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楽園のおはなし (1-12) BACK / TOP / NEXT |
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「愚かだと?」 「はい、そう言いました」 間に入るな――そう言われているような気がして、藍夜は暫く口を噤んでいた。 向き合うハイウメ、アンブロシア。双方共に、視線を逸らしもせずただその場に立ち尽くしたままでいる。 「ふん。何を言い出すかと思ったら、随分と躾のなってねえバイトだな」 「……入りたてなものでね」 藍夜は苦いものを噛まされたような心地でいた。 アンブロシアが何を思ってそう言い出したのか知らないが、彼女とハイウメは初対面の筈だ。 ハイウメは片眉を吊り上げて見せた。ふと伸ばされた彼の手が、アンブロシアの焼き菓子を摘み上げる。 木の実を練り込んだ薄焼きのクッキー。ぼりぼりと音を立てて食される様を、アンブロシアは瞬きを繰り返して見守っていた。 「まあまあだな。っと、俺が愚かだってのは街の連中全員が知ってんだよ。残念だったな、お嬢ちゃん」 「全員、ですか」 「おうとも、親父が企業誘致でしくじってるからな」 「? お父さま……」 「アンブロシア。彼はこのホワイトセージ街の長の息子だよ。名はハイウメという」 街の経済が近年低迷がちである事、彼とは幼い頃からの知り合いである事、この店もまた税を納める立場にある事を、藍夜は簡単に説明した。 アンブロシアの反応は薄い。そうですか、そうぽつりと呟いただけで、彼女の視線は緩やかながらすぐハイウメに戻される。 ハイウメはアンブロシアを訝しむように見て、眉根を寄せた。咳払いも虚しい。彼女は一向にハイウメへ憐れみの視線を注ぎ続けている。 (天使として何か思うところでもあったのかもしれないが) 居心地の悪さでいうなら自分とて負けてはいない。軽く漏らしただけの嘆息は双方にはっきり聞かれたらしく、一斉に視線が降り注ぐ。 自分の店だというのに落ち着いて店番も出来ないじゃないか――とは、流石に零さずに済んだ。普段から真面目に店番している覚えもなかったが。 「なんだよ、化け物。なんか言いてえ事でもあんのか」 「やれやれ、地獄耳にも困ったものだ」 ともすればクッキーもろとも噛み付かれてしまいそうだった。じっと見つめてくるアンブロシアに、琥珀にしたのと同じように片手を翳し下がらせる。 でも、か、あの、か。何か言いたげな彼女に小さく肩を竦めて、二の句を飲み込ませた。ハイウメの眉間にはいっそう深い皺が増える。 「アンブロシア。あまり他人をからかうものではないよ」 「え? からか、いえ。わたしは」 「それでなくとも、うちはあまり繁盛していないのだからね。こんなのでも大事な顧客という事さ」 「おい、トバアイヤ。こんなの、ってのはどういう意味だ。こんなのってのは」 「好きに解釈したまえ……そう、君もね、アンブロシア。『年頃になって親元を試験的に離れた箱入りだからといって』羽を伸ばし過ぎるのも考え物さ。 人にはそれぞれ事情があるのだからね。ハイウメは口は悪いが『悪人ではないのだから』、揚げ足を取る程度に。『背後を狙うのは無し』で頼むよ」 「……、『預かり物の箱入り娘』ですか」 「ああ。そうとも」 「そう、ですね。はい、そうだったかもしれません」 アンブロシアはともかく、琥珀にも微妙な言い回しは通用するものだろうか。 不安もあったが、視線を気取られぬように動かすと、視界の端でほんの少し開いた扉から黒色の尾がパタンパタンと揺らされているのが見えた。 アンブロシアも僅かに頷き返してくる。内心ほっとした。 ハイウメはきつい性格をしているが、妙なところで誠実な男だ。街の面々にはこちらが不利になるように言わないでいてくれる事だろう。 「よく分からねえがそうやって適当に口説き落としたんだろ。何も知らなさそうなボケッとした女みてえだしよ。家賃の足しか」 「おや、心外だね。店主というものは口達者でなければならないものさ。努力の賜物と褒めて貰いたいものだがね」 誰が褒めるか、そう呻いてハイウメはそっぽを向いた。忙しなく瞬きを繰り返すアンブロシアに目配せして、藍夜は茶を持って来るよう指示を出す。 素直に頷いて戸棚に出向き、彼女が何の気もなしに琥珀の分の茶器も取ろうとしたところでわざとらしく咳払いし、制止した。 流石に彼女も、「ああそうか」といった風に手を引っ込める。凶暴、凶暴の代名詞として名高い魔獣がすぐ横に控えているとは露知らず、知らぬが仏、 ハイウメは受け取った税金を肩提げの鞄にしまい、くわあ、と欠伸をした。疲れているのかい、そう問えば、そうでもない、淡白な答えが返される。 「アンブロシア、その緑の茶筒を――そう、それを匙で二杯分頼むよ。ハイウメ、きみ、そこに座ったらどうだい。すぐに茶を出すとしよう」 「いや、いい。ここが最後の徴収だからな。トバアキトにゃうざがられたみてーだし、客も待たせてある。すぐ屋敷に戻らねえと」 そうは言うも、彼とて男だ。美しい天使に笑顔で椅子を勧められては、悪い気もしないだろう。なんだかんだで腰を下ろしてしまう。 差し出されるがままにクッキーを齧り、ハイウメはアンブロシアを上から下までじっとり眺めた。なんて事はない、彼女は客人をもてなしているだけだ。 だが何故だろう、藍夜は自分が如何わしい店を経営してしまっているような錯覚があった。不服そうな琥珀の短い鼻息は聞こえない振りをする。 「しかし、化け物の子分にしちゃ上玉だよな。ここで働かせるより街にやった方がいいんじゃねえか」 「上玉って。君ね、女性の前では言葉というものを慎重に扱うべきだと思うが」 「本当の事だろ。んだよ、褒めてんじゃねえか」 「あの。わたし、」 「おっと、お嬢ちゃんは口出し無用だ。男同士の会話だからな」 茶を一口啜り、あれとこれを足してくれ、と突き返してくる様は、まるで店の常連そのものを思わせる態度に他ならない。 アンブロシアが首を傾げる前で、藍夜は――ホワイトセージ住民にしては珍しく薬草に造詣の深い――ハイウメが好む幾つかをポットに注ぎ足した。 流石にオフィキリナスのように自家栽培とまではいかなくとも、彼はここに来る度、かつ時間に余裕がある時だけはハーブティーを口にする。 自分ほどではないが、味の好みは勿論、香りや品質にさえ口うるさい事を藍夜は熟知していた。 (暁橙がいたら、『そこまでしなくていいのに!』とでも言いそうだが――) ――そうしてふと思い出す。確か暁橙は、ハイウメの襲来をニゼルに告げ口しに行ったのではなかったか……、 「ちょっと、藍夜を苛めるなよ、ハイウメ!! あと、アンから離れろ! アンは俺のなんだから!!」 ……アンブロシアが何か言いかけた瞬間、何者かの声が空気を突き破る。彼女のみならず、この場にいる全員にとって聞き覚えのある声だった。 藍夜よりも俄かにハイウメの方が早く視線を走らせる。背後、店主専用の席後ろに設けた窓から恒例の如くニゼルが片足を踏み入れていた。 「! てめえ、ニゼル!?」 「やあ、ニゼル。君ね、玄関から入って来られるなら普段からそうしてくれたまえよ」 「おっ、とぉ。ただいまー、藍夜。もー、いいでしょー。窓から入るくらい」 「ニゼルさん。……お帰りなさい、あの、わたしはいつから『ニゼルさんの』ものになったんでしょう?」 「え? 言葉のあやだよ、言葉のあや」 アンブロシアに対するフォローは一切ない。藍夜の非難めいた視線には手をひらひら振り返し、結局ニゼルは窓から応接間に侵入した。 アンブロシアの唇から微かな嘆息と苦笑が漏れる。どうにも、ニゼルに振り回されるのは藍夜だけに留まらない運びらしい。 ニゼルの靴から零れた牧草くずを拾い、手早くゴミ箱へ放る。砂粒については後にしよう、ハイウメの咎めるような視線に藍夜は小さく肩を竦めた。 続けて、暁橙のオレンジ頭が窓からちらちらと顔を出す。本人は隠れているつもりらしいのだが、元の身長が高いのであまり意味がない。 怒る気にもなれず、藍夜の口からはただただ嘆息が漏れていた。 「お帰り、暁橙」 「! あ、兄ィ。ただいまー……」 「君ね、今日の稼ぎがどうなるか、より、ハイウメとニゼルの仲が悪い事くらい把握しているものと思っていたのだがね」 「ご、ごめんね、兄ィ。なんかさー、あいつ、兄ィは苛めるしニジーさんは馬鹿にするし、頭にきちゃってしょうがなかったんだよー」 気持ちは分からないでもないが。声を思い切り小さくして同意し、片手を差し出して弟を室内に招き入れた。牧草くずについては考えないようにしよう。 視線を走らせれば、ニゼルは堂々とアンブロシアの菓子をぱくついているところだった。琥珀への配慮か、何枚かを包んでキープするのも忘れない。 やれやれ、気が利くのか身内贔屓か分かったものじゃないね――肩を竦めてポットに手を伸ばす。ベルガモットの香りが未だ底の方に残っていた。 「んん〜っ、美味しいーっ! ねえ、アン! これ本当に美味しいよ。お店に並べたら売れるんじゃない?」 「えっ、そ、そうでしょうか。自分ではそこまで上手く出来たとは思っていなかったんですけど」 「えー? ほんとだって。ね、藍夜もそう思うでしょー?」 「……久しぶり、でもねぇよな、ニゼル。結構元気そうじゃねぇか」 「ああ、ハイウメ。うん、まあね?」 居心地悪そうにしているのは、どちらかといえばハイウメの方だった。ニゼルは余裕綽々といった風で、アンブロシアが淹れた茶を優雅に啜る。 第一印象で見るならば、明らかにニゼルの態度が悪い。きょとんと不思議そうに目を丸くするアンブロシアを、藍夜は小さく手招きした。 「(あの……ニゼルさんとハイウメさんは、一体どういうご関係なんでしょう?)」 「(話せば長くなるがね、ハイウメは昔この辺じゃ有名な虐めっ子でね。僕もニゼルもあれこれされたという事さ)」 あれこれですか、神妙な面持ちで声を潜ませるアンブロシア。子供の悪戯の範疇さ、肩を竦める藍夜。 先ほどの強気な態度はどこへやら、ハイウメはもごもごと口を動かして口数少ない。酷く落ち着かない様子で耳たぶを掻いている。 「ニゼル。その女……まさかと思うが、お前の恋人か、婚約者か何かかよ」 「えー? まっさかー、何それ! ……さっきも言ったけど、アンは『俺のもの』ってだけだよ。分かった?」 「はあ? いや、全然分かんねえよ」 「えー? 藍夜ー、藍夜は分かるよね。アンは俺の『下僕』だって」 「……えっ!?」 振られた方はたまったものじゃない。アンブロシア当人はポットを抱えたまま固まっていた。 「下僕と来たかい、ニゼル」 「ん。そうでしょ?」 「……下僕って。お前、あのな、ニゼル、」 「そう、下僕――あっ! じゃなかった、えーと、家来? ペット? どれい……あ、そうだ、『メイドさん』! メイドさんがピッタリだよね!」 「あの、ニゼルさん。今度はメイド、なんですか」 「うん、メイド。アンならきっと適職だよ! 良かったね!!」 「んー。オイラも、シアならメイド服似合っちゃうかもなーって思うけど」 「って、暁橙、独り言聞こえてるよー? えっちー。クッキー全部食べちゃうよ。藍夜の後ろに隠れてないで、こっちおいでよ」 「!? あわっ、ちょ、ちょっと待ってよ、ニジーさん! オイラもそれ、食べたいってばー!!」 ハイウメを気にしながらも、暁橙はクッキー五枚のうち、四枚(!)を手早く手に治めた。藍夜に破顔を向けるのも忘れない。 彼らの態度はあからさまだった。ニゼルも終始笑顔でいるが、どこか普段の彼とは笑い方が違うような気もする。 言動もどこか悪戯じみた笑えない冗談ばかりで、どこまで本気なのか分からない。否、「下僕」宣言はもしやすると本気なのかもしれないが。 ポットをテーブルに戻しながら、アンブロシアは口端に再び苦笑を滲ませた。 (人の良さそうなヒトが一度壊れる? 関係が破綻する? と、こうなってしまうのかしら) ハイウメがオフィキリナスから出て行くまで、この異様な空気が続くのだろうか。天使は頭を振る。 その場しのぎのジョークという事もある。天使の、それもぽっと出の自分が彼らの何をどこまで把握しているというのか。 この街、この店で暮らしていく以上、最低限の現状把握は必要だろう。アンブロシアは藍夜に視線を投げた。 「(藍夜さん、暁橙さんはハイウメさんが苦手……なんですね?)」 「(どうかな。単に僕やニゼルが絡まれているのを見て育ったからだと思うがね)」 「(そうなんですか)」 「(ああ。あの子は父さんと一緒に家にいる事が多かったから、小さい頃はそう絡まれる事もなかったよ)」 「(そうですか……)」 過去に虐めに合い、現在では化け物とさえ罵られ、それでも元凶に好意を向ける事の出来る者がどれほどあるのだろうか。 自分でさえ初対面であるのに不快感を覚えたほどだ。 真意も決意も知ろうとせず、うわべだけを見て相手の全てを判断、評価しようとするハイウメの姿勢が、愚かで嘆かわしいと天使の娘は捉えた。 ニゼルや暁橙もそうだろう。嫌って当然の筈なのに――ある意味のんきに構え通しの店主を前に、アンブロシアは困惑するばかりだった。 鳥羽藍夜という人物。まるで彼が読めない。 彼はどちらの味方でいるつもりなのだろう。もちろん普段は、どんな些細な問題でも家族である暁橙や、友人ニゼルを優先しているようだった。 しかし、いざハイウメを前にするとどっちつかずの発言にシフトする。 自分を悪く言われているのに、さも他人事のように受け流し、更にハイウメの仕事を普段から認めているような口振りも見せるのだ。 店の経営をスムーズにこなす為といえば聞こえはいいが、彼とてごく普通のヒトの筈。頭にこないのかしら――そこが不思議でならない。 「で。なんでハイウメがここにいるの?」 「……いたら悪いか。税金の取立てに来たんだよ」 「ふーん。へー。あっ、そうー。終わったんでしょ? 早く帰ったら?」 「あのなニゼル、俺はそこの女を、」 「え? 何、まさかアンに何かするつもり!? 仕事ほったらかしてナンパとか」 「あのう、に、ニゼルさん……」 「ニゼル。彼は真面目に己の仕事を全うしているだけなのだから、そうからかうものではないよ」 ニゼルに反省した素振りはあまり感じられない。はぁい、そう生返事するものの、彼はハイウメに半開きの視線を投げかけるままだった。 いよいよ言葉に詰まったハイウメを前に、アンブロシア、藍夜は視線を交差させる。そろそろお開きかな、そうですね、無言のまま二人は頷き合った。 「ハイウメ、きみ、確か客人を待たせているのではなかったかい」 「っ! お、おお……まあ、そうだけどよ」 「えっ! じゃあ早く行ってあげた方がいいよ! そうしなって! ね! ねえ藍夜!!」 「てめ、このっ、おい、ニゼル! 背中押すな! 早いとこ追い出そうとしてるだけじゃねえのか!?」 「あっれぇー!? バレちゃったぁー? おかしいなー!? そういう勘の鋭いところ、アレだと思うよ! ねー、藍夜!」 「なっ、てめえ、バレたとかアレだとかっ」 「ニゼル。きみ、それは流石に大人げないというものだよ」 いよいよ藍夜が厳しげに窘めると、ニゼルはやはりはぁい、と生返事を返した。予想してはいたがね、対し藍夜は軽く嘆息するに留める。 しぶしぶ扉に向かい、ドアノブに手を掛けると同時にハイウメはこちらに聞こえんばかりの溜め息を吐いた。 何事かと耳を澄ませたのは暁橙とアンブロシアで、藍夜は視線を彼の背中に向けたまま唇を茶で濡らし、ニゼルは聞こえなかった振りを決め込む。 「……クソ。うまくいかねえもんだな」 掠れた声での小さな呟き。 頷くかのように藍夜が両目を閉ざしたのを見て、アンブロシアははっとしたように扉が上げた微かな音を見送った。 (ハイウメさんは、もしかしてオフィキリナスと上手くやっていきたいだけなんじゃ) しがらみ。意固地。プライド。習慣。協調性。世間体――つまらないものだが、ヒトの世に必ずといっていいほど存在する、数多の問題の根源。 藍夜は気付いていたのだろうか。その上でニゼルや暁橙の気持ちも汲んで、クッション役として対応出来るよう、強く主張しないだけでいるのでは。 ……うまくいかない。ハイウメの言う通り、例え互いに和解したいと思っていてもうまくいかない事は多い。 ここまでのすれ違いとは悩ましいものだわ、アンブロシアは我知らず眉をひそめた。 「――ね〜、もう、出ていってもい〜い?」 「! 琥珀くん」 乾いた物音。居住エリアに通じる扉から、金色の頭が半分ほどはみ出していた。瞳孔を丸くした琥珀の目が、遠慮がちに室内を見渡している。 「あれっ、琥珀。そんなとこでどうしたの? こっちおいでよ」 「え? いやあ、だってさ〜、ニジー。藍夜が隠れてろーって言うからさ〜」 「そういえば引っ込んでおいでと言っていたね。ああ、もう構わないよ。客も引き上げた、君もおやつにしたまえ、琥珀」 「わあ〜、ひゃぁっほう! やった〜、ずーっと黙りっぱだったからすっごーく暇だったんだよねえ〜、ぼく」 「えー、いたんだったらそこからちょっとハイウメのおしり突っついてやればよかったのに!」 「ニジーさん……男心としては、おしりはちょーっと可哀想なんじゃないかなあ」 「うん、君達ね。少々下品というものだよ」 喜び勇んで応接間に飛び込んできた琥珀にニゼルがクッキーを分け与え、仕切り直しとばかりに藍夜が茶を淹れておくれと首を傾ぐ。 琥珀と暁橙がクッキーの取り合いを始めたのに苦笑しながら、アンブロシアは小さく首を縦に振り、ポット片手に簡易給湯室へと足を運んだ。 木製の扉の向こう、応接間右手に備え付けられた、こじんまりとしたキッチン。嘗ては藍夜以外の誰かが家族の為にここで湯を沸かしたのだろうか。 天使を毛嫌いする事といい、ハイウメの事といい、オフィキリナスには様々な事情がなりを潜めていそうである。 (あまり、踏み込みすぎないようにした方がいいのかしら……姉さん) 虚空を仰げど、優しい姉の笑顔も声色もまるで降ってこない。あの時、確かにペンダントは彼女の気配を捉えた筈だったのに。 頭を振る。いつの間にか、ポットの注ぎ口からはしゅんしゅんと慌ただしい蒸気が溢れ出していた。 「とりあえず昨日は黙っていたがね、琥珀。君は、一度身体を洗った方が良さそうだね」 それは死刑宣告に近しいものだったらしい。 ハイウメが立ち去った後、すっかり昼前までまるまる(!)怠惰に過ごしてしまった一行を前に、ことさら椅子に身体を深く沈めたまま店主が呟いた。 琥珀は暴れに暴れた。ひらひら舞い散る金色の羽根を見て、ニゼルは目を輝かせ、アンブロシアも彼の横で綺麗、などと頬を赤く染めている。 「うぎゃ〜! やっだあ〜!! こ、コッチ来ないでよ! ヨケーな事しなくていいよお!」 「致し方ないものだね、素直に従っていれば僕も手荒な事はしないで済んだのに……来たまえ、暁橙!」 「はいよー、兄ィ!」 「ぎゃあーっ!! 暁橙の〜、裏切り者〜!!」 敬愛する兄の為なら例え火の中水の中、負けじと彼女を抱きかかえるようにして、暁橙は光の速さで裏庭に出て行った。藍夜もそれに続く。 曰く、「翼が濡れると上手く飛べなくなる」のだそうだが、抵抗ぶりから察するに単に濡れるのが嫌なだけじゃ――ニゼルもアンブロシアも黙したまま 静かなる戦場へ旅立った男達を見送った。言われてみれば確かに、アンブロシアは別として、琥珀は拾われた時のまま寝所に出入りしていた。 考えてみれば分かる事だ。潔癖とまではいかなくとも綺麗好きの店主が、そんな状態を二日間も放置しておく筈がない。 「……藍夜ってさ、動物ダメみたいなんだよねー」 「え? そうなんですか」 手の内側に広がるのは、ローズマリーの香りが混ざる細かい泡。言わずもがな、店主の手製の石鹸だった。 白と虹を孕ませた、眩い幾つもの木漏れ日。鳥羽家がいつも洗濯に使っているという川は、丘を降り、街よりやや離れた林道の手前にあった。 藍夜と暁橙が琥珀を「洗浄」している間、アンブロシアは昼食前に洗濯を済ませるつもりで一人家を出た。が、途中で川の場所を知らないと気付く。 丘を半分降ったあたりまで来て途方に暮れていたところ、助っ人を買って出たニゼルが追ってきた。 『――来たばっかで土地勘もないんだし、仕方ないよね。もう、道くらい藍夜も教えてあげれば良かったのに』 『はい、わたしもどうしようかと思って。お陰で助かりました、有難う御座います。ニゼルさん』 『うん。俺もさ? アンなら絶対迷子になってるだろうと思って、心配でさー』 『あのう、それは一体、どういう意味なんでしょう?』 『えー? あははっ、さあ――』 道具は藍夜が揃えてくれた。シャツをネットで包み、川の流れにさっと潜らせ、石鹸で丁寧に揉み解す。ニゼルは暁橙のパンツを洗っていた。 黙々と作業を続けていたが、ぽつりと呟くニゼルの視線が水面の奥、洗濯物とは別の何かを見ているような気がして、アンブロシアは手を止める。 「俺んちって、羊飼ってるんだよね。アルジル羊っていうんだけどさ」 急に何の話だろう。困惑半分で天使は頷き返した。 「今朝、少し琥珀くんから聞きました。かなりデリケートなブランド羊なんですよね? ニゼルさんの苗字にもなってる、って」 「そうなんだ? うん、それなら話が早いね。うち、アルジル羊育成の古株でさ。けど世話する人が変わっただけで体調崩すから人手増やせなくて。 藍夜も暁橙も、結構まめに手伝いに来てくれたんだよね。暁橙はさー、牧羊犬の扱いが上手くて。一時俺より暁橙に懐いてた時もあったくらい!」 「ええ? そうなんですか」 「なんかねー、可愛いからって俺に隠れてチーズあげてたみたいでさ。途中で気付いて主の座は奪還したけど! 俺が飼い主だし」 「ふふっ。暁橙さん、凄くガッカリしたでしょうね」 「うん、したした。『せっかく懐いてくれたのにー!』って、この世の終わりみたいな顔! って……暁橙はいいんだ、暁橙は。問題は、藍夜の方」 「藍夜さん、ですか」 「うん。綺麗好きっていうのもあるみたいだけど、動物にさえどう接したらいいか分かんないみたいでさー」 例えば、噛まれそうだからと言って五メートル離れたところからフォークを伸ばした、とか、虫がいたら大変だからと飼葉に息を吹きかけ続けた、とか 病気に罹らせるわけにいかないと毎日全身除菌スプレーを浴びてから牧場に来た、とか、おやつを与えようとして羊と駆け引きしあった、などなど。 暁橙のパンツを桶のふちにかけ、身振り手振りも交えて話すニゼルの顔は、晴れ晴れとしていた。 純粋に、彼らは互いを信頼し合っているのだろう。なんと微笑ましい事か。つられて笑顔になりながらアンブロシアは何度も相槌を打った。 「……子供の頃は、そうだったんだよ。ううん、今だって、勿論そういうところはあるんだけど」 声に影が落とされたのは、遠くで鳥が一羽、甲高く鳴いた瞬間だった。 「ニゼル、さん?」 妙に胸がざわついた。シャツを水に浸したまま、引き抜くのも忘れて、アンブロシアは赤紫の瞳を凝視する。姉とよく似た、艶やかな瞳を。 「俺、小さい頃さっき店に来たハイウメに結構苛められててさ。っていっても、骨折したとかそこまでじゃないけど。女みてーだ、って囲まれたくらい。 けど、俺がピーピー泣きつく度に、藍夜が俺の分まで怒ってくれるのが嬉しくてさ。藍夜、今ほど体術上手くなかったのにね……性格悪いでしょ?」 「いえ……そんな事は。藍夜さんだって何も、」 「俺は思うよ? 『あー、俺性格悪いなー』って。後半なんか、藍夜が来てくれそうなタイミング計ったりしてたくらいだもん」 尖晶石の表面で白い光が揺れている。 「ハイウメとも、ちっちゃい頃の藍夜は上手くやれてたと思う。いや、やってたんだよ。もっとよく笑って、怒って、ハイウメにもガンガン言い返して」 ああ、彼は今、昔の事を思い出しているのだ――アンブロシアは静かに口を閉ざした。 「街の人とも普通に話してた。当初から、おじさんもおばさんもオフィキリナスもあんまり評判良くなかったけど……ロードとか、皆詳しく知らないから。 けどそれでだって、『あの事』が起こるまでは皆藍夜や暁橙と挨拶くらいし合ってたんだよ。藍夜も、俺と暁橙と三人でよく街まで遊びに降りてたし」 あの事とは何だろう。わたしはこの話を聞いていてもいいんだろうか。我知らず、天使は首を横に振っていた。 アンは優しいね、少し寂しげに微笑んで、ニゼルが青紫の瞳を覗き込むようにして見つめてくる。 「藍夜が『化け物』って呼ばれるようになったのは、俺のせいなんだ」 聞いてはいけない話かもしれない。それこそ、彼らの事情という名の深みにはまってしまう。「姉を捜す為の滞在」と銘打つ事が出来なくなるほどに。 それでもアンブロシアはニゼルから目を反らせなかった。性別はおろか雰囲気こそ違う、それなのに、本当にこの青年はどこか姉に似ている。 口から頻発される冗談、悪戯めいた笑み、それとは打って変わって、二人きりの時だけに限り注がれる真摯な眼差し。 幼い自分を諭す折、しゃがんで視線を落としながら柔らかく微笑み、決して叱るつもりはないという風に言葉を選ぶ、最愛の姉。 彼女が自分をニゼルに引き合わせたのだろうか。 (何の為に? オフィキリナスに……捜さずにここに居続けろという事なの? 姉さん) 「ニゼルさん……その、わたしには、よく、」 「ああ、うん。いいんだ。ちょっと吐き出したくなっただけだから」 「……、ハイウメさんの事」 「ん?」 「いえ、お嫌いなのかな、って」 「うーん。暁橙にもよく言われるけど、そういう事じゃないんだよね。俺はただ、藍夜を化け物呼ばわりされるのが嫌でさ」 「化け物、呼ばわり」 「うん。ハイウメ、ずっと藍夜の事そう呼んでたでしょ?」 琥珀にも軽く聞いた話だ。 瑠璃色に染まる神秘の瞳、あらゆる記憶を読み取る術、ヒトでありながらロードを操る、肉体成長がある時期から極端に緩やかに変化した青年。 ヒトの行き交う様子からするに、ホワイトセージは田舎特有の閉鎖的な空気を持った交易街なのだろう。閉鎖的という事は即ち、余所者をはじめとした 理解の範疇を超える存在に対し、懐疑的、若しくは拒絶しようとする傾向があるという事だ。よく言えば、街を守ろうとする防衛本能が出た状態だろう。 だが逆を言えば? 理解出来ないもの、協調的でないもの、皆に従おうとしないものに対し、彼らは集団で「従え」とばかりに牙を剥く。 (藍夜さんと暁橙さんのご両親は、それを良しとしなかったんですね。店に篭もって子供を守ろうとした。けど、逆に軋轢が生じてしまった) 「藍夜さんに、一体何があったんですか。本当にニゼルさんだけのせいなんて、わたしには思えません」 「アン」 ニゼルは少し驚いたようだった。こうなったらとことん関わって、姉が自ら来るまで居座ってやる――使命感が湧いてきた。アンブロシアは小さく頷く。 ニゼルは困ったような笑みを浮かべた。しかし、アンブロシアに引く気がないのだと分かってか、その笑みもすぐに押し殺される。 「――川の水、がね、」 「え?」 「昔、ハイウメに『男だったら肝試しくらい出来るよな』って言われて入った遺跡? 洞窟? でさ。……なんか、おかしな事があったんだ」 ニゼルが語る、過去の記憶。アンブロシアは目を閉ざして、言葉一つ一つを吸収するかのように、彼の話に耳を傾けた。 暗がりに息を潜める浅い大河。深夜よりも静かな川辺。生き物の棲まない水底。水を飲んだ鳥羽藍夜のみに訪れた変調。閉ざされた遺跡――レテ。 アンブロシアは眉間に力を込め、息を呑み、次いで身を硬直させた。「レテ」という名、耳にした事がある。高位天使であれば誰でも知る名だ。 しかし、ニゼルに、「寿命ある生き物」にこの話を気安く話してしまっていいものか。 (レテ。『忘却』を司る、『冥府の河』の七つある支流がうち、ひとつ) その水に足を浸せ。さすれば生前の悔恨は失われよう。 その水で手を洗え。さすれば生前の固執は失われよう。 その水を喉に流せ。さすれば生前の記憶は失われよう…… 寿命ある生き物が命を喪い、死者の国に強制的に送られる、この世界。神がそう定めた。だからこの法則は変えられないし、抗う事も侭ならない。 長寿にして不老、ヒトより遥かに優れた力を有する天使とて例外ではない。だからこそ、天使の間でもこの話はタブーとされてきた。 死者が赴く冥府の土地には、七つの支流を持つ広大な河が、枝葉のように各地に満遍なく広がっているという。 河を渡りきり、冥府の奥に到達した死者こそが第二、第三の生を待つ事が許される、とも。 川の水にはそれぞれ意味と、冥府特有の特性が備わっており、各々の死に適応した支流から本流へ、その身は預けられるとされている。 (冥府の河がこの世に現れるというのは、それこそ、その時こそが、その者が河を渡るべき必然のタイミングであるという事) つまり、当時のニゼルはその場で死ぬべき命であった、という事に他ならない。 だが、何故ニゼルは「水を汲んだだけで」「無事に」帰途に着けたのか。何故水を飲んだ藍夜が瞳術の力を得たのか。命を落とさずにいられたのは。 分からない――ニゼルの真っ直ぐな視線に、アンブロシアは無意識に悲しげな表情を湛えたまま、微かに首を左右に振るばかりだった。 「アン? あの、なんか、ごめんね。俺、変な事聞いちゃった?」 「いいえ……そういうわけでは……」 「う、うーん。困らせたかったわけじゃないんだけど」 「だい、じょうぶ、です。ニゼルさん。それは、わたしも分かっていますから」 「そっか……っていうかアレだよ、きっと全部ハイウメが悪いんだよ。だから気にしないで。ね?」 「うまくいかない」。ああ、本当だ、本当に自分でもそう思う。自分だけが納得して、純粋な疑問を振ってきたニゼルに答えられる要素など、極僅かだ。 「ニゼルさん。その『レテ遺跡』……恐らく、ただの河では、ただの飲み水ではなかったんじゃないでしょうか」 アンブロシアは知らない。ニゼルがどういう人間か。その周囲は、また、彼らが身を置く環境は。 昔からよく言われている。知恵を持たされたが故に欲を覚え、ヒトはその振る舞いから神に見放された。或いは逆の視点で、無知は罪、と。 事実、目を見開きながらもニゼルの顔はきらきら輝いていた。 「分かった、有難う、アン。すぐ藍夜から書庫借りて調べてみる!」、ニゼルがそう言い出すまで、僅かな時間さえ存在しなかった。 |
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