取扱説明書  ▼「読み物」  イラスト展示場  小話と生態  トップ頁  サイト入口



楽園のおはなし (3-11)

 BACK / TOP / NEXT




「ま、待って、もう無理……死ぬ、死んじゃうから」

情けない声が出た。ニゼルは敷き詰められたクッションの上に横たわったまま、ぜいぜいと荒く息をして悶え苦しむ。
それというのも、頭上の人物が彼女に関節技を入れつつにこにこと微笑んでいるからだった。言うまでもなく、殺戮の天使そのひとである。

「やあ、こんなものじゃないだろ? 自分から抜け出せるようにならないと」
「いやいやいや、無理でしょ、完全に固めてるでしょ! 出してー、誰か助けてー!!」

押さえ込まれた肩はうんともすんとも言わない。ぎりぎりと骨と思わしきもの同士が軋む音がして、ニゼルはいよいよ悲鳴を上げた。
彼が立案したという「元ニゼル=アルジル肉体改造計画」。フロルの身から天使となって早数ヶ月、サラカエルの横暴は尽きる事がない。
最初こそニゼルを案じて鷲馬の双子が制止ないしからかいに出てきていたが、数週間も経てばこの有り様だ。基本は放置である。
真珠だけは当人か雇用主のヘラに抗議し続けているが、あまり効果は出ていない。恐らく娯楽扱いされている、ニゼルはそう痛感していた。

「……そのくらいにしておきたまえよ、サラカエル」

否、他にも多少なりとも気に掛けてくれる者がある。
屋敷の一階、ニゼル達が特訓しているスペースのほどなく近くに置かれたソファに腰掛けて、そのひとは自身の対存在に苦言を呈した。
言うまでもなく、鳥羽藍夜ことウリエルだ。藍夜ぁ、泣き声混じりの救難を求めるニゼルと首を傾げたサラカエルを見比べ、彼は席を立つ。

「確かにフロルは衰弱していたがね、今では肉つきも骨格も年相応のものになっているじゃないか。無理強いは感心しないというものだよ」
「藍夜ぁ、助けて〜。サラカエルが俺をイビ……いじめるんだよー」
「肉つきって、君ね。家畜か何かじゃないんだから」

真下に位置する空色の頭をちらと見て、殺戮は歩み寄ってきた審判官の手を取った。

「ま、君の言うようにね、努力はしていたと思うよ。食事も運動も睡眠時間も厳守して、短期間でここまで回復出来たんだ。大したものさ」
「だったら、」
「ウリエルは聞いていないのかい? この間抜けときたら、アクラシエルや白羽根からこっそり甘味や氷菓の差し入れをされていたんだよ。
 厚意と言えばそうだけど、断る事だって出来た筈さ。そもそも本人に改善の意志がなければどうにもならないんだけどね、こういうのは」

技を解き立ち上がる最中も、嫌みが止まる事はない。藍夜は眉間に一度皺を刻んでから、困ったような顔でニゼルを見下ろす。
ニゼルはというと、サラカエルの証言が事実である故に伏せたまま耳を塞いでいた。全く反省の色のない娘に、天使達はそれぞれ嘆息する。
ニゼルの事だからね、藍夜は苦笑混じりに彼女にも手を差し伸べた。ニゼルが当然のようにそれを取った瞬間、サラカエルは背を向ける。
刹那、彼が振り返りざま目に見えぬ早さで片足を振った。膝を取られ、派手に転びかけたニゼルの体を藍夜は慌てて受け止める。

「ニゼル! ……サラカエル、君も大概にしたまえ」
「うわっ、ちょっ、あっぶな!? もうっ、サラカエル! ありがとー、藍夜」
「やあ、ウリエル。余計な事を」
「いやね、その……君達も変わらないものだね」
「違うよ、サラカエルが大人げないんだよー。よいしょー、っと」

アイスの一つや二ついいじゃないか、藍夜は小さく苦笑いを浮かべた。一方、支えられて立ち上がるや否やニゼルは殺戮に舌を出している。
サラカエルの反応は首を傾げただけのものだった。彼の本心におおよその予想がついている藍夜は、娘の服の表面を軽く叩くだけに留める。
自分も対天使も、大概素直ではない。感傷に浸るように嘆息していると、隣の乙女は「いーっ」と歯を出し始めた。流石に窘めておく。

「ところでニゼル……いや、今日はアンブロシアは一緒じゃないのかい」

居間に隣接する台所に、ニゼルの相棒にあたる天使の気配が感じられない。何の気もなしに問いかける最中、藍夜は微かに声を詰まらせた。
ニゼルの髪から、ふわりと石鹸とローズマリーの混ざった香りがしたからだ。常に香るものとはいえ、何故かそれが妙に鼻をくすぐる。

「うーん? あ、そういえばさっき買い物に行くとか言ってたかな。へへ、言われてみれば、今日はそんなにアンと一緒にいなかったかも」

ニゼルという名の「ラグエル」が屋敷に戻ってからというもの、アンブロシアの対天使に対する過保護加減は度を超していた。
何をするにも彼女を優先して行動している様子が見え見えで、最近ではサラカエルでさえ口出しの頻度が減っている。
とはいえニゼル本人は満更でもない風なのだ。どちらの気持ちは分からなくもないがね、口内でぼやいて、藍夜は娘に苦笑を返した。
「姉」を捜した末に得た友人が、一部とはいえ対象そのものだった――アンブロシアの胸中は、実のところ複雑だろうと藍夜は読んでいる。

「そうなのかい? 買い物にしては遅いようだがね」
「んー、どうだろ。真珠も一緒みたいだし、お茶でもしてるんじゃない?」
「それなら致し方ないか。女性同士の語らいというのは、大切なもののようだからね」
「あはは、二人とも女子ーって感じだもんねえ。最近は小説とか読み合ってるらしいよ? 俺もこれから読もっかなー」
「おや、今日の特訓はもう片がついたのかい」
「うん、『そろそろ平常メニューにしてもいいんじゃないかな』だって。あー、やっと落ち着いたよ。これで堂々とおやつも食べられる!」
「ずっと、チーズを食べたがっていたからね。一段落といったところだろうね」
「うん! へへ、藍夜がつきあってくれたお陰だよー。藍夜と一緒だから頑張れたんだ、ありがとね!」

どうした事だろう、藍夜はどぎまぎして思わず顔を逸らしていた。こちらを見上げたニゼルの笑みが、いつもに比べてより眩しく見える。
自分は一体どうしてしまったのか。ちらと盗み見ると、同じく疑問に思ったのか、ニゼルは首を傾げていた。
またしても迷迭香の香りが宙に溶け、彼女が早朝の入浴を済ませていた事を知る。その光景をふと想像しかけて、藍夜は慌てて頭を振った。
……香料が多すぎたのかもしれない。或いは人間の頃と同じように作っていたつもりが、長寿に甘えて感覚が鈍りでもしたのだろう。
そういう事にしておこう、と藍夜は口を閉じた。ニゼルはニゼルであって、決してかつての想い人ではないのだと己に言い聞かせるように。
何でもないよと応えてから、いつものように茶を淹れるつもりで台所へ足を向ける。やはりついてくるニゼルと並び、流し台の前に立った。

「アンがね、今日のお昼はクレソンたっぷりのサンドイッチにしてくれるって。ダメ元でお願いしたんだー、寒くなってきたから」
「おや、君も随分と無茶な注文をしたものだね。もう林檎が色づき始めた頃だろうに」
「それがね、市場にハーブ専門のお店を見つけたんですーって言ってたんだー。琥珀もだけど、アンもお店開拓するの凄く上手なんだよね」

他愛のない話、楽しそうに笑う娘、いつもと同じ光景。ウリエル、ラグエルであると同時に、自分達は今も親友同士なのだと認識する。
それはどんなに幸せな事だろう、藍夜は微かに笑みを滲ませた。気を取り直し、棚から取った香草瓶から常の分量をポットへと足していく。
視線を向けずとも、ニゼルがわくわくと顔を輝かせている様が想像出来た。案の定、彼女は身を乗り出してポットを覗き込んでいる。

「ニゼル。お湯を淹れるから少し離れて……」

友人に火傷を負わせないよう、軽く注意を促す審判官。しかし、彼の言葉は途中で強引に遮られてしまった。それというのも、

「たっ、大変です! ニゼルさん、ああっ、藍夜さんも! 大変なんです、あのっ、その!!」

凄まじい足音と共に、縁側から駆け込んできたアンブロシアがひっしとしがみついてきたからだ。
藍夜は瓶とポットをニゼルの傍からすぐに遠退ける。悲劇の天使の突撃は、抱きついたニゼルごと流し台にのめり込みそうな勢いだった。

「うわっ、アン、どうしたの!? ちょっと落ち着いて!」
「落ち着いてる場合じゃないんですー! おっ、お客様がっ、お客様がー!!」
「え、何、客? 一体誰の、」
「ど、どうしましょう、わたし達ではとても――」

――アンブロシアの言葉は唐突に遮られる。背後から伸ばされた色の白い手のひらが、彼女の口を覆ったからだった。

「落ち着きなさいよ。わたし達が適わない相手ならヘラに任せれば済む話でしょう」
「お、おかえり、真珠ー。びっくりした、どうしたの、何があったの?」
「お帰り、真珠。来客というのは、庭で待たせてあるのかい」

小首を傾げた白羽根の鷲馬は、ただいま、と藍夜に応えてから首を後ろに巡らせる。つられて視線を動かした二人は、思わず息を呑んだ。
縁側からすぐに見える屋敷の外庭。芝生を厳つい靴で踏みしめ、腕組みをした格好の男が一人、堂々と胸を張りその場に立っている。
盛り上がった筋肉は恥じらう事もせず秋の陽光を浴びて輝き、逞しい胸元ははだけていて、自慢げに外気にさらけ出されていた。
こちらに気付いた体で向けられた視線が、爽やかににかりと笑う。刹那、藍夜は隣のニゼルがうわっ、と奇妙な悲鳴を上げたのを耳にした。

「ふっ、今代のラグエルとは『それ』か。アクラシエルといい、態度の悪さは変わらずだな」
「……あなた様は」

はっきりとよく通る声だ。ニゼルの反応を半ば鼻で笑い、男はのしのしと大股で屋敷に歩み寄ってくる。
藍夜は件の人物に見覚えがあった。さりげなく真珠を庇うようにニゼル達の元に向かわせ、男を出迎えるべく外に出る。
気付けば、サラカエルの姿もすぐ横にあった。ヘラの私室は縁側の真上に位置する為、彼は来客の姿を見てとって返したのかもしれない。

「お久しぶりに御座います、ご健勝のようで喜ばしい限りです。アレース様」

殺戮の語気には、どこか刺々しさが含まれる。満面の笑みを浮かべた対天使は、いつの間にかいつもの仕事着に着替えを済ませていた。

「ん、殺戮の天使か……母上もまた、何故いつまでもお前達のような物騒な連中をお側に置かれているのか。それだけでなく、野獣まで」

男はぶつぶつと聞こえよがしの文句を並べる。サラカエルが片眉を上げたのを見て、藍夜は慌てて頭を下げた。
アンブロシアの言葉に嘘偽りはない――目の前の男は、「一介の天使」である自分達では手に負えない相手に違いないのだ。

「んー? アレースって、どこかで聞いた事あるような気がするけど。誰だっけ?」
「珊瑚……場を掻き乱すのは、よしたまえ」

野獣。その筆頭に位置する少年が、ひょこりと顔を見せる。肩には今し方整えたばかりと思わしき薪が担がれ、縁側に木屑を降らせていた。
黒羽根を見るや否や、男は明らかに眉をひそめる。藍夜と男を見比べていた珊瑚は、薪を芝生に置き、靴を脱いで居間に上がった。
藍夜は気が気でない。それというのも、この鷲馬は母親の魔獣に似て、何を言うにも一言も二言も多い性格であるからだ。

「掻き乱すって、失礼な。アポなしでやってきて上半身剥き出しのド変態の方が、よっぽど失礼千万じゃん? ねーちゃんの目に悪いわー」

予想はすっかり当たり、珊瑚は真珠の手をさりげなく両手に取りながら、にこにことニゼル達に笑いかけつつ暴言を吐き散らす。
ぶはっと噴き出したのはニゼルだった。真珠はうんざりしたように顔を歪め、しかし珊瑚の手を振り払う事はなく、窘めようともしない。
アンブロシアがおろおろと狼狽している最中、藍夜はサラカエルもまた失笑しているのに気付いて庭に目を向ける。

「も、申し訳ありません、アレース様。その、皆、決して他意などは御座いませんので」
「……とても、その言い分が通るようには見えないが。審判官」

男、天上界においては戦神とされるアレースは、すっかり不機嫌といった様子でじっとりとした非難の眼差しで審判官を見据えていた。
彼が苛烈な性である事は広く知られている事だ。両親が「神の頂」に座す点から見ても、怒りを買う事は得策ではないと藍夜は考えている。
とはいえ、非難のみならず、彼の怒りも自分一人が請け負わなければならないのだろうか。「それは御免だ」と、審判官は歯噛みした。
アレースの機嫌など知った事ではないとばかりに呑気に笑い合う面々を背に、藍夜は悲鳴を上げたくなる気持ちでいっぱいになる。
刹那、殺戮の天使がぱっと振り向き、居間に向かって頭を下げた。彼の袖を掴みかけて、藍夜は同じく
振り向き、息を呑む。

「――なんだ、誰かと思えばどこぞの筋肉莫迦じゃないか。あの愚弟め、さては仕事をする気がないな? 後で抗議の文を飛ばしてやるか」

助け舟とは体ばかりだった。件の神の実の母親にあたる人物は、アレースの姿を見つけるや否や居間から出て行こうとしてしまう。
内心で慌てふためいたのは藍夜ばかりだった。見れば、サラカエルはヘラの暴言に心底同意とばかりに気持ちのいい笑みを浮かべている。

「ああ、それでしたら手紙を届ける役目は僕が勤めさせて頂きましょうか。ゼウス様もご多忙の身でしょうから、早いうちがいいでしょう」
「おお、そうかー。いちいち奴の遣いを呼びつけるのは可哀想だからな、そうしてやるか。さて、予備の紙があったかどうか……」
「サラカエル! ヘラ様っ!!」
「母上! 久方ぶりの再会だというのに、あんまりではありませんか!!」

否、慌てていたのは藍夜だけではなかった。激高というよりは混乱しきったような声色で、アレースがヘラを呼び止める。
そうだ、この男神と女神には血のつながりがあった。大神ゼウスとその正妻ヘラ……アレースはその間に生まれた正真正銘の神である。
だというのに、ヘラはアレースの懇願じみた声掛けを鼻で笑うばかりだった。振り向きざま、彼女はせせら笑うように双眸を細めてみせる。

「なんだ? 事前の承諾もなくいきなり人様の領域を侵すような無礼者など、私の知り合いにはいない筈なんだがなあ」

はっとした顔で固まり、直後アレースは拳を握りしめ、顔を赤くした。しかし女神の冷ややかな眼差しは、その温度を上げる様子がない。

「お前が仮に愚弟だったとしても、答えは同じだ。ここは天上界ではなく地上、大神をはじめ神々の手から離れた場にある隔離された土地。
 なんだ? ここまで教えてやらないと礼を尽くす頭も回らないのか。だからお前はいつまでも私に『愚息』と呼ばれるんだぞ、恥を知れ」

「人間の世界には、人間同士が諍いを起こさずに済む為の礼儀がある」。ヘラは嘲笑いながらもそう忠告する。
とはいえ、藍夜にはそれがアレースの来訪を拒む為の詭弁にしか思えない。昔から彼女は彼に手厳しく、時に匙を投げる事もあったからだ。

「……確かにそうです。しかし母上、我々がロードから解放されて既に百年は経っています。それなのにお顔を一度もお見せ頂けないのは」
「これ以上、こんなところで無駄な議論をするつもりはない。サラカエル、茶を淹れてくれ」
「はい、喜んで」
「母上! あなた様は、もう天上界の事などどうでも宜しいのですか!? 父上も口にはしませんが、あなた様のお帰りを心待ちに……」

一瞬、藍夜には目の前で何が起きたのかが分からなかった。突然視界がぱっと青白く染まり、外庭に一筋の、目映い閃光が降ってくる。
それが天から来たる雷であると気がつけたのは、アレースがこれ以上ないほどに顔を青くして、足下の焦げ跡を見下ろしたからだ。

「愚弟め。後で、芝生の弁償をさせてやらないといけないな」

はっとして、藍夜は居間に目を向けた。口振りは嘲笑するかのようだったが、ヘラの顔には満足感のある笑みが浮いている。
きびすを返した女神を追い、サラカエルがするりと音もなく台所に上がっていった。重い沈黙が息苦しい。藍夜は恐る恐る戦神に振り返る。
アレースの顔からは血の気が失せていた。それを見て、藍夜は初めて、この神が大神の許しも得ずに屋敷を強襲した事を知る。

「その、大丈夫ですか。アレース様」

あの雷は、ゼウス本人が警告として放ったものであるのに違いない。彼の神は元妻の矜持と愛息の気遣いを天秤に掛け、前者を取ったのだ。
アレースとて、両親の怒りを買おうとして行動したわけではなかった筈だ。しかし、両者が交わした契約は思いのほか強固だった。
戦神はそこまで見越していなかったのだ。掛けるべき言葉が見つからない。藍夜は彼を刺激しないよう、出来るだけ小さな声で声を掛ける。

「……あ、ああ。もちろんだ。私を誰だと思っている、天上界の中で最強と謳われし戦神、アレースだぞ」

返答は、思ったよりしっかりしていた。頷き返したアレースは、ふと顔面を訝しむように歪め、居間の方を見る。
釣られるように視線を動かして、藍夜はぎょっとした。ヘラだけでなく、目下にあたるニゼルや真珠達までもが、呑気に茶を始めたからだ。

「に、ニゼル。一応、アレース様は僕達より格上なんだがね」

慌ててリビングに駆け上がり、藍夜は戦神に背を向ける形でサラカエルの紅茶を手に焼き菓子をほおばり始めた友人に声を掛ける。
振り向いたニゼルは、それこそきょとんととぼけた顔で審判官を見上げた。その可愛らしい表情に、またしても胸の最奥が鼓動を弾ませる。
そんな場合じゃない、藍夜はぐっと目を閉じ、頭を振った。もりもりと大判のクッキーを食べながら、ニゼルはへらりと笑って見せる。

「どうしたの、藍夜。クッキー冷めちゃうよ?」

間の抜けた声色が、ゆったりと居間に広がった。悪びれた様子もなく、ニゼルは目の前の焼き菓子を詰めた籠を差し出してくる。
ありがとう、と無意識に一枚を摘まみかけて、藍夜は刺すような鋭い視線に顔を強張らせた。言うまでもなくアレースである。

「いらないの? 今日は、ローズマリー入りだってアンが言ってたけど」
「あ、いや、そうじゃない、そうじゃないんだよニゼル。僕が言いたいのは、今は談笑している場合ではないという話で」

親友が狼狽しているのを見て、ニゼルは視線を静かにアレースへ移した。赤紫が、まるで品定めをするかのように戦神を真っ向から射抜く。
ふと、物音が遠退いた。何故かは分からない。不思議と藍夜の目には、周りの神獣達も黙して彼女の言を待ち詫びているように映ったのだ。
この屋敷の全ての権限は、ラグエルという名の天使に在る……そのように錯覚してしまえるほど、このふとした沈黙は重苦しいものだった。

「そうなんだ? ふーん……で、急に訪ねてきて、手土産の一つもなし?」

ところが、実際にニゼルが口にしたのは何とも緊張感に欠ける一言である。固唾を呑んで見守っていた藍夜は、思わず転けそうになった。
よろけたところを、サラカエルが支えてくれる。見上げてみれば、対天使は顔に苦笑いそのものといった表情を浮かべていた。

「てみや……何を言っている、ラグエル? 正気か」
「はあ? 正気かって、それはこっちの台詞なんだけど。ヘラを訪ねてくるのに、お土産も有益な情報の一つもなしって。頭、大丈夫?」

否、呑気に倒れている場合でもない。サラカエルの手を振りきるようにして慌てて立ち上がり、藍夜は問答無用でニゼルの口を手で塞ぐ。
友人はやはり、何がなんだか分からないという顔をした。彼女の物言いは完全な非難と批判であり、いつアレースが怒り狂うか分からない。
振り向いたとき、戦神は眉間に皺を刻んで立ち尽くしている。意外にも彼は激高することなく、冷静な視線で屋敷を見据えていたのだ。

「手土産はない、が、お話ならあります。母上」

絞り出された声は、微かに震えていた。やはり怒りの感情はあるらしく、歯を食いしばる様子は険しい気配を持っている。

「ほう、なんだ。仕方ないから、茶の片手間に言い訳くらいは聞いてやろう」
「ヘラ様……」
「藍夜。あーいや! 神様同士の話に、天使が口挟んだら駄目だよ。ほら、クッキー食べよ? 俺、藍夜のハーブティー飲みたいなー」
「ニゼル、君ね」

藍夜は友人の言葉に、気が抜けるような思いだった。しかし、彼女の言う事も一理ある。
ヘラの冷徹な眼差しと入れ替わるようにして、台所に向かった。気を遣ったのか、ついてきた真珠がそっと茶器を渡してくる。

「それで、話とはなんだ。言ってみろ」
「……せめて、お付きの天使達は退室させられないのですか。母上」
「こいつらは同居人だ、お前は莫迦なのか。空気か壁だとでも思っておけばいいだろう」
「……うぬ……」
「なんだ? 百年も経ったのに、まだロード気分が抜けないのか。ここの習慣が受けつけないなら、今後は気軽に訪ねて来ない事だな」

ティーポットを持つ手が震えた。ヘラはよほどアレースを嫌っているのだろうか、言葉の端々に棘が感じられる。

「分かりました、そうしましょう。それで母上、話というのは他でも……」
「うむ、サラカエル。茶のお代わりを頼む」
「母上!」
「なんだー、聞いてるぞ。早くしろー」
「くっ……母上、天上界ではあなた様が飼育されている神獣の話で持ちきりです。近いうち、はつじょ……」
「――あっ! そうだ、ねえ、真珠ー、珊瑚ー? お風呂沸かしてきてくれない? 俺、汗掻いちゃったからさー。サラカエルのせいで」

わざとらしい口ぶりだった。藍夜の隣に立つ真珠とアンブロシアが、揃って首を傾げている。
一方、ニゼルの向かいに座ってコーヒーを啜っていた珊瑚は彼女の言葉に何らかの意図を感じてか、素早く無言で席を立った。
つかつかと台所にきた黒羽根は、さっと白羽根の手を掴んで居間を出る。真珠の文句は、あっという間に扉の向こうに消えていった。
見送るようにして二人の背を見つめていたニゼルとヘラが、非難の眼差しで外庭を見る。アレースは、居心地悪そうに眉尻を下げて見せた。

「デリカシーのない莫迦とは始末が悪いな。時と場合を考えられないとは」
「そーだよねー? 明らかに分かってる事でも、言っていいタイミングとか計れないのは、ちょっとねー」

否、ニゼルが口を雄弁に挟む瞬間、戦神の顔にさっと朱が差す。藍夜はまだ抽出の終えていない香草茶を持って、急いで居間に足を運んだ。

「ヘラ様……ニゼル、一体どういう事なんだい」
「うん? ああ、そういえばお前は動物全般が苦手だったな、ウリエル。教えてやれ、ニゼル」
「え? 俺が言ってもいいの?」
「莫迦は余計な一言が多いんでな。正直、早く帰って欲しいわけだからな」
「……俺より適任者がいると思うんだけどねー」
「適任? 君はさっきから何の話をしているんだい、ニゼル」
「えっと、だからこの話を振るのに適任な奴の話だよ、藍夜」

ニゼルが意味深に、ヘラの横に腰掛けるサラカエルに目線を投げる。殺戮は、さも自分には関係ない、とばかりに静かに紅茶を飲んでいた。
一方、口出し無用と先手を打たれたアレースは、忌々しげに芝生を靴底で踏み荒らしている。ヘラは心底嫌そうな顔でそれを眺めていた。

「なんて言ったらいいかな。俺の予想ってだけの話だったんだけど、アレースがここに来て真珠達の話題を出して、で、ヘラの言葉でしょ。
 藍夜は琥珀やシリウスがカマエルにあれこれされた時の事、覚えてる? あれと違って、珊瑚達に本物の発情期がきてるっぽいんだよね」

かちゃりと、茶器が動かされる音だけが響く。ニゼルがさらりと言い放った内容を、藍夜はうっかりぽかんと聞き流すところだった。
はっと我に返り、自分の対天使を睨む。サラカエルは藍夜の言わんとしている事を察してか、小さく首を傾げて見せた。

「昔、グリフォンの管理を勤めた事があったからね。ウリエル、君は鷲馬の飼育に携わってないんだから、怒る必要はないんじゃないかな」
「しかしね、サラカエル。は、は、はつじょ……うぐ、その、繁殖期といっても、真珠も珊瑚もいつも通りじゃないか」
「藍夜、照れくさいなら無理に口に出さなくても……うーん、普段人型を維持して生活してるくらいだからねー。制御くらい簡単なのかも」
「それにしたって、君達ね……」
「相手はけだものなんだよ、ウリエル。僕達が時期を察したところで、どうこうしてやる話じゃないさ」

デリケートな話を堂々と茶の席でしようとは。藍夜は腑に落ちず、同時に恥じらいのなさに苛立つが、ニゼル達は涼しい顔をするばかりだ。

「それに、文句ならアレース様につけて欲しいね。彼がいくら天上界でがなり立てる連中の代理人としても、振ってきたのは向こうだろ」

サラカエルは端から真面目に議論するつもりもないらしく、二杯目の紅茶をカップに注ぎ足している。
ニゼルはわざとらしく唇を尖らせた格好で、ハーブティーをちびちびと飲んでいた。話にならない、藍夜は大袈裟に頭を振る。
外庭の戦神本人が口を開きかけた、次の瞬間。ふと、天使達の動向をそれぞれに見比べていたヘラが、乾いた声でわざとらしく笑い出した。

「話にならんな。私の領域下におかれたものに、天上でふんぞり返るだけの連中が何が出来る」

アレースも含めた一同から一斉に注目を浴びるも、女神はそれらを纏めて鼻で笑い飛ばしてみせる。
焼き菓子を片手にどんとふんぞり返る様は、まるで気品に欠ける仕草でありながら、堂々としすぎていて逆に威厳に満ちていた。

「言わせておけ、どうせお前のようにここまで降りてくる気のない意気地なしどもだ。来れたとして、神獣にも舐められて終わりだろうさ」
「しかし、母上……」
「ああ、お前の苦労ならなんとなく分かるぞ。愚弟の分もな。お前達以外の連中は、いっそロードにされたままでも良かったんじゃないか」
「母上!」
「おいー、冗談だ、『可愛いヘラちゃんの戯れ言』だ……もう、それで通しておけ。『ヘラ様の我が儘で神獣達は奪えませんでした』とな」

アレースが口ごもったのを見て、藍夜はようやく彼が来訪した理由を知る。つまるところ、戦神は他の神々に発破をかけられたのだ。
「ヒッポグリフという神獣、その希少種をヘラから強奪してこい」と。あの鷲馬にどれほど価値があるのか、自分はあまりに知らずにいた。
まさか連れ去る計画まで立ち上がるとは……思わず黙り込んだ審判官を慰めるように、ニゼルの手が握りしめた拳の上にそっと乗せられる。

「ニゼル……」
「へへ、藍夜は真面目だもんね」

視線を落とすと、困ったような笑みと目が合った。ニゼルは始めから分かっていたのだろう、だからアレースへの態度が手厳しかったのだ。
手の上下の向きを変え、藍夜は友人の手のひらを握り返す。つられるように、倣うように、ニゼルは力強くそれに応えてくれた。

「……母上。それでは、またあなた様が悪女と罵られてしまうのではありませんか。あの、記す堕天使の悪知恵も続いているというのに」
「ペネムエか。放っておけ、直に乗り込みでもされなければ痛くも痒くもない。それに……ここには私の理解者が、大勢いてくれるんでな」
「理解者……よもや、たかが天使どもがそれだと仰るのですか。本来であれば、あなた様の部下にも手足にもなる格下どもが」
「そうだ、悪いか。お前達と一緒にするな、彼らは同居人であって、私の下僕でも奴隷でもない。それとも口出し出来るご身分か、お前は」

アレースは、本当に悲しそうに顔を歪める。彼とて、恐らく好きで生みの親と決裂したくはない筈だ。
偉大なる十二の柱のひとつでありながら、地上にただの伝令役として遣わされた戦神。それは果たして、どれほど屈辱的な仕打ちだろうか。
彼の誇りやこれまでの功績を思えば、藍夜はまるで自分の事のように胸が痛むばかりだった。

「おいー、いつまでそこに居座る気だ。今度は、手土産の一つでも持ってきてから、そこらをうろつくんだな。いいから、今日はもう帰れ」

ヘラは、あえて冷淡に接する事で彼を労ったのかもしれない。他の神々への牽制という意図も含めて、彼女なりに愛情を表現したのだろう。
実際に、頭を深く下げたアレースは、それ以上食い下がらずにその場から姿を消した。目に見えぬ馬のいななきが一つ響き、気配も遠退く。
「愚弟め、仕事をしろ」。苦い顔で呟いた女神が、三杯目の紅茶を口に運んだ。労るように、サラカエルが茶菓子を皿に足している。
身勝手な天上の神々。しばらくは彼らの道楽に振り回される事になりそうだ――審判官は、重ねた二つの手を見下ろしながら、嘆息した。





 BACK / TOP / NEXT
 UP:19/11/06