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モンスターハンター カシワの書 上位編(34)


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数枚の書類と立派な質感の封筒が一枚。テーブルを挟んで、アルノーとアリシアは書面を見下ろしながら俯いていた。
と、片やおもむろに頭を抱え、片や頬に手を当て嘆息を一つ。広げた書類には養子の現状と彼が帰還するに至った経緯、今後の行動指針がまとめられている。

「ユカは……あの子はまさか、辞令の『辞』の字だけを見てクビになったと勘違いしたのではないだろうな」

呻くような苦い声を絞り出した夫に、

「思い込んだらそればっかり、っていう癖は直ってないみたいね~。これ、クビというよりは有給消化と雪山の獰猛化個体の追跡依頼なんじゃないかしら?」

困ったわねぇ、と口ばかりの妻が朗らかに笑みを向ける。

「それにしたって、だ! この書き方では……あの子の性格だ、免職されたと思うのも無理はないだろう?」
「やぁね~、ギルドのオトモダチに止めてくれる人はいなかったのかしら? でもさっきの態度から察するに、話したところでユカが聞き入れてくれるとは」
「思えんな。猟団の処理で頭がいっぱいになっていたんだろうが……今はあのときと同じことにならないよう願うしかないか」
「うふふ~。そうなったらユカを煽ったアトリくんの自業自得よね~? 大丈夫よ、今度はわたしだって証拠隠滅に協力しちゃうから~」
「頼むからやるなよ、殺ったら駄目だぞ。アリシア」

時刻は日暮れを過ぎた頃。村の至るところから談笑が聞こえ、ぽつぽつと軒下に明かりが灯され始めた。
アルノーとアリシアも早めの夕食を済ませてフラヒヤビールで晩酌を……と言いたいところだが、いつものような晴れ晴れとした心地にはとてもなれない。
悩みの種は当然、自室に籠もった養子のことだ。引っ張り出すことも部屋に入ることも出来なくないが、彼の性格はよく知っている。

「意固地になられては元も子もないからな。とはいえ、このままイジけられてもな」
「あらぁ、もしかして今更『甘やかしちゃったな~』って思ってる? それならいつものことじゃない」
「アリシア……君も大概だっただろう……」
「あの子なら大丈夫よぅ、ゆっくり寝たら文字通り目も醒めるでしょう。それに万が一のことがあっても貯蓄はあるんだし、なんならこのまま――」
「――なに? 夜逃げでもする気?」

ふと割って入った声に二人はぱっと顔を上げた。姿を見せたのは養子ではなく、「客」として部屋の一つを預けている若い女だ。
賢そうな眼差しに、どこかツンとした獣人種のような雰囲気を感じさせられる。小生意気な目つきには、偶然にも養子と同じ銀朱の瞳が収まっていた。

「あらぁ、クリノスちゃん! 違うわよぅ、ちょっと困ったことが起きてね。それで」
「おっ、おい、アリシア!」
「困ったこと? なに、雪山に別のモンスターでも出た?」

彼女は数日前からポッケ村に滞在――せざるを得なくなっている、龍歴院つきの女ハンターだ。
龍歴院の計らいで滞在期間を延ばし、旧友の狩猟笛使いと連携して交互に雪山に出入りして行方をくらませたティガレックスの痕跡を探ってくれている。
雪獅子ドドブランゴの狩猟を成した腕を持ち、更にはユカの知り合いということもあった。夫妻は彼女の勤勉さを信用し、今も無償で部屋を貸していたのだ。
日中に調査と小型肉食竜の討伐を済ませ、笛吹きと交替したと聞いている。先ほど夕食と風呂を済ませてもらったため、彼女はインナー姿でくつろいでいた。

「この時期は雪崩や水源汚染が心配だから、大っきいモンスターっていうのは確かに困るわね~。でもそういうんじゃないの、もっと私的なお話なのよ~」
「はあ、そうなの? ティガレックス以外の大物でも見つかったのかと思った。違うっていうなら、わたしは別に……」
「そうなの。モンスターなら対処のしようもあるんだけど……実はさっき、ユカが帰ってきたのよ~」
「ふーん、そっか。……えっ、ユカが!? あいつまだ生きてたの!?」
「こらアリシア! クリノスさんも、言い方!」

栗色髪からさりげなくウェルカムジョッキ(!)を渡された双剣使いは、なんの躊躇いもなく注がれたフラヒヤビールを一気する。
目眩を覚えて額を手で覆う茅色を放置して、女二人は「こっちも美味しいわよ~」、「もらうー、ちょーだい」などと仲良く試飲大会を始めてしまった。

「……で? ユカがどうしたの」
「それがね~、あの子ったら色々あって部屋に引き籠もっちゃったのよぅ。大人げないったら!」
「大人げないのはどちらだ、アリシア……」
「はあ? 引き籠もりって。なに、ギルドの人と喧嘩でもしちゃった?」
「そんなのいつものことよ~。そうじゃなくて、雪山の調査依頼をほっぽってクビになったー、なんて言ってるの。正式に辞令も出てるのに、困っちゃうわ」

クリノスが酒を噴く。その間、アルノーはしれっと守秘義務を破った妻を窘めたが、アリシアは平然とショットグラスに口をつけていた。

「待って待って、何がどうなってそうなるの。辞令っていうなら今すぐ動かないとマズいんじゃないの?」
「ほら見て、あなた! クリノスちゃんの方がよっぽどお仕事のこと分かってるわ!」
「アリシア、君はもう呑むな。……すまない、クリノスさん。あの子もドンドルマで色々とあったようで……少しばかり混乱しているようなんだ」
「えぇ、ユカが? なんか、想像できないけど」

あいつも一応人の子なんだね、そう言いたげな態度に苦笑した茅色だったが、妻からグラスを没収すると同時にふと双剣使いに視線を送った。
交差する銀朱と茅色。クリノスがパチリと瞬きをした瞬間、アルノーは意味深に喉奥で唸り声を上げる。
途端に嫌な予感がしてクリノスはその場から出来るだけ早く離れようとした。しかし、気づけば空いた側の手を男にしっかりと掴まれてしまっている。

「なっ、なに? わたし、これから寝るつもりで……」
「クリノスさん。悪いんだが、ユカの様子を少し見てきてはくれないか。帰ってからというもの、食事もろくに摂らずに眠り続けているようなんだ」
「はあ? なんでっ、わたしが!」

腕を大きく振り上げ、双剣使いは男の手を振りほどこうとした。温かな手のひらはユカやカシワのそれより大きく、強固にこちらを引き留めている。
振り向けば、あの乾いた銀朱とは似ても似つかない細い質感の茅色が見えた。
しかし、隙間から覗く表情はかつての優しげなものから困り果てた心労のものへと変わってしまっている。
自分もたいがいお人好しだ――ううん、と至極面倒くさそうに声と身体を震わせた後、クリノスはやんわりとアルノーの手を振りほどいた。

「かっ、顔を見てくるだけだから! それ以外のことは知らないし、そもそもあいつ本人の問題だから」
「ああ、様子見だけでいいんだ。ありがとう。手間を掛けてしまうな」
「まあっ、ありがとう~! ねぇクリノスちゃん、ユカは昔から装備を厳選して作る方だったのよぅ。今ならあの子の溜めた素材、見放題だと思うわ~!」
「こっ、こら、アリシア!! くっ、クリノスさん……」

酒が入るとウッカリ言ってはならないタイプの失言が増えるのが、このアリシアという女である。
男が仰ぎ見た先で双剣使いは笑っていた。彼女は、自他共に認めるレア素材コレクターなのだ――ここ数日の会話の中でもその傾向は把握できている。

「そっか。起きないんだったら……仕方ないよねー?」

承知した、と言わんばかりにクリノスは破顔した。アルノーがまごついている間にも、狩人は居間からさっさと飛び出して行ってしまう。

「……アリシア! ユカの邪魔を、」
「仕方ないじゃない。あの子の壁を破るためには、クリノスちゃんかカシワくんの力が必要なのよ」

抑える隙もなかった。堪えきれず非難の声を上げた夫に、妻側は澄ました顔で酒を啜りながらぽつぽつと反論する。

「チャイロちゃんはまだ寝てないとだしね。……あの子もそろそろ、自分のしてきたことが良くも悪くも跳ね返ってくる時期になったことを知るべきなのよ」

いつものように失言されたと思ったでしょう、眉尻を下げて苦い笑みを浮かべた栗色の眼差しに、茅色は何一つ言い返すことができない。

「報告書を読んでいて分かったの、あの子は十分頑張ったわ。まだ完遂したわけじゃないけど、猟団のことだって決着をつけてみせた」
「アリシア……」
「だからね、この際だし好きな娘と『おうちデート』でもしちゃったらいいのよ。クリノスちゃんの場合デートっていうより素材鑑賞会になりそうだけど」
「……強引だな。もしあの子が彼女やカシワさんのことまで拒否したら、どうするつもりだ」

そのときはそのとき考えるわ、呟きながらアリシアは二杯目のポッカウォッカを一気にあおった。
窘められるかと思いきや、アルノーは無言で空いたグラスに三杯目を注ぐ。静かに瓶を上げ下げする夫の横顔を、妻は驚きの表情で見つめ返した。
夫側もまた、自身のグラスに火酒を注いだ。養子がしている仕草と同じ所作、頃合いで、男は琥珀色に染まったグラスを傾ける。

「誰に似たのだろうな。聞いた話では、あの子も最近では周りを頼るようになっているそうだ。ギルドナイトになりたての頃は目も当てられなかったからな」
「そうねぇ……独りで背負う必要はないのにね。必要なときに『助けて』って叫ぶことも、一つの勇気よ。あの子ならきっと気づいてくれるわ」

二人は私室に向かった双剣使いに願いを托すかのように、祈りを込めるようにしてグラスを鳴らし合った。
夜は更けていく。クリノスがユカの部屋を訪れたのは、空に浮かんだ明月が塔を備えた積雲にすっぽりと隠された頃のことだった。






染みついた感覚というのは容易に解けるものではない。昼過ぎに布団を頭から被ったユカだったが、その眠りは異様に浅かった。
何度も繰り返し昔の夢を見ては、はっとして目を開けることの繰り返しだ。嫌な汗が清潔なシーツに滴り落ち、眠気どころか不快感が募るばかりだった。

「……風が、強くなってきたか」

薄い掛け布団越しに蒼毛の護符が散らす灯りが見える。窓外から一度カタンと物音が聞こえ、一旦窓を閉めようと身を乗り出した。
刹那、指先に僅かな違和感を感じた。見下ろしてみれば、火花がかすめたのか指の腹の一部が赤くなっている。
大した怪我でもない、なんならいつもの自分ならこの護符でこのような怪我をすることもなかったはずだ……外のことは投げ出して、青年は再び布団を被った。

「――あれっ? なんだ、ちゃんと寝てるし」

そのときだ。聞き覚えのある声がして、同時に部屋に何者かが入ってくる気配があった。
起きるべきか、入室を拒むべきか。逡巡しているうちに相手は部屋の中ほどまでに進み、歩みを止める。

「ふーん。なんか、ユカらしい部屋って感じ」

あたりを見渡す気配と布擦れ。遠慮なしに男の一人部屋に踏み込んだ女狩人の、あっけらかんとした肉声そのままの独り言。
ユカは、何故ここにクリノスがいるのか分からず困惑した。
見知った双剣使いは見渡すだけでは飽き足らず、壁際に寄ったり天井を見上げたりして気ままに室内を散策している。
養父母に何か言われたのか――全くその予想は合っていたのだが、銀朱の狩人はどう対応すべきか悩み、布団を被ったまま固まっていた。

「……ん? えっ!? な、なんでこんなところに、これが?」

「五秒数え、それでもなお出ていかないようだったら」。そう決めて布団を鷲掴みにしたとき、足早に娘がベッドに駆け寄ってくる。
なんの躊躇もなく寝具に膝をつき、クリノスの気配と呼気、体温と身の重みが、軋む音とともにユカの全身に伝わった。

(……!)

耐えきれず跳ね起きる。視界にごく僅かな月明が飛び込み、銀朱の狩人は勢いのまま手を前へと伸ばした。
宙に広がる布団は手で払いのけ、掴んだ物体を力任せに引き寄せ、視点をぐると反転させる。

「うぅ、わっ!?」
「……どういうつもりだ。何故、ここにいる」

見下ろした先で、目を丸くした双剣使いがこちらを見上げていた。風呂上がりなのか、薬草と香草を混ぜて作られた石けんの香りが宙に弾け、鼻をくすぐる。
いつもは風に揺らされるだけの柔らかな髪はしっとりと水気を含んでいて、驚きの表情と小生意気な目はまっすぐにこちらを見返していた。
相手の目には、銀朱の眼には、今は自分の姿しか映っていない。その事実に気づいたとき、ユカは自分の奥底で己が心臓が高く跳ねたことを知覚した。
過労と寝不足で頭がろくに働いていないからか、彼女を組み敷いた後、これからどうしてやるべきか……全く術が思いつかない。

「ユカ? なに、どしたの」

手首を掴む力が強すぎたのか、クリノスの顔にほんの少しの苦悶が滲む。
離してやるべきだ、むしろ先に、乱暴を働いたことを謝らなければ。それが分かっているのに、ユカは何故かそうしてやる気になれずにいた。
何故か、どうしてか……否、答えならとっくの昔に確信している。

「……クリノス」

低い声で、囁きかけるように話しかける。見上げてくる銀朱の目が怪訝そうに小さく歪んだ。
見下ろす側の銀朱も僅かに歪む。暗闇に紛れるように、心音を誤魔化すようにして、男は娘の顔を静かに覗き込んだ。

「なに? っていうか、重いんだけど」

唇が触れ合う、あるいは掠める直前のことだ。思いのほか強い力で手を振りほどかれると同時、クリノスの手のひらがユカの頬をぶにりと力強く押し返した。
ふと思い出す。ここ最近心の底から笑えた記憶がない。硬くなった表情筋をグリグリと揉みしだかれ、否応なしに距離を離された。

「ねえ、アリシアさんから仕事サボってるって聞いたんだけど本当? あんたでもそうなることって、あるんだねー」

両頬をさすっている間、女狩人はさっさとベッドから下りて行ってしまう。
こちらの痛いところを無遠慮に斬りつけるあたり流石は腕のいい双剣使いだ、と上手いことを言いかけて閉口した。
まぁな、曖昧に返事をすると、ふーん、と大した興味もないそぶりが返される。ぐっと眉間に皺を寄せるユカを放置して、クリノスはひとり窓に駆け寄った。

「それより、これ! このおまもりって、あんたの?」
「おまもり? ……ああ、ずいぶん昔に友からもらった」

「彼女の興味関心は、異性などよりも希少価値の高い素材に向かっている」。改めてそれを思い知らされ、銀朱の狩人は苦い思いで笑い返した。

「狩猟の安全とハンターとしての大成を願って、と言われたな。それがどうかしたか」
「えっ!? あ、や、いやあー? べつに、どうもしないけど……」
「なんだ? 見たいのなら好きにすればいいだろう、遠慮するとはお前らしくもない」

蒼のたてがみと、交易品になりえる希少宝石の類。確かな目利きのクリノスなら真っ先に興味を惹かれるものであるのに違いない。
ユカは手近な棚から素材整理に使っていた手袋を掴み、彼女に放った。火傷をしないよう着けておけ、そう促せば女狩人は素直にその言葉に従う。
手を伸ばし、指先をまごつかせる姿を見て彼女より先に窓枠を掴んだ。十数年ぶりに外した護符は何かしらの文句を並べるように、より強く蒼く燃えている。

「ねえ、これってさ? もしかして『ナナ』……」
「なんだ、見覚えでもあるのか」
「いっ、いや!? そっ、そんなこと……ありませんけどないですけどおっ!?」

何故か敬語を返された。見たいとごねておきながら、クリノスはろくに愛で――もとい観察もせず、掴んだおまもりを突き返してくる。
突拍子のなさに双眸を歪めたユカだったが、クリノスは誤魔化すようにこちらから視線を逸らし窓から離れた。
吊り直している最中も、彼女は物言いたげに護符の様子を盗み見してくる。ナナと言いかけていたな、青年は彼女の動揺に染まった顔を思い出して失笑した。
眠れないの、ふと問いかけられ、それはそうだな、適当に返事をして座るよう勧めた。
クリノスは養父手製の椅子を無視して、おもむろにユカの隣、つまりは寝具の上に腰掛ける。湯上がりの匂いが漂い、青年は思わず娘から目を逸らしていた。

「だってさ……『霞』ってきて、今度は『鋼』でしょ? 次はもう、『炎王』しかないわけだし……!」
「おい、どうしたクリノス。様子が妙だぞ」
「なっ、なんでもないから! わっ、わたっ、わたしっ……これから絶対しばらく砂漠とか火山とかには行かないから。行かない……イカナイカラー」
「なに? それは……ランクが上がればそういった依頼も増えるはずだぞ。らしくもない、なにかあったのか」
「なんにもないですぅー! だいたいっ、それもこれもアイツらが……あいつらがぁ……!! ムリムリ、絶対行かないー!」

ユカが内心どぎまぎしている間、クリノスもまたあわあわと動転していた。理由は分からないが、特定の狩猟条件に何かしら思うことがあるらしい。
雪山の滞在が思ったより長引いているからか――ふむ、と独り納得して青年は一度立ち上がる。部屋の隅、足元の床下収納をあさり目的のものを取り出した。

「なにそれ、隠し収納? あっ、もしかして」
「分かっていて聞いているのか。ポッケの夜は、そこそこ冷えるからな」

養父に教えてもらったもののうち、特に気に入ったか思い入れのある酒だ。アリシアたちには気づかれていたのだろうが、手をつけられた様子もない。
壁際の収納棚に紛れ込ませていたグラスを取り出し、サイドテーブルに並べては次から次へと火酒を注ぐ。
複数のグラスが琥珀に黄金、乳白色などに満たされていく様を、クリノスは身を乗り出しながら目を輝かせて見つめていた。
やるか、軽い気持ちで問いかけると、こくこくと高速で首が縦に振られる。彼女と少しばかり距離を空けて、ユカは寝具に座り直した。

「……んんっ、美味しい! これ初めて飲むぅー」
「旨そうに呑むな、お前も。……度数が高いから少しにしておけ。どれも俺のトッテオキだ」
「ふーん、こっちはアルノーさんにも勧められたやつだ。ユカってさ、なんで二人のことパパママって呼んであげないの?」

酒を噴いた、否、噴き出しかけて辛うじて堪える。
じとりと鋭い視線を向けると、すでにほろ酔い状態に陥ったのか、頬を朱に染めたクリノスが意地悪く笑っていた。

「だって、アトリから聞いたし。馴染んでるし好きなはずなのになー、だって。何か事情でもあるの?」
「……、待て。お前、そういえばアトリと」
「うん? あぁ、うん、知ってるけど。それがどうかした?」

他意はない、悪意もない。そう言いたげに女狩人は小首を傾げてみせる。
「アトリ=テスタ」。その名を彼女の口から聞かされることになろうとは、思ってもみなかった。
一瞬で胸中にドロリとした感情が湧き、ユカは俯きながらグラスを握りしめる。ポッケクォーツ製と聞かされた無色透明は、軋む音さえ微塵も立てない。

「……聞いたぞ。お前、アトリと『寝た』そうだな」

自分の口から吐かれた声が自分のものとは思えなかった。低く、醜く掠れていて、怒気と嫉妬をまるで隠せていない。
だというのに、一度吐き出してしまったらそれを認めてしまったような心地になった。酷い頭痛と胸の痛みを覚えて、銀朱の狩人は僅かに唸り声を上げる。

「寝た? うん……? そうだけど、別に普通でしょ?」

女狩人の答えはあっけないものだった。一瞬視線が宙を泳ぎ、すぐさまこちらを見返しておきながら、彼女はユカにとって致命傷になりかねない返事をする。
酒の味と香り、飲み口が、途端に悪いものに変化した。見つめてくるクリノスの銀朱が恐ろしく残酷なもののように見え、手が震える。
この瞬間、ユカは言葉というものを忘れてしまった。彼女に何を言われたのか分からず、また理解したくもないと頭が言い分そのものを拒絶する。
なにせ、アトリと寝たことを女狩人は認めてしまったのだ。自分ではなく縹の狩人を選び、身を預けた。その事実に銀朱の狩人は打ちのめされたのだ――

「……そうか。満足、出来たのか」
「えっ? さっきから何……うん、それはそうでしょ。しばらくぶりだったからスッキリしたし」
「すっ、すっきりだと!? お前っ、それは……」
「ユカだってそうでしょ? スッキリしたら満足するんじゃないの?」

――この場合、クリノス=イタリカが明かしたのはベルナ村において治療ついでに見張りも兼ね、アトリ=テスタと同室で休眠をとったことに他ならない。
しかしアトリの巧みな換言によって、あるいは現時点で心身を激しく摩耗していたユカは、彼女の言うことの真意を汲めなかった。

「俺は……俺は最近は、そうでも……」
「えっ!? あー……そっかあ。それは、大変だったよね」

とはいえ、目の前の騎士が重度の疲労に陥っていることをクリノスはすでに把握している。
ハンターズギルドや養父母に報いるべく、過剰なまでに自らを痛めつけるようにして働く姿勢をカシワともども間近で見てきたからだ。
止めたところで聞いてくれるような性格ではないことも、十分に理解している。絞り出すような声色が、双剣使いには酷く重く、苦いものに聞こえていた。

「えっと……ほら、わたしはあのとき……」
「……か、」
「え? なに、何か言った――」

オトモと爆睡したこと。ベルナ村の調度品は寝心地最高だったこと。ノアが出してくれたスープや紅茶が絶品だったこと。アトリが意外と間抜けだったこと。
全てを打ち明けさえすれば、青年がいつものように苦い顔か凶悪に歪んだ顔をして笑ってくれるものと信じていた。
顔を上げたとき、クリノスはユカの顔から温度という温度が失せている様を見つけて息を呑む。
この視線は、眼差しは、傷をつけられたときのそれだ……はっと我に返ったとき、双剣使いは銀朱の狩人に体を突き飛ばされていた。

「そうか……そんなにアトリは好かったか。よかったな、満足できて。俺ならそうは、いかないだろう」

何が起きたか分からない。見上げた先で、青年の眼差しは悲しげに歪んでいる。
いつもの気高さや誇らしさ、自信に溢れた様子が欠片も見出せない。自慢の三兄や孤高の雄火竜のような姿は、霞か幻獣の足取りのように消え失せていた。
「ユカが辛い、哀しいと叫んでいる」。それだけは察せられた。クリノスは手を伸ばし、頬越しに騎士を労おうとする。

「――ユカ、……んんっ!?」

だというのに、ユカの表情は見えなかった。気がつけばベッドの上に組み敷かれ、呼吸を食まれていたからだ。
息が出来ない、何も聞こえない。閉ざされた視界の中では、見慣れた赤がどこにも見出せない。荒く荒んだ呼気は、獰猛な竜の捕食音を思わせるものだった。





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 UP:24/02/26