取扱説明書  ▼「読み物」  イラスト展示場  小話と生態  トップ頁  サイト入口



楽園のおはなし (3-10)

 BACK / TOP / NEXT




「『ガブリエルからの言付け』よ――ワケあって『魔王一派は今代ラグエルを支援する』、『ただし理由は明かさない』、宜しいかしらぁ」

リリスはくすくすとさざ波のような声を緩やかに響かせて、よく笑う。頭を抱き寄せられ、ニゼルは上手く抵抗する事が出来ない。
むぎゅうと、元羊飼いは大変に柔らかい物体の質量を頬に受けた。けしからん巨乳だ、転生前ならそこそこ嬉しい体験だったかもしれない。
実にいい匂いがする、いや、不謹慎だ。息苦しさと視界の悪さに目を回しながら、ニゼルはリリーと名乗っていた女にされるがままでいる。

「一体どこから……いや、それより君は幽閉されていたところをニゼルに助けられたそうだね。君とガブリエルはどういった関係なんだい」
「あらぁ、人間の体を経験して鈍くなったの、審判官。来るべきときが来たら教えてあげてもいいわよぅ、ニゼルはあたしの恩人ですもの」
「質問に答えたまえよ。答えられないというのなら、君こそ引っ込んでいたまえ。僕達は今とても大切な話を、」
「言うわねぇ。アナタ、ニゼルが元ニゲラだって聞いて何を思ったの? それって口に出来る事かしらぁ? 言えないわよね、鳥羽藍夜君」

そろそろ息が出来なくなってきた、腹上死ならぬ窒息死は流石に御免だ。刹那、いきなり強い力で引っ張られ抱擁から解放される。
顔を上げると、怒り心頭といった表情の親友と目が合った。怒ってる、当たり前だけど怒ってる……別の意味で、ニゼルは死を覚悟した。

「あ、あのさ、藍夜? 俺……」
「君は黙っていたまえ、ニゼル。リリーと言ったね。君が何者かはどうだっていい。ニゼルに付き纏うのは止したまえ、それだけの話だよ」
「あらぁ、うふふっ。まるで恋人みたいに束縛するのねぇ。アナタ、さっきの話聞いてたのかしら。あたしだって、魔王一派の一員なのに」
「魔王……なんだって!?」
「地母神様の加護が与された邸宅にその身ひとつで乗り込むなんて、そんじょそこらの悪魔には無理でも、あたしには出来るって話なのよ」

テーブルの縁に手を乗せ、ニゼル達に正面から対峙しながら女が笑う。本来なら敵の陣地に単身乗り込んだも同然だ。
この余裕に満ちた自信はどこからくるものなのか……藍夜の腕を握り、懸命に彼を止めるニゼルの耳に、突如カチンと金属音が響いた。

「シッ、シリウス!」

立て続けに風切り音がして、シリウスが抜いた刀が煌めき宙を突く。首筋に切っ先が向けられても、リリスは悠然と笑んでいた。
怯まず強い意志を込めた眼で睨む一角獣と、伸ばした指先で愛しげに刀身をなぞる女。悪魔は一度、右足の爪先で床板を軽く小突く。
どこかで見た仕草だな――思い出そうと思考を回しかけて、頭を振った。互いに退く気がないように見える双方を前に、ニゼルは息を呑む。

「そうだ、ここは地母神ヘラの御殿。いや、それ以前にニゼル=アルジルは俺の契約主だ。お前が好きに扱っていいものではない」
「ちょ、ちょっと、ケツ! 相手は魔王の、」
「そ、そうだよシリウス。ほらっ、俺はこの通り全然大丈夫だから! むしろちょっと役得だったから!」

ニゼルと琥珀の声など端から聞く気がないとばかりに、シリウスは微動だにしない。リリスは、心底楽しげに声を出して小さく笑った。

「忠犬ねぇ。ああ、忠馬とでも言うべきかしら? あたしから言わせれば、そういう堅物ほど堕としがいはあるのよねぇ」
「……なに、」
「うふふっ、しないわよぅ。ニゼルのものに手は出さないし、ダーリンに怒られるのはイヤだもの。それより、そろそろ本題に移らないと」

机から離れ、ニゼル達の横を通り、女はヘラの前に立つ。片腕を腹の前に差し出し、もう片手は背後に回して、恭しく紳士めいた礼をした。
これまでの非礼を詫びるような、洗練された動作だ。長い黄色の髪が優雅に床上に垂れ、美しい光景そのものとして目に映る。
悪魔への返事はない。ニゼルはここで初めて、女神がこれまでリリスの侵入に口を挟んでいない事に気がついた。我知らず眉根を寄せる。
薄く開かれた双眸、冷ややかな眼差し。昔読んだ事のある聖書に出てきた描写そのままに、ヘラの表情は凍てつく冷淡なものになっていた。
戸惑うニゼル達に一切振り向かず、悪魔は頭を下げたままでいる。地母神がうむ、と促したところで、ようやく女は顔を上げた。

「急な来訪、お詫びしますわ。あたしは堕天使の頂点に座す者、その右に立つもの、名はリリス。歓迎を心から感謝致します、ヘラ様」
「ああ、堅苦しい礼はいらん。リリーとした名付けは、アスモダイの封印を破る為に必要な術式の鍵だったな。で、何用だ?」

二人はしばらく、聞き取り難い小さな声で応酬を繰り広げる。危害を加える気がないと見たのか、ようやくシリウスは刀を鞘に収めた。
しかし一体何の話をしているのだろう、ニゼルにはさっぱり予想が出来ない。尋ねようにも、尋ねられるような空気に見えなかったからだ。

(魔王って、サミルの事だよね。地上に堕ちた堕天使の頂点……そういえば、なんで魔王一派もろとも俺の味方をする、なんて言うんだろ?
 リリスは『先代』と縁があったけどさ。ガブリエルの恩人、にしては……ホワイトセージはめちゃくちゃにされたし、フロルの町だって)

ヘラの声は鋭く冷たく、リリスも先の軽薄な言動を控えている。いつもの殺戮の言う「間抜け」を披露するには、勇気が要った。
藍夜とサラカエルの表情が険しくなっていく。そうして全員の顔を眺めていたニゼルは、横からアンブロシアが耳打ちしてくる声を聞いた。
いい匂いがする、そんな場違いな感想が脳裏に浮かぶ。小麦粉と砂糖の匂いだ、今日のおやつ何かなあと、元羊飼いは思考を巡らせた。

「(ニゼルさん。『右に立つもの』というのはつまり、)」
「あー、うん。『女性』の比喩で、この感じだと『自分は魔王の奥さんです』って意味だよね? 分かってるよ、ありがと、アン」
「えっ、あ、あの、ニゼルさん。その……」
「あらぁ、こそこそしないではっきり口にすればいいのに、アクラシエル。そうよぅ、あたしの本当の名はリリス。魔王サミルの正妻なの」
「――魔王!? 魔王の妻だって!? 僕のっ……鳥羽家とアルジル家を掻き回した、あの魔王かい!」

大きく声を荒げた親友に、ニゼルは肩を跳ね上げる。落ち着きなよ、すぐにサラカエルが彼の肩に手を置き、制止に掛かった。
藍夜はそれを振り払う。これは何かマズいかも、何かを言い掛けた親友の口を、今度はニゼルの手が素早く覆った。
文字通り、親の仇を見る目で藍夜がこちらを睨む。彼の気持ちなら痛いくらいによく分かる、それだけにニゼルは愛想笑いを返すよりない。

「えっと……リリス? 今日は帰った方がいいよ。『君達』の気持ちはありがたいけど、藍夜と俺には気持ちを整理する時間が要ると思う」

元羊飼いの意図を汲んだのか、リリスはきょとんとした後でにこりと笑った。さながら、悪質な客を軽くあしらう老舗の女将のように。

「そうね。ちょっと不意打ちすぎたみたいだし、挨拶は出来たもの。今日のところはそうねぇ、悪役らしく『覚えてろよ』ってとこかしら」

憤慨し、女に掴みかかろうとする親友を必死に抑え込んでいるうちに、リリスは再度頭を下げる。
刹那、黒い煙が彼女の足下から噴き出して、音もなくその身を一気に覆った。魔王が得意とする転移術の一種だ、とヘラが補足してくれる。
実際に、黒煙が収まった頃には赤瞳の悪魔は痕跡一つ残さず消えていた。ほっと息を吐き、ニゼルはそろりと藍夜の顔を仰ぎ見る。
親友は、わざとらしく大きな嘆息を吐いた。こちらを見下ろす表情は、呆れたような、どこか寂しげな感情を乗せている。

「ごめんね、藍夜。怒ってる?」
「……平気だとも、ニゼル。僕の方こそ、危うく屋敷で小火を起こすところだった。すまないね」
「うん……そっか。よかった。ねえ藍夜、リリーって魔王のお嫁さんなんだよね? ならガブリエルもそうなのかな」
「君ね、いきなり話を戻すのかい」
「だってー。気にならない? 俺がリリーを助けたとき、ガブリエルも助けてくれてありがとーって言ってたんだよ? 気になるじゃない」

直後、咳払い、駄目押しでデコピン。ニゼルは小さな痛みに目を瞬かせた。見上げると、恐ろしく冷たい表情をしたサラカエルと目が合う。
思わず固まってしまった。顔をいつものように整える事もせず、殺戮は忌々しげに歯噛みする。逃げられた、そう言いたげな表情だった。

「舐められたもんだよ、この僕も。色欲塗れの小悪魔め。最も、ヘラ様が手を出す事を許されなかったから何も出来なかったわけだけど」

悪魔の侵入を許したわけではない、天使は目を血走らせながらそう吐き捨てる。可能であるなら今からでも殺しに行きかねない様子だった。
彼がこうして、大勢の前で本音を吐露する事は珍しい。案の定、ヘラは意味深ににやにやしながら自身の部下を眺めている。
そうだ、この神様はラグナロク以前から部下をからかう気質「だった」。否応なしに自分がラグエルである事を覚え、ニゼルは顔を歪める。
とはいえ、藪をつついて蛇を出して楽しんでいられるほどの余裕はない。元羊飼いは、大人しく地母神の指示を仰ぐ事にした。

「リリスは帰ったけど、また来る可能性もあるよね。魔王本人も。でも、なんで俺なんだろ? 護るなら普通は神様のヘラだよね?」
「お前達にいくつか答えが提示されたわけだな。魔王サミル、その妻リリスは勝手に守護してくれるそうだ。答え合わせがてら使ってやれ」
「ええ? そんな適当な事言わないでよ。全然答えにも解決にもなってないし、藍夜が理由なしで納得する筈ないのに」
「……それだよ、君は『今代のラグエル』だろ。ラグエルの庇護下にある『知恵の樹』にアクセスして、自力で調べたらいいじゃないか」

どきりと心臓が跳ね上がる。提案してきたサラカエル本人は、悪気がないとばかりに片眉を上げて不思議そうな顔をした。
知恵の樹……ラグナロク以前、それこそ世界創世の頃より存在した神々の至宝。知恵という宝を蓄え、銀の林檎として実らせる白銀の木。
ラグエルとして造られたときから、件の果樹とは魂の根で繋がっている。そこから知識を引き出す事が出来るのも、自分だけの特権だった。
故に、転生する前後、今現在も、しっかりとその存在と意識を繋げる事が出来ている。とはいえ、ニゼルはうんざりした心地だった。

(仕事だし庇護対象として慈しんではいたけど、寄越せだ貸せだって毎回誰かしらに脅されるし、ぶっちゃけサボり気味だったんだよねー)

とはいえ、これは転機とも機会ともいえる。ラグエル本人でなければ、知恵の樹の記録を閲覧する事は出来ないからだ。
ヘラは口出しをせずにいるし、自分と親友がずっと思い悩み、考え続けていた疑問や理不尽の答えが見つけられるかもしれない。
サラカエルもそうしろと言っているのだ、前世の因果を振り切れと。藍夜の顔を見上げると、彼は何故か困ったように眉尻を下げていた。
途端に胸が苦しくなる。ニゼルはどこか悲しげにも見えるその表情に、彼の頬に、そっと自身の指を伸ばした。

「藍夜? どうしたの」
「いや、なんでもないんだ、ニゼル。僕はただ、」

触れかけていた手を掴まれ、甲に手のひらを重ねられる。刹那、かっと顔が熱くなり、ニゼルは誰にも気取られないよう下を向いた。
藍夜もまた俯き、頭に顔面を乗せてくる。息遣いが生々しい。こいつは天然の無自覚タラシだ、煮立った頭ではそう考える事しか出来ない。
そんな中でも、親友はぼそぼそと何事かを呟いていた。はたとそれに気がつき、ニゼルは目を閉じて耳を傾ける。

――僕はただ、君達と平穏に暮らせていたならそれだけで幸せだったのに……

はっとして、ニゼルは顔を上げた。同時に額のあたりに衝撃が走る。ごちっと嫌な音がして、鈍痛がじわりと広がった。
見上げた先、親友は顎を押さえて悶絶している。ああ、ぶつけちゃったんだ……妙に冷静に捉えたところに、ケイロンが跳んできた。
指示が飛び交い、鷲馬の姉弟が布と氷を持ってくる。大げさだなあと見守りながら、真珠は体が弱いと聞かされていたのを思い出した。
医師の元を訪ねる度に看護術も学んだのだろう。額に氷入りのひんやりとした綿布を押し当てられながら、ニゼルは文字通り頭を冷やした。
色々と知りたい事はある。しかし、それも順を追った上でやる事だ。珊瑚に礼を言い、顔を上げ直したところでヘラと目が合った。

「俺は藍夜の気持ちを汲みたい。無知は罪だけど、無理やり今すぐ全てを知らなきゃいけないわけじゃないし……駄目かな、ヘラ」
「うむ。それが正解だ、どうやらラグエルとしての矜持は健在らしいな。好奇心に打ち勝つとは辛抱強いな。私なら規律なんぞ無視するわ」
「いやいや、『主神の許可なく私的利用する事を禁ず』だったよね? やだよ、俺まだノクトに消されたくないもん」
「ほう、私としては使って貰って構わなかったんだぞ、先代が直に利用するのを見る機会がなかったからな。虫退治野郎なんぞ、ほっとけ」

それって万が一のときはお前が責任とって消されとけって意味だよね、言いかけた反論を飲み込み、タオルを額に当て直す。
ノクトはアンブロシア同様、知恵の樹を守護する天使の一人だった。今思えば、彼を悪人だと思えなかった理由はここにあるかもしれない。
真面目な彼の事、私的利用の件を知れば、怒り狂って屋敷に乗り込んで来かねない。怒ると手が着けられなくなる事はよく知っている。
とはいえ「でも承認はヘラから得られたし、後でこっそり調べてもいいよね」、というのが本音だった。好奇心に弱い元人間、それが自分。
口に出しさえしなければセーフである。先代ラグエルの本性と自分との間には、思った以上に共通点があるような気がした。

「……とにかく、魔王とかリリスとかはほっとこう。今は俺の生活基盤をしっかりさせておかないと」
「ニゼル、君……君はそれで、いいのかい」
「藍夜もそれどころじゃないでしょ? っていうか、顎ごめんね……知りたい気持ちはあるけど、告知受けたてで魔力が足りるか微妙だし」

何より先代とやらから強制的に引き継いだ一連の記憶と、ニゼルの自我が混沌のように脳内で入り混じっていて、非常に落ち着かない。
リリスの顔を見て、どう応じたらいいか分からなくなったくらいなのだ。ニゼルは包み隠さずに、今は焦りたくない、と藍夜に打ち明ける。

「ラグエルのしてきた事と俺の記憶が、ぐるぐる頭の中で混ざってて……力の使い方は分かるけど、耐えられるかは分からないんだよ」
「……ニゼル」
「へへ。魔力が落ち着いて、ご飯が美味しく食べられるようになったら、きっと何でも出来るようになると思うんだ。藍夜にも会えたしね。
 だからたくさん情報を詰め込んでパニックになる前に、それを受け入れられる地盤を固めよう? ニゲラなら、そう言ってくれると思う」

そうだ。知恵の樹、先代の記録、ラグエルの使命。それだけではなく、自分はフロルとニゲラの命をも継いでいた。
考えなければならない事が山のようにある。にこりと親友、旧知の友人達に笑い返し、ニゼルは殺戮の改造計画書を手に取った。
自分だけではない、誰もが混乱している。まずは慣れるところからだと皆を諭した。そう、課題はたくさん残されている。
まずは、自分が不在にしていた間の情報を更新するところから始めよう……再度書類を覗き込んだ乙女の表情が、忌々しげに小さく歪んだ。






「……あ、あう、あっ、うわ……ふわぁ、もっ、もうっ気持ちいい!」
「いや、どういう声を出しているんだい、ニゼル。はしたないというものだよ」
「うー、だってー。サラカエルがあんなに激しくするからいたたたたたっ、ごめんっ、ごめんて藍夜ー!」

なんて事はない、肉体を酷使(?)しきった後の全身マッサージである。
先に午後の体術訓練を終えていた親友に施して貰いながら、ニゼルはあまりの心地よさに恍惚としていた。
どこでこんなテクニックを、ツボ押しに移行しようか、そんないつも通りの会話をしながら、二人は縁側でだらだらと施術を続けている。

「あー、気持ちいー。藍夜ってツボとかコリのほぐし方とか、よく分かってるよねー」
「お褒めの言葉、光栄というものだよ。いや、大した事はないんだ。ケイロン先生にするついでの独学だからね」
「……下半身、馬だよね? マッサージとか意味あるの?」
「逆に言うなら、上半身はヒトじゃないか。ウマの部分はブラッシングや蹄の手入れが……そのあたりは、ラファエル先生がしていたかな」

そうしてラファエルという名の奴隷が出来上がったのか、ニゼルは言いかけた本音を飲み込むべく、口をもごもごさせた。

「あの、ニゼルさん。琥珀くんがお風呂を用意したそうなんですけど、入りませんか」

だらけきったところに、アンブロシアが着替えやタオルを詰めたと思わしき籐編みの籠を持ってくる。
お風呂、呟きながらわくわくと目を輝かせたニゼルに、本格的な大浴場だよ、と藍夜は楽しげに笑いかけた。

「お風呂かあ、いいなあ……藍夜は? 一緒に入らない?」
「ふふ、実は藍夜さん、さっきシリウスさん達と体術上がりに済ませたみたいでしたから」
「えー、なんだあ、俺も誘ってくれたらよかったのに! って、シリウス達と一緒にって……そんなに広いの?」
「ヘラ様が知り合いの方に依頼して、元の屋敷を大幅に改造なさったんだよ。その折りに、男女別にと設置なさったそうなんだ」
「へえー……大幅に」
「そう、大幅にね! いや、しかし贅沢な造りでゆっくり楽しめる筈さ。歩けるかい」
「あはは、大げさだなあ、藍夜。大丈夫だよ、マッサージもして貰ったし」

よろりと立ち上がり、アンブロシアから籠を受け取り居間を出る。特訓の合間に休憩がてら、琥珀達に案内をして貰っておいて正解だった。
品のある絨毯や窓掛け、花瓶に活けられた百合の花。どれもがシンプルでありながら上質なものばかりで、ヘラの優れた感覚が伺える。
いつぞやにお邪魔したアスモナントカやノクトの主のそれとは大違いだと、うんと軽くなった足を軽快に運び、大浴場へ続く廊下を急いだ。
次第に湿気と香草のいい匂いが漂ってくる。時は夕暮れ、ヘラの事だ、空の変化を満喫出来るように風呂もガラス張りか露天である筈。
親友のおかげですっかり風呂好きになっていたニゼルは、あの角を曲がればもうすぐだ、とうきうき気分でくると西に足を向けた。

「……あ、」
「こんにちは。調子が良さそうだね」
「そりゃどうもーって、そうじゃない! 魔王? なんで、ここに」

そうして、日の入り間近の特有の青い光が、窓越しに薄ぼんやりと廊下を照らす最中。朝方、屋敷の面々を困惑させた者の番と鉢合わせる。
ブルーモーメントの中に佇む、黒塗りの青年。先代の記憶が彼が成してきた悪行をつらつらと脳裏に思い起こさせ、ニゼルは固まった。
「サミル」、無意識に唇が音も立てずにそう動き、距離をあけたまま立ち尽くす。魔王は、乙女を前に何故か悲しそうな顔をした。

「……ねえ。前に、」
「ん?」
「前に、ホワイトセージで会ってるよね? フロルの町でも。あのときもそうだった……なんで、そんな寂しそうな顔するの?」

誰か、助けを呼ぶべきだ。或いは、親友か対天使であるアンブロシアの名を叫びながら、恐怖に慄き逃げ惑うべきところだ。
なのに、ニゼルの足は絨毯に縫いつけられたかのように動かない。サミルは、一度瞬きをしてから僅かに苦笑する。
敵意はないように思えた。そして、今も昔も、自分は彼を純度の高い「純粋な天使」として認識している。
良くも悪くも使命に忠実すぎるあまり、自ら悪の蔓延る地に堕ちたのだ、と。たとえその結果、彼が堕天使の頂点に座すものになろうとも。

「その疑問については、今は答える事が出来ないんだ。来たるべきとき、君は自ら其れを知るだろう、ラグエル」
「そのさ、ラグエルって呼ぶの、やめない? どっちかっていうと、ニゼルの意志の方が強いんだよね。なんか別人みたいでソワソワする」
「……ふふ、そう。そうなんだね。では、ウリエルの手前、ニゼルさんとしておこうか」

さん付けもむずむずするが、文句を言える立場でもない。そもそも、素直に聞いてくれるかも分からない。ニゼルは大きく頷き返した。

「朝、リリスが来たよ。ガブリエルの頼みで、君達が俺に協力するって。『リリー』を助けただけの恩しかないのに、割に合わなくない?」
「割に合わない、うん、それを決めるのは君じゃないんだ。それに、僕達堕天使側にも矜持というものがある」
「矜持?」
「君の、君達の故郷を滅した罪滅ぼしといえば分かりやすいかな? 恨みつらみなんて、そう簡単に消えるものじゃないけどね」

ぺたりと、乾いた音がする。はっと振り向いたニゼルは、いつの間にか、背後から珊瑚が着いてきていた事に気がついた。
場を取り繕おうと口をぱくぱくさせていると、黒羽根の方が先に首を横に振る。理知的な眼だ、ニゼルは戸惑って立ち尽くした。

「必要ないと思ったけど、いちおー道案内ーって思ってさー。お取り込み中だった?」
「えっ、あ、いや、その……」
「アンタさ、魔王なんだって? 殺戮に聞いた。用件あんなら早くしたら? 審判官がまたヒスんじゃん」

首を傾げ、生意気な態度をとる鷲馬に普段の調子づいた様子は見られない。ニゼル同様に硬直していた魔王は、ふと珊瑚の言動に微笑んだ。

「ふふ、賢い仔だね。用件か……ニゼルさん、君にこれを。僕と話をしたいとき、或いは有事のときに。一枚ずつ使うといいよ」
「へ? あ、ありがとう?」

どこからともなく取り出された、上等な桐箱。細長いそれを開くと、中には複雑な文字や文様が書き込まれた数十枚の札が収められている。
重ねて入れられるよう、ぴったりと寸法を合わせて作られた箱、蓋と箱を封じる朱染めの紐。いずれも恐ろしく高価な品と予想出来た。
落とさないよう、荷物の一番上にそれを置いたニゼルは、魔王と鷲馬が見つめ合って微動だにしないでいるのを見て目を瞬かせる。

「何、どうしたの」
「……ニゼルさん、珊瑚くん。僕から一つ警告しよう」
「えっ、警告? 待って、何の警告?」
「これから一つの災禍が来るだろう。二色が交わって編まれる、偽りの夜の色だ。けれど、君達にはそれを否定しないであげて欲しい」
「二色? 偽りの夜……俺達が否定したくなる何か、って事? 抽象的すぎて、全然分からないよ」
「生まれてくるものが、恐ろしく歪なものでも。君達なら受け入れられる筈なんだ――」

――だが、サミルの言葉が最後まで続けられる事はない。刹那、彼の足下から黒い無数の影が飛び出した。
生き物の腕、大火の黒煙、魔獣の爪牙、黒色の流星群。表現し難い、奇妙なおぞましさを抱かせる漆黒の火柱が、床から一斉に噴出する。
恐ろしい速度で魔王の姿はそれらに呑まれ、続いていたであろう言葉をも掻き消して、青年は跡形もなくそこから消失した。
ぽかんとして、ニゼルはその場に立ち尽くす。そっと珊瑚の顔を盗み見ると、黒羽根は眉間に力を込め、険しく顔を歪ませていた。

「なんだったんだろう。今の」
「分かんね。でも、動けなかった……殺されるかと思った」
「殺されるって、そんな」
「ニゼルさー、感じなかった? あの影、全部オレ達を見てた感じがしたよ。なんか、ヤな予感がするわー」

考えないようにしていた事を指摘され、息を呑む。「恐ろしいもの」、そう称されて止まない悪魔の王を強制的に連れ去った者がいたのだ。
そして何より、サミルが警告した「一つの災禍」。意味が分からず、かといって調べるにも中身があやふやで、手のつけどころがない。
ふたりは顔を見合わせ、大きく嘆息した。ひとまず珊瑚とその場で分かれ、ニゼルは風呂に向かう事にする。

「……二色が混ざって偽りの夜に……白夜とか、日食とか。そういうの?」

手早く服を脱ぎ、脱衣所を抜けた。そうしてニゼルは、扉を開いて絶叫する。浴場だ、全く予想以上の見事な大浴場が眼前に広がっていた。

「うわー!? すっご、凄すぎ!! よし、独り占めだー!」

悲しいかな、風呂好きというのは本当だ。喜び勇んで体を洗いに向かう。真剣に思考していた頭は、残念な事に一瞬で切り替えられていた。
夜が来る、足音を殺してやってくる。誰が意識せずとも、糸を紡がれてやってくる。
夜色に染まるガラス張りの天井を見て、ニゼルは歓喜の声を上げた。サミルの厚意による警告は、すっかり頭の隅に追いやられている。





 BACK / TOP / NEXT
 UP:19/07/26