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楽園のおはなし (3-1)

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 There seems to be the paradise in the point of the dusk ... (恐れすらも祈りに変えて)


『むかしむかし、空の向こうにとても偉い神様が住んでいました。神様は仕事が多くて大変なので、お手伝いさんを雇う事になりました』
『ぱぱー、おてつだいさんって、なーに?』
『ふふ、続きからね……お手伝いさんは、天使と呼ばれていました。書類を運んだり、人間に良い知らせを伝えたり、天使様は働き者です』
『ぱぱといっしょね、おしごと、がんばってるのね』
『そうだよー? 天使様はね、フロル。神様を一生懸命手伝っていて、人間の事も守ってくれるんだ。フロルの事も見てくれているんだよ』
『ぱぱも? ぱぱのことも、みてくれてる? ぱぱはおしごといそがしいのよって、まま、ゆってたよ』
『うん……大丈夫だよ。この町は昔、天使様が人間に紛れて住んでいた町だから。ほらフロル、ご覧。この絵は天使様を描いたものだよ』
『わあ、きれいー! ねえ、ぱぱ。ふろるも天使様にあえるかなあ』
『……そうだね。いつか、フロルがお星様になるとききっと会えるよ。天使様にもなれるかもしれないよ……もちろん、パパもね――』

――子供というのは残酷な生き物で、あの頃、両親が既に離婚の危機を迎えていようなどという事は夢にも思わなかった。
読み聞かせを担当していた父が、いつも寂しそうに笑っていたのを覚えている。膝の中に埋もれながら、子供向けの神話に夢中だった。
よく、夢を見る。「ぼく」は一人で屋根裏の窓際に立っていて、ある日、そこにひとりの天使様がやってくるんだ。
真っ白い月の光を背に浴びて、大きな翼が光っていて……「ぼく」がそっと手を伸ばすと、その天使様も手を差し伸べてくれた。
絵本に描かれているような、綺麗な天使様。月明かりが眩しくて、どんな姿かは分からなかったけど、素敵なひとだって事だけは覚えてる。
……ああ、でも、天使様の事を「ひと」ってたとえちゃうのは失礼なのかな?
でも、窓の外にはとても静かな夜が広がっていて、このまま本当に天使様の世界に連れて行ってくれないかなって、夢を見る度に思うんだ。

『――やあ。ようやく、……』

どんなに寂しい夜だって、怖くなかった。切れ長の目を柔らかく微笑みの形に変えて、「ぼく」の手を握り返してくれる天使様がいたから。
たとえどんなに深い闇夜の中でも、ちっとも怖くないんだって……ひとりなんかじゃないんだって、手を伸ばして、教えてくれるから。






「……ル、フロル! 起きなさい、いつまで寝てるの!」

階下から聞こえた怒声に、心地よい眠りを強引に解かれる。と、思いきや、寝ぼけ眼で天井を見上げた途端、盛大に腹が鳴った。
いつからまともにゴハンを食べてないっけ――回らない頭を働かせようとして、やはり止める。辛うじて身を起こして、目をこすった。

「……今日は、教会のあたりまで天使様と一緒に行けたのに」

幸せな夢と裏腹に、現実は最悪の目覚めだと嘆息する。
木製の寝具と小さな机、一人掛けの椅子、中身が空っぽに近い本棚。変わり映えのしない風景を見渡した後、フロルは再び溜め息を吐いた。
簡素な屋根裏部屋は、年頃の少女が寝起きするにはあまりにも狭く地味で、可愛らしさや彩りといったものにも欠けている。
本当なら、階下の子供部屋には父が誕生祝いに買ってくれた女の子らしい服やぬいぐるみが残っている筈だった。
しかし、両親の離婚以降、母の浪費癖は悪化する一方で、フロルの持ち物は殆んどが食べ物に姿を変えられてしまっている。
背に腹は変えられないのは確かだが、空になった子供部屋は、今や母の高級な服や装飾品で溢れかえっていた。現実とは、こんなものだ。

「フロル! あら、起きてるんじゃないの。返事くらいしなさい」
「……母さん、おはよう」

何が悲しくて、寝起き直後に派手すぎる化粧と派手すぎる服に身を包んだ、異臭放つ母親を直視しなければならないのだろう。
強すぎるバラの香りに顔をしかめたくなるのを本人なりに懸命にこらえて、フロルはじっとりとした恨みがましい視線を母に向けた。

「早く降りてきなさい。お母さん、これから隣の都市に出かけるから」
「ええ? また? 昨日、帰ってきたばかりじゃない」

金ぴかに光るアクセサリーを着けながら、母は浮き足立った様子で娘を促す。フロルはうんざり半分、呆れ半分に、つい唇を尖らせた。

「仕方ないでしょう? 私は、働いているんだから。あなたの為なのよ。だいたい、こんな田舎暮らしだから……」
「ねえ、母さん。出るなら出るでいいけどさ、買い物くらいしてきてって言ってるよね? お金あるんでしょ? 食料庫、もう空なんだよ」
「フロル! あなたったら、いい歳にもなって食べ物の事ばっかりね。少しは節制したらどうなの?」
「いい歳……ぼく、まだ十五才なんだけど。そりゃ、もうすぐ十六だけど。って、そうじゃなくて、それならむしろ母さんの方がっ」
「この子はまた、女の子なのに『ぼく』なんて……って、いけない、あとでね。お母さん、お迎え待たせてるから行かないと」
「あっ、ちょっと! 母さん!」

いつもこうだ、少女は眉根を寄せて嘆息する。母の背中は、自分がベッドから降りるより早く廊下へと消えていった。

「起きなさいって言っといて、なんなの、もう」

言ったところで、本人に意志が伝わらなければ意味がない。のろのろと着替えを済ませ、扉のすぐ横に形だけ置かれた鏡の前に立つ。
艶もなく血色の悪い肌、やせ細った髪、乾いた唇。お世辞にも、いい状態とは言えなかった。悲しげに顔をしかめ、唇を尖らせる。
寝間着の皺を指先で伸ばし、寝癖のついた髪を手櫛で整えて階下へ向かった。夏空によく似た空色の髪が、鏡の端を滑っていく。






フロル=クラモアジーは、帝都の北西、痩せ地の広がる田舎に生まれた。彼女が生まれたとき、町は俄かに騒がしくなったという。
それというのも、人口減少の影響で近親婚の風習が根付いていたこの地では、殆んどの者が紫を帯びた、くすんだ深紅色の髪をしていた。
ことにフロルの両親はいとこ同士による婚姻関係にあり、件のクラモアジーの色がより濃く毛髪に出てしまっていたという。
父方の祖は地主にあたり、血を強く引くフロルも同じ髪を有して生まれてくる筈だと、誰もが信じて疑わなかった。

『――わたくしは、天より遣わされし、告知を成す者。汝の胎から生まれてくる娘は、神の祝福に守られた特別な子……神の御使いである』

まもなく子が産まれるであろうという日の深夜。産院に眩い金と翠の光が降り注ぎ、フロルの母親と助産師らは、室内に天使の姿を見る。
黄色の髪を持つ、美しい女性体の天使。ガブリエルと名乗ったそれは、生まれる子が特別な存在である事を告げ、姿を消した。
産院を包む光を見た住民や当時の神父は「生まれる子は神の子だ」ともてはやし、少なくともその日より七日間はお祭り騒ぎだったという。
そして実際にこのフロルという少女は、この地方でも、それこそ帝都ででも見かける事のない色彩の容姿を持って生まれてきた。
空色の髪、赤紫の瞳。夏空に宝石質の尖晶石を散らしたようだと賞賛され、後に彼女はそれはそれは美しい姿へと成長を遂げてみせる。

「……て、お祭り騒ぎだったのも美少女ワッショイしてたのも昔の話でしょー? その神の子様は、今では飢え死にしそうなんですけどー」

干からびた芋の茎を指で摘まみ上げながら、フロルは空っぽ同然の食料庫の前で嘆息した。「神の祝福って何なの」、と自虐的に鼻で笑う。
同時に悲しいくらいに大きな音を立てて、腹が鳴った。お腹が鳴るうちはまだ大丈夫、そう自分に言い聞かせながら裏口に回る。
嫌みなくらいに空は晴れ渡っていた。流石にまだ昼前の筈だと、雨雲の欠片すら見当たらない天を仰いで目を細める。

「あーあ、飴玉でも降ってこないかなあ……っあいったあ!」
「よー、神子様。今日は遅起きなんじゃねえの」

あくびが出かけた瞬間、頭に何かがぶつかった。慌てて両手で受け止めると、それはふかふかと湯気を立てる、ふかしたてのジャガイモだ。

「『ウメ』! 痛い、っていうか食べ物投げないの! ……いいんですー、神子様は閉店営業中だからー」
「って、なんだよそれ、朝からやる気なさすぎじゃね? どうしたんだよ、一体」
「どうしたも何も、母さんが帰ってきてたのー。相変わらず、身支度してすぐ隣の都市に行っちゃったけどねー」
「お袋さんが? っんだよ、また置いてかれたのか。どうせ朝飯まだだろ、いいからそれ食っちまえよ」

芋を投げつけてきたのは、赤みを差した灰色の髪の青年で、名をハイウメという。畑仕事をこなす為の作業着が、よく似合っていた。
首から掛けた手ぬぐいで汗を拭き、早速とばかりに芋に齧りつき始めた少女を見て、彼はにかりと歯を出して笑う。
彼もまたフロルのように異端の髪をしているが、生まれたとき天使騒動などは起きていなかった為、普通の住民として育てられていた。
そもそも、彼には信仰心というものがない。祖先は教会の建築に携わった名匠だと聞いているが、そんな気配は見いだせないまま今に至る。

「どうだ、美味いか」
「うー、塩かバターが欲しいー。芋は美味しいけど、全然味がしないよー」
「神の遣いだろ、塩くらい降らせとけって」
「またそういう事言って。神父様に怒られても知らないからね?」
「俺は親父達みてえに懺悔だの告解だの、しに行ったりしねえもん。顔合わせなけりゃ、怒られるって事もねえだろ」
「もー。ウメって本当、神様とか信じてないよねー! いつか罰が当たるんだから」

ハイウメは、にやにやとからかい半分に笑った。二歳下である幼なじみが神の子として扱われる現状を、彼はいつも鼻で笑い飛ばしている。
「苦しい時に一番頼りになるのは他でもない自分自身。辛い時に神は救ってくれた試しがないから」、事ある毎に零される彼の愚痴。
教会と密接な関係がある彼の家は、今や町の詰所と化していた。連日のように親戚や近所の大人が集まり、神への祈りと称して酒宴を開く。
フロルが生まれる前から、ずっとそのような習慣が続いていたのだと、いつの日かハイウメは苦い顔で吐き出していた。
自分に害がなければそれで、そう考えていたフロルだが、ハイウメもまた両親の世間体の為に無理を強いられていると知り、考えを改める。
子供に農作業や家事を押しつけ、自分達は家の中で楽しく酒盛り……大人って汚い、そう呟く少女を、青年が窘める事も少なくなかった。

「罰が当たるのは親父達だろ。とか言って、もう十八年経ったけどな……あーあ、神様なんざクソくらえだぜ。こき使いやがって、ったく」

悪態をつきながらも、ハイウメは今日の肴に変わる予定の作物を地面からもぎとる。口をせっせと動かしながら、フロルはそれを見守った。
芋を食べ終えた後、畑の草むしりを少々手伝う。ハイウメは「神子様が手を汚すんじゃねえよ」と口を尖らせたが、フロルは無視した。
ご馳走になっておいて「神の子だから」と平然としていられるほど図太い性格はしていない。裾に付いた砂を払い落としてから立ち上がる。

「さてと、お仕事しに行かなくっちゃー」
「教会か。頑張れよ、神子様」
「もー、その神子様っていうのやめてよ。そんなんじゃないから!」

まだ昼前だというのに、ハイウメの家の奥から賑やかな笑い声が聞こえた。余計な一言を口走りそうになり、フロルは口を閉じる。
少なくとも、ハイウメはまだ両親や町を見捨てたわけではないように思えたからだ。芋の礼を告げて自宅に引き返した。

「……真っ白い服に、月桂樹の冠。形だけなんだよね、神子様って」

屋根裏部屋の壁に掛けてある、専用の仕事着に手早く着替える。装飾も何もない簡素な白いワンピースと、月桂樹の枝葉で編まれた冠。
毎日、昼と夜の食事前、町の中央に位置する教会に赴き祭壇の前に立ち、神子という名の偶像として棒立ちになるのがフロルの勤めだった。
この冠とて、夕方の祈りの帰りに自ら手折った枝で手作りしたものだ。使い終えた冠については、教会の若い神父に処分を任せている。
若い神父。彼もまた、とても美しい青年だった。それだけでなく、謙虚で勤勉で、親を亡くした子供達を引き取り、養育までこなしている。

(天使様、神子様って、神父様みたいな人の事を言うと思うんだよね。でも……夢に出てくる天使様ほどじゃ、ないかなあ)

頭を振った。ベッドの隅に置かれた時計を見て、初めて時間が危うい事を知る。慌ててスカートの裾をたくし上げ、階段を下りて外に出た。
ふとハイウメがごちゃごちゃと叫んでいるのが聞こえたが、フロルは聞こえないふりをして、垣根をひょいと飛び越え、ひたすら走る。

「わー! 遅刻だ、遅刻! もー、母さんが変な絡み方してくるからっ」

いや、よく考えてみれば寝坊しかけたのは自分の方だった。母さんに恩売っちゃったよ……小声でぼやきながら、目的地の門をくぐる。

「ああ、フロルさん。こんにちは、いいお天気ですね」

出迎えたのは、花壇の手入れに勤しむ黒い平服に身を包んだ青年だった。この地方の生まれではない証拠に、亜麻色の髪をしている。
穏やかに微笑む彼こそ、帝都から派遣されてきた今代の若き神父だった。彼の鮮やかな瑠璃色の瞳の事を、フロルはとても気に入っている。

「神父様、遅れてごめんなさい。あのー、典礼には間に合ってたり、間に合ってなかったり……します?」
「大丈夫ですよ、僕も今日はゆっくりでしたから。子供達もご飯を済ませたばかりですから、のんびりいきましょう」

じょうろを聖書に持ち替え、青年は教会の扉を開けた。背丈はフロルの頭一つ分ほど上で、思い返せば、夢に出てくる天使と同じくらいだ。
あの天使様もこんなイケメンって顔をしてるのかな、神子として不謹慎な事を考えながら、鍵盤楽器の横を通って祭壇の上に立つ。
のんびりと口にしていただけあって、神父は今から参祷者に貸し出す聖書や蝋燭、パンやぶどう酒などを準備し始めた。
周りの大人達に比べれば、彼はとても真面目に働いているとフロルは思う。入室してきた子供達と挨拶を交わしつつ、髪などの身を整えた。

「では、これより第一時の典礼を始めます。皆で歌い、祈りましょう」

白い専用の服を着た子供達が、一斉に聖歌を歌い出す。神にこの祈りが本当に届いているのか、フロルには分からなかった。
神様が実在して、毎日の典礼を見聞きしておられるのなら、何故自分やハイウメはひもじい思いをさせられているのか。
孤児らを引き取り、自身の寝食の時間を捧げる神父ステファノに、何故もっと楽な暮らしをさせて下さらないのか。
否、それ以前に、この町の環境がよくならないのは何故なのか……夢に出てくる、男性性の天使の姿を思い出す。

(ぼく達を助ける分だけの余力がないのかなあ。ラグナロクはあくまでおとぎ話だって言うけど、遺跡なんかは町外れにもあるんだし)

ぼうっとしていると、視界の端で何かがひらひらと動いているのに気がついた。見ると、神父が困った顔で小さく手を振っている。
はっとして、フロルは自分に任されている祈りの言葉を口にした。聖書として広く知られる書物、エノク書。
中身は、神子として祀り上げられている最中に嫌というほど読み聞かせをさせられた為、全文を暗唱出来る区域に達している。

「そして、主は仰りました。ヒトの子よ、汝等が祈り、隣家の者に感謝し、己が行いを悔い改めるとき、其の魂は救済の手を取る……」

救済とは、何を意味する言葉なのだろう……何度も聖書を読み返しても、暗記した文面を心で追いかけても、望む答えは見つからなかった。
考えるだけ無駄だろ、いつかのハイウメはそう言って鼻で笑い、己の心を律して向き合う事で見えてきますよ、とステファノは微笑む。
どちらの言い分も正しく、また、どちらも自分が求める解ではないとフロルは思った。
同時に、この町で神子様として生かされている以上は、答えは必ず見つけ出さなければならないもののように思う。

(神様って、天使様って、なんなんだろう。ぼく達と何が違うの? どこにいて、どこからぼく達を見てくださっているんだろう)

「満天の星の夜、美しい天使が現れ、フロル=クラモアジーは特別な子だと口にした」。
たったそれだけの伝説に、町中の皆が踊らされているように思えて仕方がない。もちろん、自分自身もそうだ。フロルは顔を俯かせる。
そもそも、自分がその告知現場に居合わせたわけでもないのだ。母や助産師達は、「光が眩しくて容姿は詳しく見ていない」と話していた。

(ぼくって何なんだろ? 神子なら夢のお告げとか、あってもいい筈なのに……なんで、天使様と『外』に行く夢ばっかりみるんだろ)

詳細が分からないものに、どう祈りを捧げれば良いのだろう。惰性と慣習で事を進めているのが悪いのだろうか。
腹を空かせながらも、毎日指定の時間に教会に足を運び、また、病や歳で家を離れられない者の元を訪ね、聖書の暗唱と聖歌を捧げた。
日々、自分達は十分に努力し、祈り、謙虚に勤勉に過ごしている。神様も天使様も、それを評価してはくれないのだろうか。

『――やあ。ようやく、……』

あの天使は、自分を知っているような口ぶりだった。それが何を意味しているのか分からないのも、少女の不満の原因となっている。
目に見えないもの、手に入れられるもの。それらの比重が、あまりにも合っていないように思えた。口を尖らせて、フロルは聖書を抱える。
教会での活動を終えたら、次は安否確認も兼ねた典礼の訪問を勤めなければならない。ステファノに礼をして、教会を後にした。

「神子、じゃなくて神父、なら、まだ話は分かるんだけどなあ。もしかしてこんなだから、救済されないのかな」

信仰心がないというわけではない。ただ、身近であると示唆される未知なる存在に、個人的な興味と好奇心がうずいてしまっているだけだ。
母に知られたら激怒されるかもしれない。何故なら、あのひとは「神子を産んだ母親」という知名度を自慢の種にしているからだ。
自分は本当に、神子や神父といった神職には向いていない。盛大に腹を鳴らしてから、フロルは独居老人の家の門を叩いた。
努めて笑顔を浮かべ、柔らかな声色で聖書を唱え、貧しい彼の生活を慰める。皺だらけのやせ細った老爺は、寝具の上で弱々しく微笑んだ。
町に暮らす人間は、半分は贅沢に肥え、半分は貧困に飢えている。どうすればいいのか、年若い少女には、皆目見当もつかなかった。

「おじいちゃん、こんにちは。具合はどう? お祈り出来そう?」
「ああ、ああ、神子様。どうか、儂を早く妻の元に送って下され。儂はもう、疲れたのです」
「……パウルおじいちゃん、そんな事言わないで。おじいちゃんがいなくなっちゃったら、ぼく凄く寂しいよ」
「ああ、神子様。それでも儂は、もう十分に苦しんだ。病を治す金もない、妻と同じだ。誰かを恨むより早く、旅に出てしまいたいのです」

草葉の露とはよく喩えたものだ。一人、また一人と見知った者が旅に出る。
この町は少しずつ「死」に向かっている……フロルには、そう思えて仕方がなかった。

「なんなんだろ。神子様って、なんなんだろう……ねえ、天使様」

彼女は知らない。そうして悲哀と非力さに嘆く様を、ふたつの影が見守っている事を。彼らがしきりに、互いに何かを囁き合っている事を。
フロルが自宅に向かう黄昏時には、ふたりもまた、木々や草葉に身を潜めながら、人知れずその背を追っている。
その日から、月は新月から満月へと向かい始めていた。件の「救済」が近付いている事を、フロルのみならず、町の誰もが気付けずにいる。





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 UP:19/06/10