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楽園のおはなし (3-28)

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「それにしても急な来訪じゃのー、カマエル。事前に連絡の一つも寄越さんかい」

席に座るや否や、医師から飛ばされた嫌みに赤い豹は目の前のカップを取ろうとしたままの格好で固まった。
庭での邂逅を経た後、彼ら師弟間の普段の応酬の一部を目の当たりにしていた鷲馬の双仔は、ケイロンのあんまりな言い方に顔をしかめる。
ちょっと、と耐えきれずに真珠が口を挟んでみるも、なんぞ問題でもあるかの、とケイロンは涼しげな表情を崩さない。
カマエルがぎりっと歯噛みした音が聞こえた。この場に父母が居合わせないだけまだマシだ――珊瑚はコーヒーをがぶ飲みして沈黙する。

「ねえ、ケイロン。確かにわたし達には関係ないかもしれないけど、あんた達にギスギスされても居心地悪いのよ。察してくれないかしら」

果敢にも、真珠はなおもケイロンに食ってかかった。彼ら二人の関係が如何なるものか分からない以上、ここは黙している方が賢明な筈だ。
それでも珊瑚は、姉のこの母譲り……否、指導者であったニゼルの悪癖に似た直球な気質が好ましいと感じている。
真っ直ぐすぎて、時々余計な被害を被りそうになっている点についてだけは感心しないが。

「そうは言うがの、ここはワシの家じゃからのー。客人をどう扱うかは、ワシの自由じゃろ」
「屁理屈。喧嘩がしたいなら患者の目と耳に入らないところに行って頂戴。それにニゼルにわたし達の事宜しく、って頼まれたんでしょう」

こんな空気で療養なんてしたくない、言外にはっきりとクレームを述べ、ようやく白羽根は目の前の紅茶に手をつけた。
ちらりと弟子に物言いたげな視線を投げた後で、ケイロンは「確かにそれもそうじゃの」、と気を取り直したように背もたれに寄りかかる。

「それで、カマエル。主、今更ここに何をしに来たんじゃ」

彼の医師は、上半身がヒトで下半身は栗毛の馬だ。毎度よく器用に座れるものだと、姉弟は妙なところで感心していた。
話を振られた赤い豹は、苦いものを噛む顔で師を見る。空気は変わっていたものの、ケイロンの語気にはやはり咎めるような気配があった。
ラファエルから彼の所業の一連を聞かされていたのだろう。今更という切り口に、彼が当時の弟子の全てを大切にしていた事が窺えた。

「……師匠。私の事より、何故ここにラグエルの飼い犬どもがいるのか、先にご説明願いたい」

睨み合う時間は、思いのほか短い。諦めたように嘆息した後、一度珈琲で喉を湿らせてから、カマエルは重苦しく口を開く。

「彼ら、鷲馬の姉弟ならばまだ分かる。しかし口うるさいばかりのアンバー君とシリウス君については、」
「ああ、そうじゃ、カマエル。そのコーヒー、さっき自白剤を入れといたんじゃったわ」

噴き出した弟子を見守る医師を見て、真珠と珊瑚は、彼が何故ヘラと酒飲み友達であったのか、なんとなく察する事が出来た気がした。

「――ッ、ごほっ、く……な、なんという真似を!? あなたはそれでも、天上界きっての名医ですか!」
「冗談じゃ。医師的ジョークっつーやつじゃな」
「はあ!? ら、ラグエルと似たような遊びを、弟子で試さないで頂きたい!」

けらけらと笑うケイロンに悪びれた様子はない。カマエルは諦めたように――本日何度目かの深い嘆息を吐いて、額に手を押し当てる。
次に顔を上げたとき、赤い豹の表情は歪んでいた。悪し、そう見なされる覚えがあると言わんばかりの、苦悶に塗れた顔だ。

「ラグエル……そう、ラグエルだ。あれがいるばかりに、私はこのような目にばかり遭う」

呪詛めいた物言いにケイロンは片眉を上げ、真珠と珊瑚は顔を見合わせる。カマエルはやおら手を組むと、膝の上に乗せて姿勢を傾けた。

「何故、あればかりが寵愛される? 何故私では駄目なのだ、何が奴に劣っていると、不足しているというのだ……度し難く、憎たらしい」

否、これは呪詛だ。長年をかけて熟成させた、恨みつらみの集大成。しかし、それを抱える事自体が最早負担になりつつあるのだろう。
カマエルの顔には、来訪の時に比べて悲しみの色が濃く浮いていた。今代のラグエルの姿を思い描いているのか、目蓋は静かに下ろされる。
もしや彼は、己が師に救いを求めてきたのではないのか。それを見いだしたからこそ、ケイロンは冷淡な応答を繰り返すのではないか。
推測にしか過ぎないそれが、じわりと全身に熱を広げていった。黒羽根はこの場を離れようと腰を上げかけたが、一連の動作は妨げられる。

「……どうして、」
「む?」
「どうして、そんなにニゼルを敵視するのよ。少なくとも、『今代として』あんたに迷惑をかけるような真似はしていないじゃない」

関わるべきではない、踏み込むべきではない。そう分かっている筈なのに、思わずといった体で隣席の白羽根が声を出していた。
取り繕う暇もない。確かに姉の言葉を受け取った赤い豹は、何を言われたのか分からない、と言うようにゆっくりと瞬きを繰り返す。
言った後で失言に気付いたのか、真珠は「しまった」とばかりに顔を青ざめさせた。珊瑚はぱっとケイロンに目配せして、互いに頷き合う。

(いやあ、一緒の空間には置いとけねーじゃん。だって、ねーちゃんにとってのカマエルってゴーカンマのシンボルなんだし)

実際に手を出したのは自分であるが――頭を振り、連れ出すべく細腕にそっと触れると、姉ははっとした顔でこちらを仰ぎ見た。
頷き返してみると、珍しく素直に立ち上がってくれる。手を引いた瞬間、一瞥を投げれば、カマエルは目を細めてこちらを睥睨していた。

「仲が……宜しいようで何よりだ。珊瑚君、君は今、幸せかね」
「ソレ、挑発か嫌み? 幸せに決まってんじゃん。ねーちゃんは当然として、アスターだって可愛いし」

言い終えた後で、珊瑚もまた真珠と似たような表情で唇を噛む。揚げ足を取られると分かっていて、それなのについ反論してしまっていた。
ふ、と息が漏れる音がする。振り向いた珊瑚と真珠は、ソファに腰掛けた赤い豹が心底寛いだような顔で笑んでいる事に気がついた。
これまで接触してきた中で、彼がそのような表情を見せた事は一度もない。面食らうあまり、鷲馬の姉弟はその場で硬直する。

「そうか、君達は幸せか……フフッ、ラグエルの周りはいつもそう言う。これが、あの方に愛された者とそうでない者の差というわけか」

噴出したコーヒーは、まだカップに少量が残っていたようだった。カマエルはそれを一気にあおり、自嘲するように口端をつり上げる。

「あの方は、何故私を選んで下さらないのか。忠誠心も貢献度も、それこそ施設の充実こそ、私の方が尽くせていた筈なのに。何故なのだ」
「カマエル、あんた……その、あんたの言う『あの方』って、誰なのよ?」
「知ってどうするのかね、真珠君。君には、君達には……私の心など、本心など、分かるまい。私がどれだけあの方を見てきたのかも」

それは、赤い豹の偽りならざる本音のように思えた。
「あの方」……ニゼルが持たざる記憶、「先代」以前のラグエルは、カマエルとともにその人物に密やかに仕えていたのだ。
彼らの関係がどんなものであったのか、鷲馬達に知る術はない。しかし、ニゼルの態度を振り返ればだいたいの予想はつけられる。
気に入られようと足掻く様を小馬鹿にしてくるような因縁の相手の方が、主に愛されているという事実。非情な現実だというよりなかった。

「分かるかね? 私がどれだけ努めても、ラグエルはそれ以上に『あの方』と懇意なのだ。多少の報復も、したくなるというものだろう?」

古の神に傾倒するという、赤い豹。苦悶に揺れるその表情から「あの方」への崇拝と、選ばれなかったという屈辱が痛いほど伝わってくる。
しかし、それを慰めてやれるほど自分達の器は大きく出来ていなかった。顔を見合わせた鷲馬の姉弟は、鋭い眼差しで男を見下ろす。

「多少? アスター、いいえ、種子なんて恐ろしいものを造ったのは確かにアンジェリカよ。でもあんたも、それをわたしに埋めたわよね」
「……」
「あ、言い訳ナシな。オレもしねーけど……あんたさ、そんなにそのアノカタってのが大好きなら、当然玉砕覚悟で告ってるんだよな?」
「……? 告、なんだと?」
「あのね、珊瑚……たぶん、こいつの言ってるあの方って、性別関係なしに尊敬する相手、って意味だと思うわよ」

天然なのか素なのか、カマエルの言う相手が彼の好くものとして認識したらしい黒羽根に、白羽根の安易なツッコミが飛ぶ。
カマエルははじめ二人の応酬を瞬きしながら傍観していたが、ケイロンの物言いたげな視線に気付くと、再び上体を前に乗り出していた。

「師匠。私は、間違えたのですか。私は、あの方の為に全てを捧げたつもりでいました。しかし、あの方は未だにお姿を見せて下さらない」

強い語気に反して視線は下がっていく。医師は、弟子に応えなかった。答えようがないというだけでなく、告解を見届けているような体だ。

「私はやはり、間違えたのですか。あの方の遺された全ての術は無駄だったと、あの新世代の神々の方が正しいと、そういう事なのですか。
 そんな馬鹿な事ある筈がない。あの方は私の指針であり、私にとっての全てそのもの。あの方の意志を継ぐべく、私はやってきたのです。
 よもや、あの方は私を……役に立たない不要物と見なされたのか。ならば私の存在価値とは、私のしてきた事とは、一体なんだったのか」

同情してやれるほどの関係性はなく、俯いた頭を撫で慰めてやれるほど寛容な者もない。鷲馬達は顔を見合わせ、ケイロンは鼻で嘆息する。
赤い豹が吐露する本心は、どこまでも虚しい音を伴いながら宙に溶けていった。姿の見えない「あの方」の気配も、どこにも見えない。






「――それで、そろそろ説明して頂けませんか。ヘラ様」

ニゼル達がイスラーフィルの懐柔を試みている最中、屋敷の居間に残って茶を楽しんでいた面々のうち、サラカエルがヘラに詰め寄った。
真剣な眼差しの部下に、女神の動きがゆるりと止まる。余談だが、お茶請けの殆んどは彼女に独占され、既になくなりそうな有り様だった。

「説明? 説明とは、なんだ」

同じく真剣な顔つきでこれを受けたヘラだったが、籠は膝に乗せ、両手の焼き菓子はせっせと頬張り続けており、威厳は皆無に等しい。

「このハーブクッキーの事か、それならお前も一枚だけ食べただろう。お代わりが欲しいならアクラシエルに言えば焼いてくれるぞ?」

優雅な仕草で、しかしぼりぼりと咀嚼音を立てる尊大な最愛のひとを前に、サラカエルは一瞬怯むように声を詰まらせる。
彼らの背後で、まさにたった今焼きあがったばかりのハーブクッキーを籠いっぱいに詰めたアンブロシアが、得意げに目を輝かせていた。

「ヘラ様。見て下さい、お菓子の追加分が焼けました」
「おおっ、いいぞいいぞー、アクラシエル。早速ここに置いてくれ」
「――アクラシエル! ハウス!!」

ぎりっと歯噛みした殺戮に追い立てられ、悲劇の天使は慌てて席に走る。一方、籠が遠退いたヘラの代わりに喰天使が菓子に手を伸ばした。
恨めしそうにする地母神を無視して、ノクトは無言でクッキーを口にする。彼に籠を向けられたアンブロシアも、一枚を手に取った。
……彼女の菓子は、アンジェリカかニゲラの手作りと同じ製法で作られている。屋敷の面々が懐かしみ、惚れ込むのも無理のない話だった。
かといって、話題を焼き菓子にさらわせるつもりはない。サラカエルは籠には一瞥もくれず、譲らないとばかりに双眸を細めてヘラを見る。

「うう、むむ……くそっ、おチビ。お前のせいで私の焼き菓子がノクトに盗られたぞ! どうしてくれるんだ!」
「くそとか仰らないで下さい。どうもしません、するつもりもありません。そんな事より、質問に答えては頂けませんか、ヘラ様」

「仕事前」を彷彿とさせる青年の冷えた目に、アンブロシアは菓子を摘まむのを止め、ノクトは残り僅かになっていた珈琲を無理に啜った。
迎え撃つヘラは、諦めたか、或いは呆れたように大げさに嘆息する。唇を尖らせた直後、地母神はのろりと緩慢な動きで片足を組んだ。

「お前こそ、話せと言うわりに説明が足りないんじゃないのか。何が知りたい? 私がお前達に黙っている事など、山のようにあるんだぞ」

知っているだろう、そう言わんばかりの物言いに、サラカエルはなお目を細める。どちらかといえば、畏怖か怯みを含んだ表情だった。

「……では、恐れながら申し上げます。黒羽根と白羽根の鷲馬の事ですよ。何故、アスターから引き離すような措置を?」
「驚いたな。お前にも『親子愛』を汲んでやる気概があったのか」
「よして下さいよ、そんなもの何の腹の足しにもならないじゃないですか。僕がお伺いしたいのは、あまりにも間が良すぎるという話です」

獣達に情があるわけではない、直球で言い放つ殺戮の目は一見は冷ややかだ。しかし、彼が非道に徹する男ではない事をヘラは知っている。
ニゼルがこの場にいれば「また照れ隠ししちゃって!」とでも言いそうだな――そう思えば自然と口角は上がるばかりだった。

「間、か。そうだな、狙っていたからな。知っているか、お前達。アスターはな、天上界においては『神の匣』と呼ばれているらしいぞ」

とうに空になったカップの縁をそっとなぞると、反射なのか、サラカエルがぴくりと肩を跳ね上げさせる。
紅茶が欲しい、という遠回しな催促だが、青年は即座にそれを把握し、茶を淹れるか話を聞き続けるかで逡巡したようだった。
視線を上げれば、重苦しい嘆息が降ってくる。用意されるまでの間、居合わせた面々は物言いたげな気配を放ちながら黙してこれを待った。
中でも、ノクトの顔は青くなったり、白くなったりと忙しなく変化する。受け取った紅茶に口をつけるまで、ヘラは彼に何も言わずにいた。

「……材料は知恵の樹を筆頭に、ツナギとかいう魔女、他は多くの堕天使、魔獣。そして最終精製には真珠と珊瑚の生殖器を要していた」

サラカエルがむっとした顔を向けてくる。立ったままの彼にも着席するよう促して、女神はまっすぐに喰天使へ視線を投げた。

「遺伝子構造はお前……ルファエルとアンジェリカに基づくらしいがな。神の匣、か。また、ずいぶんと大仰な二つ名がついたものだ」
「おい……なんでったって、そこで俺に話を振るんだよ」
「うん? ただの独り言だ、気にするな」

彼女に悪びれた様子はない。サラカエルが窘めるまで、ヘラはにやにやと意味深な笑みを浮かべたまま、かつての部下の一人を眺めている。

「ところでお前達、覚えているか。珊瑚が破壊し尽くした塔の事だ。もう焼け落ちてしまったが、アスターはあそこで造られていたらしい」
「……らしい? そうですか。なんでしたら、製造元のあの間抜けを吊し上げましょうか」
「おいー、お前はそんなにニゼルが好きか、構い倒さないと死ぬのか。私は構わんが、ウリエルがまた発狂するからほどほどにしておけ」

ウリエルが発狂、と聞いたアンブロシアが「ああ」と何かを思い出したように宙を仰ぐ。彼女の気付きについては誰も口を挟まなかった。

「あの塔が焼けた時、計ったように愚弟が来ただろう。ラファエルがいたから適当にあしらって済ませたが、間が良すぎるとは思わないか」

鳥羽藍夜の厄介な気質についての追想は、ヘラの声で次第に元の話題に戻されていく。
誰もがあの不可思議な研究施設を思い浮かべたであろう頃合いを見計らって、ヘラは紅茶を啜りながら誰にともなく頷いた。

「恐らく、神の匣の情報は早いうちから天上でも回されていたんだ。問題は本体がどこにあるのか、再構築の術式が不明だった事くらいか」
「……ヘラ様。それは、ゼウス様達も、アスターちゃんを探していたって事なんでしょうか」
「鋭いな、アクラシエル。愚弟らは私の行方だけでなく、ラグエルや知恵の樹についても血眼になっていただろうからな」
「アスターを、というより、知恵の樹を、ですね。アスター自身が拒否しても、当然無視するのでしょうが……彼の方のお考えそうな事だ」
「知恵の樹の代わりとなるものが確立されていないからな。アスターを引っ張り出す為なら、そう……その肉親達でさえ利用するだろう」

インディコールの肉体を使い捨ててでも、大神自らの足と伝手を使ってでも、倫理に反してでも探し出さなければならないもの。
かつては「楽園」と謳われていた大地のあらゆるを取り戻す為の、秘密裏の戦い……心底うんざりだ、とヘラは気品の欠片もなく鼻で笑う。

「巡り巡って、この屋敷にそれらの要素は全て集まった。しかし、私達とて感情を持った生き物に過ぎん。一つ一つを切り崩す事は容易い。
 ある一つを欠けば、芋蔓式にその弱点となる個体を引き出される事だろう。そうなる前に、まず耐久力の落ちていた真珠を隔離したんだ」

女神の嘲るような笑みに相反するように、居合わせた面々は苦い顔で押し黙ってしまった。
対天使、肉親、友人、かつての想い人。確かに、自分達が傍に置き、護ろうとする相手こそ、己が弱さになり得ると納得出来てしまうのだ。
それを弱点と見定められてしまえば、常のように余裕ぶる事も出来ない。眼前の美しい女が正にそれである殺戮が、重苦しい息を吐く。

「隔離、いえ、ある意味最も危険で、最も安全な場所にあの獣達を離してやったと……そこは理解しました。ヘラ様」
「うむ? そうかー、流石私だ、ぷれぜんとやらも完璧だな!」
「ええ。こうしてまた、貴女様ばかりが大神達に睨まれる要因が一つ増えたという事も、ですけどね」

ぴたりと、それこそ停止音でも立てるような格好でヘラは硬直した。サラカエルは苦い顔を通り越し、苦痛という苦痛に表情を歪めている。

「『ヘラちゃんのカワイイ我が儘』、でしたっけ。ヘラ様、あなたはいつでもそうやって自ら悪女になる事で、僕達を守ってきましたよね」

苦しげな顔に、じわじわと悲哀が滲んだ。普段の涼しげな顔で嫌みを吐く彼には、考えられないような――心からの、本心の吐露である。
……ヘラは、はじめは殺戮の指摘を流そうとした。なんの事だ、となんでもない事のように受け流してしまえばそれで済んだ話だったのだ。
しかし、女神の口元の笑みは次第に真一文字に結ばれていく。彼女にとって、サラカエルは弱点となり得る男であるのに違いなかった。

「神々に対抗出来るのは、確かにあなたくらいのものです。僕達は高位天使だ、どう足掻いても、神に抵抗する術も権利もないですからね。
 逆に言えば、あなたが欠ければそれだけでこの屋敷は機能の殆んどを停止するでしょう。喰天使を勧誘した理由は、そこなんでしょうね」

普段、銘の許す限り残虐な仕事に明け暮れ、そのついでのようにヘラを護っているのだと吹聴していた殺戮の天使。
彼は心情を吐き出すと同時に、最愛の女の前で「自分は弱いのだ」と認めて見せる。一度大きく息を吐き、駄目押しするように首を振った。

「すみません。僕達が……いや、俺が……不甲斐ないばっかりに」

アンブロシアは目を見開き、ノクトは片眉を上げる。口調もさる事ながら、サラカエルがヘラに謝罪する事は今まで一度もなかったからだ。
心底悔しいとばかりに歯噛みし、まるで頭を下げるかのように顔を俯かせた殺戮を、ヘラは黙ってじっと見つめていた。
口元にそっと孔雀羽根の扇子が運ばれていき、彼女の真の表情は隠される。刹那、ふ、と柔らかな嘆息が漏らされ、女神の顔は綻んでいた。
花が咲くようにヘラが笑う。そのささやかな心情の表明は、扇子が確かに覆い隠した。それでも口元だけは、嬉しい、愛しいと如実に語る。

「なんだー、ついに私が気遣いの出来るイイオンナだと理解したのか。遅すぎるぞ、おチビ!」

次の瞬間、彼女が口にしたのは常と変わらぬ挑発めいたものだった。愕然とした顔でこちらを見るサラカエルに、からりとした笑みを返す。
……世界のあらゆるものから悪女と言われ、遠ざけられようとも。部下達に、自由で身勝手極まりない女神だと誤解されようとも。
それでも彼女は手元に置くものを守る為だけに、これまでも、これからも、変わらず自ら道化の仮面を被るのだ。
孤独な戦いではあった。理解してくれる者など不要だと、そう断じていた……しかし、眼前の天使はようやくそれに気付いてくれたのだ。
それでいて、彼は自らを弱いと認めた上で変わらぬ忠誠を誓ってくれる。自分という、ひとりの女の為だけに……こんなに嬉しい事はない。

「ふむ、そうだな。愚弟達の身勝手さを話していたらムカついてきたぞ。アクラシエル、焼き菓子をもりっと追加してくれないか」
「えっ? え、あの、ヘラ様……」
「なんだー、ニゼル達は戻ってこないし、今は真珠もシリウスも不在なんだぞ。私はおやつにしたいのに、駄目なのか!」

ばたばたとテーブルの下で足をばたつかせれば、桜髪の天使は慌てたように、弾かれたように台所に走っていった。
ついでとばかりにわざとらしい視線をノクトに投げれば、白金髪の男は何故か心底うんざりしたような顔で女神をじとりと睨み返す。

「……コーヒーだろ。分かった、分かった。淹れてきてやるから、少し待ってろ」
「うむ? なんだー、私はまだ何も言ってないぞ」
「言ってんだろーが! 悪かったな、お邪魔虫で! 分かったから、好きなだけ殺戮とイチャついてりゃいいじゃねーか!」

吐き捨てるようにまくし立てると、喰天使はどかどかと乱暴な足取りでアンブロシアの後に続いていった。
ぽかんと大口を開けて固まっていたサラカエルは、直後、鞭打たれたようにびくりと全身を弾ませてヘラに向き直る。
ノクトの物言いにぱちくりと大きく目を瞬かせていたヘラは、振り向いた殺戮のあんまりな表情を見て、今度は隠さずぶはっと噴き出した。

「お前……っはは、凄い顔をしているぞ、サラカエル!」
「……誰のせいだと思ってるんですか」
「うん? 私のせいか、そうなのかー……そうだな、そうかもしれないな。私が美しく有能すぎるせいだから、仕方ないな!」

「これまでも、これからも、盾となり悪となりお前達の全てを守ろう」。口には出さず、音にも乗せず、女神は表情を綻ばせた。
迎え撃つ殺戮の天使は、もう一度びくりと体を跳ね上げさせる。次第に赤みを増していく顔面を隠すように、彼は苦し紛れに顔を逸らした。
やっと素直な一面を見せてくれたかと思いきや――決意を新たにする一方で、ヘラはこの愛しい男の不器用さに失笑するしかない。

「……うむ? ああ、戻ってきたか」

そのときだ。わいわいと賑やかな談笑が廊下から漏れ聞こえ、声色からしてニゼル達が戻ってきた事を二人は知る。
女神は僅かに火照った頬を冷やすように扇子を動かしつつ、廊下に続く扉に目を向けたが、そうして背後に回した天使の小声に耳を疑った。

「……まだ、戻ってこなくてもよかったのに」

恨みがましい、しかし本当にそう思っている、とばかりに小さく、低く漏らされたサラカエルの失言。
席を立ち、その場で小躍りしてしまいたくなるのを堪えるように、ヘラは再び口元に孔雀羽根をそっと寄せる。

(まいったな。これで私に『気付かれていない』と思っているのだから驚きだぞ、サラカエル)

扇子で隠しておいて正解だった。今や、唇はにやにやと淑女らしからぬ形に崩れきってしまっている。
同時に、退室していた面々が戻ってきた。気を取り直すように咳払いを一つして、地母神は真っ先に入室してきたニゼルと目を見合わせる。
……神々との戦いなど、昔から続いていた事なのだ。不敵に笑ったヘラを見て、空色髪の天使はへらりと愛想笑いを返して見せた。





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 UP:20/08/11