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楽園のおはなし (3-20) BACK / TOP / NEXT |
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「……どうしてこんな事になったのかしらね」 月の美しい、夜だった。窓掛けの開かれた大きな窓の下、寝具にひとり腰掛けながら、真珠がぽつりと誰にともなく呟く。 「つがい」となるべく部屋に通された少年は、居心地が悪そうに彼女を見た。明らかにばつの悪そうな表情の彼を見て、白羽根が苦笑する。 「わたしだって怖いわよ。理不尽だって思うし、正直苛ついてるわ。でも……」 「……ねーちゃん」 「でもね、珊瑚。助かる術があるのにそれをしないでただ嘆いているだけなんて、わたしの性に合わないのよ。分かるでしょう」 つがいとして選ばれた特別な雄とは、彼女の弟に他ならない。「不可能」の象徴とされ、長い歴史の中で珍重されてきた神獣ヒッポグリフ。 ことに、貴重な血筋の鷲獅子と一角獣の間に設けられたこの二頭については他の追随を許さないほどの強い能力が凝縮されていた。 月明かりの下、真珠が真新しい寝間着を自ら脱ぐ。青白い空気の中、彼女の色の白い肌の殆んどは、件の琥珀色の管に侵食されていた。 一言で言ってしまえばあまりにも惨たらしい。僅かに息を飲んだ弟を見て、真珠は悔しげに、そして悲しそうに苦笑いを浮かべる。 「……醜い?」 「っは! そっ、そんな事!!」 「じゃあ、格好悪い?」 「――っ、」 挑発と誘い込みだ。直後、珊瑚は頭にかっと血を上らせて姉に飛びかかった。肩を鷲掴みし、白いシーツの上に押し倒す。 スプリングが跳ねる音がして、宙にカモミールの香りがほどけた。真珠が眉根を寄せたのをふと見下ろして、珊瑚は無性に悲しくなる。 「どうして、あんたが泣くのよ」 ずっとわたしとこうしたかったんでしょう――言外にそう言われたような気がして、体中の血が逆流するような感覚を覚えた。 見透かされている、いつから? それともキスしたからバレたのか……混乱しかけながら、逡巡を振り払うように頭を振り手を伸ばす。 彼女の頬はただ色白なだけでなく、異様に冷えていた。本当に姉には血が通っているのか。不安に駆られ、まさぐるように肌に触れていく。 「……ね、ちゃん」 息が苦しい、頭がぼうっとする、自分の発する声と言葉が自分のものではないそれのように感じられた。音は震えてしまっている。 そうか、オレは泣いているんだ……真珠の指摘を今更に思い出し、胸の痛みを飲み込むように歯噛みした。 「ねーちゃん、真珠ねーちゃん……オレ、オレさ、ねーちゃんの事……」 否、この痛みは堪えきれるものではない。長く秘めてきた想いを吐露すべく、珊瑚はごくりと喉を鳴らして真珠を押さえる腕に力を込める。 痛がる素振りも見せず、姉は顔を俯かせていた。真珠はきっと分かってくれる筈だ、そんな漠然とした傲慢さが脳裏を駆け抜けていく。 沈黙の間、涙は止めどなく溢れた。自分と姉のふたり分。珊瑚は言葉を切って、肩を微かに震わせる真珠の顔を覗き込もうとする。 姉はどうして泣いているのだろう、やはり本当は嫌なのか、他に好きな雄でもいたのだろうか、オレが相手では不足だろうか。 声を掛けようとするも、しかし言葉が出てこない。珊瑚は喘ぐように口を開閉して、決意を奮い立たせようと視線を姉の顔から下へ移した。 「……っんだ、コレ」 姉が泣くのは、これから成される行為が穢れをもたらすものであるという事も……もちろんあっただろう。 珊瑚は絶句した。あの琥珀色の管は、ついさっき目にした瞬間より更に膨れ上がり、いよいよもって白羽根の全身に転移さえしている。 『特別な雄の種を受け入れ、身ごもる形で体外に排出しないと……』 眼前、突如として真珠の唇から血が噴いた。噴出した直後、ほんの僅か、細い蜘蛛糸のように一筋の命の欠片が頬を伝って零れ落ちていく。 ニゼルの、否、今代ラグエルの声が耳元で聞こえたような気がした。たまらず姉の口を手で拭ってやるが、湧き水のように血は溢れてくる。 白羽根の顔は苦痛に塗れていた。くぐもった声は涙を掻き消し、不安を吹き飛ばす為に、彼女が懸命に恐怖と戦っている証だ。 なんて健気でいじらしい雌だろう。珊瑚は真珠の血が自分の頬に転写される事も構わずに、乱雑に手で涙を拭った。 「っざけんな……何が天使だ、カマエルだ! オレからねーちゃんを奪えると思ったら大間違いだ!!」 腹の底から吐き出す絶叫。細い肩を掴み、抱き起こすようにして引き寄せながら、珊瑚は真珠を通して種子に直接語りかける。 今、白羽根の口端には彼女の血と琥珀色の管が同時に露出していた。体を内側から奪うだけでなく、その外見すら覆い尽くそうというのか。 怒りに濡れながら、珊瑚は湧き上がる恐ろしい未来予想に震撼する。嘲笑うように、琥珀色の糸はちらちらとその先端を宙で踊らせた。 「おいっ! 聞いてんのかよ!!」 手で掴もうとしても、それは夢か幻かで出来ているように容易く指をすり抜けていく。明滅し、その身を揺り動かす細い管。 その幻想的な造形は、海月の触手か、或いは美の女神の金髪が棚引く様によく似ていた。おぞましい代物でありながら、酷く惹かれる。 不意に、耳元でふたりを見下し、挑発するような幼い子どもに似た笑い声が聞こえた。管の発したものだとぼんやりと理解する。 ぞっとした、同時に沸々と全身に満ちる感情に珊瑚は唇を戦慄かせた。この敵対する美しい生命体は、自分達を明確に嘲笑い見下している。 悪意あるもの、敵意あるもの、白羽根と黒羽根を同時に必要としていながら、その全てを奪い尽くそうとするもの……。 珊瑚は怯みかける心を奮い立たせた。歯噛みし、強い意志を込めた眼で睨み上げる。違う、姉も自分もこんなものの為に在るわけではない! 「お前が何者なのか、ニゼルが、いやっ、ラグエルだっけ? どっちでもいいけどな、どういうつもりでお前を造ったのかは知らねーケド、 ねーちゃんとオレに八つ当たりしてんじゃねーっつんだよ! 悪いのはアンジェリカって女、お前の製造者だろっ! 違えてんなよ!!」 一瞬、珊瑚の目には種子の断片が怯んだように管をよじらせたように見えた。息を詰まらせ、返答に窮した者の反応だ。 真珠の身をいっそう強く抱きしめ、「お前のように雑に扱われていい女ではない」と見せつける。案の定、管は苦しむように揺らめいた。 「アンジェリカが憎いかよ……でもこのひとはアンジェリカじゃない、神獣ヒッポグリフの真珠ねーちゃんだ。当たったってムダなんだよ」 珊瑚をはじめ屋敷の面々は、この種子なる生命体がどのような材料で、何の為に、何を目的として造られたか、その多くを知らずにいる。 しかし、黒羽根にとってそれを理解してやる事はさほど重要ではなかった。 アンジェリカと呼ばれた女が如何にこの管に恨まれるような真似をしでかしたのか……肝心なところを、ニゼル自身が思い出せていないのだ。 互いに責め合ったところで何になる、ましてやそれが八つ当たりや逆恨みともなれば、追求したところで余計に溝を深めるばかりだ。 ……珊瑚は、この正体不明の物体にある種の勝ち目を見出した気がして、不敵に口端をつり上げる。 「オレにはねーちゃんが必要だ、この屋敷にいる誰でもそう思ってる。お前はどーなんだよ? 誰かに必要とされた事があるのかよ」 ――! 「図星か……あのな、いくらお前がねーちゃんを苦しめたってねーちゃんの心は折れねーぞ。ねーちゃんには味方がたくさんいるんだから」 実際に、先ほどのようなさざ波に似た声を耳にしたわけではない。しかし、黒羽根には目の前の管が何事か喚き散らしているように見えた。 「寂しい、恨めしい、アンジェリカとは違う母親が欲しい……だよな? 誰でもそうだろ。お望みの家族が要るなら、そう言やいーんだよ」 管の動きが止まる。一体何が起きているのかと、そう尋ねる代わりに、真珠が自分の二の腕を弱々しく掴み返した。 藍色の眼に一瞥を投げ、珊瑚は小さく笑う。大丈夫だよねーちゃん、音には乗せずそう告げると、姉は驚いたように一瞬目を見開いた。 「ねーちゃん。コイツ、アンジェリカに『捨てられて』自棄になってるみたいだしー……オレ達が拾っちゃっても、別にいーよな?」 双方が、息を飲み絶句するように沈黙する。自ら「産む」と提案した真珠でさえ、困惑した眼差しで珊瑚を見つめ返した。 「だって仕方ねーじゃん。元々この屋敷にいる奴らだって、行き場がない連中の寄せ集めだろ? 今更一匹増えたって、どうって事ねーよ」 「……珊瑚……あんたは、それでいいの? 相手は実の姉になるのよ」 「今それ聞く? つーか、先にねーちゃんの事好きになったのオレだし。いーんじゃね? ねーちゃんがよければ」 ねーちゃんが殺されるのを黙って見ているよりは百倍マシだし――「わたしは」、白羽根が言いよどむのを見て黒羽根は嘆息する。 姉は、助かる為だけに今回の選択を採ったのだ。恐らく本心ではないだろう、そんな事は彼女の性格を省みればすぐに読み取る事が出来た。 改めて珊瑚は宙にそよぐ管を見上げる。金糸は、こちらの言葉を待つように揺らめきながら黙して滞空していた。 「安心しとけよ。お前が嫌になったら、その時は家出の手伝いくらいならしてやるし。何ならオレやねーちゃん以外に気になる奴がいたら、 そいつをパパママって呼んでもいいと思う。全員ヒマ人だし、ヘラならいい暇潰しだーつって喜びそうだし。オレはパパ呼び歓迎だけど」 最後にわざとらしく片目を瞑り、敵対者を誘惑する。望みのまま、望まれるがまま、仮初めの親になってやる、と堂々たる宣言を果たした。 相互理解に至ったのかは定かではない。しかし、琥珀色の管はしずしずとその身を収縮させ、再び白羽根の体内へと戻っていく。 それが口の奥へと引っ込んでいったのを見届けてから、珊瑚は意識して柔らかく、優しく真珠の唇にキスを落とした。 抵抗さえしなかった姉をまじまじと見下ろして、不意に湧いた恥ずかしさと照れくささに思わず顔を逸らす。真珠が失笑する音が聞こえた。 「あんたと子育てとか、考えただけで地獄だわ」 「……う……き、肝に銘じておきます」 隠されずにくすくすと笑われ、珊瑚は居心地の悪さに目を瞑る。刹那、手が伸ばされ、頭を掴まれ抱き寄せられた。 我を忘れてしまうには、その反応だけでも十分だ。悪びれもせず、のめり込むようにして首筋に唇を寄せる……月の美しい、夜だった。 ……気まずい。 藍夜はひたすら、もう数分前にはブレンドを終えていたハーブを見下ろして嘆息する。可能であるなら、頭を抱えて悶えてしまいたかった。 そろりと振り返ると、縁側近くのソファに腰を下ろしたニゼルがぼんやりと庭を眺めている。いつもと違い彼女は口を閉ざしていた。 青白い空気の中、空色の髪と赤紫の瞳、健康的な色をした横顔が、美しく曖昧に照らされている。今夜は満月だった。 ポットを手にし、台所を離れた藍夜はふと天井を見上げる。もう少しばかり北に向かったその先に、白黒の神獣達の部屋は用意されていた。 (……今頃は、交わりの最中だろうか) なんとも言いようのない気分に唇を噛み、頭を振る。真珠も珊瑚も、けだものでこそあれ普段は理性ある生き物として行動してくれていた。 惨い事を仕組まれたものだと、改めて怒りを覚える。手早く茶を淹れると、藍夜は二つのカップのうち一つをニゼルの前に差し出した。 「……藍夜」 「いらなかったかい、ニゼル」 「ううん。ありがと」 呆けたような顔でこちらを見たニゼルは、遠慮がちにカップを受け取るものの、香草茶には口をつけずにいる。彼女らしからぬ反応だった。 無理もない。愛して育てた仔らが過去の因果によって、自分達の手の及ばぬところでその尊厳を踏みにじられている。 それも、ニゼル=アルジルの身には全く無関係の因果であるというのだから質が悪い。藍夜はニゼルの横に腰掛けながら頭を振った。 (いや……無関係とも言い切れないからこそ、ニゼルはこうして落ち込んでいるのだろうね) そうだ、自分の目から見て友人は落ち込んでいる。同時に藍夜は、今回ばかりは生半可な励ましが通用しない事もよく理解していた。 少しばかり過去を振り返る。自分が以前告知を受けた際、鳥羽藍夜とウリエル間の反動は、時間をかけてじわじわと感じられるものだった。 自我の統一、凝固、定着。レテ河の水を飲み、ヒトとして半覚醒に至ったオフィキリナス時代とはまるで感覚が異なる「進化」に似た体感。 ニゼルは今がその定着期であった筈なのだ。ただでさえ混乱しがちな時に先代ラグエルが持ち込んだ課題は、あまりに重く圧し掛かる。 「ねえ、藍夜」 「なんだい、ニゼル」 「『あれ』さ、どんな子が生まれてくると思う?」 カップを両手で抱えたまま、ニゼルは庭を見つめながらぼんやりと呟いた。一瞬何を言われたか分からず、藍夜は目を剥いて彼女を見る。 赤紫の中に月光が怪しく反射していた。いや、怪しいと感じたのは、自分がニゼルの発言の中身に驚き動揺したからに他ならない。 「ニゼル」、そう力を込めて名を呼ぶと、友人は苦笑とも自嘲ともとれる微かな笑みを浮かべてこちらを見つめ返す。 「ねえ、こんな事になってもさ。俺、真珠と珊瑚ならどんな子どもを産んでくれるんだろうなーって、そんな事ばっかり気にしてるんだよ」 これは自嘲の方だろうか、ニゼルは悲哀を込めた目を手元に落とした。藍夜は掛けるべき言葉を見失い、ふと彼女の長い睫毛に目を向ける。 ヘラに劣らず整った睫毛だ。空色、横顔、伏せられた赤紫、静かな呼吸。ニゼルが顔を上げるまで、藍夜はそれらにぼうっと見とれていた。 「ん? 藍夜?」 「なっ……なんだい、ニゼル」 「どうしたの、ぼーっとして。俺の顔に何かついてる?」 「いっ、いや……なんでもないよ。その、真珠達の事なんだがね」 「うん。本当だったら、真珠大丈夫かなーとか、珊瑚ちゃんと出来てるかなーとか、そういう心配しなきゃいけないんだよね」 「君ね、それはデリカシーに欠けるというものだよ」 何故か、異様に鼓動が落ち着かない。見透かされてはいないかと、藍夜は内心どぎまぎしながら話を逸らす。ニゼルは小さく唇を尖らせた。 「だってー。シリウスはちゃんとした大人だから加減とか利くだろうけど、珊瑚はまだ若いし」 「ニゼル。君ね、まだその手の話を」 「あはは、怒んないでよー! 冗談だってば!」 軽く笑い合い、ようやっとハーブティーに口をつける。同時に若草色を嚥下して、二人は何の気もなしに庭に視線を向けた。 月明かりが芝生を照らして、暗闇を青白く染め上げている。草木の呼気がすぐ側で感じられるような気がして、藍夜は感嘆の息を吐いた。 ふと横を見れば、変わらずニゼルの美しい横顔がそこにある。彼女は、先ほどと同じように遠くを見るような眼差しをしていた。 「どんな子どもが……って、これ、ラグエルの思考なのかな、それとも俺自身なのかな。俺ってこんなに薄情なんだっけ?」 「……ニゼル」 「本当の俺って、どんな人間だったっけ? ラグエルも俺みたいな性悪だったのかな、だから平気であんなものを創り出せちゃったのかな。 それに似た性格してるなら、俺もラグエルみたいにノクトに殺されちゃったりするのかな。真珠達に、嫌われちゃったりするのかな……」 疑問が堂々巡りである事は、彼女自身が一番分かっている筈だ。仮に今定着期を終えたとしても、答えを出す事は出来ないだろう。 泣き出しそうだと思わせながら、一切感情の籠もらない無機質な声。存在を希薄にさせる姿を目にして、藍夜は胸がざわつく感覚を覚えた。 咄嗟に腕を伸ばす、儚げな迷迭香を掻き抱く。ニゼルを胸の内に収め、しかと腕に力を込めたところで、ようやく彼は我に返った。 ――な、何をしているんだ、僕は!? 無意識の行動に自分でも驚愕する。慌てふためき、次の動作を逡巡したところで、藍夜はふとニゼルが腕を掴み返してきた事に気がついた。 「……藍夜」 「なん、だい、ニゼル」 「ううん。……ありがと」 彼女らしいと、藍夜は前を向いて嘆息する。抱きしめられたニゼルは、泣くでも恥ずかしがるでもなく、ただ自分にそっと身を預けていた。 彼女がニゼル=アルジルであった頃から。否、大昔にニゲラであった頃から、彼女はこうして甘える事が上手かった。 ……アンジェリカもそうあれたなら、全ての結果が変わっていたのかもしれない。その部分は、先代と今代の大きな差だと藍夜は黙考する。 「ニゼル。過去の君がどうあれ、僕達が選ぶ選択肢はそう多くないというものだよ」 「……選択肢? えっと、どういう意味?」 「君も分かっていないものだね。君の非がことごとく責められるべきものだとすれば、審判を司る僕やサラカエルはどうなると言うんだい」 突然の宣言。腕の中で、ニゼルが大きく目を見開きながらこちらを仰いだ。藍夜は、硬直しきる彼女に意識して柔らかい笑みを投げかける。 「誰でもそうさ、皆、何かしらの罪を抱えて生きているものだよ。その大小を誰が量ると言うんだい、神か、悪魔か、それともノクトかい? 冗談ではないよ、彼らだって食事を摂るし、その為に他の生命を奪うだろう。致命傷を負えば命を散らすし、皆、実のところは平等だよ」 「でも俺……真珠に酷い事決めさせちゃって。怪我させそうになったし、真珠にも珊瑚にも選ぶ権利くらいある筈だったのに」 「ニゼル。安心したまえ、君が何者かに、それこそ世界に責められると言うのなら、僕も君と共にそれを受けようじゃないか」 そういう約束だったろう――呆気にとられた顔のニゼルにそう囁いて、藍夜は腕に力を込めた。友人が息を詰まらせる感覚が返される。 それを無視するようにして、互いの鼓動を互いに聞かせ合うように彼女を抱きしめ、二つの身体をしっかりと寄り添わせた。 「かつて君は、そうして僕を立ち直らせた。暁橙の事だよ、覚えているだろう? 君こそ、ずっと僕の味方であると言っていたじゃないか」 甘えん坊で我が儘で、どうしようもない己が友人。彼女がずっと傍らにあったからこそ、今日まで審判官は自己を見失わずにいられたのだ。 感謝している、友愛がある、その恩は返さなければならないと強く思う。藍夜はふと腕の力を緩め、胸の中のニゼルの顔を見下ろした。 遠慮がちに、それでいて何か物言いたげに見上げてくる赤紫の視線。よほど息苦しかったのか、彼女は微かに頬を朱に染めている。 月光に照らされ、その相貌は言葉にし難いほど儚く、美しいものに見えた。きっと暁橙の話をしたからだ、藍夜はそう考え、一度頷き返す。 「そもそもだよ、ニゼル。君に迷惑と面倒と手間暇を掛けさせられるのは、今に始まった事でもないからね。問題ないさ」 「……うん、そっか。そうだよね……って、ちょっと、何それ? もう、言い方酷すぎじゃないの。ねえ、藍夜!?」 このままではいけない。ニゼルが過去のラグエルの行いを悔い、その顔を俯かせる事は、前を向き今を生き抜こうとする白羽根への冒涜だ。 沈んでいるなら引き上げてしまえばいい。肩を竦め、それなりに大きな声でニゼルをからかった藍夜は、反論する友人に笑い返した。 思考を戻す、鳥羽藍夜とウリエルを重ねて一つの自己としてとり纏める。かつての愛しい光景は、形を変えて今も手元に残されているのだ。 俯いている暇も、手招く過去に振り向く余裕もない。守らなければならないものが存在し続けている以上、戦わなければならない。 (……暁橙。君は今、幸せにどこかで生きていられているのかい) 不意に、胸の奥が弾けるように痛んだ。もう一度ニゼルを抱きしめ、その温もりを逃がしてしまわないよう、空色の髪に顔を埋める。 柔らかなローズマリーの香が宙に解けた。どこか切なく香るそれは、かつてニゲラや鳥羽咲耶がこよなく愛した香りそのものだ。 「これから忙しくなるというものさ。真珠も珊瑚も、件の新たな命も。僕達が守ってあげなければならないよ……覚悟を決めておきたまえ」 自分は未だ立ち直れていない、しかし思い出の中の最愛に恥じる事なく現世を生き延びている。立ち止まっている場合ではないのだ。 暁橙の名を聞き、顔を上げた赤紫の瞳に光が戻されたのを、藍夜は決して見逃さない。肯定するように首を振り、もう一度腕に力を込める。 |
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