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楽園のおはなし (3-4)

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「ヒトは、生まれながらに神より『使命』を託されています。生きていく上で課せられた使命を全うする事、それが僕達の責務なのです」

ハイウメの自宅で酒に呑まれている大人達と違い、人数こそ少ないながらも熱心な信者を前に、ステファノによる教えが淡々と続いている。
フロルは壁際に立ちながらその光景を見つめていた。聖歌隊を務める子供達は帰宅した後で、教会には神父の声だけが響いている。
教えを終えた後、彼と共に片付けを済ませ少女は教会を後にした。珍しく、これより懺悔をしたいと申し出た者がいると聞かされたからだ。

「神父様。神様の教えが本当なら、ぼくにも使命ってあるんですか」

別れる間際、神子の少女は若い神父にそう問いかける。返ってくる答えは、本当は内心では分かり切っていた。

「もちろんです。フロルさん、あなたが神子である事がその理由ではありません。誰もが、何らかの使命を抱えて生まれてくるのですから」

毎日、毎回、それこそこの十六年もの間、何度でも唱え、或いは耳にしてきた神の教え。
彼の言葉が真実なら、神子としてもてはやされるばかりの自分にも何らかの価値はあるのだろう、とフロルは考える。
……帰途に就く最中、黒塗りの青年と再会する事は出来なかった。また会いたい、話がしたいと密かに思っていたので、少々がっかりする。
ステファノとはまるで違う容姿、声色でありながら、彼の穏やかな物言いはどことなく件の神父に似ているような気がしていた。

「あっ、帰ってきた。おい、フロル!」
「……ウメ。なーに?」

家に入ろうとした矢先、不意に幼なじみに呼び止められる。振り向いた瞬間、二人の間にぴりりとした緊張が走った。
ハイウメは忙しなく視線を四方に動かし、そわそわしている。気まずいなら声掛けなきゃいいのに、その一言をフロルは飲み込んだ。

「いや、あのな! 俺……け、今朝は、その……」
「ねえ、ウメ。朝はごめんね? でもぼくは、ウメは気の合う友達だと思ってるから」

彼にとっては酷な答えだろうと思う。案の定、幼なじみに一瞬落胆の感情が浮かんだ。はっとハイウメは頭を振り、作り笑いを見せてくる。

「お、おう。俺もだ、当たり前だろ……お前は神子様なんだから、婚姻するならきちんとした相手でないとな!」
「ちょっとー、ウメまで母さんみたいな事言わないでよー。そういうの、ぼくはまだ考えてないし」
「お前のお袋さんなー……あんまり気にすんなよ、俺だって何も気にしてねえから」
「ほんとにー? なら明日もちゃんと芋食べなよ? ぼくの事は、ぼくが自分で何とかするから」
「おう……そうか、分かってるよ」

歯切れが悪く、目が合わない。身勝手ながら面倒くさくなり、フロルは彼に簡単な挨拶とお礼を返して、家に入った。
とんとんと階段を上り、もやもやした気分のまま寝具に体を放り投げる。目の前に落ちてきた月桂樹の冠を、少女は雑に枕元に転がした。
何もかもが気に入らない、落ち着かない。自分は何故、こんなにも我が儘になってしまったのだろう。答えが分からず唇を尖らせる。

(母さんに、似たのかな)

よからぬ考えが浮かび、足をばたつかせた。自分勝手な一面に思い至る節もあり、悶絶するより他にない。
ひとしきり暴れたところで、腹が鳴る。自暴自棄気味に目を閉じて、空腹を紛らわせるべく惰眠を貪る事にした――






『……君ね、そんな格好では、風邪を引いてしまうというものだよ』

――その声は、不思議と少女の心をざわつかせ、波立たせ、或いはそっと慰めてくれるかのような、聞き覚えのある響きを含んでいる。
はっと目を覚まして跳ね起きたとき、フロルはあたりがすっかり暗くなっている事に驚き、その場で目を瞬かせた。
ここまで深く眠るつもりはなかったのに、と寝ぼけ眼で窓の方を見ると、思いのほか外が明るくなっている事に気がつく。
満月の一歩手前だ、明るいのも無理はない。寝具から降り、導かれるようにふらふらと窓際に歩み寄ってガラス戸を押し開いた。

「――やあ。どうやら、風邪は引いてはいないようだね。安心したよ」

そうして少女は、ぽかんと大口を開けたまま硬直する。羽ばたき音と共に目の前に降り立ったのは、いつもの白黒の姉弟ではなかった。
天使だ……夜色の四枚翼を広げ、片腕に見知ったバスケットを携え、どこか困ったような顔で苦笑する美しい男性性の天使が滞空している。

「あなたは……天使様? ぼくの夢に、出てきてくれてた……?」

夜色の三つ編みを微かに揺らして、青年はやはり困ったような表情のまま、小さく肩を竦めた。
心が揺れる、踊る、跳ね上がり、頬が急激に熱くなる。見上げた先で、夜色髪の天使は籠を軽く持ち上げて揺らして見せた。
部屋に入ってもいいか、そう尋ねられたような気がする。フロルの返事は、はじめから決まりきっていた。
背を向けた途端、照れと緊張で体が強張る。ぎくしゃくと歩く少女は、天使本人が長身故に苦労して窓を潜った事に気がつかなかった。
これだからこの器は、ぶちぶちと文句を垂れる青年の仏頂面にフロルは振り向けない。同じく、天使も少女の赤面に思い至りもしないのだ。

(うわあ、凄いなあ……天使様だ、本物の天使様だよ! 夢かなこれ、夢ならどうしよう、夢の中ってオチじゃないよね? 格好良いなあ)
「……いや、君ね。声に、考えている事が出てしまっているようだよ」
「わあ! えっ、えっと、ご、ごめんなさい!?」
「謝る事でもないさ、構わないとも。僕の方こそ、こんな時間に急に訪ねに来てしまったからね。驚かせて、すまないね」

バスケットをテーブルに乗せて貰い、椅子を引っ張り出して、座るよう勧める。青年は柔らかな声で、君こそ座りたまえよ、と苦笑した。
丁寧に椅子を引かれ、女性はもてなされる立場というものだよ、と小言らしきものまで飛んでくる。素直に着席して顔を俯かせた。
夢に見ていた、憧れの存在との接触。彼は「自分は夢の中の天使とは別人だ」と否定していない。その事実が、少女の思考を鈍らせている。
げんきんなもので、フロルは今朝の事をすっかり忘れ、既にこの青年にとてもときめいていた。ハイウメの事など忘れ去っていたのだ。

「……フロル、といったかな。君は、隣家の青年とは上手くやれているのかい?」

したがって、いつもの食器を並べながらそう問われたとき、少女はまたもぽかんと固まってしまう。
返事がない事に気付いた天使は、はたとフロルの方を見て、すまないね、と何故か自ら小さな声で謝罪した。

「あの、どうして天使様が謝るんですか」
「それは……僕が、器が小さい男であるからというものだよ」
「器が小さい? どうして? だって天使様は、こうしてぼくに会いに来て下さったのに」
「フロル、君ね。それは、」
「本当の事ですよね? それとも天使様は、ぼくの事、嫌いなんですか」
「そっ、そんな事! ある筈がないじゃないか!」

声を荒げた事に天使本人が一番驚いているように見え、口を閉じる。ハイウメのように視線を彷徨わせるも、彼は強い眼差しで少女を見た。

「ある筈が、ないじゃないか。僕は、こうしてようやく、君に会えたのだから……会いたいが為に、ここを直に訪ねたというところなのに」

ああ、嫌われているわけじゃないんだ――フロルは、ふっと無意識に微笑む。誰かにこうして、強く存在を見出されたのは、初めてだった。
天使は何故か、途端に視線を逸らしてわざとらしく咳払いを連発して見せる。彼の頬や耳は、ほんのりと朱に染まっていた。
拗ねてるのかな、そう思うと心がますます弾んでしまう。笑みを零して、少女はあらかじめ用意されていたカップに香草茶を注いだ。

「あの、天使様。このお茶って、誰が淹れて下さってるんですか」
「おや、もしや苦手かい。なんとなくだがね、君は、その、これを好んでくれているものとばかり」
「その口ぶり。これ淹れて下さってるの、天使様ですよね? このスープもパンもすっごく美味しいけど、ぼく、これが一番好きで……」

なんだか懐かしい感じがするんですよね、そう続けようとして、フロルは三度口を閉じる。天使は逸らした顔を真っ赤にしてしまっていた。
小さく噴き出し、直後睨まれ、ハーブティーを口に運ぶ。この数日間の疑問を解く事は、少女の中では最早どうでもよくなっていた。
……今は、彼と少しでも多くの話をしていたい。顔を合わせながら、彼の淹れてくれた香草茶をふたりで堪能していたい。
実際に姿を見せてくれた天使は、想像していた以上に素敵な男性の姿をしていたのだ。わくわくしながら、柔らかな香りを喉に通らせる。

「うーん。えっと、ハイウメはぼくの幼なじみでー……芋とか、恵んでくれるんです。近所のお人好しなお兄さん、みたいな感じですよ」

話を戻すのは自分でもどうかと思うフロルだったが、ハイウメの名を出した途端、天使はぴくりと微妙な反応を示してみせた。
分かりやすいひとだなあ、もごもごと口を動かした後、それでも自身の生い立ちや街での立場、神子という存在について話しておく。
天使は、途中から真剣な眼差しでこちらを見つめていた。彼になら打ち明けてもいい、そんな予感があった少女は、内心でほっと安堵する。

「神子、使命か。フロル、君自身はこの街の暮らしをどう思っているのだい。優先すべきは、君がどう思うか、どうしたいかという事だよ」
「えっ? えっと、その、ぼくは……あの、天使様は、どうしてぼくにそんな事を聞くんですか。天使様は、何の為にここに?」

自分は胸の内と事情を明かした。今度はあなたの番だと、フロルは正面から詰め寄る。青年は眉根を寄せたが、観念したように口を開いた。

「正直、言い出しにくいというか……卑怯な話をするとだね、僕は、君の身をさらいに来たのだよ。君を連れ去り、ある場所に連れ出す事。
 それが僕がここに来た本当の理由なんだ。僕は、いや、僕の仲間達はとある方に仕えているのだがね、その方からの勅命という事なのさ」

さらいに。彼の言葉を、音に出さずに唇の動きに乗せ、少女はぱちくりと目を瞬かせる。夜色髪の天使は、困った顔で小さく肩を竦めた。
……年頃の処女が、見知らぬ相手に突然「誘拐宣言」されるとは。眼前の少女の心中を汲み、青年は居たたまれない思いに苛まれる。
しかし、フロルは満面の笑みを浮かべた。いつの日か、ニゼル=アルジルが彼、鳥羽藍夜の前でそうしたように。太陽のように笑ったのだ。

「いーですよ。ぼく、天使様について行きます!」

ニゼルという人物は、親友の骨董商を困らせ、戸惑わせ、或いは酷く慌てふためかせるような、常に気まぐれで明るく、自由奔放な存在だ。
この瞬間まで、藍夜――今代のウリエルはそれを失念していたのである。鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、審判官の天使は固まった。

「……はっ! いや、いやね、違うだろう! 少しは考えてから、返事をしたまえ!!」
「えっ? うーん……はいっ、考えました! ぼくは大丈夫です!」

我に返って慌てて窘めるも、フロルは一瞬視線を宙に彷徨わせただけで、再度明るく、いっそきりっとした決め顔で答えてみせる。
藍夜は頭を抱えた。考えなしといえばそれまでだが、ニゼルは一度「こう」と言い出したら聞かない性格なのだ。

(そんな馬鹿な、この娘は、フロル=クラモアジーは……冥府に下り、輪廻転生を経て、ニゼルの記憶も感覚も全て失っている筈なのに)

人間誰しも、根っこの部分は変えられないという事か。無理やりに自分を納得させ、藍夜は心の底から深い溜め息を吐く。

「その、フロル」
「はいっ! フロルです!!」
「……君ね、今はもう、夜なのだから。声は小さく、控えめにしておきたまえ」
「……? えっと、はい? じゃ、ちっちゃい声で。天使様、いつ、ぼくを誘拐するんですかー」
「年頃の女性がそんな事を口にするものではないよ……もっと危機感を持つようにしたまえ。僕が堕天使や悪魔だったら、どうするのだい」

少女は、今度は顎に手を当て、うーんと真剣な表情で唸り始めた。少しは考えてくれたか、ほっと息を吐く青年だったが、

「危機感も何も、部屋に先に入ろうとしたのは天使様ですよね? ぼくが『あなたは夢の天使様ですか』って聞いたら、否定しなかったし。
 この場合、うーん、たぶん天使様の主である神様に怒られるのは、乙女の寝室に乗り込んで誘拐宣言した天使様の方だと思うんですけど」

屁理屈の度合いはニゼル、もといフロルの方が上だ。いよいよカップを置いて両手で頭を抱えた人間味溢れる天使に、少女は笑いかける。
説教をするべく顔を上げた藍夜は、フロルの幸せそうな表情を前に口を閉じた。何故か、強い言葉を掛けてはいけないような気がしたのだ。

「ぼく、後悔なんかしないです。天使様がぼくを連れ出してくれる夢、大好きだったから。毎日、夜を待ってたんです。だから大丈夫です」

藍夜は、この表情に見覚えがある。何かを諦め、手放し、自己を犠牲として他者に何がしかの救済を与えようとする者の顔だ。
オフィキリナスに暮らしていた頃、住民にロードを強請り取られていた瓊々杵が彼らに見せていた、交渉の笑みだ。
嫌な汗が頬を伝った。自分はこの少女に、以前ニゼルがヘラを救ってみせた事と同様に、この街での立場や出生を捨てさせようとしている。

「……君はまだ若いのだよ、フロル。それこそ神子として、この街の生まれとして、君が成すべき事や得られるものもあるかもしれない」

罪悪感に駆られ、先ほどと全く矛盾した言葉が口をついて出た。脳内に対天使から飛ばされた非難の声が反響する。
眉間に皺を刻み、喉奥で唸った天使を見て、フロルはきょとんとした顔で瞬きした。そろりと手を伸ばし、少女は天使の頭にそっと触れる。

「な、何を、しているのだい。君は」
「え、だって。天使様、何かしんどそうだったから。言い過ぎたかなーって」

反省の色は皆無だった。それどころか、フロルは再びにこにこと無垢に笑っている。

「天使様。ぼく、どうして自分が神子なのか分かりませんでした。特別な力もないし、顔は可愛い方って言われたけど、上には上がいるし」
「……君ね、自分の事なのに、ずいぶんな言いようをするものだね」
「可愛いって言うの、父さんやウメだし。特出した美人じゃないよなーって。だから、どっちかっていうと疫病神っぽいのかなって」
「おや、考え方が極端すぎやしないかい。君ね、そういうときは、トラブルメイカーと自称する事をお勧めするよ」
「トラブル、メイカー?」
「君は、自分の歩調や思考に周りを巻き込んでいく性分という事さ。昔、君によく似たそういう知り合いがいたからね。よく分かるのだよ」

少女はゆっくりと目を瞬かせた。そっか、と小さく呟き、はにかむように柔らかく微笑む。
動揺させたのは自分なのだ、藍夜は内心どきまぎして咳払いした。彼の本心を知ってか知らずか、フロルはさりげなく視線を机上に落とす。
香草茶を口に含んで喉を湿らせ、意を決したように少女は顔を上げた。まっすぐな目に瞬きを返した藍夜は、意外な返しに驚く事になる。

「天使様は、その知り合いの人がとても大事なんですね。大好きで、大切なんですね。すっごく、嬉しそうな声だったから」

ニゼル=アルジルは親友だ。それと同時に、何度でも自分から離れていこうとする、身勝手極まりない自由人でもあると分かっていた。
しかし、いざ面と向かって指摘されてしまうと返す言葉が見つからない。喘ぐように口をぱくぱくさせた後、天使は苦し紛れに顔を逸らす。
……フロルの視線は、逸らされる事もない。好奇心と感動で目をきらきら輝かせる少女を前に、藍夜は早くも逃げ出したい気分だった。

「き、君の目には、そう映ったのかもしれないがね、」
「違うんですか。大事じゃ、ない?」
「そっ、そんな事は言っていないじゃないか。そうじゃなくて……ああ、この話は止めにしよう、そうしようじゃないか」
「ええー? なんか、わざとらしいですよ? もしかしてー、天使様、照れてるんですか」
「大人をからかうものではないよ……僕はそうではないが、世の中には逆上してしまう者も中にはいるのだからね。控えめにしたまえ」

笑われ、からかわれ、いつの間にかそのペースに乗せられている。これではまるで、再構築された器と魂ではなく、ニゼル本人そのものだ。
審判官は苦いものを噛んだような心地になった。何度目かの嘆息を吐いたとき、その際もフロルはにこにこと小利口に笑っている。

「天使様。ぼく、天使様と行きます。初対面? なのに変な話ですけど……天使様と一緒ならどこに行っても怖くないって、思うから」

この少女は、この街にはもう自分の居場所がないのだと、そう言うのだ。誰もが自分を神子として偶像化して崇め、現実に見向きもしない。
歩みを止め、振り向きもしなければ一歩を踏み出す事もない……それはどんなに虚しく、もどかしく、悲しい事だっただろうか。
藍夜は彼女にそうされたように、そっと手を伸ばして空色の髪を撫でてやる。フロルは大きな眼を見開いて、されるがままになっていた。
感触は酷いものだ。細く、乾いていて艶もなく、せっかくの綺麗な色もくすんで見える。ニゼルの髪を見てきた友人として、悲しくなった。

「……あのぅ、天使様って」
「うん? どうかしたかい、フロル」

消え入りそうな声は、俯いた少女の口元から聞こえてくる。あまりに小さな声量に、続きの内容が耳元まで届けられない。
思わず尋ね返してしまった藍夜だが、彼はフロルの両耳が真っ赤に染まっている事にまるで気がつかなかった。
ふるふると懸命に首を横に振り、少女は口内で先の独り言をもう一度繰り返す。
「あなたは、堕天使なんかじゃなく、異国の地で悪さをするという淫魔に似ている」。口に出せる事ではないと、健気にぎゅっと目を瞑る。

「フロル? 本当にどうかしたのかい、何か気になる事でもあったかな」
「えっ、や、あのっ! な、なんでもないですっ!」
「そうかい……おや、君、顔が赤いじゃないか。風邪でも引かせてしまったかな。何せ時間も遅いからね」

言われて窓の外を見て、フロルは教会の細い時計台の近くに、赤い星が煌めいている様を見つけた。
数日前、ステファノから「赤く燃える星が、珍しく街に近付いてきている」と聞かされていた事を思い出す。
窓に歩み寄り、感嘆の息を吐いている少女に向け肩を竦め、天使は自分が使ったカップを布で簡単に拭き取り、バスケットに戻しておいた。
振り向いたフロルの顔に、微かに寂しさの情が滲む。藍夜は小さく苦笑して、残りの食事を椅子の正面に寄せてやった。

「今から食べるのは、体に良くないだろうがね。しかし、女性の体、特に肌には睡眠が必要なものだよ。もう、休まなくては」
「でも……せっかく、やっと天使様に会えたのに」
「もう会えないわけではないのだよ、フロル。明日は君の十六の誕生日だろう? 僕からも、ささやかながら祝いの品を用意しておくから」
「そっ、そういう問題じゃあ、」
「安心したまえ。僕は、いや、僕達はいつでも君の傍にいる。必ず助けにくる」

ずるい、その一言をフロルは口にする事が出来ない。プレゼントを喜んで受け入れる純粋さなどとっくに失せてしまった、と少女は思う。
どうせなら、何も言わずに街から姿を消して、誰にも知られないような遠い場所へと逃げ出してしまえた方が、よほど嬉しい。
しかし、夜色髪の天使はそれではいけないよ、と彼女の内心を見破った上で歩み寄り、眼前からさりげなく窘めた。

「明日は君のご母堂も戻られる筈さ。きっと、君を祝ってくれるというものだよ。十六とは、この近隣では成人の年齢とされているからね」
「ええ〜……母さんが? そっか、そうですかぁ……なんだ、帰ってきちゃうんだ。あんまり、嬉しくないなあ」
「フロル。大丈夫さ、心配せずとも必ず会いに来る。『いい子にして待っていたまえ』」

「いい子にして待っていたまえ」。何故か、その言葉と共に頭を撫でられた瞬間、フロルの胸中からもやもやした不安と不満が消えていく。
ずっと昔、そうして宥められ、慰められた事があったような気がした。にこりとごく僅かに微笑んで、夜色の天使は窓枠に手を掛ける。
少女が見守る中、彼は長身である事に不慣れであるのか、何度も枠に体を引っかけ、腕や足を散々にぶつけ、這々の体で屋根裏部屋を出た。
フロルは瞬きするしかない。痛いだの、これだから長身はだのと言いながら、藍夜はそっと宙に足を踏み出し、四枚翼を広げる。
ふわりと浮いた青年の体を、半ばうっとりとした目つきで少女は見上げた。振り向きざま、彼もまたはにかむような微笑みを返してくれる。

「では、今夜はこれで。籠は、いつものように窓の近くに置いておきたまえ。良い誕生日を過ごしたまえ、フロル」

こちらが答えるより早く。天使がくるりときびすを返し、強く羽ばたいた直後、彼の姿は突然、手品か何かのように空から消え失せていた。
ぽかんとしていたフロルだったが、急に腹が大きな音を立て、はっと我に返る。いそいそとテーブルに戻り、美味しい食事にありついた。

「……まだ聞きたい事、いっぱいあったのになあ」

胃袋が満たされた直後、部屋にぽつりと乾いた声を零す。興奮のしすぎは質問一つも上手く出来なくさせるのだと、少女はそう考えていた。
ニゼル=アルジルという因果を背負った、神子の少女。彼女と天使ウリエルの関係性は、少しずつ変容し始めようとしている。
当事者である二人は、このときその事実にまるで気がついていなかった。明るく輝く月は、いよいよ満ちゆくものとしての力を蓄えている。





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 UP:19/06/25