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楽園のおはなし (3-8)

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――君は二度とフロルとして生きられなくなる、君の記憶は全て失われる、それでも君は……


……目を開くと、一面の闇があった。次第に遠のく声は、遙か彼方、頭上のずっと遠い場所から季節外れの通り雨のように虚ろに聞こえる。
自分の呼吸と、心音だけ。何もかもがすっぽりと覆われた暗闇に目を凝らしていると、頭上の声もすっかり聞こえなくなってしまった。

『あれ? どうしたんだっけ』

何も思い出せない。宛てもなく歩き出す。踏み出しても足下からは足音一つせず、虚無の塊の中に放り込まれたように感じられた。
飢えも乾きもなく、ただ頭がぼうっとする。「   」は瞬きをして、深い暗がりの中に、何の気もなしに手を伸ばした。

『……これって、』

変化は何の前触れもなく訪れる。黒塗りの向こう、ちかっと一粒の星が瞬いた瞬間、一斉に膨大な量の情報が濁流となって押し寄せた。
悲鳴を上げながら、流星群に似た奔流の中に立つ。合間合間に見える映像と音、匂いと触感といった感覚を全身で受け止め、目を見開いた。
いくつもの季節、有限の時間。見聞きし、触れ、駆け抜けてきた様々な景色。眩く通り過ぎるその中に、笑っている自分の姿が見える。

『ウリエル様』

日の射す庭園。綻ぶ色とりどりの花と香草に囲まれ、机を挟んでお茶を飲み交わし、たわいない話をしながら愛しいひとの笑顔を見つめた。
彼の作る迷迭香の香水を硝子の瓶に詰め、夜毎窓辺に飾って並べ、優しい月光に目を細めて夜更かしをする……小瓶を返す事はしなかった。
彼は使い切ったら新しいものを詰めるから、と言って都度返却を促してくれたけど、少しでも彼と話をするきっかけが欲しかったから。
乳白色を詰めた小瓶が可愛くて、香を誉められて喜ぶ彼の笑みが眩しくて、彼や彼の友人とのお茶の時間が嬉しくて……時々、欲を出して。
最期のあの日、彼は涙の一粒も見せずに、自分を強く抱き締めてくれた。あの日、「わたし」にはどうしても言い出なかった事がある……

『藍夜!』

つきあい自体は、とても長かった。青空の下、一面の牧草の上に寝ころんで、将来の話をして日々を気楽に、それこそだらだらと過ごす。
彼はいつもお金と身長の事を気にしていて、自分や彼の弟、更には常連の客にさえ、ケチをつけてばかりいた。精神構造は小姑そのものだ。
そのくせビビりで神経質で、時々大ざっぱで面倒くさがりで、後にも先にも、ここまでひねくれた老人気質の人間を自分は見た覚えがない。
動物が苦手で、人付き合いも苦手で、なのに何故か彼の店は回っていた。お兄さんぶりたいのだと気付かされたのは、いつの話だったろう。
ケチでチビで、誰より根がひねくれてるのに、彼は仲間思いで優しいひとだった。彼の親友でいられる事は、「俺」の誇りだったんだ……

『あ、』

見覚えのない景色もある。銀色に輝く果樹、銀の林檎、柔らかい香り。目の前の、白金の髪の男。その表情は、ぼやけていてよく見えない。
その男が何か口走る度、自分も何事かを言い返していた。よく喋る、よく笑う。それなのに、会話の中身がまるで鼓膜に入ってこない。
まるで、夏の暑い日にみる夢のようだ。その光景だけは、無情に遠ざかり、あやふやに伸ばした指先を簡単にすり抜けていった。

『……思い、出した。全部、何もかも……そうだ、そうだったんだ。「わたし」は、「俺」は……なんで忘れていたんだろう。俺達は――』

――全ては、夏の暑い日にみる夢のよう。じっとりと浮かんだ汗に目を細めながら、暗がりに浮かんだ白銀の林檎の木を見つける。
銀光を放つ、幹、葉、花、果実。朧な月明かりに似た光を放つそれ。道に迷った後、ようやく道標を探し当てたような心地になった。
思わず手を伸ばす、樹皮に触れる。とくとくと脈打ち、水分を吸い上げて細部に行き渡らせ、種を繋げようとする確かな命の音が聞こえた。

『よかった……ちゃんと、続いてた。ごめんね、ずっと待ってたんだよね』

目を閉じ、心地いい音色に耳を澄ます。問いかけに応えるように、木の内側から、暖かな気配が手のひら越しに返された。
満足げに頷き、そっと離れる。銀色の果樹。既視感のある、大切な宝物……もう見失ったりしない、そう決めて笑いかけようとした瞬間、

『!? えっ、ま、待って!!』

ばちん。耳をつんざく奇怪な大音が、空間を震わせた。
世界はすぐに真っ暗な闇色に閉ざされ、眼前の白銀はたちまち砂嵐に似た黒塗りの粒に呑まれ、姿を消す。
「夏の暑い日にみた夢のよう」。そんなバカな、夢じゃない、覚えてる、忘れたりしない……頭を振り、懸命に目の前の闇を見つめ返した。
引いた筈の汗が噴き出し、ふらりとよろめき、立ち尽くす。途端に強烈な飢えと乾きに襲われて、喘ぐように口を開け閉めした。

『え……あっ……?』

果樹は、またしても隠されたのだ。そう無意識に理解したその瞬間、目の前に林檎の木とは別のものが現れる。
子供だ。黒髪に、小柄な体に不釣り合いな黒い洋装を着た色の白い子供。その姿を見たとき、心臓が音を立てて跳ねたのが分かった。
俯いていて、その表情の全ては見えない。呼吸が浅くなり、ごくりと唾を飲み込む。何故か、自分はこの子供を知っているような気がした。

『あの、君は? どこから来たの……』

声を掛けた直後、「   」ははっとして息を呑む。おもむろに顔を上げた子供と目が合った。
黒色、漆黒、射干玉の表層。子供の目は、何者をも飲み干す瞳を闇色の光に満たしたまま、こちらを憎悪の眼差しで睥睨する。

「来るな。お前は、まだ僕を知らなくていい」
『……え、』

深淵だ。全てを飲み込み、飲み下し、冥き地の更に底へと至る闇が、そこにはあった。はっきりと拒絶の意志を告げられ、息が詰まる。
同時に、体が軽くなる感覚が走った。浮き上がる、落とされる、連れ去られる。待って、そう叫んでも、子供はこちらを見下ろすばかりだ。
応えてくれない、届きもしない。理解に至った瞬間、「   」の意識は絶望を晴らすように深い場所から一気に持ち上げられていた。
ばちんと奇怪な音が耳元で聞こえ、次の瞬間には意識が現実に戻されている。はっと目を覚ましたときには、黒い子供の事など忘れていた。






「――ル、ニゼル! いや、フロルか、とにかくしっかりしたまえ!」

怒鳴り声に近い呼びかけ。ぼんやりとする頭でそれを聞き、返事をするより先に、あまりの声量につい顔をしかめて目を閉じる。
しっかりと、手を繋がれている感覚があった。呼びかけが呼吸の間を吐いた瞬間を見計らって、慎重に目を開く。

「……っあ、あー……こ、ここは……」
「フロル、フロルっ!? ヘラ様、ヘラ様! 気がつきました!」
「ふん。なんとか戻ってこられたようだ。ガブリエル、告知成功という事で文句はないよね」

ガブリエル、その名に反応して顔を巡らせると、気難しさを顔面に貼り付けて腕組みをする告知天使と目が合った。

「どうやらそのようだ。審判官、殺戮、もう手を離しても構わない。告知は無事に、完了した」

長く深く吐き出された呼気に、疲労と疲弊が滲んでいる。ガブリエルがきびすを返したところで、藍夜とサラカエルはこちらの手を離した。
終わったんだ、そう口内で呟いた瞬間、まともに立っていられず膝から崩れ落ちる。抱き留めてくれたのは、審判官の方だった。
大丈夫かい、そう聞かれても現実感が帰ってこない。辛うじて頷き返すと、彼はほっとしたような表情を見せ、自分を抱きかかえてくれる。

「大丈夫かい。相当疲れた筈だ、僕も初めて告知されたときは苦労したものだよ」
「あ、う、うん……」
「記憶をいっぺんに取り戻したんだ、情報の整理もあるから混乱しているだろう? ゆっくりしたまえ、僕に出来る事なら何でもするから」

慎重に運ばれソファに降ろされるも、意識が朦朧としていて頭が働かない。恐る恐る顔を上げると、はにかむような笑顔が目に映った。
全身の血流が逆流するような感覚に襲われ、顔を伏せる。ただただ、彼にお姫様のように丁重に扱われるのがむず痒くて、仕方がなかった。

「あの、フロルさ……いえ、神子様とお呼びすべきでしょうか。大丈夫ですか、お茶、飲めますか」

遠慮がちに声を掛けてくるアンブロシアに、口を半開きにしたまま頷き返す。見慣れた表情を浮かべた娘は、すぐに香草茶を出してくれた。
今にも泣き出しそうな、安堵の微笑み。唇を尖らせ、藍夜が淹れるものよりずっと熱いそれに口をつける。柔らかな若草の匂いがした。

「ああ、そうだ。それで、ガブリエル。特殊な告知というのは一体……」
「やあ、ウリエル。ガブリエルならもうどこぞへ帰ったよ、礼も言わずにね。本当に仕事一辺倒な事だ」
「も、もうかい!? 告知の中身やフロルの天使の詳細も、何も言っていなかったじゃないか」
「僕に言われてもね。正直僕も、告知が済んだばかりで瞳術を動かす余裕もなかった。ま、今回は目をつぶるさ。次はないってところかな」

言われてみればなるほど確かに、告知天使の姿は消えている。鷲馬達は軽食の用意に追われているし、ヘラはダイニングで茶を啜っていた。
……そうだ。ガブリエルの仕事に対する情熱を「自分」はよく知っている。彼女は「仕事の為なら平気で個を殺す事が出来る」天使だ。
個を殺した結果、「恐ろしいもののつがい」と「器の取り合い」に追われているほどだ。正直、生真面目すぎてついていけない。

「ま、とはいえ、ガブリエルばかり責めるのは本意じゃない。そもそもだ、元を正せば――」

アンブロシアが差し出すハーブクッキーをもしゃもしゃと大胆にぱくつきながら、明らかに不機嫌全開のサラカエルの顔を見上げた。
ばちっと目が合った瞬間、殺戮はにこりと不穏な笑みを浮かべる。自然な動作で手を動かし、彼はおもむろにこちらの額をばちんと弾いた。

「いッ、た! 痛い!!」
「サッ、サラカエル!?」
「サラカエルさんっ、女性に対してなんて事を! 大丈夫ですか、フロルさん……」
「――元はといえば、この間抜けがのほほんだらりんと余裕ぶっこく性格だったのが悪いんだろ。ずいぶんと手を焼かせてくれたもんだよ」
「よっ、余裕ぶっこく!? サラカエル、言い過ぎというものだよ!」
「いってて。あはは、反論出来ない……」

加減はされているが、流石は殺戮の銘持ち、デコピンひとつも凄まじい威力だ。苦笑する最中、ふと正面に屈んだアンブロシアと目が合う。

「……フロルさん。あなた、もしかして」

みるみるうちに、悲劇の天使の顔が驚きと困惑、確信のそれに変わっていった。そういえば、「彼女は自分の対天使にあたる天使」の筈だ。
「バレたら仕方ない」。フロルと呼ばれていた少女は、いたずらを思いついた子供のように唇に指を押し当て、しいと小声でほくそ笑む。
大きな瞳を瞬かせて、アンブロシアはその場にへたり込んだ。からかうように微笑んで、少女はこちらを見下ろすふたりの天使を見る。

「ねえ、サラカエル。ちゃんと朝御飯食べてる? もしかしてまた、生肉挟んだ不細工サンドイッチなんて食べてないよね?」
「……? フロル? 急に、何を」
「藍夜、前より筋肉量落ちたでしょ? まさか運動するのとかお肉食べるのとかサボっちゃった? やらなきゃ駄目って、俺言ったよね?」

言葉が途切れた瞬間を見計らい、神子様と称されていた少女はにひっと笑った。天使達の顔が、アンブロシア同様に忙しなく変化していく。

「君、まさか、そんな……君は、『ニゼル』だというのかい」
「えへへー。そのまさか! ただいま、藍夜」

思ったより早くバラしてしまった、そう考えて舌を出すと同時、勢いよく腕が伸ばされ、気付けばもう彼の腕の中。
今は審判官の天使と呼ばれるかつての親友に強く抱きしめられ、「ニゼル」は慌てふためき目を白黒させた。

「ニゼル、ニゼル……本当なのかい。本当に、君なのか」
「えっと、俺にもよく分かんないんだけどね。なんか、そうみたい?」
「本当に? そんな、こんな事があるなんて」
「ちょ、ちょっと待って、藍夜。痛いよ、そんなに強くされたら俺、折れちゃうよ」

ようやく解放され、正面から見つめ合う。久しぶりに再会した親友は、ヤコブの面立ちからよりサラカエル寄りの顔つきになっていた。
剣呑な眼差しが緩み、じわりと潤む。柔らかな苦笑を見上げて、ニゼルは「ああ、自分は本当にここに帰ってきたんだなあ」と噛みしめた。
微笑み合い、照れくさそうに苦笑し合う。ふたりの横、へたり込んだままのアンブロシアは、安堵したのか滝のように泣きじゃくっていた。

「……お帰り、ニゼル」
「ただいま、藍夜ー……って、ちょっと、アン!? 泣かないでよ、ほら、拭いて拭いて」
「うっ、うう……ぐぶぅっ。よ、かった、よかっだでずぅ……にぜるさん……」
「アンブロシア、君ね、気持ちは分かるが落ち着きたまえよ」
「でも、でもっ……う、うわぁあーん! よかった、本当によかったですー!!」
「あーあー、もー! ほら、いいから泣かないの! ねっ、せっかくこうして帰ってきたんだからさ」
「そうとも、せっかくこうして帰ってきてくれたんだ。どうやら、ガブリエルに色々と話を聞かなければならないようだね」

藍夜の言う通りだ――自分自身も、何故「ニゼル=アルジル」の記憶を有してここにいられるのか、まるで想像がつかない。
そうだね、そう頷きかけた瞬間、伸ばされた彼の手が自分の頬に触れてくる。優しい手つきだ、ニゼルは親友の顔を無意識に見上げた。

「藍夜? ど、どうしたの、俺の顔に何か付いてる?」
「……そうじゃないよ、ニゼル。君も僕に、何か言わなければならない事があるのじゃないのかい」
「へ? えっと、なんだったっけー……いたたたたたっ、痛い、痛いよ藍夜!?」

頬が撫でられたのは、最初の数秒間だけだ。むぎゅうううと容赦なくつねられ、ニゼルは拘束具の窮屈さにも構わず、両足をばたつかせる。

「痛くしているのだから当然だろう! いつもいつも黙って死に急ぐような真似をして! 僕がどれほど心配したと思っているんだい!!」
「痛い! いたたたっ、ごめ、ごめん! 藍夜、ごめんって! ごめんー!!」
「そんな程度で許すとでも思っているのか、君は! 見くびられたものだね、そこに正座したまえ!!」
「ええ!? そんな、俺病み上がりっていうか怪我人、」
「馬鹿な事をして……もう僕のせいで誰かを喪うなど、たくさんなのに!」

見上げた先、藍夜の顔は切なげに、苦悶の表情で歪んでいた。ごめん、無意識に小声で吐き出した謝罪は、音が震えてしまう。
俯き、拳を握りしめた親友は、ふと手を伸ばしてニゼルの下肢を腕で抱えた。刹那、急に足が軽くなる。
見ると、サラカエルが銀色の美しいハサミで布を裾から裂いているところだった。勢いよく切られ、骨と皮ばかりの足が剥き出しにされる。

「ほら、足を動かさない。また針が食い込むからね、けど、所詮は人間が作った粗悪品だ。すぐ終わるさ」
「うわぁ、忘れてた……ありがとう。助かったよ、サラカエル」
「やあ、相変わらずの間抜けぶりで安心したよ。ヘラ様のご命令かつウリエルの頼みだ、僕が自主的にする処置じゃない」
「……そう? でも、うん……ありがとう」
「ふん。ウリエル、説教も構わないけど、一旦こいつを脱がせるのが先だ。アクラシエル、赤面してないでさっさと着替えの用意を」
「分かっているとも、サラカエル。アンブロシア、僕達には女性の服に宛てがないからね。頼んだよ」
「は、はい! すみません、すぐ持ってきます!!」

改めて眺めてみると、フロル=クラモアジーの器は酷くやせ細っていた。これが十代の思春期を迎えた少女の体かと、我ながら愕然とする。
サラカエルと藍夜は、ふたり掛かりでさくさくと布地を切り裂き、引っ掛かる針はピンセットで慎重に除去してくれた。
用意された器具はどれもが不思議な銀光を放っている。皆が事前に支度を済ませてくれていたのだと、容易に理解する事が出来た。
アンブロシアも、新たに生じた傷口に治癒の祈りを加えてくれる。二時間ほど待っている間に、ニゼルは着替えを済ませる事が出来ていた。

「すみません、ニゼルさん。取り急ぎわたしの服を用意してみたんですけど、少し大きいみたいですね」
「うーん、あばら浮いちゃってるしねー。仕方ないよ、ありがとね、アン」

痛みも疲れも、あまり残っていないように思う。横から差し出されたハーブティーを受け取り、ニゼルはそれで喉を湿らせた。
やっぱり藍夜のお茶が一番好きだな、照れ笑いを返してみると、親友はまんざらでもないという風に肩を竦めて見せる。
心配させてしまった。が、口で言うほど、彼はこちらの身勝手を怒っていないかもしれない。気まずさに耐えられず、黙々と茶を口に運ぶ。

「驚いたわよ、あんた、ニゼルの記憶を優先して告知されたのね……落ち着いた? 軽くつまめるもの持ってきたけど、食べられそう?」
「えっと……真珠、だよね? うわぁ、フロルの記憶頼りだから、急におっきくなったみたいな感じだなあ。立派になったね」
「やった! ねーちゃんねーちゃん、今の聞いた!? オレ達、立派になったって!」
「落ち着きなさいよ、珊瑚。全く……告知って体に凄く負担が掛かるそうなんだから、静かにしてあげて頂戴」

不在の間に、色々あったのだろうと頷いた。ことに、鷲馬の二頭は自分によく懐いてくれていたと記憶している。
フロルと入れ替わるように表に立たされ、困惑していたニゼルだが、ふたりの元気な様子を直に見られた事は、純粋に嬉しかった。
真珠と珊瑚が用意した軽食は、具だくさんのサンドイッチだ。好物の羊肉製の生ハムと羊乳チーズを前に、胸が高鳴る。
早速口に運ぶニゼルだが、思ったより量が入らない。首を傾げていると、飢えが常習化して胃が受けつけないのだろう、とヘラが補足した。

「皆、ご苦労だった。アンバーとシリウスには、その足でケイロンを呼びに行って貰っている。すまないが借りさせて貰ったぞ、ウリエル」
「いえ、こんなときですから。それでヘラ様、ニゼルについてですが」
「うむ、そうだ。フロルだが、彼女は育ちの影響で相当弱っている。まずは回復を優先する、ガブリエルは後回しでいいだろう」
「お言葉ですが、ヘラ様。ニゼルが何の天使として覚醒したか、僕達も早急に知っておく必要があると思いますが」
「おいー、焦るなと言ってるだろう、おチビ。お前、そんなにニゼルが大好きか。好きすぎか」
「はあ!? なんですそれ、馬鹿にしてるんですか!」
「ははっ。冗談はさておき、個人的にガブリエルから言付けを預かった。近いうちにお前達にも必ず伝える。ウリエル、客室に運んでやれ」
「言付け、ですか。分かりました、ヘラ様。ニゼルの事はお任せ下さい、元よりそのつもりでしたから」

ヘラの言う通りだ、みるみるうちに目蓋が重くなる。指摘されて初めて、自分が今とても疲れている事に気がついた。
ぐらぐらと頭が揺れ、まともに目を開けていられない。また迷惑掛けるかも、そう思った矢先、体が傾ぎ誰かに抱き留められる。
柔らかなハーブと、甘やかな安息香の匂い。間違いない、鳥羽藍夜そのひとだ。胸がぎゅうっと苦しくなり、彼の胸元の布地を強く握った。

「……エ、さ……ま、」
「ニゼル?」
「あの、藍夜さん。風邪を引くといけませんから」
「アンブロシア……ああ、そうだったね」

思わず口にした言葉は、まるで言語の形に纏まらない。意識を泥濘に落とし込みながら、彼の腕の中に身を丸ごと預ける。
柔らかな感触が背中に当たり、寝具に寝かされたのだと知った。遠くから、近くから、皆が自分の名を呼んでいる。

「時間なら無駄にあるくらいさ。明日、またたくさん話をしよう……おやすみ、ニゼル」

足音が一つ二つと消えていき、部屋の灯りも消され、ついには真っ暗な闇が訪れた。優しい挨拶の言葉が、耳に心地いい。
そうだ、帰ってきた、帰ってこれたのだ。これ以上、幸せな事はない。「多くは望まない」と願った自分は、正解だったのだ。
どろどろの深い眠りに引きずりこまれながら、愛しいひとの声を聞く。甘い残り香が、慰めのように空気を撫で、遠退いていった。





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 UP:19/07/14