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楽園のおはなし (3-25)

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「……その目で見下ろすの、やめて頂戴」

打って変わり、突然響いた大人びた口調の反抗にニゼルは目を瞬かせた。やめろって言われても――そう口に出しかけたところで唇を結ぶ。
眼前、アスターは俯き拳を握りしめていた。今にも泣き出しそうに見えるが、意地なのかプライドなのか、涙が落とされる気配はない。

「アスター?」
「どうして、アナタは……」
「うん?」
「……いいえ。やっぱり、なんでもないわ」

「どうしてお前がアンジェリカでいてくれなかったのか」。恐らく続けられる筈だったその一言を予想して、ニゼルは小さく嘆息する。
眼前、アスターは先ほど親友がやったように片手をくるりと宙で回した。直後、彼女の右手があった位置から黒い塊がばさりと落ちてくる。
思わず手を伸ばしてそれを受け止めたニゼルは、その塊が黒い表紙の分厚い本である事に気がついた。

「これは?」
「開いてみたらいいでしょう」

言われるより早く、指先は既に表紙を開いてしまっている。自分の好奇心の強さに呆れてしまうが、それもすぐに霧散した。
それもその筈、目の前の書物は中身が空っぽだった。象牙色のくすんだ紙の上には、挿し絵はおろかインクのシミ一つ残されていない。

「アスター。この本って、」
「『それ』は知恵の樹とリンクしているのよ。なんでもいいから、今知りたい言葉を思い描いて」

言われた通り、目を閉じて「今知りたい言葉」を脳内に巡らせてみる。横から声を掛けられ、目を開いたニゼルは眼前の光景に息を呑んだ。

「『わたし達』は便宜上、『エノク書』と呼んでいるわ。人間の世界じゃ、神学の参考書か聖書の写しとして扱われる題名だそうだけど」

まっさらだった筈のページに、今は色鮮やかな、それこそ写真か実物かと見紛う挿し絵と、濃い黒色で事細かな単語の意味が記されている。
漆黒の文字は今正に彩漆か墨汁で書き込まれている最中だ。美しい筆跡がさらさらと進んでいく様子に目を瞬かせるしかない。
周りを見渡せど、この場には自分とアスター、そして宙づりのまま意識を失うイスラーフィルしか存在しなかった。
無人のまま、それこそ自動的に、書物はニゼルが知ろうとした言葉――「ハーブティー」の詳細を、空白のページに書き示してみせる。

「凄いね……これ、生き物みたいに進行形で書き込んでいくんだねー」
「知恵の樹と繋がっているからこそよ。大樹の中から直接、最新の情報を引っ張り出しているといったところね」
「最新の、情報?」
「知恵の樹は今も息づいてるの。生育中なのよ、アナタも知っているでしょう? 世界中、それこそ天上や冥府の話だって見せてくれるわ」

素直な反応に、先ほどの嫌みや憎悪を滲ませた応酬は返されなかった。アスターは力強く頷くと、再び頭上を仰ぎ見る。

「……アナタがあの天使を見捨てる気だったら、この本を見せるつもりはなかったわ。『わたし達』は知恵の樹を護る術としてここに在る」

彼女は天井を越え、更に遙か遠い地を想うように目を細めた。重い口調には沈痛な音が含まれていて、無駄口を挟む事を躊躇わせる。
琥珀色の眼は今は夜色に戻されていた。瞳の奥には今も種子の欠片の色彩が揺らめいていたが、今すぐアスターと代わる意志はないらしい。

「自分の手元にあって当然だったものを、利己的な理由で捨ててしまえるような……アンジェリカのような女には任せてはおけないですの」
「ちょっと待って。知恵の樹って、本当だったら俺やアン、ノクトが護らなきゃいけないものだよね? なんでアスターが?」
「アスターが再構築されたときには、管理機関は機能を失っていましたの。パパが話題にも出さずにヘラママ様に従っていたのがその証拠」

ぐうの音も出ない。実際、自分は新たなラグエルでありながら、アスターの考案者の姿も、知恵の樹の在処も忘却していたのだから。

「『古い守護者と知恵の樹は切り離され、種子側に完全な形で移植が済んだ』。きっとニジママ様にアクセス権限がない理由もそれですの。
 アンジェリカと喰、ラグエル間の意志の剥離も関係があったかもしれないけど、急ぎ自己防衛もかねた代理を立てる必要がありましたの」
「……それって、知恵の樹はそうそう奪われないから安心しろ、って意味? 俺、転生したときにやっと思い出したくらいなのに」
「ニジママ様は使命を放棄せざるを得なかった。でも仲間は捨てない、助けたがる。知恵の樹の管理では、それは大切な感性なんですのう」

つまり、試験は合格。自分はいつ何時でも、今代のラグエルはもちろん、あの屋敷に住まう全ての者に助力をする、と。
にこりと自然な体で微笑まれ、思わず目を忙しく瞬かせる。ふと手元に視線を落とすと、いつの間にか文字の列挙は跡形もなく消えていた。
……もし、自分がイスラーフィルの生前の記憶を恐れ、彼をこのまま放置、ないし天使長らに引き渡そうとしていたならば。
アスターとその内側にいるという守護者達は、自分には二度と知恵の樹を触らさせてくれなくなるだろう。その予想に眩暈と身震いが走る。

「……堕天使、魔獣その他を除いたわたしの名は、メーデイア。でもこの際だから、アスターでいいわ。その方が面倒じゃないものね」

整った美しい顔に、無表情に近しいごく僅かな微笑が浮いた。どこか自嘲的なそれに、ニゼルは胸の内にざわつきを覚えてしまう。
アスターが与えてくれた情報は、自分にとって確かに有用なもの。しかし、知恵の樹から見放されたと思えてしまうのは気のせいだろうか。

 ――嫌われたくない!

刹那、心の叫びに似た言葉が脳裏を駆けた。ぐっと息を詰まらせ、ニゼルは不思議そうに見上げてくるアスターに無理やり笑みを向ける。

「そっか、分かった。じゃ、アスターで統一するね。えっと、そうと決まればさくっと暁橙を降ろして藍夜と合流して、家に帰ろうか!」
「……家。かえる……?」
「うん? 何言ってるの、当然アスターのおうちでもあるでしょ? 皆が待ってるから、帰らなきゃ」

手を伸ばし、頭に触れた。さらさらの髪は指を走らせるだけで心地よく、彼女の言う「メーデイア」、ノクト達の容姿の造形美を思わせる。
勢いよく俯く少女の目に、無数の雫が滲んでいた。見なかった事にして、ニゼルは彼女に結界を応用した足場を展開するよう依頼する。
……家に帰らなければならない。エノク書、果樹の守護者の権利剥奪、新たなる守護者の着任。それらの情報をノクトらと共有しなければ。

(宝物は透明度の高い玩具箱の中に、か。アスターの考案者って、本当に誰だったのかなあ……たぶん、一番大切な事なのに)

奪還したはいいが荷が重すぎる、ニゼルは思わず苦笑していた。階段状に組まれた結界を踏みしめながら、眠り続ける天使の顔を仰ぎ見る。






意識を巡らせ、擬似雷霆を横薙ぎに払う。審判官の力は器に完全に定着しているようで、それだけの動作ですぐさま雷を喚ぶ事が出来た。
呼吸を一つ、二つ繰り返す度、薄く雷光を練り上げる。もう一度腕を横に滑らせると、青白い雷は罠代わりの膜となり退路を覆った。
ミカエルの手に掛かれば容易に打ち消されてしまうかもしれない。それでも、ニゼル達と合流する間の隙が作れるのなら十分だ。
藍夜は一人頷き、黒い雷霆を消失させる。遺跡の奥はいつしか行き止まりとなっていて、振り向いた先には荘厳な岩肌が一面に続いていた。

「ニゼル」
「! 藍夜……」

話し声に導かれるように進むと、洞窟の中央に探し人を見つける。ぱっと顔を上げたニゼルは、アスターとともに何かを覗き込んでいた。
二人の顔色は晴れない。訝しみ、藍夜は急いで二人の元に駆けつける。

「ニゼル、アスター。一体何が……っ!? あ……暁橙!? 暁橙じゃないのかい、これは!」

動揺はすぐに声に乗せられた。ニゼルの膝に頭を乗せ、今も昏々と眠りに落ちている青年は、どこをどう見ても見覚えのある顔だったのだ。
自分の怒声にも似た大声が洞窟内に反響し、慌てて手で口を覆う。残念ながら時既に遅く、雷の向こうから大勢の気配の接近を感じられた。
すまない、そう謝ろうとして視線を動かせば、ニゼルは眠る天使の前髪を梳く動作を止め、アスターはその場に立ち上がっている。

「ニジママ様」
「うん。そうだね、そうしよっか」

話が見えず、藍夜は戸惑うように二人を見つめた。こちらの疑問に気付いてか、ニゼルは座ったまま苦笑している。
アスターはニゼルに頷き返すと同時、空中で糸紬ぎをするように、両の五指をゆるゆると複雑かつ繊細に動かした。
一点、二点と白い光が八つ浮かび、そこから同色の光線が伸びていく。互いの点を繋ぎ合わせると、それは無色透明の一つの箱に変化した。
この遺跡に転送される際、彼女が用いた彼女固有の結界精製である。結界を六面織り上げて造られるそれは、文字通りの「箱」だった。

「お屋敷のお庭に繋ぎましたの。ミカエルおじさまはしつこいから、早く行きますのう」
「うん、上出来! 藍夜、ほら。詳しい話は後で、ね!」
「あ、ああ……」

状況に追いつけていないのは自分くらいのものだ。藍夜は反射的にニゼルに頷き返したが、二人が何を話していたのか想像も出来ない。
そういえばミカエルはオジサマなんだ、だって屋敷とは関係ないひとですの、二人はいつの間に距離を縮めたのか、談笑さえ楽しんでいる。
自分が足止めをしている間に何があったのか。混乱していた頭は、強制的に思考を切り替えさせられた。箱が、蓋を開いて見せたのだ。

「――待てっ! ウリエル!!」
「……ミカエル。もう追いついたのかい」

怒声に振り向く。珍しく天使長は狼狽し、同時に怒りを露わにしていた。藍夜は未だ困惑したまま、夕日色の髪の天使を抱きかかえる。
雷光の結界は、ミカエルだけでなく彼につき従う天使達の足止めになってくれていた。忌々しげにこちらを見た天使長が、何か叫んでいる。
彼がここまで取り乱すのは珍しい。藍夜は、結界が発する転送の光に片足を踏み入れた格好で、ゆっくりと彼の天使を見つめ返した。

『……ぜっ、……が、……!』
「……残念だ。何を言っているのか、まるで分からないというものだよ。ミカエル」

何故。それはこちらこそが知りたい、口にしたい台詞だ。
何故、暁橙が自分の腕の中にあるのだろう。何故、アスターはあのように蹂躙されてなお生まれ直させられなければならなかったのだろう。
何故……ニゼルを取り戻した後、様々な変化が屋敷にあった。住民達は辛うじて全てを受け入れているが、疑問点は多く残されている。
藍夜の目に、天使長ミカエルの姿は異質なものに映った。何故、彼らはこの場に自分達がいる事を把握していたのだろう。

(暁橙を餌にした待ち伏せ……いや、初めからここに彼を捕らえ、封じていたと考えるべきだろうね)

そもそも、今抱える天使が鳥羽暁橙の記憶を有する本人の転生体とは限らない。自分の都合のいい解釈に、藍夜は自嘲の笑みを漏らした。
ニゼル達から詳しい話はおろか、遺跡を使った試験の合否も聞かされていない為、全ては推測の域を出ないのだ。

「すまないね、ミカエル」

それでも、目の前の天使を手放そうという気にはなれない。いくら目上の立場にあるミカエルが相手であれ、その意志に変わりはない。
腕に力を込める。勝手な希望にすぎないと分かっていても、藍夜は既にイスラーフィルにかつての弟の影を重ねてしまっていた。
散らされる怒声にそれ以上答えず、白光に飛び込む。体がふっと軽くなる感覚を覚えた直後、藍夜の体と意識は馴染みの庭に転移していた。

「やあ、ウリエル」
「……サラカエル」

頭上に箱、結界の残骸が欠片一つ残されていない事を視認した後、藍夜は縁側から降りてきたサラカエルに向かい合う。
腕を伸ばされ、条件反射でイスラーフィルを彼に預けた。そのまま屋敷に向かう彼に続き、リビングに上がる。

「あっ、藍夜さん! お帰りなさい、お怪我はありませんか」
「アンブロシア」
「アンー、ねえ、チョコってまだある? アスターに結界連発させちゃったから、食べさせてあげたいんだけど」
「はい、すぐに! あの、藍夜さん……」
「……僕は構わないとも。行ってあげてくれたまえ」

出迎えた面々の中に、騎獣達の姿は見えない。訝しみながら縁側間近のソファに腰を沈めると、隣にニゼルが駆け寄ってきて相席となった。

「ニゼル、」
「琥珀達はね、さっきケイロンのところに向かったんだって。真珠の回復もそうだし、珊瑚もアルバイトしなきゃいけないから、って」

琥珀達の行方を尋ねようとした矢先、先手を切られる。淀みなく答えたニゼルは、自前のカップに注いだ黒褐色の液体を啜った。
アルバイト? 聞き返そうとした藍夜は、ふとニゼルが飲んでいるものがコーヒーである事に気がついて眉根を寄せる。
住民のうち、コーヒーを好むのは珊瑚くらいだ。彼が不在であるのはいいとして、ならばこの香り高い飲料は誰が淹れたというのだろう。
……今も漂う芳香に、嫌な予感が沸々とわいて出た。勢いよく顔を上げ、腰掛けたまま首を巡らせ、ダイニングへ視線を走らせる。

「――なんだよ。テメェはハーブティーがお好みなんだろ」

予想的中。藍夜の視線の先、喰天使は手にしたサーバーから淹れたての飲料をカップに移し、席に着いたそれぞれに配っている最中だった。
ニゼルもそうなのだろう。彼女の場合、一番好んでいるのが自分の香草茶というだけで、本来は他の嗜好品もしっかり楽しむタイプなのだ。
それを咎めるつもりはない。各々の好みなど禁じる事も、口を挟む事も傲慢だと理解している。好きにすればいいと、そう思っていた。

「ノクト……君、雇い主の元に帰ったのではなかったのかい」

しかし、ノクトが関わっているとなれば話は別だ。本人に自覚がないとはいえ、彼は想い人ニゲラととても仲がよかった。
彼女を取られてしまうのではないか――常にその不安が心に付き纏う。それ故に彼に食ってかかってしまう事を、藍夜は多少自覚していた。

「何故君は、堂々とコーヒーなど淹れていられるのだい。少しばかり神経が太すぎるのじゃないかな」
「頼まれたんだよ、アクラシエルは茶請けの用意に忙しいからってな。テメェに出してやるわけじゃねーんだ、構わねぇだろ」

その我関せずの態度が気に入らないのだ! 藍夜はたまらず叫びそうになるのを、寸でで堪える。
ノクトの堂々とした振る舞いは藍夜の中に更なる炎をくすぶらせるのに十分だった。怒りで顔が引きつっていくのが、嫌でも分かる。

「藍夜? ねえ、どうしたの?」
「……っ、ニゼル」

一方、何も知らないという顔でニゼルはこちらに笑みを向けた。彼女を怒鳴りつけるわけにもいかず、握りしめた拳をやむなく下ろす。

「ごめん、コーヒーのにおい、そんなに駄目だった? 俺、台所の方に行っていようか」
「違っ……そ、そういう事では、ないのだよ」
「ん、あれ? じゃあ、何? あっ、もしかしてアスターの転送術で具合悪くなっちゃった? 大丈夫?」
「ち、近い! 近いというものだよ、ニゼル!!」

自分はきっと、今とても情けない顔をしているのに違いない。熱が上る顔を省みもせず、藍夜は無駄に咳払いを繰り返した。
どうしたのー、そう聞いてくるニゼルの顔を見ていると、先ほどまで感じていた怒りが少しずつ解れていくのが分かる。
怒気を逃がすように大きく嘆息して、藍夜はサラカエルの姿を探した。彼に正体不明の天使を預けたままにしていた事を思い出したからだ。

「サラカエル……」

藍夜の声に、サラカエルは片手を挙げて無言で応える。彼の姿はソファのすぐ裏、食事場とリビングの間のちょっとしたスペースにあった。
柔らかなラグの上に、先ほどの天使は仰向けに寝かされている。頭と床の間にはクッションが置かれていて、殺戮の気遣いが窺えた。

「サラカエル。彼は一体、」
「さてね。アスター達が連れてきたも同然だけど、僕は何の説明もされていないから」

彼の手に、武器の類は見当たらない。どうやら敵対関係ではないようだと、藍夜は心の中で胸を撫で下ろす。

「なんだ。起こして直接話を聞きゃいいじゃねぇか。難しい事は何もねぇだろ」
「……君は部外者じゃないのかい。口を挟まないでくれたまえ」

さらりと会話に割り込んでくる喰天使に、再び怒り混じりに返した。助言はそれ以上返されず、部屋にはコーヒーの注がれる音だけが響く。
顔を上げた藍夜は、いつの間にかノクトの表情が随分と柔らかくなっている事に気付いて言葉を飲んだ。
ああそうかよ、そう言って笑う表情も穏やかだ。まるで天上界でともに暮らしていた頃の彼を見るようで、思わず視線をヘラに移しかえる。

「コーヒーの匂いで釣ってやったらどうだ? 案外、簡単に目を覚ますかもしれんぞ」
「ヘラママ様、フィルおじさまはコーヒーお好きなんですの?」
「うん? さて、どうだったかな。出されたものは何でも飲んでいたと思うが」

フィルおじさま? 地母神と少女のやりとりに耳を澄ませてから、改めて視線を床上へと戻した。
「フィル」。その愛称を聞いたとき、ようやくこの天使が何者であるのか思い至る。思わず声を出しそうになり、藍夜は口を手で覆った。
……整った肢体を彩るように、オレンジ色の髪は後ろの一房だけが長く伸ばされ、衣装の白布や頭部に色とりどりの羽根飾りが散らされる。
髪色に相応しく、快活な笑顔と気質は彼がヘラの別邸を訪ねてくる度、神殿内の空気を華やかで穏やかなものへと変えてくれていた。

「……イスラーフィル」

彼は自分の使命が執行される際、必ず傍に在った高位天使だ。護衛である殺戮と別に、最後の審判の報せを世界に告げる使命を負っている。
よもや、鳥羽暁橙はその転生体だったのか――藍夜は衝動に突き動かされるように、喰天使が淹れたコーヒーを掴んで駆け出した。

「イスラーフィル。目を開けたまえ」

祈るように焦がれるように、天使の顔の横にコーヒーカップを寄せ、声を掛ける。肩を掴んで揺さぶると、僅かに睫毛が反応を見せた。

「……イスラーフィル! 起きたまえ!!」

何事かと、ニゼルとアンブロシアが寄ってくる。他の面々も、ヘラを除き慎重な足取りでイスラーフィルの顔を覗き込んだ。
藍夜は皆には構わず、かつての弟が寝坊したときと同じように、彼の胸ぐらを掴んで激しく上下左右に揺すってやる。

「……ん、んん……?」

するとどうだ、ぴくぴくと細かく睫毛を揺らし、ようやく件の天使は目を開いた。長い眠りについていたのか、寝ぼけたように呆けている。

「イスラーフィル。よかったよ、僕の事が分かるかい?」
「……え、と……うりえ、さま……?」

ろれつの回らない声が、藍夜の挨拶に応えた。刹那、好青年ぶりを強く主張する面立ちが、一気に朱に染まる。
がばっと跳ね起きると、イスラーフィル自身は凄まじい勢いでラグの上を滑り、あっという間にリビングの端の方へ体を引っ付けた。
びたん、と大音が鳴る。直後は土下座に似た平伏だ。藍夜はぽかんとして、突然奇妙な返しを見せた顔見知りへの声掛けを忘れてしまった。

「あっ、あの! ご無沙汰しております!! 『奏でる天使』、イスラーフィルです! ご健勝そうで何よりです、ウリエル様!!」

興奮しきった声でまくし立てられ、藍夜は窘める事も悲鳴じみた言い分を制止する事も出来ないまま、どうしたものかと眉根を寄せる。
周りをこっそりと盗み見れば、完全に混乱しきっているイスラーフィルの反応を楽しむように、皆一斉に口を閉ざしていた。

「よしたまえ、僕はただ、君と話を……」
「いえ! いいえっ! そんな、顔を上げるなんて恐れ多い事っ!!」

イスラーフィルが、審判官にどんな印象を持っていたかは知らない。伏せられた顔は今や耳まで真っ赤で、まともな会話は望めそうにない。
それほどまでに嫌われて、否、化け物だからと恐れられているのだろうか。藍夜は気落ちしそうになる心を、懸命に自ら鼓舞する。
ふと、隣に自然な足取りでニゼルが立った。彼女の横顔はいつ見ても綺麗で、更に凛とした表情が沈んでいた心を簡単に持ち上げてくれる。

「ねえ、藍夜。イスラーフィルの事、一旦俺に任せて貰ってもいい?」
「ニゼル? ……急にどうしたと言うんだい」
「あのねえ、藍夜の顔酷いよ? そんな顔でイスラーフィルに会うなんて、させられないよ……もう少し、待ってても大丈夫だから。ね?」

ニゼル=アルジル、鳥羽暁橙。彼らが如何に自分の心を救ってくれていたのかを知り、藍夜は改めてニゼルの提案に頷き返した。
ニゼルの言葉を聞いていたのか、そっと顔を上げたイスラーフィルは、やはり顔を赤くしながら体を縮こまらせている。
どうにか出来ると言うのなら、ニゼルに託してみたい。嫌われているのだろうがね、と二度目の思考を巡らせて藍夜は短く嘆息した。





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 UP:20/06/08