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楽園のおはなし (3-13) BACK / TOP / NEXT |
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地母神ヘラの加護を与えられた都市、ジュノー。 その昔、当の女神がこの地に降り立ち、災厄と豊穣を同時に下したという神話は今も住民達の語りぐさになっているという。 昼下がりの穏やかな日。珊瑚と真珠を連れたニゼルは、転生後初めて街へと降りた。胸は弾み、見るもの全てが輝いて目に映る。 昼食を終えた人々が道沿いの軒下にテーブルを並べてお茶を楽しみ、木々は緑と金色の葉を交互に道へと落とし、夏の熱を失った薄青の空が 涼しい風を絶えず胸元に寄せてくる。柔らかな光が通りを包み込み、まだらな雲影は秋口から秋方への移ろいを静かに知らせてくれていた。 そんな心安らぐ空気が満ちる中でも、街は活気に溢れている。行き交う商人、旅人、観光客は、誰もが生き生きとした表情を見せていた。 「ねえ、見て、ニゼル。秋桜が咲いてるわ」 「本当だー。もう秋だねー、焼き芋食べたいなあ」 街路樹の下に植えられた花々は、既に秋のものに差し替えられている。白、桃とささやかな可憐さを放つそれらは、しかし今は霞んでいた。 左に白羽根、右に黒羽根を連れて歩けば、人々の視線は自然とこちらを向くのだ。ふたりとも美人だしねー、とニゼルは得意満面でいる。 「色気より食い気ってヤツじゃん。お袋とおんなじー」 「ちょっと、珊瑚。あんただってひとの事言えないでしょう、似たような感じなんたから」 「いいよ、真珠。美味しいものが好きだっていうのは本当の事だしね。見た目には気を遣ってるんだから、大丈夫だよ」 本日ニゼルと真珠が纏う真新しい白色の洋装は、アンブロシアが事前に自分も含めた女性陣用に注文を済ませていた品だった。 デザインにそれぞれ差はあれど、裾を飾る刺繍は揃いのものになっている。ヘラの身分にちなみ、百合の花がモチーフとされていた。 鼻歌交じりに歩を進める度に、ひらりと布地が揺れる。軽やかに弾む様は美しくなびく真珠の髪のようで、ニゼルは一瞬で気に入っていた。 「まー、ねーちゃんなら何着ても似合うと思うけど。けどさー、それ着てくんの結構揉めてたじゃん。押し切ってよかったん?」 「あー……うーん、藍夜がねー。なんでだろうね、靴はブーツにしたんだし、見た目より冷えないんだけどなあ」 ……一つだけ難点を挙げるとすれば、膝下までの丈のスカート部分を目にした審判官が、これを着る事に猛反対したことくらいだろうか。 彼は何故かろれつの回らない口で――大まかに言い分を翻訳すれば「女性が体を冷やすものじゃないよ」と激怒してみせたのである。 「真珠を心配するならまだ分かるんだけどなー。藍夜って昔から女の人に優しかったし、でも俺、元男だし。急にそう言われてもねー」 「実感がわかないっていうだけの話じゃないの? あいつは何かと、口うるさすぎるのよ」 「うん、それそれ。あはは、なんかくすぐったいよねー」 顔を真っ赤にして怒り狂う親友を思い出し、ニゼルはにこにこと笑った。悪い気はしてないんじゃない、真珠は呆れたように嘆息する。 雑談を弾ませながら、三人は表通りに軒を重ねる店を見て回った。見た事のない道具や調理器具、小物など、様々な商品が並んでいる。 自分達が屋敷に籠もっている間にも、人間社会はどんどん発展しているのだ。ニゼルは興味がわいたものを次々に手に取り、間近で眺めた。 ……少しは外出の機会を増やした方がいいのかもしれない。はしゃぐ鷲馬を見ながら、しみじみとそんな事を思う。ふたりも年頃なのだ。 「ねーちゃん、ねーちゃん、コレコレ。着けてみてよ、絶対似合うから」 「やだ、あんたそれ、どこで買ってきたのよ?」 ことに珊瑚は張り切っていた。彼はヘラから貰った小遣いで青色の花の髪飾りを買い、早速とばかりに真珠の髪に着けてやっている。 白羽根は何か言いたげにしていたが、黒羽根の満面の笑みに折れてやる事にしたようで、姉から弟に文句が飛ばされるような事はなかった。 (そっか、髪飾りかー。髪留め、そろそろ欲しいかなー。伸びてきちゃったし) 桔梗の形をした髪飾りは、色の白い真珠にとてもよく合っている。ニゼルはアンブロシアと同じほどに伸びた髪を、指で摘まんで遊んだ。 琥珀達の旅に必要な品物は、珊瑚が担ぐ背負袋にあらかた収めてある。彼のように自分の買い物をしてもいい頃合いだと、空色髪は頷いた。 「真珠、珊瑚。俺見たいものがあるんだけど、ふたりは他に欲しいものとかある?」 「んー、えーと? つまりそれって、別行動オッケーって意味?」 「珊瑚。あんたはさっきから無駄買いばかりしているんだから、少し節約しないと……わたしは別にいいわ。何ならこの辺で待ってるわよ」 姉とデートが出来ると顔を輝かせる黒羽根に、白羽根の鋭い叱声が飛ぶ。口を尖らせる珊瑚の頭を撫で、ニゼルはふたりに甘える事にした。 「ちょっと見てくるだけだから。すぐ戻ってくるから、ここで待ってて」 「っと、ほいほーい。いってらっさーい」 珊瑚はきっと、本当に真珠が好きなんだろうな――見送られ、骨董店や雑貨屋が並ぶ区画へ足を向けながら、そんな事を考える。 彼はああ見えてしっかり者だ、ましてや、神獣という特別な個体としての分類がなされていたとしても、本来は獣の一種にすぎない。 実姉とはいえ真珠には番になり得る魅力があるのかもしれない。とはいえ出来れば焦って手を出さないで欲しいと、ニゼルは眉をひそめた。 昔からそうだ、動物とは、自身に欠ける要素を交配で満たそうとする傾向がある。珊瑚は純粋に、本能に振り回されている状態なのだろう。 (繁殖するって目的を果たすだけなら、アルジル羊だって近親交配させたりする事もあったしなあ) 最も、白羽根が黒羽根の好意に気付いているかどうかは別の話だった。面立ちは父親に似た真珠だが、意外にも気質は母親に酷似している。 鈍いと言ってしまえばそれまでだった。また酪農家の思考になっちゃってるなあ、ニゼルは口をもごもごさせながら視線を通りに戻す。 そのときだ。思わず足を止め、はっと現実に思考を呼び戻される事になったのは。眼前、予想だにしなかった人物の姿を見て体が固まった。 ……何の気もなしに行動を起こす度、「それ」は彼女の前に現れる。ニゼルは夢か幻でも見たような心地で、両目を忙しなく瞬かせた。 「――やあ、こんにちは。良い昼下がりだね」 後退りや逃走や、そういったその場しのぎの対処が通用しない相手である事は十分に理解している。 「君は確か……魔王、『サミル』」 故にニゼルはこれまでと等しく、怯えず、怯まず、声を荒げる事もしないで、真正面から「恐ろしいもの」と対峙した。 フロルの器を経た初対面のときと同じように、黒塗りは柔和に微笑む。間近で聞こえた鳥のさえずりが、異様に場違いなものに感じられた。 「久しぶり、でもなかったかな。元気そうで、安心したよ」 ニゼルははっと我に返る。ごくりと唾を飲んだ瞬間、意外にもサミルから放たれたのは、ごく普通の日常会話の切り出しだった。 その節はどうも、ありがとう、君も元気そうだね……どう返すのが正解だろう。うーん、と首をひねっていると、小さな笑い声が耳を突く。 思わず出ていたという体だった。噴き出した張本人は、困ったような笑みを向けてくる。真意が読めず、ニゼルは首を傾げてそれに応えた。 「えっと……心の準備、についてはまだ建設途中っていうか検討中っていうか、主に藍夜が万全じゃないんだけど。何か用?」 口に出しながら、我ながら恐れ知らずな質問だと思う。前回魔王と対面したのは、フロルの告知が済んで間もない黄昏の時間帯だった筈だ。 その時は珊瑚も傍にいて、「来る災禍を受け入れて欲しい」と聞かされていた。災禍、それが何であるのか問う前に彼は姿を消したのだ。 「用、そうだね、用事といえば用事なんだけど」 「札、くれたよね。それなのに今こうしてここにいるって事は、凄く大切な話があるんじゃないの? それか……警告、とか」 どうしてそこまで俺を気に掛けるの、ニゼルは喉元まで出かけた一言を辛うじて飲み込む。その返事は、今は聞いてはいけない気がした。 サミルは美しい顔を微かに歪め、言いよどむように口を閉じる。やはり彼は、自分ないし先代に何らかの縁を持っているのだろうか。 珊瑚達を待たせてるから、申し訳なさを感じながらもそう急かすと、魔王は小さく頷いた。つもる話はたくさんある、それはお互い様だ。 だが今は、彼にも自分にも帰る場所がある。都合が合えばいつでも再会出来る筈だ、今は昔のように神々の掟に縛られてもいないのだから。 「なら、手短に。前に災禍があると話をしたね。それが今、君のすぐ側まできているんだ」 「……そっか、そうなんだ……って、え? 今!? どっ、どこに!?」 「それはすぐに分かる事だよ。ニゼルさん、どうか君には、いや、あなた方には、彼女の話を……言い訳を、よく聞いておいて欲しいんだ」 「彼女」、「言い訳」。その正体はすぐに知れた。ニゼルが疑問に首を傾げるより早く、裏路地に僅かな変化が起こる。 足下に、ふわりと柔らかな風が吹いたのだ。しかしそれは、秋風よりももっと冷たく、いっそ氷の粒を含んで白々とぼやけてさえいた。 『――い、……がい』 はっとして風上に目を走らせる。人気のない通り、古びた窓や白木の壁はいよいよ表面に薄く霜をおろし、その人物の姿を浮き彫りにした。 いつの日か、冥府の河の岸部で出会った女がそこに在る。立っているというより、存在している、と表現した方が適切なような気がした。 二度振り返れば、今し方までそこにいた筈の魔王の姿は消えている。ニゼルは背筋に悪寒が走るのを覚えながら、もう一度女を見返した。 「君は、あのとき俺を助けて……ううん。ねえ、君は死んでるの、それとも、まだ生きているの?」 ああ、自分は彼女を切ないほどによく知っている。酷い悪寒は、嫌な予感を多量に含みながらニゼルの背中に冷や汗を伝わせた。 身を覆うぼろ布に、色の白い肌、それらを焦がし穴を穿ち続ける、複数の黒い火傷。まだら模様の皮膚が、フード越しにこちらを見ている。 赤黒くくすぶる傷痕が、今も痛々しく燃えていた。微かに覗けた女の眼には、自分と同じ、鮮やかな赤紫の瞳が埋まっている。 『わたしは、罪を犯した……どうか、あの子を……何者よりも愛しい最愛を、どうか助けて……』 「待って、ちゃんと質問に答えてよ。それじゃあ返事になってない、全部、一からちゃんと説明して!」 お願い、あの子を助けて……その言葉を絡繰り人形のように繰り返すだけの亡者に、ニゼルは切望に似た強い苛立ちを覚えた。 そうだ、自分は彼女の事をよく知っている。知らないでいられるわけがないし、知らない方がおかしな話だ。 フードから見えていた皮膚が冷風に表層を歪ませ、醜悪に死に絶えた美貌を一瞬、晒した。風にあおられ、隠されていた毛髪が露わになる。 空色だ。自分のものと同じ、ニゲラの薄青の花弁と等しい空色の毛髪が、アンブロシアほどに伸びたそれが、穏やかに風に揺れていた。 『助けて……どうか、あの子だけは……』 「待って、待ってよ。やっと会えたのに、消えようだなんて……そんなの卑怯だよ!」 気がつけば、女の姿形は霞か雲かのように、ぼんやりと消え始めている。透き通っていく全身から吐かれる声は、物悲しく薄れていった。 ニゼルはたまらず駆け出していく。あれは自分の一部だ、かつて全てであったものだ、喪われてはいけなかった筈の、大切なものだ。 手を伸ばし、向こうにもそうするように目で懇願した。もう一つの赤紫は、再びフードの下に隠されその全貌を覆い隠している。 「消えないでよ、話したい事があるんじゃないの、ノクトの事はどうするの!?」 『……い、……がい』 「待ってって、そう言ってるでしょ! ――アンジェリカ!!」 何故。何故、こうなってしまったのだろう……いつの間にか元の秋色を取り戻した裏路地に、ニゼルは独りきりで呆然と立ち尽くしていた。 ほんの一瞬、刹那のうちに、件の人物はどこか遠くへ去ってしまったのだ。サミルが引き合わせた女、その名はアンジェリカという。 かつて、自分にはそう呼ばれていた時代がある。先代ラグエルの本質であり、肉体そのものでもあった高位天使、それが彼女の正体だった。 「ノクトの事は、どうするの……アンに、なんて説明したらいいんだろう……」 ヘラに仕え、ゼウスを軽々とあしらい、ウリエルやサラカエルを手のひらの上で転がした事もある。ニゲラを別邸に招いたのもそうだった。 天上界での暮らし、その記録は、確かに「情報」として持っている。喰天使と呼ばれた同僚と恋に落ち、妹の再誕を待ちわびる日々―― 「……ああ、そんな、なんで、だって……」 ――だというのに、ニゼルはただ愕然とするしかなかった。 かつて自身がアンジェリカだった事は覚えているのに、感情や心情、彼女がヘラの別邸を離れて動き始めた頃の記憶が、何もない。 何もないのだ、まるで先の女がそれら全ての要素を持ち逃げしたかのように。今代のラグエルから、アンジェリカの全てを隠すかのように。 その証拠に、今の自分には当時ノクトに抱いていた恋心も、幼いアンブロシアへ向けていた姉特有の見守るような意志も残っていない。 要の記憶を有した魂が、過去の残渣を在りし日の姿に映し実体化させていたようにも見える。それは正に、亡霊としか例えようがなかった。 ……ヘラにもノクトにも何も言わず、別邸を独り離れたアンジェリカ。等しく辿っていた筈の彼女の行き先と行く末が、まるで見えない。 「どうして? あの子って……ノクトやアンより大事なものって、一体なんなの? 誰の事なの……」 あまりの息苦しさに、ニゼルは顔を伏せる。胸に穴が開き、心が裂け、指先から毛髪の端までの全てが凍りついてしまったかのようだった。 自分は今代のラグエルであり、その力と権限を、先代のアンジェリカから全て受理し、受け取った筈であったのだ。 対天使アクラシエル、同僚ルファエル、更にはニゲラとウリエル、ヘラとサラカエル……彼らの事も覚えているのに、それが何故。 「……っ、駄目だ。考えてても、しょうがない」 知恵の樹ならば、答えを知っているだろうか……一縷の望みは、またしてもあの黒くざらついた流砂の妨害で易々と打ち砕かれる。 ニゼルは頭を振り、自分に喝を入れるように両の頬を手で叩いた。冷え切った皮膚に、じんわりと痺れるような熱と痛みが広がっていく。 (そうだ、まだあれが生きているのか死んでいるのかも分からない。サミルやカマエルが見せた幻かもしれないし、信用するには早すぎる) 真実は、望んだ分だけ手のひらに銀の果実として落とされる……相当の昔に同僚から聞かされた言葉を思い出し、くるりときびすを返した。 今は、やらなければならない事がたくさんある。考え、熟考し、それから手探りで動いても遅くはない。それがニゼルなりのやり方だった。 そうしてようやくいつもの気分が戻ってきたとき、空色髪は息を呑む。透き通る声、か細い、しかし聞き慣れた悲鳴が、鼓膜を突いた。 サミルがニゼルに接触する、ほんの数秒前。真珠はいつものように珊瑚に纏わりつかれながら、八百屋の前で歯噛みしていた。 弟が鬱陶しいのではない。早生ものとはいえ、目の前で売られる真っ赤に熟れたリンゴが、思いのほか高価だったのだ。 (ニゼル、なんでかリンゴ好きなのよね……羊の生産品には劣るんだけど。まあ、アクラシエルが欲しがってるし、ついでよ、ついで) アンブロシアが日頃からその実を使った焼き菓子を作っているのは、家事を手伝っている身として十分に知っている。 ニゼルが好むから、というのが彼女の言い分だったが、真珠はそれだけではないような気がしていた。 その話を振る度に、桜髪の天使は寂しげに笑うからだ。おやつとして振る舞われるそれは、普段の菓子類に比べだいぶん甘さを抑えてある。 アンブロシアには、屋敷の外にリンゴの菓子を食べさせてやりたい相手がいる……それが誰なのかは、今の今まで聞けずじまいだった。 「お嬢さん、お嬢さん。どうするかね。まだ、リンゴの時期には少し早いからねえ」 「えっ、ああ、そうね……ううん、いただくわ。せっかくのいい品だもの。それに、知り合いがリンゴが大好きなのよ」 八百屋の気のいい店主に頷きながら、大好き、は言いすぎだったかもしれないと思い至る。とはいえ、自分も果物自体は好きだった。 わざわざ菓子にせずとも、皮をむき、新鮮なままをそのまま食べるのは特に好ましい。釣り銭を受け取りながら、手提げ鞄に果実を収める。 「ねえ、ねーちゃん。ニゼル、戻ってくんの遅くね?」 「うん? そうかしら。いつもの事よ、あいつが寄り道好きだって事くらい、承知の上でしょう」 珊瑚は妙にそわそわしていた。早く屋敷に帰りたいのかしら、これは思った以上に子どもなのかもしれないわ……真珠は柔らかく苦笑する。 弟は普段はざっくばらんで、母に似て時間や所作がだらしない。しかし、食事とおやつ、もしくは昼寝の時間にだけは忠実だった。 考えてみれば、もうそんな頃合いだ。体も何となく冷えてきたし、少し早いが、ニゼルを呼び戻してお茶にするのも悪くないかもしれない。 「分かったわ。そうね、わたしはあっちの裏路地を見てくるから、あんたは向こうに行って頂戴」 「えっ! お、オレにねーちゃんを、ひとりっきりにしろっての?」 「あのね、わたしもあんたも、もう子どもじゃないんだから。早くしないと、おやつ食べ損ねるわよ。夕飯も楽しみにしているんでしょう」 「で、でもさ、それとこれとは別っていうか」 「何が別なのよ。ほら、十六の刻になる前に帰る約束だったでしょう。急がないと」 珊瑚はぐちぐちと不満を並べ始めていたが、真珠はそれを無視する。いつだって、彼は少しばかり大げさなのだ。 わたしから離れて、少しは精神的に成長したらいいのよ……声には出さず、しかし白羽根はさっさと黒羽根と真逆の方角へ足を向けた。 たまには、ひとりで行動してみたいときもある。自分とてひとりの女性なのだ、彼にもそのあたりの心情は汲んで貰いたかった。 「……ええと、ニゼル、ニゼルは……と」 そうして、彼女にしては珍しくすっかり油断しきっていたのだ。 人気のない通り、狭く暗い裏通り。誰の気配もないそこに踏み入ったとき、真珠はふと聞き覚えのない音を聞く。 「……お嬢さん、麗しい鷲馬のお嬢さん。おひとりで、どちらまで?」 振り返ったときには、もう嗅ぎ慣れない甘い香りを感じとっていた。視界がぐらりと揺れ、意識が霞み、目の前の仮面を視認して硬直する。 「あんた……誰なの。何の用よ」 「フフッ、これは意外な。この香を嗅いでなお、意識を保っていられるとは」 「莫迦にしないで! あんたまさか……ニゼルに何かしようっていうんじゃないでしょうね!?」 そんな予感が、漠然とあった。仮面越しで表情を伺い知る事は出来ないが、男は確かにくぐもった声で密かに笑う。 余計に不安を掻き立てられ、真珠は罵声を浴びせようとした。しかし、気付けば男と揃いの衣装を着た数人に囲まれている。 してやられた、はめられたのだ。初めてニゼルと外に出られるという機会が嬉しくて、楽しくて、自分は完全に冷静さを欠いていた。 珊瑚の事言えないじゃない……ふらつき、よろめいたところを背後の白服に支えられる。刹那、微かな血の臭いを感じて、真珠は絶句した。 (嫌だ、嘘でしょう……パパ、母さん……ニゼル!) 血の臭いは、「穢れ」の象徴の一つといえる。かつて実父が浴びた負の洗礼を、彼女もまたその身に受けようとしていた。 「やめて、触らないでよ! わたし達が何をしたっていうの!!」 とても受け入れてなどいられない。発狂じみた悲鳴を上げる白羽根に、仮面の天使はのそりと顔を近づける。 「何をした、だと……君達があの、無責任極まりない知恵の天使に組している事こそが罪だというのに」 恐ろしく冷たい声だった。青ざめた真珠の顔が、ごく僅かに白塗りの表面に映り込んでいる。何を言われたのか分からず、鷲馬は硬直した。 「自分の立場も身分も、主より仰せつかった使命をも捨てた天使! 何故、何故なのだ! 何故主は、あのような愚か者を庇護されるのか」 「主、って……神様って、ゼウスやアレースが、それをニゼルに口うるさく言ってるじゃない……」 「愚かな。あのような偽りの神々を主などと呼べるものか。正しき真の主は、今も檻に閉じ込められている。私が助けて差し上げなければ」 「そいつが……なに、しんの、しゅが? あんたを待っているとでも、思っているの。そんなの……思い上がりもいいところよ」 「君は哀れだ、何故、物事の真理が理解出来ないのか! 私の方が優れているのだ……私が、あのラグエルなどに劣っている筈がない!!」 そこから先を聞く事は、言葉にし難い困難を伴う。眼前の男は今も何事かの呪詛を並べ立てているのに、それを聞き取る事が出来ない。 自分達家族を、ニゼルを、鳥羽藍夜やヘラまでをも実験の材料に選出する不届き者。せめて、その言い訳だけでも捉えておく事が出来たなら。 しかし、切望が行動として形作られる事はない。真珠の意識は、いよいよ暗がりに落ち始めていた。 助けを求めようと無意識に伸ばした腕は、あっけなく空を切る。否、その白い手を掴んだのは、目の前の仮面の男そのひとだった。 「カ、カマエル様。この小娘、抵抗を……あなた様に、無礼な口を」 「名を出すなと話しただろう、無礼者が! いや、構わないとも。実の父親に似て、我々に染みついた臭気には耐えられまい」 連れ去りの手順に不慣れであるのか、動揺した声色が背後から漏らされる。意識を手放しながら、白羽根はぼんやりと考えを巡らせていた。 (――ああ、これが赤い豹か。道理で、女の扱いが悪いわけだわ……パパに不愉快極まりない術を施して、天狗になっているのかしら) せめて、ニゼルと珊瑚だけでも逃がしてやらなければ。姉として、神獣としての矜持が、沈みいく鷲馬の体を無理やり突き動かす。 そうして透明な悲鳴を放った瞬間、薬を染み込ませた布で呼吸器が塞がれた。カマエルの僅かに焦りを帯びた声を聞き、口端がつり上がる。 倒れ込む直前、真珠は薄ら笑いを浮かべた。ニゼルと共にある事が罪だと言うのなら、それに相応しい反撃をしてやるのが筋というものだ。 (哀れなのは、あんたの方よ。劣っているのも自業自得でしょう。ニゼルを敵に回すとどうなるか……身を以って知るといいわ) ニゼルなら、たとえ連れ去られる事になろうとも大人しくさらわれるわけがない。かつ、手元から奪われた玩具をみすみす逃すわけもない。 必ず用意周到に手筈を整え、自分を探し出しにくる筈だ……仮面の向こう側を嘲笑うように、笑みをたたえたまま眼を閉ざす。 |
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