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モンスターハンター カシワの書 上位編(32)


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その後、慌ただしくカシワは出て行った。追おうとしたノアだったが、あっという間に狩人はオトモ広場に降りてしまい声を掛けることすら出来なかった。
諦めて自室に戻る。ふと入口の横に設置した姿見に自分の全身が映り、少し浮き足立った気分になって何度も髪飾りの具合を見返した。
銀細工に二色の花、揺れる宝石に、自作のレースドレープに似た絹製の飾り布。自然と口角は上がり、その場でターンして鏡の中の自分に笑いかける。
自分でもげんきんだとは思ったが、嬉しいものは嬉しいのだから仕方がない。直前の後輩狩人の反応も忘れ、雲羊鹿飼いは浮かれていた。

(……カシワさんに、もらっちゃった)

ふふ、と頬をふにゃふにゃ緩ませつつ居間に出る。明日の朝食の仕込みと、チーズの洗浄に使う湯をあらかじめ確保しておくためだ。

「おっ? ノア、どうしたんだ。その頭?」

そのウキウキした気分に冷や水をかけられた。じとりと向けた視線の先では、熱かんでべろんべろんの酔いどれと化したマルクスが笑みを浮かべている。

「頭、って。あのね、お父さん。これは……」
「どうしたどうした、エレノアの形見か? 似合ってるじゃないか!」
「だからね、お父さん。これはお母さんのじゃ……って、明日も早いんでしょ? 飲み過ぎなんじゃない?」
「なあに、心配いらんさ。カシワの若人も帰ってきてるだろう? 二手に分かれてクエストをこなせば村長も納得してくださるさ!」

「そういう問題ではないのでは」。明日の後輩狩人が父の無茶ぶりに慌てふためく姿を想像して、雲羊鹿飼いはウーンと唸った。

「はいはい、そろそろ寝ないと。わたしも明日の準備を済ませたら、休むから」
「む、そうだな……ぼちぼち遅いしな。そうするか」

何やらご機嫌な様子でマルクスは自室に戻っていった。カシワさんが帰ってきたのがそんなに嬉しかったのかしら、呆れ半分に笑みを零して片付けを急ぐ。
月の位置からみるに夕食どきはとっくに過ぎているはずだ。いつものように皿を片付け、朝食用の食材を切って水にさらし、桶に水を汲み溜めた。
そのあとは裏手の貯蔵庫に入って仕上がり途中のチーズの状態を見て回り、明日分の洗浄に使う道具を台に広げておく。そこでようやく、ノアは一息ついた。
……小屋の外は、いつしか真っ白な山霧に覆われている。さっきまで晴れていたはずなのに、と雲羊鹿飼いは狭まる視界に目を細めた。

『――やあ、君じゃあないか。こんな遅くまでお仕事かい? ずいぶんとまた、働き者なことだねえ」

先ほどまでの賑やかさは夜の静寂(しじま)に消えている。それほど人の気配は失せていた。
声を掛けられて振り向くと、見知った男が濃霧の中から姿を現した。藤色の龍鱗の跡が目立つ分厚い皮で仕立てられた、不思議な質感の防具を纏っている。

「こんばんは。もしかして急ぎのご用事ですか。秘薬のことなら先日、あなた様のお知り合いの騎士さんに聞かれたばかりですよ?」

馴染みの、霞とともに姿を現してはいつの間にか姿を消す忙しない顔見知りだ。浮かれていた矢先の出来事だったので、わずかにノアは声をうわずらせる。

「騎士さんだって? おやあ……僕にそんな知り合い、いただろうか」
「あなた様のことでしょう、『かすみの』というのは? ……近寄りがたい雰囲気の方でしたけど、あなた様の話をするときはどこか声が柔らかかったので」

男は急にムッと口を結んで見せた。機嫌が悪くなったのか、それとも理由あって拗ねたのか。不意に視線が逸らされる。

「いやだなあ。僕にはあれだけ『禁止だ』なんて言っていたのに、自分はちゃっかり会いに来ていたなんて。何を考えているんだろうねえ」
「ああ、やっぱりあなた様のお知り合いだったんですね。真っ黒いコートが鎧みたいで、格好良かったですよ」
「……、……君、まさかその騎士さんとやらにそれをそのまま話しちゃいないだろうね?」
「さあ……ずいぶんとお急ぎのようだったので。それより、あの方はもしかしたらあなた様の秘薬を取りに来たのかもしれませんよ」
「秘薬? 秘薬だって? そりゃ、確かにこないだ新しい一包をもらったけれど」

むむむ、と口を結んで口端を震わせる横顔を見上げて、たまらずノアは噴き出した。

「じゃあ、きっとそれですよ。わたしのお知り合いのハンターさんを訪ねに行かれたみたいでしたから。受け取ったその脚で引き返したのかもしれないです」
「はんたー? それは、また。……なんて名前の狩り人なのだい、まさか例の黒髪の?」

彼は、いつでも唐突に霧と共にやってくる。今日だけでなく過去何度かの対面でもそうだった。
そして時折、特に感情が強く揺さぶられたときなどはその霧が濃くなったり、逆に一瞬で消え失せたりもする。今晩はうんと濃くなる一方だった。
この藤色が「黒髪黒瞳のハンター」を快く思っていないことに、ノアは早くから気づけていた。多分カシワさんのことなんだろうけど、と僅かに口を閉ざす。

「……カシワさん、じゃあないですよ。クリノスさんっていって……この間、ここであなた様も直にお会いしたでしょう?」
「ああ、あのツンとした獣人みたいな顔のはんたーか。それならいいけど。あの娘の秘薬は美味しかったから」
「えっ、研究材料を食べたんですか!? 貴重なんですから、大事にしないと」
「そ、それはほら……あの娘の腕を試すための試食というやつさ。あくまで研究の一環だとも。噛みごたえで練り具合や強度を測ろうと思っただけなんだよ」

ツンとした獣人のような、クリノスの利発な顔つきを思い出す。確かに彼女にはアイルーたちのような愛らしさもあるが……はたと我に返って頭を振った。
相手の好奇心と手癖の悪さを窘めると、奇術師じみた男はウン、と小さく声を詰まらせる。子供じみた反応に雲羊鹿飼いはもう一度笑った。

「冗談です。実際に試してみないと、分からないこともありますしね」
「そうそう、それだとも。いやだなあ、僕だってなんの考えもなしに完食したりしないのだからね」
「か、完食って! ……ふふ、クリノスさんが聞いたらきっと喜びます。調合、凄く丁寧にされているみたいですから」

それはきっと僕のためだねえ、フフンと得意げに胸を張る藤色に、それはどうでしょう、黒瞳は苦く笑い返す。
彼と話をしていると、自分がとても自然体でいられるような気がした。昔からずっと知り合いであるかのような、言葉に表しがたい懐かしさだ。
くすくすと笑う最中、ふと男の顔が強張った。妙に神妙な面持ちで、霧を掻き分けるようにして血色の悪い手を伸ばしてくる。

「……これ、どうしたのだい。前はこんなもの、着けていなかったじゃあないか」

触れる寸前で指先が固まった。藤色の、纏う防具と同じ色艶の爪だけが銀細工のフレームを一瞬小突く。

「あ……これですか。この髪飾り、ついさっきカシワさんにもらったものなんです」

コツリ、と音を立てられた場所を労るように、ノアはそっと髪飾りをなぞった。みるみるうちに男の眉間に皺が寄るが、雲羊鹿飼いはそれに気がつけない。
けぶる視界の中でも、寒色が煌めき、鉱石が微かな音を立てる。その様を想像することさえ、とても楽しいのだ。他のことに気をとられている隙はなかった。
思わず頬を緩ませた娘の耳に、そうかい、と苦しげに絞り出すような声が投げかけられる。ノアははっとして顔を上げた。
僅かに輪郭が見え隠れする程度だが、男が面白くなさそうに仏頂面を浮かべている気配だけが感じ取れた。何故気を悪くするのか分からず困惑する。

「あの……どうかしましたか。もしかして、似合ってない……ですか」
「いいや? そんなことないよ。ただ、既製品というのが感心できなくてね。どうせなら手製にしたらいいのにねえ」
「ええ? カシワさんはハンターなんですよ? お忙しいでしょうし、選んでくださっただけで嬉しいです」
「どうかなあ。狩り人の中には暇をもてあましているやつだっているって聞くけれどねえ」
「ええと……あの、もしかしてカシワさんのこと、お嫌いなんですか」

直球過ぎただろうか。一瞬流れた奇妙な沈黙に、雲羊鹿飼いは笑顔を引きつらせる。
そろりと見上げた先で、男は不思議と笑っていた。それが酷く物悲しいものであるように見えて、何故か心臓がきゅっと縮んだような心地になる。
こちらの反応を見た瞬間、凹凸の目立つ眼がくるりと回った。何かしらの感情に耐え忍ぶように目尻が下がり、低い声色が宙を打つ。

「そんなことないよ、と、言いたいところなのだけれどね。……君、いま幸せかい?」
「え……? それはっ、それはもちろん、幸せですよ? ありがたいことにお仕事は毎日ありますし、ムーファたちもお父さんも元気ですし」
「そういうことじゃあないよ。僕が言いたいのは、君自身のことさ。分からないかな」

……何故、どうして。
男の言わんとしていることが分からず、ノアは眉根を寄せた。
彼は、カシワが嫌いなのだと言う。黒髪のハンターに対して嫌な思いをさせられたからかと思っていたが、そうではないようだ。
彼の口ぶりは、まるでずいぶんと昔から彼のハンターを知っているかのようであり、また、個人的に恨み恨みがあるかのような物言いでもあった。
藤色の奇術師と、カシワというハンター。二人の間に共通点が見出せない。黙したままこちらの解を待つ視線にはっと我に返り、ノアは不意に姿勢を正した。

「ええと……その、幸せというのがなんなのかわたしにはよく分かりませんけど。でも、そうですね――『幸せですよ』。だからこうして笑えているんです」

これは本音だ。偽らざる気持ちであり、雲羊鹿飼いとしての自負でもある。
男は一瞬、本当に心の底から驚いたように眼を見開いた。しばらくぱちぱちと忙しなく瞬かせていたが、不思議とその目蓋はフチが盛り上がっている。

「そうかい、そうかい。それなら、よかった」

ふと和らいだ眼差しを見て、ノアは目を瞬かせた。見るもの全てを虜にしてしまいかねない、柔和で穏やかな笑みだった。

「……ああ、そろそろ行かないと。友人がね、『くどい』、『しつこい』なんて言うものだからさ」
「あの騎士さんのことですか。そうですね、こんな夜中ですし、きっと心配していらっしゃいます」
「どうなのかなあ。彼は、過保護だからね。そうだねえ……君の言う通りなのかもしれないけれど」

藤色の衣装がきびすを返した途端、いつものように霧は深まる。それじゃあまた、いつものように手を振り返した、その刹那――

「そうだ。代わりにひとつ、【おまじない】をしてあげよう』

――靄、いや、霧か煙か、それとも霞か。白くけぶる視界の果てから、おもむろに巨大な藤色の剛爪が伸ばされた。
コツリ、と髪飾りが小突かれた瞬間、足元から黒く渦巻く強烈な風が巻き上がる。ノアはたまらず悲鳴を上げたが、暴風はその一瞬のうちに収まった。

『特別な【おまじない】さ。その花は当分、枯れないはずだよ』

目の前を散らされた牧草が舞う。男の肉声は、酷く遠く、妙に高いところから投げられたような気がした。
ぱっと顔を上げたとき、眼前にはただ真っ白な山霧が広がっている。先の藤色の気配は次第に遠のき、その物音も小さくなりつつあった。
……何か、言わなければ。そうでなければ、このまま二度と会えなくなるような気がする。
唐突にそんな予感に駆られて、娘は焦燥のままに一歩を踏み出した。掛けるべき言葉が見つからないが、このまま立ち去られてしまうよりはよっぽどいい。

「あ、あの! どうしてっ、わたしにそんなによくして下さるんですか!?」

自分の声の大きさに、自分でも驚いた。それでも雲羊鹿飼いは手を握りしめ、黙って男からの解を待つ。
霧の向こうで、巨大な何ものかが困り果てたように身じろぎする気配があった。ウン、と小さく唸り声が漏らされ、次の瞬間には湿った呼気を間近に感じる。

『……ナイショだよ。それを話してしまえば、僕はここに来られなくなってしまうからね』
「えっ? 待ってください、それってどういう……」
『言ったじゃあないか、言えないって。……じゃあね。いつか、また話をしにここを訪ねることにしようじゃないか。しばらく息災にしているんだよ』

うそぶくような、茶化すような声色が鼓膜を打った。次いで、立ち尽くす様を楽しげに眺める視線が降ってくる。
見上げた先は、確かに山霧で霞んでいた。「怖い」とは感じない。ただ純粋な疑問と困惑だけがその場に滞留し、娘の足を草原に縫いつけている。
どう返すべきか分からず瞬きを返したときには、霧そのものも徐々に晴れつつあった。当然のことながら、視界が晴れた先には牧草地ばかりが広がっている。
ノアは、はっとして髪飾りを取り外した。見下ろした先で、青と青紫の星見の花が、強く月光を跳ね返している。

「これって……お、おまじない? 本当に? とても、そんな言葉だけじゃ……」

ふたつの花は、まるで雲鳩石――いつの日か託されたメランジェ鉱石――でコーティングされたかのように、白、緑、藤色と表層の色彩を移ろわせていた。
金属光沢の奥に元の二色も覗かせながら、角度を傾ける度に色合いが変わり、硬質な艶が花弁の上を流星のように駆けるのだ。
その変貌ぶりは、あの霞の中より現れ、また瞬時に消え失せる幻影そのものを彷彿とさせる。ただの装飾品が二つとない珠玉に変化した瞬間だった。

「綺麗……カシワさんが見たら、びっくりするんだろうな」

表層を撫でると、堅い感触と、静電気のようなごく僅かな電の跳ね返しが指先を走った。
「痛い」とは感じない。ただ純粋な驚きと喜びだけがその場に滞留し、残された娘の胸を弾ませている。

「でも、そうよね。コーティング、されているならその分空気に触れないから、枯れるってことはないのかも……」

胸元で抱きしめた後で、ノアは「せっかくカシワが着けてくれたのに」と気づいて悶絶した。とはいえ自ら外してしまったのだから仕方ない。
若干落ち込みながら髪に留め直し、のろのろと自宅に戻る。霧が出ていたからか、屋内の空気は生き物の呼気に晒されたように少しばかり湿気を帯びていた。
布団に潜り、明日に備えて目を閉じる。こうして雲羊鹿飼いが草原を離れ、ひとり静かに眠りに落ちた後……そこには誰の姿も残されていなかった。






『分からないなあ。僕には、てんで分からないとも。そんなにあの黒髪黒瞳が特別な人間だとは、思えないのだけれどねえ」

ところで、実のところ、帰還したと思われた藤色の奇術師は未だベルナ村地区にいた。
ありとあらゆる生き物、人間をはじめ、ムーファや雇用された獣人たちまでもが寝静まった真夜中のことだ。
ノア=クラインと別れた後、とって返して村に立ち寄ったこの藤色は、二本脚の姿を再び形成し直してこの地の青草を踏み抜いた。

(おっと……思った以上に静かだ。風の流れに、気をつけないと)

うっかり力を出しすぎないよう注意を払い、風向きを細かく読み解きながら一軒の家屋に向かう。表札には「貸出中」の札が下げられていた。
鼻を鳴らし、指で札を弾き、門を潜る。ベルナ村の家屋は化石や鉱石を積み重ねた石垣と、一本木の支柱を複数組んで建てられていることがほとんどだった。
この貸出中の施設もまた同様で、村のあちこちに見られる黄金ベルや四角形といったシンボルマークが柱のあちこちにペイントされている。
彼らがモンスターに塗りたくっているアレじゃあないだろうに、全く理解できないと言うように嘆息して脚を動かした刹那、爪先に奇妙な感触が返された。

「ウン? わあッ……っとと、あぶないあぶない」

見下ろした瞬間心底驚き、一瞬術が解けそうになる。慌てふためいて眼をキョロキョロさせたものの、これといった変化が屋内に見られないことに安堵した。
ソロリともう一度視線を落とす。なんてことはない、「目的のもの」が眼下に落ちているだけの話だった。

(いやね、落ちてるって……そりゃあ、狩り人が狩りに失敗したときなんかは、そういう言い方をすることもあるらしいけれど)

しかし、落ちているだけ、というのもどうなのか。いくらなんでも不用心かつ危機感が足りない。藤色の男は鼻で嘆息する。
足元で「目的のもの」はぐうぐう寝息を立てて爆睡していた。顔をはじめ体中が赤くなっていて、呼気からはなんとも言いようのない匂いも立ち上っている。
うわあ、と言いたげに男は爪先でそれの横っ腹を軽く蹴った。残念ながら相手に起きる気配も意欲もないようで、うーん、と寝返りを打たれてしまう。
本当に用心の欠片もない、男は今度こそ呆れたように鼻を鳴らした。そっと屈んで片耳を摘まみ、軽く引っ張り上げてみる。
何度か引っ張り、戻し、引っ張り、と繰り返してみたものの、黒髪黒瞳の狩り人に目を覚ます様子はなかった。

「……おやあ。そんなんじゃあ、とてもあの娘を預けてやれないのだけれどねえ。何を考えているんだろう?」

鼻を摘まみ、額を指で押し、頬を引っ張り、もう一度鼻を摘まんで……などなど、様々一通りのことを試してみたが、カシワは相変わらず起きない。
続服デザインのインナーをわざわざめくって腹を出し、呑気に寝落ちし続けている。筋肉はついていたが、その有り様はお世辞にも格好いいとは言えない。
人間って腹を出したままにしていると具合を悪くするのじゃなかったっけ――大昔、蒼色のたてがみを持つ知人に言われたことを思い出した。
確か、彼女の言い分によれば『気温によっては死に至る』こともあるという。石垣の一部に開けられた窓代わりの穴の向こうに視線を投げて、男は黙考した。
……このまま放置するか、なんならこの場で手を下すか。それは、この奇術師にとって究極の選択といえた。
いっそ、あの「黒髪黒瞳の娘」がこの狩り人の不備に泣かされる前にどうにかしてやるのも悪くない。寝顔を見下ろしていると、その思いは一層強まった。

「……、プ、フェプー!」

藤色の爪が伸ばされかけた、その刹那。か細く、頼りなさげで、ひ弱なだけの鳴き声が宙を打つ。
ぱっと振り向いた藤色の男は、ベッドの片隅に隠れるようにして顔だけを乗り出す、ごく小さな生き物の姿を見出した。
白く、柔らかな毛で体を覆われていて、四本脚で立ちながらも震えている。何故か空色の外衣を背負わされていて、一目で弱い生き物であることが分かった。
男は屈んだまま狩り人と生き物を見比べた。これといって血の繋がりや慣れ親しむ匂いは感じられないが――キョロリと眼を動かして視線を重ねる。

「フェッ、フェプ……」

眼が合った途端、生き物は泣き出した。毛に埋もれてろくに眼玉が見えないが、たちまち眼の周辺と思わしき部位が濡れていく。
成長途中の脚が痙攣するように小刻みに震え、そのまま折れてしまうのではないかと錯覚させた。言葉に詰まり、男は眼玉をくるりと回す。

「そんな声で、泣かないでほしいのだけれどねえ。お前のことまで巻き込むつもりはないのだし」

生き物は、男の反論に構わず脚を引きずりながら寝具の横から這い出した。床に毛をこすりつけ、畏怖に竦みながらも、なんとか一歩を踏み出そうとする。
その態度は、強大な生き物を前に気高く異を唱え、反抗の意思をしかと示すかのようだった。
べしゃり、とそれが床上に倒れ込んだ姿を見た瞬間、男は自分が我知らず嘆息していることに気がつき重ねて嘆息する。

「……毒気を抜かれてしまったなあ、この僕が」

狩り人の横から離れて近寄ると、今度こそ白い生き物は震え上がった。毛を逆立てて逃げようとするも、腰が抜けてしまったのか途中でへたり込んでしまう。
それに触れようとして、しかし男は躊躇した。つまりは、この生き物があの黒髪黒瞳の娘が飼育する家畜、雲羊鹿の仔と気づけたからだ。
途端に、ノア=クラインがムーファを撫で回している光景を想像して胸中に濁りが生じる。正しく興が削がれたとばかりに、男はしぶしぶ立ち上がった。

「フェッ……!」
「ああ、そうお言いでないよ。そんなに見られたんじゃあ、いつ誰に告げ口されるか分かったものじゃないからねえ」

とはいえ。だが、しかし。
この生き物がこの来訪の瞬間を誰かに伝えることは出来ないだろう。このたどたどしい言語を解読できるのは、せいぜい産みの親くらいのものだ。
それに、ここまで怯えた生き物に何が出来るとも思えない。本気を出さずとも自分が少し爪を振り下ろすだけで、容易く手折れるほどの弱きものなのだ。
だというのに、ふと沸いて出た意欲はすっかり失せてしまっていた。自分とて大型モンスターと呼ばれる生き物であるはずなのに――眼玉を回して失笑する。

「なるほどねえ。あの娘が大事にしているから、か。そういうことか。ならテスカトの言う定め……みたいなものなのかもしれないね」

きびすを返し、もう一度狩り人の横に屈み直した。相変わらずフェニーは震えているというのに、カシワに起きる気配はない。
キョロリと眼玉を回したオオナズチは、寝息を立てる顔を間近に覗き込んだ。慣れ親しむハンターに何かされるのではないかとフェニーは再び震撼したが、

「何もしやしないよ。顔を、よく見ておこうと思っただけさ――ナイショにしておくんだよ』

藤色の狩り人の姿を模した「それ」は、口元に指を当てて『しぃ』、とわざとらしい仕草を披露するばかりだった。
その一挙だけで恐怖心に駆られた雲羊鹿の仔は、ぎゅっと眼を閉ざして俯き、恐れに堪える。
しばらくそうしていたが、ふと鼻先に強い湿気を感じて顔を上げた。そのときには、マイハウスの中にはあの奇術師の姿は見えなくなっている。
代わりに、真っ白な霧とぐうぐう寝息を立てる黒髪黒瞳のハンターの寝姿があるばかりだった。半泣きになりながら青年の脇の下に滑り込み、身を丸めた。

「うーん、げきりぃん……出ないぞクリノスぅ……ふぐぉ」

次第に落ち着きを取り戻したのか、霧が晴れる頃にはフェニーの寝息も規則正しいものになりつつあった。
日常の再来……その最中、変わらず爆睡するカシワの顔面に一枚の紙切れがひらりと被さる。
その紙片は、何ものかが龍歴院宛てに出したと思わしき依頼書だった。受注可能であることを示す承認印の上には、討伐クエストの字面が並べられている。
刻まれた星印はただの三つ。しかし、描かれたモンスターのデザイン画はこの後輩狩人にはまだ馴染みのないものであることに違いなかった。

夜は更けていく。
暁の果て、風と草原の彩る尾根に一つの灯火が点された頃。そこには誰の姿も残されていなかった。





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 UP:24/02/02