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楽園のおはなし (3-3) BACK / TOP / NEXT |
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それからというもの、あの謎の「差し入れ」を提供してくれる姉弟は、毎晩のように足繁くフロルの元を訪れた。 ふたりは姉弟である事を認めなかったし、どこから来たのか、誰に頼まれたのか、料理を作ったのが何者であるのかさえ明かさない。 きっと、言えないような事情があるのだろう。フロルは早々にそう判断し、素直に窓からバスケットを受け取り、美味しい料理を堪能した。 メニューはいつも、丸められたふわふわのパンが数個と、鶏で出汁をとったハーブと野菜のスープ、香草茶と決まっている。 懐かしい味、心を揺さぶる香り。本で読んだ「輪廻転生」というものが実在するなら、この事を差すのだろう、と神子の少女は懐かしんだ。 ……ぼうっとする頭で硝子の向こうを見て、フロルは手櫛で髪を整えて起き上がる。外は夜明け前だった。鏡の前に立ち、目をこする。 (なんだか……夢をみているみたい) 言葉に表し難い、神秘的な出会いと幸福な味わいの料理。夢のような経験と思うには、一連の出来事はあまりにも現実味に欠けていた。 いつも通り、壁に掛けていた神子服を取り、着替えを済ませる。冠が見当たらないのに気付いて、寝具の上に飛び乗りあたりをまさぐった。 「あ、あった、あった。危なかっ……あ、」 見つけた月桂樹の飾りをかぶり、ぱっと振り向いた矢先。フロルの視界に飛び込んだのは、テーブルの上に置かれたままの白い羽根だ。 そろりとベッドから降り、指で摘まみ上げる。柔らかく、ふわふわしていて、まるで夢の中の世界の一部を切り抜いてきたかのようだった。 夢じゃないんだよね、そう呟いた直後、衝動に任せて背中から寝具に倒れ込む。ばたばたと足をばたつかせ、満面の笑みを浮かべた。 「えへへ、また今日も来てくれるかなー? 楽しみだなあ」 潰さないよう加減をしながら羽根を手で包み込み、むふーっと興奮のままに息を吐く。はたと我に返り、羽根を元の場所に戻した。 本当はあの姉弟の事も料理の事も、真相を知らなければならないのだろう。しかし、それを知れば二度と会えなくなるような予感があった。 こんな勘はよく当たる。数日の夜を思い返し、やはり知るべきではない、フロルは頭を振った。それほど毎夜が楽しくなってしまっている。 (あー。これで、いつもの夢に出てくる天使様も姿を見せてくれたら、完璧なのになあ) 普段は神子として崇められていようとも、フロル自身は年頃の少女だった。ろくに顔も思い描けない天使の影を思い出し、瞳を潤ませる。 「きっと格好いいひとなんだろうなあ……どんな姿をしてるんだろー」 想像も出来ない、予想もつかない。それと同時に、胸はわくわくと弾むばかりだった。 ……崇められ、讃えられ、神子だ奇跡の娘だともてはやされ、代わり映えのない生活。衰退していく街での暮らし。 自分は、本当はもうずっと、神子など辞めてどこかへ行ってしまいたかったのだ――初めて思い至り、フロルは寝転んだままはっとする。 「ぼく、何の為に神子として生まれてきたんだろう。何で、この街じゃなきゃいけなかったんだろう」 ふと、ここにきて直面する疑問と願望。視界の端に差した朝日を硝子越しに見つめて、神子はむくりと体を起こした。 「おねえさんとおにいさんなら、なんて言うのかな。さらって! なんて言ったら驚かれちゃうかな」 まだ朝だ。あのふたりはフロルがバスケットを窓の外の屋根に置き、眠りに就いた頃を狙って密かに籠の回収にやってくる。 一度、眠らずに起きておいて、真相を直に問い質そうと努めた事もあった。まだ若いんだし、と謎の自信があったという事もある。 しかし結局睡魔には勝てず、窓に身を乗り出したまま眠り、担がれ、寝具に運ばれ……翌朝の目覚めがすっきりしていたという日もあった。 (初めて会った気がしないの、この街にぼくの居場所はないような気がするの。これって変? おかしい? 物語のお姫様と同じ気分だよ) 気持ちは、植えられた果樹のように育ちいく。自分の中で、何かが変わろうとしていた。漠然とした嫌な予感が、胸の内でざわついている。 「おっ、よう、フロル! 今朝はー……ん、いつも通り、早起きさんだな」 「おはよー、って、ウメも毎日早起きじゃない。疲れないの?」 「これぐらい普通だろ、俺は若いから平気なんだよ。それより、親父達が起きる前に芋食っちまえよ。見つかるとうるせえから」 「……若いからって……発想がぼくと同レベルなんだけど」 「ん? なんか言ったか、聞こえねえよ」 「んーん。何もー」 予想していた通り、今朝になっても母が戻った形跡はない。日課のように裏口から表に出て、すぐ目の前に広がる幼なじみの畑に出る。 手を振り返した青年は、やはり蒸かしたての芋をフロルに放った。受け取りながら、何故彼がこれを食べないのか、と疑問に顔を曇らせる。 気遣いであり、厚意である事も分かっていた。彼は他の住民のように「神子だから」、という目で自分を見ているわけではない。 それでも、神父ステファノのように自己犠牲の精神の元、無理をしてまで自分を甘やかして欲しいとは思わない。フロルは俯き、嘆息する。 「ねえ、ウメ。本当に疲れてない? ウメは、ちゃんとご飯食べてるの?」 「はあ? な、何言ってんだ、どうしたんだよ急に」 明らかに狼狽する幼なじみを見て、神子の少女はうんざりともう一度嘆息した。誰もがこうなのだ。 「神子の為なら」、「フロルの為なら」。それを前面に押し出し、こちらの話を聞いてもくれない。辟易として、三度目の溜め息が漏れる。 「ウメって嘘吐くの下手だよね。バレバレだよ、どうせろくに食べてないんでしょ……ぼくはいいからさ、ウメが食べなよ」 「い、いや、だから。それはお前にやろうと思って早起きして……じゃなくてっ、その、俺は大丈夫だって! いいから早く食っちまえよ」 「いいよ、ぼくは大丈夫。ウメが一生懸命育てたのに、ぼくが食べるってなんか違うでしょ。おかしいよ」 「いいから食っとけよ! 好きな女には優しくするのが普通だろ、どうせお前、神子だからって遠慮されてて貰い手なんかいねえんだし!」 かっと、頭に血が上った。無理やり芋をハイウメの手に投げ返し、フロルは神子服を翻して背を向ける。 慌てて、青年が追ってくる気配があった。伸ばされた手を振りほどき、至近距離から彼を見上げる。 「『見つかったらうるさい』んでしょ。早く食べないと、まずいんじゃないの」 「お、おい。何怒ってんだよ、どうしたんだ?」 「怒ってない!」 「いや、怒ってんだろ。まさか芋に飽きたのか、それとも俺……俺は、本当の事しか言ってねえぞ」 「そんなんじゃないよ、ぼく、食べるの大好きだし。そもそも芋に罪はないし。そういう事じゃないよ、ウメには分かんないの?」 「……悪かったな。分かんねえよ」 何故、皆そこで思考を止めてしまうのだろう――フロルは青年の腕を振り払い、細い足が露出するのも構わず、垣根をひらりと飛び越えた。 背後から幼なじみの声が聞こえたが、振り向かずに全力で道を疾走する。うまく言葉に出来ないもどかしさも、苛立ちの原因となっていた。 (怒ってない、怒ってないよ。違うのに、そうじゃないのに! っていうか、好きな女って何!? 好きなら、けなしてもいいって事!?) 怒りがぐるぐると連鎖して、考えが纏まらない。何故、自分はこれほどまでに狭い世界に留まっていなければならないのだろう。 住民の崇拝も、幼なじみの厚意も、神父の親愛も、どれもが自分にとっては有難いものであり、尊ぶべきものであると頭では理解していた。 しかし、今はそれがとても重い。重くて重くてたまらない。四方を壁に囲まれ、頭上が網で覆われ、足下を鉄で塞がれたように感じる。 ……逃げたい、投げ出して、どこか遠くへ、自分を知る者が誰一人いない地に走り去ってしまいたい。 そうして考え事に気を取られ、フロルは眼前、民家の曲がり角から出てきた人影に気がつくのが遅れてしまった。容易くまともに衝突する。 「わっ、痛っ! ごっ、ごめんなさい! ……あれ?」 相手は、ぶつかりながらも自分の肩を掴み、そっと優しく引き剥がしてくれた。不注意を謝りながら顔を上げ、フロルははっと息を呑む。 「いいえ。こちらこそ、前を見ていなかったから」 にこりと柔らかな笑みを浮かべたのは、見覚えのない美麗な青年だった。黒い髪に、同じ色の瞳が暖かな眼差しでフロルを見ている。 深淵に吸い込まれそうになるような、綺麗な眼。ぱちくりと目を瞬かせて、神子の少女はうわぁ、と素っ頓狂な悲鳴を上げた。 「え、あの、お兄さん、この街の人じゃないですよね?」 「ん、どうしてそう思うのかな」 「だって、すっごく格好いいから。前に見かけてたら、絶対覚えてる筈だよなあって思って」 思った事をずけずけと言い連ねた後で、フロルは慌てて自分の手で自分の口を覆い隠す。不意に、青年は声を出して笑った。 流石に失礼すぎた、そう考えて赤面する少女に、黒塗りの青年はくすくすと笑いながら握った片手を差し出す。 なんだろう、無意識に手のひらを差し出したフロルは、自身のそれに縞模様の包みに包まれた飴が一粒乗せられたのを見て、目を瞬かせた。 包装越しにも、とても甘いいい匂いがする。中身は見てのお楽しみだよ、青年はにこにこと笑いながら補足した。 「君の願いは、ついさっき耳にしたからね。でも僕の役割ではないから、それがお詫び。受け取って貰えたら嬉しいな」 「ぼくの願い? 役割? お詫び……えっと、よく分かんないけど……あ、でも飴は嬉しいから、貰いますね」 「ふふ、君らしいね。そうこなくっちゃ」 「う。そういえば、父さんは『知らない人から物を貰っちゃ駄目だよ』って昔言ってた、かも」 「かも、なら時効だろ? 君の父御も、きっとお許しになって下さるよ……愛娘が飢えているなんて、死後の身にはお辛い事だろうから」 ――父は、母と別れて家を出ていったのだ。「死んだ」とは聞いていない。 はっと顔を上げたフロルの目に、青年の貌は映らない。眩い朝日に呑まれ、その表情がまともに視認出来ない。 「僕がここに来たのは、仕事なんだ。期は熟し、果実は収穫のときを迎えた。誰もがそれを狙っている……誰かが、刈り手を選ばなくては」 「仕事」。紡がれた言葉は冷たく、いっそ物々しくさえあり、響きは淡々としている。表情だってろくに見えない。 だというのに、フロルは何故か、青年が酷く辛い思いをしているような気がした。無意識に背伸びをして手を伸ばし、黒髪をそっと撫でる。 何故なのか。理由は自分でも分からない。強いて言えば、あのふたりの姉弟と同じだ……初めて会った気が、まるでしないのだ。 ちかちかと朝日が瞬き、明暗の中に青年の表情が浮かんだ。驚きと戸惑い、そして切なげに歪む。迷い子が母親に再会したかのようだった。 驚いたのはフロルも同様で、少女は慌てふためき、さっと手を引っ込める。同時に、手の内側に奇妙な違和感を覚えてぎょっとした。 「あっ、あーあ……うわぁ、溶けてるよ」 包装紙から赤色の糖分が滲み出している。ねとねとねばねばしていて、簡単に取れそうにない。なまじいい香りなだけに、複雑だった。 困り果て、思わず助けを求めるように顔を上げる。するとどうだ、いつしかそこには青年の姿は影と形も見えなくなっていた。 「え? えっと……あれ? お兄さん?」 フロルは狼狽え、その場に立ち尽くす。さりげなく手のひらを舐め取る事も忘れない。飴玉は、とびきり甘いイチゴの味がした。 残っていた分を口に放り込み、ころころと転がしながら周囲を見渡す。気がつけば、黒塗りの青年の行方は失せていた。 既視感、こちらの事を見通しているかのような言動、真の夜を切り抜いてきたような黒の瞳。不思議なひとだったなと、フロルは思い返す。 (父さんはもう死んでる、みたいな言い方だった。あの人のお仕事って、なんなんだろう……ぼくに関係ある事なのかな) 考えていても答えは出ない。もごもごと口を動かし、そろそろ教会に行かなきゃな、そう考えたところで背後から物音がした。 「フロルさん? こんな所で、どうしました?」 「……んぐっ! し、神父様?」 油断していると、飴が口から飛び出しそうになる。振り向いた先に立っていたのは、朝市帰りと思わしき荷物を抱えたステファノだった。 芋と赤茄子しかないような、月に一度開かれる朝市……そういえば今日がその日だな、ふと思い至り、フロルは神父同様彼に頷き返す。 「おふぁようございます。お買い物の帰り……んむ、ですか」 「フロルさん? ああ、ハイウメさんからのおすそ分けですか。すみません、変な間で話しかけてしまって」 「あ、いやあ、これはその……」 「彼は熱心ですからね。君や彼くらいの年齢なら帝都に移住したり、同年代の子と結婚したりと、考えそうなものなのでしょうが」 嫌な話題を出された。思わず言葉に詰まり、口を閉じる。ステファノに他意はなかったらしく、戦利品を一つ手に取って見せ、微笑んだ。 全て、孤児達に回す分だろう。どんな調理法がいいかと苦笑する神父に、フロルはどう答えるべきか、答えに詰まった。 彼は今日も、食事を摂らないつもりでいるのだろうか……何故、神は自分を神子として選び、その他の民には苦境を強いるのだろう。 「……なんでだろ。ぼくには、分からないよ」 「え? ああ、すみません! そうでしたか、フロルさんは、あまり料理をなさらないのですね」 「え? えっと、そっちじゃなくて! うーん、無難に葱やにんにくを炒めて、赤茄子メインで煮込みにしたらいいんじゃないかなーって」 上手く、笑えているだろうか。幸い、フロルのざわつく胸中に気付いた様子もなく、ステファノは嬉しそうに礼を述べるばかりだった。 なんだか悪い事をしているような気がする。ハイウメの気持ちに急に触れた事で、自分は過敏になっているのかもしれない。 頭を振り、フロルはステファノと教会へ続く道を急いだ。典礼は、祈りの為の時間が一つ一つ決められている。 敬虔な神父の事を思えば、その気持ちに出来るだけ添ってやりたいと、神子の少女は常々考えていた。 (そういえば、神父様は帝都から来た人なんだよね。結婚出来ない、って事くらいはぼくも知ってるけど、好きな人とかいなかったのかな) 余計なお世話か、と思い直す。誰が誰を好いたところで、神や人道に背くようなやましいものでない限り、それは自由である筈だ。 ならば、ハイウメのそれもそうなのだろうか……これじゃあ堂々巡りだなあと、フロルは苦いものを噛んだような気分になった。 「あの、神父様」 「どうしました? フロルさん」 「えっと……さっき、見覚えのない人に会ったんです。不思議な男の人で……こっちじゃ珍しい、真っ黒な髪と目をしていて、服も黒くて」 「黒髪に黒瞳、ですか。それは確かに、珍しい組み合わせですね」 話を逸らそうと、少女は何気なく先ほど出会った黒塗りの青年の事を持ち出す。神父は荷物から目を離し、フロルの言葉に耳を傾けた。 「黒とは、ここから遙か遠くにある島国でよく見られる色素と聞いています。信仰面では、神に近しい色とも、死の色ともされていますが」 「そうなんですか。死の色……うーん、綺麗なひとだったし、そんな風には見えませんでしたけど」 「ああ、僕の知っている話というだけですよ。すみません、なんでも信仰に絡めてしまって。悪い癖ですね」 続きを待たれている。ふと生じた間に目を瞬かせ、フロルはふらっと歩みを再開した。ステファノは同じような速歩で着いてくる。 黒塗りの青年の言葉や容姿を思い返し、のろのろと足を動かした。考えれば考えるほど、彼には不思議な魅力があった事に気付かされる。 「なんだか、初めて会った気がしないんですよ。変ですよね、ほんとに初めましてーって感じだったのに」 「既視感というものでしょう。もしかしたら、どこかでお会いしていたのかもしれませんよ」 「うーん、そんな感じじゃなくって。なんでも、『この街に仕事に来た』って、『刈り手を選ぶ』とか、辛そうな顔で教えてくれたんです」 「仕事……仕事、ですか。ここには、大きな産業も入っていない筈ですが」 「そうなんですよー、だからぼくも変だなあと思って。でも『期は熟した』って言うから……きっと、大変な仕事なんでしょうね」 とても魅惑的な、それでいて寂しげな青年。彼が、心から笑える日がきたらいいのに……フロルはうんうん唸りながら、教会の門を潜った。 「あ、そっか。神々しさもあったし、もしかしたら神父様みたいに帝都から来た神人だったのかも。父さんの事も知ってるみたいだったし」 「フロルさんの父御様を? それで、その方にはなんと言われたのです?」 振り向いた先、神父はどこか険しい表情をしている。一瞬びくりと固まったが、神子の少女はうーん、と記憶の糸を手繰り直した。 ステファノは荷物を置きに行こうともしない。水やりもまだ途中のようで、菜園の横には濡れたじょうろが置かれたままになっている。 几帳面な神父様にしては珍しいな、ぼんやりと怖い顔を見つめ返した。フロルにとって、件の青年は「恐ろしいもの」ではなかったからだ。 「もう死んでる、みたいに言われました。身内の恥ですけど、ぼくの母さん、浮気癖があって。父さん、昔、家を出てったきりだったから」 「浮気ぐ……すみません、酷い事を聞いてしまいましたね」 「いえ、何でもないですよー。今に始まった事じゃないし。母さん、愛されてないと嫌なの、って口癖にしてたし」 「それでも、そんな……」 「神父様。ぼく、結婚の神様には地母神の側面もあるって本で読みました。この土地が痩せたのって、ぼくの家のせいだったりしません?」 「!? フロルさん、めったな事は言ってはいけません! 神は人間に平等に愛を注いで下さる、慈悲深い方々なのですから!」 心臓が早鐘のように鳴っている。静かに振り向き、フロルは柔らかく微笑んだ。ステファノは、幽霊でも見たような目で少女を見ている。 「本当に? 本当にそう思ってる? なら、この世界に『殺戮』とか『懲罰』とか、最初から要らないよね?」 「っ、フロルさん? あなた、一体……何を言って……」 「ぼく、何言ってるんだろ……なんか、疲れたのかな。えっと、そんな感じで。あの黒いひとにまた会えたら、もう少し話、聞いてみます」 ざわめく胸が、早鐘の鼓動が、次第に落ち着きを取り戻していった。神父から食べ物をひったくり、居住スペースへ先に運び入れてしまう。 遊んで、本読んで、忙しなくせがんでくる子供達にさりげなく床掃除を任せ、フロルはスカートの裾をまくり、典礼の準備を急いだ。 ステファノは物言いたげな表情ながらも少女に続いて礼拝堂に戻り、手分けして蝋燭や聖書を各々の席に並べ、平服を整える。 (黒髪に黒い服……フロルさん、あなたが出会ったのは、もしや『死の遣い』なのではありませんか。二度と、会わない方が宜しいのでは) 平常心であろうとしているのは、どちらも同じだ。鼻歌交じりにぶどう酒を開ける神子を見て、神父は気取られぬよう嘆息した。 実のところ、フロルはステファノの唐突な態度の硬化に気付いている。その上で、彼にハイウメや婚姻の話を出されないよう警戒していた。 (好きになるのも、好かれるのも自由だよ。でもぼくはウメの事、なんとも思ってない。ただ夢の中の天使様に、会ってみたいだけなのに) 願いと想いは、複雑に交錯している。蝋燭にそっと灯を点けながら、神子は今は遠い夜の訪れを、今か今かと待ち詫びていた。 息が苦しい、胸が苦しい。あの、ごく僅かでも現実から剥離してくれる存在の来訪は、フロルにとってかけがえのないものになりつつある。 彼らと初めて遭遇した日から、既に何日かが経過していた。漆黒の空に昇る太陰は、白銀の輝きを抱く望月に近付きつつある。 ……思えば、次の満月には婚姻を許される歳になるのだ。このとき少女は、自分を想い続ける存在がある事など、想像さえしていなかった。 |
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