・取扱説明書 ▼「読み物」 イラスト展示場 小話と生態 トップ頁 サイト入口 ![]() |
||
モンスターハンター カシワの書 上位編(18) BACK / TOP / NEXT |
||
『カシワ君にお願いしたいんは、ここの掃除とモンスターたちのお世話やね。分からへんことは大先輩のアイルーの皆に聞いたら即! 解決や。安心してな』 『そっ、掃除!? って、こんな広いところ、今まで一度もしたことないぞ……』 『大丈夫、最初は誰でもフワフワベリオロスや。「習うより慣れろ」て昔から言うやろ? 案外、慣れたら楽しいかもしれへんで』 ほな、頃合い見て迎えに来るからそれまでよろしゅう! ――そう爽やかに言い残した抑制の騎士がこの場を去って、はや二日。 使い込まれたモップの柄に顎を乗せ、滝のような汗を流しながら後輩狩人は自身の「新しい職場」を見渡した。 生き物の息遣いと気配。餌である肉や甲虫、生魚に、モンスターの傷口から漏れ出る血臭。複雑に交差しあうただならぬ緊張感は、一向に和らぐことがない。 ……つまりは、慣れられなかった。それどころか、オズワルドの言う楽しさなどどこにも見出せない。強く口を結んだ直後、反射で肩が跳ね上がる。 「ううっ! 慣れないな、これ」 頭上からワッと歓声が沸いた。仕事初日、闘技大会そのものはハンターと観客にとってある種の舞台のような、華々しいものだと聞かされたことを思い出す。 その証拠に、清掃担当の中には大会に「賭け」ているが故に、仕事を終えるや否や財布片手に職場を飛び出す者、終始落ち着きのない者もいた。 こちらもやはり、慣れられない。むしろ理解など欠片もできない。間近の檻で昏々と眠るランポスの集団を盗み見て、カシワは苦いものを噛んだ心地になる。 「賭け、か。ハンターにしろモンスターにしろ、出てる側からすればたまったもんじゃないと思うんだけどな」 不意に阿呆のように大きく腹が鳴り、モップを握る手に力を込めた。今は、ちょうど昼の休憩時間だ。 先ほどまでバケツに入れた餌を配り歩き、檻の外に溢れた残骸を拭き、あるいは食餌に勤しむモンスターの口内を観察して……思いのほか、やることは多い。 お陰で余計なことを考えずにいられた。のんびりとドンドル豆パンを頬張る先輩方に背を向けて、濡らしたモップを床にべたりと押しつける。 「新入りー、休憩時間ニャ。ちゃんと休めニャー」 「やめとけやめとけ。アイルー・マムが言っても聞く耳持たなかったニャ」 「後でいいから、メシだけは食っとけよニャ。腹が減っては探索無理ゲー、ていうニャ」 応える代わりに片手をひらつかせて、カシワは振り向きもせずに手を動かした。ひたすら無心で床を磨く。 食べこぼしと、血と、麻痺毒や神経毒といったモンスター起因の液体。石鹸はバケツの中で溶けきっていたはずだが、何度こすっても汚れは取りきれなかった。 どす黒いシミは、この場で多数の生き物が生死の境を彷徨った証だ。じっと見下ろしているだけで、なんとも言えない切なさが胸中に湧いてくる。 「そんなことをするために、彼ら彼女らは生き延びていたわけではないだろうに」。歯噛みしてモップを動かせば、多量の泡がその場を埋め尽くしていった。 「……ん?」 そう、「泡」だ。白というよりは乳白色、もっといえば微かに虹や桜が混ざっている。生き物がいる場にここまで洗剤を撒いた覚えは……もちろん、ない。 足元のバケツの中身は真っ黒に変わっていた。泡まみれの床とバケツを交互に見比べて、後輩狩人は一人ぎこちなく首を傾ぐ。 「あれ? 俺バケツに足、引っかけたか……?」 「……! しっ、新入り! オマエ、そこ動いちゃアカンのニャ!!」 「へっ? いや、この泡どうにかしないと」 何故か、背後でくつろいでいた先輩アイルーたちが慌て始めていた。豆パンを放り投げ、スープ皿をひっくり返し、とその慌てっぷりは尋常ではない。 わけが分からず、とりあえず泡をどうにかしよう、とカシワは何の気もなしにモップを真っ直ぐ押し進めた。 ぐんぐん泡がより泡立ち、床は正体不明の液体でまんべんなく覆われていく。足元一帯が錦の膜で囲まれてはじめて、後輩狩人は手を動かすのを止めていた。 「……なんだこれ、おかしいだろ」 爪先を少し動かしただけで、濡れた床から無限に泡が立つ。そのまま靴底をつけてみれば、ずるずると足が床上を滑っていった。 耐えきれず尻餅をついた矢先、目の前にふわんと巨大な泡が躍り出る。故郷にいた頃、小さな子供たちが夢中になって遊んでいたシャボン玉に酷似していた。 指を伸ばして突っついてみると、パチンと小気味いい音を立てて弾ける様もよく似ている。 ただし、こちらの泡は玩具のシャボン玉の倍のシャボン液――「滑液」が使われていて、指どころか手のひら、腕までもが錦色に濡れてしまうほどだった。 座り込んだまま、流石におかしい、と気づいて困惑する。試しに腕をこすってみれば、どこまでも延々と泡が立つ始末だった。 「おっかしいだろ。どうなってるんだ、これ?」 「新入りーっ! これ、消散剤ブニャーッ!!」 「うわわわ、俺よりあんたの方が大丈夫か!?」 立ち上がろうにも、濡れそぼった足がつるつると滑って立て直すことすら儘ならない。 そのとき、助け船を出しに駆けつけた清掃員の一人が派手に泡に足を取られて転倒し、哀れ、そのまま屋内の端っこまで滑り……帰らぬ身となった(!)。 同じように大音量で放たれた怒声や泣きべそに振り返れば、他の先輩方も皆まとめて泡に翻弄されている。 彼らは「慣れている」とオズワルドは話していた。だというのに、この騒ぎは異常だ。モップを杖代わりにして強引に立ち上がり、カシワは辺りを見渡した。 「……そうか、これ『お前』がやったのか。知らんぷりするなよ、尻尾から泡が漏れてるぞ」 意外にも、犯人にはすぐに目星がついてくれた。 澄まし顔で、素知らぬ顔で、「それ」は檻の中で優雅に身を丸めている。知る限り、これまで見たどんなモンスターよりも小さな体をしていた。 錦のヒレに高級感溢れる豊かな尻尾、桜の鱗。人間への敵意や凶暴さよりも、優雅で華やかな、気品が目につく個体だった。 「ンニャ~……『蒼き星』がスポンサーについてるココの稼ぎ頭、『タマミツネ』だニャー」 「あっ、さっきの! だ、大丈夫なのか」 呆けていたところに声をかけられ、我に返る。よろよろと頼りない足取りで寄ってきたのは、先ほど転がっていったはずのアイルーだった。 片手には空き瓶が握られていて、ふちの辺りで忙しなくパチパチと火花のようなものが弾けている。大丈夫ニャ、苦々しく応えた後で彼は大きく頷いた。 「見ろニャ。こんな小さな体だけど堂々としてて、なんともキレイだニャ~。コイツの相棒の夜鳥だって奥にいるだろ?」 「相棒……? なあ、それならこいつらは二頭同時クエストの相手ってことになるのか」 「ンニャ、どっちかが負けたらもう片方が呼び出される連続狩猟ニャ。つってもバックについてるスポンサーは『蒼き星』だから、そうそう簡単には……」 言われてみればなるほど確かに、小ぶりな檻の奥にはタマミツネの他に、青く艶めく美しい羽鱗を纏うこれまた小さなホロロホルルの姿があった。 こちらを見つめ返す眼差しは、いつの日か古代林で邂逅したそれのような鋭さや警戒心は感じられない。賢そうな、見透かすような視線だけがそこにある。 自分はよほど二頭に見とれていたか、夢中になっていたかしたのかもしれない。意味深な笑みを視界の端に見つけて、後輩狩人は言葉を詰まらせる。 「『蒼き星』は、貴重でスペシャルな武具を加工屋と提携開発してるスゲェ組織ニャ。コイツは腕を買われて専属契約を結んだ、数少ない『狩人』なのニャ」 「せ、専属契約? ここにいるってことは大会に出るモンスターってことだろ? そんなこと出来るのか」 「闘技場の別目的、ってヤツニャ。小さな体を武器に数多のハンターをボコボコにしてきた猛者中の猛者ニャ、妥当な契約ニャね」 要は闘技場の看板ってことニャ、軽やかに言い放たれるも、自らここに留まるなんて、と後輩狩人は納得しきれず歯噛みする。 一方で獣人種よりもうんと小さなタマミツネ自身は、褒められることに慣れているのか、むしろ当然と自負しているのか、大きく胸を反らして鼻を鳴らした。 呆れ半分、屈辱半分に言葉をなくしたカシワを見上げて、アイルーはどこか誇らしげにニヤリと笑う。 「オズワルドさんが言ってたろ、『いい経験になる』って。檻に入ってるからって誰もが不幸なわけじゃない。コイツなんか、全然エンジョイしてるのニャ」 こめかみを鈍器で殴られたような心地になった。眉間に力を込めて立ち尽くすハンターに対して、眼前の先輩清掃員は涼しい顔だ。清々しさすら感じられる。 カシワの心情を察してか、その場に駆けつけた先輩アイルーたちも次々に薬液の詰まった瓶を傾け、足元の泡を除去してくれた。 「……綺麗だな」 火花が熾り、錦の色がたちまち掻き消されていく様は、まるで一夜限りの祭り囃子か花火を見ているかのようだ。 ある種の舞台のような華々しいもの、闘技大会。スポンサーのついた狩人……どれもが一時の夢のようで、しかしそこには確かに生命の応酬が存在している。 そんな場所で生き、生かされることにどんな意味があるだろう。何より、全てのものがこの泡孤竜や夜鳥のような看板役者になれるとは限らない。 ……今朝も、素材商を名乗る人間が、敗れた小型の肉食竜を数頭引き取りに来たばかりだった。鉄格子越しにこちらを睥睨する物言わぬ眼光が忘れられない。 深く嘆息して俯く黒髪を、檻の中の狩人たちは黙って見上げるばかりだった。仲裁を買って出るほどの知恵持つ彼らのことを、カシワは未だによく知らない。 「その……俺、俺は。……悪かった、今まであんたたちの話も聞かないで勝手ばかり言って。ひどい態度だったよな」 「あー、気にするニャよ。目を見りゃ分かる。つーかオマエ、この仕事向いてねーんニャ」 「そっ、それは……確かに掃除は下手かもしれないけどな」 「違う違う、そうじゃなくて。モンスターの今後が気になるんだろ? 誰かのために、何かのために考える……そうやって足掻けるハンターは、貴重だニャ」 思い入れを強めすぎるな、と誰かが言った。 深入りするな、と誰かに諭された。 しかし、目の前の獣人や海竜たちは「その心意気や良し」と言う。 誰の言葉が正しいのか、どれを選択すべきなのか、自分に何が成せるのか――混乱しきった後輩狩人には、双方の顔を見下ろすことしかできない。 「悩め悩め。オマエ、ドンドルマに来たばっかりの頃のユカちゃんに、よー似てるニャ。悩むのは人生の贅沢ニャ。悩んで選んで、贅沢を謳歌しとけニャ」 ぺしぺしと尻や太ももを叩かれて、よろめきながら辺りを見渡した。アイルーたちやタマミツネは、直後すぐにそっぽを向いて自分たちの仕事に戻っていく。 ……あのユカでさえも、かつては悩み、苦渋の選択に迫られたときがあったのだろうか――頭を振る。考えごとに沈み込むのは悪い癖だ。 そっとモップとバケツを掴み直して、後輩狩人は泡だらけになった清掃道具の交換を急ぐべく、従業員入口へと足を向けた。 「――カシワ。お前、昼は摂ったのか」 外に出た途端、意外な人物と鉢合わせる。いつもの見慣れた赤一色ではなく、いつかの捕縛時に邂逅した黒色洋装の格好をしたユカだった。 咄嗟にズバッと顔を逸らして、カシワは片手に強制労働日数をそっと指折り数え、頬に生ぬるい汗を垂らす。 正直、顔を合わせる勇気がない。もとい、合わせる顔がない。今しがた先輩アイルーたちに話題に出された分なおさらだった。 そっと戻した視線が重なると同時、騎士は常のように眉間に深く皺を刻み込む。後輩狩人の足元を何度か指差して、下を見ろ、と無言で促した。 「な、なんだよ」 「見て分からないのか。水が出しっぱなしだぞ」 「へ……?」 「それだって街の資源だ。無駄にするな」 つられて視線を動かして、バケツから水が溢れているのに気付く。大急ぎでポンプを止めて、カシワは清掃道具一式を慌てて小脇に抱え込んだ。 「その様子だとろくに食べていないだろう。仕事はいいから、着いてこい」 「うおっ、俺のズワロモップ! ロアルスポンジィー!?」 「なにがお前のモップとスポンジだ、それとロアルというより『ロア』ルドロスだぞ。……いいから、話はつけてやるからさっさと来い」 従業員入口を手早くノックしたユカは、オロオロするこちらの話をろくに聞かずに対応に出てきた先輩清掃員と二言ほど話を交わす。 立ち去り際、何故か扉越しにぞろぞろと顔を出したアイルー一同にビシッと親指を立てられ、カシワは愛想笑いを返すことしかできなかった。 「お前、モップは置いてきてよかったんだぞ」 「いや、今は武器も持ってないし……なんか握ってないと落ち着かないんだよ」 大通りは活気に満ちている。ギルドに手配された宿屋や闘技場への案内看板、商店街の頭上と、街の至るところにリオス夫妻の色味の飾り旗が揺れていた。 後輩狩人は洗剤や血痕がにじんだままの小花柄エプロンや作業着を着たまま、持ち出してしまったモップ片手に目を引く銀朱色を追いかける。 昼時はとっくに過ぎていたが、屋台で売られる肉汁の滴る串焼きや、カップに注がれる麦酒に甘酒と、遅い昼食を楽しむ人の姿もちらほら見かけられた。 ……ついさっきまでモンスターのことをあれこれ思い悩んでいたはずだったのに、肉や魚の焼ける匂いにゴクリと喉が鳴る。 刹那、正直すぎる腹の徹甲虫が追い打ちをかけ、思わず立ち止まった。視線を感じてそっと顔を上げると、小難しい顔をした騎士と目が合った。 「なんだ。腹は減っているんじゃないか」 「こここここここれは別にっ、そ、そういうわけじゃ!」 「誰も、食事もせずに強制労働に勤しめとは言っていないだろう。宿の飯も残したと聞いたぞ、節制するなら金欠のときだけにしておけ」 「そ、それは。血の臭いに慣れてないから食欲が」 「今はどうだ。どうしても無理だと言うなら……」 「だっ、大丈夫だ! 勉強にもなってるし、お前やオズの言う通り皆よくしてくれてるぞ! なのに途中で投げ出せないだろ!?」 微かな失笑が鼓膜を揺らす。カシワはそれ以上を言わずに歩き出したユカの背中を、呆然と凝視するばかりだった。 果たして、この男は自分たちのことをどこまで調べ上げ、どれだけ気に掛けてくれているのだろうか。 古龍の話をしたとき、クリノスと三人で食事をしたとき、旧砂漠で対峙したとき、取調室で長話をしたとき……様々な表情を思い出す。 「仕事」をしているユカと、こうして雑談を交わすユカはまるで別人だ。黒塗りの背に何か投げかけようとして、しかし言葉が纏まらないのがもどかしい。 「ほら、落とさないように気をつけろ」 「いや、流石に……俺もそこまで子どもじゃないだろ……」 手渡された串焼きは、故郷で父に焼いてもらったものと味が違う。いっぱいに頬張った瞬間、こんがりとした香りと溢れる肉汁が黒瞳を輝かせた。 遺跡平原で狩られたばかりというアプトノスの肉は、目の前の屋台の店主と専属契約を結んだハンターが現地で丁寧に焼き上げてくれたものであるらしい。 「凄いよなあ、ハンターって言っても色んな仕事があるんだな」 「肉焼きのクエストだぞ。専属とは、大げさな」 「えっ、こういうところにもハンターズギルドが絡んでるのか」 「さてな。ほら、次だ」 こういった食事に慣れているのか、ユカは次から次へと食べ物を買いカシワに押しつける。不慣れな後輩狩人はただ頬にものを詰め込み、目を白黒させた。 緩やかな坂を下り、賑やかな商店街を少しずつ離れる。次第に遠退く喧騒と日中にもかかわらず停滞する妙な静けさに、自然と歩速が緩んでいった。 何の気もなしに仰ぎ見ればこの一帯には飾り布が下がっていない。朽ちかけた屋根や木造家屋がまばらに並び、塗装されていたはずの二色も剥げかけていた。 人の往来も少なく、すれ違うのは強面のハンターやこの場に住み慣れた体の住民ばかり……少しばかり先を行く騎士との距離を、慌てて詰める。 「……おい、ユカ?」 どう見ても観光や食べ歩きには不向きの場所だ。流石の後輩狩人も自分たちの方が浮いていることには気づけてしまえた。 食べかけの白っぽい肉の串焼き――こちらは甘辛いタレが絡んだ妙にブヨブヨした食感だったが――を慌てて紙袋に押し込み、倣うように壁際に身を寄せる。 「どこに行くんだよ。ここってどこなん、」 「――静かにしろ、前だ」 急に、黒色洋装は立ち止まった。思いきり背中にぶつかりそうになりたたらを踏む。 男が言うように肩越しに前方をうかがうと、道一つを挟んだ先に簡素な造りの宿屋らしき木造家屋が建っていた。 看板や表札は見当たらない。ヒビの入った二階の窓から対岸の家屋に紐が伸ばされ、木綿や垂皮竜の皮製の洗濯物が青空の下にはためいている。 絶えず石鹸や湯気の匂いがして、カシワはわけが分からないままユカの横顔を盗み見た。骸の龍に対峙したときのような、いやに険しい顔つきをしている。 「ユカ、ここってなんなんだ?」 「これから男が出てくるはずだ。女連れかもしれん。そいつが『お前の知ってる顔』か、お前はそれだけ気にしていろ」 「男? それってどういう……」 なんか張り込みみたいだなあ、ぼうっと首を伸ばすばかりの後輩狩人だが、いざ宿から出てきた人物を見た途端声を上げそうになった。 くすんだ青緑、即ち縹の色の髪に、金に光るピアスや、鉱石と草食種の毛で編まれた防具……艶めかしい装いの美女と出てきた男は、確かに知った顔だった。 「アト……っ! ア、アトリじゃないか。なんでここに」 叫びかけて、慌てて声量を抑えた。見上げた瞬間、騎士の顔が見る見るうちに鬼蛙のように歪んでいく様を目の当たりにして息を呑む。 カシワは、思わずユカから顔を逸らして視線を正面に投げていた。親しい仲か、恋人か……女にぴたりと寄り添いながら、縹の狩人は柔らかく笑っている。 初めて見る表情だった。森丘で共闘したときとはまるで雰囲気が違っている。声をかけるか否か、逡巡した瞬間―― 「動くな。話を聞かせてもらうぞ」 ――この場にいる誰よりも恐ろしい形相をした黒色洋装が、一足先に動いていた。 「アァん? ンだよ、『フラヒヤ住まいのクソガキ』じゃねーか。なんだ? ずいぶんめかし込んでんな」 「……アトリ、だぁれ? あれ、ギルドナイトじゃない。知り合いなの?」 「お、おい、ユカ。ユ~カ~……?」 「よぉ、カシワ殿! 顎で使われてんのか、災難だなぁ!?」 止める暇もない。うろたえるカシワの目の前で、アトリは躊躇の欠片もなく安価なドレスを纏った女を突き飛ばした。 悲鳴とともに倒れ込んでくる。大急ぎで抱き留めた瞬間、宙に解けたかぐわしい香りや、首や胸元に残された赤い痕跡を見出して後輩狩人は即座に混乱した。 「にが虫でも噛んでおけ! 待て、アトリ!!」 「ゆゆゆゆゆゆユカ! 置いてくなよ!」 予想していたのか、把握していたのか、それとも。こちらを無視して駆け出したユカの背中を、カシワは涙目になりながら慌てて追う。 女の非難も追ってきたがそちらは無視した。いかんせんアトリの足取りには迷いがない。壁を蹴り、駆け上り、屋根を飛び越え、あっという間に姿が遠退く。 どんな運動神経だ、ユカはどうする気だ、目線だけで彼らを懸命に追うカシワだが、縹の狩人に負けず劣らず銀朱の騎士の足も速かった。 ……まるで、「これからどこに逃げられるか」初めから知り尽くしているかのようだ。そのとき、突如視界の端に光の乱反射を見つけて足が止まる。 「入り海……ジォ・クルーク海か!」 南の方角、街から離れた場所に青々と輝く水上が見えた。オズワルドが解説した、ドンドルマにほどなく近い内海のごく一部である。 天高く上った陽光がチカチカと湖面に光を反射させ、視界はただひたすらに眩しい。辛うじて見える縹の色を、息を切らしてがむしゃらに追った。 「――ユカ! アトリ!?」 眼下にはジォ・クルーク海の断片。その頭上には温暖期の澄んだ空……街衢の端、ほとんど行き止まりと言っていい場所で逃走者は足を止めていた。 南風が頬を打ち、視線は自然と周囲に巡らされる。カシワはふと、ここが富裕層と貧民層の区画の境目であったことに気がついた。 石壁が重なることで生まれた高低差は、崖の上に立たされているかのようだ。追いつめられたはずのアトリは感情を失せさせた表情でこちらを見返している。 「久しぶりだな。相変わらず、姑息な手を使わなければ生きていけない身の上か」 先に口を開いたのはユカの方だ。厳しい声色が耳を打つ。男の腰にあの日と同じ迅竜素材の剣を見つけて、カシワは顔を強張らせた。 「親友ではなかったのか」。その一言を口に出すのははばかられた。この騎士は、グレゴリーを通してアトリを捕らえようと画策していたはずだったからだ。 (密猟の取締の、最終段階ってことか? でも、それならなんで俺も一緒に……) 縹の狩人は密猟に加担していたとでもいうのだろうか――顔を俯かせた瞬間、パン、と手を合わせ打つ音が鳴り響く。 「カシワ殿。ちょーどイイわ、そいつ、勘違いか早とちりかしてるくせーんだよ。勘弁して欲しいよなぁ。ちょい、説明してやってくれねーか」 「え……?」 「おいおい、話しただろ? オレにとってそいつは――『かけがえのない親友』なんだ、ってよ!」 意識が持ち上げられた刹那、縹の狩人はいつものように軽薄に笑った。何かが駆け寄ってくる音がして、同時にぐんと引っ張られる。 モップの柄を掴んだ黒色洋装だ。そのまま体を引き寄せられ、直後、背後でみすぼらしい身なりをした子どもが二人、地面に倒れ込む様子が見えた。 悔しげに歯噛みし、また起き上がり、こちらの腰にまとわりついてくる。はっとして振り向いたカシワは、アトリが意味深に笑っているのを見て固まった。 「おいよー、どうした、ユカ? ガキ相手じゃ得物も抜けねぇってか! カシワ殿を盾にする予定じゃなかったのかァ!?」 「!? 何っ、なに言って……お、お前らも! 離せよ、ユカの仕事が……!!」 「アトリ、アトリー! 逃げて!」 「ぎ、ぎるどないとはぼくらビンボーニンの敵なんでしょ、ぼくらが押さえてる今のうちだよ!」 「んなっ……なんでだよ、おかしいだろ!!」 振り払おうにもモップがかさばる。後輩狩人の妨害に勤しむのは、まだ十にも満たないと思わしき幼い子どもたちだった。 味方につけていたのか、親しい仲なのか、それとも。縹の狩人は大仰に両手を広げて笑った。金瞳には、対峙するユカの姿しか映っていないように見える。 「――そりゃ、そこのギルドナイト様は人情派だからな。だが、今更イイヒトぶったって無駄だぜ。感情次第じゃ容赦しねぇってことが確定してっからな」 「なに、どういうことだ? アトリ、お前なに言ってるんだ!?」 「聞いてねーのか、カシワ殿。ソイツは、オレと女を取り合って負けた腹いせに狩り友のほとんどを殺して回った『人殺し』なんだよ!!」 周囲の音が、一斉に遠退いた気がした。完全に硬直したカシワを前に、アトリは双眸を細めてみせる。 「そのまんまの意味だぜ。なんなら本人に聞いてみろよ。血が滲んだみてぇな髪に目だ、言い訳の一つもしねーだろうさ」 「……人殺し……なんだ、それ? ユカ、お前はどう思って……」 見上げた先で、銀朱の騎士は何も言わない。固く結んだ口が震えることも、常のように歯噛みする兆候も見出せない。 せめて、嫌みか虚勢の一言でも放ってくれたらまだよかった。ドッと心音が内側で跳ね、言われた言葉を噛み砕くように目を伏せる。 腰にしがみついたままの子どもらの手に、己がそれを強く重ねた。ぎゃあぴいと騒ぎ立てる反応は、いつかの銀髪の細工師の姿によく似ている。 ……心に火が点いたような気がした。大きく息を吸い込み、感情が高ぶるまま、斬竜が火炎嚢で金属粉を煮溶かすように、言葉という言葉を喉奥で尖らせる。 「――ユカ。否定しろよ、他でもないお前のことだろ」 微かに、ユカの肩が跳ねるのを見た。にやつくアトリを睨み上げて、カシワは黒瞳に焔を噴かせる。 「ユカが、理由もなしにそんなことするはずないだろ……アトリ! 親友だって言い張るなら、お前も話くらい聞いてやれよ!!」 そのときだった。突如、強烈な南風が吹き、居合わせた一同は水面の反射も相まってたたらを踏み、目を閉じる。 唯一動けたのは黒色洋装だけだった。風と光の暴発に潜り込ませるように、何らかの薬液に濡れた投げナイフが抜かれ、投擲される。 まっすぐ放たれたそれは、縹の狩人の肩のあたりを掠めて終わった。ふらりと長躯が揺らぎ、後輩狩人が顔を上げたときにはアトリの体は眼下に落ちている。 「うっ、うわ、アトリ!?」 「……あいつめ、ケチャワチャか何かか」 追いかけた二人の目に、物干し用の紐やロープを掴んで勢いを殺し、器用に地表に着地を果たした男の姿が映った。 舌打ち混じりに、しかしどこかホッとしたように顔をほころばせるユカを見て、カシワはそれ以上を何も言えなくなってしまう。 「取り逃がしたな。お前とは交友があったようだから、上手くいくと思ったが」 「ユカ。お前、もしかしてわざと……」 「そんなわけがあるか。それより、おい、お前たちは任務執行妨害だぞ。ディエゴたちに説教でもしてもらえ」 どさくさにまぎれて逃げようとした子どもたちの襟首を掴んで捕獲した騎士の背中を、後輩狩人はただ黙って見守った。 「惚れた女を巡って争い、人を複数殺した男」。銀朱の騎士が仕事の際に無情になる様子は実際目の当たりにしていたが、本当にそうだろうか。 ユカがその気になれば、密猟を犯した時点で自分とグレゴリーらは旧砂漠で斬り伏せられていたはずだ。 アトリの目には、かつての親友はそのような姿にしか映らなかったのだろうか。彼の言う親友とは、狩り友とは、一体どんなものを差すのだろう。 「カシワ、何をしてる。俺はこれから後処理を済ませに向かうが、お前は食事に出てきただけの扱いだぞ。早めに闘技場に戻れ」 「あ、ああ。そうだよな、分かってる……って、そろそろ午後の掃除の時間だ! 急がないとな」 胸中には複雑な思いが巡っていた。着いてこい、そう促してくる黒塗りの後を追う。 ユカは、最後まで殺人の件を否定しなかった。それでいて、彼はいまはアトリの追跡を取り止めた。 モップを握りしめ、重い足取りながら緩やかな坂を上る。陽光に煌めく商いの街は、夕暮れどきに備えて再び賑わいを戻しつつあった。 |
||
BACK / TOP / NEXT UP:23/08/02 |