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楽園のおはなし (3-17) BACK / TOP / NEXT |
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強い熱気を感じた。絶え間なく響いていた悲鳴はなりを潜め、代わりに異様に重苦しい空気が通路に伝わってくる。 嫌な汗が頬を伝い、ごくりと喉を鳴らした。目の前の白く塗られた鋼鉄の扉に手をかけながら、ニゼルはそれを押し開くのを一瞬躊躇う。 嫌な予感がしていた。ふと、横から手が伸びてくる。振り返ると口を真一文字に結んだ藍夜と目が合った。力強く頷かれ、同じく頷き返す。 「さて、鬼が出るか蛇が出るか」 「もう、不吉な事言わないでよ」 何事にも覚悟は必要だからね――親友に合わせて扉を開いた。途端、溢れんばかりの赤と煙が鼻先に迫り、たまらずニゼルはたたらを踏む。 次の瞬間、藍夜の腕の中に引き寄せられていた。庇うように彼の胸元に頭が押しつけられ、一拍遅れて息苦しさに目を白黒させる。 「ちょ、ちょっと、藍夜……」 「ニゼル。火事だよ」 「う、うん。それは、見れば分かるけど」 「――ウリエル。あまり、声を出させない方が賢明だよ」 仰ぎ見たサラカエルの、満面の笑みが恐ろしい。さっさとウリエルから離れたらどうかな、無理言わないでよ、応酬は目だけで交わした。 親友に抱きしめられたまま、視線だけを室内に走らせる。視界を妨げる炎に顔を歪めたとき、ニゼルはようやく探していた姿を見つけた。 「真珠、珊瑚!」 半ば振り払うようにして藍夜の腕の中から飛び出す。部屋の中央、刀を持ったままぼんやりと天井を仰ぐ黒羽根と、寝台の上の白羽根。 さっと上に目をやり、まだ火の手が回っていない事を視認すると、ニゼルは先に拘束されたままの真珠の元へと駆け寄った。 「なんだこれっ……かったい!」 四肢を固定するベルトは思いのほか頑丈で、引きちぎろうとしてもびくともしない。追いついた殺戮がナイフを取り出すのを歯痒く見守る。 こんな酷い仕打ちはない、真珠の気高さを思えば胸が締めつけられるように痛んだ。憔悴しきった表情を前に、ニゼルは唇を強く噛む。 帯を切られ、解放された身をそっと抱きかかえるようにして起こしてやると、白羽根はうっすらと目を開いて小さく微笑んだ。 「……やっと来た。遅かったじゃない……莫迦ニゼル」 「ごめん。ごめんね、真珠」 ニゼルが真珠を抱きしめている傍らで、藍夜は神獣の腕を手に取り、何事かを確認している。注射痕を見つけたのか、その表情は暗く固い。 横目でそれを見ながら、ここでのんびりしてる場合じゃない、ニゼルは泣き出しそうになるのを堪えて頭を振った。 「藍夜、サラカエル、真珠をお願い。うちに連れてってあげて」 「ニゼル。君はどうするつもりなんだい」 「俺は大丈夫。あそこのおバカ、ほっとけないでしょ?」 苦笑いとともに、後ろに視線を投げる。明らかに自己を見失い、半ば放心しているように見える黒色の神獣、珊瑚。 真珠が正気であったなら、自分より先に弟を助けてくれと懇願したのに違いない。そう伝えると、不承不承という風に親友は頷いた。 「分かっているとも。しかしね、ニゼル。僕も君をひとりにしてはいけないというものだよ」 「藍夜……でも」 「サラカエル、頼めるかい」 「はいはい。ま、君が僕の話を聞いてくれる事の方が稀だからね。だいたい予想はしてたよ」 状況が状況であるからか、嫌みはいつもに比べて控えめだ。サラカエルは首を傾げてから白羽根の体を柔らかく抱え上げる。 一瞬片眉を上げた真珠だが、ニゼルが自分を見つめている事に気付くと諦めたように眼を閉じ、殺戮の胸に頭を預けた。 きびすを返した男の背を見届けた後、ニゼル達は二人並んで火の海の前に立つ。呆然と立ち尽くす神獣は、声なく泣いているように見えた。 「ねえ、藍夜」 「なんだい、ニゼル」 「何も聞かないの? 俺がここに詳しい理由とか、カマエルがなんでラグエルに固執するのかとか」 ここに珊瑚達を連れ去らせてしまったのは、明らかに自分、先代のラグエルの所業によるもの。ニゼルは熱に汗を滴らせながら静かに問う。 「聞いたところで答えられるような状況かい? 問題ないとも、それに言ったじゃないか。君が話したい時に落ち着いて話をしたまえ、と」 君のせいじゃないか、理由が明確なら明らかにしたまえ……そう言われると思っていたのに、意外にも親友の答えは穏やかだった。 ああ、それだけで自分は救われる――知恵の銘持ち故の「知識欲」、「好奇心」に焦がれている身として、今代のラグエルは深く安堵した。 彼はいつでも自分の味方だったのだ。鳥羽藍夜であった頃から、否、それこそ転生前のウリエルであった頃からずっと。 (そうだ。藍夜がいてくれるから、俺はずっとニゼルでいられる、自由でいられる……カマエル達みたいに救いも報いもないわけじゃない) 白羽根が何をされたか、黒羽根は何をすべきか。自分はかつてここで起きた事、成された事を知っている……答えはとうに知り得ている。 切り替えなければならない。後悔したところで過去は変えられない上に、単純な懺悔では藍夜にも真珠にも失礼だ。ニゼルは力強く頷いた。 「よし。行こう」 自分に喝を入れると同時、周囲に強い湿気を感じて天井を仰ぎ見る。屋内の黒煙に紛れて、うっすらとした雨雲が徐々に広がりつつあった。 ウリエルの固有能力、天候操作だ。藍夜が審判官の力を駆使してこの場に雨を喚んでくれている。振り向けば親友は微笑んでくれていた。 好きにしたまえ、彼はそう自分に言ってくれている。濡れていく手のひらを見つめ直した後、ニゼルはぱっと顔を上げて駆け出した。 「珊瑚、珊瑚!」 目の前に駆けつけ、マント越しに両肩を鷲掴みにする。いつもならへらへらと応えるところを、珊瑚は虚ろにニゼルを見返すだけだった。 ぐらりと頭が揺れ、煮立つ感覚が全身に満ちる。藍夜が歩み寄ってくるのを待たずに、ニゼルは口を真一文字に結んで拳を振り上げた。 「――こらっ! 何してるの、落ち着いて!!」 殴るつもりはない、単なる気付だ。黒羽根の顔に丸めた指を寄せ、思いきり額を弾いてやる。頑丈に育った額は小気味いい音を返してきた。 「え、ニゼ、ル? ……いっ、てえ」 「いってえ、じゃないでしょ! 何してるの、真珠を護りもしないで!」 「ねー、ちゃん?」 「そうだよ! 真珠は体質がシリウスに一番似ちゃってるのに、血なんか浴びさせちゃ駄目でしょ!?」 かつての騎獣と一緒だ。約束を反故にされ、怒りと憎悪で我を忘れ、己の一族の多数を同じ凶刃で屠った一角獣シリウス。 彼の血がそうさせるのか、それとも母である琥珀の影響か。珊瑚が暴れた後は、血と炎で真っ赤に染まっている。 香ばしい臭いでさえ満ち始めていた。いずれにせよ、頬に飛ばされた多量の飛沫といい、穢れに弱い真珠がこの光景に耐えられる筈がない。 「忘れちゃ駄目でしょ、真珠の事昔から大好きなんでしょ!? こういうときに珊瑚が護らなきゃ、誰が一番に護ってあげられるの……」 胸が痛む。同時にニゼルは、眼前、ぼんやりと呆けていた黒羽根の眼差しにしっかりとした光が灯されたように感じた。 「ニゼル、オレ……オレ、どうしよ……ねーちゃんに、謝らなきゃ……」 「うん、うん。そうだね、そうしよう。ほら、大丈夫だから。早くここから出なくちゃね」 彼は白羽根の神獣を愛している。崇拝といってもいいかもしれない。だからこそ、ニゼルの呼びかけに対し珊瑚はすぐに自己を取り戻した。 手を取り合い、半泣きになる獣の頭を撫でてやる。急がないと、と耳打ちしてくる藍夜に頷き返して、三人はすぐさまきびすを返した。 「藍夜、カマエルは?」 「瞳術の縛りは解除されているからね。赤い豹は既に立ち去った後かもしれないよ」 親友は険しい顔で瞳術を作動させている。導かれるまま脱出経路を辿り、そういえばこんなルートだったっけ、とニゼルは眉を潜めた。 そうなのだ。かつて自分はここにいた事があり、ここで決して表立っては言えないような非情な実験に関与していた事もある。 間違いない、きちんと覚えている感覚があった。だというのに、思い出せた記憶の全ては酷くぼんやりとしていて、どこか霞掛かっていた。 ……一度だけ足を止めて振り返る。暗がりの向こう、珊瑚が放った炎が煌々と燃える先。そこから誰かがこちらを見ているような気がした。 「誰……だったのかな」 「黒色」、「暗闇」、「底の見えない水たまり」。直後、ふと奇妙なイメージが脳内を過ぎり、頭痛を覚えてこめかみに拳を添える。 「ニゼル? どうかしたのかい」 「藍夜……あのさ、俺」 「顔色が悪いようだね。煙を吸ったのかもしれないよ、さあ、早く出よう」 強引に、現実に引き戻されたような気がした。わざわざ戻ってきた親友は、半ば無理やりニゼルの手を掴んで廊下を走り出す。 手を引かれながら、珊瑚に頷き返しながら、しかしニゼルは自身の不可解な違和感に眉根を寄せていた。 背中に熱を感じて、慌てて足を急がせる。放たれたまま消されずじまいとなった火は、その勢いを増すばかりだった。 「――ああ、ご無事でしたか。皆さん、さあ、こちらへ」 燃える塔を抜けた直後、ニゼルは藍夜と思わず目を見合わせる。天上特有の澄んだ空気と青々とした草原の上、見覚えのある人影があった。 金緑の天使ラファエル。彼の師であるケイロンの姿は見当たらず、代わりにその横にヘラが涼しい顔で立っている。 駆け寄ると彼は困ったような、それでいて心の底から安堵したような顔をした。こちらの事情は既に把握しているような体に見える。 「ラファエル先生……何故ここに」 「藍夜。あーいや! もう、一大事だからヘラかサラカエルが呼んでくれたんだと思うよ?」 「ウリエル。ニゼルさんの言う通り、僕達を手配されたのはヘラ様だよ。緊急事態だったからね……先生は屋敷の方に向かわれているよ」 緊急事態、それを聞いて親友が体を強張らせた。掛けてやる言葉が思いつかず、ニゼルは一瞬唇をきゅっと結ぶ。 刹那、三人を押し退けるようにヘラが前に出た。藍夜達の後ろに隠れるようにして塔を見つめていた珊瑚が、ここでようやく女神に気付く。 彼女はにーっと子供じみた笑みを浮かべた。釣られるようにしてぎこちなく笑い返した黒羽根は、直後強力な打撃を額に受ける。 ピシャリと、いい音がした。呆気にとられて大口を開ける藍夜とラファエル、一方でニゼルは「まあそうなるよね」と口をもごもごさせる。 「痴れ者が。自ら愚弟らと同じところに堕ちてどうする?」 女神は扇子を珊瑚の顔面に突きつけたまま、険のある目つきで彼を睥睨した。 「姉を奪われたから暴力、か。愚か者が、お前の力不足が最たる原因だろう。八つ当たりも甚だしいぞ」 「やっ、八つ当たりって」 「八つ当たりだろう、違うとは言わせんぞ。見ろ、お前が加減しなかったせいで生存者が見当たらない。ここの情報を探る事も出来ないな」 ヘラの気迫と批判に、珊瑚は気圧されるばかりだ。でも、だって、ぶつぶつと小声で弁解しようとして、しかし言葉は続けられずにいる。 彼は、しばらくそうした後で肩を落として力なくうなだれた。一度塔に振り返り、審判官が降らせた雨が建物の全体を覆っていく様を見る。 「ご……ごめんなさい」 女神に向き直った時点で、珊瑚は珍しく素直に謝罪を口にした。ここでやっと、ヘラはふっと小さく息を吐き、顔の険しさを緩めてみせる。 「うむ、私には害が及んでいない、だから此度は見逃してやろう。感謝しろ」 「……うん、分かった……って、へ? はああっ!? 無関係なら死人が出てもいいっての!?」 「お前が言うなー、馬鹿者がー。どのみち残っていたのは下っ端の下っ端だ、赤い豹も手掛かりを残して消えるほどの阿呆ではないだろう」 ときに、地母神が愛用する扇子は、彼女のシンボルであると知られる雄孔雀の羽根をあしらった極彩色に富む品だった。 形の整った唇をそれで覆い隠し、ヘラは目を細めて薄く笑う。色鮮やかな装飾と彼女の美貌を前に、周囲の空気が急に冷えたように思えた。 「赤い豹については先代のラグエルから多少は聞いている。こちらには奴の師であるケイロンもついている、急ぎ事を荒立てるまでもない」 「ん? あれっ。アンジェリカって、一応カマエル達の事ちゃんと見てたんだ」 「多少、だがな。ニゼル、そこの馬鹿者の始末は帰ってから改めて取り決める。ウリエルを連れて一旦屋敷に戻っていろ」 「うん? ヘラはどうするの?」 「……ニゼル。ここはヘラ様にお任せしなければ」 「え、でも、藍夜……」 屋敷の主を置いて帰還しろとは、これ如何に。逡巡するニゼルだが、親友は屋敷への撤退を促すばかりでろくな説明をしてくれない。 珊瑚に至っては、「始末」の一言に震え上がっている。戸惑いながら振り向くと、ヘラはニゼルにわざとらしく頷き返した。 直後、唐突ににやりと笑う。意味深な笑みである、サラカエルがこの場にいればすぐさま彼女に詰め寄っていそうだ。ニゼルは眉を潜めた。 「心配するなー、ラファエルもいるんだ。いざとなればこいつを盾にして、私は華麗に逃げるからな!」 「そうですね……って、ヘラ様? 先生と同じような事仰らないで下さいませんか!?」 話を逸らされた、ように感じる。サラカエルが残していったという転送陣を指差され、これは逆らっても駄目かな、とニゼルは頷き返した。 藍夜に付き添うように陣に踏み込み、それでも一度振り向いてみる。ヘラは変わらず燃え盛る塔を見つめたまま、微動だにせずにいた。 そのぴんと伸ばされた背筋は、凛とした佇まいは、まるで何事かの決意を固めているかのようにも見える。ニゼルははっとして息を呑んだ。 (ああ、そうだよ、なんで忘れてたんだろ? 俺、人間時代が長すぎて感性が鈍くなっちゃったのかな) 今、塔の真上に、燦々と白く輝く光が降り始めている。新世代の神々の来訪を告げる後光だ……ニゼルは拳を握りしめた。 (ここは天上界だ、神々は俺達をいつでも自由に監視出来る。ヘラはこれからゼウス達からの糾弾を、たったひとりで受けるつもりなんだ) 卑怯だ、とは今更の感想だ。女神をなんとしても取り戻したい彼らの事、今回の件を責任追及の絶好の機会として捉えているのに違いない。 一方で、巻き込まれた形とはいえ珊瑚や真珠にとっては、人生観を根底から揺るがしかねない非情な出来事だった筈だ。 しかし、他の生命を娯楽の産物としてしか見る事の出来ない神々からすれば「少しの天使と獣が駄目になった」程度の認識しかないだろう。 彼らの考え方はよく知っている。だからこそ、先代も含め自分達ラグエルは彼らに逆らうようにヘラの元に勤め続ける事を選んだのだ。 彼女を独りにしないが為に。彼女が、最愛の殺戮を含む大切な部下達を、二度と手放さずに済むように―― 「――ヘラ。無理しないでね」 無意識に、そう声を掛けていた。彼女は自分にとってかつての上司であり、また前世では肉体を共有し合った戦友でもある。 果たして、ヘラはニゼルに背を向けたまま、畳んだ扇子をくるりと手首を利かせて優雅に回して見せてくれた。 「ニゼル」 「うん。分かってる、大丈夫だよ。藍夜」 交わされる言葉は少なく、そして短い。ニゼルは今度は躊躇せずに、親友、そして珊瑚としっかり手を繋いで転送の術に身を委ねる。 「……本当に、宜しかったのですか。ヘラ様」 その場に残されたうち、治癒の天使は深い溜め息とともに傍らの女神に話しかけた。塔、否、後光の群を見上げて、ヘラは冷徹に鼻で笑う。 「なんだ? 私はいつから、お守りがいないと何も出来ないような非力な女神になったのだろうなあ」 「い、いいえ! そんな、決してそういった意味では……」 「分かっている。むしろ、お前に付き添いをさせて悪かったな。私の従者は過労で使い物にならないんだ、兄弟子としては踏ん張り所だぞ」 にやりと、実に意地の悪い笑みを浮かべた地母神を前に、ラファエルは二の句を次ぐ事が出来ない。 ゼウスをはじめ、神々は黒羽根の神獣の過失をこれでもかとばかりに責め立ててくるだろう。それくらいの事は容易に想像出来た。 つまるところ、ヘラの置かれた状況は限りなく不利にあるのだ。だというのにこの女神の余裕に満ちた自信はどこからくるものなのだろう。 嫌な汗が滴り、たまらず乾いていく口内でぎりりと歯噛みした。「きたぞ」、ヘラは鼻で笑い飛ばすように低い声をその場に響かせる。 「案ずるな、堂々としていろ。連中に少しでも知恵が残されているのなら、私に何を言っても無駄である事くらい、容易に想像が及ぶ筈だ」 ラファエルは内心の怯えを見透かされたかと、ぎょっとして目を見開いた。彼の眼前で、さくりと、軽やかな足音が草原の上を撫でていく。 まるで気ままな散歩か買い物に行くかのような足取りだった。追いかける最中、治癒の天使は女神の表情を盗み見て、肩を強張らせる。 笑顔だ。ヘラは満面の笑みで塔の元に向かっていた。糾弾の場に似つかわしくない美しい微笑は、逆に脅威の来訪そのもののように見える。 「ああ、ヘラちゃん……これは一体、どういう事なんだい?」 「ああ、久しいな、愚弟。どういう事とは? 見れば分かるだろう、派手な焚き火だな!」 「ヘラ様、そんなご冗談を言われている場合ではありません。天上界の古き良き文明の遺物が、失われようとしているのですよ」 「うん? 古き良き? そうなのか。私には、手に余るから今は放置しておこう、と投げ出された可哀想な施設にしか見えなかったがなあ」 あからさまな挑発を押し出す女神を前に、ラファエルのみならず、ゼウス達も困惑しているようだった。糾弾は、次第に激しくなっていく。 (この方は、何故ここまで冷静に……まるで動じていないようだ。まさか、珊瑚君達が今日襲われる事をあらかじめ知っていたのだろうか) 「まさか、そんな事はありえない」。自らが一瞬のうちに浮かべた恐ろしい予想を、ラファエルは頭を振って強引に打ち消した。 「天上界側から私物に手を出され」、「こうなる事を分かっていてこの場に出てきた」。そんな仮説を立てたも同然となってしまうからだ。 ……昔から、ヘラは一挙一動が支離滅裂で、やる事なす事全てが型外れなひとである。彼女の意図を正確に掴めている自信は、全くない。 可愛がっている部下達が総出で愛でている神獣。己が領域で管理、管轄している存在を、そんな風に他に売るような真似が出来る筈がない。 (……魔獣、神獣の生態にお詳しい、ヘラ様である限り) もし、件の二頭の発育を見て交配の機会を窺っていたとしたら……カマエルはむしろ、彼女に利用されてしまった立場ではないのだろうか。 ケイロンでさえ、そろそろきちんとした教育を、と診療所でぼやいていたくらいなのだ。時期としても珊瑚の気性の荒れ方にも説明がつく。 (もし全て分かっていた上で攫わせたのなら、或いは……いや、よそう。そんな事をウリエルが知れば、あの子がただで済ませる筈がない) 神々の会合を近場で見守りながら、治癒の天使は眉間に深い皺を寄せていた。そうだ、地母神ヘラの思惑など、到底自分には理解出来ない。 その一方で、ゼウスらは賠償としてヘラの天上への帰還、そして更には、白黒の神獣の受け渡しを要請してくるのに違いない。 しかし彼女の真意が見えない今、自分には、ただ中立の護衛役として彼女の隣にいる事しか許されないのだ。 口を出す事も、ヘラの思考を紐解く事もままならない。如何に彼女やウリエルらを思っても、自分は一介の天使に過ぎないからだ。 どう乗り切るおつもりなのですか、ヘラ様――ラファエルは、次第に膨れ上がりつつある嫌な予感に、居心地の悪さを覚えて止まなかった。 |
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