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楽園のおはなし (3-15) BACK / TOP / NEXT |
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目を覚ますと、真っ白な見知らぬ天井が見えた。起き上がろうとして、体が思うように動かない事に気付く。 真珠は、自分の四肢が寝台の角に丈夫な布紐で固定されているのを見て愕然とした。拘束具の一種であるようで、緩む気配はまるでない。 しばらく抵抗を試みたところで仰向けになる。ある程度の予想はしていたとはいえ、ここまでの事をされるとは思わなかった。 「気分はどうかね?」 聞き覚えのない声がして、視線だけを足下に向ける。見下ろしてくるのは見覚えのない天使で、赤色混じりの金の髪が印象的だった。 「どちらかといえば最悪だわ。客をもてなす作法を知らないのかしら」 「大した度胸だ。流石、今代のラグエルに懐くだけある」 「……あんた、ニゼルの事を知ってるの」 男は、低い声で笑った。どこか蔑むような視線に白羽根は片眉を上げる。 「知っているとも。だからこそ、こうして君は我々に捕らえられてしまったのだよ」 「ああ、そう。捕まえてくれなんて頼んだ覚えはないけど」 「残念ながら君の意思を尊重する気はなくてね。しかしだ、我々も時間がない。手早く処置を済ませねば、また邪魔が入ってしまう」 全身が粟立つのを感じた。薄ら笑いが無表情に代わり、男の白衣と室内、血のような色の瞳が反発しあい、恐ろしい光景のように目に映る。 真珠は悲鳴を上げたくなるのを必死に堪えた。希少な神獣、ヘラの手元にある身柄という自身のプライドが、醜態を晒す事を拒んでいる。 「前にも言った筈よ。わたしに何かしたら、ニゼル達が黙ってないわ」 「それも承知の上だとも。フフッ、我々の悲願に比べたら、ラグエルの望みなどとるに足らないものだ」 「悲願ですって? そんなものに順位がつけられるとでも思っているの? あんたの半生がどんなものかは知らないけど、おめでたい頭ね」 「去勢はよしたまえ。何、痛みがないよう配慮はするとも。君もその器に産まれたからには、知っておいた方がいい事もあるという話だ」 「また邪魔が」と男は口走った。その口振りから、彼が自分達にとって驚異となり得る存在である事を白羽根は確信する。 赤い眼……眼前の男は、父母に悪事を働いたという天使そのひとではないのか。自分もそのように体を弄くり回されてしまうのではないか。 恐怖はもちろんの事、嫌悪感が湧いて出た。彼は自分以外の生命を実験材料として見下しているのだ、断じて許せるものではない。 「莫迦なの? わたしの運命は、わたしが自分で決めるわ」 声は震えずに済む。真珠は咄嗟に、カマエルに言い返していた。 「悲願なんてもっともらしい事を言って、ニゼルに適わないからその周りに手を出して溜飲を下げているだけじゃない。小物のする事だわ」 「……始めろ」 「わたしをどうこうしたところで、その事実は変えられない。余計に空しくなるのは、あんたの方だわ」 腕が捲られ、透明なチューブを備えた針が柔肌に刺さる。強引な処置に痛みが走るが、白羽根はそれを無視して近寄る白衣達を睨みつけた。 カマエルの部下達に、表情らしい表情は見当たらない。薬か術で操られているのか、目は虚ろで、焦点すら合っていない者もいる。 そこまでして叶えたい悲願とはなんなのか。考えようとして、次の瞬間真珠は思考を停止させた。 贈られたばかりのお気に入りの白い洋装。そのちょうど中央、腹部に銀の刃物が突き立てられ、愛らしい清楚な装いが布ごと裂かれていく。 ――ちょっと、やめてよ! 叫ぼうとして、意識が泥濘に引きずり込まれた。閉じかけた視界の端に、琥珀色の液体を満たした小瓶が映る。 「見よ、主の遺されたこの災厄は、いつにもまして輝きを強めている。祈ろう……大いなる、主の祝福を」 赤い豹は、小瓶を手に寝台へ歩み寄った。恭しく掲げたそれを見る男の顔は、白羽根の罵声を忘れ、恍惚ととろけている。 真紅が疾った。裂かれた白色の神獣の腹の中身を覗き込み、手と器具を用いて広げながら、カマエルは本当に幸せそうに優しく笑う。 「……ううーん……はっ、あれっ? ここは?」 ニゼルは、まだぼんやりとする頭をなんとか振りながら、のそりと上体を起こした。 微かに反響する自分の声を聞き、この場に殺戮がいればまた間抜け呼ばわりされそうだ、と思い至り口を閉じる。 反響……見渡せば見覚えのない場所にいた。岩場をくり抜き石壁を築いた簡素な洞窟、地下の牢。自分は、その一室に閉じ込められている。 目の前に小説の挿し絵か何かで見た鉄格子を見つけ、あまりの新鮮な体験に「おおっ」と妙な感心の声を上げてしまった。 「うーん、凄いなあ。こんな古典的な牢屋に入れられるのって、初めてかも」 「強がりは止せ。今からでもカマエル様に謝罪し、忠誠を誓えば、出してやるくらいならばしてやるぞ」 「いや、別に強がってるわけじゃ……って、誰?」 こてんと首を傾げ、聞き覚えのない声に返事をした瞬間、鉄格子の前に黒い人影が立つ。見上げてみると、それが天使である事が分かった。 自分はお前を好きに出来る権限がある、そう言いたげに翼を大きく開いて胸を張り、布で下半分を覆った顔に下卑た笑みを浮かべている。 「ふふふ、お前が今代のラグエルか。黙ってしおらしくしていれば、こんな目に遭わずにも済んだろうに」 「えっと、ああ、こっちの質問は無視なんだ?」 「しかし、今代も女性体か。噂通り……いや、先代よりも容姿だけは見目麗しいな」 「誰が……ん? 俺の事?」 上から下まで黒色の、一見豪華な作りの軍服。顔面の笑み。背中の翼の色さえなければ、見張りの男は堕天使にしか見えない風貌だった。 ニゼルはぱっと床から跳ね起きる。「君には女性としての自覚が不足しているようだね」、かつて藍夜にされた説教を思い出した為だった。 親友の言では、元男だろうが器に合わせて女性としての所作を身に着けて然るべき、という事らしい。鬼の形相を思い出し、身が竦む。 スカートの中にはホットパンツを履いているが、これも「覗かれないよう配慮したまえ」と二時間に及ぶ説教で習得させられた習慣だった。 「……俺だけじゃなくて琥珀や真珠にも言ってるなら、分かるんだけどなあ」 「おい、聞いているのか! ラグエル」 「うわっ、びっくりした。えっと、何? なんの話だっけ?」 怒られるのは嫌だが藍夜の言い分には微妙に納得しかねるところがあって――反れていた思考は、見張りの天使の怒声で引き戻される。 ニゼルは、スカートについた埃を手で落としながら鉄格子に近付いた。男は、口では怒りながらも舐めるような目で自分を見下ろしている。 ……なるほど確かに、女性はある程度の危機感を持って行動しなければならない生き物のようだ。うんざり気味にニゼルは男の顔を見た。 得意満面といった視線を前に、「鉄格子なしでもそんな強気でいられるのかな、このひと」と呟きそうになるのを辛うじて堪える。 「ふん、ふざけた態度でいられるのも今のうちだ。カマエル様の偉大なる計画を知れば、お前もすぐに我々に跪きたくなるだろう」 偉大なる計画、オウム返しをしかけた瞬間、背後から聞き慣れない音がした。振り向けば、透き通る液晶板が一枚、宙に浮いている。 『久しいな、ラグエル。ニゼル君の器と会った時から百年と少しといったところか』 魔力を動力として映し出される画面と映像は、遙か昔、先代であったアンジェリカの頃に親しんだ技術のひとつでもあった。 当時から顔見知りだった男は、相変わらず辛気くさい顔をしている。ニゼルは鉄格子から離れ、親切に目の前に顔を近づけてやった。 『フフッ、気分はどうかね……おい、近い、近いぞ。婦女子が鼻の穴を広げて見せるんじゃない』 「わざとだもーん、ブヒブヒ。で、何? 今度はどんな発表会を予定してるの」 『フフッ、そう急くものでは……やめろ、これはモニターであって私の実像では……やめるのだ、私の鼻の穴を覗き込むんじゃない』 嫌がらせで更に距離を縮めてやっているのだから、カマエルの反応はニゼルからすれば上々の反応である。 ……あの頃、赤い豹と記す天使はこちらを敵視する傍ら、自分達の研究成果を周囲に誇示しようとする傾向があった。 それが知恵の樹の情報量や、神々の奇跡の業に劣っている事は周知の事実だ。とはいえ、彼らの成果に魅了された者がいた事も事実である。 現に背後の見張り役は、モニター越しの主人の登場に顔を輝かせていた。もっと言ってやって下さい、その双眸は熱をも帯びている。 (ペネ何とかは、俺に言われた事をカマエルにチクらなかったのかなー) 「成果を求めるあまり『やりすぎる』ようなら、こちら側も反撃も辞さない」。この場に連れ去る直前の応酬ならカマエルも見ていた筈だ。 自分は見届け人であると仮定して、それでも神獣達に手を出すのなら……周辺が血塗れになる事を想像して、ニゼルは目線を遠くに投げた。 『発表会、というと大げさかもしれないが。そうともニゼル君、いや、ラグエル。此度の成果こそ君の生意気な口を塞ぐ結果になるだろう』 「ねえ、その『ラグエル』ってやめない? 俺はニゼルだよ、力こそそうだとしても根っこはただのニゼル=アルジル。分かるでしょ」 せせら笑いの中に、憐れみのような声色が微かに混じる。ニゼルは半透明の元知人を、うさん臭いものを見る目で見つめ返した。 『君がいくら口にしたところで、私を含む天上の者達がそうは見てくれない事は賢い君なら既に理解している筈だがね。昔からそうだろう』 溜め息が吐いて出た。ペネムエといい、どうにも彼らは新世代の神に仇なす者を自称していながら生真面目が過ぎるようにしか見えない。 「はいはい、そーでした、分かってますよー。で? 発表会の段取りは?」 『む、そうだったな。フフッ、間もなくだ。じきに真珠さんに我々より特別なギフトが贈呈される』 「特別なギフト? ……真珠に何するつもり?」 次の瞬間、どこからともなくか細い悲鳴が聞こえる。聞き覚えのある声に、ニゼルはぱっとカマエルに振り向いた。 「真珠に何をしたの?」 『フフッ、察しのいい事だ。真珠さんには今し方、ギフトを贈り終えたところだとも』 ぞわりと背筋に悪寒が走る。皆まで聞き終わるより早く、ニゼルは鉄格子を鷲掴みにしていた。当然押しても引いてもびくともしない。 取り乱した娘を見て、見張りの男は驚いて一歩後退る。しかし鉄格子越しだからと安心したのか、意地悪い笑みをニゼルの顔面に近付けた。 『ラグエル。此度の実験こそ、私の勝ちだ』 「ちょっと! 真珠はどこ、酷い事したら怒るからね!」 「ふふふ、どうだ、悔しいか。案ずるな、カマエル様はきちんと実験の成果をお前にも見せて下さるとも」 「うるさーい! 無能なのっぺらぼうは引っ込んでて!」 「のっぺら……? な、なんだと。我を無能呼ばわりするとは、何という無礼者か!」 赤い豹、置いてけぼり。一方、ニゼルは顔を真っ赤にして怒鳴り、鉄格子をなんとかこじあけようともがき続ける。 見張りの天使は、ふと腰から鍵の束を外して彼女の前でちりちりと振って見せた。なんという嫌がらせだろう、ニゼルは強く歯噛みする。 目の前で揺れる鉄の鍵。中でも一番古びた、錆の付着したものが牢の鍵である事を告げ、男はせせら笑った。 ……そうなのだ。カマエルに賛同する以上、彼がラグエルや新世代の神々に対抗心を燃やしている事は端から予想出来ている。 しかし、いくらなんでも性根が悪すぎではないだろうか。ニゼルは、彼を仲間として受け入れたカマエルらの人選につい首を傾げていた。 『待て、ラグエルを侮るな。ろくな事にならないぞ』 「ご心配には及びません、カマエル様。どうせ捕らわれの非力な小娘だ」 「へー、そーですか。そんな事言って、後で怖い目に遭っても知らないからね。脅しじゃないしね」 『おい、ラグエル……』 赤い豹の言葉はそこから先を続けない。ばちばちと不穏な音がして、モニター全体が不自然に揺らぎ、明滅し、その場から消えそうになる。 映像越しに、カマエルが慌てふためく気配が伝わった。ニゼルが訝しむように振り向いた瞬間、どすん、と鈍い低音が鼓膜に届く。 もう一度鉄格子に視線を向けると、見張り役はその場で硬直していた。彼の目が限界まで見開き、表層を血走らせているのを見て困惑する。 「……やあ、間抜けが過ぎると危機感とやらもなくしてしまうらしい」 物言わぬ男の額に、凶刃の切っ先が見えた。頭蓋を真後ろから一突きに貫いたそれは、生々しい音を立ててずるりと引き抜かれる。 聞き慣れた声に顔を上げ、ニゼルは僅かに暗い牢の外に目を凝らした。入れ替わるように天使が倒れたその先に、見知った男の姿が見える。 「サラカエル! それに、藍夜!!」 「ニゼル! 無事かい、怪我はしていないのかい!?」 「やあ、ウリエル、感動の再会の挨拶は後にしたらどうかな。まずはこの間抜けを出してやるのが先だろ」 殺戮が解錠してくれると同時に、親友はニゼルの手を掴み、地下牢から素早く解放してくれた。 彼らに助けられるのはこれで何度目だろう。ニゼルは一度、倒れ伏した天使の頭に目線を落としてから、すぐに藍夜の手を握り返した。 空いた手が頬を、髪を優しく撫でてくる。その柔らかな手つきがくすぐったくて、ニゼルは自分が囚われの身であった事を一瞬忘れた。 離れながら話をしよう、サラカエルが二人を促し、入り口へ足を急がせる。ふと振り向くと、既にカマエルの映像は跡形もなく消えていた。 「何から話せばいいのだろうね……ニゼル、本当に怪我はないのかい。酷い目に遭わされては、いないだろうね」 「この通り。全然大丈夫だよ、ありがとね、藍夜。サラカエルも、助けてくれてありがとう」 「ふん。礼なら、無事に脱出を果たしてからにして欲しいもんだね」 ほっとするのも束の間、階段を上る殺戮の表情は晴れない。薄暗い螺旋階段はその全てが石で出来ていて、古城の中にいる錯覚を抱かせる。 道中、ニゼルは何故ここに二人がいるのか尋ねてみた。藍夜は赤い豹の術に審判官の力を重ね、反発して生まれた力を利用したという。 「ヘラ様の助言もあってね、君の動向を瞳術で密かに追っていたのだよ。場所の特定には金匙の羅針盤と、カマエルの札を用いたがね」 「でも藍夜達、琥珀に頼まれた札作りで疲れてたんじゃ……あ、だから反発力? 反作用だっけ。それで負担を軽く出来たんだね」 「そう、一大事に手段は問えないからね。それに少し前に真珠達の話もあったろう、またカマエルが噛んでくる筈だと見越していたからね」 「そっか、それもそうだよね……ごめんね、藍夜」 「何故君が謝るんだい。悪いのは君達を連れ去ったカマエルであって、君ではないだろう。さあ、それより真珠達を探さなくては」 「うん。たぶん、そこにカマエルもいると思う。真珠に何かするつもりみたいだし、今回の連れ去りの主犯みたいだから」 気分の重さを余所に、出口は程なくして見つかった。取っ手を掴んだ瞬間、サラカエルが微かに顔を曇らせる。 「? どうしたの、サラカエル」 「……この向こう、何かの術が掛けられたな。開くと作動するトラップだったのかもしれない」 だからといって迷っている暇は、ない。互いに頷き合い、扉を押し開いた。 「えっ、これ……何これ、どうなってるの?」 「やあ、それは僕が聞きたい事さ。さっきまではただの廊下だったのに」 「迷路、いや、迷宮のようだね。瞳術も使用を制限されているようだ。ニゼル、僕達から離れないようにしたまえ」 視界が真っ白に染まる。扉の向こうは、無機質な印象の白塗りの壁と廊下、無数の階段と扉とが、複雑にひしめき合っていた。 文字通り、上下左右、縦横無尽に多量の階段が散り散りに配置されている。まるで、切り取ってきた風景を無理に繋ぎ合わせたようだった。 一歩踏み出せば、自分が今どこを向いているのかも分からない。周囲を見渡しても、幾何学模様のように白い景色が入り組んでいるだけだ。 「迷宮……はあ? こんなの楽しんでる暇なんかないんだけど」 「ニゼル、よしたまえ!」 手始めに、目の前の扉に手を掛ける。思い切り開いた瞬間、ニゼルは目と鼻の先に、とてつもない量の熱を感じた。 扉の先に、喉奥に赤く燃える炎を溜めた赤皮の竜が鎮座している。ブレスが吐き出されようとした瞬間、扉が大音を立てて閉じられた。 「うわっ! ……あ、ありがとう、藍夜」 「はあ、はあ……君ね、いきなり開けるものではないよ。トラップだとサラカエルが話していたじゃないか」 「トラップ。そっか、そうだよね。間違った扉を開けたらドラゴンですよー、とかセンスないなと思ったけど、仕組んだのカマエルだしね」 思わず嫌みを放つ自分に、藍夜はよしたまえよ、と苦笑する。頬を少しでも冷ますようにと、普段から冷えがちな彼の手が顔に触れてきた。 サラカエルの目が、何か物言いたげに鋭く細められる。ニゼルは慌てて藍夜の手を掴み、顔面から無理やり外させた。 ……赤い豹の元に繋がる扉は、恐らく一枚のみ。しかし、どれが本物かは罠に詳しい殺戮であろうとも、急には思い至らないと聞かされる。 「じゃあ、どうしたらいい? このままじゃ真珠が、」 「落ち着きなよ、黒羽根も連れて行かれたんだろ。そんな貴重な生き物二頭、雑に扱うわけがない」 「うわあ、嫌な言い方!」 「赤い豹は、そういう風にしか他を評価出来ない男だっただろ。それより、いくつか開いてみて法則の一つでも見出さないと」 合間に親友は床上に設置した金匙の羅針盤の作動を試してくれていたが、匙型の指針はくるくると空回りを続けるばかりだった。 早々と懐にロードをしまい、藍夜は行くしかない、そう短く口にする。慎重な彼にしては珍しい即断だった。 それほどまでに、彼らは神獣が危機的状況にあると判断しているのだ。頷き返し、藍夜とニゼル、サラカエルの二手に分かれて先へと進む。 「うわっ、見て見て、藍夜。サラカエルが逆さまになってる! 変な感じー」 「それを言うならニゼル、僕達は彼から見れば、斜めになっているように見えているのかもしれないがね」 外見では方向が支離滅裂でも、重力や方向感覚、五感といった要素は普段と何ら変わらないように造られているようだった。 歪な視界を前に、ニゼルは圧倒とも感動ともとれない息を吐く。手を引かれながらでなければ、すぐに親友と離れてしまいそうな気がした。 (こんな回りくどい事して、カマエルは何がしたいんだろう。実験の為の時間稼ぎ?) か細い悲鳴を思い出す。あのプライドの高い真珠が、一瞬とはいえ助けを求めたくらいなのだ。ギフトとはろくでもないものに違いない。 今すぐにでも助け出し、その華奢な体を抱きしめてやりたい。ニゼルはもどかしさのあまり歯噛みし、藍夜の背から視線を逸らした。 (え? あれって……あれって、まさか、もしかして) そのときだ、眼下で見覚えのある美しい空色がちらりと揺れたのは。無意識に親友の手を振りほどき、ニゼルはすぐに最下層へ飛び降りる。 「ニゼ……ニゼル!? 何を、」 「ごめん藍夜、でも俺、これしか思いつかなった――」 ――予想が外れる事はない。反射的に赤紫の翼を広げ、衝撃を和らげて着地した。飛び降りた先、ある人影を見据えてニゼルは目を細める。 「ねえ、『また会えた』ね」 冷たい風が押し寄せ、白い床と自分の足を寒々と撫でつけていった。目の前に広がるのは、亡者が身に纏うぼろ布、色鮮やかな空色の髪だ。 ゆっくりと開かれた両目の中に、自分のそれと全く同じ、赤紫色の瞳が見える。先代のラグエル、死に損ないの天使アンジェリカ。 かつて自分の一部であり、思わせぶりな再会を果たした女を前に、ニゼルは沸き立つ怒気を飲み込むように、顎を引いた。 「今度は何? また俺に何か秘密を打ち明けにきたの、それともサミルか誰かの伝言を託しにきたの……今日は助けてくれないんでしょ?」 彼女が姿を見せるとき、自分の身の回りには様々な不幸が重なるからだ。そして恐らく、アンジェリカもそうなる事を自覚している。 それなのに、今の今まで彼女の口から悪びれた様子や謝罪の言葉が出された事は一度もない。また、ノクトや妹を案じている素振りもない。 ニゼルには、そんな彼女の振る舞いが恐ろしいものとして見えていた。自分にも似たような面がある事もその不快感に一役買っている。 もし、自分達の平穏を脅かすつもりでいるのなら――こちらの警戒と不信を知ってか知らずか、アンジェリカは静かに口を開いた。 『お願い……あの子を、助けて』 まただ。ペネムエに接触する直前に託された話が、またしても繰り返されようとしている。あの子とは、つまり真珠の事だったのだろうか。 訝しむように眉間に力を込めると、アンジェリカは真っ向からこちらを見た。その顔に明確な悲しみが浮かび、ニゼルは息を呑む。 『世界があの子に好きに触れるの、蹂躙するの……私はどうなってもいい、だからどうかあの子を、私達のたからものを……護ってあげて』 その瞬間、アンジェリカはさっと身を翻した。本能で、彼女の足取りはカマエルの元に続く扉に向かうものなのだと思い至る。 「藍夜! サラカエル! 見つけたよ、こっち! 早く来てっ!!」 千切れるような声を腹から絞り出し、ニゼルはすぐさま女を追って駆け出した。この際、彼女の意図を問うのは後からでも構わない。 「あの子」、「たからもの」。失われていた筈の記録の一部が、今、鮮明に脳裏に蘇る。それは言葉にし難い焦燥と歓喜をニゼルに与えた。 アンジェリカの記憶と重なるそれは、愛らしい特別な形をしている。最終的に「琥珀色の小瓶」に閉じ込め、この研究所に隠したのだ。 歴代のラグエルが、二代にわたって造り出した「たからもの」。今もここにそれが残されているのなら、知恵の銘持ちとして放置出来ない。 (だってあれは……あれは、『俺達を繋ぐ大切な成果』そのものなんだから) あれは決して、赤い豹らに扱いきれる代物ではない――今回取り戻すべきは、白黒の神獣ばかりではない。 逸る気持ちを抑えきれないまま、審判官らの到着も待たずに目の前の扉に手を掛けた。 |
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