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モンスターハンター カシワの書 上位編(31) BACK / TOP / NEXT |
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「おお、ノア……それに、カシワ殿。よくぞ戻られた。無事であったか」 「あー、その……た、ただいま? になるのか。しばらく不在にしてて、悪かった。村長」 ベルナ村に着いた頃には、すでに夜のとばりが下りかけていた。酒盛りを始めたハンターの歓声やご馳走の匂いが、村中に活気の灯を点している。 先に村長に帰還を知らせに向かったノアに倣って村の中心地に向かったカシワは、村人や龍歴院研究員からこちらに視線が向けられているのに気がついた。 居心地の悪さは感じられない。気でも遣われているのだろうか、それともドンドルマでの一件が知られてしまっているのだろうか。 考えても仕方がないか、そう頭を振る最中、音信不通になっていたことを先に素直に詫びると、ベルナ村の村長は頭を振りながら目尻を下げる。 「なに、一月戻らないようなら龍歴院宛てに捜索依頼を出そうと話していたところだったのだ。息災であったようで何より」 「ああ、そんな大げさなことじゃないんだ。でもありがとう。ドンドルマに用事があって、途中でノアと合流して……村や古代林の方は、大丈夫だったのか」 「まずは我々の心配とは。カシワ殿らしいといえばカシワ殿らしいな」 ふふ、と口ひげを揺らして楽しそうに笑う村長に笑い返すべきか苦い顔をするべきか分からず、後輩狩人は結局口を閉じて苦い顔で笑い返した。 二人の邪魔になると踏んだのか、荷物を置いてきますね、と立ち去ろうとする雲羊鹿飼いの背を元龍歴院研究員は目で静かに追いかける。 次いでこちらに向けられた視線からは、仕事の話は明日すればいい、といった意図が読み取れた。素直に礼を告げてノアの後を追う。 彼の気遣いにはいつも助けられてばかりだ。娘に追いつく寸前、すかさず手を伸ばして革紐つきのカバンを引ったくると振り向いた黒瞳が見開かれた。 「カシワさん? 村長とお話があったんじゃ、」 「いや、そのあたりは明日でいいそうなんだ。家まで送るぞ、ノア。渡したいものもあるしな」 「え、でもさっきまで運んでもらってましたし……明日からお仕事ならもう休んだ方が、ってカシワさん! ま、待ってくださいっ」 有無を言わさず先に行くカシワを、ノアは慌てて追う。一方で狩人側の足取りはとても軽かった。 ポーチの中、一番上に乗せた小さな包みがその理由だ。喜んでもらえるかどうか……そんな不安は、飛行船に揺られている間にどこかに行ってしまっている。 「お父さん、お父さん! いる!? ただいま!」 「おお、ノア……って、カシワの若人じゃないか! 今までどこに行っていたんだ!?」 結局そろってクライン家に到着した。息を切らしたノアが玄関口から奥に声をかけると、台所のあたりからエプロンを着けた筋肉隆々の巨体が顔を見せる。 言うまでもなく、ノアの父マルクスだった。装いに渓流で出会ったときの狩り好きの面影が見出せず、カシワは改めて彼の変化に目を瞬かせる。 「久しぶり、マルクス。一週間とちょっとぶり……くらいか。用事があって仲間とドンドルマに行ってたんだ。ノアとはそこで、」 「そうかそうか! いやいや、心配したぞ! お前さんがいない間俺が村周りを見ていたんだが、ノアがずっとお前さんがいない、いない、って言ってなあ」 「ちょちょっと、やだっ、お父さん!?」 しみじみとした様子でマルクスが暴露を始めると、当人は荷物の整理も放り投げてその場であわあわと慌てふためいた。 ただでさえ色の白い肌が真っ赤に染まって、伸ばされた手のひらが実父の口を塞ごうと躍起になっている。 原因は自分にあるため底意地の悪い話だが、彼女の慌てっぷりにどこか満更でもない気分になって、後輩狩人は黙って二人の応酬を見守ることにした。 「うん? 隠すこたぁないだろう、心配してたってのは本当のことじゃないか」 「で、でも……そういうことはあまり大っきい声で言わない方が! カシワさんにも迷惑だし……」 「そんなこたぁないだろう。俺はノアに心配されたときは、そりゃ嬉しかったがなあ!」 「あっ、反省してない! もうっ、お父さん!!」 そのとき、ブスブスと焦げ臭い黒煙が台所の奥から立つ。あっやべ、と突然マルクスは身を翻し、慌ててキッチンに飛び込んでいった。 その早さといい煙の量といい、ただごとではない。まさか火事かボヤなのか、思わず身を乗り出したカシワだったが、 「いいんです。お父さん、たまにああやって火元から目を離してフライパンを焦がすんですよ……焦げ付きの落とし方、いい加減覚えてもらわないと」 ノアの手は駆けつけようとした狩人を止めるべく懸命にもがいていた。部屋の隅に向けられた視線からは、明らかな諦めの感情が読み取れる。 大丈夫なのか、言葉短く問いかけるも、慣れていることですから、娘は苦笑してカシワからの厚意をはねのけた。 お茶を淹れるので待っててください、落とした荷物を拾い集めた小柄な体が、細々と動く。手際の良さから彼女が普段いかに働き者であるのか容易に覗えた。 ふと、空になった肩掛けカバンを自室に持っていこうとする背中を何の気もなしに追う。扉の向こうには、ある種の異世界が広がっていた。 「……なんだこれ、全部ムーファの毛で出来てるのか」 ノアの部屋には最低限の家具の他に、壁に立てかけられた絨毯や刺繍の施されたタペストリー、刺しかけの布を挟めた刺繍枠といった仕事道具に溢れていた。 色とりどりの糸やビーズ、鉱石の欠片などが薄暗い部屋にチカチカと僅かな光を反射させ、なんとも言えない幻想的な空気を放っている。 緻密な模様や細やかなレースをあしらったベール、ベルナ村に親しい黄金ベルや六枚花弁の刺繍を刺した布地と、作業過程が想像もつかない品物さえあった。 「って、カシワさん!? うわっ、ちょ、なっなんでここに? ち、散らかってますから見ないでください!」 「凄いな。これ全部、ノアが一人で作ったのか」 「あ……その、布を織ったり染めたり、そういうのは別の雲羊鹿飼いさんや村の方と作業を分担していて……ってそれよりカシワさん、早く出て……」 「それに、この布……糸、いや、織物? レースってやつか。なんか、不思議な感じがするな――」 中でも一際、目を惹く品があった。天井から窓に向かってゆったりと吊り下げられた、天蓋に添えるカーテンやキャノピーを彷彿とさせる白糸製のレースだ。 細い糸を丁寧に編み込み布地に仕立て、柱に見立てたドレープ同士の間に別のドレープを通し、アーチ橋の要領で繋げている。 縦と横、部屋に被さる構図、個々の糸の隙間の統一性。計算され尽くした、いっそ芸術性さえ見出せるその構造には妙な既視感を覚えさせられた。 それが何であるのか全く思い出せない。どこかで見たはずなんだけどなあ、ぎゅっと眉間に力を込めた後輩狩人は、直後カーテンが素早く開かれる音を聞く。 「――見ないでくださいって言っているのに。カシワさんの、ばか」 窓が開けられ、夜風にカーテンが揺らされ、雲羊鹿飼いの姿が一瞬隠された。背中越しでは彼女の表情がよく見えない。 「ば、ばかって。いや、俺はただ」 「でも、嬉しいです。特にこのレース織り、何年か掛けてじっくりと制作したものなので」 振り向きざま、誇らしげにドレープを見上げるノアの横顔をカシワは眩しいものを見る眼差しで見つめた。 「デザイン自体は、子供の頃からずっと頭の中にあって……夢で見たのかな? 母からもらったお小遣いや仕事をしながら少しずつお金を貯めて、ようやく」 「そうか……こんな大きなものを一人で編むなんて、大変だったんじゃないか」 「暇なときに作業していたので楽しかったですよ、気分転換になりましたし。なんででしょうね……これだけはどうしても完成させたくて」 半ば意地のようなものだった、と雲羊鹿飼いは苦く笑う。こちらを向く顔に僅かな寂寥が滲み、後輩狩人は釣られるようにぐっと口を結んだ。 座ってください、そう言ってベッドの横に置かれた椅子を勧められるが、これまた立派な刺繍を施されたクッションが敷かれていて尻を乗せるのに躊躇する。 「カシワさん? どうかしたんですか」 「いや……こんな綺麗なクッションに座るの、なんかもったいないだろ」 「ふふ、遠慮しないでください。座るために置いているんですから。クリノスさんは堂々と座ってましたよ?」 「うんっ? 俺より先に、クリノスがここに入ったことがあるのか!?」 「覚えてません? 細工師さんを預かることになったとき、クリノスさんもうちに泊まるって言ってくださったんですよ。用心のためって言ってましたけど」 「用心って、なんだそれ? 確かにワケありみたいだったけど、あの子、ノアに何かしそうだったのか」 「……ええと……あ、あはは。さ、さあ、どうだったか。でも今は別の就職先が見つかって、真面目に働いているそうですから……きっと、大丈夫ですよ」 思い出すのは、チーズフォンデュを食べるのに苦戦していた細工師リラの姿だ。言われてみれば確かに、彼女のことはノアたちに丸投げしていた気がする。 思い至るなり慌てて悪い、と謝ると、カシワさんたちにはお仕事がありましたから、と娘は困ったような顔をして笑った。 もう一度座るよう促され、慎重に、出来るだけゆっくりとクッションに腰を下ろす。座った瞬間、ふんわりとした座り心地にカシワはたまらず跳び上がった。 こちらの一挙一動を見守っていたのか、雲羊鹿飼いは刺繍道具を手に噴き出している。勢いよく顔を上げた後輩狩人から彼女はさっと目を逸らした。 「ノア……?」 「い、いえ、なんでも……どうかしたんですか、カシワさん」 「いま笑ってただろっ? 仕方ないだろ、うちにはこういう椅子とかクッションとかなかったんだから」 「それでもですよ! っと、それよりお茶を淹れますから。座って待っててください」 夜風がレースを揺らす。天井から吊された雷光虫入りのランプが布地に隠され、一瞬、部屋の中が暗がりに沈んだ。 目の前を過ろうとする、長い黒髪。黒塗りに浸透していくように広がる色彩に、カシワは何故か我知らず手を伸ばして、指先で触れようとした。 「……! 何やってるんだ、俺」 出て行ったノアを追う真似は、流石にしない。それでも彼女の残り香が入口付近に滞留しているような気がして、妙に心がざわついた。 (そうだ。ドンドルマで買った、お土産……) 席を立ち、絨毯の上に放置しかけていた自前のアイテムポーチの紐を解く。 回復薬や解毒薬を詰めた瓶類や、ネンチャク草でくるりとくるんだペイントの実、同じく閃光玉といった狩猟道具のその上に、目的の包みが乗せられていた。 「あった! ええと、それからこいつに――」 本当なら手渡ししたときに開封したかったのだが致し方ない。来た道を取って返し、居間のあたりに無造作に設置された青色の箱の蓋を静かに開ける。 ノアやマルクスからも使用許可をもらっている、ハンター向けの自宅用アイテムボックスだ。 本来であれば現家主のマルクス専用の設備となるのだが、以前ベルナ村でムーファ関連の仕事を請け負った際、この中に素材を仮置きさせてもらっていた。 「よぉし。こいつをこうして、こうだっ……」 必要になったのは、いつか使う日がくるかもしれない、そう考えてあらかじめ保管していたベルナ村に縁あるトッテオキの素材だ。 折らないように丁寧にボックスから取り出して、素朴で可憐な装いを賑わいの古都で入手した「土産」にセットし、完成品の出来映えを確かめる。 なんとか満足のいく形になったなあ、そうしてしみじみとウンウン頷いた、その瞬間。突如背後から声をかけられて、後輩狩人はひとり肩を跳ね上げさせた。 「……カシワさん? そんなところで何してるんですか」 「うぉわっ!? の、ノア!? おっ、お茶は!? 思ったより早かったな!?」 「ええ、ちょうどお父さんもお茶を飲もうとしていたみたいだったので……どうしました、何かあったんですか」 「なっ、なな、何もッ!? なんにも、なんっにもないぞ!? そ、それよりほら、マルクスは火傷とかしてなかったのか!?」 「ああー……さっきのフライパンのことですか? 大丈夫ですよ、本当にいつものことなんですから」 くすくすと笑みを零しながら、ノアは先に自室に戻っていった。「見られていなかった」ことに安堵して、のろのろとカシワも後を追う。 「いいお茶が手に入ったんですよ。と言っても、お父さんが飲もうとしていたのは晩酌用の熱かんだったみたいなんですけど」 香ばしく、どこか華やかな香りが色糸に飾られた部屋に広がった。茶を淹れる背中を見てなんとなく、拠点に帰ってこられたんだなあ、と狩人は思う。 茶器を差し出す手は、いつ見ても色が白い。そんな細腕のどこにムーファの毛を梳き、布地を運び、刺繍を刺す技量が宿るのか……不思議でたまらなかった。 ありがとう、軽く頭を下げて礼を告げると、いえいえ、と娘ははにかんだようにして顔を綻ばせる。 その一瞬のうち、茶には口をつけないまま、カシワは離れいく手のひらに指先を伸ばしていた。振り返ったノアは、驚いた表情を浮かべたまま固まっている。 「カシワさん?」 「ノア。悪い、ちょっとそこに座ってくれないか」 「え? い、いいですけど……」 何故かは分からない。頭上のレースに煽られ、熱に浮かされたような、不思議とそんな心地になっていた。 どうしてかは説明のしようもない。ただ、次の狩りに行く前にどうしても彼女に土産を渡さなければならないような焦燥感が沸いたのだ。 胸の奥底で、自分の心臓だけが、早鐘を打ったように身勝手に鼓動を早めていた。 「動くなよ。俺、こういうの下手なんだ」 「はあ。なんのことか、よく分かりませんけど」 繊細なデザインだが、留め具そのものは着用者自身でも取り外しが出来るようシンプルに作られている。手早く着けてやればそれで済む話だった。 だというのに、手が震えて仕方がない。ベッドに腰掛けた雲羊鹿飼いは、後輩狩人の緊張に満ちた強張る表情を好奇心に駆られたような顔で見下ろしている。 たった数秒の間の出来事が永遠のように感じられた。緊張しながら着けた「土産」はランプの灯を写し取り、娘の耳の上で煌めきを放って見せる。 「……っあー! よしっ、上手くできた。もう動いて大丈夫だぞ、ノア」 「あの……カシワさん? これって」 「前に、君にお土産を買ってくる約束をしてただろ? 遅くなったけどそれのお詫びだ。気に入ってくれるといいんだけどな」 手近にあった手鏡を渡すと、ノアの顔が驚きに染まった。まっすぐ見つめてくる黒瞳に、カシワはなんとも言えない照れくささを感じて苦笑を返す。 ドンドルマの露店で買った、銀細工の髪飾りだった。中央の生花を挿すためのスペースには、今は村名産の星見の花を二輪挿してある。 以前、雲羊鹿の毛を調達する手伝いをした際に村の雲羊鹿飼いから報酬として渡された花だ。土台の銀や寒色鉱石の下がり飾りに色味が合っている気がする。 青と青紫に、銀の煌めき。床に片膝を着いたまま、後輩狩人は手を伸ばしてもう一度、雲羊鹿飼いの髪にあしらった髪飾りの輪郭を指でなぞった。 「……! こ、これって!?」 「うん、思った通りだ。ノアには似合うんじゃないかって、そんな気がしたんだ」 「こんな綺麗な髪飾り……似合い、ますか。わたしに」 「ああ、よく似合ってる。あー……そうだな。ノアには星見の花が一番いいんだろうけど、薔薇なんかも似合うかもな。青とか紫とか」 ノアが普段着ているエプロンドレスは、橙色やベージュをメインに、ところどころに赤や緑の色糸が刺繍されている。 銀や青を主体とした色合いは反発しあうかもしれない、そう思っていたが、髪色のおかげかそれとも彼女自身の雰囲気のためか、意外と馴染んでくれていた。 「なんで。どうして、ですか……」 「ノア?」 「なんで、こんなことを。こんな高そうなもの……っ」 しかし、雲羊鹿飼い自身の反応はそこまでよくはなかった。見下ろしてくる眼差しは強い困惑に揺れている。 喜ばれるはず、絶対に似合うはずだと踏んでいたカシワは、ノアの言葉を聞いて目を瞬かせた。 するとどうだ。次の瞬間、瞬時に相手の顔面が朱に染まった。いつの間にか無意識に握り込んでしまっていた手までもが紅く染まり、狩人はぎょっとした。 「そこまで怒らせるつもりはなかったのに」。なんとか言い訳の言葉を探そうとした瞬間、直後カシワは声を詰まらせる。 「こんな高価なものを頂いても、わたし、カシワさんに何も返せません」 黒瞳がじわりと潤む。まさかドン引きされたのか、本当の金額を打ち明けるべきなのか。思考を混乱させて、後輩狩人は同じ体勢のまま慌てふためいた。 「そ、そんなバカみたいに高いわけじゃないんだぞ!? あっ、いや、だからってそこまで安くもないけどな。だから……」 「でも……」 「ノアが嫌ならいいんだ! 無理に着けなくたっていい、ただ君にお土産は買っておきたかったから――」 見上げた先、黒曜石のような瞳から大粒の雫が降る。次第に滂沱の涙に変わり、雲羊鹿飼いは男の手を振り払うように手のひらで顔面を覆った。 音もなく溢れ出るそれは、止まらせることも儘ならないように見えてくる。オロオロと困り果てながら、しかしカシワはなんとかノアを宥めようとした。 「――駄目だったか? 凄く似合ってる、って俺は思うんだけどな。本当に、とても綺麗だ」 刹那、違うんです、と震える声が返される。手の甲で何度も目をこすりながら、娘は繰り返し頭を左右に振った。 「違うんです。わっ、わたし、とても嬉しくて。でも……なんだか、とても大切なことを忘れているような気がしてしまって」 「ノア?」 「それが分からなくて、怖かっただけなんです。ありがとうございます……カシワさん」 眼前、見知った雲羊鹿飼いが可憐に笑う。目を涙で潤ませて、頬を上気させながら、星見の花のように柔く微笑む。 そのとき、後輩狩人は本当に胸の奥底で、心臓が一際高く鼓動を鳴らした心地になった。そうか、応えるように礼を言い返してふらつきながら立ち上がる。 「あの……カシワさん。お茶は」 「いや、いいんだ。ちょっと急ぎの用事を思い出しただけだから」 顔を背けるようにして、いっそ娘から逃げるようにしてクライン家を後にする。ほろ酔いのマルクスからも声を掛けられたが、答える余裕はなかった。 緑の坂道を踏み抜き、オトモ広場を一気に駆け抜け、雪崩れ込むようにしてマイハウスに飛び込む。 扉を閉め、たまたまルームサービスが不在であることにホッと安堵し、カシワはよろよろとした情けない足取りでベッドに飛び乗った。 「なんっ……なんだ。なんなんだ、これ?」 どうしても、なんとしてでも、自分はあの場から早急に離れなければならなかったのだ。ぐっと胸のあたりを手で押さえて、思いきり深く息を吐く。 心臓が早鐘を打っている。息が荒く、視界が狭まり、とにかく気持ちがざわついていて落ち着かない。 こんなときは寝てしまおう、それに限る……そう考えた瞬間、何故か脳裏に先ほどの涙ぐむノアの笑顔がパッと浮かんだ。 瞬時に身体が熱くなったのを知覚して身悶える。涙を流し、頬を染め、可憐に微笑む娘の顔が、頭から離れない。カシワはベッドの上を右へ左へと転がった。 「どうしたらいいんだ……や、やめよう。寝た方がいいな、これ」 緩慢な動きで起き上がり、着たままだったジャギィSシリーズを外してまわる。寝起きにすぐ手が伸ばせるよう、ベッドの横にパーツを並べた。 そのまま寝床を離れ、戸棚をあさる(!)。「寝れないときは呑むといい、って父さんが言ってたよな」、幼少期の記憶を総動員して酒瓶を手に取った。 「あれっ、俺の知らない酒だな。もしかしてユカの分か? そんなわけないか」 否、むしろ知ったこっちゃない、という強気のアレである。ボトルを開けグラスに中身を注ぐと、清涼感のある心地いい香りが宙に解けた。 まるで、あの雲羊鹿飼いの髪から漂う薬草主体の洗髪料のような――想像力を働かせかけたところで後輩狩人は悶絶する。 なにからなにまで、ありとあらゆるどんな事象でさえ、全てをノアに結びつけてしまうのだ。自分の単純さや妄想力がここまでのものとは思わなかった。 このままでは男としてどうかと思うようなことを考え出してしまいかねない。それだけはマズい。不慣れな手つきで固く栓を閉める。 「ノアはお土産を喜んでくれただけだろ……ど、どうした、俺。大丈夫か、俺。大丈夫じゃないかもしれないけど明日から仕事だぞ。がっ、頑張れ、俺!」 誰もいない部屋の中、カンパーイと一人虚しくグラスを掲げた。カラン、と氷だけが声を上げ、カシワは一気に火酒を喉に流し込む。 「……! うっ、ゲホッ、な、なんだこれっ!?」 途端、あまりにも強い酒気が全身を襲った。舌が痛み喉が焼ける。一瞬で頭と視界が円を描き、そのまま床上に力尽きた。 天井がぐるぐると回っていた。吊された黄金色のチーズを指折り数えようとして、ろれつの回らない舌相手じゃ無理だな、と早々に諦める。 実父の話は本当だったのだ――急速に意識が暗がりに沈みいく中、カシワは何故か、父と母が晩酌を交わしていた幼い頃の光景をぼんやりと思い出していた。 (父さんと母さん、元気にしてるといいけどなあ……) 思えば、おとぎ話の『黒い龍』を目指して実家を飛び出してから半年以上が経っている。宛先は今でも覚えているが、手紙を出そうと考えたことはなかった。 全ては惹かれてやまない伝説のために。せめてそれに会うことを許されるまで、つまりは一流のハンターになるまで、まだ家には戻れない。 ウーン、と唸り声を上げて後輩狩人はそのまま眠りに落ちる。夜が更けていく最中、真白の山霧がベルナ村を囲み始めていた。 |
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