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モンスターハンター カシワの書 上位編(52)


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「おや、アンタたち。落ち込んだって時間は待ってくれないニャよ?」

二人と一匹の狩り人は、そうして再び顔を上向かせる。
声をかけた張本人、アイルー屋台の女将はいつものように前脚をちょいちょいやって「ハイ、注目」と一行の視線を集めることに成功していた。
今日も金の巻き毛が優雅に煌めいている。特等席代わりの空樽の上で、彼女はニパリと気さくに笑った。

「もっとシンプルに考えたらいいのニャ。今のアンタがいるのはそのハンターのお陰、それも一つの縁ニャ。そう考えたら自然と答えは見えてくるはずニャ」
「そうか! つまり……どういうことだ?」
「って、分かってないんじゃないですかカシワさん! そうっすね……初心に返る、そのへんすかね?」
「さぁて、正解は? ……そこを考えるのもアンタたちの仕事ニャ。アタシはヒントを出しただけ、ホラ、腹が減っては狩りは出来ぬニャ!」

テーブルに所狭しと並べられた料理を差し示され、カシワたちはそれぞれ顔を見合わせる。
と、ここでクレタが未だに泣きべそをかいているアルフォートにサッとハンカチを手渡した。曰く、胸元にしのばせたハンカチは紳士の嗜みであるらしい。

「というか、カシワさんのオトモはボクと姉様に直接関係ないじゃないっすか! なんで一緒になって泣いてるんすか!?」
「あー、アルは優しいからなあ」
「優しいとかそういう問題じゃないっすよね? 思考放棄しないでくださいよ……君もさっさと拭いくべきです!」
「ぶ……ぶえっ。ご、ごべんなひゃいですニャ……」
「また泣くし! カシワさんも何ヘラヘラ笑ってるんです!? オトモの管理くらいちゃんとしてくださいよ!!」

わあわあ喚き散らしながらも、若者はオトモの涙とも鼻水とも分からない謎の汁を拭ってやっている。
やっぱり根は悪い奴じゃないんだよなあ、後輩狩人は常のようにクレタの主張を流しつつ、ウンウン頷きながら席に着いた。

「ああ、余計に疲れたっす! なんだってボクは、あの人の話をカシワさんなんかに……!」
「クレタさんにとって、大事な人、大事な思い出だったんですニャね。思い出させちゃって、ご、ごめんなひゃ……」
「また泣くんすか、涙腺診てもらった方がよくないすか!? もういいっす! カシワさん、仕事行きましょう仕事! こうなったら暇をなくした方が、」
「そうだな……クリノスは帰ってきてないし、だからってステラに聞こうにも先に行ったみたいだしな。どうするかな」
「し、信じられない……龍歴院つきは多忙なことで有名なのに。まさかここで食事だけして仕事はサボる気なんすか、流石カシワさん、だらしないっすね!」

だらしなくしたつもりも仕事をサボる意図もないのだが、クレタの目にそう映ったなら仕方ないな、とカシワは思う。
しかしながら、ハンターランク昇格のために必要なクエストのリストは今現在手元に残されていなかった。
相棒がまとめて回収していったのか、あるいは笛吹きが誤って持ち去ったのか。ここは受付嬢さんに聞いてみるか、と重い腰を上げかけた、正にそのとき。

「――おや、基本に立ち返る話をもう忘れたのニャ? 大事な相棒は、なにも狩り友だけとは限らないのニャ」

配膳係のアイルーにデザートを運ぶよう指示しながら、屋台の女将はまたしてもお節介という名の世話を焼いてくれる。
彼女の眼線につられるように、狩人たちは各々振り向き、目を瞬かせた。当然ながら、二人の背中と腰には最終強化未到達の得物がそれぞれ提げられている。
カシワの片手剣は斬竜ディノバルドのもの、クレタの太刀は姉の模倣で雌火竜リオレイア製だ。
氷海帰りの後輩狩人と違い、村に残っていたためか若者の太刀はすでに綺麗に手入れがなされた状態で、陽光の下で艶めいていた。

「武器の強化ですニャ!」

アルフォートが誰よりも早く明るい声を張り上げて、カシワはむず痒さと誇らしさに彼の頭を撫でくり回す。
クレタはクレタで、和やかな一人と一匹に呆れつつオストガロア・ケーキ温暖期仕様の皿を無意識に手に取った。直後、訝しむ視線を女将に返している。

「待って下さいよ、なんでボクがカシワさんと一緒に素材を集めなきゃいけないんです? カシワさんなんてボクの足手まといになるに決まってるでしょう」
「なあ、クレタ。そのケーキ美味いだろ、女将さんオリジナルの裏メニューらしいぞ」
「そんなこと今誰も話してないですよね!? ま、まあ、確かにちょっとは美味しいですけど……」
「おやおや、すっかり仲良しニャ。さぁて、アンタたち。腹ごしらえが終わったなら次は仕事ニャ、食べたぶんキチンと動かないと体に毒クモリニャよ!」

なんとなく流されてしまった――互いにちらと視線を投げ合いつつ、後輩狩人と朽葉色は席を立つ。
龍歴院前まで足を伸ばし、共用ボックスを覗きああでもないこうでもないと素材を見せ合った後、採集も並行できそうな無難な狩猟クエストを選び取った。

「討伐クエストか――場所は沼地、ま、また『飛甲虫大量発生』なんだな……」
「また、って前回がどんなだったか知らないっすけど虫素材が稼げるクエストって貴重っすよ? カシワさん、ちゃんと毒けむり玉持ってきてくださいよ」
「ニャイ……旦那さん、ボクも『クルプティオス湿地帯』は初めてですニャ。きっとジメジメしてるから、気をつけないとですニャ」
「うー……毒けむり玉かー……あれ苦手なんだよなあ、当てるの」

クエスト難易度は上位の星五。いつかの渓流で散々駆け回った記憶とアオアシラの乱入とを思い出し、カシワはげんなりとして嘆息する。
一方で、クレタは自作と思わしき狩猟道具を――調合素材分も含めて――せっせと山ほどポーチに押し込み顔を輝かせていた。
なんでそんなに嬉しそうなんだ、半ば投げやりに尋ねた後輩狩人に、甲虫種狩りくらいならまだ楽ですからね、朽葉色は気楽な口調で明るく返す。

「大型なんて、センパイみたいに素材好きな人やゲリョスマンさんみたいな物好きにやってもらった方がいいんすよ。ボクは遠くから見てるだけで十分です」
「うん? クレタ、お前今さらっと酷いこと言わなかったか?」

武器を無属性のハンターナイフに変え、氷塊相手に健闘したプロミナーを加工屋に托してから、カシワはクレタを追って飛行船に飛び乗った。
ロハンの掛け声に合わせ、すぐさま庭園を発つ。他の飛行船とすれ違いざまに手を振ると、甲板にたむろしていた何人かのハンターが手を振り返してくれた。

「だってそうじゃないですか、誰しも大型モンスターや狩りそのものが好きとは限らないでしょう? ボクみたいなハンターだって探せばいるはずです」
「あー、ゲリョスマンが聞いたら絶対からかわれるやつだな。それ」
「あんなふざけたセンス皆無の人のことなんて知ったことじゃないっすよ。だいたい、ボクは今回の仕事だってあんまりやりたくないんです」
「虫が嫌いなのか?」
「嫌い……っていうのもありますけど、沼地ってジメジメベタベタじゃないですか。髪が崩れちゃうんですよ。あと、単純に数が多くて面倒っす」

沼地、飛甲虫、環境不安定。そういえば沼地に乱入する大型って誰なんだろうな――依頼書が飛ばされないよう指に力を入れながら、後輩狩人は首を傾ぐ。
アルフォート同様沼地初心者であるカシワに目もくれず、若者は移動開始した直後でありながら不満たらたらといった様子だった。
クリノス、ユカ、マルクス、ステラ、アトリ、ゲリョスマン。思い返せば、これまで狩り場に付き添ってくれた面々は自分より経験豊かなハンターばかりだ。
クレタの物言いからして、彼も沼地そのものには詳しくないのだろう。頼れる相手がいない現実……流石に、用心しないとな、とまでは零せなかった。

「虫素材なんて、加工に使うから仕方なく集めるようなものじゃないっすか。服飾品や美術品ならボクも欲しいと思いますけど」
「体液は接着剤に、翅や甲殻は属性の発露や定着に使われることが多いそうなんですニャ。特有の透過性が属性を逃がしたり馴染ませたりしやすい……とか」
「へえ、そうなのか? よく知ってるなあ、アル」
「チャイロさんから教えてもらったことと、ボクなりの推論ですニャ! ……だから正解かって言われると自信がないんですけどニャ」

……とはいえ。クレタは知識面をみればかなりの努力家であり、アルフォートもまた同上。自分も自分に出来ることをこなせば、それでいいのだ。
ニカリと笑い返しながら頷くカシワだったが、このとき沼地で待ち受けるものの正体など、一行は欠片も予想していなかった。






「あー……ジメジメだな。薄暗いし。今って日中で合ってるんだよな?」
「旦那さん、もしかして寝ぼけてますニャ?」

船内で爆睡をかましていた後輩狩人は、到着と同時にエリザベスらに引きずられ、寝ぼけ眼のまま小型艇へと乗り込んだ。
降ろされたのは狩り場のほぼ中央と思わしき、広大な第四番エリアだ。狩り場の様子を探るならちょうどいいな、とオトモともども首を巡らせる。
空は薄雲に覆われ、陽光は僅かにしか差さず、枯木や泥を被った蓮がまばらに生える土地は、どこもほとんどが泥でぬかるんでいた。
遠方にはうっすらと緑で彩られた山々が並んでいて、このクルプティオス湿地帯がちょうどドンドルマと森丘との中間地点に位置していることが見てとれる。

「スタート地点はここか。えーと、何番エリアだ?」
「ベースキャンプからは離れていそうですニャ。拓けていて東西南北に道が伸びているから、狩り場の真ん中くらいかも……番号は四か七、だったような」
「べ、勉強してるなあ、アル。お、俺って一体……」
「だ、旦那さんは氷海帰りだから疲れてるだけだと思いますニャ! それにボクも『狩りに生きる』頼りの話をしてるから正確には……」

直後、フィールドに何者かの声がこだました。ぱっと顔を上げたカシワは、それがクレタのものと思わしき大声であることに気づいて息を吐く。

「クレタ? まさか、何かあったのか!?」
「クリスタルがどうこう、って聞こえましたニャ。もしかしたらクレタさんは秘境に降りたのかも……」
「秘境? なんだ、それ?」
「……切迫してる感じじゃないから、そうなのかもって思ったんですニャ。なんでも、未踏に近いちょっとした採集の穴場になってる場所なんだとか」
「穴場か……なら、さっきの悲鳴はピッケルやら虫網みやらを忘れたってやつなのかもしれないな」

オトモメラルーの落ち着いた様子や狩り場の空気から、ひとまず助太刀に行く必要はなさそうだ、とふたりは無言で結論づけた。
そもそも秘境とは、アルフォート曰く、人間の足では到底到達できない文字通りの穴場なのだという。
「俺はいつでも採集道具、忘れないようにしよう」。離れた地点で文句を吐いているであろう若者に合掌しつつ、後輩狩人はオトモを連れて歩き出した。

「えーと、ターゲットは確かランゴスタ五十匹……って、ブナハブラじゃなかったのか! そりゃ、場所も変わって当然だよなあ」
「ランゴスタ、見にくそうですニャァ……ブナハブラもそうですけど、体色が背景に溶けこみやすいんですニャ」

そうかもな、相づちを打とうとしてカシワは目を上に向ける。細やかで、かつ不快極まりないお馴染みの羽音が接近しつつあったからだ。

「アル、上だ!」
「ニャイ、ブーメランで迎撃しますニャ!」
「よし、なら俺はこいつで!」

得物を抜き、じりじりと迫りくるランゴスタ――赤色甲殻のブナハブラとはまた別の甲虫種だ――の金色甲殻に狙いを定める。
アルフォートはブーメランを投げ、カシワは彼と逆の方へ駆け出した。追ってきたランゴスタに振り向きざまハンターナイフを振り下ろし、体躯を寸断する。
彼らが脆いことは先の渓流の狩りで把握済みだ。刃を振り下ろす度、あるいは盾で殴りつける度に、上位個体であるはずの身は簡単に甲殻ごと砕けていった。
ぱっと視線を投げると、オトモはターゲットの迅速な捕捉に喜び笑みさえ浮かべている。目配せし合ったふたりは、そのまま西へ北へと奔走した。

「アル、足元には……えーと、黒い別の甲虫もいるぞ! 気をつけろ!」
「多分、サブターゲット指定のカンタロスですニャ。コッチは二十匹で達成できますニャ!」

なら頑張って狩ってみるか、そうしますニャ、金色飛甲虫だけでなく黒緑の甲虫も探しながら狩り場を駆け回る。
……どこから沸いてくるのか、次々と飛来する数の多さが気になった。空を仰ぎ見たカシワは、更に一匹二匹とランゴスタが増えていく様子に眉根を寄せる。

「なんか……どんどん増えてないか」
「依頼書にも書いてありましたニャ。集団には気をつけろ、って」
「集団って。うーん、タイミングなのか? 分かれて対応すればなんとかなりそうだけどな」
「ニャイ、でもクレタさんとも早めに合流した方が……なんだか、妙にヒゲがピリピリしますニャァ」

仕事を始めてまだ二時間も経っていない。だというのにギルドに大量発生と見なされた出現頻度も手伝って、討伐数は思いのほか伸びていた。
これなら渓流のときより楽かもしれないな――たまたま、偶然にも砕けずに落下した分を見つけてカシワは死骸に歩み寄る。
アルの仕事だな、ひとりごちかけ、不意に先輩狩人の指摘を思い出した。甲虫の剥ぎ取りは丁寧に、もちろん慣れも重要だと、彼女はそう話していたはずだ。
柄を握る力を緩め、しかし足は踏ん張らせ、慎重に殻と翅の隙間に切っ先を突き立てる。繊維が千切られる感覚が指に走り、後輩狩人はひとり声を潜ませた。

「なんだっけな。確か、脆性がどうのって――」

脆いなら、崩れやすいなら、より丁寧に剥がなければ彼らにも失礼だろう。
そうして色硝子のように繊細で、目に鮮やかな翅をようやっとのことで甲殻から剥がし終えた、まさにその瞬間。

「――うん? 今、なんか……」
「だ、旦那さん! 今のっ、クレタさんの悲鳴ですニャ!?」

遠くより、重苦しい地鳴りと重低音が、なんらかの報せをもたらしたのだ。

「……クレタ……まずい、『乱入』か! 急ぐぞ、アル!!」
「依頼書に書いてあった『大型』に違いないですニャ! 大変ですニャ、ボクたち沼地のモンスターには詳しくないですニャァ!!」

気にしすぎている、過剰に案じた……それだけならどれだけ良かったことか。
エリアを突っ切るようにして急ぎ東端の暗がりに身を滑り込ませたふたりは、ひやりとした冷気の這う洞窟の中、ほとんど反射で両足を止めていた。






「なんっ……なんだ、こいつ?」

それは生き物であることに違いなかった。
ごく僅かに差し込む陽光、それを照り返す希少鉱石の輝きにぼんやりと浮かび上がった、ひとつの巨影。
暗緑の表皮に、頭部から尻尾までの全てを視界に収めきれない長躯。支える二本脚は意外にも細身だが、そのどれもが異常に発達した筋肉に覆われている。
力を込めればしなやかに折れそうで、しかし屈強な造りの肉体に容易にやり返されることが予見された。
そうした未来が視えるのも無理はない。件の生き物の口周りはただ巨大なだけでなく、無数の棘と惨たらしい古傷を抱え、口腔に暗がりを湛えていたのだ。

「……い、イビル、『イビルジョー』……? 健啖の悪魔……そ、そんニャ、そんニャ……」
「アル? どうした……」
「だっ、旦那さん!! 駄目ですニャ、あの子は、あの子はっ……『世界を喰らう胃袋』の持ち主ですニャ! 今のボクたちだけじゃ――」

そうしてカシワは息を呑む。
いつもなら思考を巡らせながらも確かな情報を渡してくれるアルフォートが、錯乱している様子を初めて見たからだ……ただ事ではない。
同時に視線を走らせた。狩り場の端、清水を湛えた水場の淵に朽葉の若者がへたり込んでいる。オトモの支離滅裂な叫びを無視して、後輩狩人は駆け出した。

「クレタ! 大丈夫か!?」
「か、カシワさ……」

駆けつけた先で、クレタは震えながらも気丈に頷き返した。
抵抗しようとしたのか、装備は腐食したように繊維が崩れところどころがほつれている。食い千切られたのか、裂かれた布地が無残に点々と散らばっていた。
あれほどいい装備だったのに――詳細は知らないものの、彼の防具が自分のそれより遙かに優れたものであることは分かっている。
手を貸し、立ち上がらせかけたところで、様子を窺っていたと思わしきその竜がおもむろに首をもたげた。

『――!!』

健啖の悪魔、咆哮。その声はこれまで耳にしてきたどのモンスターのものよりも耳に残り、足を地に縫いつけ、身と心とを萎縮させる類のものだ。
ぱっと顔を上げたとき、カシワはその「悪魔」が濁らせたような眼でこちらを睨めつけていることに気がついた。
背筋に冷たいものが這い、息が詰まり、体が強張る。いつの日か、骸の龍と真正面から対峙したときのような純粋な恐怖……生存本能が警鐘を鳴らしていた。

「クレタ、立て! 立つんだ!!」

……それが恐暴竜イビルジョーと呼ばれる存在であることを、カシワは知らない。
上位ランクの狩り場にごく稀に出現し、眼につくありとあらゆる生き物を捕食し、無残にも喰い荒らす生態を有すること。
その特殊個体がかつてはチャイロの親友を惨殺せしめ、また、クリノスの父をも震え上がらせるほどの「乱入」モンスターの筆頭として怖れられていること。
識らずにいれば、それはただの初見のモンスターとしか言えないのだ。故に、実情を知るクレタとアルフォートはすっかり怯えきっていた。

「うわ、わ……や、イヤだ、また来るっ……」
「分かった、分かったから! いいから逃げるぞ!!」

咄嗟に腕を伸ばし、座り込んだままの若者を引っ張り起こす。普段の自分なら到底考えられない力が、己を奮い立たせていた。
肩を貸し、相手の動転を無視して走り出す。クレタが何度も転びそうになる度に、カシワは足に力を込め、洞窟の出口めがけて懸命に歩を急がせた。

「だっ、旦那さん!! 超音波笛、吹きましたのニャ! ランゴスタとヤオザミならいなくなりましたのニャ、今のうちに!」
「って、悪いなアル! 助かっ……」

逃げ切るまであと数メートル。意外にも、あの暗緑の巨躯は追ってこない。てっきり三人まとめて襲われるものと思っていたのに――

(……待ってくれ。なんで俺は、あいつがすぐに追ってくるもんだって思ってたんだ?)

――刹那、背中に衝撃。ほんの一瞬、時間差で視線を動かすとアルフォートもクレタも自分と同じような塊の直撃を受け、前のめりに倒れ込もうとしていた。
岩か、鉱物か。掘り返され、あの巨大な口と顎によって放られたと思わしき岩石製の砲弾が自分たちを的確に捕捉している。
衝撃で腕がほどけ、後輩狩人は若者を手放し地表に倒れた。冷たい水分が体を濡らし、一瞬、現状がどうなっているのか分からなくなる。

「うっぐ……ガハッ、」

冷たい、怖い、そら恐ろしい。たった一撃、ただ一度の攻撃を受けただけで、底知れぬ恐怖が胸中に湧いて出た。
何故、どうして……背中に激痛、そのまま痛みが脳天から爪先まで駆け抜けていく。五指で岩床を掴み踏ん張ったとき、カシワは無意識に息を止めていた。
足音が、凶悪な足取りが、こちらを睥睨する黒ずんだ眼窩が、間髪入れずに追ってくる。
健啖の悪魔、イビルジョー。オトモメラルーの怯えようを思い出し、口を真一文字に結んで恐怖を喉奥に突き返した。
がむしゃらに手を伸ばし、クレタの装備を掴んで強引に引き寄せ横転する。直後、上下に開かれた大顎が大地ごと獲物を噛み砕かんと振り下ろされた。

「……!」

見逃されたわけではなかったのだ。見出した獲物との距離を測り、喰い応えがあるか目測し、『今なら良さそうだ』と判断されただけのこと。
長い巨体を現実味に欠ける脚で支え、その怪物は躊躇なく頭部を地表に突き立てた。丸ごと食べられるかもしれない、そんな予想のまま岩が抉られていく。

「イビル、ジョー……」

ゴリゴリと、バキバキと、押し当てられた口腔内の牙と――顎の外、外気に触れる場所にまで発達した成長途中の牙とが、固く冷たい地盤を削った。
その力たるや、未発達の牙の一部が勢いと衝撃で剥がれ落ち、地表に螺旋状の傷と白い剣山の痕跡を刻みつけるほどだ。
血肉のみならず骨と皮、毛髪までをもしゃぶり尽くそうとするような、執拗で荒々しい貪食の跡。揺れる足元に耐え、跳ね起きながらも黒髪黒瞳は震撼する。

「……あんなの、当たったらひとたまりもないどころの話じゃないだろ。あいつ、本当に星五のモンスターなのか」
「旦那さん、イビルジョーは……」
「アル、話は後だ。一旦俺が閃光玉で……って、うおっ!?」

風を切る音がした。ほとんど反射で飛び退いたものの、寸前、目の前を暗緑の塊が横切っていく。
捕食し損ねたと気づいた竜が、首を振るって左右交互に噛みついてきたのだ。退がった分では距離が足りず、狗竜Sが莫大な質量を受けて吹き飛ばされる。

「旦那さん!!」
「れッ……俺、は大丈……アル、クレタを連れて逃げろ!」
「でっ、でも……」
「いいから、先に行ってくれ!! 俺もすぐ追うから、心配するな!」

岩を掴み、岩盤の上を滑りながら、憤怒の表情で後輩狩人は顔を上げた。標的をこちらに変えたのか、唾を飲んだと思わしき唸りが宙を突く。
怖すぎるだろ、今すぐ見逃がして欲しいんだけどな――アルフォートが放った異名、健啖の悪魔。その名の通り、眼前の巨体は己が食欲に振り回されていた。
力強い襲歩が迫りくる。今すぐにでも獲物を食べたくて仕方がないのだろう。間髪入れず、カシワは一度は納めたハンターナイフを引き抜いた。
目線を投げた先、怯えきったクレタは慟哭しながらオトモメラルーに縋りついている。とても協力を頼める状態ではない。

「さあ、俺が相手だ。『時間稼ぎ』するだけだけどな!」

要するに、全員がこのエリアから逃げ出せたならそれでいいのだ。ペイントボールを当て、臭いを頼りにこの悪魔を避けて依頼をこなせば、それでいい。
悔しい思いもあったが、目の前の竜と自分の間には埋めようがない実力差があることが目に見えるようだった。
もし、この場にユカがいてくれたなら――思考を振り払おうと頭を振った瞬間、後輩狩人の覚悟に応えるかのように、イビルジョーはまっすぐ直進してくる。
いいぞ、あと少し、あとちょっとで完全に引きつけられる……恐怖を払うための鼓舞か、昂揚か。そっと微かに口角をつり上げた、その瞬間。

「……、え?」

イビルジョーは、大きく「跳躍」した。
筋力と瞬発力を存分に発揮して、器用に細脚を空中でばたつかせ、軽々とその巨躯を宙に躍らせている。
――まずい! このまま向かってくるものと見なしていたカシワは、暗緑の竜が地響きとともに後方に着地した姿を見つけて駆け出した。

「わ、ぁ、あぁああっ!! 嫌だっ、イヤだイヤだ死にたくない死にたくない! 姉様、姉様ぁああ!!」
「クレタさんっ、落ち着いてくださいニャ! 今はそれどころじゃ……」
「アル!! クレタ!」

辛うじて喰らい付かれなかったものの、襲撃の震動でまともに立てない様子のふたりを庇い、間に飛び込む。
案の定、すぐさま体勢を立て直した悪魔は軽く足踏みをして首をぐるんと払った。
たったそれだけ、ほんの小さな動作のうちに、無数の牙と咬合力による殺傷性が潜んでいる。刹那、横殴りの噛みつきを盾で強引に受けカシワは歯噛みした。

(駄目だ……何も知らないけど、こいつは『無理』だ。ここから逃げ出せたなら、それだけで御の字だ)

ポーチに手を突き入れ、手製の閃光玉を鷲掴みにする。目くらまし代わりに放ろうとして、今度は怪鳥、雌火竜の動きに似た旋回行動が盾を撃った。
強い痺れが手はおろか腕にも走り、たたらを踏む。尻尾に弾かれた手投げ玉が転がり落ち、はっとして後輩狩人は眼前を仰ぎ見た。

「……、うぅ!?」

またしても、懲りもせず、あの大口がこちらを見下ろしている。その口腔は、喉奥は、暗闇に閉ざされているかのように底が見えない。
誰かが、すぐ傍で悲鳴を上げたのが聞こえた。何者かが、背後で喚き散らす耳障りな叫声を漏らしたのが分かった。
しかし、気づけていても振り向くことがなお出来ない。冷たい汗が背筋を這い、指先が氷霜に舐められたように固く凍てつき、ぴくりとも動かせない。

(嘘だろう、なんでこんなところで……何故、どうして――)

ただ黙って、竜が頭部を振り下ろす様を見る。無数の牙の表層に、冥い黒色を滲ませた眼をした己の姿が映り込んでいた。





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 UP:25/02/25