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楽園のおはなし (3-12)

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「アレ? 珊瑚、真珠。どーしたの、ふたり揃って」

屋敷に備わる風呂場は、男女別に分けられた大浴場になっている。建築に携わった鍛冶師とその母が、風呂好きというのが主な理由だった。
それこそ毎日使われる為――姉にくっついていたいが故に仕事が雑な珊瑚を除き――風呂場の管理は手のあいた者が担う事になっている。
アレースを振り切るように男湯に引っ張り込まれた真珠は、弟の手を離す事も忘れ、掃除に勤しんでいた両親の姿をまじまじと見つめた。
双方人型で、衣服の裾をまくり上げ、健康的な足を露わにしている。そろそろ片付くといった頃合いか、殆んどの洗剤が洗い流されていた。

「母さん……いないと思ったら、風呂掃除してたのね」
「そりゃーね、女神様は綺麗好きだし。真珠はどうしたの、買い物から帰ってきたばっかでしょ、ちゃんと休んだ? 何なら風呂にする?」

それくらい大丈夫よ、むっとして言い返そうとした白羽根は、しかし母は自分を案じてくれているのだと思い直して口を閉じる。
一方、母と姉を見比べながら満足げににこにこしていた珊瑚は、シリウスに軽いげんこつを喰らっていた。
自然と手は離され、真珠はぱっと父の顔を見上げる。一角獣の顔には、怒りというより呆れに似た苦笑いが浮いていた。

「お帰り、真珠。それで珊瑚、お前の方は薪割りは終わらせたのか」
「親父ー……うー、終わったからコッチに来たんじゃん? ねーちゃんを変なのに触らせたくなかったし」
「変なの? なんだ、それは」
「ああっ、いいの、なんでもないのよ、パパ。珊瑚、あんたは変な事言わないで頂戴。いちいち大袈裟なんだから」
「大袈裟? む、何か異質な気配があったな。客か……今のうちだ、隠さずに話しておけ、真珠」

基本として、鷲馬の姉弟は教育担当のニゼルにべったりである。しかし、例外として二頭は実父にだけは弱かった。
その気質と性質が、ヒッポグリフという自身の種に濃く引き継がれているからだ。
力ある者、目上の者、身内への絶対的な信頼と忠誠心。姉弟にとって、シリウスという一角獣はその全ての要素を所有している存在となる。
故に珊瑚だけでなく、真珠も彼には逆らえなかった。間が悪いとばかりに歯噛みして、少女はぽつぽつとアレースについて報告する。

「アレース? アレースってあの、マザコンこじらせーの戦神の?」
「妻よ、もう少し言い方というものがあるだろう」
「ホントの事だし。ケツは知らないかもしれないケドさ、女神様に貢ぎ物しにきてはフられてー、を繰り返してたんだよ。今回もそうだよ」

あながち母の読みは外れていない、姉弟は思わず顔を見合わせていた。シリウスはこめかみに指を押し当て、低い声で唸っている。
琥珀はけろっとしていた。清掃道具を戻し、捲り上げていた裾を元に戻すと、夫の背をばしっと叩いてから鷲獅子は一足先に風呂場を出る。

「ちょっと、母さん」
「ンー、別に追いかけようってんじゃないよ。ニジーや珊瑚が喧嘩ふっかけてないか、見に行くだけ」

もう売ってしまった後だ、真珠は苦い顔で濡れた足を母ともどもタオルで拭った。予想していたのか、琥珀は娘の顔を見てからからと笑う。

「このままってワケにはいかないんだろうなー、って思ってたんだよ。言っちゃなんだけど真珠は美人だし」
「やだ、冗談なら今このタイミングじゃ欠片も笑えないわよ」
「そうじゃなくてさ。ケツの一族さえ騎獣にしたがってた神々が復活したんだよ、今この屋敷が、連中にどれだけ魅力的に見えると思う?」

白羽根は思わず黙り込んでしまった。希少種だという情報は知っていても、屋敷の面々がそれ故に自分達を特別扱いした事は、一度もない。
一方で、瓦礫と粉塵漂う天上界では話が違ってくる筈だ。移動手段こそあれど、権力を目に見える形で表明したい彼らには「足」が必要で、
更にそれが絶滅寸前の希少種、かつヘラの寵愛を受けるものともなれば、今こそ喉から手が出るほど欲しいものであるのに決まっている。
……考えただけでうんざりする話だった。同時に、やはりこの屋敷に住まう者は変わり者ばかりなのだと実感する。

「ご、ごめんなさい」
「エー? なんで真珠が謝るの、気にしなくても大丈夫だよ」
「でも……」
「大丈夫だってば。ンー、真珠は、ニジーや珊瑚の図太さ見習ってみたら? それにそんな勝手な事、女神様がさせるワケないんだから」
「ちょっと母さん。ニゼルはともかく、珊瑚とは一緒にしないで頂戴。あの莫迦、すぐ調子に乗るんだもの」

脱衣所の引き戸が開けられる音がした。噂をすればとばかりに、父と珊瑚が喧しくやりとりしている声が聞こえてくる。
真珠はふと、言葉を切った。母の視線に見とれたからだ。琥珀は同じように口を閉ざして、こちらをまっすぐに見つめている。

「ねえ、真珠。珊瑚もあんたも、思ったより大人なんだよ。もう子供のままじゃいられないんだって、なんとなく分かってるんじゃない?」

白羽根は二の句を出せなかった。突然何を言い出すのか、頭はそう聞き返そうとしているのに、体がぴくりとも動かない。

「僕もシリウスも、色々考えてる事があるんだ。女神様が許してくれるか分からないケド……あんまり舐めてかかると、痛い目見るよ」
「母さん……それって、誰の事? 何の話をしているの」

ようやく絞り出した声は、何故か震えてしまう。琥珀は、どこか寂しそうな顔で笑った。おもむろに手が伸びてきて、頭を撫でられる。

「ンー、野生の勘?」
「……やせいのかん、って、何それ? 真面目な話だと思ったのに、根拠も何もないじゃない!」
「アー、怒んないでよ、まだ先の話だし。それにケツはニジーの、僕は藍夜の騎獣だからね。呼ばれたらいつでも来られる準備もしないと」

以降、母の話は、無理やりふたりの間に割って入ってきた珊瑚によって打ち切られた。もどかしさと歯痒さで思わず歯噛みする。
真珠は真意を知りたいと目で琥珀に訴えかけたが、彼女は既に一角獣と談笑しながら脱衣所を後にするところだった。視線が合う事はない。

「あっれ、ねーちゃん、なんか機嫌悪い? どうかした?」
「……なんでもないわよ」

普段は飄々としている母にしては、やけに真剣味を帯びた口振りだったと白羽根は考える。
あんたのせいで聞きそびれた、とは流石に口には出さなかった。纏わりついてくる弟を窘めるようにやんわりと剥がし、両親の背中を追う。
夫婦は珍しく、居間でも自室でもなく別方向へと向かっていた。ぱっと振り返った父の顔が強張っているように見えて、思わず足が止まる。

「どうした、まだアレース神は残っているのか」
「そ、そうじゃないけど。来たときには、ニゼル達が相手になっていたから」
「ン? ニジー達……って事は、女神様が直接会ってやったんだ? 昔から嫌ってたみたいなのに」

真珠の眼にはヘラの態度は嫌っているというよりも、鬱陶しい、煩わしいなど、そういった感情が露出させられているように見えていた。
思った事を素直に口にすると、両親は顔を見合わせて失笑する。そんなに楽しそうに笑える要素があったろうか、白羽根はただ首を傾げた。

「あっれ、コッチってニゼル達の部屋だよね? なんかお悩み相談事?」
「わっ、珊瑚! いきなり出てこないでよ」
「えー、ずっと後ろにいたのにー。酷いよ、ねーちゃん……で、そうなん? 親父、お袋」

弟は、時折突拍子もない事をする。それも、そのときには必ずといっていいほど気配を殺して動くのが常だった。
ニゼルを悪く扱う殺戮を見ているようで、正直気分が悪いと真珠は思う。前にそれを叱った事はあったが、珊瑚に反省した様子はなかった。

「ああ、そんなところだ。少し、野暮用があってな」
「ふーん、そーなんだ。オレやねーちゃんに言えないような話ってワケか」
「ちょっと、珊瑚。どうしたのよ、何を突っかかってるの。ごめんなさい、パパ、母さん」

不思議と、シリウスと琥珀は息子からの嫌みを叱責しない。ことに、礼儀にうるさい一角獣にしては珍しい事だと真珠は眉根を寄せる。
父はよく珊瑚を窘める癖があった筈だが、今回は言葉を濁らせるように口を真一文字に結んだだけだった。代わりとばかりに母が口を開く。

「とりあえずさ、そろそろお昼だし。シアの手伝いしておいでよ、あまりものとか摘まめるかもよ?」
「やだ、母さん。わたし達だって、そこまでがっついたりなんかしないわよ」
「あー、アレだ、お茶を濁すってヤツだ。ほいほーい、言われなくてもそーしますよー」
「ちょっと、珊瑚! ごめんなさい、パパ、母さん。わたしから、よく言って聞かせておくから!」

真珠は、両親が一瞬、表情を曇らせた事に気がつかなかった。くるりと背を向けた娘を、二頭は切なげな眼差しで見つめている。

「……言ってあげた方が、よかったかな?」
「どうだろうな。珊瑚はともかく、ああ見えて真珠は寂しがりだからな」

双方の言葉を、白羽根は聞かなかった。彼女の脳内は、「父に不敬をはたらいた弟をいかに懲らしめるか」の一点に染まっている。
そう、彼女の知る限り、珊瑚はもっとゆったりとマイペースに構えている神獣だった。だというのに、今日は随分と両親に噛みついている。
おかしな事もあるものね、ただ首を傾げながら、真珠は我先にと居間に引き返した黒羽根の背を追った。軽快な足取りに反して息が上がる。

(ああ、そういえば、ニゼルはまだアレースの相手をしているのじゃなかったかしら。母さん達に言いそびれたわね)

とはいえ、入れ違いとはよく言ったものだ。鷲馬の双子が居間に降りたとき、ニゼルの姿はどこにもなく、その親友もまた姿を消していた。
アンブロシアが、既に昼食を持って部屋に向かった後だと教えてくれる。完全なる行き違いだ、真珠はへたり込むように椅子に座った。
当然とばかりに、珊瑚が隣に着席する。シスコンもここまでくると大したものだ、内心のぼやきは溜め息として外に吐き出された。

「ちょっと、珊瑚。近いわよ、少し離れて」
「えー、つれないなー、ねーちゃん。だってさ、オレ、困るもん。ねーちゃんがいつ余所のに口説かれるか、分かったもんじゃねーし」
「はあ? なにを莫迦な事言ってるのよ。そういうのは、恋人でも作ってその娘に言ってやって頂戴」

「冗談でも何でもねーんだけどな」、黒羽根の小さな呟きは、空気をそっとなぞって虚しく消える。
一方、白羽根は出されたスープの具材当てに頭を働かせていた。肉の出汁を利かせた香草スープは、ニゼルだけでなく自分の好物の一つだ。
ウリエルが鳥羽藍夜であった頃、彼の得意料理だったのだと聞いている。料理下手なのか上手いのか分からないわね、とは言わずにおれた。
いつかレシピを聞き出してやらないとね――珊瑚が不満げに、しかし愛しいものを見る眼で自身を眺めている事に、彼女は未だ気付かない。
季節は秋の始め。淡く柔らかな日の光は、戦神の来訪の痕跡など一つも残していない。勧められるままに、好ましい食事を口へと運ぶ。






「ニゼル、少しいい……って、今度は何をしてるのよ?」
「あ、真珠。いやー、サラカエルがまた無茶やってたから、藍夜とヤジを飛ばしにね?」

悩み事があるときは、ついついニゼルの元に向かってしまうのだ。悪癖とは分かっていても、ついた習慣はそう簡単には変えられない。
とはいえ、昼食を済ませた後、軽く休憩を挟んでからニゼルの部屋を訪れた真珠は、直後あからさまに眉根を寄せてしまった。
部屋はもぬけの空だったのだ……とって返してアンブロシアを問い詰めたところ、改めて件の天使の行方を明かされる。

『ニゼルさんなら、藍夜さんと屋根裏部屋に向かわれたと思いますよ。ごめんなさい、真珠ちゃんなら聞いているものと思ってましたから』

自分は、そこまでニゼルにべったりしているように見えるのだろうか。丁寧に礼を言った後、真珠はすぐさま屋根裏部屋へ向かった。
屋根裏部屋とは、屋敷の最上階に位置する常に暗闇に沈んだ物置の事だ。物置とは名ばかりで、今や殺戮専用のからくり部屋になっている。
「侵入者にお仕置きする為の隠し部屋」と聞かされてはいるが、彼の性格上、ろくでもない事に使用している事は明白だった。
……足下に滲んだ黒い染みを見つけて、真珠は隠さずに顔を歪める。ニゼルは、入口よりこっちのがまだマシだよ、と白羽根に手招きした。

「って、真珠、今度はってどういう意味? 俺、そんなに悪い事してる顔に見える?」
「見えるわ」
「えっ、即答!? 酷いなあ、これでも真面目にやってるのに」
「どこがよ。それに、こいつらはこいつらで何をしてるの? ……わたし達、邪魔になっているんじゃないの」

ニゼルに抱き寄せられながら、真珠は目の前の光景に我知らず声量を抑えていく。
それというのも、眼前、部屋の主であるサラカエルとその対天使は、何らかの術式を立ち上げている最中だったからだ。
日頃乱雑に置かれている金属製の箱や板は壁際に寄せられ、それなりのスペースが確保された部屋の中央で、彼らは祝詞を詠唱していた。
青白い気流が二人を囲んでゆるゆると屋内で弧を描き、時折、真っ白な光がぽつぽつと瞬いては、直後にぱちんと弾けて消えていく。
まるで銀河の真ん中に立たされているかのような、えも言われぬ神秘的な光景だった。美しすぎて言葉をなくしてしまう。

「ねえ、藍夜。あとどれくらいで終わりそう?」

空気を読まないとはこの事だ。真珠は間の抜けた声にはっと我に返り、慌ててニゼルの胸元を強く掴むが、彼女は藍夜の事しか見ていない。

「どう……だろうね、ニゼル。本来なら、僕もサラカエルも不得手の術だから」

唸るような声で、審判官は問いかけに応えた。負荷は相当のもののあるようで、彼らの顔は青ざめ、屋内はみしみしと悲鳴を上げている。
耐えきれず、真珠はニゼルの手を掴んで思い切り引き寄せた。そのまま引きずるようにして、彼女ごと屋根裏部屋を後にする。

「わ、待って、待ってよ、真珠! どうしたの?」
「どうしたって! あんたね、あいつらが難しい術を施行しているのが分からないの?」
「それは分かってるつもりだけど。頼まれた量が量だからねー、印刷機を手動でやってるみたいなものだし、流石にきついんだろうね」

印刷機? 声には出さなかったが、白羽根の顔には疑問がそのままの形で浮かんでいたらしい。ニゼルは悪戯めいた笑みを浮かべた。

「歩きながら話そっか……さっきね、琥珀とシリウスが部屋に来たんだよ。『遠出したときに一瞬で屋敷に戻れる座標の札が欲しい』って」

さっきと言われて、弟が両親に食ってかかっていた事をようやく思い出す。入れ違いが多発するあたり、ニゼルの行動力は想像以上だ。
そういえば、あのときは両親の用事についてついに聞けずじまいだった。
アレースが天上界に戻ったか不明である上に、珊瑚の絡みもいつにも増して酷かった為、素直に指示に従ったからだ。
とはいえ、真珠は両親がニゼルの部屋――藍夜の個室であったところに彼女が転がり込んだのだ――を直接訪ねた事に、改めて動揺する。

「座標の札? 何よそれ、何の話よ、どういう事なの。まさか父さんと母さんは、あんたやヘラを置いてどこかに遠出するつもりなの」
「ちょっと、真珠、落ち着いて。そんなにいっぺんに聞かれても、答えられないから」
「そ、そうね。ごめんなさい」
「うーん、遠出……そうだなあ。一度、自分達みたいにラグナロクを逃れた魔獣や神獣がどこでどう生存してるか、調べてみたいんだって」
「生存? どうして母さん達が……それって、それこそ世界中を探してみないと分からない事じゃない!」
「だからこそ『帰還の座標』が必要なんじゃない? 藍夜達にはヘラの護衛もあるから、ずっと魔獣の分布を視て貰うわけにもいかないし」

とんでもない話だ、それでは屋敷から離れるという事と同義ではないか、父母は自分達娘息子の事などどうでもいいのだろうか。
突然の話に思わず黙り込む真珠だが、やはり顔に出てしまっていたようで、すぐにニゼルの手が伸びてくる。頭を撫でられ、視線を上げた。

「そんな顔しなくても大丈夫だよ。真珠や珊瑚だって、いつか似たような事、考えつくかもしれないし」
「わたしは! わたしは、この屋敷から離れるつもりはないわ。あんた達は命の恩人だもの、自分から捨てようだなんて思わない!」
「捨てるって……あはは、そんな大袈裟な話じゃないと思うよー。琥珀達だって、たまには戻ってくるつもりだろうし」

何故このひとはこんなにもあっけらかんとしているのだろう、納得出来ずに俯く白羽根の顔を、不意に赤紫の瞳が覗き込んでくる。

「なっ、何よ……」
「ううん。真珠は真面目だなーと思って」
「莫迦な事言わないで……ニゼル。あんたは、寂しくならないの」
「それは違うよ、真珠。あのね、琥珀は一人前になったんだ。魔獣は大人になると、他の動物みたいに巣立ちの時期を迎えるんだよ」
「巣立ち? 何それ、聞いた事がないわ」
「神獣は逆に、自分でテリトリーに定めたところに定住する習性があるんだけど……琥珀、グリフォンみたいな魔獣達は少し違うらしいよ」

「俺だって知恵の樹の管理を任された賢い天使様なんだからね?」、ニゼルはそう言って朗らかに笑った。
……世界のあらゆる知識を蓄える白銀の果樹によれば、ある年齢に達した魔獣は従来の住処を離れ、別の土地に巣を作る習性があるという。
一定期間をそこで過ごした後、彼らがどうするかはそれぞれに個体差があるようだ、とニゼルは補足した。
その地に定住するか、また別の住処を求めて新たに旅立つか、元いた場所に戻り行くか。全ては、鷲獅子本人次第だと話は締めくくられる。

「シリウスは愛妻家だし、着いていく気満々だったから止めようがないよ。真珠が可愛くないんじゃなくて、体調を気遣ったんだと思うよ」
「そう。『わたしの体が脆いから置いていくしかない』、って意味?」
「そうじゃないよ、屋敷も落ち着いてきたし、真珠達も立派に育ったから本能が疼いたんでしょ。安心して任せられるって意味だよ」

父母は、もう自分達を一人前として認めてくれているのだ……真珠は、目の前でニゼルがにやにや笑っている事にも気付かず、頬を緩めた。

「それなら、いいわ。わたしは、別に何も気にしてないから」
「そう? あはは、いいと思うよー。俺と藍夜に似たのかな、琥珀も結構、我が儘だから」

そこはヘラに似たんだと思うわ、それもそっか、ふたりは顔を見合わせて苦笑する。

「それで、母さん達はいつ旅立つって?」
「藍夜達次第かな? 札の枚数、かなり多めに頼んでたみたいだし」
「不憫ね、あいつらも」
「言っちゃ駄目だよー? 後で手間賃請求してやるんだって、藍夜すっごく意気込んでたから」

これが未来永劫の別れになるわけでもなし、真珠は自分にそう言い聞かせた。同時に別の思考を巡らせる。
父はともかくとして、母はニゼルに似て思い立ったらすぐのひとだった。後々になって、荷物に不備があったのでは困るだろう。

「ねえ、ニゼル。わたし、母さん達の旅の手伝いがしたいんだけど。買い出しにでもつき合ってくれない? それくらいならいいでしょう」
「いいと思うよー。っていうか、たまには陽の光も浴びないとね。藍夜もいないし、俺も暇してたからちょうどいいよ」

顔を上げると、頼りがいのある笑顔がすぐ目の前にあった。ニゼルに相談してよかった、沈んでいた筈の心がどこか晴れ晴れとしていく。
きびすを返して、足取り軽く自室に向かった。どこに行こう、何を買おう、久しぶりの外出に、真珠はわくわくと胸を弾ませる。
よもや、弟が「オレも行きたい」などと駄々を捏ねているとは思いもしなかった。夕方までまだ時間がある、ゆっくり髪を梳いて外に出る。

「あっ、ねーちゃん! ねー、オレも一緒に行っていいよね!?」

ニゼルを引きずるように連れてきたのは、言わずもがな、珊瑚だった。その行動力を別のところに活かせばいいのに、とは言わないでおく。

「仕方ないわね。言っておくけど、母さん達が使うものしか買わないわよ」
「オッケー、やったー。よっしゃー、マント取ってこよーっと」
「はあ……で、あんたは大丈夫なの。ニゼル」
「あ、あははー。うん、大丈夫。ちょっと首が締まっただけだからゲホゲホ」

文字通り、ニゼルは廊下を引きずられてきたのだ。慰めるようにして、優しく背中をさすってやった。
視線を部屋の中へと戻して、真珠は小さく嘆息する。スキップ混じり、鼻歌全開の弟は楽しそうに見えた。「羨ましい」とふと思う。
あれほど素直でいられたなら自分も可愛げがあっただろうか。口を閉じた時間が長かったのか、ニゼルに顔を覗き込まれた。
「なんでもないわよ」、自虐を見抜かれないよう明るい笑みで自らを笑い飛ばす。
せっかくのお出掛けの日に暗い表情は似合わない、どうせならうんと心を弾ませておこう……気楽な体で、黒羽根の支度が済むのを待った。





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 UP:19/11/30