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楽園のおはなし (3-23) BACK / TOP / NEXT |
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「うん、じゃあ真珠の事お願いね、琥珀、シリウス……あ、珊瑚ー? 邪魔しちゃ駄目だからね?」 「んなっ、じゃ、邪魔って! ねーちゃんのケアだろ、ちゃんとやるって!!」 出産を終えた真珠のダメージは、思いのほか深かった。「種子」の話では、張っていた根を強引に千切った為に出血量が増したのだと言う。 穢れに弱い体質である事も重なり、白羽根は原型のまま意識を保つので精一杯という体だった。家族総出で庭に出してやり、洗浄を任せる。 ふと、リビングを覗き込むように首を伸ばした琥珀は、何か言いたげにニゼルの顔を仰いだ。最も、彼女の言いたい事なら承知の上だ。 「ねえねえ、ニジー。僕達はいいけど、そっちは……」 「あー、うん。大丈夫だよ、時間はあいちゃったけど、扱い方なら覚えてるから――」 既に、種子の少女については着替えなどをアンブロシアに託してある。心配無用、と鷲獅子に明るく笑いかけ、愛娘の元に戻るよう促した。 「――さって、と。あ、それ、ココアかホットチョコレートの方がいいでしょ? ねえアン、うんと甘くしたやつ、出してあげてくれる?」 リビングに上がると同時、ニゼルは沈黙を貫くアスターを見下ろしながら、藍夜の隣席に腰を下ろす。他の顔ぶれも自前の席に着いていた。 気を利かせて茶を用意していたアンブロシアは、ニゼルの注文に目を瞬かせる。アスター本人もまた、ニゼルの言葉に目を剥いていた。 言われてみれば確かに、ちびちびと遠慮がちに口を付けられたハーブティーは、一向に減る様子が見られない。 考え事を巡らせたのか、その場に立ち尽くすアンブロシア。彼女が居たたまれなさそうに縮んだ直後、こほんと場を取りなす咳払いが響く。 「アンブロシア。すまないが、香草茶は好みが分かれるものだからね。今は、ニゼルの言う通りにしてやってくれたまえ」 「あ、あの、でも、藍夜さん」 「そうそう、俺は藍夜ブレンド大好きだけどね? でもアスターは、甘い飲み物の方がいいんじゃないかなー。せめてミルクティーとかね」 「……べっ、べ、つに、これくらい、大丈夫ですの」 「えー? 飲み物飲むのに、大丈夫も何もないでしょ? はいはい、無理しない方がいいですよー」 再度咳払いをした藍夜は、苦いものを噛むような顔で横を見た。ニゼルは、それはもう満面の笑みで楽しげにアスターを「観察」している。 果実との邂逅の後……先ほどの突然の落涙と放心ぶり、取り乱し方を見せた同一人物とは、とても思えないほどの豹変ぶりだった。 (確かラグエルの、研究の成果……と言っていたね) ニゼルとアンジェリカは別物だが、根底の「知恵の天使」としての本質は、どこか共通するものがあるのかもしれない。 彼女がアスターを見る目は、親としての愛情に満ちたそれではない。どちらかといえば、新しい玩具を渡された幼子の反応そのものだ。 ……ヒトだった頃から見られたニゼル=アルジルの異常な好奇心や知識欲の理由を見いだしたような気がして、藍夜は知らず深く嘆息する。 「うむ、無理はよくないな。そこの喰天使や珊瑚は珈琲を好むし、私は不味い紅茶など御免だからな。好きなものを楽しむのが一番だぞ!」 気遣ってか、重い空気を笑い飛ばしたのは茶菓子を頬張るヘラだった。彼女の横では、座る事を強要された殺戮が額に指を押し当てている。 「お言葉ですがヘラ様、行儀というものはご存知ですか」 「ん? 食べている最中に話をした覚えはないが。なんだー、お前の目は穴でも開いてるのか」 「またそういう屁理屈を! 馬鹿にしてるんですか!?」 「うん? してないぞー、なんだ、さっきから何をカリカリしてるんだ。『屋敷の住人が二人増える予定にある』というだけの話だろう?」 あっけらかんと言い放つ女神に、サラカエルは珍しくぽかんと口を開けて硬直する。対天使の藍夜も彼と同じ反応を披露してしまっていた。 ぶふっ、と噴き出したのはニゼルで、人目もはばからず肩を震わせている。一方で、これに食いついたのはアスターとノクトの両名だ。 「そんなつもり、ないですの!」、「なんでそんな話になってんだ!?」、どちらも怒り心頭といった様子で席を立ち上がった。 「おいー、まさか私の屋敷で誕生したものを余所の何者かに贈呈しろと言うのか。私はウリエルよりも嫉妬深く、陰湿で強欲な女なんだぞ」 「ヘラ様。自慢出来る事ではないですし、それにそれ、どこぞの記す天使の言ですよね?」 「うむ。分かりやすい上にいっそ清々しい自虐文句が下手な口説き文句よりよっぽど宣伝じみていて、私は気に入ってるぞ」 「いえ、あれが調子に乗りますから、その辺にしておいて下さい。はあ……ま、そういう事さ。君達に拒否権はないと思って間違いないよ」 最早、抵抗も認めないとばかりのヘラの物言いにアスターは岩のように固まり、ノクトはぶるぶると肩を震わせている。 刹那、振り上げられた拳がどん、とテーブルを力任せに叩いた。義兄の憤慨ぶりに、ココアを淹れ終えたアンブロシアが肩を跳ね上げる。 「ふざけた事を抜かしてんじゃねぇぞ。俺がそのご命令に従う謂われなんざ、欠片もねーだろうが」 彼の顔には、明確に怒りが滲んでいた。真っ正面から鋭い眼光に射抜かれ、しかし地母神は涼しげな表情でゆっくりと香草茶を啜っている。 「屋敷の主で、元大神の正妻で。だからってな、他の誰もがテメェに従うと思ったら大間違いだぞ」 「うむ? それはそうだろうな。お前は何を言っているんだ?」 「なっ、んのっ……」 「で、お前こそ何だ? 私はふざけてもいないし、こうして話し合いの席も設けている。一方的にものを取り決めて、お前も愚弟の同類か」 「抜かせ! 俺はあんなっ、」 「まあ、待て――サラカエル。『抜いていい』とは言っていないぞ、座れ」 不意に、ヘラが片手と扇子を真横に伸ばした。いつの間にか席を立って直立していた殺戮の左手が、コの字を作るように緩く握られている。 それは、袖に隠した鋼糸を殺害の意図を以って繰る直前の仕草だ。昔、彼に旅の同行を務めて貰った際に何度か見た覚えがあった。 怯んだのか、女神に諭されてノクトは渋々と席に着き直す。それでも彼の目つきは、怒りと屈辱で未だに鋭いままでいた。 ……ニゼルは一人、唇を尖らせる。誰もが自分の都合や事情を優先するあまり、覚醒した後に得られたせっかくの快適な空間が台無しだ。 トラブルは誰に持ち込まれたものなのか。ノクトか、それともアスターか、或いはカマエルや大神か。どれも答えになっていない気がした。 さっさと話を纏めてしまおう――ニゼルは、アンブロシアがアスターに飲料を手渡したタイミングを見計らって、目立つように手を挙げる。 「情報を纏めよう! えっとね、種子についての事なんだけどー、」 「ニゼル、思い出せたのかい? 君の記憶は混乱していたのだとばかり思っていたが」 じろりと、今度はアスターの視線が刺々しいものに変わった。おっと、とおどけて見せ、ニゼルはわざとらしい笑みで親友に向き直る。 「思い出せたところと、思い出せなかったところがあるよ。例えばねー、アスターは元々は『ノクトとアンジェリカの娘』なんだ、とかね」 「……っ!」 ガタンと、アスターは跳ねるように腰を上げた。それを見つめ返すニゼルの視線は冷たく、また、向かい合う喰天使は愕然と硬直している。 しかし、ヘラが何か言うより先に少女は自ら椅子に座り直していた……ニゼルの目が、好奇心と知識欲に醜く歪んだのを目にしたからだ。 「式を挙げる少し前、だったかな。アンジェリカは婚前交渉でアスターを授かった。でも、心無い連中に腹を裂かれてそれを奪われたんだ」 「――ッ、余計な話を、」 「君の事、だろ。伏せたって仕方ないよ……で、ラグエルは考えた。どうにかして取り戻せないか、それもヘラやノクトを巻き込まずにね。 連中の身元も、アスターを知恵の天使の代用品として扱おうって魂胆も分かってたから、命令に従うフリをして反撃の機会を待ったんだ」 「命令? 代用品……ニゼルさん、それってどういう意味なんですか。どうしてそこまで……姉さんは一体、」 皆が皆、あまりに突飛もない冷酷なラグエルの発想に硬直している。唯一疑問を返したアンブロシアに、流石アン、とニゼルは笑い返した。 「アンジェリカやアン、ノクトが管理していた銀の林檎の木『知恵の樹』は神様の宝なんだ。でも厳しく管理されていて自由には使えない。 だから、その抜け道を造ろうとする連中が一定数いたんだよ。ゼウスを出し抜きたい奴、知識欲に振り回されてる奴……色々いたけどね。 ニゲラがヘラに匿われたのも、あの娘がアンジェリカに似すぎていたのが原因なんだ。それほどに、筆頭管理者のラグエルは特別だった」 ラグエルという番人をすり抜けて、神々の知識、歴史そのものにアクセスする為の秘策。アスターはその為だけに、一時命を絶たれたのだ。 「だからって、アンジェリカも黙ってなかった。アスターをより使いやすく改良する、なんて言って、扱いにくくなるように改悪したんだ」 「ま、待ちたまえ、ニゼル。それは何かい? 奪われたと知る娘の遺骸を、取り戻すや否や自らの手でこねくり回したと、そういう事かい」 「えっと、発案したのは別のひと、だけどね。でもそのひとの事は思い出せないんだー。そのうち、思い出せるといいんだけど」 「違う……違う、僕の言いたい事はそういう事ではないのだよ、ニゼル」 鼻をくすぐる迷迭香。目を瞬かせ、ニゼルはふと顔を上げる。気がつけば、いつかのように自分は藍夜の腕の中に包まれていた。 妙なふわふわとした感覚が全身に満ち、頬と耳に小さく触れてくる彼の呼気に、不思議と気持ちが軽くなる。 「自分」も傷付いていたのだな――時を越えて確信し、ありがと藍夜、そう囁き返す声には熱が籠もった。ニゼルは藍夜の手を握り返す。 「ん……大丈夫。で、種子の話に戻すよ。そういうわけで、アスターはアンジェリカとノクトの遺伝子を基に材料を追加して再構築された。 多くはサミル一派とは無縁の堕天使で、他は魔獣、神獣だったかな。後は……発案したひとが特別な繋ぎを用意したって言ってたような」 「特別な繋ぎ、か。ははっ、まさか『不和の女神』などとは言わないだろうな?」 「不和の女神? それはなんです、ヘラ様」 「うむ、昔、私とアフロディーテと……うむ、古い時代の女神様だ。そこのアスターと同じように、集団に不和を齎すのが生業のひとでな」 細かい話はどうでもいいだろう、自ら口にした筈のヘラは、サラカエルに紅茶の二杯目を頼んでくすくすと楽しげに笑った。 「ご苦労、ニゼル。大体の話は私でも分かったぞ。それでアスター、お前には今の一連の話の記憶はあるのか」 「……」 「ん、おやー、だんまり? それってちょっと、狡くない?」 「ニゼル。君ね、顔がわくわくしすぎているというものだよ」 「へへ!」 「……不和の女神というほどの、大したツナギではないわよ」 意外にも、アスターに応える意志はあったのだ。硬直したままのノクトをちらと盗み見た後、当人はあどけなさを失せた顔でニゼルを見る。 隣の席で、アンブロシアが両手をぎゅっと握りしめているのが見えた。それでも、芽吹いたものを奪われない為にも今は膿を絞るしかない。 「自分」も「犠牲を払われた種子」も、戦うしかないのだ。再び、否、何度でも狙われるのは目に見えている。互いにそれは理解していた。 「ふーん。じゃあ、ツナギの素ってなんなの?」 「驚いた。アナタ、本当にそういう大事なところの記憶だけ、なくしているのね」 「うん。みたい、だね?」 「……知恵の樹よ。アナタが必死に管理していたそれと、他、特別な高位天使を少数。そして主人格となったのは、ある名もない魔女だわ」 「あー、そうなんだ。知恵の樹を隠したなら迂闊に手を出せないもんね。で……名もない魔女? もしかして、俺も知らないひと?」 「それを言ってしまったら、面白くならないでしょう。気付いてる? アナタ、楽しくて仕方ないって顔をしているわよ」 指摘され、「自分」はとても面白がっているのだと再認識する。ニゼルは、こみ上げる感情のままに、自然な表情でアスターを見下ろした。 途端、少女はびくりと大きく肩を跳ね上げ、身を震わせる。恐怖、畏怖ともとれるほど顔を青ざめさせ、すぐさま顔を逸らして見せた。 (あれー? そんなに怯えなくても。『あー、そんな風に完成したんだ、こんな風に成長したんだ』ってしか思ってないのに) 周囲はざわついている。それもその筈、ラグナロクの後、行方知れずとなっていた知恵の天使と神の宝が、こんな形で見つかったのだ。 更にアスターは、材料の中にはラグエルと別の高位天使が絡んでいると口にした。一体、どれほどの秘儀が彼女に施されたというのだろう。 以前からゼウスやミカエルが絡んでくる理由はここにあるのではないか。カマエルの暗躍もそうだ、全ての理由は今、目の前に在る。 こほん、と再度咳払いしたのは藍夜だ。仕切り直しとばかりにそっとニゼルを解放した審判官は、重苦しい声を溜め息混じりに吐き出した。 「――だ、そうだよ。君にとってのアスターとは、再誕した君の娘にあたる……それでも君は、彼女を持ち去ろうと言うのかい? ノクト」 問題は、残っていたのだ。名を呼ばれた事でようやく我に返った喰天使は、信じられないものを見るような目で隣の少女を見下ろしている。 アスターは、彼を見上げるでもなく顔を俯かせた。これまでの発言から察するに、気まずい上に嫌われたくないのだろう、とニゼルは踏む。 種子だった頃から、彼女はアンジェリカに対して復讐心を燃やしていた。それは裏を返せば、親の愛に焦がれる心の現れではないのか。 奪われ、突き放され、弄り回され、また手元に返されて。口ではなんと言おうと、彼女は真珠と珊瑚を通じて生まれたばかりの子供なのだ。 屋敷の大人達を母、父と呼ぶのが何よりの証拠だ。本人は「嫌み」のつもりであったのだとしても、その全ては強がりにしか見えない。 「ああ、そうだったな? で、ルファエル。お前、ここでそこのアスターを連れ去ったら、文字通りの人でなし……いや、テンシナシだぞ」 「――ヘラ様。上手い事を仰っていないで、冷静に」 「うむ、茶か! ……おいー、お前こそ心が乱れまくりだぞ、おチビ。お前は紅茶にすぐ感情が乗るからな」 顔を青ざめさせるノクトの前で、ヘラは口を開き直して野次を飛ばす。サラカエルの紅茶がよほど渋かったのか、彼女は片眉を釣り上げた。 ニゼルの瞬きに、ヘラは「ここは任せろ」とばかりに一度だけ睫を伏せる。その途端、ニゼルはふうっと体から力が抜けるのを感じた。 思っていた以上に疲れていたのだろうか。深く椅子に腰掛けて、ニゼルはアンブロシアが慌てたように勧めてくれる焼き菓子を口に運んだ。 「お前がラグエル、アンジェリカに罪悪感を抱く事は無理のない話だ。開き直れとは言わん。しかしな、アスターには関わりない事だろう」 「……っ、ぐ……知ったような口を、」 「馬鹿を言え。天上の別邸でのお前の働きを見ていたがな、お前ほど悪役の似合わん馬鹿正直な男もいないだろう」 お菓子を頬張り、お茶を一口……しかけていたところの女神の一声に、ニゼルは同時にカップを口をつけていた藍夜ともども茶を噴き出す。 アンブロシアとサラカエルが布巾を探しててんやわんやと動き始めるのを制するように、ヘラははん、と喰天使を鼻で笑った。 「何度も同じ話をするのは不愉快だ。だからはっきり言ってやる――お前の主にアスターを渡してやる気は私にはない。貸し出しもナシだ」 「!? テメェ、俺の主が誰なのか知って……」 「ああ、知らん。知る気もない……と、言いたいところだが私にもコネはある。誰なのか、という予想はとっくに済んでるぞ」 「ああ、そうかよ……後悔するぞ」 「それはこちらの台詞だ、狗にしかなりきれない愚か者が。お前、今度こそ娘を護ってやろうとは思わんのか、そんなに腑抜けだったのか」 ノクトは沈黙する。俯き、唇を噛み、苦悶という苦悶を顔に滲まさせて、喰天使は今にも泣き出しそうになる心情を堪えているようだった。 「一人で戦え、とは言わん。前にニゼルに言われただろう? 『アンジェリカの選択は最悪だよ』と。夫婦揃って同じ事を繰り返す気か」 「な、に……」 「アスターは奴にもその一派にも渡さん、無論、愚弟にもな。この屋敷でならそれが可能だ。後はお前に寝返る気があるかどうか、だ」 「寝返っ……何を言っていやがる、正気か!?」 正気だとも――目に見えて狼狽する天使に、地母神は妖艶に微笑む。殺戮のわざとらしい咳払いを、彼女はことごとく無視していた。 これ「ヘラちゃんのカワイイ我が儘」だ……天上界の至るところで囁かれていた「地母神ヘラの横暴」を前に、ニゼルの食欲は増す一方だ。 開き直りかけているのか、アスターもまた藍夜にそっと差し出された茶菓子に手を伸ばし始めている。いい傾向だと、知恵の天使は頷いた。 「交渉材料なら手元にあるんでな。お前が一言、『どうかお願いしますヘラ様!』と、そう懇願すれば済む話だ。イイオハナシ、だろう?」 「……あれですね。愛娘を盾にとった、ヤクザかマフィアのやり口ですよね」 「喧しいぞー、おチビ。で、どうする? ルファエル」 ノクトは呆然と、それでいて縋るような目で女神を見つめている。サラカエルの度重なる咳払いは、空しく空を切るばかりだ。 「本当に交渉材料なんざ、あんのかよ」 「なかったら言わん。で、どうする?」 混乱に乗じた取り引きだと、ニゼルは思った。しかし、ヘラの見事な手腕と口の上手さに、自分が口を挟んでやる余地もない。 結局のところ、住む場所も、生活の為の金銭も、ゼウス達からの煩わしい干渉も、この女神ひとりが盾となり無償で与えてくれているのだ。 ……ゼウスは惜しいひとを手放したな、とは口にしない。どのみち、元同僚のルファエルと共に暮らせるかもしれないと思うと、心が躍る。 ニゼルはアスターをちらと盗み見た。視線に気付いた少女は、遠慮がちにこちらを見つめ返す。やはり、大きな瞳がとても愛らしい。 口端についたクッキーの欠片を伸ばした指で掬い取ってやり、改めて、ニゼルは「アンジェリカの最悪な選択」に思いを馳せた。 「……俺は、許されるべきじゃねぇんだ。あいつの婚約者だ、なのに……何も……気付いてやれなかった」 「同じ事の繰り返し、というものだよ、ノクト。僕でさえ、こんなにもふてぶてしくしているというのに」 「……テメェには何も分かんねーだろうが、審判官」 「分からないからこそ、というものだよ。君の目の前にあるアスターは、確かに君の娘の偽造品だ。しかし、今そこに在る事は事実だろう」 不意に、藍夜の真剣な眼差しと声掛けが響く。彼らは本当に真面目だ、親友の透き通るような力ある言葉にニゼルは目をとろけさせた。 「僕は暁橙を亡くした。父さんも母さんも、お袋も……マトリクス夫妻もね。しかしだ、彼らについての記憶が、僕を生かしてくれている。 生きる事は罪かもしれない、僕の行いは全て薄情であるかもしれない。だが、恥じずに生き延びなければ彼らの供養も出来ないだろう?」 「家族を、仲間を、友人を今でも愛している。それが今の自分の全てなのだ」。 唐突な愛の告白めいた言葉の羅列に、途中からノクトは上体をよろめかせ、サラカエルは目を逸らし、アンブロシアは顔を赤く染め上げる。 ニゼルとヘラは爆笑していた。恥ずかしすぎるよ藍夜、そう声を上げても、彼は何が悪いのか、とばかりに気難しい顔でむっとしている。 「あー、おっかしい! もう、いきなりそんな熱烈に言われたら、俺達死んじゃうよ!」 「……そんなに恥ずかしい事を言ったかな、僕は」 「言ったよ! 言ったんだよ、もう!」 喰天使は、地母神の手に落ちた――天上界のどこかに身を潜めるノクトの主からすればとんでもない事態だが、既に決定事項だ。 笑いすぎて目尻にとめどなく涙が浮かび、指先で慌てて拭う。皆もまた同じようにほっとくつろぎ、リビングに談笑の声が戻り始めていた。 そんな折、ニゼルはふとアスターが顔を俯かせ、沈んだ表情を浮かべているのに気付く。換えのココアを渡そうと、そっと歩み寄った。 「アスター? 大丈夫?」 「っ、あ……」 少女は、やはりびくりと大げさに肩を跳ねさせる。時間が掛かりそうだな、言いかけた一言をニゼルは無理やりに飲み込んだ。 「いつもこんな感じだよ。俺はあっけらかんとしてるし、藍夜は真面目なのかサボり魔なのか分かんないし、」 「……ヘラママ様は、自由すぎますの」 「あー、そうだねえ。そのうち慣れるよ。それにほら、交渉はこれからだけどノクトも残るみたいだし、生みの親の真珠達もいるからね」 だから心配無用だ、そう笑いかけようとした刹那、知恵の天使は種子の少女の瞳が、朝焼けのように鮮やかな琥珀色に燃えている様を見る。 美しくも恐ろしい、それこそ「名もない魔女」の片鱗だった。思わず見とれている最中、ニゼルは愛らしい声に再び敵意が混ざるのを聞く。 「仲良しで羨ましいですの、家族が揃えば最強ですの? ……なら、それを証明して。それが出来たら、わたしもたくさんの貢献を成すわ」 魔女とは、混ぜられた高位天使とは誰なのだろう。魅了の術としか思えない魅惑的な声色を前に、ニゼルは無意識にそっと頷き返していた。 |
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