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楽園のおはなし (3-5)

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「……ル、フロル! 起きなさい」

その日の朝は、母の叱声から始まった。耳元で聞こえた声にはっと目を覚まし、フロルはがばっと勢いよく跳ね起きる。
いつまで寝てるの、それが飲み帰りの口癖であった母親は、何故か今朝はにこにこしていた。珍しく息も臭くなく、少女は当惑する。

「今日はあなたの誕生日だったでしょう。ほら、こんなにお祝いを頂いたのよ。あとでお礼をしに行かなくちゃね」
「え……お祝い……? 母さん、いつ帰ってきたの?」
「しっかりなさいな。ほら、この花は町長さん、こっちの果物は自警団の方々からよ。それとこの神話の本は私から。好きだったでしょう」
「えっ、う、うん。そりゃ、好きだけど……あ、ありがとう? それよりさ、母さん、」

母の視線につられて目を動かすと、確かに見慣れた屋根裏部屋の至るところに、可憐な花束や縫いぐるみ、愛らしい表紙の本が並んでいた。
機嫌が良さそうにしている母から手渡しで分厚い書物を受け取り、フロルは寝起きのぼんやりとした頭のまま首を傾げる。
娘の質問は端から受けつける気がないのか、母親は早く降りてくるのよ、と言い残して部屋を出て行った。
相変わらず突拍子もない、とのろのろと寝具から降り、いつものように神子の仕事用の衣装に着替えを済ませる。

「天使様からのお祝いは……夜、かな。たぶん、こういうのじゃなさそう」

立派な金属製の籠と棚に飾られた、色とりどりの大輪の花を集めた豪華な花束。香り豊かなそれをふんふんと嗅いで、階段を下りる。
彼なら、選ぶにしてももっと控えめで淑やかな雰囲気の花を選りすぐってくれるような気がした。まだ見ぬ贈り物を想像し、胸を躍らせる。
今夜も来る、そう話していた筈だ。早く夜にならないかな、うきうきとリビングに出たところで、フロルは思わず足を止める。

「……ああ、フロル。いらっしゃい、皆さん、あなたのお祝いに来て下さったのよ」
「神子様、お誕生日おめでとう御座います」
「おはよう御座います、フロル様。十六年なんて早いものですわね」
「さぁさ、こちらに。皆、お待ちかねですから」

え、とも、ああ、とも、神子の少女は声にならない声を出しながら、目の前にずらりと揃う町民の女性達に目を白黒させていた。
あの人は教会横の菓子舗の店主、あの人は町長と仲のいい自警団長の奥さん、あの人は昔通っていた玩具屋の副店長……皆、面識がある。
しかし、それは顔を知っているという、ただそれだけの事だった。誰もがにこにこと幸せそうにしている様に、フロルはぞっとする。
こんな早朝から店支度もせずに他人の家に大挙して押し寄せるなど、常識としても有り得ない。何か祭事でもあったかと、少女は混乱した。

「ほら、いつまでぼうっとしてるの! 早くなさい!」
「いたっ! ちょっと、痛いよ母さん! 朝からなんなの!? ねえ……うわっ!」

動く気配のない娘に業を煮やしたのか、母親はおもむろにフロルの腕を掴み、細い体を女性達の中に押し込める。
いっそ放り込んだ、と言った方が正しかった。あれよあれよと言う間に神子用の衣装は剥かれ、別の服に着せ替えられる。
フロルは、目が回るようだった。されるがままにされていると、自分がとても窮屈な、異様に身動きの取りにくい姿をしている事に気付く。

「なっ、何、この服……」

お似合いですよ、素敵ですわ、そんな賛辞の言葉は耳をすり抜けていった。鏡台の前に立った自分は、恐ろしく貧相な格好をしている。
布地こそ白いものの、デザインそのものは数百年も昔の代物と思わしき、古びたドレス。体にぴったり張りつく嫌みな光沢に、華美な刺繍。
ふわりと広がりもせず足をすっぽり覆い隠す裾、胸や腹を窮屈に圧迫する下着に、無駄に底上げされた靴。何より、微かに黴の臭いがした。
ワンサイズ小さい、お遊戯会用の衣装だと言われてしまえば納得しかねない出来映えだった。鏡の中の自分を見つめ、少女は言葉を失う。

「ああ、とてもよく似合ってるわよ、フロル。ちょっと古いドレスだけど、あなたにぴったりみたいね。これで私も、やっと安心出来るわ」

フロルが我に返る事が出来たのは、母親の信じ難い言葉がきっかけだった。少女のように頬を染め、うっとりとした顔で実母は笑んでいる。

「これであなたは正真正銘、神に選ばれし花嫁になれるのね。よかったわね、ウメ君ならイケメンだし、あなたも幸せになれる筈よ」
「はな、よめ? 待って母さん、誰が、誰のお嫁さんになるって?」
「だから、隣のハイウメ君よ。あなた、これから結婚式を挙げるのよ? あなたが十六になったらそうしようって、町の皆と話していたの」

頭が真っ白になるとは、この事だ。直後、少女は頭にかっと血が上るのを自覚した。顔も、喉も熱くて声が出てこない。
それでもフロルは口を開き、怒声を張り上げる。冗談じゃない、混乱と激高が自分の中で渦を巻き、怒りの炎を燃やしていた。

「何!? 帰ってきたと思ったらなんなの!? ウメと結婚? ぼくが、なんで!? 冗談やめてよっ、ぼくそんなの絶対嫌だからね!?」
「ちょっと、フロル……」
「み、神子様、どうされました!? まず、落ち着いて下さいな」
「ああ、いきなり結婚と聞いて恥じらっているのですね。大丈夫ですよ、二、三日もすれば慣れますから」
「違うっ、そういう事じゃ――痛っ!!」

宥めようと手を取られかけ、怒りに任せて腕を振り回そうとした瞬間。突き刺すような鋭い痛みが腕に走り、少女は顔を強張らせる。
踏ん張ろうと足を広げると、今度は足の付け根はもちろん、太股、ふくらはぎ、膝の裏にも同様の激痛が走った。肘を上げて、はっとする。

(え……これ、血……?)

異常に生地が分厚いのには、理由があった。よく目を凝らせば、ドレスの至るところから、鋭利な銀色の針が飛び出している。
痛みを感じたところに、それらは無情に突き刺さっていた。じくじくと赤色が滲み出て、古ぼけた白色にゆっくりと染みを作り出していく。

「それは、神に選ばれた特別な娘が着るという神聖な花嫁衣装。四百年ほど前、帝都の職人が織ったという手製のドレスなのですよ」
「だ、だから、花嫁って……ぼくは、十六歳になったばっかで、」
「神に祝福されし婚儀ですもの、なのに花嫁が逃げては大変でしょう? 馬鹿な事を考えないよう、『特別な工夫』を施してあるのですよ」

フロルは愕然として顔を上げた。恐ろしい事に、その場に居合わせた女達は皆、口端を吊り上げてにこにこと幸せそうに笑っている。
菓子舗の店主も、団長の妻も、玩具屋の副店長も、少女の母親そのひとも。誰もが、さざ波のような小さな声で微笑むまま。
ぞっと、血の気が引いた。頭がおかしい、狂ってる、いつもならするする出てくる筈の罵倒も口に出せず、フロルは恐怖のあまり固まった。

「いい、フロル。あなたは神に選ばれし特別な娘なの。あなたはこの町にずっと残らなければならないの。その血も絶やしてはいけないの。
 だから、天使様の姿は見えなくとも、あなたと同じ特別な髪のハイウメ君となら子を成しても許される筈なのよ。健康な子を生みなさい」

そうですとも、偉大なる神子よ、ありがたい、これこそ神の祝福、町の誉れ――記録映像のように、皆が皆、同じ顔で同じ言葉を口にする。
そこに個はなかった……実母の顔すら、フロルには仮面をかぶった道化のように見えてくる。口々に放たれる祝福は、罵声よりも質が悪い。
背筋に嫌な汗が浮き、唇が震えた。体が音もなく小刻みに不気味に揺れ、少女は自分が今、恐怖でどうにかなってしまいそうなのだと知る。

(ぼくが、ウメと結婚? 逃げてはいけないお嫁さん、子供を産めって? そんな、誰の為に? 神様が……そう決めたの?)

無言で打ちひしがれている様を、肯定と汲んだのか。着替えを手伝った女衆は、花嫁の体を傷つけないようにそっと導き、外に連れ出した。
踏み出す度にちくちくと痛みが皮膚を刺激して、その都度フロルの歩みが止まる。慰めながら、宥めながら、一行はそれでも歩を進めた。
着きましたよ、そう言われてようやくフロルは顔を上げる。案内されたのは、自宅からそう遠くない場所に位置する物置き小屋だった。
昔、ハイウメとかくれんぼをしようと入りかけたとき、町長達から異様に叱られたのを覚えている。何故、あのときあれほど叱られたのか。
無数の鎖、虎ばさみといった罠、黒い染みの浮いた棘つきの輪。理不尽だと思えた苛烈な説教の理由が、ようやっと理解出来た瞬間だった。

「いい、フロル。神様はね、自分の命令を守る者には素晴らしい祝福と恩恵を下さるの。でも、それを破った者には厳しい罰を下されるの。
 本人だけじゃなく、肉親、友人全てによ。あなたが特別な婚姻を結んで特別な神子を繋げていく事で、神様の加護は永遠のものとなるの。
 だからあなたは、今日必ずハイウメ君と結婚しなくちゃいけないの。そうでなきゃ、私達やあなたと仲のいい神父様も死んでしまうのよ」

母の笑顔がよく見えない。首を動かすと、うなじのあたりに針が突き刺さってしまうからだ。神子の少女は、呆然と眼前の告解を聞き流す。
……昔から、自分は神子として住民達からちやほやと甘やかされ、過保護にされ、偶像として崇拝されて生きてきた。
それは、全てがこの日の為にあったものなのか。神は、そのように個を犠牲にして身を投げ出せと、自分に命じるものなのだろうか……。

「母さん、ぼく……ぼくは、」
「ああ、フロル、フロル。この日の為に、私は帝都の偉い教皇様にお会いしてきたのよ。あなたが結婚してくれないと困るのよ。お願いよ」

助けて頂戴、母が涙ながらにそう語る。釣られるように、小屋の入り口から女達のすすり泣きが聞こえた。
祝福を得る為の婚儀なのに泣くなんて変なの、フロルはまるで他人事のように、ぼんやりとその光景を見渡していく。

(町を救う為、皆の為に……その為に、ぼくは犠牲になっても当たり前って事?)

腕が痛い。足が痛い、首も、背中も、何より心臓そのものも。激痛が痛みの風のように全身を駆けめぐり、少女は汚物を見る目で皆を見た。
誰もがその眼差しに気がつかない。個々に身勝手に落涙し、俯き、フロルが言わんとしている事を汲み取ろうとする意思もない。
少女は絶望し、失望する。いかにハイウメやステファノが町を良くしようと努めても、町の皆がこうでは話にならないと思えたからだ。

(なんで、こんな事になっちゃったんだろう。もう、『この町は駄目』なんじゃないのかなあ)

自分やその身内の保全の為なら、他の犠牲を払う事は当然なのだと、仕方のない事なのだと、彼女達は具体的に行動に示して見せた。
店を休んでまで押しかけたという事は、町長も同様の思考だろう。本当にがっかりした、失望したと、フロルは双眸を細めて立ち尽くした。
静かに扉が閉ざされ、心の準備をしておくように、と促されても、少女は腰を下ろそうという気にすらなれずにいる。
その場に立ち尽くし、拳を握りしめ、腕に血が滲む事すら厭わず、全身全霊を以って軽蔑の意を示していた。

「ああ、そうだ……天使様や神父様は、なんて言うんだろ。とりあえず結婚しとけって、そう言うのかな。えへへっ、変なのー」

涙の一滴すら出てこない。どうしたものかと、陰鬱と哄笑の念に揺すられながら、フロルは目だけで天井を仰ぎ見る。






彼女の鼓膜に小さな物音が届けられたのは、まさにその瞬間だった。木屑の臭いがふわりと漂い、針の痛みを押しのけて無理やり振り返る。
がたんと壁板が一枚外され、外の光がすうっと密室と化した小屋の中に差し込んだ。ぎこちない動きで近寄り、その隙間に顔を寄せる。

「あっ、ウメ!? な、なんでここにっ、」
「(馬鹿、声がでけえよ! いいから、少し下がってろ)」
「ごっ、ごめん。ちょっと待ってて」

痛みに顔を歪めながら、フロルは言われた通りに壁から離れた。ハイウメは手にしていた金具を器用に動かし、釘を抜き壁板を壊していく。
数分も経たないうちに、彼は小屋の中に侵入を果たしていた。彼もまた、古くさい奇妙なデザインの花婿衣装を着せられている。
自分の事は棚に上げ、フロルは派手に吹き出した。うるせえよ、ハイウメは居心地悪そうに顔をしかめ、少女を睨んだ。

「あー、おかしかった。で、ウメ、どうしたの? っていうか、そのヘンテコな服どーしたの。趣味悪いよ?」
「お前、思ったより元気そうじゃねーか……知るかよ、朝、いきなり結婚しろって言われて親父達に着せられたんだよ。お前もそうだろ」
「……あれ? もしかして、心配してくれてたんだ?」
「お前っ……あー、そうだよ。クソ、心配して損したぜ。お前だって似合ってねーよ、そのクソドレス。だっせえにも程があるぞ」
「えー、ウメの方が似合ってないよ。マゴニモイショウって感じ。よく分かんないけど」

分かってねえなら口に出すなよ、ハイウメはいつもと同じ苦い顔でフロルから視線を逸らす。気の遣い方が下手だな、と少女は口にしない。
転がった木片を蹴ろうとして、フロルは顔をしかめた。針は至るところに仕込んであるようで、少しでも動くと深々と皮膚を刺してくる。

「お前、さっきからどうしたんだよ。つーか、なんで逃げねえんだ」
「いった! やめてウメ、刺さるからっ!」

ハイウメに腕を掴まれ、たまらず振り払い、直後の激痛に悲鳴を上げ……悪循環だと悟った少女は、渋々とこれまでの経緯を明かした。
驚愕のあまり固まった青年を見て、普通はこういう反応だよね、と冷静に思考する。どう考えても町民がおかしいのだと、ほっとした。
実は、とハイウメも声を潜めて朝の出来事を振り返る。いつものように畑に出ようとしたとき、彼も着替えの為に捕まってしまったらしい。
大人しく軟禁されたと見せかけ、隙をついて自力で抜け出し、異様な空気の中連れられていくフロルを見て助けに来たのだと彼は話した。

「つーか、神子だ神様だ、頭のおかしい連中ばっかだとは思ってたけどよ。ここまでってのもなかなかねえぞ、宗教戦争かよ」
「うーん、そのへんはぼくも知らないけど。でも、やっぱりおかしいよね? ウメだって、もっとぼいんでばいんな人の方がいいでしょ?」
「ぼいんでばいん……ああ、そうね、お前ってあれだもんな……別に俺は気にしねえけど」
「はいはい、どーせ貧相な体ですよー。うー、いたた。それにしても困ったなあ、これじゃ逃げるに逃げられないよ」

二人で針を除去しようと試みるも、複雑に組み込まれた針は一つを抜こうとすれば他が食い込む、といった陰湿な造りになっている。
嫌がらせだろ、青年は怒りと不快に顔を歪め、笑っちゃうよね、少女は自虐的に鼻で笑った。ひとまず除去を諦め、二人は顔を見合わせる。

「このままってわけにもいかねえよな。俺だって、お前が痛い目に遭ってんの無視出来ねえし。親父に直談判してみるか」
「えっ、でも危なくない? 今朝だって軟禁されかけたんでしょ、一人じゃ危険すぎるよ」
「心配すんな、あの後、酒飲んでるの見てたから。酔っ払いなんて怖くねえよ、今じゃ俺の方が筋肉ついてるし」

でも、それでもそう制止しようとするフロルの頭に、ぽんと軽い衝撃が降った。手を離しながら、ハイウメは苦笑いを浮かべている。

「いいから、お前はここから逃げとけって。神父様とかどうだ、教会の人間なら、そのドレスの造りも分かるかもしれねえし」

心配するな、彼は二度同じ事を口にした。くるりと背中を向け、するりと外に出たハイウメは、二度とフロルに振り向かなかった。
小屋の入り口から、恐るべき大音が響いたからだ。びくりと肩を跳ね上げたフロルは、それが激高した母の怒声であると気付いて震撼する。
目と鼻の先、幼なじみが、追われ、逃走していく気配があった。見張られていたのだ、少女は己の浅はかさに愕然とする。

「追え! 逃がすな!!」
「神子はどうした、早く捕まえろ!」
「何やってんだ! この際、片足くらいなら――」

――性交渉が出来さえすれば、それでいいのか。フロルは皮膚が千切れるのにも構わず、壁の穴から飛び出した。
小屋は、小高い丘の上にある。見下ろせば、町の男衆に追われるハイウメの姿が小さく見えた。一人の花婿に、無数の人間が群がっている。

(……なんて、醜い)

蟻だ、或いは、ご馳走を前に本能に敗北した野獣の群れ。縄張りを意識している分、野生の獣の方がまだ理性があると少女は思った。
吐き気がする、体が震える、明日は我が身だ。頭を振り、足を引きずりながら小屋を離れた。途中、足を滑らせ斜面を一気に滑落する。
血が飛び、青々とした草が千切れ、無惨に禿げていった。フロルはようやく恐怖に負け、顔からあらゆる水滴を垂らしながら跳ね起きる。

「痛い、いたい、痛いよ、痛いよぅ……! 父さん、神父様……天使様ぁあっ!!」

泣きながら駆け出した。後ろから、怒声が、叱声が、罵声が、混乱と暴動が追ってくる。どれもが見知っていて、だのに見知らぬ顔だった。
神聖なる花嫁を逃がすものかと、暴徒となって押し寄せ、憤怒の顔でやってくる。未だかつてない恐怖に、少女はがむしゃらに駆けた。

「なんでっ、なんでこんな……っあう!」

激痛が弧を描き、倒れ込む。道の真ん中、教会に至る住宅街の途中で、ついにフロルは身動きが出来なくなった。
振り向けば、夥しい量の血痕が連なっている。起き上がろうともがいても、ぬるぬると滑る布地が体を締めつけ、緩く拘束してくるのだ。
あまりにも優しく、慈悲深い拘束具。いつしか血まみれになっていた自分の四肢を見て、少女はうずくまり、嗚咽を上げた。

「なんで、どうして? なんでこんな事になっちゃったの? ぼくってなんなの? 神様、ぼくはそんなに悪い事をしたって言うの……」

視界が急速に霞み、何も見えない。自分はただ「ここから逃げたい」と願っただけだ。それが、こんなにも罪深い事なのか。
声を殺して泣く最中、フロルはふと、目の前に誰かが立ったのに気付いて顔を上げる。黒色だ、真っ黒で闇色で、長い夜色の髪をしている。

「……やあ、酷い顔だ。これじゃ、間抜け以前に馬鹿面丸出しじゃないか」

男は、ずいぶんと棘のある言い方で少女を罵った。何を言われているのか分からず、フロルは麻痺に任せて首を傾げる。

「いいさ、おいたが過ぎる連中の処分ならいつもの事だ。魔王が来たっていうんだし……多少、暴食が過ぎたところでお釣りが来るだろ」
「え、あ、あのぅ……うわあっ!?」

痛みはとうに感じなくなっていた。直後、ふわりと体が浮かび目を白黒させる。瞬きしようとした瞬間、顔面に柔らかな感触が下ろされた。
涙を拭かれ、鼻水を拭われ、最後に額と頬を指の腹で撫でられる。やっと瞬きが叶った少女は、眼前に並んだ二つの顔を見て目を見開いた。

「やあ、その間抜けは任せたよ。ウリエル」
「おや、間抜けはよしたまえ。サラカエル」
「え、ええっ!? てっ、天使様が……二人? じゃないっ、よく似てるだけ……ふ、双子とか?」

ハンカチはしまわれ、差のある言動が確かに視認出来るようになる。片やまっすぐな髪、片や三つ編み。別人だと気付けたのは直感だった。
それというのも、身に纏う気配の差だ。前者には突き刺すような冷たさと鋭さがあり、後者にはそれがない。あからさますぎるほどだ。
恐らくは夢の中の天使に抱きかかえられたまま、フロルは同色の長髪を下ろした姿の、黒衣の男の背中を、ぽかんとしたまま黙って見送る。

「ふん、やっぱり間抜けは間抜けのままか。話はまた後で、ってところかな。今は、時間が惜しいからね」

軽くあしらわれた、そのような予感があった。彼もまた天使なのだ、背に広がった四枚翼が羽ばたいた瞬間、あっという間に距離が開く。
直後、町民の悲鳴が聞こえた。歓声だったかもしれない。見るなとばかりに三つ編みの天使に目を塞がれ、答えるように彼の袖を握り返す。

「……ニ、いや、フロル。遅くなって、すまなかったね。本当に、悪かったよ」

ウリエルと呼ばれた、夢の中の愛しい天使。彼に頭を下げられた瞬間、フロルは決壊しそうになった。咄嗟に俯き、勢いよく頭を振る。

「だっ、大丈夫……だって天使様は、夜に会おうって言ってたのに。なのに、今、ぼくを助けに来てくれたから……」
「いや、いいんだ、いいのだよ、無理に話さなくとも構わない。君は悪い事はしていないんだ。フロル……君は、何も悪くないのだよ」

反論しようとして、少女は息を詰まらせた。突然力強く抱き寄せられたからだ、たちまち頭と胸が空になる。目を見開き、ただ固まった。

「痛いかい、痛むだろう、大変だったね。惨いやり方というものだよ……辛かったろう。だが安心したまえ。これから僕が、君を連れ去る」

息が苦しい、息が出来ない。ただしそれは、針による痛みと、天使の力に抱きしめられた事による苦しみが成すものではない。
またしても視界が急速にぼやけ、少女は腕を伸ばして天使にしがみつく。わあわあと声を上げて泣き、懸命に彼の首に両手を回した。
答えなど、同意など聞き返すまでもない。眉間に力を込め、応えるようにウリエルも力いっぱいフロルの体を抱き留める。

「フロル……本当に、すまなかったね」

刹那、生臭い血臭が飛び散った。対天使が生じさせた処置の臭いだ。多感な年頃の筈だと、それから少女を庇うように青年はきびすを返す。
更に悪い報せは続いた。彼らの頭上に、突如として冥い色が差したのだ。黒の結界が形成され、直に訪れる魔王の気配を告げている。
近く、サミルが町にいた事を教えてくれたのは珊瑚だった。ああ見えてあの仔は出来る仔なのだと、藍夜は決して口にしない。
一瞬空を仰ぎ見て、頭を振り歩き出す。出来る限りフロルの体に負荷を掛けないよう、慎重に歩を進めながら翼を広げた。

「……い」
「ん、なんだい、フロル」
「ううん……ああ、綺麗な色だなあ、って」

会話はすぐに途切れる。夢にまで見た、一度きりの接触だった夜色の四枚翼。涙を零しながら、少女はどこか遠い目でそれを見上げていた。
遠くから、近くから、冥い世界に座す獣達のおぞましい唸り声が聞こえる。地を蹴り、いよいよ藍夜はフロルを信仰の呪縛から連れ去った。

「――ちょっと、血が出てるじゃない! あんたが着いていながら、何をしていたのよ!」
「ねーちゃん、ねーちゃんっ! それよかほら、転送するのが先だから!!」

これらの罵声には慣れつつある。苦笑を返した天使に、木陰に身を潜ませていた白髪の少女は声を荒げ、黒髪の少年はそれを宥めすかした。
ハイウメに同じく、少女もまた町に振り向かない。後悔はしていないのだと、固く閉ざされた口が雄弁に決別の意志を告げている。

「よしっ、出来た。転送先、接続合致したわ!」
「んじゃー帰りますかー! 者どもー、舌噛むなよー!?」

種も仕掛けも分からない、そんなものは後からいくらでも解かせて貰える筈だ。鷲馬の転送陣に踏み込み、眩い光に全員が身を竦ませた。
新たな世界が手招いている……体が引っ張り上げられる未知なる体感が、ヒトならざる者と共にある選択を採った事を教えてくれた。
目を開いたとき、自分は何者として、どこに在ろうというのだろう。疑問に応えられる、金に輝く唯一の翠翼が、少女の視界に飛び込んだ。





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 UP:19/07/01