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楽園のおはなし (3-9)

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紺青の色彩が、場を満たしていた。天窓や壁際の巨大な窓に張られた夜色の窓掛が、ごく僅かに満月の明かりを室内に落としている。
豪奢でありながら、寂寥の漂う邸宅だった。静まり返った屋内に人の気配は感じられない。青白い空気だけがひっそりと場を支配している。
主を失い、打ち捨てられたものなのか。否、柱時計の秒針の音がロビーに淡々と響いている中、正面から扉を押し開いた者があった。
緩やかに波打つ黒髪に、黒色の洋装を纏っている。若い男だ。帽子と外套を脱ぎ、外套掛けに慣れた手つきで掛け、青年は二階へ上がった。

「遅かったな。事は既に、済んでいる」

まっすぐ向かった南向きの部屋に入ると、待ち合わせていた来客から軽めの叱責が飛んでくる。男は一瞬、扉を閉める事も忘れて瞬きした。

「……仕事の後始末を少し、ね。君が出てきているのは珍しいな」

女は目を細めて男の返答を非難する。月光の下、彼女の冷ややかな美貌は青く輝くばかりで、幼い面立ちとの差がより際立つばかりだった。
無意識に苦笑が滲む。肩掛けの鞄を外して机上に置き、中から静かに木の実やチョコレートなどを詰めた小袋をいくつか取り出した。
具合が宜しくないのか、女の淡泊な問いかけに、ここのところいつもね、男は背を向けたまま返答する。
小袋のうち麻製のものを取ってカップに中身をすくい入れ、併設する簡易キッチンから持ち出したミルクを注ぎ飲料をこしらえた。
好まれる香辛料を振り入れる事も忘れない。一通り用意を済ませた後、黒塗りの青年は寝具で眠りに就いていた者の肩に触れ、起床を促す。

「……もう、夜か。朝か、どちらだ」
「今は、夜ですよ。とても良い月夜です、起きられますか」

声の主は、のろのろと気だるそうに身を起こした。受け取ったカップを覗き込むや否や、小顔の眉間にあからさまな皺が浮く。

「牛乳は嫌いだ。話していた筈だぞ」
「それ、羊乳ですよ。体にいいですから、一口だけでも飲んで下さい」
「……羊乳は、もっと嫌いだ」
「ふふ……そんな目をしても駄目です。僕は、彼女ほど優しい質ではありませんから。座っても?」
「椅子ならそこにある。それより、どちらかと言えば温かいものが欲しかったんだが」
「これから暑くなりますから。いえ、ここはさほど影響は受けませんけど、たまには季節に適したものを摂るのもいいでしょう?」

意地悪め、唇を尖らせて、寝具の人物はしぶしぶとココアを口に運んだ。横からにこにこと見守る男の目は、慈愛の色に満ちている。
こほん、と咳払いが聞こえて、ふたりは目を来客である女に向けた。見上げられてもなお、青瞳の女は冷徹な視線で双方を見下ろしている。

「ご報告申し上げる。此度、依頼のあった告知は完遂された。殺戮、審判官にも不具合は生じなかった」
「……そうか、よくやってくれた。苦労したか」
「いえ、何も。冥府からの干渉は予め軽減されていた上、地母神の加護がよく働いてくれた。わたくしも負荷は殆んど受けていない」
「お疲れ様、手伝えなくて悪かったね。告知前に殺戮が黒鷲馬を連れて動いていた気配があったようだけど、そちらは?」
「気取られてはいないと思う。あくまで主観だが。そちらは汝の仕事の筈だ、わたくしが関与する事はない」

男はふと、自身の手元に目を落とした。すっかり飲み干された後の空のカップが突き出されている。丁寧な手つきで、それを受け取った。

「頼み頼まれ、か。面倒を掛けているな、お前達」

男は思わずという風にパッと顔を上げる。女もまた、険しい顔で寝具の上を見つめ返した。
闇よりも暗い黒色、夜よりも深い漆黒、射干玉の黒塗りの表層が、立ち尽くしたふたりをじいと見ている。

「遠回りもした、手間も掛けさせた。だが、ここまでくれば事が済んだも同然だ。あとは時間が解決してくれるだろう」
「もったいないお言葉です。苦労なんてしていません、ガブリエルはどうか分かりませんけど」
「……サミル、お前は自分の事を後回しにしすぎだ。そんなに『いい子』じゃなくていいんだ、少しは自分を労え。当然の権利なのだから」

伸ばされた手のひらは、小さく、とても色白い。泣き出すように顔をくしゃりと歪めて、魔王はされるがまま、頭を撫でられた。

「ガブリエル、すまないが別件を頼まれてくれないか。『お前じゃない方』でもいい……サミルは、あの屋敷に入れないかもしれないんだ」
「……承知した。お言葉通り、わたくしではない方に任せるとしよう。準備が整うまで、わたくしは此処にて待機する」
「助かる。せっかく来たんだ、たまにはお前も休息したらどうだ。女好みの嗜好品も揃っているから」
「ありがたきお言葉ですが、遠慮しておく。貴方がいる場だ、あちらは既に、わたくしの中で貴方と話がしたいと喚いているから」

青瞳の中は艶やかな赤と忙しなく色を交差させていて、落ち着く様子が見られない。寝具の上の人物は、そうか、と残念そうに眉を曇らす。
室内に漂う微妙な空気の変化に、黒塗りの青年ははっとして立ち上がり、机上の小袋を一つ掴んで指定席に急ぎ戻った。

「そうだ、久しぶりに起きられたんです。摘まめるものなど如何ですか。最近力をつけてきた菓子店の、美味しいショコラですよ」
「欲しくない」
「そう仰らず。告知、君もどうかな? 君が甘味の一つ口にしたところで、堕とそうなんて気にならないから」
「否。わたくしも、別に」
「いいからいいから。僕はいつも食べているし、カカオは神の恵みと称される代物、美味なるもの。さあ、溶けないうちに、お手をどうぞ」

食紅で色とりどりに彩られた、小さく美しいチョコレート菓子。不満と遠慮を口にしていた双方だが、もう繊細な細工に目を輝かせている。
しぶしぶといった体で、寝具の人物、一拍遅れてガブリエルも一粒を受け取った。面白いくらいに同じ反応だ、青年は笑いを噛み殺す。

「……む、これは」
「美味いな。いや、よく見つけた……この店の名は?」
「ギャルソン・テイラー、でしたか。帝都の端にある、本当に小さな菓子店ですよ」

仕事の帰りによく寄るんです、魔王は心からの笑みを浮かべ、小袋を寝具の上に乗せた。好きなようにどうぞ、と献上の姿勢も見せておく。
寝具の主は魔王と袋を一度だけ見比べて、二粒目を自身と女天使の指に託した。そのひとが二口目を摂る機会は、実はかなり少ない。
中身は洋酒入りのものが殆んどだ。店頭で悩み抜いておいて正解だったと、魔王は胸中で自分の苦労を密やかに労っておく。

「ああ、うん、美味い。よく出来ている。変わらずいい目をしているな、サミル」
「嬉しいお言葉、恐縮です。ですが、お褒めの言葉は店主宛になさって下さい。きっと喜ばれます」

……本音を言えば、この人物からの労りは、魔王にとって第二の喜びといえた。それでも嬉しい気持ちに偽りはない、目を細めて破顔する。
「時間が解決してくれる」、そちらの宣告の方が、黒塗りの青年にとっては重要な案件、第一の喜びたり得るものなのだった。
黙々と口を動かしていた寝具の主は、ふと、赤紫色にコーティングされたショコラを摘まんだところで手を止める。
その顔が微かに憂いを帯びた表情を垣間見せ、魔王と告知天使は殆んど同時に口を閉じていた。

「もうすぐ、もうすぐだ。あと僅かに耐える事が出来れば、望みが叶う」

低い声で吐かれたのは、自身を落ち着かせる為の慰めか、それとも今も続く計画を成そうとする意志を強める為の鼓舞なのか。
強く握られた拳に手を伸ばし、サミルは目の前のひとに微笑みかける。力を入れたら溶けてしまいますよ、と丁寧に指を解いてやった。
上品な菓子の香りが宙に溶ける。溶解しかけたそれを、寝具の主はそっと自ら手のひらに口付けし、舌ですくい取った。
本来は下品と思われる動作でさえ、眼前のひとにかかれば清廉された仕草に変わってしまう。恐ろしいひとだと、魔王は笑みを強張らせた。

「サミル、『札』を描いてくれないか。あいつに渡してやりたい。ガブリエルに件の屋敷を開いて貰って、本人に預けて欲しいんだ」
「承知しました。僭越ながら、まだ、貴方様は本調子ではない?」
「見ての通りだ。あいつは間の抜けるときがあるから……いざという時に、お前が助力をしてくれたらとても嬉しい」
「ふふ、彼女も苦労しますね。僕にはもったいないお言葉です。今夜は望月ですが、札くらいならなんとでもなるでしょう。すぐに用意を」

ガブリエルと視線を交わして、サミルは足早に退室する。一度北へ取って返し、階段を上って屋根裏部屋に入った。
夜色が満ちる空虚な空間に、窓から月が眩い灯火を落としている。その中央に立ち、自ら利き手の手首を噛んで血を滴らせ、祝詞を紡いだ。

「望み、望み……か。便乗にもほどがあるかな、僕も」

するすると手を動かし、血流を零しながら指示されたものを丁寧に慎重に編んでいく。新月でもないのに、心はとても弾んでいた。
「叶うならば望みのものに早く会いたい」。逸る気に押し負け、詠唱が中断されてしまわないよう、改めて作業に没入する。
周りが静かで助かった。天上界、人間界、冥府から切り離されたこの地に、自分達以外の生物の気配は感じられない。
「特別なもの」を独占出来ているのだという自負と優越が、魔王の気分を高揚させていた。「札」を用意し終えるや否や、急いで下に戻る。
廊下に並ぶ窓の向こうには、ただ深い夜が広がっていた。畏れと純真を感じさせる異常な静寂は、寝具の主の所在を隠すのにちょうどいい。

「戻りました。おっと……休まれたか。今夜はよくお話が出来ました、光栄の極みです」

勢いよく扉を開け、次いで静かに閉める。誉めて貰いたいという私欲と共に部屋に戻ると、寝具の主は既に二度目の眠りに就いた後だった。
寝かしつけを買って出てくれていた告知天使が、緩慢な動きで魔王に振り返る。目が合うと同時、青年は目元を甘く綻ばせた。

「ふふ、戻ってきたばかりなのになかなか夫婦水入らずとはいかないね。届け物を渡しに行こう、僕のリリス」
「あらぁ、途中までは一緒に行ける約束だったでしょう? 一緒にいられるだけで十分よ、あたしのダーリン」

黄色の髪の天使の瞳は、魔王がかつてより慣れ親しんでいた紅玉の赤色をしている。魅惑的な唇に弧を描き、女は幸せそうに笑みを返した。






……ニゼルの好物といえば、人間であった当時から羊肉料理や羊乳製のチーズ、ヨーグルトなど、酪農品が主体である事が知られている。
当然、気だるいながらもなんとか告知後の朝を迎えたニゼル本人は、そういった食事を期待しながらダイニングに顔を出した。
着席と同時、彼女は目を丸くして目の前の皿を凝視する。先ほど起こしに来てくれた真珠の物言いたげな顔に、ふと合点が行った気がした。

「えっと、これお粥だよね。お粥は嫌いじゃないし美味しそうだけど、なんでまた」
「すみません、ニゼルさん。その、サラカエルさんの指示でこんな事に」
「サラカエル? そうなんだ、美味しければいいんじゃない?」

追加で運ばれてきたスープには、どこかとろみがついている。極小に刻まれた色とりどりの野菜や肉の粒が、可愛らしい印象を放っていた。
匙を受け取り、一口試してみる。肉と香味野菜の旨味が口いっぱいに広がり、とても美味しい。思わず座ったまま足をばたつかせた。

「んー、美味しい!! アンって、本当に料理上手だねー!」
「や、やだ、そんな。素敵なお嫁さんになる、なんて……わたしはただ、ニゼルさんが喜んでくれたらそれで」
「えっと、俺そんな話してたっけ……?」

頬を赤らめ、体をもじもじさせて、アンブロシアは何やら奇妙な喜びを見せている。首を傾げて、ニゼルは粥とスープを交互に口に運んだ。
鶏と小魚から取られた出汁で作られた粥は、見た目以上に上品な味がする。生姜と葱、香草の香りと、ふわりと溶ける卵が喉に優しい。
これは美味しい、たまらない。喜々とするニゼルだったが、フロルの体は予想以上に弱っていたようで、途中で手が止まってしまった。
美味しいのに、半分も残っているのに、匙が進まない。元羊飼いの変化に、アンブロシアはにこにこさせていた笑顔を曇らせる。

「あの、ニゼルさん? 大丈夫ですか、あまり無理なさらない方が」
「あっ、ごめん。大丈夫だよ、アン。こんなに美味しいのに、残したらもったいないし」
「でも……」
「――そうだね。ま、残したっていいんじゃないかな。昼に残りを食べさせるし、これから空腹で倒れる事になるのは自分なんだから」

突然、背後から聞き慣れた声がした。振り返ると、珍しく無地の襟なしシャツにデニムを合わせた殺戮の天使が立っている。
にこりと、いつもの人好きのする笑みが浮いた。鳥肌を立てて顔をひきつらせるニゼルを余所に、サラカエルは机上の二品に視線を落とす。

「……うん、レシピ通りだ。上手くやれたね、アクラシエル。昼もこれの残りを出してやって」
「えっ、上手くって? もしかしてこれ、サラカエルが考えた献立なの?」
「そうなんです、ニゼルさん。朝一でいきなりこの通りにしろって……一週間分預かってます」
「はいぃ!? 一週間分って。どういう事、サラカエル」

見上げた先で、何故分からないのか、と言いたげに殺戮は軽い溜め息を吐いた。次いで差し出された紙の束に、ニゼルは目を白黒させる。

「五時起床、十五分ストレッチ、五分休憩、十分柔軟体操。五分休憩、二十分瞑想、五分休憩、六時から一時間の点滴……って、何これ?」
「何これって、言うまでもなく君の一日のスケジュール、それの一週間分だよ。今朝は遅い目覚めだったから、十時開始のプログラムかな。
 それまではケイロン先生の指示の元で点滴を打つから。欠乏してる栄養素も多いし、骨と内蔵の弱り方次第ではこれ以外に食事療法を、」
「ち、違う違う! そうじゃなくて、えっと、どういう事? サラカエル、いつから俺のトレーナーになったの?」
「あの、ニゼルさん。これ、ニゼルさんだけじゃなくて、藍夜さんも巻き込まれてるんですよ」
「えっ、藍夜も特訓!? なんでまた?」
「あれだよ、見てみるといい」

壁の一面が開かれ、芝生の青色を一望出来る開放的な空間。促されるままに視線を向けると、庭で朝から琥珀と藍夜が手合わせをしている。
琥珀の足に着けられていた青銀の装甲は取り払われ、青色のドレスと一緒に縁側に寄せられていた。藍夜のカーディガンも同様だ。
サラカエルと似たような動きやすい服装で、両者は拳打、蹴手繰り、受け身と激しい攻防、立ち回りを繰り広げている。
親友は押されているように見えた。鷲獅子も加減はしているのだろうが、どちらもむきになり始めている顔つきになっているように見える。
立ち会いを勤めるのはシリウスだった。ちらとこちらに紺色の眼を向けられ、ニゼルは脳天気にひらひらと手を振って騎獣を労う。

「うーん、すっごい。藍夜が体術してるとこ、久しぶりに見たかも」
「久しぶりっていうのが肝心なところさ。ウリエルも大概、体を鈍らせているからね」

それにしても、ふたりの動きが早すぎて目でまともに流れを追いかけていられない。忙しなく両目を瞬かせて、ニゼルは一度頭を振った。
その間も、藍夜って格好いいなあ、と思考を脱線させる事も忘れない。思えば、彼は鳥羽藍夜の頃からずっと格好いい男なのだ。
性格に難はあれど、純粋で高潔、お人好しだ。難はあれど……余計な事を言いかけ口を閉じる。地獄耳である事も、前から承知の上だった。

「まあ……そうだよねえ、ヤコブより痩せたなーって思ってはいたけど」
「はっきり言っていいと思うよ。前から見かねていたけど、君と一緒に調整を済ませてしまおうと思ってね」
「調整。調整なんだ、そっか。藍夜もサラカエルも、医術を学んでいたんだもんね」

会話を邪魔しないよう、気遣って台所に茶を淹れに向かったアンブロシアの背を見送りながら、差し出された別の資料に目を走らせる。
二つ目の紙の束には、親友の肉体改造計画がみっちりと書き込まれていた。当然のように彼が好まない肉料理が主菜として載せられている。
サラカエルって過保護だよね、嫌みを混ぜてからかうと、甘ちゃんな間抜けに言われたくないけどね、これまた涼しい声で流された。
昔からそうなのだ。殺戮とは銘ばかりで、身内にはとことん甘くほだされる。気付かれないよう苦笑して、ニゼルは改めて自分の表を見た。

「ちゃんと治療も兼ねてるんだねー。フロルっていつも腹空かせてたもんなあ……ねえ、羊乳とかお肉とか、いつから食べられそう?」
「そのあたりを、これからケイロン先生と話し合うんだよ。今は真珠を見て頂いている」
「真珠、具合悪かったっけ? 朝、俺を起こしに来てくれたけど」
「体が弱いんだよ。そのへんはウリエルに聞くといいさ、君が不在にしている間に明らかになった事だから」

思案しようとするも、先に食べるよう促され、入るだけの粥を流し込む。食後に出されたのは、アンブロシアが淹れたミルクティーだった。
羊乳と迷迭香の匂いがする。喜んで口を付け、懐かしい味を堪能した。カロリーが、と殺戮は唸ったが、珍しく娘に流されている。
なるほど確かに、知らない変化もあったようだ。ニゼルはアンブロシアに頷き返した。結局三人で茶をしているところに、声を掛けられる。

「ほう、茶か。私にも頼む、アクラシエル」
「ヘラ様。お仕事の方は」
「うむ、どこぞの殺戮とやらに押しつけられたからな、もう済ませてやった」

人聞きの悪い、サラカエルが苦々しく呟いたがヘラは聞こえないふりをした。
すぐに席を立ち、追加の茶を用意し始める悲劇の天使を、地母神は柔らかな慈愛の眼差しで見つめている。
サラカエルが椅子を引き、女神は堂々とそこに腰掛けた。個々の席は個人ごとに決められているのだろうか、ニゼルはしげしげと観察する。
ほどなくして出された茶を、ヘラは実に優雅な仕草で口に運んだ。考えてみれば、自身が直にヘラと顔を合わせるのはこれが初めてだ。
「品ある美人とか最高か」、「サラカエルって見る目があるよね」、とは口にしない。八つ裂きは御免だ、誤魔化すようにへらりと笑った。

「うむ、ありがとう、アクラシエル。さて、ウリエル達もそろそろいい頃だ。ニゼル、呼んでやってくれ、昨日の話を纏めるぞ」
「うん、分かった。おーい、シリウスー! 藍夜、琥珀ー。ちょっと、こっち来られそうー?」

呼び掛けると、思いのほかすんなりと親友達が戻ってくる。眼だけではなく聴力も優れている騎獣を前に、ニゼルは誇らしい気分だった。

「……久しいな、ニゼル=アルジル。息災で何よりだ」
「うん、シリウスもね。真珠も珊瑚もおっきくなってて、びっくりしたよー。ごめんね、心配かけて」
「ねえニジー、ケツね、『ニゼル=アルジル以外とは契約せん。俺の主は生涯一人だけだ』とか言ってたんだよ。女神様まで断ったんだよ」
「おっ、おい、妻よ……そんな話、こんなところでしなくともいいだろう……」
「エー、スッゴく心配してたのに。言わなきゃ伝わらないんだよ、大事なコトでしょー」
「……あはは、そっか。ありがとね、琥珀。ただいま、それと、ふたりともお帰り。ヘラがね、大事な話があるからって――」

不意に、肩に暖かさを感じて息が止まる。草の匂い、汗のにおい。目だけで振り返ると、いつの間にか親友に後ろから抱き締められていた。
どきりと心臓が跳ね、言葉が出なくなる。さらりと夜色の髪が目元に触れ、彼の息遣いが耳をくすぐり、ニゼルは口をぱくぱくさせた。

「――ニゼル。よかった、いてくれたのだね」
「あ、藍夜? どっ、どうしたの、いきなり」
「……いや、なんでもないんだ。それより、話が終わったらケイロン先生に挨拶したまえ。君の治療に携わって下さるそうだから」

藍夜が、見た事のない顔で笑んでいる。今にも泣き出しそうな、切なげな表情だ。ニゼルは、急に胸が痛くなって目を瞬かせた。
そろそろいいか、凛とした声に意識を引き戻される。親友が離れた頃を見計らって、ヘラは一同の顔をぐると見渡した。
事前に声を掛けてあったのか、鷲馬の姉弟とケイロンもこのときリビングに入ってくる。全員が揃った事を視認して、地母神は口を開いた。

「まずは初めましてだな、ニゼル。ヘラだ、この屋敷をケイロンから借りている。お前も、自分の家だと思ってゆっくり過ごすといい」
「う、うん。宜しく」
「ははっ、そんなに緊張するな。お前とは、お前の内側で何度も会っているからな。分からない事があれば何でも言ってくれ」
「だからって、ふてぶてしい態度や図々しい真似だけはしないで欲しいね。間抜けはそういうところが抜けてるから」
「うむ、『どこぞのおチビはお前が好きすぎていちいち罵らないと気が済まない』。これも一つの知恵だぞ」
「なっ、馬鹿にしてるんですか! 今はそんな事、どうだっていいでしょう!?」

サラカエルって好きなひとの前では馬鹿になるんだなあ、ニゼルは口から出かけた「そんな事」を、なんとか喉奥に押し込める。
息荒を荒くする殺戮を余所に、ヘラは涼しい顔でミルクティーに口を付けた。真珠達にも茶が行き渡った頃を見て、女神は口を開き直す。

「皆ご苦労だった。ニゼル、いや、フロルの告知は無事に完遂された。ガブリエルに代わって私から礼を言おう、苦労掛けたな」
「おい、どうした。急に」
「うへぇ? めっ、女神様がなんでお礼なんか……」
「そうよ、ニゼルの事はわたし達が好きにした事でしょう。礼を言われる筋合いないわ」
「そうか。いい仔だなあ、お前達……だがな、今回の告知は向こうの言うように特殊だったんだ。天使銘そのものも広く知られているがな」
「ヘラ様。それで、ガブリエルからの言付けとは何なんです」

藍夜からの問いかけに、ヘラは目を細めて物言いたげな顔をした。長い睫毛が伏せられ、視線も手元に落とされる。
よほどの話かと、皆が固唾を呑んで二の句を待った。躊躇いがちに唇を薄く開き、女神はいきなりミルクティーを一気に飲み干す。
ほどよく冷めていたのか、カップは文字通りその場で空になった。慌てて二杯目を淹れようとするアンブロシアを、女神の片手が制止する。

「うむ、よし。ニゼルの天使銘は『喜劇』、もしくは『知恵』だ。通り名でいうなら『ラグエル』となる……アクラシエル、お前の対だ」

一同は、半数がその言葉の意味を理解して完全に硬直し、残りの半数はわけが分からないという顔で動きを止めた。
時計の秒針の音と、初夏の風が屋内に静かに漂う。ヘラ本人は、よし言ってやったぞ、と言わんばかりにふんぞり返った。
真っ先に硬直を解除したのは、ニゼル本人だ。はっとなって我に返るや否や、元羊飼いは親友の腕を叩いて彼の意識を呼び戻す。
知恵、ラグエル。脳裏にあの、告知直後に見た夢の画が蘇った。銀の林檎の木だ……それが何を意味するのか、自分は意識下で知っている。

「うん。『大昔にそう呼ばれてた』。俺は昨日からラグエルっていう天使になったらしくて……でも……」
「ああ、続きは私からしてやろう、ニゼル……お前達も知っての通り、ラグエルとニゼルは根本では関わりがない。無関係と断じてもいい。
 ニゼル=アルジルは、別の天使の器となる予定だったんだ。様々な事情が絡んだが故に、先代ラグエルから『力と使命のみ』を継承した」
「あっ、あの! 力と使命のみって、どういう事なんですか。その……ね、姉さんは」

思わずというように声を荒げたアンブロシアを、ヘラが頭を撫でてやる事で宥め、慰めた。悲劇の天使は、それだけで両目に涙を滲ませる。
どちらも悲しそうだ、ニゼルはぼんやりと女神と対天使となる娘を見守るばかりだった。掛けてやれる言葉が見つからない。
不意に、アンブロシアと目が合う。彼女はぼろっと涙を零し、直後自ら手でそれをごしごしと拭った。気丈な娘だと素直に感心してしまう。
「ごめんねアン」、それが本心だった。しかしあれほど姉を捜し、やっと手掛かりを得たという彼女の希望をへし折る事が、酷く辛い。
ガブリエルも、輪廻転生というシステムを生んだ創世の神とやらも、とても酷な事をする。ニゼルはテーブルの下で、拳を強く握り締めた。
アンブロシアが見ている、親友がこちらを見下ろしている。歯噛みするニゼルに一瞥を投げたヘラは、なおも言葉を続けた。

「ガブリエルからの言付けだ、心して聞け。そこのニゼルとは『今代のラグエル』であり、転生前には『ニゲラ』と名を呼ばれていた者だ。
 その中に『先代ラグエル、アンジェリカの記憶と魂は含まれない』。力と使命のみとはそういう事だ、アンジェリカの要素は保有しない。
 特殊というのは、下級天使の転生は異例という話からだ、ニゼルという人間の融合も含めた上でな。魂の構造はニゲラに準じるそうだが」

そっと顔を上げると、困惑と混乱に駆られた皆と目が合う。自分は望まれるだろうか、場違いではないだろうか、そんな不安が湧いて出た。
ニゼルの胸中を察してか、ヘラはふと眼前の水差しからカップに中身を注ぐ。喉を湿らせ、わざと音が鳴るようにソーサーに戻した。
それだけで皆の意識が引き上げられる。幼い面立ちと普段の尊大さからは想像出来なかったが、彼女がやり手である事をニゼルは実感した。
一同に見つめられた女神は、わざとらしく口端をつり上げて意味深に笑う。次いで吐かれた言葉は、文句はガブリエルに言え、だった。

「かつて私達十二神はロード化され、天上界は崩壊した。それを考えれば、これまでの常識が通じない事態である事くらい、分からないか」
「で、ですがヘラ様、ニゼルが……ニ、ニゲラだっただなんて。ガブリエルが不在でなければ、告知に至っていたという事ですか」
「特殊告知と言っただろう、いつものケチ加減と屁理屈はどうした、ウリエル。こうなって一番混乱しているのは、恐らくニゼル自身だぞ」

食って掛かった藍夜に、ヘラはぴしゃりと言い返す。親友は反論の余地がなくなったようだった。途端に口ごもり、下を向いてしまう。
どうしたものか、ニゼルが声を掛けかねていると、椅子の下に潜らせていた手を横からそっと何者かに掴まれた。
真珠か珊瑚だろうか、視線をそちらに滑らせたニゼルは、鮮やかな黄色を前に目を丸くする。こちらを見た相手は魅惑的ににこりと笑った。

「リッ、リリス! なんでここに、」
「はぁい、ニゼル。元気そうね、良かったわぁ」

全員が、一斉にこちらを見て身構える。鷲馬の姉弟のように、誰、と困惑している者も中にはあった。赤瞳の悪魔は嘲るように目を細める。
就任したばかりとはいえ、ラグエルとしての情報網は確かに健在だ。赤い瞳の悪魔、色欲の象徴、原初のヒト、魔王の妻、名はリリス。

(そうだ、なんで忘れていたんだろう)

……ラグエルとは、知恵そのものを司る高位天使だ。ただ「其処に在る」だけで、万物の事象と歴史を記録の書庫から引き出す事が出来た。
魔王に従う者達が、如何に一方的な強さを振るい、数多の人里を破壊したのか。神の命で彼らを追っていた自分は、それをよく知っている。
ホワイトセージでさえそうなのだと、今になって理解に至った。魔王が直接乗り込み、手を下すという事が、如何に恐ろしい事態なのか。
破壊し尽くした後、彼らが後始末と称して生き残りに食料や新たな逃げ場所を分け与え、穢れた土地を再生する手筈を整えている事も。
「全て情報の塊でしかない」。あんなにも身近で見聞きし、書庫たる木に話を蓄積させていたのに。リリスと自分は「  」であったのに。

「『ガブリエルからの言付け』よ。託されたのは、地母神様だけじゃないってコト」

何か言わなければ、脳内で目まぐるしく駆け回るデータに翻弄されて、この場に相応しい言葉が出てこない。
ニゼルの胸の内を代弁するように、悪魔は二度笑う。赤色の瞳は、フロルが手にした甘い飴玉の色によく似ていた。





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 UP:19/07/20