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楽園のおはなし (3-16)

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「ニゼル! 待ちたまえ!!」
「ウリエル! 今は、」
「……分かっているとも。後を、追おう」

藍夜には、時折ニゼルが分からなくなる時があった。飄々としているのはもちろん、多少の事では動じない性格がその感覚を後押しさせる。
彼は嘘や隠し事をよくする方だが、昔から顔には出す方だった。それ故に、ヘラの件においては完全な騙し討ちをされたと感じている。
フロルの告知を経て、女性体になった今もその傾向は残っていた。重要な事ほど自分の中に押し込めようとするし、肝心な場面で黙り込む。
……その性分は、先代のアンジェリカや今代のアクラシエルに酷似する性質だ。しかし、それを指摘する事を藍夜は出来ずにいた。
一度でも口にしてしまえばニゼル=アルジルの個が消えてしまう気がしたからだ。彼、否、彼女には形ばかりのラグエルでいて欲しくない。
先代のように皆に何も言わないまま離れて欲しくないのだ。もう二度と友を失いたくない、それだけは確固たる意志として自分の内にある。

「……これは……どういった施設だったのだろうね」

ニゼルが飛び降りた先。底に着くや否や、他と異なり唯一鋼で作られた扉を押し開いて、藍夜は誰にともなく呟いた。
これまでの真っ白な迷路とは真逆に、扉の先には鉄と鋼、ほんの少しの錆で構成された、無機質な通路がまっすぐに続いている。
設備がまだ生きているのか、壁に埋め込まれたガラス容器のふちに開けられた通気孔から生暖かい空気が通路に漏れ出し、一方で、足下から
吹きあげる風がそれを冷却していた。ガラスの向こうは濁った液体に満たされ、時折浮かぶ気泡が弾けるばかりで、中を覗く事は出来ない。
酷く心身に悪そうな環境だ、藍夜は訝しむように眉根を寄せる。不意に背筋に悪寒が走り、身を竦めた。

「やあ、なんだか嫌な空気だな」
「サラカエル」

殺戮は苦いものを噛んだような顔をしている。彼が自分の前でこういった表情を浮かべるのは珍しい。黙って二の句を待った。

「覚えているかい、ウリエル。ここは、忌々しい例の場所に全くよく似ているよ」
「覚え……何をだい?」
「やあ、平和ぼけってやつかな。対天使研究所さ、前に僕達が捕らえられていたところがあっただろ」

対天使研究所。口内で音だけを繰り返して、藍夜はサラカエルの顔をもう一度見つめ返した。首を傾げた対天使は、答えずに歩を再開する。

「研究所なんて名ばかりで、古代神の影響を強く受けた対天使の生態解明と改造が主な目的だったからね。思い出したくないのも分かるよ」
「覚えているとも、天上界に散らばるあらゆる対天使がそこに収容されていた。けどサラカエル、僕達がいたのは短い間だったじゃないか」
「ヘラ様がラグエルを通じて遠回しに施設の解体を促したからだよ。ま、そのおかげで僕達も赤い豹に恨まれる結果になったというわけさ」
「いや、つまり君が言いたいのはこういう事かい、サラカエル。琥珀や真珠達一家が狙われ続けているのは、僕達の過去も起因していると」

つい咎めるような声を出し、直後藍夜は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。サラカエルは「言いたくなる気も分かるよ」、と首を傾げてみせる。

「とはいえ、あの施設にカマエル達が噛んでいたかは不確定だ……使われている技術から見て、同類がいるのは間違いないだろうけどね」
「同類? 多種族の生体実験や改造、改悪を良しとする面々、という事かい」
「頭が回ってきたようで何よりだよ。つまり、間抜けも神獣達も何らかの手が加えられていてもおかしくない。戻り次第調べてやらないと」
「何らかの手……サラカエル、ニゼル達は無事だと思うかい」
「いや、実のところ連中の事も気掛かりではあるんだけどね。ウリエル、僕が言いたいのはそれだけじゃないんだよ」

語気が刺々しいのは、後手に回った事による苛立ちだけではない。ガラスに視線を走らせながら、サラカエルは一度立ち止まり嘆息した。
その表情は沈んでいるように見える。藍夜は言い返す事も問い詰める事も忘れて、彼が覗き込んだガラスの向こうに視線を移した。

「高位とはいえ、たかが天使にここまでの施設や材料が用意出来るものかな。ヘラ様の件といい、何かしらの後ろ盾がいると僕はみている」

「後ろ盾」。音には出さず口内で呟き直し、もう一度サラカエルの顔を見る。次の瞬間、殺戮の顔には常の皮肉めいた苦笑が滲んでいた。

「どれも僕の仮説さ、確証なんてない。けど、このままにはしておけないだろ。元を断たなければ同じ事の繰り返しだ」
「なるほど。害虫駆除も兼ねて、コロニーの殲滅を計るという事だね」
「がい……ま、そんなところかな。さて、無駄話はこの辺にしておこう。あの間抜けには相変わらず危機感が足りていないみたいだからね」

首を傾げた直後、サラカエルの視線は藍夜から不意に逸らされる。いつの間に追いついたのか、暗がりの奥にニゼルの背中が見えていた。

「ニゼル!」
「……藍夜」

ふと口を閉ざした殺戮の隣から一歩踏み出し、藍夜は躊躇わずに声を掛ける。ニゼルは妙に緩慢な動きでこちらに振り向いた。
視線が合うと同時、急ぎ彼女の元に駆けつける。どこかぼんやりとしたニゼルの目はいつも以上に虚ろで、妙な胸騒ぎを感じさせた。
肩を掴み、自分を見つめ返してくれる事を願う。幸い、ニゼルは藍夜の顔を見上げて口を開いた。いつもと違う、藍夜は知らず歯噛みする。

「藍夜、俺……」
「いや、無理に話さなくとも構わないさ」
「え、でも……」
「ニゼル、君には僕が怒っているように見えるのかい。落ち着いてからで構わないとも、ゆっくり、君の思うままに話をしてみたまえ」

言動は不安定で、立っているのがやっとという体だった。肩をより強く掴み、現実に呼び戻してやるように真剣に顔を覗き込む。
サラカエルの言うように、カマエルの術が発動した後なのだろうか。否、きっとまだ大丈夫だ……目を合わせ直した直後、藍夜は首を振った。
落ち着かなければならないのは僕の方だ、自分に言い聞かせて頷き返す。自分の心情などどうでもいい、辛いのはニゼルの筈なのだから――

「……俺ね、昔、ここにいた事があるんだ」

――しかし、彼女から返された言葉はまるで予期せぬものだった。泳ぐように揺らいでいた赤紫の瞳は、不意に審判官の顔から逸らされる。

「いつから、どうやって来るようになったかは、まだちょっと思い出せないんだけど。あの頃、確かにここにいたんだよ」

遠い目、過去の自分の足取りを追うような眼差し。それはひと知れず行方不明となり、喰天使の手に掛けられたラグエルの記憶そのものだ。
胸のざわつきを覚え、友人の肩から手を離した。歩み寄ってきたサラカエルに一瞥を投げると、彼の反応は首を傾げるだけである。
藍夜はニゼルに何事かを尋ねようとした。しかし、何をどう聞くべきかが分からない。開きかけた口を閉じ、途方に暮れて腕を下ろす。

「藍夜、サラカエル。こっちだよ、中をいじるには複雑な構造だから」

一方、肝心のニゼルはきびすを返して通路を奥へと進み始めた。口調はニゼルのままでありながら、態度はどこか他人行儀だ。
「今ここで、ニゼルという個が消されはしないだろうか」。前々から抱いていた疑念が再び顔を覗かせる。たまらず藍夜は頭を振った。

「ニゼル。君はこの施設がどんな目的で造られたのか、知っているのかい」

大人しく着いていくより他にない。分かっていても不安と焦燥には耐えられない。負の感情を掻き消そうとして、咄嗟に問いを投げかける。

「ニゲラはヘラ様の屋敷を離れられなかったし、人間の頃の……ニゼル=アルジルならもっとだ。『昔』とはラグエルの追想なのかい」
「うん、多分ね。でも流石にラグエルやアンジェリカだって、こんな大きな建物簡単に用意出来ないよ。ずっと大昔からあったんだと思う」

予想していた通り、ニゼルは振り向かないまま答えてくれた。交互に駆ける熱風と冷風が、否応なしに背筋に嫌な汗を浮かばせる。
一本道かと思いきや、通路は途中から三叉路、十字路といった複雑な構成を見せ始めた。ニゼルは迷いもせず、するすると奥へ進んでいく。
……奥へ向かっている、そう思えたのは、次第に内壁が錆びついたものから真新しい白塗りの石壁に変わり始めたからだった。
靴音から察するに、従来の鋼鉄に薄い壁板をはめて新調したのかもしれない。まるで新設された医療機関に迷い込んだような錯覚を覚える。

「……ニゼル?」

藍夜はふと足を止めた。不意に立ち止まった友人が何の変哲もない壁を見つめている。一見ではこれといった凹凸や印の類も見当たらない。
隠し扉でもあるのだろうか、サラカエルに目線を送ると、彼は妙に険しい顔をしていた。ニゼルの横顔に視線を戻した瞬間、はっとする。

「……ここに、」
「ニゼル?」
「ここに隠しておいたんだけどなあ。カマエル達、なんで勝手に持ってっちゃったんだろう」

藍夜は二の句を告ぐ事も、問い詰める事も出来ずにいた。ニゼルの顔面に浮いたその表情を、自分は未だかつて見た覚えがない。
嬉々として驚喜し、同時に凶悪に狂喜する笑み。殺戮が仕事を始める際、獲物に向けて投げかける脅迫めいた微笑に酷似する笑い方だ。
伸ばした手で壁板をそっとなぞり、ニゼルはもう一度小さく笑う。「してやられた」、その横顔ははっきりとそう主張していた。
今の彼女の話を理解する事は困難だ。まるでこの場に発露したラグエルが、自分達を無視して一人、回想に興じているようにも見えてくる。

「よし。あとは一本道だから、迷わないでさくさく行けるね。行こう、藍夜、サラカエル」

目の前の人物は友人ニゼル=アルジルであり、かつてはフロル=クラモアジーであり、また最愛のニゲラであった筈だ。
しかし藍夜は不安でたまらなかった。彼女がもしまたラグエルとして生きる事を望みつつあるのなら、自分はどうするべきなのだろう。

(いや、所有物に手を出したカマエル達を許すような人柄ではない筈だ。彼女がまだ、ニゼルであるのなら)

駆け足になり始めたニゼルの背を追う。今はまだ、自分の名を呼び必要としてくれているのだ……苦いものを噛む心地で、足を急がせた。






「……カマエル様は、まだお戻りには?」

古の神具研究所とは名ばかりの遺跡の奥。件の赤い豹をはじめ、一部の天使が再興した施設の最奥は白塗りの壁で明るく彩られている。
同色の服に袖を通した面々のうち、一部は神から忠誠心がない、信仰心が足りない、働きが不十分だとして捨てられた堕天使となっていた。
彼らは行き場なく地上を彷徨い、長寿故に見失った存在意義を求めて困窮していたところを、カマエルに救助された者ばかりである。
それ故に狂信的な者も多くあった。目の前の「処置を済ませた個体」に一瞥を投げながら、誰かがぽつりとカマエルの行方を知ろうとする。

「カマエル様にとって、此度の実験は非常に重要なもの。殺戮ら如きに邪魔をされるわけにはいかないだろう」
「だから御自ら確かめに? そんな、危険すぎる」
「ならばお前こそ同行すればよかったのでは? あの方を危険に晒しているのはお前だろう」
「それを言うなら、あなただって」
「しかしだ、施設の防衛設備はカマエル様とペネムエ様にしか権限が」
「そんなものは言い訳だ! 万が一あの方に何かあっては……」

狭い部屋だ。しばらく前に「侵入者の牽制を試みる」と退室した上司の身を案じる複数の声は、そのうち責任のなすりつけ合いに変わった。
次第に声が荒ぶり、室内の壁は反響でびりびりと揺れる。同行しなかった後悔と部屋に置いていかれた不安とで、皆気が立っていた。

(……こいつら……わたしがここにいる事を、忘れているんじゃないかしら)

そんな中、いくら薬剤を多量に投与されていたとしても、寝台の上の実験動物に「目を覚ますな」と言う方が難しい話だ。
未だに拘束帯で台に固定されたまま、真珠は朦朧とする頭を動かさず、視線だけで室内の様子を探ろうと試みる。

(だるい、眠い……わたし、一体何をされたのかしら……)

裂かれた服の全貌は見えない。胸から下には厚手の布が掛けられていて、働かない頭と麻痺した五感では、その下の姿を想像出来なかった。
あの服、気に入っていたのにね――溜息を堪える。感覚が戻ってくれば多少の探りも入れられるのに、そう出来ない事がもどかしかった。
加えて、周囲の白衣達の喧噪も酷く耳ざわりだ。そんな言い争いをするより先にすべき事があるだろう、思わず口出ししたくなってしまう。
気だるさもあり、真珠は苛つき始めていた。歯噛みし、腕だけでも動かせないかと力を込めたところで、ふと思考が切断される。

「……え?」

生臭い悪臭が宙を走った。同時に、頭の真横に何か質量のある物体が勢いよく落ちてくる。
目でゆっくりとそれを追い、正体を視認したところで真珠は悲鳴を上げた。頬にぬるりと生暖かい感触が散らされ、頭が真っ白に染まる。

「なっ!?」
「なにご……しんにゅ」

パニックに陥ったのは白羽根の神獣だけではなかった。首を胴体から寸断された者に続き、別の堕天使は後頭部から脳天を貫かれ絶命する。
一体何者が、犯人を確認しようと振り向いた天使は、振り向きざまにこめかみから上唇にかけてを青白く煌めく刀に断ち裂かれた。
悲鳴と混乱が拡大する中、血濡れの業物を手に無表情を顔面に張りつけた少年が、室内の顔触れを一つずつ数えていく。
黒羽根の神獣、珊瑚だ。姉と同じように捕らわれていた鷲馬は、しかし自力で脱出を計り、姉の気配と血臭を辿ってこの場に現れた。
結界を刃の代わりにして拘束を解いた為、その四肢は血に濡れている。しかし、そんな自身の損傷より遙かに優先すべき事が彼にはあった。

「……残り、十三匹」
「や、やめろ! 話を聞いてくれ!!」
「わっ、我々はただ神々に貢献するべく……う、うわ、」

ゆらりと長い黒色が揺れる。直後、手近な天使の額に刀の切っ先が吸い込まれていった。倒れ伏した仲間の安否を案じる者は、誰もない。

「あー……やっべ、手放した。親父にどやされる」

武器を取り返さないまま、一つに束ねていた後ろ髪の結い紐を解き、珊瑚はおもむろに真珠の元に歩み寄る。
止める者などいる筈がない。誰もがこの場から逃げ出そうと慌てふためき、泣き喚き、かつての同胞の屍さえ踏みつけて駆け回っていた。

「……ねーちゃん。真珠ねーちゃん」
「っう! ッ、あ、ぁ、」
「ねーちゃん。遅くなってマジでゴメン、すぐ全部片付けるから。ね?」
「……っさん、」

臭気で錯乱しながらも、殺しなんて駄目よ、姉はそう言いたかったのに違いない。言動は刺々しいが、真珠は本当に心根の優しい獣だ。

(でもねー、ねーちゃん。ねーちゃんに手を出しておきながら何の覚悟もないクソどもなんて、オレは一匹たりとも許すつもりはないんだ)

皆まで言わせない。名を呼ばれるより早く、整った形の、それでいて見るからに血の気の失せた愛しい唇に、珊瑚は己のそれを重ねる。

「……真珠ねーちゃん。大好き……オレずっと、こうしたかったんだ……ね、いい仔にして、待っててね」

白羽根は黒羽根に応えない。呆然とした顔がぼんやりと自分を見上げてくるのを、珊瑚は苦笑いで出迎えた。
この様子じゃマジで気付いてなかったんだな――僅かな自嘲が、逆に己の思考を冷やしていく。宣言通り、寝台に背を向けた。

(やーわらかかったなー。あとでまた、しちゃダメかな)

今、己の身を焼くのは純粋な本能だ。魔獣として、鷲獅子の血を継ぐ獣としての本能が、殺戮の欲求が、じりじりと憤怒の火を焚いている。
端から制止の声を聞くつもりはなかった。因縁とやらが絡むニゼルのみならまだ知らず、最愛の姉を奪い、その身を弄くり回した天使達。
……許せる要素など一つもない。真珠の身に何かあれば、その瞬間からすぐにその元凶を殲滅しようと決め、ここに着いてきたのだから。

『さんご。あんたのなまえは、さんごよ。かあさんたちがそうつけたの……わたしはあんたのおねえさんで、しんじゅよ。わかる?』

産まれて初めて目にした日の事は、今でもよく覚えている。眼を開けた瞬間から、自分は真っ白で儚げな彼女の虜になった。
初めて言葉を交わし合い、初めて嘴で羽根を整え合い、笑い合い、常に最も身近な存在、異性、護るべき対象として傍にあったひと、真珠。
強気な言葉遣いに冷や冷やさせられ、色白の姿に目を奪われ、稀に零される微笑みに、歳月を追う毎に想いを募らせていったのだ。
きっかけなどそんなものだ、大した理由も理屈もない。ただ純粋に惹かれ、一途に想い続けていた……ただそれだけの事。

『ねーちゃん、ねーちゃん! ねーねー、オレのこと、すきー?』
『莫迦言わないで。あんたはたったひとりの弟なのよ、好きに決まっているじゃない』
『うー、そういうイミじゃなくってさー』
『なら、どういう意味よ?』
『……んーん、なんでもない! ねーちゃん、大好きー!』

彼女にとって、或いは地母神の屋敷に住まう者達にとって、自分はただの用心棒か愛玩動物に過ぎない。その事は早くから自覚出来ている。

(でも、それでも……オレは、黒羽根の神獣は。ねーちゃんの事が、白羽根が……ずっと)

血が繋がっていようが、所詮は獣のすりこみ現象でしかない慕情であろうが、珊瑚にとって真珠への想いは尊ぶべきものだった。
大切にしていこうと、あらゆる悪意から守ってやろうと、道化を演じながらも秘密裏に自分に固く誓い、役割りを果たしてきたのだ。
愚かだと、莫迦だと笑われても構わない。黒羽根にとって、この世界で一番に優先すべきは白羽根の神獣の笑顔そのものであったのだから。

「うっし、考え事終わりー。さーて、お次はどいつだ?」
「ひっ……」
「や、やめ、やめ……」
「あーあー、逃がすと思ってんの? 壁沿いに結界組んだから、出口なんてどこにもねーよ」

それを蹂躙しようと言うのなら、容赦出来る筈もない。真珠を連れ去った連中の理由、正義など、珊瑚にとっては意味のないものだ。
逃げ惑う天使達は未だに脱出出来ずにいた。それもその筈、二人目を屠った時点で、室内の端という端に薄い無色の結界を展開させてある。
混乱しきった状態では、破る術を編み出す事も困難だろう。それも踏まえて、あえて刀による大胆な殺傷に乗り出したのだ。
派手であれば派手であるほど話の種となるものだ、自分達に手を出した者がどんな地獄を味わうか、天上の者に知らしめる為の演出だった。
屋敷を出る直前、とって返して父母の寝室から持ち出した刀、天ノ露。落涙するかのように直立し、沈黙していた業物を、強引に抜く。

「ま、なんでもいいか。どーせニゼル達へのフォローとかが、一番めんどくせーんだし」

鬼だ。この場にあるのは、神獣でも鷲馬でもない、復讐の鬼と化したただの怪物。白羽根の反応を思い返し、黒羽根は口端をつり上げた。

「コイツらは皆殺しでいいよな、もう」

刀身に映る自分の笑みは、今もこれから先も、決して姉には見せられまい。珊瑚は口内で短く祝詞を詠唱する。
全ての悪行を消し去る為、誰ひとりとして取りこぼしがないよう、母から譲り受けた火の術式――燃え盛る炎を室内に召喚したのだ。

【――焼けろ、灼けろ。全て跡形もなく燃やしてしまえ】

……布の隙間から垣間見えた姉の腹部には、痛々しい傷の縫合痕が惨たらしく残されていた。もし、彼女が連中に穢されでもしていたら。

「そのときは、いっそオレとふたり、一緒に冥府の底に逝くのもいいよな。ねーちゃん」

「よくない、あんたのそれは間違っている」。真珠がまともに意識を有していれば、彼女は弟をそう罵り、修正しようとしたのに違いない。
しかし今、白羽根は血臭と実弟からの口づけで混乱し、正気を保てずにいる。同時に、黒羽根もまた実姉の動揺に気を回せずにいた。
押さえ込み、隠し通そうとしていた愛着。歳月を経て歪みかけた激情に振り回され、珊瑚は平常の冷静な判断を下せずにいる。
泣き笑うような顔を上げ、父の得物を強く握って一歩を踏み出した。その道がとって返せない道のりである事を、少年はよく理解している。





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 UP:20/02/08