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楽園のおはなし (3-6) BACK / TOP / NEXT |
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何が起きたのか、よく覚えていない。ただ、とにかく何か恐ろしいものが町に現れ、大人達を次々と死体に変えていったのだ。 マルコは茂みと茂みの間を這うように逃げながら、震えていた。今朝のお祈りは行かなくていい、そう言っていた父母の姿も見ていない。 父ちゃん母ちゃん、それに妹は無事だろうか。そう考えた矢先、目の前に誰かの腕が降ってくる。文字通り、肘から先の一本分だ。 ぎゃああと悲鳴を上げ、それが本物であるか確認する事も出来ないまま、マルコは「困ったときに駆け込む為の場所」へ必死に辿り着いた。 「じっ、しんぷざまあ!!」 門を潜るや否や、すぐに目的の人物を見つけて縋りつく。彼はいつもの黒い平服に身を包み、いつものようにじょうろを手に微笑んでいた。 神父ステファノ。町の惨劇を前に、彼はにこにことただ立っている。聖歌隊に属するマルコの頭を撫で、どうしたんです、と慰めて。 ……微笑み続けていたのだ。凄惨な血臭も悲鳴も肉塊も、まるでいつもと変わらない日常であるかのように。穏やかに、優しく笑んでいた。 「し、神父様……と、父ちゃんが! 母ちゃんが……」 「どうしたんです、マルコ。ああ、そんなに泣いたら跡になってしまうでしょう。さあ、拭いておきましょうね」 「ちっ、違うんだ、違うんだよ、そんな事言ってる場合じゃ……し、神父様……」 死が、驚異が、恐怖の悪意がやってくる。だというのに、ステファノはマルコを宥め、お茶にしましょうか、とのんびり構えていた。 否、身構えてすらいない。くるりと背を向け、門のすぐ後ろで少年の頭が、ばくりと黒い毛並みの魔獣に食まれた後でも。 彼は決してじょうろを手放さず、いつものように柔らかく冷静に、その物音にそっと振り返るだけだったのだ。 「マルコ。マルコ=クラモアジー……確か、分家の人間だったかな? 一撃で仕留めるなんて、とても素晴らしい仕事だね。助かったよ」 魔獣は、くぐもった泣き言を叫び、力弱くもがくその塊を、大口に任せてずるずると丸飲みにしてしまう。 物語かおとぎ話に出てくる大蛇そのものだと、ステファノはようやく顔色を微弱に変化させた。 獣の頭部を撫で、その労を労った男が門を潜る。距離にしてぴったり十三歩分、二人の青年は真っ向から静かに対峙した。 「こんにちは、よいお天気ですね。天上の結界は、やはりあなたの仕事でしたか」 「こんにちは、いや、おはようじゃないのかな? こんなところで会えるとは……『前は羊飼いをしていた』ね」 「すみません、いつの話でした? あの後、何度か器が変わりましてね。『なんとか間に合った』ので、ほっとしていたところなのですよ」 魔獣が魔王の影に潜ったのを見届けてから、ステファノは「お茶などどうです」、と教会の扉を開く。 自ら神の加護がある場に踏み込む事は出来ないが、その庇護下にある者に招かれたのなら、話は別だ。サミルは素直に後に続いた。 「町については事前に調査をしていたんだ。一部の大人達が堕落するように仕向けたのは、君だね? 神父ステファノ……いや、ハニエル」 問いかけ、正体を見破ってもなお、ステファノの動作に動揺は見いだせない。ローズマリーの香りが宙に解け、冥い日差しが室内に満ちる。 「相変わらず、ご友人方ではなくご自分の足をお使いになるのですね。多忙に任せて過労死などされては、奥様が悲しまれますよ、サミル」 「はぐらかさないで欲しいな。何故、人間に扮してまでウリエルにこだわっているんだい。君の目的はそれなんだろう、あの時も、今回も」 ローズマリーは、審判官の天使が好んでいたハーブの一つだ。こうまで心酔されていては当人も困惑するだろうな、魔王はそっと嘆息した。 振り向いた若き神父の瞳は、冬空の水色をしている。黒塗りの青年は、出された香草茶に一瞥を投げた後、眼前の天使を見つめ返した。 「神子、つまり告知を受けなければならない天使が産まれた。それはいい、よくある事だ。けど、嗅ぎつける嗅覚が的確すぎやしないかな」 「お褒め頂き光栄です。買いかぶりすぎですよ、あなたこそニゼル=アルジルの探索について、他の追随を許さないではないですか」 「答えになっていないような気がするな。ハニエル、僕は今、君にとって大切な質問をしている最中なんだけどね」 「答える責務がわたしにありますか。前回もそうでしたが、あなたから逃れる事が勝利ではないのです。優先すべきは目的の達成のみです」 「ふふ……勝利か。では君は、結果として今回も自分の勝ちだと。そう言いたいのかな」 「ええ、無論です。間としては最善でした。フロルさんはウリエルの手で救われ、ヘラ様の元に連れられた。目的は果たされたのです」 顔面に張りつけるのは、笑みだ。数千年、数百年もの時を経ても、まるで変化のない偽善そのものの具現。 赤い豹が感じ取った程度とまではいかなくとも、サミルはこの勝利の階層に座す天使を、脅威として認識している。 彼は、死を恐れない。堕ちる事も、獣に食いちぎられる事も、拷問に掛けられる事も、ウリエル本人に知られずにいようとも。 恐れというものを全く意に介さない存在だった。自分の命すら目的の為には惜しまない。僕とどちらが忠犬だろう、珍しく魔王は失笑する。 「ですが、苦労はそこそこありましたよ。前任の神父がそこそこ有能だったようで、魔王を招く為の堕落に至るまで多少時間を要しました。 如何に神子が特別な存在か、如何にこの町が神に愛されているか、それをすり込む必要があったのです。町長が快楽に弱くて幸運でした。 少しずつ贈賄と牽制の機会を与えて、信心深い者とそうでない者とが対立するようにしたのです。後は、彼ら自らが堕ちて下さいました」 「自ら? 本当にそんなささやかな小細工だけだったのかな。ハニエル、君には天使と堕天使、どちらの仕事が向いているんだろう」 「自らでしたよ、サミル。人間という生き物は、善悪どちらにも傾く事が出来るのです。わたしやあなたが直に手を下す必要はありません。 神がそうお造りに、いえ、原初のヒトが知恵を得た事が起因となったのです。無知である事は罪ですが、同時に幸せな事でもあるのです」 来たる懺悔と告解は拒まず、常に中立の立場に徹する事で、微塵も疑われずに済んでいた……笑顔のままの天使に、サミルは双眸を細めた。 馬鹿な事を、思わず罵倒が口をついて出る。ハニエルは温厚な表情を何一つ変えず、何を言われたのか分からない、という顔をした。 ああ、彼と自分は似た者同士なのだ――目的とするもの、目指す場所が異なるだけで、病的に盲目的なところは特によく似ている。 理由が知れたら、恐れる事は何もない。いっそ同じものを道標としていたならば互いに幸運だったろうにと、魔王は冬空の天使を哀れんだ。 「そうか、大変だったね。けれどねハニエル、『一度不要と見なされた土地は滅ぼす』のが僕の仕事なんだ。例外はない。分かっているね」 人間の堕落、穢れた魂、汚れた土地の「粛清」。神の善意と厚意でそれを許されたのが審判官であり、悪意と害意で命じられるのが自分だ。 如何なる事情や都合があろうとも、それが取り下げられる事はない。居合わせた者、ことに加担した者なら、なおさら見逃す筈もない。 ハニエルは、ステファノの姿のまま幸せそうに微笑む。輪廻転生を経て、彼はまたいつの日か、ウリエル、鳥羽藍夜の前に現れるのだろう。 ああ、彼と自分は同族なのだ――魔王が片足で床板を踏み鳴らした瞬間、控えていた魔獣が黒衣の神父に飛びつき、その喉に噛みついた。 「美味しいもの……この時期なら、チェリーパイのラズベリーアイス添えなんかを食べたいな。きっと、うんと甘いと思うんだ」 赤い色、赤い苦鳴、赤い惨状。空っぽの表情でそれを見下ろし、全ての始末が付いた報告を受けてから、サミルはクラモアジーの町を去る。 ふと、最愛の妻の顔を見たくなった。ザドキエルの不在に慣れていない事に心底驚く。きびすを返した後、魔王は二度と振り返らない。 冥府から這い出た遣いが、死者の血痕を追っていた。ある意味では結婚……血痕式だと、自嘲気味に苦笑する。面白さは、欠片もなかった。 「――アクラシエル。汝は、今代の審判官らは戻ってくると思うか」 「えっ?」 「ここに、フロルを連れてくる気があるのかとわたくしは聞いている。汝の見解は、どうか」 昔から、告知天使の突拍子のなさには定評があると聞いている。しかし、彼女の前に紅茶を差し出す途中の格好でアンブロシアは固まった。 今朝方、突然なんの連絡もなしに姿を現したこの天使は「早急にフロルを迎えに行け」とウリエル達を叩き起こして回ったのだ。 常に日が昇る前から行動しているサラカエルはもちろん、不穏な気配を察したのか、ヘラや騎獣達もすぐさま用意を整え準備に追われる。 (……でも、藍夜さんだけはやっぱり寝ぼけ半分でしたよね。こんな大事な日に……どうしてあんなに、寝起きが悪いんでしょう) うーん、とズレた思考を巡らせている様を、ガブリエルは自分の問いかけへの返事に窮しているからだと感じたらしい。 すまない、変わらず無表情のままの天使に小声で謝られ、アンブロシアははっと我に返り目を白黒させた。 「あ、いえ、違うんです。えっと、そのぅ……藍夜、いえ、ウリエル様なら戻ってくると思いますよ。ずっとニゼルさんを、その……」 「ニゼルの転生を待ち望んでいた、か。噂に聞いた通りだ。汝は嘘を吐けない性質なのだな、アクラシエル」 「う、噂? ノクトさんかしら……いえ、わたしの事より、今はフロルさんが無事かどうかです。藍夜さん達、ご無事だといいんですけど」 視線を投げながら、悲劇の天使は何度か目を瞬かせる。珍しく、無表情無関心を貫く事で知られる告知天使が、微笑んでいるように見えた。 「心配無用だ。強力無比な助っ人が審判官らを庇護している。利害と動機は一致していないようだが、問題はない筈だ」 「利害と動機? ガブリエル様、それは一体……」 質問ははぐらかされる。来たぞ、ふと硬質な声でガブリエルはそう呟き、リビングの宙を見上げた。 わけも分からないまま、つられて顔を上げたアンブロシアの目に、見覚えのある転送陣の紋章が浮かび上がる。 雪崩れ込むようにそこから飛び出してきた複数の影のうち、先頭を切っていた男が着地と同時に顔を上げた。切実な焦燥感が見て取れる。 「あっ、藍夜さん!? それにっ、」 「少々遅れたな、審判官」 「ガブリエル! 話は後に、告知は少しばかり待ちたまえ! アンブロシア、先にフロルの治療を!」 「え、ちりょ……きゃあっ、フロルさん!? 酷い怪我、早くこちらに!!」 開放感溢れる縁側近くに置かれた大きなソファに、藍夜が抱えてきた神子を横たえさせ、アンブロシアはその前に膝を着いた。 変わった作りのドレスだなあと視線を走らせた後、すぐに両の手のひらを少女の体にかざす。全体に滲む血が、事態の深刻さを語っていた。 「拘束具か。惨い事をする」 「ガブリエル、フロルは神の遣いとして信仰対象にあったとヘラ様に話していたそうだね。これはどういう事なんだい」 「言うな。わたくしにも感知出来ない事もある」 「しかしだね、」 「藍夜さん! フロルさんの傷に障ります、話は後にっ」 ぐっと悔しげに歯噛みした藍夜に見向きもせず、丁寧に治癒の祈りを注ぎ込む。無数の傷のうち、幾つかは裂傷に至っていた。 あまりの痛々しさに胸が締めつけられる。元は白か ったと思わしき細かい刺繍の施されたドレスは、既に真っ赤に染まりきっていた。 じくじくとソファに鉄錆の臭いが染み込み、昏睡する少女の蒼白い顔をなおも消耗させていく。 早く終わらせてあげたいと願うと同時に、急げば傷跡を残してしまうという思いもあった。その思考が、いっそうアンブロシアを焦らせる。 「――気持ちは分かるが、落ち着け。アクラシエル、ガブリエル」 「……ヘラ様」 「わたくしは落ち着いているとも。地母神殿」 歩み寄ってきた気配は、ソファには近すぎない距離を開けて止まった。ふーっ、と大きく嘆息して、ヘラは四人の顔を見渡していく。 「ウリエル、サラカエルはまだ向こうか」 「えっ? はい……そうです。少し、仕事をしてくると」 「仕事か。ほーう、あいつも真面目だな……で、お前、向こうでミカエルの姿は見てないか。いたのは魔王のみ、間違いないな?」 「……はい、間違いありません。珊瑚達からも何も聞かされていませんが、それが何か」 不意に話を振られた珊瑚は、部屋続きのダイニングテーブルで休憩している真珠に紅茶を出しながら、ぱちくりと目を瞬かせて女神を見た。 ヘラは、小首を傾げて何やら意味深な目つきで黒羽根の鷲馬を見る。うへぇ、そう言いたげな顔で、珊瑚は表情を逸らしに掛かった。 「あー、オレ、ちょーっと今、立て込んでてー」 「何? どこも立て込んでないでしょう、珊瑚」 「ちょ、ちょっとねーちゃん!」 「鷲馬か。地母神殿、彼が何か」 ガブリエルの目に剣呑な光が宿る。一方、すぐに抵抗の意思を見せる黒羽根だが、姉も地母神も容赦がない。彼の抗議はさらりと流された。 「いや? 私も少し気になる事があってな。だがガブリエル、お前には関わりない事だ。気にしないでいいぞ!」 「オレには関わりあるんじゃん……せっかくねーちゃんとイチャつけると思ったのに」 「は、そうですか。それはそれで結構。告知に影響がないのであれば、わたくしはそれで構いません」 「うむ。アクラシエル、フロルの事を頼んだぞ。サラカエルが戻るまで私はだらだらするからな、あいつはいつも何かと五月蠅いからな!」 ……得てして、ヒーローとは肝心要の時にやってくる。胸を張ったヘラの背後、鷲馬のそれより小さく生じた転送陣から、その男は現れた。 「すみませんね、『いつも何かと五月蠅くて』。どいつもこいつも腑抜けなので、誰かが口うるさくならないと事が運ばないんですよ」 「うっ!? ああ、ご苦労。いつ戻った?」 「ご愁傷様です。たった今ですよ、ヘラ様」 「くそっ、私の貴重なバカンスタイムが!」 「アッハハ、仕事の合間にいくらでもくつろいだらいいじゃありませんか。やあ、ウリエル。で、間抜けの方は? 告知は済んだんだろ?」 「やあ、君も大概なものだね、サラカエル。ニゼル、いや、フロルは……」 帰還するや否や、サラカエルは血濡れの上着を脱ぎソファへと近寄る。血臭の酷さを罵る真珠に目もくれず、殺戮は神子の顔を覗き込んだ。 ふむ、喉奥で何か呟くも、彼の顔に変化は見られない。意見を求めるように顔を上げた対天使に、彼はいつも通りに首を傾げて見せた。 「町の方は片が付いた。こんな粗雑な拘束具しか用意出来ないんだ、女性の扱いなんて元々なってなかったんだろ」 「サラカエル、それはつまり」 「傷が残る可能性は、十分にあるって事さ……アクラシエル、彼女の身を案ずるなら、出来る限り時間を割いた方がいいと思うよ」 「待て、サラカエル。これ以上は待てない。わたくしにも都合というものがある」 意外にも、サラカエルは丹念な治療をするよう娘に勧める。アンブロシアは素直に頷き返すが、一方で反発する声もあった。ガブリエルだ。 「告知を施す事が出来る期間には限りがある。ここにきて悠長に構えている暇はない。汝も、其れはよく理解している筈だ」 「時間ならいくらでもあっただろ、告知天使。君の都合に口出しするつもりはないけど、調整も出来ないなんて少し杜撰すぎやしないかな」 「殺戮……汝は、わたくしの事情など何一つ把握していない筈だ。だが、わたくしにも都合というものがある」 「事情を明かしてくれなんて言ってないだろ? 何か勘違いしてないかな。ここはヘラ様の座す屋敷だ、君が一番偉いわけじゃない」 いいから治療に専念しろ、そう言う代わりに、殺戮は藍夜達に片手をひらりと振って見せる。 血を落としてきます、そう言いながら、彼はおもむろに珊瑚の首根っこを掴んで拐かしつつ、リビングから出て行った。 ぎゃあぎゃあ喚き散らす黒羽根の悲鳴を目で見送りながら、藍夜はなんとも言えない気持ちになり、ガブリエルの表情をちらりと盗み見る。 こちらに視線を送り返す告知天使は、どこか浮かない顔をしていた。その横で、ヘラがわざとらしくふーっ、と大きく嘆息する。 「また始まったな、あいつの生真面目さはお前と同程度だ。喰天使の話だと嫌みを言わないと死ぬ性分らしいぞ。気に病むな、ガブリエル」 「お言葉ですが、地母神殿。わたくしは……」 「お前にも引くに引けない事情や都合があるんだろう? だったら胸を張れ、俯けば舐められるだけだ」 「……申し訳ない。配慮頂き、感謝します」 女神は、告知天使を励ましたようだった。頭を下げたガブリエルの頬に、微かに朱が差している。藍夜は、ふと疑問に思った事を口にした。 「ヘラ様。あんなに急いで、サラカエルは珊瑚をどこに連れて行くつもりなんです。戻ってきたばかりでしょう」 「ウリエルー。お前も生真面目か。せっかくフロルを救出出来たんだぞ、お前の火急の仕事は彼女の傍にいる事だ。分かったら黙っていろ」 「それは承知の上です。ですが、あまりにも不自然だ。通信も切断されている。隠し事をされているとしか思えません」 「……お前、私の話を聞いていたか。私がそんな事、知るわけがないだろうー。あいつの考えなど、私の知った事か」 嘲笑しかねない勢いで片眉を上げた地母神に、藍夜は深くを尋ねる事が出来ない。言われるままに黙り込み、昏睡する少女を見守る。 無意識に手を伸ばし、気がついたときにはその額に触れていた。微かな発熱と発汗が感じられ、はっと胸騒ぎを覚えさせられる。 「アンブロシア、傷によく効く軟膏と湿布を用意してくる。一度ここを任せるが、構わないかい」 「は、はい。あの、藍夜さん。出来るだけ早く戻ってきて下さいね。目が覚めたときにあなたがいないと、フロルさん、心細いと思います」 「ああ、分かっているさ。勿論だとも」 ヘラとガブリエル、サラカエル達の言動には、言葉にし難い不穏な気配を感じられた。しかし、今はそれに首を突っ込んでいる余地もない。 アンブロシアに頷き返した後、藍夜はすぐにリビングを飛び出す。ハーブティーも用意しておかなければ、気は逸る一方だった。 彼女が目覚めたら、或いは告知が済んだら、してやりたい事がたくさんあるのだ。裏の事情など後回しでも構わない。 「ローズマリーと……安息香も焚いておこうか、ニゼルは好んでいたようだから」 棚から必要なものを引っ張り出し、手近な籠に詰め込む最中。ふと藍夜は、暗闇の中から誰かに見つめられているような気がして振り返る。 振り向いたところで、部屋にいるのは自分だけだ。気のせいだったかと思い直し、山積みの中身のてっぺんに香炉を乗せ、部屋を出た。 (ガブリエルは、『特殊な告知になるから僕達の助力が要る』という話していた筈だ……よもや忘れたわけではないだろうね、サラカエル) どのみちフロルの治療が完遂されなければ、アンブロシアは告知の実行に同意しないだろう。元から藍夜にはそのような予感があった。 リビングに戻ったとき、案の定ガブリエルは不満全開の顔で真珠の向かいに深く座り、紅茶と茶菓子を交互に口に運んでいる。 黙々と口を動かす告知天使を見て、藍夜はつい白羽根に視線を走らせた。真珠は真珠で、聞かないで頂戴、とばかりに茶を注ぎ足している。 「うむ、戻ったか、ウリエル。この調子だと、今夜までに治療は終わらないかもしれないぞ。困ったなー、お前もだらだらしたらどうだ?」 呑気に構えているのはヘラばかりだ。この居たたまれない空気に飲まれる事もなく、彼女は一足早く独り呑みなどを始めていた。 まだ昼を過ぎたばかりの筈だ、愕然と藍夜は籠を抱えたまま立ち尽くす。言いたい事は分かるわよ、不意に真珠から慰めの言葉が飛んだ。 「真珠……いや、しかしだね」 「言ったところで聞くようなひとでもないでしょう。父さん達だって、買い出しから戻ってきてないんだし」 「琥珀達もか。いや……それは、そうかもしれないがね」 「あんたが落ち着かないでどうするのよ……もう、香炉でも気休めに焚いておいたら? アクラシエルだって、根を詰めすぎるタイプだし」 「ああ……そうだね、そうしておこうか。すまないね、真珠」 「莫迦言わないで、あんた達が気掛かりなんじゃないわ。全部フロルの為よ、勘違いしないで頂戴」 「おや、心外なものだね。僕は、そんなに乙女心というものが分かっていないように見えるのかい」 「それならどちらかというと、殺戮の方よ。けど寝言を言うなら、寝た後にした方がいいかもしれないわね」 「ふむ。肝に銘じておこうか」 缶を開け、蜂蜜色の粒を取り出し網に乗せる。真鍮に似た独特の光沢を持つ香炉。それは、オフィキリナス跡地から持ち出したものだった。 元は鳥羽咲耶の為に、父が遠方から取り寄せた品だったと聞いている。黒い炭からすぐに熱が立ち、じりじりと樹脂を溶かしていった。 「ベンゾイン。古くからある香料で、ある地方でしか採れない貴重な樹脂さ。鳥羽藍夜の頃に、たまに家で焚いていたんだ」 甘ったるい匂いね、白羽根は微妙に顔を歪めて見せたが、藍夜は肩を竦めてテーブルからそれを離し、縁側の端の方に寄せてやる。 好みというものがあるからね――当時、鳥羽暁橙も鼻を摘まんで逃げ出していた筈だとふと思い出して、青年は小さく苦笑した。 「意外にも、ニゼルはこういうものが嫌いではなかったのだよ。僕はそうでもなかったがね」 「ああ、そう。あんた達とはことごとく趣味が合わないみたいね」 「……辛辣なものだね」 「性分、というか獣の身なんだから仕方ないでしょう。いいじゃない、わたしより珊瑚の方が鼻が利くみたいなんだから」 確かにそうだ、納得する間に真珠は台所の奥に引っ込んでしまう。消すかどうか逡巡する藍夜だが、ヘラの勧めで香は残しておく事にした。 女神自身はいい匂いだと感心し、ガブリエルは憮然としたままこちらを見もしない。アンブロシアは未だ、治療に躍起になっている。 前にもこんな事があったような気がするな、藍夜は黙ってソファに寄り、床に腰を下ろして少女の青白い手を取った。 握り返される微かな力が、折れそうな心を支えてくれる。思えば僕は、ニゼルに助けられてばかりだな……改めて気付かされ、息を吐いた。 |
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