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楽園のおはなし (3-2)

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「そうですか、パウルさんが……では、僕もよく気に掛けるようにしましょう。フロルさんも今日はもう帰りましょう、酷い顔ですよ」

借りていた聖書を戻しに教会を訪ねたフロルは、同じように典礼の片付けをしていたステファノに訪問先の老爺の体調を相談した。
少女を気遣ってか、神父はにこりと微笑んで大きく頷く。彼は、他にも個人的にいくつかの家を見舞っていた筈だった。
また負担を増やしてしまう、フロルは思わず俯いてしまう。直後、目の前にステファノが立つ気配があった。
ちらと視線を動かすと、白い木綿に包まれたものを差し出されている事に気付く。

「これ、宜しかったら召し上がって下さい。参祷者の方に頂いたのですが、僕は乳酪は食べられないので」

包みを開くと、手製と思わしき焼き菓子が数枚入っていた。受け取れませんと固辞しようとして、盛大に腹が鳴る。
ステファノは噴き出して、すぐにすみません、と少女に笑った事を謝った。彼は敬虔な神人で、動物性の食物を摂らない事で知られている。
もしやこれは、彼に好意を寄せる女性からの贈り物ではないのか……フロルは一瞬躊躇したが、素直に神父から包みを受け取った。

「……神父様は、ちゃんと食べてるんですか。いつもぼくや子供達の事ばっかりだから」
「え? ええ、もちろんですよ。神は誰にでも平等です。神恩を受け取る事は、決して悪い事ではありません」

にこにこと微笑み返され、「本当は孤児優先で、ろくに食べてないですよね」と指摘する事が出来なくなる。彼の体は、異様に細いほどだ。
自分よりも他人ありきという彼の信仰心と行動指針は、フロルには理解し難いものがあった。しかし、自分には口を挟む権限もない。
本当に、神子とは一体なんなのだろう。ぐるぐると纏まらない思考を渦巻かせながら、送り出されるままに教会を後にした。

「……おっ、よう、フロル! 芋でも食うかー」

家に着くと同時、隣家のハイウメから声を掛けられる。彼の手には、蒸かしたてのじゃがいもが一つ乗せられた籠があった。
その芋も、本来なら彼が口にすべきものだ。どれほど自分は周りに気遣われているのだろう、胸が苦しくなり、包みを持つ手に力がこもる。
大きく首を横に振り、返事も出来ないまま屋根裏に駆け込んだ。げんきんなもので、焼き菓子は寝具の上でさっと食べ終えてしまう。
この町では珍しい、芳醇なバターと小麦粉の香り。参祷者の出自と意図が読めず、足をばたつかせながら仰向けに寝転がった。

「嫌だなあ。ぼく、自分の事ばっかりだ」

母に、似てしまったのだろうか。ふと思い至った考えを振り払うように首を振る。
既に胃の中に収まった菓子の美味しさを反芻するように、もごもごと口を動かした。気がつけば、フロルはそのまま眠りに落ちている。
白い服も、月桂樹の冠も、身に着けたままだった。日が暮れ、周囲が夜色に包まれた頃、ようやく少女は目を覚ます。

「あっ!? うわー、寝ちゃってた……」

自分で自分に驚いた。久しぶりにまともなものを食べたからだと考えて、直後、いやウメの芋も美味しいけど、と謎の補足に勤しむ。
ぼんやりする頭のまま、なんとか起き上がり、何の気もなしに窓の外を見た。美しい月夜が見える。月は、半月に少し満たないほどだった。

「よいしょ、っと。はあ……あー、ウメも寝ちゃったかな」

窓を押し開き、身をほんの少し前に乗り出す。冷たいそよ風が頬を撫で、フロルは両目を細めて月を仰いだ。
満天の星と輝く月、静まり返った町並み。大きく深呼吸して澄んだ空気を堪能し、うっとりする。
……昔から、夜は好きだった。特に、月の輝く真夜中などは、こうして夜更かししては父に絵本を読んで貰っていたように思う。
もう休みなさい、そう急かされても、フロルが頷き返す事は稀だった。不思議と睡眠時間は他の子供に比べて短い方だ。
どんなに遅くに眠っても、翌日、日が昇る頃には目が覚める。不良さんだなあと、父は苦笑いするばかりだった。

「父さんも母さんも、何してるんだろ。ぼく、もしかして寂しいのかな」

ぽつりと呟くと同時に首を振る。考えてみれば、次の満月には十六だ。婚姻出来る歳にもなって、親が恋しいのか。フロルは嘆息した。

「やめよっと。寝なきゃなー、お腹空いて眠れないかもだけど」

冠を外し、うだうだと管を巻きながら引き返す。
そのとき、少女が立ち止まったのは、本当にただの思いつきだった。何か、聞き慣れない物音を耳にしたような気がして足が止まる。

「――え?」

振り向いたとき、フロルは窓に見知らぬ人影があるのを見た。黒く短い前髪と、長く伸ばした後ろの一本結び。旅人が好む、革製の羽織物。
顔を上げた相手と目が合う。生意気に見える目つきに収まる琥珀の瞳が、こちらを見た。十代半ばほどの、しっかりした体つきの少年だ。

「……アレ? あれー? っかしいな、起きてるしー?」
「え、あ、うん……起きてる、けど?」

普通なら、悲鳴を上げるところだろう。年若い処女の寝所に、見知らぬ男が現れたのだ。しかし、フロルは決してそんな気にならなかった。
初めて会った気がしないのだ。むしろ、どこかで会った事があるようにさえ思う。人影は、そっか、と呟いて窓の枠に拳と顎を乗せた。
「伏せ」を強いられた子犬のようだ……目を瞬かせていると、初対面の少年はにかりと歯を出して笑う。鋭く発達した犬歯が見えた。

「や、この時間なら寝てるだろって話でさー。起きてたなら、それはそれで都合がいいや」

都合? そう聞き返そうとした直後、ゴチン、と音を立てて少年の頭が枠に突っ伏す。のめり込む勢いだった。
あまりの大音と悶える少年に驚き、ぽかんと立ち尽くしていると、今度は少年の頭の横に別の人影の片足が突き出される。

「ちょっと、あんたはさっきから無駄話ばっかり……何やってるのよ」

真っ白な髪だった。頬の横だけを長く伸ばし、後ろはうなじのあたりで切り揃えてある。賢そうな目つきに収まる藍色の瞳がフロルを見た。
体つきは薄く細く、突っ伏したままの少年とは真逆だ。力ある意志を感じさせる眼が、少年を一瞥した後で再度少女を見やる。
病的に白い肌だ。やはり、見覚えがあった。瞬きを一度して、フロルは小さく頷き返す。白髪の少女は、訝しむように眉根を寄せた。

「うう、い、いってー。何すんの、ねーちゃ」
「黙りなさいよ。余計な事言わないで」

再びゴチンと音が鳴る。少年がうつ伏せを強制されたのは、この白い少女に頭を踏まれたからだと気がついた。
不仲なのか、それとも。一人慌てふためくフロルに、少女は「大した事じゃないわよ」、とあっけらかんと言い放つ。

「この仔は頑丈に出来てるの。そんじょそこらの生き物とは違うから、気にしないでいいわ」
「い、生き物? あの、おねえさんは……」
「わたし達の事はいいから。そんな事より、あんたも戸締まりくらいちゃんとしなさいよ、年頃の女性なんだから」

建て付けの悪い窓枠をがたがたと手で揺らしながら、少女は「造りの安い家ね」、と口を尖らせた。
分からない、何故自分は見ず知らずのふたりに説教されているのだろう。フロルは混乱で頭をぐらつかせながら、なんとか言葉を探した。
口ぶりからして、こちらに危害を加える気はないように見える。それどころか、声色からは一方的な親しみさえ感じられた。
やはり初対面の気がしない。躊躇いながらも、寝具の端に寄せていたクッションを二つ手に取り、床に置く。

「……あんた、何してるの」
「え? えっと、そんなところにいたって寒いんじゃないかなーって」
「おっ、気が利くー! いーじゃんいーじゃん、どーせだしゆっくりしてこーよ、ねーちゃごふぶばっ」

ラリアットが飛んだ。細腕に見えて、少女の方はだいぶん力があるらしい。

「はー……あんたって、ほんっとひとの話聞かないわね。莫迦なの?」
「えっ、うっ、よ、よく言われます……っていうか、おにいさん本当に大丈夫?」
「こいつの事はどうでもいいのよ、いつもの事だし。そうじゃなくって、わたしが言いたいのはね、」
「ううっ、し、死にそう。ねーちゃん、頭ブチすぎ――」
「――『ねーちゃん』? ふたりは姉弟なの?」

何やらバスケットを取り出そうとして、白髪の少女の動きが止まる。少年の方はあ、やべ、という顔をした。
何度目かの踵落としが降る。今度こそ頭を抱えて悶え苦しみ、果てには勢いづいて屋根から転げ落ち、少年の姿は階下へ消えた。

「って! ここ、二階!! おにいさんっ、」
「大丈夫よ、あいつ、莫迦だから死なないわ。それよりハイ、これ。足が速いから早く食べるのよ」
「えっ? ええっ!? ちょ、ちょっと待って、おねえさっ、」

少年は放置されたまま。こめかみに青筋を浮かせ、少女はフロルにバスケットを押しつけるように無理やり持たせる。
そのままくるりと背を向けると、彼女も白髪を棚引かせながら階下へ向かって飛び降りた。
下に巨大なクッションが敷かれている筈もない。遺体が二人分転がっているところを想像し、フロルは慌てて窓に駆け寄り、身を乗り出す。

「……えっ、あれ……?」

不思議な事に、眼下に死体など見つけられない。それどころか、壁をよじ登った痕跡や、梯子を掛けられた形跡すら存在していなかった。
ふたりは消えたのだ。フロルはバスケットを持ったままへたり込む。突然現れ、好きに喋りたてた後、ふたりは跡形もなく消えてしまった。
どこから来て、どこへ行ったのだろう。ふと、ひらひらと柔らかい何かが窓から室内に入り込み、フロルは手を伸ばしてそれを掴んだ。

「白い、羽根? 綺麗だなあ」

真っ白な鳥型の羽根だ。柔らかくふわふわとしていて、月光によく映える。何の気もなしに空を仰ぎ、フロルは目を見開いた。
……月の真下、黒い影がふたつ在る。それは、大きな翼を持つ何かの生き物だった。次第に遠ざかり、やがてその輪郭すら見えなくなる。

「なんだったんだろ……捕らわれのお姫様を助けにきた、魔法使いみたい……そうだ、バスケット。足が速いって、どういう意味だろう」

夜空から視線を手元に戻した。ひとまず白い羽根はテーブルの上に置いて飾り、その隣に押しつけられたバスケットを乗せる。
半ば、わくわくしていた。躊躇いなく籠を開いたフロルは、格子縞の布地にいくつかの金属製の筒が包まれているのを見て瞬きする。

「これ……スープだ。こっちは、パンと……お茶?」

見た事もない、金属製の筒。中にはまだ湯気を立てる手料理がたっぷりと入っていて、すぐさま少女は添えられていた食器にそれを移した。
複数の野菜と香草で丁寧に仕上げられた、琥珀色のスープ。焼きたてのふかふかした丸パンが数個と、不思議な色合いのお茶が一人分。
包みの中に、白いカードを見つけて手に取る。飾りもないシンプルな手紙には、「早く食べるように」、と簡素な言葉が一言記されていた。
このあたりでは珍しい、上質な植物繊維で織られた紙製のカード。文面は手書きの上に達筆で、しかし見覚えのない筆跡をしている。

「……う〜ん?」

どうしたらいいのか、フロルが困惑したのは一瞬だった。椅子に腰掛け、並べた食事のうち黄金に輝くスープを口に運ぶ。

「――美味しい」

蓋を開けたときから、とてもいい匂いがしていた。予想通り、スープはあまりにも美味で、残っていた眠気も動揺も消し飛んでしまう。
何故か、初めて食べた気がしなかった。窓際に現れた、あの不思議な姉弟と同じように、これに向かい合うのが初めてではないように思う。
とにかく一心不乱にスープを飲み、或いはパンをそれに浸して口に放り、夢中で腹を満たした。美味しい、美味しい、とんでもない。
あっという間に差し入れらしき品物が綺麗さっぱりなくなり、久々の充足感と満腹感に、ほうっと大きな溜め息が漏れる。

「あー、美味しかったあ! これ、誰が作ってくれたんだろう?」

こんなに美味しく、妙な懐かしさを覚える料理を味わったのは初めてだった。ついでとばかりに、若草色の美しい茶にも手を伸ばす。

「……ぇ、あれ? あれっ、ぼく……」

一口含んだだけで、何故か切なさに似た胸の痛みを感じた。香草だけで淹れられた茶を飲むのは、記憶の限りこれが初めての経験だ。
だというのに、胸が苦しい。丁寧に口に含み、繊細な香りごと丁寧に味わう。眼に滲んだ雫を拭い、カップが空になったところで息を吐く。

「ごち……そうさま、でした」

誰もいない空間で、姿も見えない何者かに感謝の言葉を述べた。バスケットに空になった食器類を収め、のろのろと階下に向かう。
水道水で容器を洗いながら、フロルは改めてあの二人組の姿を思い返した。白髪の美少女、黒髪の美少年……やはり、初対面とは思えない。

(おねえさんは、おにいさんに『無駄話』って言った。って事は、あの二人はぼくにこの料理を届けるのが仕事って事だよね。どうして?)

服装からして、彼女らは傭兵や旅人の類ではないかと予想する。実際に、少女は何度か少年に強力な蹴りを見舞っていた。
威力については、彼の悶絶ぶりが全てを証明してくれている。食器の水気を拭き取りながら、フロルは台所の小さな窓を見上げた。

「なんか、不思議なひと達だったなあ」

綺麗な羽根、懐かしく感じる料理と香草茶、二人の姉弟。なんだか胸が弾んでしまい、うきうきした足取りで自室に戻る。
着たままだった白い衣装から寝間着に着替え、バスケットを寝具のすぐ横に移し、ころりと寝転んだ。
寝付けないかもしれない、そんな思考とは裏腹に、睡魔はすぐにやってくる。これ以上ないくらいの心地よさを抱えながら、朝まで眠った。






帝都イシュタルより北、パーピュアサンダルウッド王国との境界付近に位置する広大な森、通称「迷いの森」。
その名の通り、一度踏み行ったが最後、二度と出られなくなるという迷宮じみた深林の更に奥に、立派な白亜の屋敷が一軒建っている。
木材と鉄筋で造られていた屋敷は、過去、それこそ数百年もの昔に白亜の大理石との混合建築物として生まれ変わっていた。
屋敷とその住民を統治する奔放な女主人は、今晩もだらだらと利き酒を楽しみながらの書類整理に勤しんでいる。
彼女がヒトならざる身であると知るのは屋敷の住民ばかりで、建物全体も不変の刻に慣れ親しみ、ゆったりと過ごせる環境へ変化していた。

「――そうかい、では『彼女』には無事受け取って貰えたのだね。君達も遠路大変だっただろう、手間を掛けてすまなかったね」

屋敷の住民には、それぞれに自分の部屋というものが振り分けられている。
半月も間近という静かな月夜、自室で何らかの作業に追われる青年もまた、女主人にこの地に在る事を許された存在だった。
いくつかの摘み取った香草を籠に並べ、月光の元にさらす。そうする事で、特に月と相性のいいハーブの効力が増すのだと、彼は話した。

「大変だっただろう、って、そー言うなら、自分で行った方が早かったんじゃないんすっかねー?」

うさんくせー、とは口にしない。とは言え、わざとらしい口調からして、考えている事は青年には筒抜けだろうと予想していた。
答える代わりに、青年の顔に明らかな不満と不快の感情が滲む。へっ、と鼻で笑う黒髪の少年の頭に、今度はやや加減した手刀が降った。

「よしなさいよ、『珊瑚』。自分じゃ行けないへたれだから、わたし達に頼んだんでしょう。いちいちそんな嫌み、言わないでやって頂戴」
「って。だってさ、『真珠』ねーちゃん。やっと会えるってのに、コクチマチだか知らないけどほっとくとかさー。タマついてんのかって」

珊瑚と呼ばれた黒髪の少年が皆まで言い終えるより早く、白髪の少女の手刀がもう一度振り下ろされる。
力が強かったのか、少年は頭を抱えてソファの上で悶絶した。少女は小さく嘆息すると、テーブルの上の紅茶を口に運ぶ。
白髪の真珠、黒髪の珊瑚。ふたりはフロルの寝室を訪ねた姉弟に違いなかった。気まずそうに顔を逸らした青年を、藍色の眼がじっと見る。

「珊瑚の言う事も一理あるわよ。どうしてあんた自身が、あの娘に料理を運んでやらないの」
「……いや、それは。告知に影響が及ぶかもしれないからと、僕は君達に事前に話しておいた筈なんだがね」
「『言い訳』。そんなの、体のいい言い訳じゃない。会いに行く度胸がないから告知天使に責任を転嫁しているんでしょう。情けない男ね」
「真珠。君、今夜はずいぶんと辛辣なものだね」
「当然。わたし達は、彼女が生まれてくるのをずっと待っていたのよ。それを、ガブリエルの不在を理由に先延ばしされるなんて」

真珠の仕草は一つ一つは穏やかだが、物言いは酷く毒を帯びていた。線が細く、背丈が控えめな少女を前に、青年の手の動きが止まる。
苛立ちを隠しもしない双眸が、二色の瞳を睨んでいた。青年は黙ってそれを見つめ返したが、鼓膜が捉えた別の音に反応して視線を逸らす。

「あ、あのぅ……夜遅くにすみません、藍夜さん。真珠ちゃん達が戻ったと聞いて」

扉を遠慮がちに開いたのは、屋敷に仕える天使の娘、アンブロシアだった。話を聞いていたのか、青紫の瞳に戸惑いの色が伺える。

「アクラシエル! 大丈夫よ、きちんと届けたから。あの娘の事だもの、あんたのパンなら大好物の筈よ」
「そ、そうでしょうか。それならいいんですけど……でも、やっぱり緊張しますね? 何せ、『器が違う』んですから」
「あてて……やー、オールオッケーじゃん? 出てくるときちらーっと見たけど、喜んで食ってたし。次は羊肉のローストとかいいかもね」

こうまで態度が露骨なのも如何なものか。藍夜と呼ばれた夜色髪の青年は、アンブロシアと笑みを交わし合う姉弟の姿に頭を抱えた。
こちらを見向きもしない。どれほど「彼女」が彼らにとってかけがえのない存在か、ここにきて再度思い知らされたような気にさせられる。
嘆息を漏らした最中、またしても部屋の入り口から物音が聞こえた。気配からして、相手の正体は分かりきっている。

「やあ、ウリエル。とんだとばっちりだね」
「やあ、サラカエル。そんなつもりは、なかったのだがね」

同じ夜色の長髪に、配置が真逆の二色の瞳。サラカエルとは、藍夜にとっての対の存在に相当する天使の名だった。
そもそも、藍夜というのは自身のあだ名のようなもので、実際は高位天使ウリエルが正式名称に相当する。
対天使サラカエルは、暗色のベストを着込み、上品な色合いの背広を羽織って、扉に拳を押し当てたまま首を傾げてくつくつと笑っていた。
彼は昔から「嫌みを言わないと死ぬ」、と例えられる程度に性格が悪い。片眉を上げ、サラカエルは一同の顔を見渡して目を細める。

「ふん。フロルの出生を知って手を出さずにいたのは、ヘラ様の用命だっただろ。つまり全員が臆病者じゃないか、都合がいい脳細胞だな」
「……サラカエル。君も少し、言葉を選んでくれたまえ」
「対を悪しように言われたらね……明日も配達する予定なんだろ、全員、夢の世界に旅立った方がいいんじゃないかと思ってね」

嫌みと皮肉の二重苦。真珠が苦い顔を浮かべて歯噛みした。対天使とこの白髪の神獣は何故か相性が悪く、度々こうして揉めている。
いつもは涼しい顔で毒素を受け流すサラカエルだが、今晩は主人であるヘラの部屋から出てきて応戦するつもりであるらしい。
服装が以前よく纏っていた喪服――返り血を気にせずに済む漆黒の仕事着――でないあたり、本気でないという事は藍夜にも理解出来ていた。
しかし、彼の本来の天使銘は「殺戮」である。反抗ないし反論された日には、いつ逆鱗に触れてしまうか分からない。
アンブロシアはいち早く口を閉ざし、珊瑚は僅かに体を固くした。命が惜しいのは、長寿か不老の身である住人とて変わる事はない。

「いや、真珠の言う通りだ。僕は、彼女に嫌われる事が……いや、それ以前に、忘れられた上でなお拒絶される事が、恐ろしいのだよ」

ウリエル――藍夜は、サラカエルの直球過ぎる言い方を窘める。気持ちは有難いのだが、彼は昔から言葉がきつくなる傾向があったからだ。

「やあ、そうは言うけどね、ウリエル。転生を経て器が構成し直されたんだ、記憶が失われている事は前提じゃなかったかな」
「承知しているとも。しかしね、もし彼女に『ニゼル』の記憶が欠片でも残っていたなら、この問答こそ咎められてしまうというものだよ。
 『どうせ旅をするなら皆仲良く』、『悩み事があるなら聞くから』、それがニゼルのやり方だったろう。僕達は、そこを尊重しなくては」
「ふん。間抜けらしい言い分だな」
「ニゼルだからね。彼の考えている事など、まるで読めないというものさ。君も分かっているだろう、サラカエル」

フロル=クラモアジーは、輪廻転生を経て再構築させられたという、特別なヒトだった。その真相を、この屋敷に住まう者は皆知っている。
フロルの前世……「ニゼル」と呼ばれた青年は、かつて彼らの友人であり、旅を共にした仲間の一人でもある、ごく普通の人間だった。
好奇心旺盛で忙しなく、しかし飄々とした言動の裏に知性が垣間見え、他者を惹きつける才に異常に恵まれた魅力的な羊飼い。
藍夜にとっては、様々な事情から良き理解者、そして信頼に足る心友でもある。また、ここに居合わせた者もニゼルには世話になっていた。
皆が皆、ニゼルの再誕を心待ちにしていたのだ。思い入れの深さから、半ばフロルの取り合いになっていると藍夜は主張する。

「僕が言えた義理ではないがね、飢える彼女に食事を与える事も、僕達のエゴだ。その場しのぎというものさ、救いを与える行いではない。
 しかしね、放っておく事が出来るかい。手出し無用とヘラ様は仰るが、告知がいつ成されるかは不明のままだ。僕はとても無視出来ない。
 告知を受けたフロルが何かしらの天使として覚醒し、それでも僕達と過ごした日々を忘れても。ニゼルの魂は、慈しんでおきたいのだよ」

たとえ、生まれ変わったニゼルがニゼル=アルジルとはならなくとも。せめて、笑って送り出すか、屋敷の中に暖かく迎え入れてやりたい。
藍夜は、自己中心的な思考を吐露して小さく肩を竦めた。もしフロルが事の真相を知ったとき、彼女に軽蔑すらされるかもしれない。
「こういう関係性を人間界ではストーカーと称するのだろうね」、投げやりに放った冗談を笑ってくれる者は、誰もいない。
物言いたげな顔で嘆息したサラカエルを盗み見て、藍夜は苦笑する。頑固で意固地で、所有欲が強い性分は、結局変える事が出来なかった。

(もし、フロルの告知にニゼルの要素が僅かでも混ざるのなら……引かれるか、呆れられるか。どちらかだろうね)

皆が皆、それぞれにニゼルを慕っている。それが救いとなるのか、仇となるのか。現状では、藍夜には予想はおろか判断さえつかなかった。





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 UP:19/06/15