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モンスターハンター カシワの書 上位編(19)


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「あの野郎……やりやがったな」

ただのかすり傷だと思っていた。肩を押さえる手を外すと、包帯の下はじっとりと鮮血で濡れている。
あれからほぼ半日。本気かどうかは定かでないが、かつての狩り友がこちらを捕縛しようと現れたときにもらった傷だ。
「血が止まらない」。噴き出した汗を拭い、酒……に手を伸ばそうとして取りやめる。代わりに温くなった水だけを口に含み、アトリは忌々しげに舌打った。

「新薬の実験かなんかかよ? こんなモンに手を出すってこたぁ、あいつも相当アタマにキてるらしいな」
「アトリ。本当にお医者さん呼ばなくていいの? 結構深い傷なんじゃない?」

もう一度汗を拭おうとして手を掴まれる。代わりに額を布で拭いたのは、繻子製の派手なドレスを着た女だった。
近くで合流した顔なじみだが、本来はドンドルマの下町で親子二代の洗濯屋を営む身だ。装備のメンテナンスを依頼することもあり親しい部類ではあった。

「……イザベラ。前に言ったよな、オレはお前とどうこうなるつもりはねーぞ」
「分かってるわよ、それくらい。『遊び』でしょ? 本気にならない、元からそういう約束だったじゃない」
「お前はそう言うけどな……」
「気にしないで、アトリが素材の洗浄を頼んでくれるからウチは儲かっているんだし。親なしの子どもの面倒だって見てくれているじゃない」

確かに、世話にはなっている。商売柄ギルドナイツのあしらいにも慣れており、人脈も広く、情報も集めやすい。
しかしそれだけだ。彼女の、見上げてくる眼差しや欲を満たす際の態度に「本気」か「遊び以上」が滲んでいることをアトリは把握していた。
「それ」を叶えるのはオレじゃねぇっつの――舌打ちを漏らしたところで、イザベラに通用する兆しは見られない。苦笑する女をただ不快な目で見下ろした。
親子ともども暮らしに余裕はないはずだが、やけにこちらに加担する。恋人気取りであるなら堪ったものではない、縹の狩人は鼻で嘆息した。

(傷が塞がらねぇってことは、遠くまで逃がす気はねぇって意思表示か。あの野郎、とことん恩を仇で返してきやがる)

頭痛がした。熱が出始めていると知覚する。未だにじくじくと痛む傷を押さえつけていた手で雑に撫でた。
動けなくもないが体力の消耗が激しい上に、包帯を替える頻度の高さから安易に移動するのも得策ではないとも思う。
最悪モグリの医者でも頼ればいい、当初はそう考えていたアトリだが、今は医者の元を訪ねた瞬間もれなくユカがオマケで顔を覗かせるような気もしていた。
ましてや逃げるにしても、べったりとくっついているイザベラが足手まといだ。下手をすれば彼女を通して見張られている可能性もある。
……苛立たしげに舌打ちする狩人を、洗濯屋の娘はその胸元に身を寄り添わせながら、眉尻を下げ、心底案じていると言うようにして見上げていた。
その同情や心痛を感じさせる眼差しがまた、アトリにとってはこれ以上ないほど苦痛を感じさせるものでしかない。
「叶わないと分かっている恋ほど燃える」と耳にはするが、自分がそれに巻き込まれるのは御免だった。割り切れないなら端から寄るな、と言いたくなる。

(色んな女を見てきたが、遊びを遊びと見なせる女の方がよっぽどイイぜ。純愛に相思相愛、恋愛結婚? ケッ、ばっかじゃねーの)

ぼんやりと思い描くのは、過去に銀朱の狩人と二人で取り合った、とある蒼色髪の女の姿だ。
彼女は銀朱の騎士のような生真面目な男の手には余ったが、自分のようなだらしのない男とは話も合い、心身ともに相性もよかった。
唯一の不満は『性技はユカの方が上だね』と嗤われたことくらいだろうか。そのガキに斬り殺されておいてよく言える、出かけた反論は辛うじて飲み込めた。

「アトリ、食べられそうな物を持ってくるわ。無理しないでここで休んでいて」
「おいおい、お前……あぁ、適当に任せるわ」

現実に立ち返り、金の髪を揺らして立ち去る女の背を黙って見送る。ふと、彼女とは似ても似つかぬ元頭領によく似た容姿の女狩人のことを思い出した。
いつの日かベルナ村で出会った、小生意気な眼差しの双剣使いだ。事前に入手した情報によればユカは彼女にすっかり夢中になっているという。
マジで嫌がらせに一発ヤっときゃよかったな、熱を帯び始めた額に血濡れの手を押し当てて、縹の狩人は荒く嘆息した。
……すでに秘薬は飲んである。洗濯屋が戻るより先にここを発つべきだろう。渋々といった体で身を起こし、アトリは一人安宿を抜け出した。






――その日は、珍しく早朝から雨が降っていた。
ところ変わって、ベルナ村。本来、高原に位置するこの地にはめったに雨が降らない。せいぜいかさ雲に付き合う慈雨があるかないかくらいのものだ。
ムーファを主とした畜産、縫製業で成り立つ村の暮らしにこれ以上適した気候はない。かといって先述のように皆無というわけでもなかった。
たまになら降ることもある、その程度の話だ。したがって雲羊鹿飼いとして過ごすノアもまた、しつこい雨風に眉を潜めていた。

「珍しいこともあるもんだなあ、夜中は晴れてたってのに」
「お父さん」

龍歴院で発生したゴタゴタとやらが片付いたのか、マルクスは昨夜遅くに帰ってきていた。二人で軽食を済ませ、日課の放牧に向かおうとした矢先にこれだ。
降り方としては通り雨に近い。視界はまだ明るく、牧草も表面に水滴を乗せるだけで地中深くまで浸透が進んでいる様子もない。
しかしムーファを濡らすのは躊躇われた。野生と違い家畜化が進んだ彼らの中には、気候の変化に適応できない個体も少なからず存在するからだ。
風邪を引いて体力が維持できなくなりでもしたら大変だ、ノアは分厚い雨雲を見上げて誰にともなく嘆息した。

「そうね、今日は畜舎でのんびりしてもらいましょう。晴れそうだったら外に出してあげた方がいいんだけど」
「それなら、俺は餌やりと掃除でもしてるかな。クエストの受注は別の若い衆が行ってるらしいし……ノア、お前はどうする?」
「糸紡ぎか刺繍でもしていようかなあ。でも、最近はお父さんに仕事代わってもらってばかりだから……ごめんなさい」
「おおっ、どうしたどうした? 気にするな、俺だって今まで全部ノア一人にやらせちまってたからな。稼ぎは十分あるんだ、のんびりやるさ!」

キラリと頭頂部と二の腕の筋肉を光らせ、父はフォークを掴んで意気揚々と畜舎に入っていった。力強い背中を見送る娘の黒瞳は知らず柔らかく笑んでいく。
カシワたちと出会ったことでマルクスはどこか変わった。クエストの受注は今でもぽつぽつと続けているが、家にいる時間が格段に増えたのだ。
ムーファの具合を気にすることも増え、こちらの体調や顔色も気遣ってくれるようになった。最初の頃は驚きもしたものの、今ではその変化が嬉しく感じる。

「カシワさんは、自分が他人を動かすタイプの人間だってことを自覚してないんだろうなあ……」

人間くさく感情を剥き出しにし、忙しなく動き、悩み、惑い、見知らぬ誰かのために前進し続ける黒瞳のハンター。
目を閉じれば、脳裏でニカリと破顔する表情をいつでも思い起こすことができた。我ながらかなり「やられている」とノアは思う。

(それにしても、カシワさんはどこに出かけているんだろう。クリノスさんは昨日の朝にはポッケに発ったみたいだし、手紙なり書いているといいんだけど)

彼の相棒を勤める双剣使いは、未だに連絡が一つもない、と憤慨……心配……否、呆れかえっていた。
龍歴院伝手にハンターズギルドに行方を調べてもらったそうだが、返事は何故か濁しに濁されたものであったという。
『どうせお守りかセンサー負け素材でも探して、その辺ほっつき歩いてるんでしょー』とは彼女の言だ。彼はことごとく、欲しいと公言する素材に縁がない。

「そういえばクリノスさん、どうしてポッケ村に向かったんだろう。温暖期だといつもと違う狩猟依頼が出やすいのかしら」

ポッケ村。北はフラヒヤ山脈、真白の雪に抱かれた小さな村だ。
地下に地熱が通っており、ユクモ地方ほどではないが天然の温泉が湧いていて、それ故に雪に囲まれていても一年を通して過ごしやすい気候だと聞いている。
英雄と称されるハンターを世に送り出した実績もあり、加工屋に集会所、雑貨屋に丸ごと一軒のマイハウスと、狩人にとっては居心地のいい村だそう。
ノアは、クリノスやカシワが気まぐれで「ベルナよりポッケの方が過ごしやすいなあ」と移住しやしないだろうか、と一人口を結んだ。
彼らに限っていきなり所属を移したりすることはない……と思いたいところだが、連絡もなしにいなくなられでもしたら正直寂しくなるだろう。

「……あれ? なんだろう、向こうの方が」

そのとき、俄に外が騒がしくなった。オトモ広場の入口付近、共用のアイテムボックスの横、緩やかな坂を上り、次第にクライン家へ近づいてくる――驟雨。
強風が高原野草を吹き上げ、空は黒さを増し、特訓に精を出していたオトモたちやカティが慌ただしく村の方へ避難を始めている。

「こんなに強い雨、久しぶり……!?」

ノアは、たまらず外に飛び出していた。走り出す最中にも、畜舎に吹き付ける風はますます勢いを増している。
このままでは中にいる父やムーファが危ない、全身が濡れるのにも構わず畜舎入口に駆け寄ると、その場にひとつの影があるのに気がついた。
足元に置かれた「秘薬大好きオジサマ」に預かった鉱石結晶を見下ろしている。不思議と当人は濡れておらず、光沢に満ちた黒い外套だけが風に揺れていた。

「あっ、あのっ! どうか、したんですか!?」

息が上がる。雨風にあおられているせいだ。黒色の人物は、反射的な素早い所作でこちらに振り向いた。

(……うわぁ……綺麗な、ひと)

フードの下に、ごく僅かに見え隠れする表情がうかがえる。
端整な顔立ちに、冬空を切り出したような青みの強い空色の眼、色や厚みの薄い唇。騎士然とした佇まいだったが、顔色はあまりよくない。
何故かいつかの秘薬を欲して止まない藤色の奇術師の姿を重ね見て、雲羊鹿飼いは雨風に打たれながら目を細めた。
こんな酷い天気の中、黒衣の影はまるで揺らがず立ち尽くしている。こちらを睥睨する様にはどこか威厳や……畏怖の類を感じさせ、否応なしに足が竦んだ。
恐ろしく美しい男だった。男だ、と感じたのは直感にほぼ等しい。
ノアの姿をようやく見出したのか、それとも端から声をかけられるのを待っていたのか。男は邂逅よりたっぷり五秒ほどを経たせてから声を発した。

「……貴様が、『霞の』が話していた小娘か」

冷たい声だとノアは思う。硬質な鉱石や金属片のような、触れただけで傷を負わされてしまうような鋭さを有する声だった。

「かすみの……? あの、なんの話ですか。それより、うちに何か……」
「用などない。二足歩行の勤めなど俺の知ったことか。それより、この鉱石は金に換えなかったのだな。貴様らにとっては黄金に等しい代物だろう」

よく通る声だった。雨風の勢いにまるで劣らず、それらを掻き分けて鼓膜に届けられるような、嵐や雷といった気高いイメージを沸き立たせる語気である。
言われたままに、雲羊鹿飼いは男の足元に視線を落とした。
いつの日か託されたメランジェ鉱石。銀朱の騎士が正式な手続きをいつの間にか済ませたようだと、ベルナ村の村長伝手に聞かされている。
今やこの鉱石結晶はクライン家の所有物だ。自分たちにとって分不相応なものであったとしても、ここに飾り――祀り続けることを咎められるいわれはない。

「――いただき物ですから。手放すなんてこと、わたしはしないです」
「なに?」
「あなたが何者であるかを問うつもりはありません。でも、その分あなたにどうこう言われる必要もないはずです」

一瞬片眉を吊り上げたのか、男は片眼を開いて歪めた。呆れたような溜め息の気配が返され、ノアは怪訝な顔をする。

「ふん。聞いていた話とは、えらく性根が違うようだ」
「え?」
「俺のことも霞ののことも、余計な詮索はしないことだ。貴様らはこれまでと変わらず、勤勉にムーファとやらを崇拝していればいい」

「詮索」、「勤勉」、「崇拝」。
このひとはなんの話をしているのだろう――ふてぶてしさ全開の黒衣の男に、黒瞳の娘はぽかんとして言葉をなくした。
発言した側は「いいことを諭してやれた」とばかりに、ごく僅かに、口角が上がっている。された側はどこか浮世離れした物言いにただ唖然とするばかりだ。
彼は酪農を知らない富豪か貴族なのだろうか。研磨中の宝石片手に金糸入りのソファにひとり身を沈める様を妄想して、慌てて頭を振る。

「あの、ちょっと、かなり言いにくいんですけど、わたしもお父さんもムーファを信奉しているわけじゃ……」
「なら何故飼っているのだ。毛が欲しいならそこらの南の孤島だのから狩ってくれば済むことだろう」
「……あー、お貴族様」
「オキゾクサマ? 俺はそんなものではない。二足歩行などと一緒にするな」
「に、二足歩行って。そう言うあなただって、さっきから二本脚で立っているじゃないですか」
「馬鹿を言え、『貴様らに合わせてやっている』だけのことだ。少しは融通を利かせてやらねば、霞のにも示しがつかんからな」

話が噛み合わない。やきもきして唇をきつく結んだところで、男から得意げな気配が失せる様子もなかった。
ここまでくると、彼ではなく自分の方が妙ちきりんなことを話している……ような気さえする。もう一度頭を振り直し、思考を切り替える。
ノアは、額に貼りつく髪や雨水をブラウスの袖で荒く拭った。一方、視線の先に立つ黒い影は変わらず黒衣以外の装いがまるで濡れていないように見える。

(本当に、どこから来たひとなのかしら)

長く織物や染め物の仕事に従事してきたが、思えば、男の纏うそれはこれまで一度も見たことのないものだった。
裾には鋼を思わせる銀糸で細やかな刺繍が施され、はためく度に、のっぺりとした黒塗りの外套から金属質な反射光が走る。
僅かに内側から覗く装備は錫や真鍮に似た温かみを感じさせる金属製で、しかし黒一色の鎧は実父が加工屋に打ってもらったどの装備とも外観が違っていた。
「彼」は一級のハンターなのかもしれない。狩人の中には複雑な事情持ちもいるというし、この男のように狩猟以外の物事に疎い者もいるだろう。
……そうに決まっている。秘薬をやたらと欲する者や、年下の異性の狩人に言い負かされっぱなしの者、チーズフォンデュを苦手とする者もいるくらいだ。
「ハンターはだいたいが変わり者」、「気にしたら負け」。ノアは自分にそう言い聞かせることにした。

「あの、こんなところじゃなんですし、風邪を引くかもしれないですし。せめて中に……」
「構わん。どうせ、貴様の顔を見に来ただけだ」
「えっ、わたしですか!?」
「それ以外に誰がいる。しかし霞のの奴め、やたらと称えるからどんなものかと思えば……俺には二足歩行の美醜はよく分からん」
「……そう、ですか。いえ、あなたがすぐお帰りになるって話なら、わたしはなんでもいいんですけど」

やはり、「彼」は藤色の奇術師の知り合いなのだろうか。「かすみの」とは彼の本名なのかもしれないが、真偽を確かめる勇気は何故か湧かない。

「そうだ。おい、貴様は霞のに秘薬とかいう薬を渡したことがあるそうだな。いま、寄越せ」
「ええ、それなら少し前に藤色の装備の方に……って、今ですか!? わたしはハンターじゃないですから、そんなすぐには出せないですよ!」

ふてぶてしさの上には強引さが上乗せされる。振り回されている自覚はあるものの、ノアには声を裏返すことしかできなかった。
そも秘薬とは、父も調合に苦戦するほどの調合手順を要する薬だ。一般市場に出回ることはほとんどないし、材料を用意することすら儘ならない。
確定だ――彼らは知り合い同士であり、また、そういった二足歩行側の事情をまるで知らない。無理を言えば通る、と考えているあたりは貴族以上に厄介だ。
「用意しろ」と言われて「はいどうぞ」と出来るなら自分は酪農などしていない。頭を抱える雲羊鹿飼いを見下ろして、黒衣の男は鼻を鳴らす。

「なんだ、貴様の元を訪ねればすぐに用意が済むと思ったが」
「そんな無茶な……秘薬なんて貴重な薬、すぐに支度できたら世の中どうにかなってますよ。ハンターさんや薬師さんの仕事道具じゃないですか」
「貴様はリューレキインとやらの医師と懇意なのだろう。それに霞のにはすぐ手渡したと聞いているぞ」
「あー、どう説明したら……あのですね、それはクリノスさんが間に入ってくれたからなんです。クリノスさんが優しいハンターさんだから出来たんですよ」

クリノス、男が口内でその名を反芻させる様をノアは見た。同時に、しまった、と慌てて自分の口を手で塞ぐ。

「そうか。ならば、その『くりのす』とやらを訪ねれば手に入るということだな」

やってしまった――気付いたときにはもう遅い。
したり顔をしたのか、しめたと得意げに笑んだのか、男の口角が確かにつり上がるのを目にして雲羊鹿飼いは小さく後ずさる。
光沢のある外套がばさりと翻され、男の足が畜舎からふと離れた。後を追おうとして、しかしノアは唐突に振り向いた空色の眼を見て足を固める。

「そう案ずるな、悪いようにはしない。俺は霞のとは違って、二足歩行に無用な慈悲など傾けてやるつもりはないのでな――』

それが合図となった。
刹那、猛烈な暴風が巻き起こり――その例えのまま、ぐるりと絞蛇竜がとぐろを巻くようにして空気が弧を描き、渦を作る。
中心地にいたノアは、風に翻弄されて倒れないように足を踏ん張らせることしかできなかった。両腕で顔と頭を庇い、強烈な風鳴りの中でただ悲鳴を上げる。
自身の声をやっと認識できるようになった頃には、あれほど猛威を振るっていたはずの黒い雨風はぴたりと止んでいる。
それら全ての悪天候がまるで夢か幻かであったように、頭上にはすっきりとした晴天が広がっていた。同時に、いつの間にかあの黒衣の男は姿を消している。

「……なん、だったのかしら。いまの」

けほ、と一度咽せるように咳き込んで、雲羊鹿飼いはスカートや襟を正した。仰ぎ見れば、晴れ晴れとした温暖期の青色があたりを燦々と照らしている。
「まるで夢か幻かのよう」。いつかの藤色の奇術師と邂逅したときもそうだった。
もっとも、彼の場合は濃霧に等しい霞とともに姿を現すので、先の黒衣とはまた性質が異なるのだが……切り替えるべく頭を振る。

「でも、どうしよう。あのひと、物言いも一方的だったしクリノスさんに酷いことしないかしら……」

口にするや否や、たちまち恐怖の感情が湧いて出た。
世話になってばかりの双剣使いに、もし迷惑を掛けでもしたら……自分の軽率な発言が原因となってしまえば、後悔してもしきれない。

「おい、ノア!? 大丈夫か、ズブ濡れじゃないか!」
「お、お父さん?」

いても立ってもいられず駆け出そうとした瞬間、小屋の中から声をかけられる。雨に抵抗しようと健闘していたのか、全身牧草、雨水塗れになった父だった。

「いくら昼は暖かいからって、そのまんまだと風邪引くぞ? ほらっ、ここは俺に任せて着替えてこい。なんなら風呂も焚くぞ」
「え、や、だっ、大丈夫だから。それにお父さんこそ、すごい格好してるじゃない!」
「ん? おおうっ、こりゃ牧草塗れだな。雲羊鹿飼い見習いとしちゃあ、まずまずってところじゃないか」
「もう、何言ってるの……お風呂ならわたしが用意するから、先に休んでて!」

すぐにでもポッケ村に発つか手紙を書くかしたいところだった。しかしマルクスやムーファのことも放っておけない。
後ろ髪引かれる思いで畜舎から父を追い出すと、ノアは一度は彼が力尽くで閉めた門や窓を開け直し、押し込められていた家畜を放牧地に誘導する。
もそもそと満足げに草を食み始めた彼らの様子を観察し、普段と変わりないことを確認してから、村の伝統衣裳でもある橙色のエプロンドレスを取り払った。

「ううっ、服、重っ……さっきのひと、なんであんな雨の中で平気そうにしてたのかしら?」

「まるで当人が、雨風と晴天を導く張本人であるかのように」。
碧空をもう一度見上げて、ばかばかしい、と頭を振った。自身のものと、父が脱ぎ散らかしたと思わしき衣服を室内から回収して洗濯用の籠に押し込める。
濡れた髪はさっと拭き、風呂場で湯を焚く支度を進めながら、ノアは服を着替えつつふと嘆息した。
……秘薬とは、高い効能を誇る狩猟道具のひとつだ。何故、かすみのと呼ばれる藤色や、先の黒衣の男がその良さを知っているのだろう。

「やっぱり腕利きのハンターさん……とか? でもそれなら、それこそ、自力で調合した方が早そうなのに」

薬を用意するのが手間なのだろうか。それとも、「クリノスらが用意したものである」ことに意味があるというのだろうか。
カシワという前例もあった。もしかしたら本当に、ただ彼らは調合が苦手なだけなのかもしれない。
考えていても仕方がない、今は風呂と着替えを済ませることに専念した方がいいだろう。終わり次第クリノスに手紙を書こう、湯をかき混ぜながら首肯する。
少なくとも、手紙を送るくらいならば彼女の迷惑にはならないはずだ……替えのエプロンドレスに袖を通して、黒瞳の娘は風呂場をあとにした。





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 UP:23/08/19