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モンスターハンター カシワの書 上位編(14)

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ココンと叩かれた扉を抜けると、そこは楽園でした。……お話、続行。

「はんたーさん、はんたーさん。おてがみニャ」

ところ変わってベルナ村、ある晴天の日。
ドアを開けると、世界中を歩き回って一生懸命に配達をこなす空前絶後の可愛さの――これはクリノスの私見だが――郵便屋アイルーがぽつんと立っていた。
トレードマークの赤色帽子のてっぺんには彩鳥クルペッコを模したマスコットが飾られていて、当人の愛らしさも伴って抜群の注目度を誇っている。
そもそも、ノック一つさえ可愛らしい生き物は何をさせても可愛いものなのだ。チップ代わりのリンゴをつかみ、二通の手紙と交換した。

「ニャ。りんごだいすき」
「うんうん、可愛いねー」
「ニャ。おしごとがんばる」
「うんうん、頑張ろうねー」
「ニャ。ニャンクック」
「うんうん、イャンクッ……クルペッコじゃないんだ!?」
「旦那さん、旦那さん! ……頼まれてた資料、これで全部ニャー」

背後から若干のジェラシーを感じさせる声が耳を打つ。ん、と我に返った双剣使いは自身のオトモアイルーに振り向いた。
リンクはマイハウスの窓際のテーブル席に、ヨイショ、とばかりに背伸びしながら月刊「狩りに生きる」を老山龍の外殻のように積んでいる。
たくさんある書物の中から該当するものを眼で追い、一生懸命背伸びしながら棚に手を伸ばし、あるいは冊子を重ねていくオトモのなんと愛らしいことか。
エルドラドはここにあった――グフフと怪しげな笑みを漏らした後、郵便屋もとい郵便ニャから受け取った手紙の差出人を確認しながら着席する。

「誰からのおてがみだったのニャ? 旦那さん」
「んー、一通はお世話になってる店からの販促案内。もう一通は……」

窓から差し込む日があたる席は、マイハウスにおけるちょっとした特別席だ。使い込まれたテーブルと椅子、しみついたインクの匂いがまた、たまらない。
普段はどこぞの騎士が陣取っているが、クリノスはこの席を気に入っていた。ここ最近は影すら見かけないので、代わりに愛用してやっている。
男が残していった彩鳥の羽ペンを指で小突いて、慣れた手つきで手紙を開封した。無地の白封筒に火竜夫妻の爪跡を模した封蝋には、昔から見覚えがある。

「リンク。このお茶、ルームサービスちゃんに頼んで淹れてきてもらっていい?」
「ニャ? ……たっ、高そうなニオイがするニャ! 行ってくるニャ!」
「そんなに気負わなくても大丈夫だよ。好きに飲め、って意味で送ってもらえたんだから」

差出人の名前はない。しかし、クリノスにはこの形式に覚えがあった。
添付されていた袋をオトモに托し、一枚しか入っていない便せんに目を通す。大らかな人物像を思わせる整った筆跡に、女狩人は自然と唇に弧を描いていた。
……遅めの起床から早数時間。ノアの自宅を出て一路マイハウスに戻った双剣使いは、手持ちのありとあらゆる狩猟記録を引っ張り出していた。
「狩りに生きる」はもちろんのこと、直筆のメモや過去受注したクエストの記録……モガ、バルバレの分も含め、用意できる最善のものを取りそろえている。
しかし、これぞという資料はどうやっても見つからない。記憶が「霞隠し」にでも遭ったようで、モヤモヤばかりが募っていたが――

「さすが『じいちゃん』。どこかからわたしのこと見てるの、ってタイミング」

――この際、調べものは後回しで構わない。そう思えるほどの価値がこの手紙にはあった。数年前に別れたきりの姿を思い浮かべ、クリノスは目を細める。
商業の街ドンドルマから届けられた一通の手紙。その差出人は、敬愛する実父の父、イタリカ商会を掌握する祖父グラハムだった。

「旦那さん。おてがみ、誰からだったのニャ?」
「リンク。お茶、ありがと! んー……わたしの『絶対的味方』ってとこかな」

味方ですかニャ、味方だねえ、オトモとニコリと笑みを交わして、差し出された海岸琥珀色の茶に口をつける。
ごく限られた高原でのみ栽培される高級品種だ。貴重な品であるため、大きな商談がまとまったときや近しい親族の誕生日の折にしか見たことがない。
じいちゃん、張り切ってるなあ……文面にもう一度視線を走らせて、女狩人は祖父がしたためた「調査結果」に片眉をつり上げた。

「――ハンターさん、いるかしら?」
「ニャッ? 旦那さん」
「うん、受付嬢さんだねえ。……はーい、いま出まーす」

茶を飲みきるかどうかというところで、マイハウスの扉が叩かれる。返事をしながら出てみると、そこにはベルナ村の受付嬢の姿があった。

「あっ、クリノスさん! おは……んんっ、この時間ならこんにちは、だったかしら?」
「んー、どっちでもいいんじゃない? どうかした?」
「受付嬢さん、こんにちはニャ!」

少し、疲れているように見える。訝しむ目をしたハンターにベルナ村の受付嬢は苦笑いを返した。中に案内しようとするも、頭を振って断られる。

「こんにちは、リンクさん。あの、ハンターさん。龍歴院が発行するクエストのことなんだけど」
「あー、偽物のハンコのこと? どうなったの?」
「それなんだけど……ハンターズギルドの本部から連絡があってね。本物と見分ける手段が思ったより早く見つかったみたいなの」

これなんだけど、ふたりの前で書類を広げた受付嬢は、腰に下げたポーチを開いて中から棒状の道具を取り出した。
あらかた予想をつけていたクリノスだったが、言われるまま書面にかざされたその道具を覗き込む。
ランポスの眼球を丸々一つ用いた、精巧な拡大鏡だった。内部に細かい黒の目盛り――ゲージが付属されていて、印肉のサイズ感さえはっきりと見てとれる。

「これが、どうかしたの?」
「中に黒い目盛りが入っているでしょう? これで決められた箇所のサイズを比較すれば、簡単に偽物を見破ることが出来る、ってことみたい」
「あぁ、ミクロメーターってやつね」
「夜の便で届いて、今朝検証が終わったところなの。またクエストが受注出来るようになったから、どんどん受注してね!」

どのみち私たちを介してもらうことにはなってしまうんだけど……どこか申し訳なさそうに話す受付嬢に、クリノスは目を瞬かせて首を振った。
言ってしまえば今回の件は――確定とも言いきれないが十中八九、リラの細工技術が関わっている。
ほぼ無名の細工師としてベルナを訪れた彼女のことだ。咄嗟のことで警戒が不十分になってしまっていたとしても、被害は龍歴院管轄内で食い止められた。
そしてハンターズギルドは早くに彼女の存在に気付き、対象の譲渡をクライン家に要請した……対応としては十分すぎると言えるだろう。

「ってか、えぇ、仕事~? まだ休んでていいよ、あー、ガノトトスなんて怖い怖い!」

世界は広い。その上当たり前のように非情で無情ときているのだから、こちらの安全確保を図ってくれるだけでもギルドの存在は有難かった。
彼らが奮闘してくれるおかげで、狩猟準備もある程度のところで済んでいる。鼻で笑い飛ばすように軽やかに言い放つ女狩人に、受付嬢は瞳を潤ませた。

「ありがとう、ハンターさん……」
「えっ、や、あの……あぁあ、あれでしょ!? ねえっ、話題の『怪しい細工師』も見つかったって!」
「え、ええ。今日、飛行船乗り場で身柄の受け渡しがあるそうよ。でも非公式のことだから」
「あー、言わない言わない。それと勘違いしてると悪いからもう一回言うけど、どんどん受注するかどうかはわたしが働きたいかどうか、にかかってるから」
「ええっ? サボる気満々なの? もう、クリノスさんったら!」
「いいのいいの、今はカシワもいないんだし。受付嬢さんも仕事ばっかりしてると、どこかのペッコみたいになっちゃうよー?」
「う~ん。それだと私も、くるぺー、って鳴かなくちゃいけないことになっちゃうかしら?」
「リオレイアとかメラルーとか……亜種じゃないけど、ジョーとかも呼んじゃうかもね~!」

平穏が取り戻せた証に、向かい合ったまま二人は笑った。偽の承認印を用いた密猟に商売……そんなもの、下手をすれば知らずにいた方がまだ幸せだ。
受付嬢と別れて、クリノスは屋内に戻りテーブルに広げたままの資料をパラパラとめくる。
「霞龍オオナズチ」。求めていたのはあのノアの目の前に現れた疑惑の男の……疑わしいあれこれにまつわる記録だが、悩むのが馬鹿らしくなってしまった。
それもこれも、祖父が承認印について自ら調査に出てくれたおかげだ。リラと会った日に宛てたメッセージはきちんと功を奏してくれていた。

「あれだけ細かくサイズ測られたら、いくら凄腕の細工師でも勝てないでしょ。誰が親玉か知らないけど、じいちゃんを敵に回すとこうなるのー」

手紙曰く、グラハムはリラをはじめ彼女が関わる「縹の狩人」について調査を決行。情報を元に手持ちの計測機器を急遽改良し、ギルドに提供したという。
取り扱う美術品や調度品をほんの少し融通「云々」してもらう権利を勝ち取る代わりに、祖父は今回の件について無償でのサポートを申し出た。
……いくらお抱えの技師、職人らが優秀とはいえ、商家の財力にも限界というものがある。
彼が場合によっては無茶をする性格であることは知っていたが、ここまで思い切った策を講じてくれるとは夢にも思っていなかった。

「それにしても、ハンターズギルドと商店街に拡大鏡一斉支給って。加工も大変だろうし、お金かかったろうに……じいちゃんも無茶するなあ」

自分とて父経由でその血を引いているにもかかわらず、クリノスは手紙をしまいながら苦笑する。
彼は昔から自分の夢を応援し、助力することも惜しまなかった。本音を言えば、絶対的味方として可愛がってくれる姿勢がとても嬉しく誇らしい。
封筒を手の中に抱いたまま、ふと先輩狩人はマイハウスの天井を仰ぐ。思い返すのは、ノアの家に定住しつつあった細工師の少女の顔だ。

(わたしは恵まれてた。母さんもイオン兄ちゃんもハンターになることを止めなかったし、父さんたちも最後には狩猟道具のこと、たくさん教えてくれたし)

才能があることと、それを遺憾なく発揮できる環境に身を置けるかどうかは別の話だ。リラはどうだったのだろう。
もし、あの少女が偽の承認印を彫るよう依頼されずに、自由に思うさま技術を活かす環境で暮らせていたのなら――考え込みかけて、クリノスは頭を振った。

「やめ、やめー! わたしらしくないなー。カシワのお人好しが、うつったかな……」

考えても仕方ないことは脇に置いておくのが一番! そう言わんばかりに席を立ち、カップを下げようとして視線を落とす。
テーブルの上に残されたインク瓶と、クルペッコの飾り羽根を加工した特別な羽ペン。持ち主の不在を意に介せず、どちらも陽光を跳ね返して煌めいていた。
リラの連行予定日だというのに、あの騎士はどこをほっつき歩いているのだろう。つんと指で弾いた後、ルームサービスに留守を任せて家屋を発った。






「ニャー。アルフォートは特訓に出かけたし、旦那さんとゆっくりできるの、なんだか久しぶりかもしれないニャ」
「そういえばそうかもねー。これからどうしよっかなー、って考えてはいるんだけど」
「承認印のことも解決したから、お仕事するニャ?」
「えー、まさか! ガノトトスなんて怖い怖ーい」
「……ニャー。仕事なんて、やりたいときにやるのが一番ニャ!」
「わあー、信頼が厚ぅーい! ……うん。ちょっと、ノアちゃんのところに行ってからね」

あの細工師がこの期に及んで何かできるとは思えないが――半端に関わってしまった手前もあるし、雲羊鹿飼いは非力であるのだし。
自分に言い聞かせるようにうんうんと首を振りながら、オトモ広場を経由して緩やかな坂を登る。しばらく歩けばクライン家が見えるはずだが、だがしかし。

「……なに、あれ」

視線の先、言い争う男女の姿を見つけた銀朱の瞳が小さく歪んだ。
女の方は当然ノアだ。困ったような、憤慨しているような顔で狼狽えている。一方、彼女に詰め寄る男は狩猟に出た後輩狩人でも見慣れた赤色洋装でもない。
縹の肩ほどに伸ばされた細い髪に、バトルシリーズ、三眼のピアス……見知らぬハンターだった。嫌な予感が全身を駆け抜け、たまらず走り出す。

「――だからァ、カシワは他の女とデートに行ったんだって! 健気に待ってるよりオレと遊んでた方がイイと思うけどなー」
「やだっ、離してください! カシワさんは仕事を投げ出したりするような人じゃありません!!」
「ちょっと、何してんの! ってか、あんた誰?」

乱入して早々、関わらなければよかった、と先輩狩人は顔をしかめた。男はノアの手をつかんで彼女をどこぞへ連れ出そうとしている。
あからさまなナンパだった。反論の通り、実母から受け継いだムーファたちを大切にしているこの酪農家が仕事を放り出して遊びに行こうとするわけがない。
……なにより聞き捨てならない。誰が、誰と、何をしに行っていると言うのだろう。
間に挟まるようにして、クリノスは男の目の前に立ち塞がった。はずみで手首を解放されるも、ノアはすでに涙目になっている。

「おっ? ……へぇ、もしかしてお前が『クリノスちゃん』?」
「は? だから、誰? ノアちゃん、大丈夫?」

誰が誰と付き合おうと興味もないが、嫌がっている友人が相手となれば話は別だ。
すぐさま男に背を向けた女狩人は、話しかけられているのに気づいた上でそれを無視する。その反応が逆に面白かったのか、縹の狩人は顔に喜色を滲ませた。

「ちょお、話しかけてんだろ? 無視すんなって!」
「いった! なにっ、何すんの!!」
「く、クリノスさん!」
「ニャニャ!? 旦那さんを離すのニャー!!」

振り向け、と命令するように腕をひねり上げられ、振り向きざまに視線が重なる。モガの森で見た蒼火竜と同じ配色がこちらを睥睨した。

「はァん、なるほどな。噂以上に『よく似て』やがる。こりゃ、ユカが夢中になるのも無理ねーわ」
「いった……だから、なんの話してんの! ユカの知り合い? 離してよ!」
「アッハ、気が強ぇところもソックリだ! イイねえ……お前みたいな反抗的な女は、躾のしがいがあって飽きねぇんだよな」
「は? 躾!? なに言ってんの、頭おかしいんじゃない!?」
「おかしいのはアイツの方だろ? 可哀相になぁ。ユカと関わったばっかりに、お前もカシワ殿も苦労ばっかさせられてんじゃねーの?」
「……あんたと一緒にしないで! なに、ユカに振られでもしたの? わたしとノアちゃんに八つ当たりしないでよ!!」

いつの日か、ユカにそうしたように足を伸ばして男の腿を狙う。靴底で蹴りつけ、距離を取れたらしめたものだが――

「言っただろ。躾がいが、あるってよ」

――なおさら腕をひねり上げられ、クリノスは苦鳴を漏らした。みしりと骨が軋む音が響き渡り、ノアとリンクが悲鳴を上げる。

(……なに、なんなの!? 両腕は双剣使いの命なのに……こいつ!!)

双剣使いは爆発する寸前だった。抵抗しきれずにいることにも苛立ったが、何より、この場にあの銀朱の騎士がいないことにも腹が立つ。
口ぶりからして知り合い、それも一方的に恨みがあるような語気だった。祖父の資料にあった密猟絡みのハンターと外見が酷似していることも気に入らない。
とにかく、何においても気に入らないのだ。こちらを舐めてかかるような口調や値踏みするような眼差しも、正直言って不愉快極まりない。
もう一度振りほどこうと暴れかけた矢先、伸ばされた手に顎を掴まれ上向かされる。間近で見上げた双眸は、嗜虐の意思に満ちていた。

「……!」
「オレが先に手をつけたって知ったら……あいつ、あのときみたいに怒り喰らいでもすんのかね」

蝶よ花よと家族一同、祖父にまで甘やかされて育ってきたクリノスだったが、さすがにこの後自身の身に何が起きようとしているか――察することはできた。
ぐっと歯噛みして、いっそ噛みついてやろうと睨み上げた瞬間。どんっ、と横からそれなりの衝撃が走り、来訪者ともどもたたらを踏む。

「いい加減にしてください! なに考えてるんですか!!」

干し草を集めるための農具を握るノアが、その細身で体当たりしてきたらしかった。

「の、ノアちゃん?」
「って、おいおい、落ち着けって。んな、物騒な」
「おっ、落ち着いて!? あなたがっ、こんなことするからっ……」

フォークを握る手は震え、涙は止めどなく溢れて流れ落ちる。恐らく、彼女自身も自分が何を口走り、何をしようとしているか理解していまい。
先輩狩人はやんわりと男の手をほどき、ノアに駆け寄ろうとした。すっかり動転しきっているのか、どんな声をかけても娘の黒瞳は涙を落とすばかりだ。
ここまで感情を剥き出しにするような性格だっただろうか。カシワの不在を胸中で呪いながら、震えてやまない手にそっと触れる。

「ノアちゃん、ほら、わたしは大丈夫だから……」

ぎゅっ、とことさら強く閉ざされた瞳から、ぼたりと大粒の涙が降った。
まるで大型モンスターが狩猟まっただ中にこぼす大粒ナミダみたいだな――ぼんやりと思考が逸れかけた瞬間、唐突に変化は訪れる。

「……えっ?」

いつしか、あたりは真っ白な「霞」に覆われていた。先ほどまでの青天や燦々と降る陽光が嘘のようだ。
はっとしてあたりを見渡したクリノスは、ノアが肩を震わせて泣きじゃくる姿を見下ろして息を呑む。顔から、否応なしに血の気が引いていった。

「ノアちゃん、ノアちゃん! わたしなら大丈夫だから!! 落ち着いて!」

何故、どうして。
ざわりと警戒と危機感を察した全身が緊張し、神経を尖らせ、意識は周辺に集中していく。ハンターとしての本能が、ノアの手を掴む手に大胆に力を込めた。
なんだどうした、すぐ近くで縹の狩人と思わしき男の呑気な声がして、それこそ先輩狩人は全力の呆れとともに怒りの火を燻らせる。

「あんたっ、分かんないの!? 上位ハンターなんでしょ、こんなのどう見たって――」

――ハンターであるというのなら、何故この危機に気付けないのか。ざくり、と背後から何かが牧草を踏み鳴らす音がして、女狩人の体はたちまち固まった。
何ものかが、自分の真横で恐ろしい敵意を含んだ溜め息を吐いている。湿気を帯びる粘着質な微弱な音に、クリノスは悲鳴を上げかけた。

『所用を思い出して戻ってみれば。……泣かせたね?』
「……!」
『それなら、覚悟は多少なりとあるとみて違いないのかな』

そんなのないから、たまたまだから! そう言い返そうとしても、声が喉奥に貼りついて一片も出てこない。
ノアを抱き寄せて身をひねる。反射的な反応だったが、二人そろって転倒しかけた矢先、振り向きざま先輩狩人は男がどこか呆けた顔をしているのが見えた。
その口から鮮血が溢れ落ちたのは、瞬きひとつするほどの時間が流れた刹那であった。

「……? ご、ほっ、ゲホッ。ぐっ……う?」
「……!! やっ、やだ、やめて! ごめんノアちゃん、ちょっと……!」

「何が起きたかまるで理解できない」。金瞳は雄弁にそう語り、あっけないほど容易にそれは膝を折る。
アトリと思わしき来訪者が身を屈め、断続的に血を吐く様を見た瞬間。クリノスはほとんど反射でノアを解放し、一直線に駆け出していた。
オトモ広場に備えつけてある共用の箱を開き、手前にあったカシワのものと思わしき薬瓶を手に取る。自作の漢方薬、回復薬も抱え、来た道を取って返した。

「飲んで! いいから、早くっ!!」

その間、そこに座すであろう「目に見えぬ巨影」は何も言わなかった。何もせず、何も語らず、ただ黙してこちらを見下ろす気配だけが背中に降ってくる。
おろおろするノアが見守る前で、先輩狩人は強引に縹の狩人に解毒薬を飲ませ、その横で小さな相棒に頼み薬草笛を吹いてもらった。
……気が気でない。「もしこの現場を誰かに見られたら」、あるいは、「上空からこの異変を古龍観測船に見られでもしたら」……どうなるというのだろう。
男が無事に解毒を済ませるのを見守る最中、クリノスはひたすら拳を握り、歯噛みして、やり場のない怒りと衝動を堪えた。

(分かってるの!? 『誰かに手を出したら』そのモンスターは……どんな事情があっても狩猟対象にされちゃうのに!)

非難するように虚空を睨みつけたとき、透明な空気がぐにゃりと奇妙に歪む様を見る。
咎められるとは思っていなかったのだろうか。こちらを窺うような視線を感じるも、先輩狩人はそれを平然と無視した。
ようやく呼吸が落ち着き始めた男に一瞥を投げて、わざとらしく嘆息する。

「――言い訳はいいから。説明もしなくていいから、早く行って。捕まりたくないんでしょ」

オトモ広場を越え、村の出口を指差した途端。何ものかが落胆するかのような、細く長い溜め息の気配が返される。
自業自得でしょ、叫びそうになるのを堪えてなお視線の先を睨み上げると、そっと空気が遠慮がちに流動していく様子が伝わった。
「彼」は、おとなしく帰ってくれるつもりのようだ。緊張の糸が切れ、どっと疲れが湧き、クリノスはノアやリンクの視線にも構わずへたり込んだ。

「旦那さん、大丈夫ニャ?」
「ああ、リンク。うん、まあ、なんとかね……」
「……よぉ。今の、なんなんだ?」
「は? あれぇー!? 変なのー、空気が話しかけてくるぅー」
「へっ、いや、おいよ……」
「く、クリノスさん?」
「ニャー。旦那さんの、究極のシカト術ニャー。やられるようなことする方が悪いのニャ!」

女狩人のガン無視とオトモアイルーの全力の肯定――それ以前に「毒」を通り越した「劇毒」のショックがよほど堪えたのか、男はのろのろと立ち上がる。
意外にも、その顔には困ったような笑みが浮いていた。
意図が読めず、しかしわざわざ問いただしてやる気力も起きず、クリノスは物言いたげな気配に振り向きもせず膝を抱えてしゃがみ込む。

「ハイハイ、悪かったって。……ユカの『今のオンナ』がどんなやつか、知りたかっただけだっつーの」

無視してやる、そう決めていたのに思わず噛みついてやりそうになった。ちらと見上げた先で、男は苦笑混じりにこちらに手を振っている。
刹那、その長躯が大きく傾ぎその場に力なく膝をついた。体力の消耗が激しいのか――心なしか顔色も悪い。
女狩人は逡巡する。ここで手を貸すのは簡単だが、相手は祖父の返信にあった密猟団の関係者である可能性が高い。先ほどまで迫られていたノアの目もある。
どうするか……うぅん、と喉奥で唸った矢先、

「クリノスさん。わたし、お医者さんを呼んできます」

意外にも助け船を出したのは雲羊鹿飼いだった。

「いいの? ノアちゃん」
「ここでこうしていられる方が迷惑ですから。その、血の跡も片付けておきたいですし」
「……ヘッ。辛辣すぎなんじゃねーの」

困惑するクリノスの目の前で、ノアはアトリの頭に手刀を落とす。女狩人はこのとき初めて、彼女の気の強さを目の当たりにした。

「昔からお世話になっているお医者さんなんです。すぐにお連れしますね」
「や、わたしはいいんだけど」
「ダメです。さっき、この人に手をひねられていたじゃないですか! 狩りに影響が出ると、悪いですから」

言い訳のしようもねぇわ、減らず口を叩く男に、あなたの自業自得です、雲羊鹿飼いは非難混じりに怒声を漏らした。
リンクと顔を見合わせる。素直に甘えた方がいいですニャ、そうしよっか、ふたりで小さく頷き返したところ、ノアは黒瞳を潤ませたまま気丈に笑い返した。
……ハンターズギルドの使者が細工師の身柄の受け渡しに訪れたのは、それからしばらくしてのことだった。
駆けつけた医師と入れ替わるようにして彼らは疾く去って行ったのだが、このときリラとアトリが顔を合わせるような隙はなかった。





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 UP:23/06/25