、何故……辛く、思い出すだけで苦い思いが込み上げるような過去を、目の前の女は再びなぞれと言うのだろうか。 「なんで? だってノクト、花好きでしょ?」 息が詰まる。花開いたのは、他意も悪意も、嫌みの一つすら含まない、純粋に信頼と信用を浮かべた笑みだった。 直後ニゼルは、かつてのニゲラを彷彿とさせるような柔らかな表情で頬を緩ませる。 「ノクトがここを担当してくれたら、きっとヘラも喜ぶと思うなー。俺だって、ニゼルの頃は染め物する時くらいしか花に触らなかったし。 どうせなら果物とか植えてみたいしね! 林檎もいいけど、やっぱり桃かなあ。白と黄色、どっちの桃も欲しい! プラムもいいよね!」 一気に捲し立てる姿は、アンジェリカには似ても似つかない。どちらかといえばニゼル=アルジルや、古い時代のラグエルに酷似している。 彼女は本当の意味で、新たなラグエルとして、ニゼルやニゲラ、これまでのラグエル達をその身と魂に宿しきっているのだろう。 自業自得でしかないが、置いてけぼりを食らってあの時代から身動きがとれずにいる自分と違い、「ラグエル達」は前に進もうとしている。 (……ああ、俺は) そうだ、愛していた。それと同時に彼、彼女らは自分にとって友であり、血の繋がらない弟のようなものであり、古き良き同僚だった。 アスターが物言いたげに見上げてくる中、ノクトはライターを納めるポケットとは逆に手を入れ、簡易シガートレイを展開させる。 未だに濃厚な煙と香を立てる葉巻をそっと据え置き、空を見上げながら大きく息を吐いた。冬の終わり、次第に春の近づく青が目に眩しい。 「ま、居候するなら仕事の一つでも必要だろうからな」 胸が抉れるようにじくじくと痛む。これは古傷によるものだ、微かに滞空する煙を吹き飛ばす。 生きていく事こそが、今のお前に許された償いなのだ――眼前の元同僚に、そう宣告されたような気がしていた。 「えっ、本当!? じゃあ、また庭師やってくれる気になったって事?」 「ヘラの許可が下りてからだぞ。それに、テメェはあの口うるさいウリエルのクソ野郎の説得だってやらねぇといけねぇんだからな」 「えぇ? うーん、それだよ。なんで藍夜ってノクトの事敵視するんだろ? 昔、黙ってついてったから? ちょっと根に持ちすぎだよね」 ……ウリエルとニゲラの件を思えば、「それは本気で言っているのか」と問いただしたくなるところである。 ノクトはそれ以上は口にせず、庭園の隅に置かれた白樺のベンチにシガートレイをそっと置いた。 「よぉ、アスター」 「なっ? なな、なんですの!?」 「そうビビるなよ。俺の雇用主の件はヘラが何とかするっつってんだ、もう勝手に連れて行ったりしねぇから、そこまで警戒する事ねーよ」 ううとも、ああとも聞こえる呻き声が返される。素直な少女の反応に、目を細めて笑った。 あまり綺麗な笑みではなかったのか、アスターは肩を跳ね上げ、ぶるぶると体を震わせる。小さな顔はあっという間に赤く染まった。 自分は目下の天使の面倒をみる機会が多かった。望まれるかどうかは知らないが、血を分けたという子供の面倒をみる事くらい造作もない。 もう一度目線を少女のそれに落としてみると、アスターもまたちらっと上目遣いでノクトを見つめ返そうとしているところだった。 「……なんだ、ニゼルの我が儘はヘラ以上に厄介だぞ。一度甘やかしたからにはテメェも最後まで手伝えよ、アスター」 「そ、そんな。アスター、悪い事してないですの……お花の手入れなんて、やった事ないですのう」 「心配すんな。やり方ならいくらでも教えてやるし、向いてなかったら別の仕事に就きゃいいだろ。働かざる者食うべからずだ、覚えとけ」 怖がらせるか、怯ませるかのどちらかとは思えたが……思い切って手を伸ばし、ノクトはアスターの頭を撫でてやる。 予想に反して、匣の少女は丸い目を更に丸くして固まった。意外なものを見たような気がして、直後ノクトはふと視線を感じて顔を上げる。 「ね? 何事も、何とかなるもんでしょ?」 目と鼻の先で、ニゼルが得意満面に微笑んでいた。なんとなく腹が立ち、アスターの頭から外したその手で額を弾いてやる。 痛いと喚く天使を放置して、ふらりと庭園の中央に足を向けた。煉瓦や土が剥き出しで、何の手入れもされていない有り様に溜息が漏れる。 「ニゲラより、なってねーんじゃねぇのか」 「でもノク……しょくてん……えっと……ぱ、『パパ』、なんだか楽しそうですの」 掛けられた声に思わず振り向けば、匣の少女は慌てたようにさっと顔を俯かせた。 パパ、か……むず痒さと不安定に揺れる胸中に失笑が漏れる。直接は応えないまま、ノクトは再び繁鼠色に手を伸ばした。 さらさらとした感触は、愛したアンジェリカのそれとよく似ている。腰を据える覚悟が要るな――手付かずの庭を眺め、口端をつり上げた。 |
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