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楽園のおはなし (3-26) BACK / TOP / NEXT |
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「よし。とりあえず休憩しよっか、吊されっぱなしで痛かっただろうしねー」 親友の物言いたげな顔は、この際見なかった事にした。背後の青年を見れば、審判官が動揺してしまうのも無理はないと想像出来たからだ。 ニゼルはついてきて、と口にして、親友と共用する部屋へ足を向ける。ふと視界の端に暗色がちらつき、誘われるように隣に目を落とした。 「あれっ、アスター? どうしたの」 「ちょっと野暮用なんですの」 イスラーフィルに同じく、いつの間にかアスターがニゼルの真横に立っている。ついてくる気なのかと問えば、少女は小さく頷いた。 「ま、いっか……えっと、ここはヘラの邸だけど、俺達天使も楽に過ごせるように工夫されてるんだ。イスラーフィルも気に入ると思うよ」 「! おれ、たち?」 「うん、そう。俺もアンも、もちろん藍夜だっ……て?」 歩みが止まる気配がある。直前の青年の声色にどことなく不穏な影を感じて、ニゼルは何事だろうと振り返った。 イスラーフィルは、立ち止まったまま微動だにしない。視線を彷徨わせ、口元は片手で覆い隠し……不思議と、彼の顔面は赤く染まっていた。 恋する乙女もかくや、と言わんばかりの赤面ぶりだ。胸が苦しい、そう言うように口から外した手が自身の胸ぐらを押さえ込む。 ニゼルとアスターは固まった。変態がいるわ、ぼそりと素で呟いた少女の口を、慌てて天使の娘が塞ぎにかかる。 そういえば暁橙ってブラコンだったっけ――こちらに向けられた潤む双眸と、端をひくひくと細かく痙攣させる口元に若干の恐怖が湧いた。 「えっと、あー……あき、イ、イスラーフィル?」 「! っひぁい!!」 はい、仕切り直しー。自分にそう言い聞かせながら、努めて冷静な声で呼び掛ける。我に返った青年は、明らかに動揺した様子で固まった。 「とりあえず、休憩。ほら、こっちだから」 「うぁ、は、はい。宜しくお願いします、ラグエル様」 「……ラグエル様とか、とってつけた風ね」 「アスター? ここは大人になろうねー? はーい、しーっ」 ぞろぞろと連れ立って私室に着くと同時。扉を開けて入るよう促せば、イスラーフィルはいきなり自らずんずんと部屋の奥へ進んでいく。 止める間もない! 審判官が広げる薬品の材料や貴重な本の山を崩させまいと、ニゼルはアスターの入室も待たずに後を追った。 しかし、その心配は杞憂に終わる。薬草や硝子瓶には目もくれず、イスラーフィルの歩みはニゼル達が毎日安息を得る家具の前で停止した。 「……」 「えっと、イスラーフィル? それ、俺達のベッド……」 「……ウリエル様の、においがする」 何が起きたか分からない。ニゼルとアスターは聞き返す事も忘れて硬直する。イスラーフィルは、直立したままいきなり前方に倒れ込んだ。 ばふっと身投げに合わせて羽毛布団が跳ね、長身を優しく受け止める。その後、奏でる天使は蠢くようにしてベッドの上を這いずった。 ……確かに、毎日アンブロシアが替えてくれる布団は快眠を約束する上物だ。しかしイスラーフィルの目的は仮眠をとる事ではないらしい。 ひいっ、と横からアスターの悲鳴が漏れ聞こえ、ニゼルは釣られるように首を傾ぐ。その頃青年は、既に一つの枕に頭をめり込ませていた。 「あ〜……懐かしー。ローズマリー……このにおい、やっぱり『兄ィ』のだー」 「へっ、変態よ……変態がいるわ」 「うん、あのさ、アスター? 『素』が出ちゃってるよ?」 「出ちゃったのよ……いいえ、ここは出るところでしょうっ、わたしには直接関係のない事だけど!」 「……うーん、」 すりすりぐりぐり、と軽快な擬音が鳴り出しそうな勢いで、イスラーフィルはウリエル――元、鳥羽藍夜の枕に顔を埋めている。 言動からして「自分は鳥羽暁橙です」と白状しているようなものだが、いいのだろうか。ニゼルは残念なものを見る目で青年を見つめた。 (暁橙って、藍夜の事大好きだったからなあ) 彼がかつてイスラーフィルであったのなら、なおさらだ。最後の審判を補佐するという使命の関係上、双方には切っても切れない縁がある。 更に自分がニゲラであった頃、ヘラの邸を訪ねた彼が今と同じような熱視線をウリエルに向けていたのを、何度か目撃した事もあった。 ブラコン、至上主義、敬愛、畏怖。一言では言い表せないような関係性は、審判官と殺戮といった対天使にもない強い繋がりを感じさせる。 「こっちの話聞いてないね、これ。もー、仕方ないなあ」 しかしこのまま放置しておく事は出来ない。隣の堕天使モドキからは、白い目を通り越して変質者を見る眼差しが放たれているのだ。 「うん。えっとー。『暁橙』?」 「ちょっと、ニジママ様っ。そんな急に……」 「はい! 何っ、ニジーさん!」 パブロフの犬もかくや。オフィキリナス時代に馴染みのある常のトーンで声を掛ければ、条件反射の如く明朗な応答が返された。 応えた直後、イスラーフィルは顔から血の気を引かせてこちらに向き直る。油の切れたブリキの玩具のように、妙にぎこちない動きだった。 「うん。久しぶりだねー、『暁橙』。ちょっとこっち来て、おはなししよっか」 にっこりと笑いかければ、長身の天使は盛大に震え上がる。手招きを一つして、ニゼルはアスターを促しながら寝台に背を向けた。 ……ぶちりと耳障りな音を聞いた後、体中から熱と寒気が同時に沸き立つ感覚が走り、自意識はあっという間に暗がりへ引きずり込まれる。 思えばあれは、「死」そのものだったのだ。恐ろしいとも、悲しいとも感じるより早く、気がつけば一人、見知らぬ荒野に立っていた。 「――自分がイスラーフィルなんだって気がついて、はっきり確信したのは、そのときだったなあ。前後の事はあんまり覚えてないや」 椅子を勧めてみるも、やんわりと流される。奏でる天使は、先の寝台の縁に浅く腰掛けながらニゼルの質問に回答した。 「前後……じゃあ、人間として生まれてガブリエルから告知を受けて、っていうのはなかったんだね? 生まれ変わったら天使様、かあ」 「ニジーさんだって天使でしょ? うん、そうだねー。告知ってそういうものらしいし、ガブリエル様はお忙しい方だから」 「お忙しい、の割にフィルおじさまの前に出現したんですの? ガブおばさまは他に、なんて?」 「ガブおばさま」。アスターのあだなのゴロの悪さに失笑してニゼルは首を傾げる。そもそもアスターは暁橙に何の用事があったのだろう。 イスラーフィル改め、暁橙は少女の問いにうーん、と唸った。答えに困窮したというよりは、話すほどの中身もないという反応に見える。 「ガブリエル様って、迷い子の導き手としての役目も負うんだよね。ラグエル様もそう、なんだけど」 ちらっと視線を投げて寄越され、「俺ってラグエルの自覚ないもんなあ」と答える代わりにへらりと笑い返した。 ニゼルの返しをある程度予想していたのか、暁橙は困ったように眉尻を下げて苦笑する。 「導き手? 迷子の取り扱いにでも長けてますの?」 「オイラがどこに向かったらいいか、教えて下さったんだよ。って言っても、その行き先でミカエル様率いる部隊にとっ捕まったんだけど」 「ふぅん……そう。ならどうして、フィルおじさまは捕らわれの身になってしまったんですの?」 「それはオイラにも分かんないよ。でも、もしウリエル様を天上界に連れ戻したかったんなら、人質としての人選は的外れじゃないと思う」 アスターを見つめ返す青年の目は、とても優しい。その視線は少女の姿を飛び越え、どこか遠い場所を追想しているようにも見えた。 「鳥羽暁橙」。親友の弟にして唯一の家族。今でもはっきりと覚えている。彼が命を落としたとき、藍夜の取り乱し方は尋常ではなかった。 自分だってそうだ。暁橙と再会出来た事は、心の底から嬉しいと感じている。 だからこそ、ニゼルには彼と、彼を導いたというガブリエルの言動に疑問が沸くのだ。暁橙、馴染み深い名を呼べば満面の笑みが返された。 「ねえ、イスラーフィルには鳥羽暁橙の記憶って必要なものだったのかな。暁橙が忘れた『前後』って結構大事な部分だったんじゃない?」 「え、うーん? そうなのかな。天使の頃の記憶もちゃんとあるし、使命的には問題ないと思うけど?」 「使命的には、ね。俺が言いたいのはそういう事じゃなくてさ」 ニゼルは少しの間だけ口を閉じる。忙しない考えを巡らせるのは一瞬だ。 いくら知恵の樹を任されている身とはいえ、自分も輪廻転生の仕様の全てを把握し切れているわけではない。 「なんだか、急に色んなものがこの屋敷に集まってきたような気がするんだよね」 神妙な面持ちを意識して吐き出せば、暁橙とアスターは互いに顔を見合わせていた。この二人、言うほど相性は悪くないのかもしれない。 「考えてみてよ、少なくとも『最後の審判官』と、古い世代になるけど『知恵の樹の管理人』が揃ってる。それを束ねるのは地母神ヘラだ。 護衛のサラカエルは腕が立つし、ノクトの買収はこれから済ませるとして。ここの住民だけで、天と地をひっくり返せるかもしれないよ」 「……ん? え、ノクトって。あのノクト?」 「フィルおじさま、今はそこは気にするところじゃないですの」 「え、あ……うん。そっかな?」 「ごめんねー、暁橙。でもそうだよ、ちょっとこの状況、おかしいよ。アスターまで加わって、まるで何かを成す為に集められたみたいだ」 脳裏にラグナロクの五文字が過ぎる。以前の天上界における神々の権限ないし至宝のうち二つが、まるまる地上にあるという現状。 自分がもし、大神やミカエル側の立場にある存在だったとしたら、これほど頭痛の種となるものもないだろう。 ヘラの気まぐれはもちろんの事、彼女に影響を受けてか藍夜やサラカエル、最近ではアンブロシアまでもが徐々に性格を歪ませつつあった。 ……目に見えない何かに誘導されているような気がしてならない。これまでも似たような経験はあったが、ここまでではなかった筈だ。 「ヘラママ様が、実は裏で何か企んでいる……とか?」 「ないなー。断言してもいいよ。もしその気なら、琥珀達っていう大事な『足』を簡単に手放さないと思う」 「なら純粋に、ヘラママ様の人望故、って可能性もありますの。それにヘラママ様の部下の多くは、天上側を嫌悪する者が殆んどでしたの」 「……うーん。まあねー。考え過ぎかな?」 だが、これは直感だ。親友が保証する、自分の特技、嫌な予感、虫の知らせ。ニゼルは胸に籠もるもやもやを探るかのように顔をしかめる。 アスターが会話に乗ってくれたが、根拠もない漠然とした推測の域を出ない予想の前では、気構えの一つさえ浮かんでこない。 やきもきしたのか、少女はさっと身を乗り出した。諦めたようにクッキーを食べ始めた奏でる天使は、先ほどからしきりに首を傾げている。 「色んな事があったから、ニジママ様もお疲れなのかもしれないですのう。さ、チョコレートでも食べて落ち着きますの!」 「いやあの、そのチョコ用意したの、俺なんだけどね? っていうか、疲れさせてる奴の中にはアスターも含まれてるんだからね?」 「……ん? あれっ、ちょっと待って、ニジーさん。ここにコハ達もいるの? うわあ、懐かしいなあ……元気にしてたかなあ……」 勧められるまま、黒曜石の平皿からつまみ上げられた一粒ショコラを口に含んだ。既にアスターは三粒目に手を伸ばしている。 独り言を繰り返す暁橙の視線に気付き、ニゼルは苦笑した。そういえば彼は、顔馴染みの鷲獅子が今どうなっているのかさえ知らないのだ。 「ねえ、暁橙。琥珀、結婚したんだよ。式はまだだけどね、今、二児のお母さんやってるんだ」 「……えっ!?」 「ついでに言うと、アスターはその娘さん達の更に娘さん。つまり、琥珀にとってのお孫さんなんだよ」 「えっ!? ええ!? ちょっ、い、いつの間にーっ!?」 軽く教えてみれば、もっと詳しく、と詰め寄られる。ニゼルは笑い返しながら、同時に自分の心がすっと冷えていく感覚を感じていた。 (後手。そう、こういうのを後手っていうのかもしれないなあ。けど、アスターの言う通り、何も分からないのに用心のしようもないし) アスターに会うまで、自分は知恵の樹の事さえまともに思い出す事が出来なかった。それ自体に罪はないのだと、件の少女は口にしている。 ならば、この焦燥に似た疑念もいつか晴らされる日が来るのだろうか。無邪気そのものである明るい笑顔に、もう一度目を向けてみた。 暁橙は、イスラーフィルは、やはり明朗に笑い返してくれる。その瞬間、何故かニゼルは奇妙な感覚に囚われて目を見開いていた。 「やっと、ここに帰ってこられた」。声に出さずに口だけを動かした自分を、アスター達は不思議そうな顔で覗き込んでくる。 「ニジママ様、どうしたんですの?」 「ニジーさん? ……ま、まさか兄ィとの良き思い出を思い出して!?」 「……えっ。あ、あれっ?」 心臓が苦しい、呼吸が落ち着かない。大きく口を開け、ようやっとまともに息を吸った瞬間、ニゼルは自分が破顔している事に気がついた。 体の奥底から、沸き立つように止めどなく喜びが溢れてくる。胸は高鳴り、それは歓喜と表現しても差し支えがないほど心を躍らせた。 「ふ、ふへへ。えへへー。いや、よく分かんないんだけどなんか嬉しいなーって」 幸せだ、自分は今、とても幸せなのだ。目尻に浮いた雫を拭って、ニゼルは感情の赴くままに満面の笑みを暁橙に向ける。 一瞬、アスターは訝しむように視線を歪めた。しかし、何か言い返そうとした彼女の口から音が走らされる事はない。 「に、ニジーさん……そんなにオイラの事を……ううっ」 「や、この場合、フィルおじさまは無関係って可能性もありますのう」 感極まったか、暁橙はおんおんと泣き始めている。ぽかんとするニゼルを余所に、アスターの冷静な指摘が毒々しい響きを伴って放たれた。 ふてくされ気味に反論する青年と、なおも食らいつく少女。ニゼルは、その光景すらも慈愛を込めた柔い眼差しで見つめてしまう。 幸せだなあと、しみじみと感じていたのだ……そうして、彼女は大事な事を思い出す必要性を忘れてしまった。 二人の応酬を楽しみ、不吉な予感には見て見ぬふりをして、正体不明の喜びにどっぷりと浸っていた為に、本来の目的は空気中に霧散する。 「その忘却された用事の進捗を求め」、この部屋に向かって廊下を進んでくる天使の存在など、綺麗さっぱりと頭から抜け落ちていた。 『――、』 突如、扉一枚越しにぼそぼそとした声が注がれる。遠慮がちな小さな呼びかけにはたと顔を上げ、ニゼルは入り口に歩み寄った。 「えっと、どなた?」 「――僕さ。入るよ、ニゼル」 喜びから一転、ニゼルはさっと顔を青ざめさせる。慣れた手つきで扉を開け、部屋に入ってきたのは、もう一人の部屋の主である審判官だ。 眉間に皺を寄せたまま、藍夜はすぐにイスラーフィルの元へ向かった。正面に立たれ、思わず見上げてしまった体で青年は固まっている。 「早急に確認しておきたい案件でね。イスラーフィル、君には生前の、いや、鳥羽暁橙の記憶は残されているのかい」 まくし立てるような声色に、ニゼルは慌てて来た道を引き返した。問われた側の暁橙は顔を赤くし、青くし、忙しなく視線を泳がせている。 「どうなのだい。僕にとっては、とても大事な話なのだよ」 「え、えっと、えっとぉ……そ、そこまで気にする事でもないと思いますよ? ウリエル様」 しどろもどろに答える奏でる天使を見下ろしたまま、審判官は苛立ったように眉間の皺を深くした。 余程の形相だったのか、アスターが無言でニゼルの横に寄ってくる。怪訝な顔で見上げてくる少女に、ニゼルはへらりと愛想笑いを返した。 ……鳥羽藍夜は、転生前の経験から、身内、家族に異常なまでの独占欲を有する男だ。 彼は、自分に対してだけ挙動不審なイスラーフィルに、弟の影を見たのだろう。その予想は当たっているのだが、問い質し方はえげつない。 これでは尋問か取り調べだ。一触即発の緊迫した空気を打破するべく、ニゼルはアスターに一瞥を投げてから歩き出した。 「藍夜。あーいや! もうっ、ほら、ちょっと落ち着いて!」 「……ニゼル。しかしね、」 「そんな言い方したら、答えられるものも答えられなくなっちゃうでしょ? イスラーフィルだって封印から解かれたばっかりなんだから」 ちら、と物言いたげな眼差しが寝台に降る。イスラーフィルは、膝の上に置いた拳を開いたり、また閉じ直したりしていた。 「……イスラーフィル」 「うひぇ!? はっ、はい! ウリエル様っ!!」 飛び上がりそうな勢いで、青年は顔を上げる。ぶつかり合う、異様に冷えた二色の瞳と、当惑と恐れに彩られた黒色の瞳。 かつては親愛、家族愛に満ちていたそれらが、長い時間を経てすれ違い、情を食い違えてしまっているようにニゼルの目に映った。 誰も何も言い出さず、重苦しい沈黙ばかりが流れる。ごくり、とイスラーフィルが唾を飲む音が大きく響いた。先に動いたのは藍夜の方だ。 「単刀直入に聞こう。君は僕の事が疎ましいかい、イスラーフィル」 「はいっ? えっ、何ですかそれ……」 「だから、君は僕を……審判官ウリエルならびに鳥羽藍夜を疎んで……遠巻きにしたいと望んでいるのではないか、と聞いているのだよ」 この親友様は、一体何を言っているのだろう。ニゼルは信じられない、とばかりに目を見開いて彼の背中を見つめていた。 同じように、イスラーフィルも限界まで双眸を広げてウリエルを見上げている。次第に彼の黒瞳が、じわじわと潤んでいくのが見えた。 「な、なんっ……なんで、そんな事を?」 「……それは……君の態度が、そう言って……いや、僕が個人的に強くそう思うのだよ。違うのかい」 「……オイラの、態度……」 一瞬、藍夜は怯んだように言葉を詰まらせる。青年の反応は明らかに詰られ、責め立てられてしまった者のそれだ。 震える声が、静かな部屋により冷ややかな緊張を張ろうとしていた。互いの気持ちが嫌と言うほど理解出来る為、ニゼルも口出しを躊躇う。 暁橙はいよいよ、両目からぼたぼたと大粒の涙を滴らせた。ニゼルは親友を咎める声を漏らしかけ、瞬時に自らの手で口を覆う。 背中しか見えないが、今、藍夜もまた慌てふためいていた。棒立ちになっている間、下ろした腕が微かに弾けるように動くのがその証拠だ。 「ひっ、ぐ……おっ、オイラは……うっ、ウリエル様を疎んだ事なんて……っい、一度もっ!」 誰にも慰められないうち、イスラーフィルはしゃくりあげながら心情を吐露し始める。乱暴に手を動かし、懸命に涙を拭こうと繰り返した。 藍夜はそれを宥めようとするが、少しでも動けばすぐに青年は呼吸を乱し、体を縮こまらせる。どうする事も出来ず、立ち尽くすよりない。 ……イスラーフィルと言えば「奏でる」とは別に「落涙」とも呼ばれていた筈だ――この場に似つかわしくない追想に、慌てて頭を振った。 「ほら。暁橙」 「うんっ……ありがど、にじーざん」 ニゼルは咄嗟に、スカートのポケットをまさぐりハンカチを彼の前に差し出した。素直に受け取られたそれは、ただ握り込められてしまう。 「だって!! 昔からウリエル様はひとりぼっちで……ただ審判を下すときだけ神様に呼びつけられて、あっという間に死んでいくから…… オイラは『奏でる天使』だから、なんとかしてあげたかった。誰にも頼らず、頼らせずで、一人で歯を噛んでいる姿しか知らないから!」 「僕にはサラカエルがいたと思うがね」、聞き取れないほどの小さな声が言い訳を返すのを、ニゼルは耳にした。 隣に立ち、そっと声の主に視線を送る。親友は、苦いものを噛んだような顔をしてこちらを見下ろした。 「でも、ヘラ様のお屋敷でお見かけした時代は……ウリエル様は幸せそうだった。ニゲラちゃんが一緒にいて、他の仲間も出来ていたから。 オイラが鳥羽暁橙になったときも、ニジーさんが傍にいて。それって、言い換えればいつもニゲラちゃんと一緒だ、って意味だから……」 「イスラーフィル。それは……君は、ニゼルが今どういう身であるのか知っているのかい」 「ガブリエル様から、少し聞いて……でも、変わらないですよ。ニジーさんはニジーさんだ、ニゲラちゃんだってそうですよ」 「……ん? ねえ、暁橙。俺が昔とおんなじニゼルだっていうなら、藍夜も藍夜、でいいんじゃないの?」 しんとした空気が更に凍てつく。思わず口を挟んでしまったニゼルは、二人が幽霊でも見たような目でこちらを見るのを真顔で見返した。 「暁橙にとっての俺が変わらないのに、藍夜は変わっちゃうの? 確かに器や身長は変わったかもしれないけど……おかしくない?」 「……ニゼル、君ね、」 「そっ、そうだよ、ニジーさん! オイラにとってのウリエル様はっ、」 「まだるっこしいなー。こうやってまた会えて、しかも記憶のオプション付きだよ? 何が問題なの? また兄ィって呼べばいいじゃない」 まだるっこしい、むしろ二人とも面倒くさくなってきた……というのが、ニゼルの率直な感想である。 どちらもお互いを慈しみ合い、今もなお必要としているのに、何故ここまで遠回りをしなければならないのか。 寿命を有する生物から非難されるかもしれないが、自分達は天使だ。転生の概念が定められている以上、ある程度は融通を利かせなければ。 「難しい事じゃないでしょ? 暁橙、兄ィ。ほら、呼び方を元に戻すだけだよ?」 「ニゼル、しかしね……僕達にはこれまでの因果や繋がりというものがあるのだよ。そう簡単な話では、」 「なんで? 藍夜も暁橙も何が不服なの? 大事な事ほど口にしないといけないって、アンジェリカだって身を以って教えてくれてたのに」 ここで喜劇の天使の名を出したのは、卑怯な行いだったかもしれない。 その名を耳にした瞬間、アスターがぎりっと歯噛みした音が聞こえた。暁橙は暁橙で、困惑と期待に目を白黒させている。 二人には構わず、ニゼルは首をこてんと傾げて、最も望ましい答えを持つであろうひとを見上げた。直後、何故か彼は顔を真っ赤に染める。 「ニゼル! そっ、そんなに可愛い真似をしてもっ、こればかりは聞けないというものだよ!!」 「えっ、可愛い?」 妙な事を叫ばれた。おかしい、そんな話をしていただろうか。もう一度首を傾げたところで、すかさずとばかりに後方から声が飛んでくる。 「……藍夜パパ様、テンパりすぎですのー。若葉マークの、初心者さんなんですの?」 「うっ、くっ……お、覚えていたまえよ、アスター」 「えっ!? ま、まさかこれはオンリーユーの予感? ラブなの!? もしかしてもしかしなくてもウリエル様はニジーさんの事がッ――」 ――落雷! お約束の如く漆黒の雷が駆けるや否や、イスラーフィルの頭髪は羽根飾りごと、見事にちりちりと縮れてしまった。 親友は擬似雷霆を手にしたまま、肩で息を吐いている。これは馴染みの光景だ――彼の狼狽ぶりといい、ニゼルは噴き出してしまっていた。 「ぶはっ、あははは! ちょっと暁橙! 久々だね、その髪!」 「えっ? ……ああっ、頭が焦げた!? つーかアフロだ! 酷いよ、ウリエル様……」 「イスラーフィル……誰のせいだと、それにニゼル! 君はっ、僕はこんなにも真剣に話をしているというのに!!」 「分かってるよ、藍夜。ごめんごめん! ……ね? せっかく会えたのに身分や立場を気にして離れ離れになったら、本末転倒でしょ?」 昔からそうだ。鳥羽兄弟の揉め事は、ある程度の落ち着きを見せたところでアルジル家の長男が間に割り込み、難なく収拾をつけてきた。 宥めるように肩をぽんと軽く叩けば、審判官は寝台の上のかつての弟分、または弟でもあった青年に、潤んだ眼差しを向けている。 奏でる天使も同様だった。どこか吹っ切れたような表情が藍夜を見上げ、見慣れた鳥羽暁橙としての笑みが向けられている。 「……イ……いや、『暁橙』。僕は、君に話したい事がたくさんあるんだ。聞いてはくれないかい」 「はい……俺でよければ」 室内に穏やかな空気が戻ってきた。よかった、これで一件落着だ――兄弟水入らずだよね、とニゼルは二人にさりげなく背を向ける。 アスターを促し、おやつの続きでもしに行こっか、と囁きかけた。途端に頬を赤く染める少女に生暖かい視線を送りつつ、扉に手をかける。 「その、こちらこそ、お会い出来て嬉しいです。たくさんお話聞かせて下さい……これから宜しくお願いします、『ウリエル様』」 ……そこで一言でも「兄ィ」と言えていたなら、おはなしは大団円だっただろうに。 そっと振り向いたニゼルは、立ち尽くしたままの藍夜があからさまに肩を落としている様を見て苦笑した。 長く失われていた場所の溝を埋めるのは、容易ではない。互いに不器用なのだからなおさらだ。しかし、彼らには時間がたくさんある。 ニゼルはうきうきとした気持ちを噛みしめた。また毎日の楽しみが一つ増えたかもね、と、否応なしに笑みを零す。 |
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